幣原喜重郎の情報(しではらきじゅうろう) 外交官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
幣原 喜重郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
幣原喜重郎と関係のある人
近藤芳正: 青天を衝け(2021年) - 幣原喜重郎 役 浜口雄幸: 外交政策では加藤高明内閣でも外務大臣を務めた幣原喜重郎を起用し幣原外交と呼ばれる対中国の関係改善及びアメリカ、イギリスを重視する協調外交を推進した。 和田周: ポーツマスの旗(1981年、NHK総合) - 幣原喜重郎 役 田中万逸: 1947年第1次吉田内閣が発足すると、党総裁幣原喜重郎の推挙により国務大臣(無任所)として入閣。 八木秀次: 八木は、1945年10月に幣原喜重郎首相が設置した戦争調査会の第五部会(科学技術)の部会長に任命された。 中山マサ: 民主党に入党し、民主党では幣原喜重郎派に所属し、後に幣原に従い民主自由党に移る。 西園寺公望: 幣原喜重郎外相は会議前に西園寺に会おうとしたが、このころ西園寺は、孫からうつされた風邪をこじらせ、非常な高熱で伏せっていたため、会うことはできなかった。 三津田健: 小説吉田学校(1983年) - 幣原喜重郎 下村定: 続く幣原喜重郎内閣でも留任し、日本陸軍(帝国陸軍)で最後の陸軍大臣となった。 徳川家達: この答弁は加藤友三郎や幣原喜重郎と異なり、家達が全権としてワシントンで遂行する任務がなくなったことを証明するものでもあった。 楢橋渡: またこの頃沢田廉三(後の国連大使)を介して幣原喜重郎に会っている。 吉田茂: この間、政策に不満を持ち民主党を離党した幣原喜重郎や田中角榮らの民主クラブと日本自由党が合併し民主自由党が結成され、吉田が総裁に就任した。 谷川昇: 翌1946年には、幣原喜重郎内閣の内務省警保局のトップ・警保局長に就任。 根本龍太郎: その後民主党に所属するが、炭鉱国管問題に反対し田中角栄、幣原喜重郎、原健三郎、佐々木秀世らと民主党を脱党し、吉田茂の自由党に入党する。 澤田美喜: 伯爵加藤高明(元内閣総理大臣)は義理の伯父(妻が久弥の姉)、元京都府知事の木内重四郎(元京都府知事・貴族院議員)と男爵幣原喜重郎(元内閣総理大臣)は義理の叔父(ともに妻が久弥の妹)であった。 鶴見祐輔: 同年11月に「太平洋文化協会」を設立、翌1951年(昭和26年)1月に幣原喜重郎ら36人と発起人に加わり国土防衛民主主義聯盟を旗揚げ、同年9月に旧民政党系の旧友会により結成された新政クラブに参画した。 倉成正: 幣原喜重郎 麻生太郎: 首相経験者の入閣は幣原喜重郎、宮澤喜一、橋本龍太郎に続き、戦後4人目。 近衛文麿: 首相・幣原喜重郎はこれに抗議し、翌24日に近衞は軌道修正する会見を行っている。 伊沢多喜男: 8月16日、葬儀(委員長は幣原喜重郎)。 宮澤喜一: 総理経験者の閣僚就任は第1次吉田内閣の幣原喜重郎国務大臣・復員庁総裁以来51年ぶりのことだった。 木内孝胤: 岩崎久弥(弥太郎の長男で三菱の3代目総帥)は義兄、相婿に加藤高明(弥太郎の長女・春路の夫)、幣原喜重郎(弥太郎の四女・雅子の夫)。 伊沢多喜男: 11月、浜口雄幸首相の遭難に際し、幣原喜重郎総理大臣臨時代理の実現に奔走。 木村俊夫: 幣原喜重郎 松平恒雄: ほかにロンドン海軍軍縮会議首席全権を経験するなど、幣原喜重郎と並ぶ親英米派外交官として知られるようになる。 白鳥敏夫: 白鳥は外務省きっての英語使いと評される他、実務能力に長けた官僚であり、幣原喜重郎や吉田茂も賞賛していた。 徳川家達: 1921年(大正10年)10月に原内閣はワシントン会議に海軍大臣加藤友三郎、駐米大使幣原喜重郎、そして家達を全権としてワシントンに派遣した。 木村俊夫: 幣原喜重郎 原健三郎: 政界入り当初は、日本進歩党を経て民主党に所属したが、炭鉱国家管理問題での日本国政府の対応に反発して幣原喜重郎、田中角栄、佐々木秀世らと共に離党し、吉田茂率いる民主自由党に参加した。 前田光世: 新州頭領のディオニーシオ・アウシエル・ベンテスが芹沢を自ら案内し、カッピン川流域に1家族25ヘクタール、2万家族分計50万ヘクタールの土地のコンセッソン契約締結を申し出(1年以内の土地選定が条件)て、田付大使がこれを幣原喜重郎外務大臣に報告することでアマゾン移民の話が動き出した。 |
幣原喜重郎の情報まとめ
幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう)さんの誕生日は1872年9月13日です。大阪出身の外交官のようです。
卒業、事件、解散、離婚、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1951年に亡くなられているようです。
幣原喜重郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、旧字体:幣󠄁原 喜重郞、1872年9月13日〈明治5年8月11日〉- 1951年〈昭和26年〉3月10日)は、日本の政治家、外交官。爵位は男爵。位階は従一位。勲等は勲一等。 外務大臣(第40・41・43・44代)、貴族院議員(勅選議員)、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第44代)、第一復員大臣(初代)、第二復員大臣(初代)、復員庁総裁(初代)、副総理、衆議院議員、衆議院議長(第40代)を歴任した。 明治5年8月11日(1872年9月13日)、堺県茨田郡門真一番下村(現・大阪府門真市)の豪農の家に生まれた。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪城西側にあった官立大阪中学校(のち京都に移転、第三高等中学校となる)から、第三高等中学校(首席卒業)を経て、1895年(明治28年) 東京帝国大学法科大学卒業。濱口雄幸とは、第三高等中学校、帝国大学法科大学時代を通じての同級生であり2人の成績は常に1、2位を争ったという。 大学卒業後は農商務省に入省したが、翌1896年(明治29年)外交官試験に合格し、外務省に転じた。 外務省入省後、仁川、ロンドン、ベルギー、釜山の各領事館に在勤後、ワシントン、ロンドンの各大使館参事官、オランダ公使を経て1915年(大正4年)に外務次官となり、1919年(大正8年)に駐米大使。第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議、ワシントン会議においては全権委員を務める。 外務大臣になったのは1924年(大正13年)の加藤高明内閣が最初であった。以降、若槻内閣(1次・2次)、濱口内閣と憲政会→立憲民政党内閣で4回外相を歴任した。 彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し、東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針であった。そのため、1925年(大正14年)の5・30事件においては、在華紡(在中国の日系製糸会社)の中国人ストライキに対して奉天軍閥の張作霖に要請して武力鎮圧するなど、権益の擁護をはかっている。 1926年(大正15年)に蔣介石が国民革命軍率いて行った北伐に対しては、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリスによる派兵の要請を拒絶。しかし、1927年(昭和2年)3月に南京事件が発生すると、軍部や政友会のみならず閣内でも宇垣一成陸相が政策転換を求めるなど批判が高まった。こうした幣原外交への反感は金融恐慌における若槻内閣倒閣の重要な要素となった。 1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年(昭和6年)夏、広州国民政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発した満洲事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。 なお、濱口内閣時代には、濱口雄幸総理の銃撃による負傷療養期間中、宮中席次の規定により次席であった幣原が内閣総理大臣臨時代理を務めた。立憲民政党の党員でなかった幣原が臨時代理を務めたことは野党立憲政友会の批判の的となり、また同じく批判されたロンドン条約については天皇による批准済みであると国会答弁でしたことが天皇への責任転嫁であると失言問題を追及された。その際の首相臨時代理在任期間116日は最長記録である。 第2次若槻内閣の総辞職以降は表舞台から遠ざかっていたが、南部仏印進駐のころに近衛文麿に今後の見通しを訊かれ、「南部仏印に向かって出帆したばかりの陸軍の船団をなんとか呼び戻せませんか?あるいは台湾に留め置けませんか?それが出来ずに進駐が実現すれば、絶対アメリカとの戦争は避けられません」と直言し、予言が的中した逸話が残っている。 第二次世界大戦末期の1945年5月25日、空襲により千駄ヶ谷の自邸が焼失。多摩川畔にあった三菱系の農場に移った。 1901年(明治34年)4月20日 - 正七位 1903年(明治36年)10月10日 - 従六位 1905年(明治38年)12月27日 - 正六位 1908年(明治41年)3月30日 - 従五位 1911年(明治44年)9月20日 - 正五位 1915年(大正4年)12月10日 - 従四位 1919年(大正8年)10月30日 - 正四位 1922年(大正11年)11月10日 - 従三位 1925年(大正14年)12月1日 - 正三位 1931年(昭和6年)2月16日 - 従二位 1951年(昭和26年)3月10日 - 従一位 1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章 1911年(明治44年)8月24日 - 勲二等瑞宝章 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章 1916年(大正5年)8月19日 - 勲一等瑞宝章 1920年(大正9年)9月7日 - 男爵・勲一等旭日大綬章 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章 1931年(昭和6年)12月12日 - 旭日桐花大綬章 1934年(昭和9年)4月29日 - 昭和六年乃至九年事変従軍記章 1940年(昭和15年)
8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1914年(大正3年)6月18日 - イタリア王国:サンモーリスエラザル第二等勲章 1915年(大正4年)11月12日 - オランダ王国:オランジュナッソー第一等勲章(英語版) 1918年(大正7年)7月3日 - イギリス帝国:ブリティッシュエムパイアー第二等勲章 1925年(大正14年)7月11日 - ベルギー王国:レオポール勲章(英語版)グランクロア 1926年(大正15年)8月24日 - ペルー共和国:ソレイユ勲章(英語版)グランクロア 1927年(昭和2年)4月1日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グランクロア 1931年(昭和6年)
12月24日 - エチオピア帝国:メネリック第二世勲章グランクロア 1934年(昭和9年)3月1日 - 満洲帝国:建国功労章 「幣原」という語彙は欧米人、とくに英語圏の人間にとっては発音しづらいものであったらしく、或る日、幣原は外国人記者から英語で次の様な質問をされた。 関東大震災後、被害を受けた駿河台の住居から駒込の六義園へ引っ越した。引越しの際焼け残った荷物を運ぶ馬車が川に転落、文字通り丸裸の憂き目にあったという。 幣原は書道や文章に優れていることで外務省内には知られており、幣原が外務大臣だったときに次官を務めていた吉田茂は、省内の文書が次官の決裁後に大臣である幣原の下に届けられると、幣原が文面を全て校正してから決裁をすることを知って、「大臣の所に行った文書は書き直されてしまうのだから、大臣の決裁を貰ってからでないと次官の決裁は出せない」と皮肉を述べたところ、この話が幣原に伝わってしまい、暫くの間二人の仲は険悪になったと言われている。だが、東久邇宮内閣総辞職後にマッカーサーから後任総理について尋ねられた時、世間から忘れ去られていた幣原をマッカーサーに推挙したのは吉田であったという。 経歴や行動からクエーカー派クリスチャンであったという説が有力だが判然としていない。 濱口雄幸が立憲民政党の総裁になった際、中学校時代からの友人であり懇意であった幣原に副総裁になるよう要請した。そのころ幣原は外務大臣は政党と関係を持つべきでないとする信条を持っており、拒絶したという。 血盟団事件、二・二六事件の両事件で襲撃の標的となっていたが、病臥中であったことや事前に警官の警告があったことにより事なきを得た。 満洲事変当時のアメリカ国務長官ヘンリー・スティムソンは、回顧録にて「日本の軍部に対抗して幣原を支持せねばならぬ」と評価していた。 1950年11月20日、国際ケア機構による支援物資「ケア物資」が10万個に達したことを記念し、10万個目の小包を衆議院議長として受け取った。記念式典に出席した連合国軍最高司令官総司令部関係者に対し、英語で感謝の意を伝えるスピーチを行っている。 幣原喜重郎は幣原九市郎の婿養子である幣原新治郎の次男として生まれた。新治郎の長男、つまり喜重郎の兄に当たる幣原坦(幼名・徳治郎)は東洋史学者で教育行政官。坦の次女・澄江は農芸化学者・古在由直の長男・由正に嫁いだ。由正・澄江夫妻の長男が「コザイの式」で知られている天文学者・古在由秀であり、由正の弟、すなわち由直の次男がマルクス主義哲学者の古在由重である。古在由秀は最後の東京天文台(国立天文台の前身)台長および国立天文台の初代台長を務め「星の手帖」(既に廃刊)の編集委員としても知られており、2009年(平成21年)には文化功労者に選ばれている。また坦の孫に当たる幣原廣は弁護士で、古在由秀の従弟に当たる。第二東京弁護士会所属であり、副会長経験あり。多数の委員会活動に関与しているため、弁護士会では「多重会務者」などと呼ばれている。 幣原喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女。したがって喜重郎は加藤高明(春路夫人が弥太郎の長女)や岩崎久弥(弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)、木内重四郎(磯路夫人が弥太郎の次女)らの義弟に当たる。ただし春路・久弥・磯路の3人は弥太郎の正妻・喜勢が産んだのに対し雅子は妾腹の出である。したがって雅子は春路・久弥・磯路の異母妹に当たる。 喜重郎・雅子夫妻は3人の男子をもうけた。長男・道太郎は元獨協大学英語学科教授で幣原の著書「外交50年」の解説をした(長男隆太郎(1938年9月16日生)と次男章二(1940/9/30生と長女・倶子(1940/9/30生)がいて隆太郎には長男・愼一郎(1971/7/30生)と二男・幸二(1979生)がいる)、次男・重雄は元三菱製紙勤務、三男・平三は夭折。長男は改憲論者であった。なお幣原内閣で大蔵大臣を務めた渋沢敬三も磯路の婿に当たる姻戚である。渋沢敬三は渋沢栄一の孫に当たり、日銀総裁や大蔵大臣を務める傍ら、日本における民俗学の発展に多大な貢献をした学者でもある。また、1947年、岩崎家との縁から、財団法人東洋文庫の理事長に就任し、三菱財閥解体を受けて運営危機に陥った同文庫を翌年に国立国会図書館支部として維持させることに成功した。戦前より続く日本の東洋学研究の中心であった同文庫を解散の危機から救ったその功績は今日少なからず評価されている。 祖父・幣原九市郎(1806-1878) ‐ 河内国門真村(現・門真市)の豪農。幣原家はもともと石清水八幡宮に捧げる御幣を作っていたと言われる。 父・幣原新治郎(1847-1921) ‐ 九市郎の長女・静の夫。門真村初代助役。旧姓・市川。実家は農家。 兄・幣原坦(1870-1953) ‐ 台北帝国大学初代総長。外孫に古在由秀。 妹・幣原節(1884年生) ‐ 大阪府初の女医(産婦人科) 妻・幣原雅子(1881-1956) ‐ 岩崎弥太郎の四女(庶子)。 長男・幣原道太郎(1903年生) ‐ 国文学者。東京帝国大学卒。駒澤大学教授、獨協大学名誉教授。先妻・光子は西郷寅太郎の娘(1954年離婚)。光子の姪(西郷吉之助の娘)の夫に二信組事件の安全信用組合理事長・鈴木紳介。長女・倶子は今西清兵衛商店の卸売「泉屋」今西健策に嫁いだ。 次男・幣原重雄(1904年生) ‐ 三菱製紙勤務。東大法学部卒。岳父に野村財閥一族の野村元五郎 『外交五十年』中公文庫。ISBN 4-122013-91-7。 『幣原喜重郎 - 外交五十年 人間の記録.64』、日本図書センター。ISBN 4-820543-09-1。 『小説吉田学校』(1983年、演:三津田健) 『日本独立』(2020年、演:石橋蓮司) 『日本の戦後』第2集「サンルームの二時間 憲法GHQ案の衝撃」(1977年、NHK、演:中村伸郎) 『ポーツマスの旗』(1981年、NHK、演:和田周) 『憲法はまだか』(1996年、NHK、演:神山繁) 『白洲次郎』(2009年、NHK、演:石橋雅史) 『負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜』(2012年9月 - 10月、NHK、演:中村敦夫) 『青天を衝け』(2021年、NHK大河ドラマ、演:近藤芳正) 田中義一 - 平和協調路線の「幣原外交」は田中の対外政策と対局に位置づけられる。 三島由紀夫 - 幣原について、「世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻は看過されてゐる」、「不忠の臣」と述べ批判している。 岩崎家 - 三菱の創業者一族。幣原家と姻戚関係にある。 ^ 大平駒槌は幣原と語った日から後、娘の羽室ミチ子に語って聞かせた。ミチ子はまず銀行手帳に書き留めたがこれは1946年6・7月頃に盗難され、1955年になって大学ノートに書いて復元した。1959年には憲法調査会の依頼で再度書き直している。憲法調査会版では「軍備全廃」について幣原が提案していたことになっているが、大学ノート版にはそれがないなどの違いがある ^ 幣原の秘書である岸倉松によると、平野は公設・私設のいずれの秘書でもなく、幣原の元を訪れることもそれほど多くはなかったという ^ 『幣原喜重郎』 - コトバンク ^ 門真ゆかりの人々 幣原喜重郎(しではら きじゅうろう) 門真市 ^ “幣原喜重郎 | 三菱グループサイト”. www.mitsubishi.com. 2022年3月5日閲覧。 ^ 『官報』第1166号、昭和5年11月17日、p.284、『官報』第1256号、昭和6年3月10日、p.194 ^ 井上寿一『政友会と民政党』2012年、中公新書、p.114 ^ 五百籏頭真 1997, p. 108 ^ 『官報』号外、昭和20年10月9日 ^ 吉田茂が固辞、幣原にお鉢が回る(昭和20年10月7日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p239 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、346頁。ISBN 4-00-022512-X。 ^ 「幣原首相に人権確保の五大改革要求」1945年(昭和20年)10月13日 朝日新聞(昭和ニュース事典編集委員会編『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』p357 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 中村克明 2021, p. 155. ^ 種稲秀司 2019, p. 29. ^ 種稲秀司 2023, p. 39. ^ 種稲秀司 2019, p. 38. ^ 西修 2004, p. 7・18. ^ 種稲秀司 2023, p. 25-26. ^ 細谷雄一 (2018年10月15日). “憲法9条「戦争放棄条項」は、誰が作ったのか”. 東洋経済オンライン. 2024年5月9日閲覧。 ^ 種稲秀司 2023, p. 33-34. ^ 種稲秀司 2019, p. 37. ^ 筒井清忠. “近代日本外交史の研究を躍進させた優れた成果”. 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岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』PHP文庫 2003年。ISBN 456-9579930 服部龍二『幣原喜重郎 外交と民主主義』有斐閣、2006年/増補版:吉田書店、2017年。ISBN 490-5497523 種稲秀司『幣原喜重郎』吉川弘文館「人物叢書」2021年。ISBN 464-2053018 熊本史雄『幣原喜重郎 国際協調の外政家から占領期の首相へ』中公新書 2021年。ISBN 412-1026381
幣原喜重郎関係文書(幣原平和文庫) | 国立国会図書館 憲政資料室 歴代総理の写真と経歴 第44代 首相官邸サイト 『幣原喜重郎』 - コトバンク 表 話 編 歴 伊藤博文 黑田淸隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 中島信行 星亨 楠本正隆 鳩山和夫 片岡健吉 河野広中 松田正久 杉田定一 長谷場純孝 大岡育造 長谷場純孝 奥繁三郎 島田三郎 大岡育造 奥繁三郎 粕谷義三 森田茂 元田肇 川原茂輔 堀切善兵衛 藤沢幾之輔 中村啓次郎 秋田清 浜田国松 富田幸次郎 小山松寿 田子一民 岡田忠彦 島田俊雄 樋貝詮三 山崎猛 松岡駒吉 幣原喜重郎 林讓治 大野伴睦 堤康次郎 松永東 益谷秀次 星島二郎 加藤鐐五郎 清瀬一郎 船田中 山口喜久一郎 綾部健太郎 石井光次郎 松田竹千代 船田中 中村梅吉 前尾繁三郎 保利茂 灘尾弘吉 福田一 福永健司 坂田道太 原健三郎 田村元 櫻内義雄 土井たか子 伊藤宗一郎 綿貫民輔 河野洋平 横路孝弘 伊吹文明 町村信孝 大島理森 細田博之 額賀福志郎 議院 衆議院 貴族院 参議院 表 話 編 歴 幣原喜重郎 井上良二 松原喜之次 原田憲 横田甚太郎 幣原喜重郎 浅香忠雄 井上良二 井上良二 浅香忠雄 松原喜之次 大川光三 浅香忠雄 井上良二 松原喜之次 原田憲 高碕達之助 松原喜之次 井上良二 浅香忠雄 高碕達之助 浅香忠雄 阪上安太郎 原田憲 松原喜之次 高碕達之助 阪上安太郎 原田憲 高碕達之助 阪上安太郎 原田憲 松原喜之次 岡澤完治 原田憲 阪上安太郎 近江巳記夫 原田憲 近江巳記夫 岡澤完治 阪上安太郎 村上弘 阪上安太郎 原田憲 近江巳記夫 井上一成 原田憲 近江巳記夫 中野寛成 村上弘 近江巳記夫 井上一成 中野寛成 原田憲 井上一成 中野寛成 村上弘 近江巳記夫 中野寛成 原田憲 井上一成 原田憲 井上一成 近江巳記夫 村上弘 中野寛成 井上一成 原田憲 近江巳記夫 菅野悦子 中野寛成 藤村修 近江巳記夫 中野寛成 井上一成 原田憲 表 話 編 歴 森有礼 1870–73(少弁務使→中弁務使→代理公使) 上野景範 1872(弁理公使) 吉田清成 1874–82 寺島宗則 1882–84 九鬼隆一 1884–88 陸奥宗光 1888–90 建野郷三 1891–94 栗野慎一郎 1894–96 星亨 1896–98 小村寿太郎 1898–1900 高平小五郎 1900–06 青木周蔵 1906–08 高平小五郎 1908–09 内田康哉 1909–11 珍田捨巳 1912–16 佐藤愛麿 1916–18 石井菊次郎 1918–19 幣原喜重郎 1919–22 埴原正直 1922–24 松平恆雄 1924–28 出淵勝次 1928–34 斎藤博 1934–39 堀内謙介 1938–40 野村吉三郎 1941 来栖三郎 1941 (閉 鎖 1941–52) 武内龍次 1951–52 武内龍次臨時代理大使 1952 新木栄吉 1952–53 井口貞夫 1954–56 谷正之 1956–57 朝海浩一郎 1957–63 武内龍次 1963–67 下田武三 1967–70 牛場信彦 1970–73 安川壮 1973–75 東郷文彦 1975–80 大河原良雄 1980–85 松永信雄 1985–89 村田良平 1989–92 栗山尚一 1992–95 斎藤邦彦 1995–99 柳井俊二 1999–2001 加藤良三 2001–08 藤崎一郎 2008–12 佐々江賢一郎 2012–18 杉山晋輔 2018–2021 冨田浩司 2021–2023 山田重夫 2023–現任 表 話 編 歴 青木周蔵1886-1889 岡部長職1889-1891 林董1891-1895 原敬1895-1896 小村寿太郎1896-1898 鳩山和夫1898 都筑馨六1898-1899 高平小五郎1899-1900 高平小五郎1900 浅田徳則1900 内田康哉1900-1901 珍田捨巳1901-1903 珍田捨巳1903-1906 内田康哉1906-1907 珍田捨巳1907-1908 石井菊次郎1908-1912 倉知鉄吉1912-1913 松井慶四郎1913-1915 幣原喜重郎1915-1919 埴原正直1919-1922 田中都吉1922-1923 松平恆雄1923-1924 出淵勝次1924-1928 吉田茂1928-1930 永井松三1930-1932 有田八郎1932-1933 重光葵1933-1936 堀内謙介1936-1938 沢田廉三1938-1939 谷正之1939-1940 松宮順1940 心得 大橋忠一1940 心得 大橋忠一1940-1941 山本熊一1941 心得 天羽英二1941 西春彦1941-1942 山本熊一1942 心得 山本熊一1942 松本俊一1942-1944 沢田廉三1944-1945 松本俊一1945 河相達夫1945 田尻愛義1945 松嶋鹿夫1945-1946 寺崎太郎1946-1947 岡崎勝男1947-1948 吉沢清次郎1948 岡崎勝男1948 太田一郎1948-1949 太田一郎1949-1951 井口貞夫1951-1952 渋沢信一1952 奥村勝蔵1952-1955 門脇季光1955-1957 大野勝巳1957-1958 山田久就1958-1960 武内龍次1960-1963 島重信1963-1964 黄田多喜夫1964-1965 下田武三1965-1967 牛場信彦1967-1970 森治樹1970-1972 法眼晋作1972-1974 東郷文彦1974-1975 佐藤正二1975-1977 有田圭輔1977-1979 高島益郎1979-1981 須之部量三1981-1983 松永信雄1983-1985 柳谷謙介1985-1987 村田良平1987-1989 栗山尚一1989-1991 小和田恆1991-1993 斎藤邦彦1993-1995 林貞行1995-1997 柳井俊二1997-1999 川島裕1999-2001 野上義二2001-2002 竹内行夫2002-2005 谷内正太郎2005-2008 薮中三十二2008-2010 佐々江賢一郎2010-2012 河相周夫2012-2013 齋木昭隆2013-2016 杉山晋輔2016-2018 秋葉剛男2018-2021 森健良2021-2023 岡野正敬2023- 表 話 編 歴 柳原前光1873 代理公使(未赴任) 青木周蔵1878-1880 長岡護美1880-1882 桜田親義1881-1885 臨時代理公使 青木周蔵1885 中村博愛1885-1889 弁理公使 棚橋軍次臨時代理公使 高平小五郎1892-1894 弁理公使 赤羽四郎1894-1899 弁理公使 珍田捨巳1899-1900 1900 弁理公使 三橋信方1901-1906 佐藤愛麿1906-1914 幣原喜重郎1914-1915 落合謙太郎1915-1920 田付七太1920-1923 長岡春一1923-1925 松田道一1925-1926 広田弘毅1926-1930 松永直吉1931-1933 斎藤博1933-1934 武富敏彦1934-1936 桑島主計1937-1938 石射猪太郎1938-1940 矢口麓蔵1940臨時代理公使 引揚1940 下田武三1951-1952 下田武三1952臨時代理大使 佐藤正二1952臨時代理大使 田付景一1952臨時代理大使 岡本季正1952-1956 大江晃1956-1959 宮崎章1959-1963 伊関佑二郎1963-1966 後宮虎郎1966-1968 藤崎萬里1968-1972 須之部量三1972-1973 広田稹1974-1975 高島益郎1975-1977 内田宏1977-1981 中島信之1981-1985 秋山光路1985-1988 大鷹正1988-1990 藤田公郎1990-1992 有馬龍夫1992-1994 佐藤行雄1994-1996 池田維1996-2001 東郷和彦2001-2002 小池寛治2002-2004 小町恭士2004-2007 渋谷実2007-2010 肥塚隆2010-2012 長嶺安政2012-2013 辻優2013-2016 猪俣弘司2016-2019 堀之内秀久2019-2023 南博2022- 表 話 編 歴 在オランダ弁理公使/公使が兼轄 長岡護美1880-1882 桜田親義1881-1885 臨時代理公使 青木周蔵1885 中村博愛1885-1889 弁理公使 棚橋軍次 臨時代理公使 高平小五郎1892-1894 弁理公使 赤羽四郎1894-1898 弁理公使 珍田捨巳1899-1900 弁理公使 / 1900 三橋信方1901-1906 佐藤愛麿1907-1914 幣原喜重郎1914-1915 落合謙太郎1916-1917 在スウェーデン公使が兼轄 内田定槌1917-1920 日置益1918-1920 畑良太郎1920-1924 永井松三1924-1928 武者小路公共1929-1933 白鳥敏夫1933-1936 栗山茂1937-1939 岡本季正1942-1945 断交 結城司郎次1952-1954 大江晃1954-1957 黄田多喜夫1957-1958 昇格 黄田多喜夫1958 田付景一1958-1961 近藤晋一1961-1964 高木広一1964-1965 小田部謙一1966-1968 小川平四郎1968-1972 人見宏1972-1975 大和田渉1975-1977 橘正忠1977-1980 高橋展子1980-1983 賀陽治憲1983-1986 溝口道郎1986-1989 松田慶文1989-1993 苅田吉夫1993-1995 須藤隆也1995-1997 折田正樹1997-2001 内藤昌平2001-2003 小川郷太郎2003-2006 岡田眞樹2006-2008 近藤誠一2008-2010 佐野利男2010-2013 末井誠史2013-2016 鈴木敏郎2016-2019 宮川学2019-2022 宇山秀樹2022- 表 話 編 歴 開設 近藤眞鋤領事1880-1882 宮本羆領事代理1882 副田節領事1882 前田献吉総領事1882-1887 室田義文領事1887-1890 立田革領事1890-1892 室田義文総領事1892-1894 加藤増雄一等領事1894-1896 秋月左都夫一等領事1896 伊集院彦吉一等領事1896-1899 能勢辰五郎領事1899-1901 幣原喜重郎領事1901-1904 有吉明領事1904-1905 有吉明1905-1906 松井茂1906-1907 亀山理平太1907-1910 閉鎖(大日本帝国慶尚南道釜山府へ移行) 再開1966 神原富比古1966-1967 森純造1967-1972 田村坂雄1972-1976 浅田泰三1976-1978 福田孝三郎1978-1981 浜中季一1981-1983 吉田喜久夫1983-1984 安藤浩1984-1986 沼田順1986-1989 打尾茂1989-1991 川上俊之1991-1993 町田貢1993-1996 久一昌三1996-1998 堀泰三1998-2002 阿部孝哉2002-2006 民辻秀逸2006-2011 余田幸夫2011-2013 松井貞夫2013-2016 森本康敬2016-2017 道上尚史2017-2019 丸山浩平2019-2022 大塚剛2022- FAST ISNI VIAF WorldCat ノルウェー フランス BnF data カタルーニャ ドイツ イスラエル アメリカ 日本 オーストラリア 韓国 オランダ ポーランド CiNii Books CiNii Research Trove(オーストラリア)
IdRef 幣原喜重郎 日本の内閣総理大臣 昭和時代戦前の閣僚 大正時代の閣僚 日本の外務大臣 衆議院議長 自由党(日本 1950-1955)の衆議院議員 大阪府選出の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 在職中に死去した衆議院議員 貴族院勅選議員 大正時代の貴族院議員 昭和時代の貴族院議員 在アメリカ合衆国日本大使 戦前日本の大使 大正日本の公使 シベリア出兵の人物 二八会 日本の男爵 東洋文庫の人物 従一位受位者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等瑞宝章受章者 勲二等瑞宝章受章者 レジオンドヌール勲章グランクロワ受章者 法学士取得者 証人喚問された人物 東京大学出身の人物 旧制第三高等学校出身の人物 大阪府出身の人物 1872年生 1951年没 加藤高明 染井霊園に埋葬されている人物 プロジェクト人物伝項目 2024/11/21 17:04更新
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shidehara kijuurou
幣原喜重郎と同じ誕生日9月13日生まれ、同じ大阪出身の人
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