マキノ光雄の情報(まきのみつお) 映画プロデューサー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
マキノ 光雄さんについて調べます
■名前・氏名 |
マキノ光雄と関係のある人
片岡千恵蔵: 1947年(昭和22年)、マキノ光雄に頼まれて東横映画の作品に出演。 八木保太郎: 人生劇場 第一部 青春愛欲篇 1952年 製作大川博、企画マキノ光雄・星野和平・岩井金男・坪井与、監督・主演佐分利信、助監督小林恒夫、共同脚本棚田吾郎、原作尾崎士郎、撮影藤井静、音楽早坂文雄、共演片岡千恵蔵、月形龍之介、高杉早苗 稲葉蛟児: 獄門島 企画・製作マキノ光雄、監督松田定次、監督助手萩原遼・宮城文夫、原作横溝正史、脚本比佐芳武、撮影伊藤武夫、主演片岡千恵蔵 ※監督助手 今田智憲: マキノ光雄と共に大川を説得し公開された映画は、日本映画興行界空前の大ヒットとなって東映は大きく飛躍した。 マキノ智子: 1歳年下の弟に映画監督のマキノ雅弘、2歳年下の弟に映画プロデューサーのマキノ光雄がいる。 佐伯秀男: 『大菩薩峠 甲賀一刀流の巻』(『大菩薩峠 第一部』) : 製作大川博、企画マキノ光雄・玉木潤一郎・坪井與、監督・脚本渡辺邦男、原作中里介山、主演片岡千恵蔵、製作東映京都撮影所、配給東映、1953年4月23日公開 - 出演・「岡田弥市」役、『大菩薩峠 第一部』題で111分の上映用プリントをNFCが所蔵 佐々木康: 1952年、東映の制作部長のマキノ光雄に誘われ、東映に移籍。 高倉健: 1955年に大学時代の知人のつてで、当時、美空ひばりが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。 八木保太郎: 米 1957年 企画マキノ光雄・本田延三郎・吉野誠一、監督今井正、撮影中尾駿一郎、音楽芥川也寸志、主演江原真二郎、中原ひとみ 八木保太郎: 人生劇場 第二部 残侠風雲篇 1953年 製作大川博、企画マキノ光雄・星野和平・岩井金男・坪井与、監督・主演佐分利信、助監督小林恒夫、共同脚本棚田吾郎、原作尾崎士郎、撮影藤井静、音楽早坂文雄、共演片岡千恵蔵、月形龍之介、高杉早苗、細川俊夫 マキノ正幸: 叔父にマキノ光雄、マキノ真三。 根岸寛一: 撮影所のスタッフから慰留されるが満州よりの誘いもあり、マキノ光雄、江守清樹郎らとともに満州映画協会へ去る。 小沢茂弘: 1946年1月に正博の元へ戻り、暮れに正博の弟・マキノ光雄がいた松竹の社員となる。 牧野アンナ: 叔父はマキノ光雄。 稲葉蛟児: 第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)、京都に設立された東横映画でマキノ光雄プロデュースのもと、松田定次監督の『獄門島』が製作されるさいに、元マキノ・プロダクションのメンバーが呼び集められ、すでに監督としてのキャリアがあった萩原遼や宮城文夫とともに、「稲葉義信」名義で松田の助監督をつとめた。 山下耕作: 縁故だの全学連だのそういうことは関係ない」と重役連中を説き伏せ、マキノ光雄の「岡田、お前が選んだ奴を入れろ」と言う賛同もあり、山下は1952年5月15日に東映に入社できた。 徳井優: 李香蘭(2007年) - マキノ光雄 マキノ智子: 東横映画 (マキノ光雄) 松田定次: 戦前はマキノ・プロダクション→新興キネマ→日活→大日本映画、戦後は異母弟のマキノ光雄が製作責任者だった東横映画・東映に属して時代劇映画を量産しヒットシリーズ作を多く手がける。 |
マキノ光雄の情報まとめ
マキノ 光雄(まきの みつお)さんの誕生日は1909年11月15日です。京都出身の映画プロデューサーのようです。
映画、子役、卒業、退社、結婚に関する情報もありますね。1957年に亡くなられているようです。
マキノ光雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)マキノ 光雄(マキノ みつお、明治42年(1909年)11月15日 - 昭和32年(1957年)12月9日)は、日本の映画プロデューサー。「日本映画の父」として知られる牧野省三の第六子(次男)であるが、母方の姓を継いだので本名は多田 光次郎(ただ みつじろう)である。子役時代の芸名は牧野 光次郎、別名として多田 満男、牧野 満男、マキノ 満男がある。父の没後のマキノ・プロダクション御室撮影所総務部長、日活京都撮影所製作部次長、同多摩川撮影所企画部長、満洲映画協会娯楽映画部長、東横映画撮影所長、東映東京撮影所長、同社専務取締役製作部長を歴任した。 1909年(明治42年)11月15日、京都市西陣に生まれる。多田姓は母方の姓である。子供の頃から父の映画に子役として「牧野光次郎」名義で出演、映画業界の息吹の中で成長する。1921年(大正10年)に同志社中学に入学するとラグビーに熱中する傍らキリスト教に入信。一方で、放蕩を尽くし中学卒業前日に退学させられる。1927年(昭和2年)に勉強の名目で東京へ出るが、都内の映画館にかかるマキノ・プロダクションの映画の歩合金を横取りして飲み遊ぶ。厳格だが愛情深い省三はこれを怒らず、京都に戻った光雄を御室撮影所に毎日連れていった。 1928年(昭和3年)の本宅の焼失、スターの大量退社に揺れるマキノプロで逆境に燃えた光雄の兄・弱冠20歳のマキノ正博は、山上伊太郎と時代劇の傑作『浪人街』を生むが、翌年の1929年(昭和4年)7月25日、省三が亡くなるとマキノプロの経営は困難になり1930年(昭和5年)に年末給料不払で争議が起こる。この後、光雄は正博の反対を押して支援者を募ろうと上京し、逆に散財する。結果、失敗するが正博はこれを叱らずに「光雄はいい勉強をした」としている。 正映マキノキネマで巻き返そうとした兄・正博は1932年(昭和7年)御室撮影所の焼失で全てを失い、マキノ一党を率いて日活に入社し、光雄は現代劇の製作に携わり、製作部次長となる。1934年(昭和9年)に多摩川撮影所(のちの角川大映撮影所)に移るが翌年、根岸寛一が同撮影所長となると企画部長として活躍。 1938年(昭和13年)に元宝塚の星玲子を主演女優として使ったことが縁で結婚したが、この年、森田佐吉が多摩川撮影所で根岸を排斥すると、根岸は職を辞し「満洲映画協会」(満映)の理事として大陸に渡る。森田のバックには京都の映画人脈が見え隠れしていた点から「根岸はん、もうあかんのや」とクールな顔も見せている。 しかし光雄も6月に満州に渡り、満映の製作部長として言葉の通じず自然条件も風習も違う異国で苦労を重ねる。李香蘭を満映入りさせるのにも一役買う。1943年(昭和18年)に東京支社詰めから松竹へ移り京都撮影所に拠る。 1946年(昭和21年)に根岸の誘いにより東急資本の東横映画(東映の前身)に参加するために松竹を退社。東横映画撮影所長に就任し、旧満映・元マキノのスタッフ等を結集し、製作の陣頭指揮をとる。1949年の『白虎』まで牧野満男の名を使っていたが、同年の『獄門島』よりマキノ光雄の名を使うようになる。 1951年(昭和26年)4月1日に大川博社長のもと東映が発足し、大川が最初に行ったのはマキノを東京本社に監禁したことだった。大川は東映京都撮影所がマキノの独立王国であることが、東映経営の最大のガンだった考えたからである。どんぶり勘定のカツドウ屋に製作の現場と俳優行政を握られていたのでは体質改善はできない。このため映画製作本部長としてマキノを東映本社に引き上げさせた。しかし現場から轟々とマキノ復帰の声が挙がった。「映画製作はソロバンでは割り切れないんや」と撮影所が全員一致してクーデターに立ち上がり、やむなく大川はマキノを東映京都撮影所長に戻した。このクーデターの急先鋒だったのが岡田茂で、この功績から岡田は弱冠26歳の製作課長として現場実務の一切を掌握することになった。またここからマキノ光雄~岡田茂~高岩淡という強力な京都人脈が形成されることになった。 製作の前線に立ったマキノは1952年(昭和27年)常務取締役製作本部長に就任。『ひめゆりの塔』(1953年)、『笛吹童子』(1954年)とヒットを飛ばし、また、東映の定番となる「娯楽時代劇量産」体制を確立、専務取締役となる。 1956年、父省三の悲願だった「豪華スター共演の『忠臣蔵』映画」を、正月映画『赤穂浪士 天の巻 地の巻』として製作。1957年(昭和32年)10月に病み、脳腫瘍と診断される。同年12月9日没。48歳だった。 戦時中、大陸慰問公演に出た嵐寛寿郎は満映を訪ねたが、ここには「最右翼」と呼ばれた甘粕正彦大尉の下に、元共産党関係の映画人が多数いて、アラカンは「満洲には白昼ユーレイが出よると、気味が悪くなった」という。「得体の知れない闇の部分があった」というこの満映に、マキノ光雄までがいたが、アラカンによると「これは共産党やおまへん、たんなる助平だ」ということで、「いざ、浩然の気を!」と掛け声をかけて「さあ、葉村屋(アラカン)はん、豪遊と行きましょうかと「遊んでばかりやった」という。「払いは甘粕理事長持ち」と言うマキノに、アラカンは気持ちが悪いと「ワテよしときますわ、あとで祟ると怖い」と断るのだが、マキノは「そらあべこべや、断った方が恐ろしい、心配せんと国の金を盛大に使うたらええんだ」と意に介さず、連日宴会を繰り広げた。「白系ロシアの女がいて、裸踊りのキャバレーで二次会」、根岸寛一も同様で、マキノは「夜の帝王」の異名をとって大モテだったという。アラカンは「浩然の気を使い過ぎて、満州で体を壊した。あの人が若死にした理由はそれやと思いま」とマキノについて語っている。 日活所長だった根岸寛一の片腕として働いた逸材で、戦後東横映画を創立したとき、はからずも稲垣浩がその第一回作『こころ月の如く』を監督し、マキノが所長だった。お互い苦難な道を歩みながらようやく第一回作が完成したというので、撮影所では慰労のパーティーが開かれた。このとき、酔っぱらったマキノ所長が撮影所の門前で、営々と立小便をし、驚く一同を尻目に「ここで立ち小便してしかられんのはワシだけじゃ、ああ、ええ気持じゃ」と言った。稲垣が走り寄ると、マキノは稲垣の肩をつかみ、「所長なンてしがないもンやが、これがでけるだけがせめてもの取得や」と涙を浮かべたという。 時代劇映画の題名はゲン担ぎが多く、「剣」の字を多用したり濁音にこだわったり、プロデューサーは題名の文字選びに苦労が多かった。生前稲垣に、「企画に困ることはないが、題名の字がなくなったのは困る」と語っている。 早死にしなければ「次期東映社長」といわれていた。中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵、高倉健らの俳優を売り出す一方で、満州で苦労をした内田吐夢に『血槍富士』(1955年)を撮らせている。やる気をなくし麻雀ばかりしていた若き日の深作欣二らを怒ることもなく、みんなで集まりエロ話をして笑わせていたという。また、製作会議で起用しようとした映画監督(一説に今井正とされる)が思想的に「左翼であるから」と嫌う周囲を笑って、「右も左もあるかい。わいは大日本映画党じゃ」と言い放ったという。 ^ 竹中労「竹中労の芸能界深層レポート 『東映一族の陰謀 いま東映に何が起こっているか』 我につくも、敵にまわるも心して決めい!」『週刊文春』1978年3月2日号、文藝春秋、34 - 41頁。 ^ 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院) ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊) 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文藝春秋、2013年) ミカド商会 - 牧野教育映画製作所 - マキノ映画製作所 - 東亜キネマ - マキノ・プロダクション (牧野省三) マキノトーキー製作所 (マキノ正博) 日活 満洲映画協会 - 東横映画 - 東映 小泉吾郎 マキノ光雄 - 日本映画データベース Mitsuo Makino - IMDb(英語) ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 日本の映画プロデューサー 日本の子役 サイレント映画 マキノ・プロダクションの人物 日活の人物 満映の人物 松竹の人物 東映の人物 マキノ一家 同志社高等学校出身の人物 京都市出身の人物 1909年生 1957年没 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにあるJMDb人物と企業識別子 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/20 06:44更新
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