西園寺公一の情報(さいおんじきんかず) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
西園寺 公一さんについて調べます
■名前・氏名 |
西園寺公一と関係のある人
尾崎秀実: さらに尾崎の知人で外務省嘱託だった西園寺公一が海軍軍令部の藤井茂と親交があったことから、近衛文麿の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を保ち軍部の内情を得ることが可能だった。 汪兆銘: また、尾崎と同じく近衛文麿の最高政治幕僚にして汪政権樹立工作の主務者であった西園寺公一も、『中央公論』昭和14年十12月号に「汪兆銘への公開状」を発表し、汪兆銘に向ってあくまで愛国者として初志貫徹を貫くよう呼びかけた。 東條英機: また近衛の辞任は、ゾルゲ事件により辞任日の14日に近衛内閣嘱託の尾崎秀実や西園寺公一らが検挙され、事前の取り調べによって近衞とこの事件との密接な関係が浮かび出てきたことで、いかに巨大な影響を国政に与えるかを考慮し、近衛が首相辞職という道を選んだという意見もある。 武者小路公秀: また、西園寺公一とは従弟同士にあたる。 近衛文麿: ソ連によるスパイ事件、いわゆるゾルゲ事件に連座していた近衛内閣嘱託の尾崎秀実と西園寺公一が10月14日に検挙された。 尾崎秀実: 1936年(昭和10年)、カリフォルニアのヨセミテで開催された太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参加、西園寺公一と出会い親友となる。このとき西園寺公一の通訳であった牛場友彦とも面識を得る。 リヒャルト=ゾルゲ: 尾崎は、日本軍の矛先が南北いずれに向かうのかを政権中枢に近い筋から探った(西園寺公一や田中慎次郎が主な情報源だった)。 尾崎秀実: 1936年(昭和11年)、太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参加、西園寺公一と出会い親友となり、牛場友彦と会う。 近衛文麿: 5月には現地日本軍が徐州を占領しており、7月には尾崎秀実・松本重治・犬養健・西園寺公一・影佐禎昭らの工作により、中国国民党左派の有力者である汪兆銘に接近して、国民党から和平派を切り崩す工作を開始し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。 武者小路公共: 参議院議員西園寺公一は義理の甥。 吹越満: スパイ・ゾルゲ(2003年) - 西園寺公一 役 石井桃子: 1933年、犬養家でクリスマスイブに『プー横丁にたった家』の原書"The House at Pooh Corner"(西園寺公一から犬養道子や犬養康彦へのプレゼントだった)と出会い、感銘を受け、道子や康彦や病床の小里文子のためにプーを少しずつ訳し始める。 笠信太郎: 笠は、日本経済の再編成の中で、第三次近衛声明後の我が国の軍事行動は、「治安工作と並行して抗日勢力の徹底的破砕を目指して進められねばならぬ」と主張し、企業が利潤確保の為やむを得ず闇市場に物資を流し闇価格を高騰させ或いは商品の品質や労働者の待遇条件を落とすこと等、政府の物資統制や戦時インフレ抑止政策が発生させる様々な弊害の除去に藉口して、物資のみならず企業の利潤および経営にまで統制の範囲を拡大させる必要性を説いて国家総動員法の発動を推進し、また『中央公論』昭和十四年十一月号「事変処理と欧州大戦」という座談会(出席者は、笠信太郎、和田耕作、平貞蔵、牛場信彦、西園寺公一、聽濤克己、角田順、後藤勇)の中では、公然と自由経済の復活と複数政党政治と言論の自由を否定した。 |
西園寺公一の情報まとめ
西園寺 公一(さいおんじ きんかず)さんの誕生日は1906年11月1日です。神奈川出身の政治家のようです。
事件、卒業、結婚、現在、家族に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1993年に亡くなられているようです。
西園寺公一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)西園寺 公一(さいおんじ きんかず、1906年(明治39年)11月1日 - 1993年(平成5年)4月22日)は、日本の政治家、実業家。参議院議員(1期)、外務省嘱託職員、太平洋問題調査会理事などを歴任した。ゾルゲ事件に連座して逮捕、有罪となり、公爵家を廃嫡となった。 1906年(明治39年)11月1日、西園寺家の嫡男として神奈川県に誕生した。祖父は元老・西園寺公望、父は公望の婿養子となった西園寺八郎(実父は旧長州藩主の毛利元徳)で、母は公望の長女・新子である。 学習院初等科を経て、1924年(大正13年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、朱牟田夏雄(東京大学名誉教授)、春山泰雄(サッカー日本代表)などがいた。 その後、イギリスのオックスフォード大学へ留学し、1930年(昭和5年)に卒業。ここでマルクス主義の洗礼を受ける。 1931年(昭和6年)に日本へ帰国。父・八郎からコネで宮内省入りを勧められたが、「マルクス主義者である」として頑として拒絶。東京帝国大学大学院に在学中、外務省の試験を受けたが、不合格となる。 結果詳細を知らされなかったにもかかわらず「英語は素晴らしくよくできたが、日本式の答案にはまるで不慣れ」と弁明したが、これを真に受けた近衛文麿は「折角きてくれるというのに、なんてもったいないことをするんだろう。」と嘆いた。 その後、近衛のコネを使い外務省嘱託職員を務めていたが、重要な案件に関係できなかったことを不服に思い辞職し、1936年(昭和11年)にはグラフ雑誌『グラフィック』の社長に就任した。 同年7月、アメリカ合衆国カリフォルニアのヨセミテで太平洋問題調査会の第6回大会が開かれることとなり、オックスフォード時代の顔見知りで内閣書記官を務めていた牛場友彦のコネにより日本代表団の書記として渡米。このとき、牛場から引き合わされて公一と同じ船室に入ったのが牛場の第一高等学校時代の同級生で、ゾルゲ事件で同じく逮捕され有罪となった尾崎秀実だった。なお尾崎とは帰路も同室になった。 なおこの頃、中国の秘密結社についても研究しており、また中華民国における共産主義運動に関心を持っていた。1937年(昭和12年)に第1次近衛内閣が成立すると、近衛のブレーン「朝飯会」の一員として、尾崎らとともに軍部の台頭に反対し、対英米和平外交を軸に政治活動を展開した。また日中戦争下で「汪兆銘工作」にも参画。「自立した新政権」の樹立を目指したが、結果としては軍部の意向が強く反映された政権となった。 1940年(昭和15年)9月には再び外務省嘱託職員となり、この時期、松岡洋右外相に同行してヨーロッパを訪問。ヨシフ・スターリンやアドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニとも、外交団の一員として同席している。 1941年(昭和16年)7月には、内閣嘱託となる。近衛首相より、「日米交渉について陸海軍の意見調整を図る」という任務が与えられたが、その裏ではソ連のスパイのリヒャルト・ゾルゲの協力者である尾崎を通じ、ソ連に情報を与えていた。 なお同年には、新橋の芸者屋「河辰中」の芸妓だった雪江と結婚している。 同年10月に、風見章が主催する昼食会の席上で、尾崎の逮捕を知る(ゾルゲ事件)。尾崎とは共に近衛内閣のブレーンとして様々な情報交換を行っていた上に、それ以外にも立場を利用して得た国家機密をソ連に流していたことから逮捕された。その後の裁判で禁錮1年6月、執行猶予2年の有罪判決を受けた。 死刑の尾崎に比べ軽い刑とされたが、有罪判決を受けたのち西園寺家の嫡男としての爵位継承権を剥奪、従五位返上を命じられる。さらに1946年(昭和21年)に父・八郎が死去したあとの家督を弟の不二男に譲るとともに、父からの相続を放棄した。 なお、近衛首相も事件への関係を当然疑われたが、ゾルゲと尾崎、西園寺らの逮捕と時を同じくした内閣総辞職、間もなく起こった英米蘭との開戦(太平洋戦争)、そして政府と軍の意向による追及阻止により、ゾルゲ事件における関係は不問とされてしまった。 また西園寺は、執行猶予中であることと年齢などにより徴兵を免れ、奥日光で釣りをするなどして過ごし、『釣魚迷』という著書も残している。 日本が第二次世界大戦に敗れて連合国軍の占領下にあった時期、執行猶予が解けた。その後はGHQの監視の下、実家の資産を投じて『グラフィック』誌の仲間と共に『世界画報』を創刊。また、新設プロ野球球団である「セネタース」(現在の北海道日本ハムファイターズ)のオーナーを短期間務めるなど、自由な生活を享受した。 1947年(昭和22年)には、 戦前のスパイ活動の有罪があったが、第1回参議院議員通常選挙に無所属で出馬して当選。しかし肝臓ジストマに侵されていた公一は、議会への欠席が多く何もできず、2回目の参院選には落選。1954年(昭和29年)には京都市長選挙に出馬して落選する。 1955年(昭和30年)には、冷戦下でソ連や東ドイツ、ポーランドなどの東側諸国(社会主義国)政府の主導で設立された「世界平和評議会」に、日本共産党系の日本平和委員会から「日本代表」として送られた。そのままオーストリアの首都ウィーンにあった評議会執行部に「書記」の身分で単身滞在し3年間を過ごす。 この間、1957年(昭和32年)に世界平和評議会の大会をセイロンで開くことになって中華人民共和国に相談に立ち寄った際、同国から「人民交流」の日本側の窓口となる人物の推薦を頼まれたことがきっかけで同国の「民間大使」となる。日本に帰国してから間もなく家族を連れて中華人民共和国へ移住し、中国共産党から「日中文化交流協会常務理事」や「アジア太平洋地域平和連絡委員会副秘書長」の肩書と、500元(毛沢東の月給は600元)と大臣クラスの給与を与えられることになり、同政府の意向を受けて北京にて国交成立前の日中間の「民間外交」を行った。 1958年(昭和33年)には日本共産党に入党するも、のちに日中共産党が不和となった結果、文化大革命初期の1967年(昭和42年)2月に北京滞在中に「日本人の勤労人民としての生活経験をもたず、中華人民共和国においても、社会主義の政府によって与えられている特恵的な生活になれて」「特定の外国勢力に盲従して、分裂と破壊活動に狂奔するようになった」(『赤旗』)旨を以て除名処分となる。なお北京空港事件の現場にも居合わせた。 文化大革命による混乱の中で、その「反革命的」な出自と、劉少奇元・国家主席らの「実権派」と親しいとされた立場について強い非難を受け、身に危険が及ぶ可能性も高くなったことから、1970年(昭和45年)8月に各種肩書と給与を捨てて日本へ帰国。事実上の追放であった。 以後は国内で言論活動を行い、かつて自らの給料を出して保護してくれた中国共産党や毛沢東、江青等を賞賛。また、自らが文化大革命の中で中華人民共和国を事実上追放されたにもかかわらず文化大革命を礼賛し、さらにかつては日中国交正常化に向けて親しく意見交換をしていた劉少奇を強く批判する言動を続けたため、保守派だけでなく、左派の言論人たちからさえ大きな疑念と批判を受けた。 さらに、1970年代中盤に文化大革命が終結しその実情が暴かれたことで、西園寺の主張が完全に的外れなものであることが証明された。さらにその後、中華人民共和国内で文化大革命に対する批判がされた後は、完全に言論人としての立場を失った(後述)。 1993年4月22日に老衰のため86歳にて死去した。 1950年代後半には中国共産党から給料をもらう身となったが、この頃の公一については「中国の忠実な代弁者」「昔、ハイファイを直訳して、高忠実度音響再生装置といったが、役柄としては、そのハイファイである」とも、また「北京の吉良上野之介」とも評されている。日中間に国交が無かった当時、イギリスの植民地である香港経由で中国共産党政府を訪れた日本人は、まず北京の西園寺邸を訪れた。そのとき、「『新中国』でいかに振舞うべきか粗相のないよう示唆を与える」のが公一の役目だったからというのである。 1961年6月に北京を訪れた岡倉古志郎との対談で、大躍進政策の失敗で実際には大量の餓死者が中華人民共和国で発生しているにもかかわらず、「日本でもって人民公社のやり方が悪いから災害が防げなかったというけれども、とんでもない、それは逆なんで、人民公社があったからこそこういうふうに一人の餓死者も出さずに、自分で克服する体制ができたと思うのだ」などと主張した。西園寺は毛沢東を礼賛するアンナ・ルイーズ・ストロングの著書の翻訳などを手掛け、プロパガンダの役割を果たした。 さらに公一は、文革の開始当初にいち早くこれを支持し、毛沢東・江青夫妻や、のちに失脚する林彪などを礼賛した。西園寺が江青のことを「実に清潔な美しさに溢れた人だ」と褒めそやしたので、稲垣武が「肌のきれいな人なんでしょうね」と応じたところ、西園寺は顔色を変えて「君達ジャーナリストはそんな下卑た関心を抱くからダメなんだ」と叱り飛ばした。また文化大革命の意義、意味を疑問視する保守派政治家や言論人、中華民国関係者を非難する言動を繰り返していた。その上に、西園寺の言動は中華人民共和国内で文革の宣伝・扇動にも用いられた。しかし次第に自らもその出自と立場を攻撃されることとなり、1970年(昭和45年)に日本に半ば追放される形で逃げ帰ることとなった。 帰国後も文革による混乱の中にある中国共産党を一貫して援護または称賛する姿勢を見せていたが、1976年(昭和51年)の毛沢東の死後に文革が終結し華国鋒によって江青ほか四人組が逮捕されると、西園寺はその態度を豹変した。1981年(昭和56年)、江青らに死刑判決が下ると早速これを支持し、かつては絶賛していた江青を非難するに至った。このように言論人として主張が変節したことについて、右派左派を問わず大きな批判を受けている。 妻の西園寺雪江は、新橋の芸者屋「河辰中」の芸妓だった時、牛場友彦を介して公一と知り合い、2年間の年季奉公を勤め上げお礼奉公を済ませたあと、ゾルゲ事件で逮捕前の1941年に公一と明石町で事実婚した。 2人の間には長男・一晃(フリージャーナリスト)と次男・彬弘(雪江堂)の2子が誕生した。なお、1958年(昭和33年)、北京移住の直前に入籍している。また、外交官の武者小路公共は父方の叔母の夫。政治学者の武者小路公秀は義理の従弟にあたる。 『貴族の退場』(文藝春秋新社、1951年/ちくま学芸文庫、1995年) 『北京の八木節』朝日新聞社、1965年10月30日。NDLJP:2980593。 『釣魚迷 : 私の履歴』岩波書店〈岩波新書〉、1966年12月20日。NDLJP:2512882。 (新編 つり人社、1992年) 『北京十二年』朝日新聞社、1970年6月30日。NDLJP:12177372。 『中国グルメ紀行』(講談社、1981年/徳間文庫、1985年/つり人社、1993年) 『西園寺公一回顧録「過ぎ去りし、昭和」』(アイペックプレス、1991年/「人間の記録」日本図書センター、2005年) エドワード・グレイ『フライ・フィッシング』開高健監修 ^ 本田靖春『現代家系論』(文藝春秋社、1973年(昭和48年))p.154 ^ 本田靖春『現代家系論』(文藝春秋社、1973年(昭和48年))p.155 ^ [https://www.tokyo-np.co.jp/article/180228 【竿と筆 文人と釣り歩く】(9)西園寺公一「釣魚迷」奥日光で毛針釣り『東京新聞』朝刊2022年5月29日24面(同日閲覧) ^ 官報 1944年4月8日 一五八頁 ^ 本田靖春『現代家系論』(文藝春秋社、1973年(昭和48年))pp.166-167 ^ 本田靖春『現代家系論』(文藝春秋社、1973年(昭和48年))p.165 ^ 本田靖春『現代家系論』(文藝春秋社、1973年(昭和48年))p.167 ^ 村上, 衛. “大躍進と日本人「知中派」――論壇における訪中者・中国研究者”. www.zinbun.kyoto-u.ac.jp. 毛沢東に関する人文学的研究. 京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センタ. 2021年4月9日閲覧。 ^ 稲垣武『悪魔祓いの戦後史―進歩的文化人の言論と責任』文藝春秋、東京、1994年、232-233頁。ISBN 4-16-349170-8。OCLC 32543080。https://www.worldcat.org/oclc/32543080。 ^ 「四人組が打倒された直後、事の真相を知らされた私は、しばし呆然自失した」「前の段階では考えられなかった新しい事態が発生している。帰国してとりあえず『北京十二年』の絶版を申し入れ、私の自己批判の糸口とした」。日中友好協会機関紙『日本と中国』1979年(昭和54年)10月1日。 ^ 「文革中、私たちは江青にだまされていた。彼女は文芸面の先駆者として振舞っていたが、四人組の逮捕の後、毛沢東主席の指示を装って彼女が犯した罪がいかに奥深いものだったか、わかってきた。裁判での江青の態度が立派だったという人もいるが、そんなのは浪花節で、私は死刑が当然だし、執行猶予もつけなかった方がかえってすっきりした。」※記事名・掲載面不明※『朝日新聞』朝刊1981年(昭和56年)1月26日 ^ 「執行猶予付き死刑など生ぬるすぎます。即刻、死刑にすべきです。私は中国の庶民にたくさん会いましたが、庶民の感情はそうです。」『諸君!』1981年(昭和56年)4月号の西義之「日本の四人組は何処へ行った?」。 ^ 稲垣武『悪魔祓いの戦後史―進歩的文化人の言論と責任』文藝春秋社、1997年(平成9年) ISBN 4163491708 ^ 本田靖春『現代家系論』(文藝春秋社、1973年(昭和48年))pp.159 - 164 筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧 西園寺不二男 - 公一の弟。 住友家 - 住友財閥の創業者一族。西園寺家と二重の姻戚関係にある。 朝飯会 廖承志 『西園寺公一』 - コトバンク 表 話 編 歴 星一↓ 柳川宗左衛門† 早川慎一 松本治一郎† 高橋龍太郎 田中耕太郎↓ 梅原真隆 佐々木良作 山本勇造 尾崎行輝 堀越儀郎 柏木庫治 伊藤保平 西園寺公一 岡部常 膳桂之助† 西田天香 赤松常子 岩間正男 徳川宗敬 和田博雄↓ 鈴木清一 広瀬与兵衛 宮城タマヨ 大野幸一 楠見義男 東浦庄治↓ 奥むめお 原虎一 高瀬荘太郎 木下辰雄 金子洋文 青山正一 高良とみ 河崎なつ 岡田宗司 木内キヤウ 大隈信幸↓ 慶松勝左衛門† 稲垣平太郎 水橋藤作 高田寛 兼岩伝一 中村正雄 鈴木直人↓ 荒井八郎↓ 岡村文四郎 鬼丸義斎 井上なつゑ 小泉秀吉 岡本愛祐 川上嘉 中山寿彦 中川以良 丹羽五郎 羽仁五郎 寺尾豊 下条康麿 河野正夫 佐々弘雄↓ 重宗雄三 宿谷栄一 市来乙彦 安部定 大西十寸男↓ 藤井新一 水久保甚作 鎌田逸郎 中野重治 安達良助 堀真琴 松野喜内 木村禧八郎 寺尾博 穂積真六郎 矢野酉雄 藤井丙午 飯田精太郎 小川友三↓ 小野光洋 塚本重蔵 松井道夫 吉松喬† 星野芳樹 北條秀一 三島通陽 小林勝馬 中西功↓ 来馬琢道 新谷寅三郎 松嶋喜作 内村清次 大山安 浅岡信夫 江熊哲翁 松村真一郎 伊東隆治 細川嘉六 小杉イ子 仲子隆 国井淳一↑ 山川良一 高木正夫 加藤正人 杉山昌作 岩沢忠恭 加藤シヅエ 泉山三六 荒木正三郎 大谷瑩潤 長島銀蔵 菊川孝夫 三浦辰雄 常岡一郎 野田卯一↓ 高橋道男 瀧井治三郎 岡田信次 一松定吉 野溝勝 内村清次 平井太郎 藤原道子 栗山良夫 溝口三郎 石川清一 愛知揆一↓ 上条愛一 小笠原二三男 松原一彦 小酒井義男 片柳真吉 宮本邦彦 重宗雄三 堀木鎌三 高田なほ子 羽仁五郎 松本昇↓ 大矢半次郎 石川栄一 矢嶋三義 小野義夫 小林政夫 鈴木文四郎↓ 白波瀬米吉 小林孝平 田中一 須藤五郎 木村禧八郎 細川嘉六† 森八三一 中山寿彦 小川久義 鈴木恭一↓ 椿繁夫 山花秀雄↓ 寺尾豊 加藤シヅエ 加藤正人 高田なほ子 中村正雄 下条康麿 藤原道子 竹中恒夫 柴田栄 重宗雄三 天坊裕彦 鈴木強 占部秀男 野溝勝 北村暢 田中一 杉山昌作 迫水久常 栗山良夫↓ 松村秀逸 泉山三六 大谷藤之助 岩沢忠恭 辻武寿 小笠原二三男 手島栄 平林剛 小野義夫↓ 勝俣稔 阿部竹松 塩見俊二 一松定吉 小酒井義男 大谷瑩潤 荒木正三郎 本多市郎↓ 矢嶋三義 石黒忠篤↓ 常岡一郎 岩間正男 横川正市 谷口弥三郎 大竹平八郎 小林孝平↓ 北条雋八 江藤智 森八三一 堀木鎌三 光村甚助 稲浦鹿蔵 内村清次 柴谷要 小西英雄† 上条愛一↑ 中上川アキ↓ 加藤シヅエ 長谷川仁 迫水久常 源田実 浅井亨 山崎斉 丸茂重貞 北条雋八 鈴木一弘 山下春江 大谷藤之助 渋谷邦彦 二宮文造 小林武 岩間正男 鈴木市蔵 稲浦鹿蔵 森八三一 野知浩之 天坊裕彦 小西英雄↓ 林塩 田中一 重宗雄三 辻武寿 野々山一三 中村順造 藤原道子 鬼木勝利 北村暢 高山恒雄 鈴木強 占部秀男 江藤智 日高広為 横川正市 小酒井義男 野溝勝 豊田雅孝 竹中恒夫 向井長年 手島栄↓ 中村正雄 川野三暁 大竹平八郎 柴谷要 森田たま 光村甚助 松村秀逸↓ 阿部竹松↑ 山高しげり↑ 石原慎太郎↓ 青島幸男 上田哲 今春聴 重宗雄三 長谷川仁 大松博文 三木忠雄 小林国司 二宮文造 田渕哲也 鈴木一弘 上林繁次郎 小笠原貞子 塩出啓典 岩間正男 永野鎮雄 峯山昭範 森八三一 沢田実 加藤シヅエ 小林武 内田善利 向井長年 山田勇 松本英一 藤原房雄 渡辺武 中村正雄↓ 上田稔 若林正武 玉置猛夫 迫水久常 源田実 鈴木強 大竹平八郎 長田裕二 和田静夫 藤原道子 田口長治郎 大谷藤之助 江藤智 亀井善彰 長屋茂 山下春江 田中一 安永英雄 阿具根登 高山恒雄 横川正市 北村暢 宮田輝 市川房枝 青島幸男 鳩山威一郎 山東昭子 斎藤栄三郎 丸茂重貞 小林国司 目黒今朝次郎 田渕哲也 三木忠雄 秦豊 糸山英太郎 鈴木一弘 峯山昭範 片山甚市 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2024/11/23 12:25更新
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saionji kinkazu
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