木下恵介の情報(きのしたけいすけ) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
木下 恵介さんについて調べます
■名前・氏名 |
木下恵介と関係のある人
南風洋子: 兄弟「木下恵介アワー」山村澄子(辰造の得意先の娘、未亡人)(1969年、TBS) 楠田浩之: 『女』 : 監督木下恵介、1948年 森幹太: 木下恵介劇場→木下恵介アワー(TBS) 楠田浩之: 『夕やけ雲』 : 監督木下恵介、1956年 山際永三: その傍ら、「映画評論」に評論を発表し、小津安二郎、黒澤明、木下恵介、今井正ら巨匠監督を批判している。 林隆三: 木下恵介アワー あしたからの恋(1970年、TBS)- 谷口修一 役 楠田浩之: 『死闘の伝説』 : 監督木下恵介、1963年 樋浦勉: 木下恵介劇場 / 記念樹(TBS) 矢島信男: 野菊の如き君なりき(1955年11月29日公開、監督:木下恵介) 柄沢英二: 木下恵介アワー / おやじ太鼓 第9話(1968年) 清水良英: 木下恵介アワー(TBS) おやじ太鼓(1968年) - 赤松陽子 役 村瀬幸子: 木下恵介アワー(TBS) 三木聖子: 早春物語(1976年、TBS・木下恵介・人間の歌シリーズ) 岩城和男: 木下恵介アワー / 女と刀(1967年) 岩崎加根子: 女と刀 (1967年、TBS系列の木下恵介アワー第一作) 河井坊茶: かあちゃんしぐのいやだ、原作平林良孝、脚本木下恵介、監督川頭義郎、主演有馬稲子、松竹大船撮影所、1961年5月26日 - 語り手 柳谷寛: 木下恵介アワー / おやじ太鼓 第2部 第3話(1969年、TBS) - バンコクの寿司屋の主人 谷よしの: 木下恵介監督作品)- 寺田家の女中 高品格: 木下恵介・人間の歌シリーズ 俄-浪花遊侠伝(1970年、TBS) 楠田浩之: 『二十四の瞳』 : 監督木下恵介、1954年 信欣三: 木下恵介アワー / 記念樹(1966年、TBS) - 小池清吉 飯島敏宏: 1970年、TBS社内の編成によって、木下恵介プロダクション(後の木下プロダクション→ドリマックス・テレビジョン、現在のTBSスパークル)にTBS社員として出向、1992年、TBSを定年退職後に木下プロダクションの社長となり、のち会長職に。木下恵介プロへの出向は、親しい後輩である実相寺昭雄がTBS退社を申し出る際の付き添いで人事部に行ったところ、その場で命じられたと言う。 楠田浩之: 『婚約指環』 : 監督木下恵介、松竹大船撮影所・田中絹代プロダクション、1950年 楠田浩之: 『善魔』 : 監督木下恵介、1951年 藤川桂介: 『月曜日の男』では、若槻文三と共にローテーションの一角を担い、以後も『オレとシャム猫』『木下恵介アワー』などの番組で順調にキャリアを重ねていった。 楠田浩之: 『生きてゐる孫六』 : 監督木下恵介、1943年 奈美悦子: 木下恵介・人間の歌シリーズ 「もうひとつの春」(1975年、TBS) 石坂浩二: 木下恵介劇場(TBS) 楠田浩之: 『大曾根家の朝』 : 監督木下恵介、1946年 市毛良枝: 木下恵介 人間の歌シリーズ |
木下恵介の情報まとめ
木下 恵介(きのした けいすけ)さんの誕生日は1912年12月5日です。静岡出身の映画監督のようです。
作風、人物・エピソードなどについてまとめました。映画、テレビ、ドラマ、現在、兄弟、卒業、事故、退社、結婚に関する情報もありますね。
木下恵介のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12月5日 - 1998年12月30日)は、日本の映画監督・脚本家。本名は同じ(旧名:正吉)。監督としての映画の名前の表記は1960年代には「恵介」が混在している。 真面目で抒情的な作風で知られ、数多くの映画を制作した後、テレビ・ドラマにも進出した。弟は作曲家の木下忠司、妹は脚本家の楠田芳子。 1912年(大正元年)12月5日、静岡県浜松市(現在の浜松市中央区)伝馬町で食料品店(漬物製造)の「尾張屋」を営む父・周吉、母・たまの8人兄弟の4男として生まれる。周吉は一代で財を成した人物であった。 1919年(大正8年)、浜松尋常高等小学校(現:浜松市立元城小学校)に入学。在学中にさかんに映画を見る。その後浜松工業学校(現浜松工業高等学校)紡績科を卒業後、上京する。 1933年(昭和8年)、オリエンタル写真学校を経て、松竹蒲田撮影所現像部に入社。その後撮影部に移り、撮影技師桑原昴の助手となる。 1936年(昭和11年)、新たに作られた松竹大船撮影所に移り、島津保次郎に引き抜かれて島津の助監督となり、島津の『浅草の灯』や吉村公三郎の『暖流』などを担当する。 1940年(昭和15年)10月に召集令状を受け取り、11月に名古屋の中部第13部隊輜重兵第3聯隊補充兵に入隊する。中国各地を転戦したが、翌年に作業中の事故で左側アキレス腱鞘炎と左目角膜出血を患って野戦病院に入院、後に内地送還され帰国した。 1943年(昭和18年)、『花咲く港』で監督デビューし、ともに終生のライバルとして日本映画界を支えてゆくこととなる黒澤明とともに山中貞雄賞を受賞する。 1951年(昭和26年)、日本初の長編カラー映画となる『カルメン故郷に帰る』を発表し、NHK映画ベストテン第1位、日本映画文化賞を受賞。 1954年(昭和29年)には『二十四の瞳』でブルーリボン賞作品賞、毎日映画コンクール日本映画大賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞などを受賞。同年のキネマ旬報ベストテンでは同作と『女の園』が黒澤の『七人の侍』を抑えて1位・2位を独占する。 1958年(昭和33年)、『楢山節考』を発表。ヴェネツィア国際映画祭に出品され金獅子賞の有力候補と言われたが、金獅子賞は稲垣浩の『無法松の一生』が受賞した。しかし、この作品はフランソワ・トリュフォーなどの映画人に絶賛された。 1964年(昭和39年)、『香華』の次回作として『戦場の固き約束』を企画するが、興行上の採算性に対する疑義で松竹側からお蔵入りにされるなどの不遇に遭い、撮影所の不正経理を指弾したことなどから会社との関係が悪化する。そして同年、松竹を退社して木下恵介プロダクション(のちドリマックス・テレビジョン)を設立する。テレビドラマ界に進出し、TBSで『木下恵介アワー』『木下恵介・人間の歌シリーズ』などのシリーズを手掛けて多くのテレビドラマを製作した。 1969年(昭和44年)、黒澤明、市川崑、小林正樹と共同プロダクション「四騎の会」を結成した。注目を集めたが、当初発表された4人共同監督による映画は結局実現しなかった。 1976年(昭和51年)、『なつかしき笛や太鼓』以来9年ぶりとなる『スリランカの愛と別れ』で再び映画監督に戻る。これら2作品は東宝で製作。 1979年(昭和54年)には松竹に復帰。 1979年(昭和54年)、『衝動殺人 息子よ』で社会派の一面をみせる。 1981年(昭和56年)、脚本『女たちの戦場』を執筆して映画化を企画するが、会社から内容が暗すぎるという理由で製作中止となる。 1987年(昭和62年)、製作中止になっていた脚本『戦場の固き約束』を出版。中国から松竹との合作で製作企画が出るが、再び製作は中止となった。 1991年(平成3年)、文化功労者に選出される。 1998年(平成10年)12月30日午前3時10分、脳梗塞のため東京都港区の自宅で死去、86歳だった。墓所は鎌倉市円覚寺。生涯にメガホンをとった映画は49作品。死後その功績に対し、エランドール賞特別賞が贈られた。 2012年(平成24年)、生誕100年となるこの年、「木下恵介生誕100年プロジェクト」が立ち上げられ、記念上映イベントやDVDが発売された。 2013年(平成25年)6月1日、木下の戦時中のエピソードを基とした伝記映画『はじまりのみち』(監督:原恵一)が公開された。 作風演出の特徴高峰秀子は木下とのTV対談で「私は多くの木下作品に出たが、キッスシーンとベッドシーンは一つもなかった」と述懐している。 特徴的なこととして、『惜春鳥』、『この天の虹』、『夕やけ雲』、『破戒』、『お嬢さん乾杯』、『今年の恋』、『海の花火』、『太陽とバラ』などの作品において男性同士の親密なシーンがみられるが、男の友情や兄弟愛を描いたものであるとも解釈できるよう、抑えた表現となっている。 ジャンルは多様だが、大まかに分けると『二十四の瞳』などの抒情的なメロドラマ、『カルメン故郷に帰る』などの喜劇、『日本の悲劇』などの社会派の3つが挙げられる。時代背景を風刺した作品も多く、『カルメン純情す』では当時加熱していた再軍備運動が描かれており、『女の園』では封建制度を糾弾するテーマになっている。 映像表現において実験的な試みをすることが多い。『カルメン故郷に帰る』では国産のフジカラーを使用して日本初の長編カラー映画を作り、その続編である『カルメン純情す』ではカメラを傾ける撮影技術を多用している。『野菊の如き君なりき』では回想シーンを白い楕円形のマスクで囲み、『楢山節考』では全編セット撮影で歌舞伎の様式美を取り入れている。『笛吹川』ではモノクロ映像に部分的に色を焼き付ける手法が用いられている。 スタッフ・キャストほとんどの監督作品で自らが脚本を執筆している。弟の木下忠司は『わが恋せし乙女』から『父』まで、『楢山節考』を除く全ての作品で音楽を提供しており、妹の楠田芳子の夫である楠田浩之が『花咲く港』から『なつかしき笛や太鼓』までの作品で撮影を担当した。松竹時代の大体の作品では惠介が監督・脚本、忠司が音楽、楠田が撮影、豊島良三が照明、大野久男が録音、杉原よ志が編集という、固定したスタッフで活動した。このいわゆる「木下学校」からは小林正樹、川頭義郎、松山善三、勅使河原宏、吉田喜重、山田太一など、多数の映画人が巣立っていっている。 木下作品で最も多くの作品に主演した女優は高峰秀子で、12作。他には久我美子、田中絹代、東山千栄子、小林トシ子、井川邦子、佐田啓二、佐野周二、上原謙らも多くの作品に登場する。笠智衆は自らの著書で「私は小津監督の作品に多く出ている印象を与えるが、本数で言えば木下作品のほうが実は多く出ている」と述べているように、主演はないが脇役として多く出演した。また、新人俳優の起用も多く、デビュー作からその後の作品に何度も登場することになる者も多かった。田村高廣、桂木洋子、石濱朗、田中晋二、有田紀子、川津祐介、小坂一也、加藤剛らがその代表格である。 人物・エピソード黒澤明とは、監督デビューした年が同じで、小津、溝口らの戦前派が亡くなった後は長らく日本映画の両雄と見なされていた。1954年には『二十四の瞳』『女の園』のともに2作がキネマ旬報ベストテンで『七人の侍』の上位を占めるなど、しばしば国内での評価は黒澤を凌駕することもあった。しかし、国外での受賞が少ないことや、基本的に日常派で華々しい話題性や刺激に乏しい作品が多いことなどにより、晩年は次第に映画界での存在感が薄れていく。木下プロダクションを設立してのテレビへの転身が好調だった点もかえって災いした。特に1980年前後、ともに久々に映画界に復帰した黒澤が日本映画の記録を破るような超大作を連打したのに対し、渋い社会派映画に徹した木下は、玄人筋の評価こそ高いものを勝ち得たものの、大衆的な話題性という点で大きく後塵を拝する結果となった。黒澤と両雄と呼ばれた60年代にこれに続く存在とされた市川崑や山本薩夫がジャーナリスティックな話題作りに長けていたことと比べても見劣りする形となってしまった。没後は世間一般の話題に上ることは少なくなっていた。 1948年(昭和23年)、盟友でもあった黒澤の脚本による『肖像』を監督して第3回毎日映画コンクール監督賞を受賞している。その後同じ布陣による時代大作『落城』が企画されるも実現には至らず、結局このコラボレーションはこの1作のみに終わった。 1948年(昭和23年)から晩年近くまで、神奈川県藤沢市辻堂熊の森に住んでいた。 日常的に女性的な言葉遣いをすることが多かったが、それ以外のセクシャリティを示すような具体的なエピソードはきわめて少ない(ただし、脚本家の白坂依志夫の回顧エッセイでは、「木下監督がホモ・セクシャルなことは、有名である。木下組の助監督は、そろって美青年で、そろいのスーツにそろいのネクタイ、華やかな現場だった」と記述されている)。 実際は戦中にごく短い結婚生活を経験しているが、入籍はしなかった。新婚旅行で見切りをつけたという本人の弁は三国隆三『木下恵介伝―日本中を泣かせた映画監督』に、性的関係のないまま離別したという相手の女性の証言は長部日出雄『天才監督 木下惠介』 に紹介されている。実子はなかったが、養子(男性)を取っていた時期がある。 実家の漬物店は、絶えず15人前後の奉公人を抱える裕福な家庭であった。その為、撮影所の給与のほかに「何時でも欲しい時にいるだけ」実家から仕送りを受けて生活していた。両親を説き伏せて蒲田撮影所入ったものの「サディズム的先輩」に馴染めず、入った途端に嫌になってしまい、辞めて郷里に帰りたいと手紙を書いては一年だけは辛抱するよう母に宥められていたという。撮影部に移ってからも島津保次郎に怒鳴られるのが怖く、島津の顔を見た途端から「十貫目の石を背負ったような気分に」なっていたと述懐している。 1951年に高峰秀子に誘われて初めてパリを訪問。1952年にかけての半年間パリに滞在したが、その折、トラベラーズ・チェックを摺られて難儀していた三島由紀夫に、日本からの送金が到着する迄の滞在先として自分が滞在していたアパートを紹介し、1ヶ月ほど親しくしていた。ある時、もっと国政に対して発言してはどうかと木下が問うたところ、三島は「小説家ってね、そんなことはどうでもいいんだ。日本の国がどうなろうと、小説家が書くことは別のことだからね、僕が書きたいことはさ」と返答したという。木下は18年後の三島の最期について「何故クーデターを呼びかけてまであんな死に方をしたのだろう」、「三島さんほどの人が、あのむごたらしい死を賭して言い残したことは、あの基本思想と一脈相通じているように私には思えてならない」、「なつかしい人でもあるし、思い出したくない記憶でもある」と記している。1954年公開の『潮騒』は、当初、木下が監督する予定で企画が進められていたが、原作者である三島の「木下だったら、どんな映画か想像がつく」との一言で監督は谷口千吉に変更された。 実家が漬物屋だったことで、独特の臭いが影響し、大の漬物嫌いだった。助監督はロケ弁などの「漬物チェック」が日課であり、もし弁当に入っていたり目の前にあろうものなら、木下は癇癪を起こし、撮影どころではなくなった、という。 2024/06/12 09:27更新
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kinoshita keisuke
木下恵介と同じ誕生日12月5日生まれ、同じ静岡出身の人
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