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幣原喜重郎の情報 (しではらきじゅうろう)
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【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

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幣原 喜重郎さんについて調べます

■名前・氏名
幣原 喜重郎
(読み:しではら きじゅうろう)
■職業
外交官
■幣原喜重郎の誕生日・生年月日
1872年9月13日 (年齢78歳没)
申年(さる年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
大阪出身

幣原喜重郎と同じ1872年生まれの有名人・芸能人

幣原喜重郎と同じ9月13日生まれの有名人・芸能人

幣原喜重郎と同じ出身地大阪府生まれの有名人・芸能人


幣原喜重郎と関係のある人

渋沢敬三: 第二次世界大戦直後、姻戚の幣原喜重郎首相(幣原の妻・雅子と敬三の姑・磯路は姉妹)に乞われて大蔵大臣に就任。


西園寺公望: 幣原喜重郎外相は会議前に西園寺に会おうとしたが、このころ西園寺は、孫からうつされた風邪をこじらせ、非常な高熱で伏せっていたため、会うことはできなかった。


佐分利貞男: 1929年(昭和4年)8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐ソ大使への出世を犠牲に駐支那公使に就任。


鶴見祐輔: 同年11月に「太平洋文化協会」を設立、翌1951年(昭和26年)1月に幣原喜重郎ら36人と発起人に加わり国土防衛民主主義聯盟を旗揚げ、同年9月に旧民政党系の旧友会により結成された新政クラブに参画した。


中山マサ: 民主党に入党し、民主党では幣原喜重郎派に所属し、後に幣原に従い民主自由党に移る。


根本龍太郎: その後民主党に所属するが、炭鉱国管問題に反対し田中角栄、幣原喜重郎、原健三郎、佐々木秀世らと民主党を脱党し、吉田茂の自由党に入党する。


浜口雄幸: 幣原喜重郎とは、第三高等中学校、帝国大学を通じての同級生であった。


井上準之助: しかし事変への対応が後手に回る中で、民政党の実力者で内相である安達謙蔵が協力内閣運動を推進すると外相の幣原喜重郎とともにこれに反対した。


浜口雄幸: 又、銃撃発生当時、同ホームではソビエト連邦に向けて赴任する広田弘毅大使が出発しており、見送りに万歳三唱を行っていた幣原喜重郎外相やその他多勢は、当初銃撃に気付かなかったといい、広田大使らを乗せた列車もそのまま出発している。


末次信正: 草刈英治の自決や、加藤寛治の帷幄上奏による軍令部長辞任、外相・幣原喜重郎の失言など事態は混迷し、一時は批准が難しい事態になったが、濱口総理の強硬姿勢と宮中関係、財界、言論界の支持があり、1930年(昭和5年)10月2日にロンドン海軍軍縮条約は批准された。


東郷茂徳: このため、幣原喜重郎が立案し、吉田茂と東郷が修正を加えた案「乙案」が提出された。


降旗徳弥: 選挙後、進歩党総裁に就任した幣原喜重郎首相の秘書官となる。


木村俊夫: 幣原喜重郎


麻生太郎: また、首相経験者が副総理として再入閣するのは第1次吉田内閣の幣原喜重郎以来である。


原健三郎: 政界入り当初は、日本進歩党を経て民主党に所属したが、炭鉱国家管理問題での日本国政府の対応に反発して幣原喜重郎、田中角栄、佐々木秀世らと共に離党し、吉田茂率いる民主自由党に参加した。


白鳥敏夫: 白鳥は外務省きっての英語使いと評される他、実務能力に長けた官僚であり、幣原喜重郎や吉田茂も賞賛していた。


小村寿太郎: 外務省通商局長や条約局長を務め、幣原喜重郎の側近中の側近といわれた佐分利貞男と1909年に結婚。


平野三郎: 内閣総理大臣を経験した幣原喜重郎衆議院議長の秘書をしていたとするが、幣原の秘書であった岸倉松によれば、公的な秘書でも私的な秘書でもなかったとし、父の増吉と幣原は親しかったが、三郎はそれほど来なかったという。


近藤芳正: 青天を衝け(2021年) - 幣原喜重郎


保利茂: 党総裁であった町田忠治も公職追放となったため、幣原喜重郎が総裁となるが、犬養健とともに若手議員らからなる反幣原派「新進会」を結成し、芦田均を首班とする新党結成に動き出した。


谷川昇: 翌1946年には、幣原喜重郎内閣の内務省警保局のトップ・警保局長に就任。


三土忠造: 墓碑銘は幣原喜重郎の揮毫になるものである。


田中万逸: 1947年第1次吉田内閣が発足すると、党総裁幣原喜重郎の推挙により国務大臣(無任所)として入閣。


三土忠造: 終戦直後、旧政友会正統派の翼賛政治に批判的だった人々は鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結成するが三土はこれに協力せずに首相となった幣原喜重郎に接近する。


中村伸郎: 第2集 サンルームの二時間 憲法GHQ案の衝撃 - 内閣総理大臣:幣原喜重郎


前田光世: 新州頭領のディオニーシオ・アウシエル・ベンテスが芹沢を自ら案内し、カッピン川流域に1家族25ヘクタール、2万家族分計50万ヘクタールの土地のコンセッソン契約締結を申し出(1年以内の土地選定が条件)て、田付大使がこれを幣原喜重郎外務大臣に報告することでアマゾン移民の話が動き出した。


木内孝胤: 岩崎久弥(弥太郎の長男で三菱の3代目総帥)は義兄、相婿に加藤高明(弥太郎の長女・春路の夫)、幣原喜重郎(弥太郎の四女・雅子の夫)。


松平恒雄: ほかにロンドン海軍軍縮会議首席全権を経験するなど、幣原喜重郎と並ぶ親英米派外交官として知られるようになる。


楢橋渡: またこの頃沢田廉三(後の国連大使)を介して幣原喜重郎に会っている。


古垣鉄郎: 1946年(昭和21年)5月18日に貴族院議員に勅選、幣原喜重郎内閣により設置された(大東亜)戦争調査会において参与に選任されたが、程なく調査会は廃止された。


幣原喜重郎の情報まとめ

もしもしロボ

幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう)さんの誕生日は1872年9月13日です。大阪出身の外交官のようです。

もしもしロボ

栄典、逸話などについてまとめました。卒業、事件に関する情報もありますね。78歳で亡くなられているようです。

幣原喜重郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、旧字体:幣󠄁原 喜重郞、1872年9月13日〈明治5年8月11日〉- 1951年〈昭和26年〉3月10日)は、日本の政治家、外交官。爵位は男爵。位階は従一位。勲等は勲一等。

外務大臣(第40・41・43・44代)、貴族院議員(勅選議員)、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第44代)、第一復員大臣(初代)、第二復員大臣(初代)、復員庁総裁(初代)、副総理、衆議院議員、衆議院議長(第40代)を歴任した。

明治5年8月11日(1872年9月13日)、堺県茨田郡門真一番下村(現・大阪府門真市)の豪農の家に生まれた。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪城西側にあった官立大阪中学校(のち京都に移転、第三高等中学校となる)から、第三高等中学校(首席卒業)を経て、1895年(明治28年) 東京帝国大学法科大学卒業。濱口雄幸とは、第三高等中学校、帝国大学法科大学時代を通じての同級生であり2人の成績は常に1、2位を争ったという。

大学卒業後は農商務省に入省したが、翌1896年(明治29年)外交官試験に合格し、外務省に転じた。

外務省入省後、仁川、ロンドン、ベルギー、釜山の各領事館に在勤後、ワシントン、ロンドンの各大使館参事官、オランダ公使を経て1915年(大正4年)に外務次官となり、1919年(大正8年)に駐米大使。第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議、ワシントン会議においては全権委員を務める。

外務大臣になったのは1924年(大正13年)の加藤高明内閣が最初であった。以降、若槻内閣(1次・2次)、濱口内閣と憲政会→立憲民政党内閣で4回外相を歴任した。

彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し、東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針であった。そのため、1925年(大正14年)の5・30事件においては、在華紡(在中国の日系製糸会社)の中国人ストライキに対して奉天軍閥の張作霖に要請して武力鎮圧するなど、権益の擁護をはかっている。

1926年(大正15年)に蔣介石が国民革命軍率いて行った北伐に対しては、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリスによる派兵の要請を拒絶。しかし、1927年(昭和2年)3月に南京事件が発生すると、軍部や政友会のみならず閣内でも宇垣一成陸相が政策転換を求めるなど批判が高まった。こうした幣原外交への反感は金融恐慌における若槻内閣倒閣の重要な要素となった。

1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年(昭和6年)夏、広州国民政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発した満洲事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。

なお、濱口内閣時代には、濱口雄幸総理の銃撃による負傷療養期間中、宮中席次の規定により次席であった幣原が内閣総理大臣臨時代理を務めた。立憲民政党の党員でなかった幣原が臨時代理を務めたことは野党立憲政友会の批判の的となり、また同じく批判されたロンドン条約については天皇による批准済みであると国会答弁でしたことが天皇への責任転嫁であると失言問題を追及された。その際の首相臨時代理在任期間116日は最長記録である。

第2次若槻内閣の総辞職以降は表舞台から遠ざかっていたが、南部仏印進駐のころに近衛文麿に今後の見通しを訊かれ、「南部仏印に向かって出帆したばかりの陸軍の船団をなんとか呼び戻せませんか?あるいは台湾に留め置けませんか?それが出来ずに進駐が実現すれば、絶対アメリカとの戦争は避けられません」と直言し、予言が的中した逸話が残っている。

第二次世界大戦末期の1945年5月25日、空襲により千駄ヶ谷の自邸が焼失。多摩川畔にあった三菱系の農場に移った。

戦後の1945年10月9日に、10月5日の東久邇宮内閣の総辞職を受け内閣総理大臣に就任。本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたが、同じく指名を固辞した吉田茂の後押しや昭和天皇じきじきの説得などもあり政界に返り咲いた。幣原の再登場を聞いた古手の政治記者が「幣原さんはまだ生きていたのか」と言ったという逸話が残るほど、当時の政界では忘れられた存在となっていたが、親英米派としての独自のパイプを用いて活躍した。ただし、吉田が幣原を首相に推したのは吉田の政治的な地位作りのためであったともいわれている。

1945年10月11日、マッカーサーに新任の挨拶を行うために連合国軍最高司令官総司令部を訪問。挨拶という体裁ではあったが、持ち前の卓越した英語力、外交官としての見識などを持って一時間にわたる会談となった。マッカーサーからはポツダム宣言に沿って憲法改正を行うこと、人権確保のための改革を行うこと、厳冬期対策を急ぐべきことの要求が出された。

幣原と日本国憲法の制定については様々な研究が行われているが、特に日本国憲法第9条における戦争の放棄については、幣原の発案であるかどうかという論争が行われている。

幣原は当初天皇制の維持のため、憲法改正には消極的であった。

幣原は1951年に公刊した『外交五十年』において、9条の発案者は自身であると述べている。これによれば、1945年8月15日に玉音放送を聞いた後、電車内で泣き叫ぶ男に出会ったのがきっかけで、「戦争を放棄し、軍備を全廃」することを発案したという。後にマッカーサーも9条は幣原の提案によると述べている。一方で松本烝治、芦田均といった幣原内閣の閣僚、木内四郎内閣副書記官長、増田甲子七、押谷富三といった政治家、幣原の息子道太郎も幣原の発案であることを否定している。

1946年1月24日、幣原は風邪をひいた際にマッカーサーからペニシリンを贈られたことに対する返礼を名目に会談を行った(ペニシリン会談)。マッカーサーの回顧録によれば、この席で幣原が戦力の放棄を含む戦争放棄の新憲法制定の提案を行ったという。後に幣原が大平駒槌に語った談話(羽室メモ)によれば、「僕はかねて考えていた戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考える」「世界から信用をなくしてしまつた日本にとつて戦争を放棄すると云ふ様な事をハツキリと世界に声明する事それだけが日本を信用してもらえる唯一のほこりとなる事じやないだろうか」と述べ、マッカーサーも大いに感動していたという。

ただしチャールズ・L・ケーディス民政局次長の回想によれば、マッカーサーから告げられた会談のテーマは公職追放についてであったという。また「羽室メモ」通りのことを幣原が述べたとしても、「声明」にとどまっており、憲法に戦力の不保持とともに書き込むというものではなかった。

1月30日、閣議において新憲法の政府案である松本試案について検討が行われた。この席で幣原は軍に関する条項を削除するよう求めたが、「大勢カラ云ヘバイツカ軍ハ出来ルト思フガ今、之ニ入レルコトハ刺激ガツヨスギル」「(GHQとの交渉に)一、 二ケ月モ引カツテシマフ」と述べたように、単に交渉的な問題であり、将来的な軍の保有を排除したものではなかった。松本試案は新聞によって暴露され、日本政府の憲法案が不十分であると判断したマッカーサーは、2月3日に民政局に対して新憲法草案を作成するよう命じた。この際マッカーサーは自衛権をも含む戦争放棄を含めた新憲法の原則「マッカーサー・ノート」を示している。

2月13日、コートニー・ホイットニー民政局局長は、松本試案を否定し戦争放棄を含むGHQの憲法草案(マッカーサー草案)を幣原と松本烝治国務大臣に手交した。広田弘毅の弁護人を務めた広田洋二は、幣原の秘書である岸倉松の証言から「幣原首相もちよつとおどろいたようであり」と、幣原が憲法に戦争放棄条項が含まれることを予想していなかったことを述べている。2月18日にはホイットニー民政局局長は48時間以内の回答を要求した。閣議は紛糾し、2月21日にマッカーサーと幣原、芦田均・小林一三の会談が行われた。この席で幣原は主権在民の明文化に難色を示すとともに、「(戦争放棄の条文化は)世界のどの国の憲法にもない異例な話で」と戦争放棄条項についても否定的な意見を述べた。マッカーサーは「日本の為に図るに寧ろ第二章(GHQ草案)の如く国策遂行の為めにする戦争を抛棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思ふ」と述べたが、幣原は「leadershipと言はれるが、おそらく誰もfollowerとならない」と否定した。しかしマッカーサーは「譲ることも変へることも出来ない」と受諾を要求した。

2月22日、GHQ側から渡された憲法草案を原則的に受諾することが閣議決定された。ただし、戦争放棄条項については松本国務大臣が前文に移すことを提案したがホイットニー民政局局長に却下され、修文・翻訳を通じて「ウマク曲文」することとなった。同日、天皇を訪ね経緯と内容を報告した。

幣原は3月15日の閣議で「天子様をすてるかすてぬかと云ふ事態に直面して、あの司令部側の申出を承諾した」と述べており、GHQ案の受諾は天皇制維持という受動的な動機にすぎなかった。

古関彰一は戦争放棄の発案者は幣原であるとし、マッカーサーがその提案を受けて条項化を指示したとした。深瀬忠一、河上暁弘、笠原十九司などは更に幣原の主導性を重視し、幣原が発案者であるとしている。一方で佐々木髙雄、五百籏頭眞は1946年1月24日会談における幣原の提案は不戦条約レベルのものではなかったかとしている。また幣原が年来の考えであった非戦思想をマッカーサーに話したことと、マッカーサーがそれに共鳴したことによって9条が生まれたという見解もある。幣原内閣の外務大臣であった吉田茂や幣原の秘書岸倉松、佐藤達夫法制局次長などはこの見解を取っている。

2020年代においては笠原十九司は幣原発案説を支持しているが、幣原の評伝を著した熊本史雄や種稲秀司は否定している。

マッカーサーは1950年1月1日の「日本国民諸君」というメッセージにおいて、戦争放棄規定は「日本人みずから考え出したもの」と述べているが、幣原とは明示しなかった。

1976年に外務省が公開したマッカーサー・ノートには、戦争放棄条項の次に括弧書きで「この考えは、最初に当時の幣原首相から最高司令官に表明され、司令官はただちにそれにつき心からの支持を与えた。」という注釈が入っているが、もとの公式文書であるマッカーサー・ノートには入っていない。これは1950年11月11日にマッカーサー・ノートを記事にしようとした『ニッポン・タイムズ(現ジャパンタイムズ)』に掲載の許可を与えた際、GHQ側が掲載の条件として括弧書きの文面を提示したものである。これ以降マッカーサーも幣原の発案であることを語るようになり、1951年5月5日のアメリカ合衆国上院軍事・外交合同委員会での証言、1962年の内閣憲法調査会への高柳賢三会長への書簡、1964年に刊行された回顧録でも幣原の発案であると述べている。また幣原も1951年刊行の回顧録『外交五十年』において発案者であると記している。

幣原の秘書をしていたという衆議院議員平野三郎は1958年頃から自由民主党内における護憲派として、幣原が憲法9条の発案者であるという主張を行うようになった。1963年11月頃、平野が幣原の発案を裏付ける文書を持っているという情報が一部メディアに取り上げられた。この頃内閣憲法調査会でも9条の発案者が幣原かどうかを調査することとなった。憲法調査会会長の高柳賢三は、護憲派の立場から幣原発案説を支持し、否定派の議員と対立していた。このような状況で、平野は1951年2月下旬に日向ぼっこをしながら幣原から話を聞き、その内容をまとめたという文書(平野文書)を提出した。この文書では「原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変って終った」「戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる」と戦力の放棄を述べられており、1946年1月24日会談で「天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案」 したとしており、「日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くか」と日米の軍事一体化を否定するものであった。しかし憲法調査会での評価は芳しく無く、平野も文書のもととなったというメモを提示しなかったため、最終報告書にも取り上げられなかった。笠原十九司は「幣原でなければ言えなかった事実」「平野には創作できなかった事実」であるとしているが、佐々木髙雄や中村克明は創作である可能性を指摘している。佐々木は1951年2月下旬は幣原が日向ぼっこができるような日はなかったこと、平野が文書の原本であるメモを提出しなかったことを指摘している。また種稲秀司は幣原の他の発言や思想と一致しないことや幣原没後のことである冷戦を意識したような記述から、「矛盾や齟齬があまりにも多い怪文書」と評している。

幣原は『外交五十年』の序文において「私の記憶に存する限り正確を期した積りである」と述べている。一方で幣原は秋元俊吉宛書簡で記者の質問に対して口頭で話したものを、「精読、加筆の暇もなく発表」されたものであるとしている。また幣原と親交があった紫垣隆は、幣原が執筆中の『外交50年』の原稿を指して、「この原稿も、僕の本心で書いているのでなく韓信が股をくぐる思いで書いているものだ。何れ出版予定のものだが、お手許にも送るつもりだから、読んでくだされば解る。これは勝者の根深い猜疑と弾圧を和らげる悲しき手段の一つなのだ」と述べていたとしている。種稲秀司は幣原が玉音放送までポツダム宣言受諾を聞いていなかったと記しているが、東郷茂徳外相とたびたび会談を行っていたことから考えにくいことなどを指摘したうえで、『外交五十年』の公刊までは幣原自身が発案者であったことを述べていないことなどから、この日記は無批判に引用できるものではないとしている。

更に幣原は直後の閣議等では戦争放棄案を後押しするような動きも見せず、後年には民政局員ハリー・エマーソン・ワイルズ(英語版)に「戦争放棄条項を見て驚いた」、「趣旨をマッカーサーに話したが、憲法に入れることまで言わなかった」と述べており、2月21日にはマッカーサーに「どのような軍隊なら保持できるのですか」という質問を行っている。また幣原の側近であった村山有は、幣原が「戦争放棄はわしから望んだことにしよう」と述べたとしているなど、幣原は『回想五十年』との記述と齟齬のある言動をしばしば行っている。

また佐々木髙雄や小林直樹は、マッカーサーが幣原発案を主張するようになったのは、朝鮮戦争勃発後に日本の再軍備の責任を問われかねない状況となったため、責任回避のために幣原に責任転嫁したのではないかとしている。また増田弘もマッカーサー回顧録には「自己弁護」や「責任転嫁」が目立ち、憲法制定の経緯については「二重三重に自己防衛に配慮した形跡」が見られると指摘している。また、ホイットニーの後任であるフランク・リゾーは、マッカーサーの最側近であるホイットニーは、当初9条の発案者として「アウワ・オールドマン」とマッカーサーであるとしていたが、朝鮮戦争勃発時からは「ユア・オールドマン」と幣原を指すようになったとしている。

一方で幣原発案説をとる笠原十九司は、マッカーサーの演説を批判的に見る佐々木の意見を「下衆の勘繰りに近い」と批判している。また幣原が内閣において発案者であると振る舞わなかったのは、内閣の瓦解を恐れたための演技であったとしている。またマッカーサーとの会談で戦争放棄の明記に反対して「誰もfollowerとならない」と幣原が述べたという『芦田均日記』の記述は、憲法調査会に提出された内閣法制局次長だった入江俊郎の著書『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』と相違しているため正確ではないとしている。ただし幣原が戦争放棄の明記に反対したという証言は『小林一三日記』にも記載されている。

旧憲法下最後、そして戦後初の総選挙となる1946年(昭和21年)4月10日の第22回衆議院議員総選挙では、日本自由党が第一党となり総辞職。第1次吉田内閣が発足する。幣原は無任所の国務大臣として入閣(のちに復員庁総裁兼務)。

1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で初当選。日本進歩党総裁となり、民主党の結成にも参加したが、片山内閣の社会主義政策を批判して田中角栄、原健三郎、本間俊一、中山マサ、小平久雄ら幣原派の若手議員とともに民主自由党に参加、衆議院議長に就任する。内閣総理大臣経験者の衆議院議長は初めてであった(貴族院議長は初代の伊藤博文が第1次内閣と第2次内閣の間に在任しており、他に近衛文麿が議長経験後に首相就任している。衆議院と参議院は幣原の後も例がない)。

安全保障分野においては、再軍備は世界の反発を受けるとして否定しながらも、アメリカとの関係強化によりソビエト連邦の侵略に抵抗するべきという考え方を持っていた。1950年にはジョン・フォスター・ダレス国務省顧問に対し、共産主義者の侵略の危険性と再軍備の経済的負担の懸念を理由として、アメリカによる永久占領を求めている。また朝鮮戦争の激化に伴い、第10回国会の議長挨拶では自衛権の発動に言及する草稿を準備している。中島弥団次によれば、この頃の幣原の再軍備に対する考えは芦田均と吉田茂の中間であったという。

1951年(昭和26年)3月10日、議長在任中に心筋梗塞のため死去。享年80(満78歳没)。議長在任中の死去であったことから、葬儀は衆議院葬として行われた。墓所は豊島区駒込の染井霊園。

栄典

1896年(明治29年)10月30日 - 従七位

1901年(明治34年)4月20日 - 正七位

1903年(明治36年)10月10日 - 従六位

1905年(明治38年)12月27日 - 正六位

1908年(明治41年)3月30日 - 従五位

1911年(明治44年)9月20日 - 正五位

1915年(大正4年)12月10日 - 従四位

1919年(大正8年)10月30日 - 正四位

1922年(大正11年)11月10日 - 従三位

1925年(大正14年)12月1日 - 正三位

1931年(昭和6年)2月16日 - 従二位

1951年(昭和26年)3月10日 - 従一位

1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章

1911年(明治44年)8月24日 - 勲二等瑞宝章

1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章

1916年(大正5年)8月19日 - 勲一等瑞宝章

1920年(大正9年)9月7日 - 男爵・勲一等旭日大綬章

1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章

1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章

1931年(昭和6年)12月12日 - 旭日桐花大綬章

1934年(昭和9年)4月29日 - 昭和六年乃至九年事変従軍記章

1940年(昭和15年)

    4月29日 - 銀杯一組

    8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章

    1914年(大正3年)6月18日 - イタリア王国:サンモーリスエラザル第二等勲章

    1915年(大正4年)11月12日 - オランダ王国:オランジュナッソー第一等勲章(英語版)

    1918年(大正7年)7月3日 - イギリス帝国:ブリティッシュエムパイアー第二等勲章

    1925年(大正14年)7月11日 - ベルギー王国:レオポール勲章(英語版)グランクロア

    1926年(大正15年)8月24日 - ペルー共和国:ソレイユ勲章(英語版)グランクロア

    1927年(昭和2年)4月1日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グランクロア

    1931年(昭和6年)

      9月26日 - シャム王国:レ・レファンブラン勲章グランクロア

      12月24日 - エチオピア帝国:メネリック第二世勲章グランクロア

      1934年(昭和9年)3月1日 - 満洲帝国:建国功労章

      逸話

      「幣原」という語彙は欧米人、とくに英語圏の人間にとっては発音しづらいものであったらしく、或る日、幣原は外国人記者から英語で次の様な質問をされた。

      関東大震災後、被害を受けた駿河台の住居から駒込の六義園へ引っ越した。引越しの際焼け残った荷物を運ぶ馬車が川に転落、文字通り丸裸の憂き目にあったという。

      幣原は書道や文章に優れていることで外務省内には知られており、幣原が外務大臣だったときに次官を務めていた吉田茂は、省内の文書が次官の決裁後に大臣である幣原の下に届けられると、幣原が文面を全て校正してから決裁をすることを知って、「大臣の所に行った文書は書き直されてしまうのだから、大臣の決裁を貰ってからでないと次官の決裁は出せない」と皮肉を述べたところ、この話が幣原に伝わってしまい、暫くの間二人の仲は険悪になったと言われている。だが、東久邇宮内閣総辞職後にマッカーサーから後任総理について尋ねられた時、世間から忘れ去られていた幣原をマッカーサーに推挙したのは吉田であったという。

      経歴や行動からクエーカー派クリスチャンであったという説が有力だが判然としていない。

      濱口雄幸が立憲民政党の総裁になった際、中学校時代からの友人であり懇意であった幣原に副総裁になるよう要請した。そのころ幣原は外務大臣は政党と関係を持つべきでないとする信条を持っており、拒絶したという。

      血盟団事件、二・二六事件の両事件で襲撃の標的となっていたが、病臥中であったことや事前に警官の警告があったことにより事なきを得た。

      満洲事変当時のアメリカ国務長官ヘンリー・スティムソンは、回顧録にて「日本の軍部に対抗して幣原を支持せねばならぬ」と評価していた。

      1950年11月20日、国際ケア機構による支援物資「ケア物資」が10万個に達したことを記念し、10万個目の小包を衆議院議長として受け取った。記念式典に出席した連合国軍最高司令官総司令部関係者に対し、英語で感謝の意を伝えるスピーチを行っている。

2024/06/15 07:19更新

shidehara kijuurou


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