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尾崎秀実の情報 (おざきほつみ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

尾崎秀実の情報(おざきほつみ) 社会運動家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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尾崎 秀実さんについて調べます

■名前・氏名
尾崎 秀実
(読み:おざき ほつみ)
■職業
社会運動家
■尾崎秀実の誕生日・生年月日
1901年4月29日
丑年(うし年)、牡牛座(おうし座)
■出身地・都道府県
東京出身

尾崎秀実と同じ1901年生まれの有名人・芸能人

尾崎秀実と同じ4月29日生まれの有名人・芸能人

尾崎秀実と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


尾崎秀実と関係のある人

和田耕作: 和田は昭和研究会に入会して笠信太郎、佐々弘雄、尾崎秀実らとの交友を深めている。


笠信太郎: 昭和研究会には稲葉秀三や勝間田清一ら企画院の革新官僚とソ連スパイ尾崎秀実をはじめとする転向左翼ら所謂「国体の衣を着けたる共産主義者(近衛上奏文)が結集しており、彼らはマルクス主義に依拠して戦争を利用する上からの国内革新政策の理念的裏付けを行い、国家総動員法の発動を推進し、近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推進力となった。


近衛文麿: 1928年(昭和3年)6月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締と国際共産主義運動の調査研究に従事した後、衆議院議員となり中野正剛と共に東條内閣倒閣運動に加わった三田村武夫によれば、1941年(昭和16年)10月15日に検挙された尾崎秀実と特別の関係にあった陸軍軍務局関係者は尾崎の検挙に反対であり、特に新聞記者として駐日ドイツ大使オイゲン・オットの信頼を得ることに成功していたリヒャルト・ゾルゲとの関係において、陸軍は捜査打ち切りを要求したが、第3次近衛内閣の総辞職後に首相に就任した東条英機は、尾崎の取り調べによって彼と近衞との密接な関係が浮かび出てきたことを知り、この事件によって一挙に近衞を抹殺することを考え、逆に徹底的な調査を命じた。


白洲次郎: またこの頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。


宮城与徳: ゾルゲ事件でともに検挙されたマックス・クラウゼンは「宮城は丸っきり(引用者注:尾崎秀実とは)反対な人間で非常に単純な善い人である。


宮城与徳: 1934年5月には、ゾルゲから尾崎秀実(当時大阪朝日新聞在職)と接触を取ることを命じられ、その仲介により、ゾルゲは翌月に奈良市で尾崎と再会している。


尾崎秀樹: なお、同じ親族でも、尾崎秀実の妻は伊藤が「スパイ」として日本共産党を除名された後も伊藤端緒説やスパイ説に同意せず、尾崎秀樹とは対立した立場にいた。伊藤は生前の書簡で、尾崎秀真が尾崎秀実から絶縁されたのちに尾崎秀樹が生まれ、秀樹と秀実との間には文通すらなかったと記している。また、尾崎秀樹が「伊藤がゾルゲ事件研究会を解散させた」と主張している点については、この集まりに尾崎秀実の他の近親者や知人が「ハナをつまみ」寄りつかずに潰れたことをそう言っているのだと述べている。


宮城与徳: 逮捕が政界や国際関係に影響を与えかねないゾルゲや尾崎秀実を避けて、そうした点での懸念の薄い北林や宮城が、特高から検挙の糸口に選ばれたのである。


汪兆銘: 駐華ドイツ大使オスカー・トラウトマンを中心とするトラウトマン工作の失敗を受けた近衛内閣は、尾崎秀実による工作や軍部の強硬論の影響もあって、1938年1月に「今後は蔣介石の国民政府を交渉の相手にしない」という趣旨の近衛声明(第一次)を発表した。


リヒャルト=ゾルゲ: 上海におけるゾルゲ諜報団の日本人は、尾崎秀実、鬼頭銀一、川合貞吉、水野成、山上正義、船越寿雄であった。


西園寺公一: このとき、牛場から引き合わされて公一と同じ船室に入ったのが牛場の第一高等学校時代の同級生で、ゾルゲ事件で同じく逮捕され有罪となった尾崎秀実だった。


東條英機: また近衛の辞任は、ゾルゲ事件により辞任日の14日に近衛内閣嘱託の尾崎秀実や西園寺公一らが検挙され、事前の取り調べによって近衞とこの事件との密接な関係が浮かび出てきたことで、いかに巨大な影響を国政に与えるかを考慮し、近衛が首相辞職という道を選んだという意見もある。


三木清: 三木の通夜の席で、三木や尾崎秀実、戸坂潤と親交のあった松本慎一が「政治犯即時釈放を連合軍に嘆願しよう」と提案したが、その提案が唐突過ぎ、また場所柄もふさわしくなかったために、用意した嘆願書の草案を取り出すことができなかった。


佐々淳行: またゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実と父の弘雄は朝日新聞の同僚記者として親交があり、ともに近衛文麿のブレーンとして昭和研究会、朝食会に参加していた。


風見章: 尾崎秀実をマルクス主義の殉教者と評し、「わが尾崎が、絞首台にはこべる足音は、天皇制政権にむかって、弔いの鐘の響きであり、同時に、新しい時代へと、この民族を導くべき進軍ラッパではなかったか、どうか。


近衛文麿: 後にゾルゲ事件において絞首刑に処せられる尾崎秀実もメンバーの一人であった。


汪兆銘: これに対して、支那問題の権威として盛んに「東亜新秩序」を美化し、東亜協同体論を提唱していた朝日新聞出身のソ連スパイ尾崎秀実は、『公論』昭和14年11月号に「汪精衛政権の基礎」を発表、日本の当局者に向かって「汪精衛運動が支那再建の唯一の方策であり日本としては全力を挙げてこれを守る以外に良策なきこと、あらゆる問題の中で何が一番大切かといえばともかくも多くの困難なる条件によって発展の可能性を縮小されている汪精衛政権の誕生と発展とをはからなければならない」ことを力説した。


リヒャルト=ゾルゲ: そこでゾルゲは、当時大阪朝日新聞に勤務していた尾崎秀実をその任に充てることとし、1934年春に奈良の猿沢池で尾崎と再会、尾崎はゾルゲの依頼を受け入れた。


武藤章: 尾崎秀実と親しかった。


尾崎秀樹: ゾルゲ事件の尾崎秀実は異母兄。


リヒャルト=ゾルゲ: 朝日新聞記者だった尾崎秀実とは、アメリカ共産党から派遣された鬼頭銀一から紹介を受けて知り合った。


佐々弘雄: 1933年近衛文麿のブレーントラスト昭和研究会に参加して、同じ朝日新聞論説委員の笠信太郎、記者の尾崎秀実らとともに中心メンバーの一人となり、また近衛を囲む「朝食会(朝飯会)」の主要メンバーとして近衛新体制運動の政治理論面を担当した。


尾崎秀樹: 1959年に『生きているユダ』を刊行して以来、尾崎は特別高等警察の資料やチャールズ・ウィロビーによる事件の報告書、川合貞吉の証言などをベースに、伊藤律が兄の尾崎秀実を裏切って警察の手先となり、事件の検挙を招いた「ユダ」であると非難する立場を取った。


緒方竹虎: 近衛文麿のブレーン組織である昭和研究会には、緒方の承認の下、前田多門、佐々弘雄、笠信太郎、尾崎秀実ら中堅・若手論説委員や記者が参加しており、緒方自身も第2次近衛内閣期の新体制準備委員として新体制運動に積極的に関与した。しかしその中から、緒方が可愛がっていた尾崎秀実が1941年(昭和16年)10月にゾルゲ事件で逮捕されたことは、緒方派に大きな打撃を与えた。


木下順二: 解説尾崎秀実


三輪寿壮: その後は広義国防を中心とする政治活動に加え、河合栄治郎の公判の弁護を側面から支援し、ゾルゲ事件では尾崎秀実の親族の依頼を受け、官選弁護人の選任を務めている。


笠信太郎: 同じく朝日新聞社論説委員の佐々弘雄や記者の尾崎秀実らとともに近衛文麿のブレーン組織「昭和研究会」に参加してその中心メンバーの一人となり、近衛を取り巻く朝食会(水曜会)のメンバーともなった。


竹内謙: 祖父・竹内金太郎は尾崎秀実、阿部定らの弁護にあたった刑事弁護士。


和田耕作: 朝食会には犬養健、尾崎秀実、帆足計などが出席して、日独伊三国同盟問題、南進問題、新国民組織問題などが議論されており、和田は佐々弘雄・江藤夏雄などと共に活動していた。


近衛文麿: ソ連によるスパイ事件、いわゆるゾルゲ事件に連座していた近衛内閣嘱託の尾崎秀実と西園寺公一が10月14日に検挙された。


尾崎秀実の情報まとめ

もしもしロボ

尾崎 秀実(おざき ほつみ)さんの誕生日は1901年4月29日です。東京出身の社会運動家のようです。

もしもしロボ

評価、家族などについてまとめました。事件、現在、結婚、退社、家族、卒業に関する情報もありますね。

尾崎秀実のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

尾崎 秀実(おざき ほつみ、1901年(明治34年)4月29日 - 1944年(昭和19年)11月7日)は日本のジャーナリスト・評論家。朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。

共産主義者であり、ソ連のスパイ・扇動者としても活動した。

近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。

共産主義者であり、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加。最終的にゾルゲ事件(「ゾルゲ゠尾崎事件」とも呼ばれる)として1941年(昭和16年)に検挙され、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された。共産主義者としての活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」として、逮捕されるまで正体が知られることはなかった。

筆名として白川次郎、草野源吉を用いた。

報知新聞記者の父・秀真(ほつま)の子として現在の東京都港区で生まれた。5ヵ月後、父が台湾総督府の後藤新平の招きを受け、台湾日日新報社漢文部主筆として赴任したことから、日本統治時代の台湾で育ち、台北第一中学校(現・台北市立建国高級中学)に進学。父方の尾崎家は、岐阜県加茂郡白川町の旧・苗木藩領にあり、明治時代初期に行われた廃仏毀釈により仏教が廃されて神道のみとなっている地域であった。

コミンテルンの活動家となったきっかけは幼少の頃台湾に住んでいたときに感じた差別であったが、若かりし頃には運動に携わらなかった。たとえば、第一高等学校時代に森戸事件が起きたが、特に社会運動に参加はしていない。しかし、東京帝国大学法学部在学中に起こった「大正十二年夏の第一次共産党検挙事件」・「農民運動者の検挙事件」・「大杉栄とその妻子の殺害事件(甘粕事件)」などから刺激を受け、社会主義を開拓していくことに英雄主義的な使命を感じるようになっていった。マルクスの『資本論』をはじめ、レーニンの『帝国主義論』、『国家と革命』を読むようになった。なお、中国問題に着目するようになったのはカール・ウィットフォーゲルの『目覚めつつある支那』を読んでからである。東大大学院に進学し、大森義太郎経済学部教授によるブハーリンの「史的唯物論」の研究会に参加、共産主義の研究に没頭することになり、完全な共産主義者となった。

1926年(大正15年)5月、東京の朝日新聞社に入社、社会部に籍を置く。同期入社にはのちにゾルゲ事件で検挙された田中慎次郎がいた。この頃は「草野源吉」の偽名で社会主義の研究会や関東出版組合などに所属する。

1927年(昭和2年)10月から翌年まで大阪朝日新聞の支那部に籍を置く。この大阪赴任中、一高の先輩で日本共産党員の冬野猛夫に会い、影響を受ける。上海に渡る直前に、一高、東京帝大で同期でドイツ帰りの羽仁五郎から現地の新聞の研究・分析の重要性について教わる。

この頃、兄・秀波(ほなみ)の妻だった英子と結婚

その後、特派員として同年11月に大阪朝日新聞社上海支局に転勤し、英語とドイツ語に堪能な尾崎は、太田宇之助支局長のもと外交方面を受け持つことになる。上海滞在中、内山書店に通い、店主の内山完造や、そこに出入りする郭沫若や魯迅、中国左翼作家連盟の夏衍と交際する。また中国共産党とも交流した。

1928年(昭和3年)11月、イレーネ・ワイテマイヤーが経営するツァイトガイスト(ドイツ語で「時代精神」の意)書店でアグネス・スメドレーに会い、コミンテルン本部機関に加わり諜報活動に間接的に協力するようになる。さらに、常盤亭という日本料理店において、スメドレーの紹介で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンスン」ことリヒャルト・ゾルゲと出会う。彼を通じてモスクワへ渡った南京政府の動向についてのレポートが高く評価され、南京路にある中華料理店の杏花楼で、ゾルゲから自分はコミンテルンの一員であると告げられ、協力を求められ、承諾する。実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸という運送会社に潜り込んでいた鬼頭銀一である。

1931年(昭和6年)春に、「日支闘争同盟」の会合に出席した際、満鉄調査部の上海満鉄公処の小松重雄の紹介で、川合貞吉と出会う。関東軍の動向を探るため、同年6月に川合を満州に派遣する。

1932年(昭和7年)2月末に大阪本社から帰国命令を受けて日本に戻り、外報部に勤務。同年5月末に「南龍一」こと宮城与徳が本社に訪ねてきて、彼を介して奈良において6月初旬にゾルゲと再会、彼から諜報活動に従事するよう要請されて、全面的な支援を約束、ゾルゲ諜報団の一員として本格的に活動するようになる。暗号名は「オットー」である。また、鬼頭銀一と神戸や大阪でたびたび会っていた。

1934年(昭和9年)10月、東京朝日新聞社に新設された東亜問題調査会勤務となり東京朝日新聞に転じる。

1936年(昭和10年)、カリフォルニアのヨセミテで開催された太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参加、西園寺公一と出会い親友となる。このとき西園寺公一の通訳であった牛場友彦とも面識を得る。この会議のパーティーに共に出席したゾルゲをオランダ領東インド代表のオランダ人から紹介され、初めてその本名を知ったという(この時まで尾崎にとってゾルゲは「ジョンスン」であった)。

翌1937年(昭和12年)4月から近衛文麿側近の後藤隆之助が主宰する政策研究団体である昭和研究会に佐々弘雄の紹介で参加。7月、東京朝日を退社し、総理大臣秘書官の牛場友彦の斡旋で第1次近衛内閣の内閣嘱託となる。同時に、近衛主催の政治勉強会「朝食会」に参加、この関係は、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続いた。1939年(昭和14年)6月1日、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務する。

評論家としては、中国問題に関して『朝日新聞』『中央公論』『改造』で論陣を張った。 1937年(昭和12年)7月に盧溝橋事件(支那事変)が起こると、『中央公論』9月号で「南京政府論」を発表し、蔣介石の国民政府は「半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョワ政権」であり、「軍閥政治」であるとして酷評し、これにこだわるべきでないと主張した。また、ソ連による中ソ不可侵条約締結と在華ソビエト軍事顧問団やソ連空軍志願隊の派遣に前後し、9月23日付の『改造』臨時増刊号でも、局地的解決も不拡大方針もまったく意味をなさないとして講和・不拡大方針に反対、日中戦争拡大方針を主張した(コミンテルン指令1937年)。11月号では「敗北支那の進路」を発表、「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく」として中国の共産化を予見した。

こうした主張は、当時「暴支膺懲」の標語のもとで盛り上がった反中感情を扇動し、翌1938年(昭和13年)1月16日の第一次近衛声明に影響を与え早期和平を目指したトラウトマン工作も打ち切られた。同年『改造』5月号で「長期抗戦の行方」を発表し、日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ、他の方法は絶対に考えられない、日本が中国と始めたこの民族戦争の結末をつけるためには、軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかないと主張、また『中央公論』6月号で発表した「長期戦下の諸問題」でも中国との提携が絶対に必要だとの意見に反対し、敵対勢力が存在する限り、これを完全に打倒するしかない、と主張して、講和条約の締結に反対、長期戦もやむをえずとして徹底抗戦を説いた(軍国主義)。さらに、蒋介石政権との講和を完全に断つため、南京に汪兆銘を首班とする新政権の樹立や東亜新秩序建設の主張も行った。ただし、尾崎は当時の蒋介石政権(国民政府)の中国と、中国共産党が指導する(後の)中国のあり方を区別しており、前者によって中国が統一されることを好ましく思わず、後者が確立して(革命後の)日本と提携することを望んでいたと考えられる(尾崎秀実の謀略工作)。 一方、アメリカ国内においてもソ連による反日工作が行われており、後の対日政策に影響を与えた(「第7回コミンテルン世界大会」、『米国共産党調書』および「ヴェノナ文書」)。これら一連の動きは、日中の講和を阻害し、日本軍を中国に張り付け国力の消耗を狙ったものだった(敗戦革命論)。

尾崎はゾルゲに日本政府の南北併進論と独ソに対する中立の決定などの情報(国家機密)を流していたが、尾崎が政治活動において第1次近衛内閣の総理大臣秘書官牛場友彦の推薦で内閣嘱託となり「朝食会」に参加し、昭和研究会などに参加したことから、日本政府の動向について情報を得て、尾崎の助言・提言という形でその政策について影響を与えることができる立場にあった。さらに尾崎の知人で外務省嘱託だった西園寺公一が海軍軍令部の藤井茂と親交があったことから、近衛文麿の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を保ち軍部の内情を得ることが可能だった。

また、尾崎が参加した昭和研究会は国策の理念的裏づけを行い、大政翼賛会結成を推進して日本の政治形態を一国一党の軍部・官僚による独裁組織に誘導しているが、昭和研究会のメンバーが同会から発展する形で独自に結成した「昭和塾」のメンバーは尾崎ら共産主義者と企画院グループの「革新官僚」によって構成され、理念的裏づけはことごとくマルクス主義を基にしていた。

さらに、ゾルゲの手記によれば、ゾルゲ諜報団は独ソ開戦で日本の対ソ参戦の可能性が高まった1941年には尾崎の提言により対外政策を南進論(南部仏印進駐)に転じさせる働きかけを積極的におこなったと述べている(敗戦革命論)。結果、日本は無謀な太平洋戦争を開戦しアメリカと戦い自滅した(「第7回コミンテルン世界大会と人民戦線」)。

1941年(昭和16年)10月15日にゾルゲ事件の首謀者の一人として逮捕された。訊問には積極的に答えたので、28回分の検事・司法警察官訊問調書、また、28回分の予審判事訊問調書などの、膨大な量の資料を遺した。この時拘置所で一緒だった伊藤律は、回想録で恰幅の良かった尾崎がやせ衰えていた事、別件の調査で尾崎に面会した予審判事の小林健治は総白髪になっていたことに驚いたと記している。また、近衛は尾崎の正体を知った際に驚愕し、「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と天皇に謝罪している。

逮捕後の取調べでは、「我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること」と供述している。

1944年(昭和19年)、ロシア革命記念日にあたる11月7日に、国防保安法違反、軍機保護法違反、治安維持法違反により巣鴨拘置所でリヒャルト・ゾルゲと共に絞首刑に処された。

尾崎の墓は多磨霊園にある。また、獄中の尾崎が家族宛に送っていた書簡が戦後にまとめられ『愛情はふる星のごとく』として出版された。

1901年(明治34年)、東京市芝区伊皿子町(現在の東京都港区高輪)で生まれる。幼少の頃は、日本統治下の台湾台北で育ち、臺北第一中學校(現・台北市立建国高級中学)第一部(6年制)に進学。

1922年(大正11年)、第一高等學校文科乙類を卒業し、東京帝國大學法学部(現・東京大学)に入学。

1925年(大正14年)、卒業後、東大大学院に進学し、一年間在籍する。そこで、大森義太郎が指導する唯物論研究会に参加し、共産主義の研究を行った。

1926年(大正15年)、朝日新聞社に入社し、東京朝日新聞に勤務。社内でヨシフ・スターリンの『レーニン主義の諸問題』をテキストとした研究会を開催。

1927年(昭和2年)、大阪朝日新聞に転ずる。

1928年(昭和3年)

    7月、第6回コミンテルン大会とコミンテルン1928年テーゼ。

    11月、上海支局に転勤し特派記者となり、3年余、上海に在住。その間に中国共産党とも交流。アグネス・スメドレーと出会い、コミンテルン本部機関に加わり、諜報活動に間接的に協力するようになる。さらに、リヒャルト・ゾルゲと出会う。同年、

    1931年(昭和6年)、コミンテルン指令1931年。

    1932年(昭和7年)2月、大阪本社に戻り、外報部に勤務。この時期、ゾルゲから諜報組織に勧誘されて参加。

    1934年(昭和9年)10月、東京朝日に転じ、東亜問題調査会に勤務。

    1935年(昭和10年)7月、第7回コミンテルン大会。

    1936年(昭和11年)、太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参加、西園寺公一と出会い親友となり、牛場友彦と会う。

    1937年(昭和12年)、4月から近衛文麿側近の後藤隆之助が主宰する政策研究団体である昭和研究会に佐々弘雄の紹介で参加。

    1938年(昭和13年)7月、東京朝日を退社。第1次近衛内閣の嘱託となり、1939年(昭和14年)1月の内閣総辞職まで勤める。同時に、近衛主催の政治勉強会「朝食会」(朝飯会)のメンバーにもなり、この関係は、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続いた。

    1939年(昭和14年)

      6月1日、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務していた。

      11月、汪兆銘を首班とする新政権の樹立や東亜新秩序建設の主張(謀略工作)も行った。

      1940年(昭和15年)7月22日、第2次近衛内閣発足

      1941年(昭和16年)対外政策を南進論(南部仏印進駐)に転じさせる提言をおこなった。7月18日、第3次近衛内閣発足、第2次近衛内閣を引き継ぎ同年10月18日まで続いた。9月6日の御前会議では、10月上旬までに米国との和平交渉がまとまらない場合、対米英開戦を決定しているが、この件はその開戦を回避するために発足した東條内閣により見直されたため実際の開戦時期は遅くなった。8月、尾崎は関東軍特別演習(いわゆる「関特演」)を視察するため、満州に旅行する。10月15日、ゾルゲ事件の首謀者の1人として逮捕され、改造1941年(昭和16年)11月号「大戦を最後まで戦い抜くために」が尾崎によって公表された最後の戦時論文となった。

      1942年(昭和17年)6月16日、司法省が事件を発表する。

      1943年(昭和18年)9月29日、東京刑事地方裁判所で死刑判決を受ける(一審)。

      1944年(昭和19年)

        4月5日、大審院が上告棄却の判決を下す。

        11月7日、巣鴨拘置所で死刑執行。

        評価

        尾崎の死後、戦後の日本では、尾崎は愛国者か売国奴か、その思想は民族主義か国際主義か、などという点で評価が屡々二分される。

        同時代の経済学者堀江邑一は尾崎の著書『嵐に立つ支那』の書評で、尾崎の中国評論全般を「観察の鋭利と分析の透徹」の点で高く評価した。評論家としての権威・評判は共産主義が抑圧されていた言論状況のもとでも高いものであった。

        秀実の異母弟である尾崎秀樹は幼い頃に兄・秀実が逮捕されて以来スパイの弟と罵られ、家族には脅迫状が送られたという経験を語る。

        尾崎が逮捕された当時の司法大臣でもある政治家風見章は尾崎と親しく、事件発覚の後も尾崎を信頼し続けた。尾崎゠ゾルゲ事件を「卑劣なスパイ事件として片づけてしまうのは間違いであることは、公正な批判家ならばだれでも認めるところであろう」とし、江戸時代に弾圧されたキリスト教徒、徳川幕府の方針に反する勤皇思想を説いたことで処刑された吉田松陰や平野国臣など、歴史の変わり目に犠牲になった人々を引き合いに出し、尾崎の処刑も日本を「あたらしい時代へと、この民族をみちびくべき進軍らっぱではなかったか」と評した。

        鶴見俊輔は尾崎を「国士」と評した。

        家族

        文士・新聞記者で戦前の台湾で活躍していた尾崎秀真(尾崎白水)は父。

        歴史学者(日本近現代史研究者)の今井清一は娘婿にあたる。

        作家・文芸評論家で日本ペンクラブ元・会長の尾崎秀樹は異母弟で以下の関連著作を出した。

          生きているユダ ゾルゲ事件 その戦後への証言(八雲書店 1959年/番町書房 1966年/角川文庫 1976年、改版新編2003年/新人物往来社 1980年/徳間文庫 1986年)

          ゾルゲ事件 尾崎秀実の理想と挫折(中公新書、1963年/中公文庫、1983年)

          立ちどまった時刻 私のうちなる戦後(PHP研究所、1974年、楡出版 1991年)回顧録

          越境者たち―ゾルゲ事件の人びと(文藝春秋、1977年)

          ゾルゲ事件と現代(勁草書房 1982年)

          デザートは死 尾崎秀実の菜譜(集英社 1983年/中公文庫 1998年)

          ゾルゲ事件と中国(勁草書房 1989年)

          上海1930年(岩波新書 1989年)

          歳月 尾崎秀樹の世界(学陽書房 1999年)新編自伝(没後刊)

2024/06/17 07:07更新

ozaki hotsumi


尾崎秀実と同じ誕生日4月29日生まれ、同じ東京出身の人

舟山 久美子(ふなやま くみこ)
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舟山 久美子(ふなやま くみこ、1991年〈平成3年〉4月29日 - )は、日本の女性ファッションモデル、タレント。東京都出身。TRUSTAR所属。愛称はくみっきー。 2008年、17歳の時に渋谷…

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神田 明子(かんだ めいこ)
1984年4月29日生まれの有名人 東京出身

神田 明子(かんだ めいこ、1984年4月29日 - )は、日本の女優、タレント。 東京都出身。昭和音楽芸術学院卒業。卒業後にロンドンへ留学をし、帰国後は演劇を中心に活動。2011年から劇団ドラゴン…

堀内 まり菜(ほりうち まりな)
1998年4月29日生まれの有名人 東京出身

堀内 まり菜(ほりうち まりな、1998年4月29日 - )は、日本の女優、声優、アイドル、モデル。東京都出身。Apollo Bay(アミューズ系列)所属。さくら学院の元メンバー。 人物 小学3年…

和 由布子(かず ゆうこ)
1959年4月29日生まれの有名人 東京出身

和 由布子(かず ゆうこ、1959年〈昭和34年〉4月29日 - )は、日本の元女優。本名:松山 佐知子(旧姓:富屋)。東京都豊島区出身。夫は歌手の五木ひろし。 香蘭女学校卒業。 1981年のミ…

一色 紗英(いっしき さえ)
1977年4月29日生まれの有名人 東京出身

一色 紗英(いっしき さえ、1977年〈昭和52年〉4月29日 - )は、日本の女優、タレント。東京都杉並区出身。ボックスコーポレーション所属。旧姓 : 畠山 紗英(はたけやま さえ)。 …

原元 美紀(はらもと みき)
1969年4月29日生まれの有名人 東京出身

原元美紀オフィシャルウェブサイト 原元 美紀(はらもと みき、1969年4月29日 - )は、日本のフリーアナウンサー・声優およびアナウンサー育成講師である。東京都新宿区出身。血液型:A型。元中部日…

大村 絵美(おおむら えみ)
1977年4月29日生まれの有名人 東京出身

大村 絵美(おおむら えみ、1977年4月29日 - )は、東京と神奈川で活躍しているフリーアナウンサー。 プロフィール オフィスキイワード所属(2010年4月~) 東京都世田谷区出身 血液型:A…

河原木 志穂(かわらぎ しほ)
4月29日生まれの有名人 東京出身

河原木 志穂(かわらぎ しほ、1976年4月29日 - )は、日本の女性声優、歌手、ナレーター。東京都出身。ケンユウオフィス所属。 子供の頃は、可哀想なくらい声が悪く、親戚や祖母に「どうしてこんな…

矢口 雄(やぐち ゆう)
4月29日生まれの有名人 東京出身

矢口 雄(やぐち ゆう、4月29日 - )は、日本の男性声優。ディーカラー所属。以前はオフィス野沢、メディアフォースを経て、現在ディーカラー所属。東京都出身。 きらりん☆レボリューション(2007…

三津田 健(みつだ けん)
1902年4月29日生まれの有名人 東京出身

三津田 健(みつだ けん、1902年〈明治35年〉4月29日 - 1997年〈平成9年〉11月28日)は、日本の俳優。本名は満田 健児(みつだ けんじ)。別名に高須 健児。 文学座創立メンバーの1人…


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尾崎秀実と近い名前の人

尾崎 放哉(おざき ほうさい)
1885年1月20日生まれの有名人 鳥取出身

尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉、1885年〈明治18年〉1月20日 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、日本の俳人。『層雲』の荻原井泉水に師事。種田山頭火らと並…

尾崎 秀樹(おざき ほつき)
1928年11月29日生まれの有名人 東京出身

尾崎 秀樹(おざき ほつき、1928年(昭和3年)11月29日 - 1999年(平成11年)9月21日)は、日本の文芸評論家。ゾルゲ事件の研究や、大衆文学評論に尽くした。 ゾルゲ事件の尾崎秀実は異母…

尾崎 行雄_(野球)(おざき ゆきお)
1944年9月11日生まれの有名人 大阪出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 尾崎 行雄(おざき ゆきお、1944年9月11日 - 2013年6月13日)は、大阪府泉大津市出身のプロ野球選手(投手)。 同姓の…

尾崎 加寿夫(おざき かずお)
1960年3月7日生まれの有名人 東京出身

尾崎 加寿夫(おざき かずお、1960年(昭和35年)3月7日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー解説者。ポジションはフォワード。奥寺康彦に次いで日本人として2人目のサッカー・ブンデスリー…

尾崎 裕(おざき ひろし)
1950年3月11日生まれの有名人 兵庫出身

尾崎 裕(おざき ひろし、1950年(昭和25年)3月11日 - )は、日本の実業家。大阪ガス相談役。 兵庫県宝塚市出身。大阪府立北野高等学校を経て、東京大学工学部卒業後、1972年大阪ガス入社。…

尾崎 由香(おざき ゆか)
1993年5月15日生まれの有名人 東京出身

尾崎 由香(おざき ゆか、1993年5月15日 - )は、日本の声優、女優、歌手、タレント、元子役。東京都出身。研音所属。旧芸名は尾崎 千瑛(おざき ちあき)。 0歳の頃にパンフレットに写ったこと…

尾崎 由衣(おざき ゆい)
1984年2月25日生まれの有名人 東京出身

尾崎 由衣(おざき ゆい、1984年2月25日 - )は、日本の女優。東京都出身。身長158cm、体重42kg、B81cm、W57cm、H82cm、靴のサイズ23.5cm。血液型はA型。明治大学法学部…

尾崎 ななみ(おざき ななみ)
1988年2月17日生まれの有名人 三重出身

尾崎 ななみ(おざき ななみ、1988年2月17日 - )は、日本のファッションモデル、タレントである。ホリ・エージェンシーに所属(2012年退社)。 三重県伊勢市出身。2007年「ミス東京ガール…

尾崎 菜々(おざき なな)
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尾崎 菜々(おざき なな、1982年9月12日 - )は、日本のタレント、元グラビアアイドルである。旧芸名、尾崎 ナナ。相本 あきこ。通称、おざこ。大阪府出身。アーティストボックス、Fang、リップ、…

尾崎 沙也(おざき さや)
1984年1月25日生まれの有名人 神奈川出身

尾崎 沙也(おざき さや、1984年1月25日 - )は、日本の女性タレント、モデル。神奈川県出身。血液型B型。本名:河村 さや。 1997年11月から1998年9月までテレビ東京『おはスタ』のお…

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尾崎恵理(おざき えり、1980年5月19日 - )は、日本の元タレント。1997年から2000年までの約4年間、プロダクション尾木に所属し、活動。大学2年時に、芸能界を引退。 愛知県出身。 名古…

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尾崎 礼香(おざき あやか、Ayaka Ozaki、1990年6月6日 - )は、日本の女優・タレント・グラビアアイドルである。 大阪府出身。 ナインズプロモーション所属。ショーレストラン「美少女戦…

尾崎 亜衣(おざき あい)
1984年2月25日生まれの有名人 東京出身

尾崎 亜衣(おざき あい、1984年2月25日 - )は、日本の女優。東京都出身。身長158cm、体重42kg、B81cm、W57cm、H82cm、靴のサイズ24.5cm。血液型はA型。女優の尾崎由衣…

尾崎 朋美(おざき ともみ)
1981年4月18日生まれの有名人 千葉出身

尾崎 朋美(おざき ともみ、1981年4月18日-)は、フリーアナウンサー、気象予報士。ウェザーマップに所属していた。 愛知県名古屋市 出身。高校生時代はモデルとして、テレビCMや雑誌広告に出演。…

尾崎 千秋(おざき ちあき)
1937年6月2日生まれの有名人 京都出身

尾崎 千秋(おざき ちあき、男性、1937年〈昭和12年〉6月2日 - )は元京都放送・ラジオ大阪アナウンサー・フリーアナウンサー・ラジオパーソナリティー。 京都府京都市出身。1960年同志社大学…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「尾崎秀実」を素材として二次利用しています。

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