今東光の情報(こんとうこう) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
今 東光さんについて調べます
■名前・氏名 |
今東光と関係のある人
依田義賢: 1961年 - 悪名 原作今東光、監督・田中徳三(以後シリーズ化) 尾崎士郎: 戒名は文光院殿士山豪雄大居士(今東光の撰)。 諸井三郎: 命名者は今東光・今日出海兄弟の父である今武平)を結成し、河上徹太郎、三好達治、小林秀雄、中原中也、大岡昇平らと親交を持つ。 ヘンリー小谷: ^ 今東光『十二階崩壊』中央公論社、1978年 川端康成: 1919年(大正8年)、池田虎雄を通じて、池田の神戸一中時代の友人・今文武の兄・今東光と知り合い、本郷区西片町(現・文京区西片1丁目12-13)に住んでいた今宅へ寄宿舎からよく遊びに行き、今東光の父・武平(元郵船会社欧州航路の船長)から霊智学(心霊学)、神智学の話に耳を傾けた。康成は、今東光、今日出海兄弟の母親から「康さん」と呼ばれ、家族同然に可愛がられていた。 梶山季之: 今東光は「先日もなァ、『酒を無茶飲みするな、自殺行為だぞ』と注意したんだが、梶山はゲラゲラ笑ってな。 川端康成: 今東光と共に芥川龍之介も見舞い、3人で被災した町を廻った。 木村威夫: 『悪太郎伝 悪い星の下でも』(1965年、鈴木清順監督、笠原良三脚本、今東光原作、奥村一音楽) 矢野隆司: 作家今東光の研究者としても知られ岩手県浄法寺町が計画した「今東光・瀬戸内寂聴両師記念館」(仮称)世話人のほか、八尾市教育委員会主宰の「やお市民大学講座」や関西学院主催の「関西学院学院史月例研究会」などで講演。2010年、今東光文学研究会を共同主宰し研究誌『慧相』を発行、詳細な年譜を連載した。主な発表論文に「今東光 その生涯と関西学院」、「今東光研究補遺」、「今東光 見えざるものへの畏敬」などがあり、先行研究として引用されることも多い。また今東光夫人の逝去では『週刊新潮』にコメントを寄せた。 市村清: 「経営の神様」としてマスコミの寵児となり、五島昇、盛田昭夫ら当時の若手経営者や大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三等の文化人が市村を取り巻いて教えを求め、世間はこれを「市村学校」と呼んだ。 稲垣足穂: 関西学院では今東光などと同級になった。 増村保造: 悪名 縄張荒らし(1974年、勝プロ/東宝)原作:今東光、脚本:依田義賢 川端康成: 戒名は「文鏡院殿孤山康成大居士」(今東光が名付けた)。 黒岩重吾: 今東光に縁のある作家による野良犬会に参加。 熊井啓: その後も初の時代劇『お吟さま』(今東光原作)、戦後の日本映画で初の中国ロケを敢行した『天平の甍』(井上靖原作)などを経て、1986年には戦時中に九州で起きた米軍捕虜生体解剖事件をもとに医師の戦争責任を問うた遠藤周作原作の『海と毒薬』を発表し、ベルリン国際映画祭銀熊賞 (審査員グランプリ)、毎日映画コンクール大賞、3度目のキネマ旬報ベストテンベストワン及び監督賞を受けるなど国内外で評価された。 阪東妻三郎: 今東光を顧問に据え、自ら陣頭に立ち、映画制作を開始する。 川端康成: 6月から7月にかけては、参議院選挙に立候補した今東光の選挙事務長を務め、街頭演説も行なった。 川端康成: 10月には、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、佐佐木茂索、今東光ら14人で同人雑誌『文藝時代』を創刊し、さらに岸田国士ら5人も同人に加わった。 片岡鉄兵: しかし1928年(昭和3年)ごろから左傾化し始め、更に同時期に今東光の脱退や仲間内での意見の対立などにより新感覚派は事実上消滅した。 梶山季之: 今東光との対談「何が彼らを残忍な殺人に追い立てたか」(「週刊小説』1972/3/31号、あさま山荘事件について) 横山まさみち: 奥州藤原四代(原作:今東光) 水上勉: 今東光が参議院議員に立候補した際は、川端康成とともに応援演説に立った。 勝新太郎: 玉緒とは『不知火検校』や、一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『悪名』(田中徳三監督、今東光原作、依田義賢脚本、田宮二郎共演)などで共演している。 阿部豊: 今東光原作の話題作『春泥尼』、小林旭主演の『二連銃の鉄』などのヒット作を量産した。 サトウハチロー: その一方で今東光などが参加した同人誌『文党』や、草野心平や宮沢賢治などが参加した同人誌『銅鑼』に参加する。 野坂昭如: この頃、今東光を会長とする無頼派作家の集まり「野良犬会」のメンバーとなる。 横光利一: まず川端康成の下宿へ行ったが川端が不在だったため今東光を訪ねた。その横光の身代わりのように、横光に同調して反駁文を書いて『新潮』へ送った今東光は、結果として『文藝時代』を一人脱退し菊池と喧嘩する破目に陥った。 近衛文麿: 作家の今東光が若き日に近衞の宴会に陪席したときの目撃談。 今日出海: 『今東光・今日出海集 日本文学全集59』集英社、1972年 関口淳: 4月1日、柴田錬三郎の肝煎りで、今東光、吉行淳之介、梶山季之、黒岩重吾、藤本義一といった作家20余名を前にスプーン曲げをおこなう。 |
今東光の情報まとめ
今 東光(こん とうこう)さんの誕生日は1898年3月26日です。神奈川出身の作家のようです。
テレビ、兄弟、現在、映画、離婚、再婚、ドラマ、事件、卒業、退社に関する情報もありますね。1977年に亡くなられているようです。
今東光のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)今 東光(こん とうこう、1898年〈明治31年〉3月26日 - 1977年〈昭和52年〉9月19日)は、横浜生まれの小説家、天台宗大僧正(法名 春聽)、中尊寺貫主、参議院議員。大正末期に新感覚派の作家として出発。その後出家し、長く文壇を離れたが復帰。住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など奥州を題材にした作品で人気を得た。週刊誌やテレビでも活躍し、毒舌和尚としても知られた。 作家・評論家で初代文化庁長官を務めた今日出海(ひでみ)は三弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は父方の遠縁にあたる。 横浜市伊勢町(野毛山・伊勢山皇大神宮下)にて代々津軽藩士山奉行家系の父・武平(ぶへい)、母・綾の間の3人兄弟の長男として生まれた。四男 信巳(のぶみ)は早世。しばしば文学史年譜などに「横浜市伊勢崎町生まれ」とあるが、あきらかに間違いで、現在の横浜市中区伊勢町・宮崎町には、日本郵船会社 (NYK) の社宅があった。父武平(明治元 9/4 生)は船長職の最古参で、国内五港定期航路 品川丸を経て、海外航路 香取丸のキャプテンを務める。四男が生まれた明治40年(1907年)頃、南インド・マドラスに寄港、船の修理で船渠(ドック)入りした折、アディアールで神秘思想に触れ、「神智学協会 The Theosophical Society 霊智学会とも呼称」会員となる。以後「胡桃船長」の異名をとるほどに菜食主義に徹した有数の神智学徒としても知られた。アニー・ベサント、ジッドゥ・クリシュナムルティと親交を深め、1914年にベサントがクリシュナムルティを救世主として作った、星の教団 The Order of the Star in the East に入会。1916年、来日時のラビンドラナート・タゴールと知遇になったり、第一次世界大戦時に船がドイツの無差別攻撃で巡洋艦エムデンに追われたが、智略によってこれを回避したりした。1920年、東京市本郷区西片町に「神智學協会東京ロッヂ」 を開設、鈴木大拙夫人で神智学者だったベアトリス・レイン(Beatrice Lane)とも交流した。母、綾は、函館・遺愛女学校(遺愛学院)、明治女学校に学んだ才媛で佐藤紅緑(サトウハチロー、佐藤愛子の父)とは小学校の同級生だった。東光は父の転勤に沿い、幼年・少年期を小樽・函館・横浜・大阪と転じ、10歳より神戸で育つ。この頃、神戸の御影に家があり、父同士が友人だった郡虎彦の影響で文学に関心を持ち、永井荷風、谷崎潤一郎を耽読、漢文に長け北原白秋、室生犀星と文通を試みるほどの早熟振りであったが、牧師の娘と交際したことなどから関西学院中学部を第3学年の1学期の終わりで諭旨退学になった。兵庫県立豊岡中学校に転校するも地元の文学少女と恋愛したことから素行が悪いとされ退校処分を受ける。こののち正規の教育を受けることなく、本人の記すところに拠ると「以後独学」とある。 1915年、上京して小石川茗荷谷の伯父の家に寄食し、「太平洋画会/太平洋美術会」(中村不折)、「川端画塾/川端画学校」(主任教官 藤島武二)に通い、画家を目指しながら文学も志し東郷青児、関根正二らと親交を結び、生田長江に佐藤春夫を紹介される。東郷、佐藤春夫と第6回二科展に油彩を出品するも選に入らず絵筆を折る。このころ東郷のとりもちで、本郷三丁目の西洋料理店・燕楽軒で女給をしていた宇野千代とも短期間交際した(芥川龍之介がこのエピソードをもとに短編葱』を創作)。1917年11月、室生犀星の詩誌「感情」に詩篇「父の乗る船」が掲載される。この間、一家は神戸から東京市本郷区西片町に引越し、東光も実家に戻った。1918年秋、駒込、佐藤春夫宅で谷崎潤一郎に遇い、以後生涯、師と仰ぐこととなった。谷崎の非常勤無給秘書を務めながら、1920年、神戸時代の知人(二弟の同級生)池田虎雄=麗進(大阪 千日前、日蓮宗 妙見宮 蓮登山自安寺)の紹介で、一高寮で知り合った川端康成、鈴木彦次郎らと交友を深め一高のモグリ学生となり「盗講」と号し、芥川龍之介の勧めに塩谷温博士の中国古典講義を聴講した。 1921年、川端の強い推薦により、ともに第6次「新思潮」の発刊に同人として参加。『支那文学大観』の刊行に際しては「桃花扇」「唐代小説」等の訳出を担当し、帝大生の論文の代筆も引き受けるほどの学殖だった。1922年秋『新潮』に発表した随筆「出目草紙」を認められ、菊池寛の訪問を受け『文藝春秋』創刊に参画。その後石浜金作らと新進作家による『文藝時代』創刊に参加して、1924年「軍艦」、1925年「痩せた花嫁」などを発表。1924年創刊の『苦楽』に発表した「朱雀門」も高く評価され、新感覚派文学運動の作家としての位地を得る。 1927年、芥川龍之介の自殺に遭い、この頃より出家を志す。「文党」に集まっていた社会運動家の影響でプロレタリア文学にも関心を強め、新感覚派の片岡鉄兵、鈴木彦次郎らとともに「左傾」を声明し、1929年に日本プロレタリア作家同盟に参加、作家同盟の機関誌『戦旗』に戯曲「クロンスタットの春」、書き下し長篇として南部藩の百姓一揆を題材にした『奥州流血録』などを発表。プロレタリア大衆文学の先駆的作品とされる(ただし、この著作は生出仁によるものであったという説が有力)。映画の関係から、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)の初代委員長や、映画従業員組合の委員長もつとめていた。しかし、妻フミ子の嫉妬と極端な独占欲により文学関係者との交際を妨害されたことや、左翼運動の中での軋轢が決定打となって次第に文壇に距離を置く。この時期、妻の実家があった茨城県結城郡大花羽村、鬼怒川の辺に書院を建て独居していたが、同地の古刹、天台宗 正覚山蓮華院安楽寺(現茨城県常総市大輪)住職、弓削俊澄僧正の知遇を得て、非常勤私設秘書を買って出た。 1930年10月1日、金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度、天台法師となり「東晃」と号した。「戒光」とも号した。比叡山麓坂本、延暦寺の子院、戒蔵院に籠り、木下寂善僧正のもと三ヶ年の修行。 1933年8月、四度加行(しどけぎょう)を履修。1934年2月、佐々木味津三の訃報に接す。3月、天台宗の僧侶養成機関、比叡山専修院(現在の叡山学院専修科)を卒え、検定試験に合格。准教師となって安楽寺に下り、この間『史外史伝 祇王』『僧兵』などを纏め刊行した。阪東妻三郎を主役にトーキー「支倉常長」の製作、バチカンロケも視野にする構想を発表したりした。1936年「日本評論」に「稚児」を発表、評価の少ない中で川端康成は「東光さんは健在ですね」と日出海に語った。前後して強度の心臓肥大症を患い生死を彷徨う最なか、1935年から数ヵ年を秘教義や易学の研究に勤しみ「神秘」「易学研究」に執筆をかさねた。漸くに静養の明けた1941年1月31日、権律師春聽として岐阜県郡上郡嵩田村(現、岐阜県郡上市美並町)、天台宗大日坊(古来、加賀国白山寺白山本宮〔現 白山比咩神社〕、越前国平泉寺白山神社と並び白山信仰の拠点であった、美濃国白山中宮長瀧寺=泰澄開基の末寺、長瀧一山八坊の一)の住職に任ぜられ赴くが、戦時下の宗教行政(宗教団体法)に阻まれ復興ならず、同年易学書『今氏易学史』を著し(谷崎潤一郎、佐藤春夫序文)、神智学の書籍『神秘的人間像』(THEOSOPHICAL PUBLISHING HOUSE (TPH)刊 C・W・リイドビーター 原著)を訳出刊行、『易学史』は殷代から明代にかけての史書で日本で初めての本格的な研究書として高い評価を受け、北京大学でも紀要になったという。華北交通の顧問としてしばしば中国大陸にも赴いた。同時期、古美術関係の著述が多く、1943年秋、文藝春秋に、出家後の僧名である春聽の名で「熊野拾遺」を発表、実に凡そ20年ぶりの同誌執筆であった。御門流『擇艸』(水谷川紫山・千宗守ら同人 松田幸丸編集・擇艸舎発行)に執筆するなどした。佐渡に渡り取材した『順徳天皇』は戦時下、唯一の大著である。この時代の交友関係に、青山圭男、鳥海青児・美川きよ夫妻があった。1942年水の江瀧子が組織した「劇団たんぽぽ」の命名者でもあった。 1943年11月、ようやくに小康を得たことを機に発心し、顕密両教弘通(けんみつ りょうぎょう ぐつう)の勝地、伝法灌頂の道場として発展した、関東・奥羽の天台宗中心道場、茨城県真壁郡黒子村(現筑西市)、東睿山千妙寺に上り、金剛寿院灌室にて入壇、「灌頂」を履修、天台宗伝燈の「三昧流」伝法を修めた。 戦時中は東京・穏田(渋谷区神宮前)に住み、出版書肆・文耀書院や易学の結社「天台閣」を興すなどし、下谷区根岸 (台東区)・聖恩教会(本門法華宗)長田龍省(おさだ りゅうしょう)との親交を深めた。龍省は秀れた法華行者で霊能家であり、「易学史」執筆や、東光の少年期、父武平招来による出逢い以来の、神智学等「秘教義」研鑽時代の東光坊春聽法師の盟友的存在であった。しばしば、龍省の巫呪、口述する"古代秘史"をノートに書き留め続けていたという(夫人談)。1945年5月25日の空襲で2万5千冊の蔵書を焼亡、新進作家として活躍した時代の交友録、諸作家や友人たちとの書簡資料、貴重な仏書、史料等も焼失した。当時北多摩郡調布町二本松にあった軍需工場、昭和鍛工会社(戦車のキャタピラ等を製造)付属青年学校の講師を務めていたことから、調布町飛田給の同社宅に疎開した。同じころ、妻フミ子が離婚を申し出た。 戦後1946年秋、母綾の秘書役を務めていた千葉県印旛郡志津村(佐倉市志津)の旧家の人、蜂谷清(はちや きよ)と再婚。かつて1936年「日本評論」に発表の「稚児」を、稿を革たに1947年2月に谷崎潤一郎序文、鳥海青児装丁を得て刊行、出版元の金沢忠雄は仲間内で「カナチン」と称ばれる印刷用紙ブローカーの闇屋然であったと。この時期に特筆すべき労作として、1936年に死去した父武平の遺稿等を母とともに修訂、編纂した涅槃論の大冊「神智の門」があって(1947年8月16日、武平忌に脱稿)、上田光雄主宰の光の書房から刊行予定であったが実現を見ず、後ち二度にわたり翻刻連載が試みられた(個人雑誌「東光」1953・「歓喜世界」1983~89)。 1948年9月、富田常雄主宰「日本文庫」に2千枚の長編を構想し「悪童」を連載した。稿料は月5千円であった(夫人談)。亡父の墓処、多磨霊園、武蔵國分寺跡はじめ北多摩近在を下駄一足で歩き回り、沈潜・雌伏の時代とはいえ、近藤勇、新撰組に関するもの等、小品50数編が生まれた。同時期、フィリピンから復員した今日出海が、1945年11月、文部省社会教育局文化課長、同芸術課初代課長となった。敗戦の翌年、1946年に開催された「第1回芸術祭」の立案には、小泉清(洋画家:小泉八雲の三男)に呼びかけるなどし、積極参画した(本人談)。 調布は「東洋のハリウッド」とも称された映画の町で、出家前に阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)顧問や、全日本映画従業員組合書記長、日本プロレタリア映画同盟委員長などを務めていた関係もあって、飛田給の草庵に多くの映画人が訪れた。時代は1946年から1948年の東宝争議の真っ只中で、東宝、新東宝、独立プロの関係者が出入りしていた。かつての調布・二本松の軍需工場、昭和鍛工会社跡地は、戦後、伊藤武郎による独立映画の撮影所となった。 1950年秋から一年間、春日大社、四天王寺に赴き易学を講義、1951年9月、天台宗総本山延暦寺座主の直命により大阪府八尾市中野村の天台院の特命住職となり西下する。天台院は当時檀家が30数軒の貧乏寺であったが、 天海大僧正の直弟子、念海和尚による再興、無畏智道上人止住隠棲など、歴代、高僧の隠居寺であった。西下には、齋藤石鼎(のちに義仲寺住職)、塚本龍泉(法華行者、易学家 『觀法』主幹)が同道した。保田與重郎が『春聽上人』としての西下を促した。與重郎が後に著した『現代畸人伝』に当時の消息が綴られている。同時期、河上徹太郎、伊藤整らが大正期「新感覚派」作家の雄としての今東光を回想、高見順も『昭和文学盛衰史』にその文壇史的位地を特筆した。天台院主として春聽上人は1952年5月1日、東光山(紫雲山)天台院に晋山した。沼田に囲まれた河内八尾の鄙びた小庵への入山であったが、春日大社宮司・水谷川忠麿(近衛文麿・近衛秀麿の弟、夭折した近衛直麿の兄)、四天王寺管長・出口常順の列座、雅楽伶人による雅楽の演奏、職衆による声明という古式による入山の儀に村人は度肝を抜かれ、「オイ。ワレ。こんどの和〈おす〉さん(和尚さんの意)。エライ、ヤマコ張っとる《ペテン師》やナイケ。」などと噂し合った。摂河泉、畿内古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、東大阪新聞社『河内史談 第参輯』1953 に「天台院小史」を執筆。「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、作家魂が蘇生、個人雑誌『東光』を刊行した。のちに文壇復帰のきっかけとなる「闘鶏」を取材執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」といった河内者の人間臭と、土俗色の色濃い河内地方の方言や習俗に親しんでいった。のちにエンターテイメント作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公、朝吉親分のモデルとなった、岩田浅吉との出会いもこのころであった。 1953年2月、短編「役僧」が30年ぶりに『文藝春秋』に掲載され、文芸家協会編 『創作代表選集』にも収録された。『大法輪』に「天台大師」「師の御坊」、『祖国』に幕末の志士河上彦斎を描く「人斬り彦斎」を連載、「破戒無慚」「人の果て」を発表。1955年10月2日、比叡山に上山。天台宗随一の古儀、法華大会(ほっけだいえ)「広学豎義」(こうがくりゅうぎ)に臨み教学論議(僧侶の試験)を及第し阿闍梨となり、1956年1月、京都の宗教紙「中外日報」第二代目社長に就任した。 天台院を訪れた谷崎潤一郎により「闘鶏」の原稿が中央公論社に送られ、『中央公論』1957年2月号に掲載された。その前年1956年に裏千家の機関誌『淡交』に1年間連載していた『お吟さま』で第36回直木賞を受賞し、一躍流行作家として文壇に復帰する。 それまで天台院では法施への対価として、宝前に河内産の茄子や胡瓜、ときに軍鶏肉があがる、長閑、朴訥としたものだったが、東光和尚ブームの到来に一夜にしてバタくさいものになったと夫人は語った。「だって、それまでお布施ったって30円くらいでしょ。それが印税が入ってくるのですものね。」「お寺の修理だ、復興だって出てゆく。本山から給料が出るわけじゃないし。ネ。」「私が好きな作品は『悪童』。一番いい時代でした。」「毎日、毎日が面白かったのよ。言葉なんてちっともわからないのにね。」「東光は。オイ。今日はいい日だな。いい日だな。って言うけれど、何もいいことなんてないのよネ(笑)。檀家の話は、ケンカだ。バクチだ。ヨバイだ、ジョロカイだって、そればかりでしょ(笑)。放送局(BK:NHK大阪)が取材に来て録音してっても放送できないっていうのヨ(笑)。」「それでいて、夜中になると、そのテープ、みんなで聞いてはゲラゲラ笑ってるんだって(笑)。あのテープ、どこかに残ってないでしょうかね。」(「驚きももの木20世紀」「知ってるつもり?!」等、民放取材にこたえての夫人談) 作家活動再開後は「山椒魚」「春泥尼抄」「悪名」「こつまなんきん」「河内風土記」など、八尾周辺の河内地方に取材した、一連の「河内もの」を立て続けに発表し、舞台化、映画化も相次いだ。辺鄙な農村、八王子市恩方に篭り第2回毎日出版文化賞を受賞したきだみのるの「気違い部落周游紀行」と、上方河内在の異色の僧が描く「河内もの」は東西の雄と評され衆目を蒐めた。大宅壮一、福田定一(司馬遼太郎)、村上元三、寺内大吉をはじめ、天台院を訪れる識者は多士済々、柳原白蓮の姿もあった(本人談)。文学講座も開かれ「日本書紀」の講義では、大和・河内の地理にもとづく、在郷ならではの「オモロ講座」が展開した。(鈴木助次郎談) 1957年に東京・京都で開催された国際ペン大会京都大会では、日本ペンクラブ会長川端康成を援け、関西財界人に呼びかけ大会を成功に導いた。その流れは1960年、山田耕筰、和田完二らとの「大阪文化協会」設立、第1回大阪文化まつり開催となってゆく。1958年には帝塚山学院、四天王寺学園、相愛女子短期大学講師として、比較文学を講義。 この時期の作品として、古代史や河内キリシタン伝承に取材した「弓削道鏡」「生きろマンショ」、「はぜくら(支倉常長)」「東光太平記(楠木正成)」など歴史小説を数多く創作。天台院の名は全国に知られた。同院の再興につづき、貝塚市の水間寺、密蔵院(春日井市)、明眼院、安養寺など特命住職として次々に兼務する荒廃した古刹の復興に身を挺し、印税を注ぎ込んでの寺院経営を手がけ、権僧正を拝命する一方、「オレは大工坊主みたいなものだよ。オイ」と周囲を笑わせ、ケムに巻いていた。取材に赴く先々、執筆の途次、杖を、筆を留め、しずかに読経することしばしばであった。『悪名』は1961年に勝新太郎、田宮二郎出演の映画(大映)となりシリーズ化されるほど大ヒットした。 僧侶として1964年春にエジプトからヨーロッパ各国巡錫の旅に出掛け、4月28日にバチカン市国ローマ法王庁で教皇パウロ六世に謁見した。バチカン放送局の放送機材を松下幸之助が寄贈していたた縁で、日本人初の放送を行った(伝)。1965年11月に僧正となり、1966年5月中尊寺貫主に晋山し、国宝金色堂の昭和大修理に努めた。1968年5月に落慶大法要を執行した。谷崎潤一郎、川端康成、梶山季之の死去に際して戒名を贈り、葬儀の導師を勤めて弔辞を読んだ。同じ天台宗僧侶である弁慶を描いた『武蔵坊辨慶』は、参議院議員活動による中断を挟んで1964 - 65年及び76 - 77年に新聞連載されたが、死去により未完となる。両親が津軽出身であることから自らを蝦夷の末裔「東夷ノ沙門(とういのしゃもん)」と称し、平泉・中尊寺を創建した奥州藤原氏を描いた歴史小説『蒼き蝦夷の血 藤原四代』を1970年から執筆するが、藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡の三代まで描いて死去して未完となる。1973年11月に瀬戸内晴美が中尊寺で出家得度すると、師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。 1968年に参議院議員選挙全国区で自由民主党から立候補して当選し、1期務めた。選挙時は川端康成が選挙事務長となって運動に協力し、街頭で応援演説も行った。議員在職中の1970年5月16日に陸上自衛隊新発田駐屯地の講演会で「自衛隊は人を殺すのが商売なのだから、安心して殺せ」と述べて物議を醸すなど、型破りな性格と発言はつとに有名だった。「毒舌説法」でテレビや週刊誌でもコメンテーターとして人気があり、1973年から週刊プレイボーイの過激な人生相談「極道辻説法」でも知られた。生来の「喧嘩屋」でその特異な人物像から各界に多大な影響を及ぼし、梶原一騎や笹川良一と並び誇張も含め「昭和の怪人」として評されることが多い。 天台宗による「一隅を照らす運動」が1969年に始まると、その初代会長を1973年まで務めて辻説法した。 無頼派作家集団「野良犬会」の会長として、柴田錬三郎、黒岩重吾、野坂昭如、戸川昌子、吉行淳之介、井上ひさし、梶山季之らを集めた。 晩年は、S字結腸癌を患い国立がんセンターで1973年と1974年に手術を受けるも、比叡山・法華総持院東塔 昭和大再建(さいこん)、延暦寺で長講会(ちょうごうえ)、1975年に坂本・東南寺で「戸津説法」講師(こうじ)勤仕 、不動堂(護摩堂)、涅槃堂、大書院等、中尊寺諸堂の諸整備、岩手県浄法寺町の古刹、八葉山天台寺特命住職晋山、復興に着手、1976年に本尊・十一面観音菩薩像の造立発願、あらたな時代に向けて天台教学改革提唱など、傑僧躍如たるものがあった。加えて、闘病、静養もままならぬなか、1972年に欧州で耀盌・出口王仁三郎作品展、1975年にハワイで天台宗海外伝道事業団として錫を巡らし、過密なスケジュールながらも「作家は、ジャーナリズムに殺されてこそ本望」「ボクは生涯現役だよ」と執筆、テレビ出演、講演、口述を続けた。1975年から77年まで『海』に連載した、若いころの谷崎潤一郎を描いた『十二階崩壊』、週刊読売連載「友鏡 ― 宇野千代の巻」が絶筆となる。 1977年6月に体調を著しく崩して再々度入院し、急性肺炎を併発して千葉県四街道市の国立療養所下志津病院で9月19日に遷化した。寛永寺根本中堂瑠璃殿における本葬儀には、東叡山輪王寺門跡 杉谷義周大僧正が、法号「大文頴心院大僧正東光春聽大和尚(だいぶんえいしんいん だいそうじょう とうこう しゅんちょう だいかしょう)」を撰み大導師を勤めた。弔辞は、前夜パリから駆けつけた東郷青児が「十七歳の東光ちゃんは」と泪の裡に呼びかけ、椎名悦三郎が続き、皇太子からの供花、福田赳夫首相の献香、宗教界、文壇、政界、財界、芸能界ほか多数の参座者が続いた。坪内寿夫、竹中労、戸川昌子、安岡章太郎、藤本義一、田宮二郎ら各界の著名人や、一般読者の青年も数多く参列した。 墓所は東京都台東区上野寛永寺第三霊園、柴田錬三郎の撰文による文学碑があり、中尊寺、天台寺、天台院、比叡山霊園(堅田)に分骨納骨、それぞれに供養塔が建てられ、三回忌、七回忌…と年忌が営まれた。寛永寺における折々の偲ぶ会には、松本清張、陳舜臣、半村良も駆けつけた。寛永寺を会場にしての偲ぶ会は、夫人の強い意思によって、1999年(平成11年)9月19日の二十三回忌法要まで続けられた。 文壇復帰からの作家活動や宗教活動を守り支えた きよ夫人は、2008年(平成20年)9月19日、夫の祥月命日と同月同日に逝去した。「慈観院闊朗清妙大姉」の法号は、東叡山寛永寺一山圓珠院、杉谷義純住職(天台宗元宗務総長、現妙法院門跡)の撰による。大和尚をして「この世で一番畏いのは、かあちゃんだよ!」と言わしめた、愛らしく剛い人柄そのものを表す。千葉県佐倉市で執り行った葬儀は、杉谷師が導師を勤め、中尊寺、天台寺、天台院等の諸師らが読経し、法弟子瀬戸内寂聴尼も列座し、法類、法縁が随喜して親交ある多数の士が参列した。司馬遼太郎夫人の福田みどりも献花した。 2009年9月の三十三回忌法要と、きよ夫人の一周忌法要は、山田俊和中尊寺貫首による導師、故春聽貫主と有縁の一山重職方出仕の許、平泉・関山中尊寺本堂にて厳修された。 2018年(平成30年)9月4日は、春聽(東光)、文武、日出海、信巳四兄弟の厳父、キャプテン・コン=今武平の生誕150年の嘉日であった。9月1日(土)、かつて1927年(昭和2年)、多磨霊園に武平が建立した塔廟 【今氏之墓 北野玄峰永平寺六十七世管長揮毫】(註:武平が考究したセオソフィー=神智学・霊智学に則い、ピラミッドとダビデ星を象っている)を前に、記念墓前祭が執行された。晨朝、会の準備中には西方の空に巨きく虹と彩雲があらわれた。浄域には、遺影、著作、香華灯とともに、「胡桃船長」に相応しくクルミのガトーが供えられ、直会(なおらい)のあとの茶会では、1927年12月、諸井三郎、今日出海、大岡昇平、長井維理、内海誓一郎、中原中也、中島健蔵らが渋谷道玄坂の長井長義邸で結成し、河上徹太郎、小林秀雄も参加した音楽団体「スルヤ」(註: 武平が命名 सूर्य、Sūrya 太陽神 七つの光)ゆかりの「朝の歌」「臨終」(諸井三郎曲)、「帰郷」(内海誓一郎曲)、「雪の宵」「夕照」(大岡昇平曲)等の調べにより、往時を偲ぶ時が流れた。 『お吟さま』は、千利休の娘の高山右近への愛と生き様を、河内出身の侍女の語りによって、一人の女の哀しい生涯が絢爛たる桃山文化を背景に描かれている。直木賞選考会では、選考委員達よりも文壇では先輩でもあり、今さらという意見もあったが、大佛次郎は「老熟した作家のものと称せざるを得ぬ」と評し、吉川英治、木々高太郎、川口松太郎らの支持も得て受賞する。 この年の『中央公論』2月号に掲載した短篇「闘鶏」は、浅吉親分こと、岩田浅吉に教えられた闘鶏の魅力に取り憑かれて作家としての情熱を取り戻し、数年かけて取材執筆したもので、闘鶏を通して河内の風土を描いており、平野謙、高橋義孝はこの時代の秀れた代表作として推すなど高く評価されている。河内出身の尼僧の愛憎、苦悩と生き様を描く『春泥尼抄』は映画化もされて話題になり、尼僧ブームを巻き起こした。 自伝的長編小説として『悪童』『悪太郎』がある。 『痩せた花嫁』金星堂 1925年(短編集) 『愛経』新潮社 1927年 『愛染物語』至玄社 1927年(短編集) 『奥州流血録』先進社 1930年 今春聽『僧兵』政教書院 1934年(のち『山法師』に改題) 今春聽『今氏・易学史』紀元書房 1941年(序文:谷崎潤一郎・佐藤春夫・加藤大岳) 今春聽『順徳天皇』有光社 1943年 『稚児』鳳書房 1947年。序文谷崎潤一郎 『人斬り彦斎』東京創元社 1957年。改題『北斎秘画』徳間文庫 1986年 『みみずく説法』光文社カッパ・ブックス 1957年 『お吟さま』淡交社 1957年、新版1978年、のち角川文庫、新潮文庫、講談社文庫大衆文学館 『闘鶏』角川小説新書 1957年、のち文庫 『テント劇場』大日本雄弁会講談社ロマン・ブックス 1957年 『悪童 第1部』現代社 1957年、のち角川文庫 『春泥尼抄』講談社 1958年、のち新潮文庫、角川文庫 『弱法師』筑摩書房 1958年 『山法師』春陽堂書店 1958年 『愛染地獄』浪速書房 1958年、のち徳間文庫 『山椒魚』文藝春秋新社 1958年、のち角川文庫 『尼くずれ』角川書店 1958年 『一絃琴』筑摩書房 1958年 『悪妻』中央公論社 1958年 『百日説法』角川書店 1958年 『東光辻説法』文藝春秋新社 1959年 『みみずく説法』中央公論社 1959年 『東光金蘭帖』中央公論社 1959年、のち中公文庫 『悪太郎』中央公論社 1959年、のち角川文庫 『弓削道鏡』文藝春秋新社 1960年、のち徳間文庫 『裸の恋人』中央公論社 1960年 『はだか説法』角川書店、1960年 『こつまなんきん』講談社 1960年、のち角川文庫 『東光おんな談義』講談社 1960年 『東光独言』角川書店 1960年 『河内の顔』講談社 1960年 『河内風土記』新潮社 1960年、のち角川文庫 『悪名』新潮社 1961年、のち角川文庫、新潮文庫 『化身』角川書店 1961年 『青春画譜』角川小説新書 1961年 『僧房夢』角川書店 1961年 『はぜくら』中央公論社 1961年 『南米耳袋 和尚ラテンアメリカを行く』講談社 1962年 『ひとり寝』中央公論社 1962年 『愛染時雨』新潮社 1962年 『現代人の日本史 元禄の哀歓』河出書房新社 1962年 『悪徳』中央公論社 1963年 『明日また』角川書店 1963年 『河内の風』講談社 1963年 『好色夜話』新潮社 1964年 『東光雑記』桃源社 1964年 『河内ぞろ』講談社 1965年、のち徳間文庫 『河内カルメン』徳間書店 1965年、のち徳間文庫 『おしゃべりな真珠』講談社 1965年 『弁慶』講談社、1966年 『東光毒舌経 おれも浮世がいやになったよ』未央書房 1966年、浪曼 1974年 『裸虫』新潮社 1967年 『今昔物語入門 男とはかくも底抜けの色好みか』光文社 カッパ・ビブリア 日本人の知恵 1968年 『女性葬送 東光辻説法』日本文華社 文華新書 1968年 『姣童』講談社 1969年 『華やかな死刑派』新潮社 1972年 『東光太平記』全6巻 鹿島研究所出版会 1972年、のち「太平記」徳間文庫 『蒼き蝦夷の血』全4巻 新人物往来社 1972-76年(絶筆)、のち徳間文庫 『悪い使徒 青春無頼』実業之日本社 1973年 『泥鰌おっ嬶ァ』番町書房 1974年 『おゝ反逆の青春』平河出版社 1975年 『青春の自画像』サンケイ新聞社出版局 1975年 『青春放浪』光文社 1976年 『毒舌心経』実業之日本社 1976年 『吉原哀歓』徳間書店 1976年 『武蔵坊弁慶』全4巻 学習研究社 1977-78年(未完)、のち徳間文庫 『和尚の舌』ロングセラーズ・あまカラ選書 1977年 『十二階崩壊』中央公論社 1978年(絶筆)。大正期の谷崎潤一郎らとの交流回想 『毒舌・仏教入門』祥伝社 新書判 1990年、のち集英社文庫。1975年に近江・東南寺で行った5日間の戸津説法の全文 『ポピュラー時代小説 今東光集』リブリオ出版 1998年 『古都の尼寺』葛西宗誠写真 淡交新社 1961年 『奥の細道 カメラ紀行』葛西宗誠 写真 淡交新社 1963年 『平泉中尊寺』井上博道写真 淡交新社 1967年 『六波羅蜜寺 空也の寺』小林剛・五来重共著 山本建三写真 淡交社 1969年 『比叡山延暦寺』山本建三写真 淡交社 1969年 『毒舌日本史』文藝春秋 1972年、のち文春文庫、聞き手池島信平 『東光ばさら対談』講談社 1974年 『極道辻説法』集英社 1976年、のち集英社文庫、週刊プレイボーイ連載(担当者は島地勝彦ほか)
『対談 日本発掘 歴史にうもれたエラい奴』朝日イブニングニュース社、1977年 『今東光名作選集』全7巻 徳間書店 1965年
『僧房夢』『愛染時雨』『河内草枕』『尼くずれ』 『今東光秀作集』 徳間書店、1967年
『信長を刺した女』『ひめはじめ』 『今東光代表作選集』全6巻 読売新聞社 1972年 『小説河内風土記』東邦出版社(全5巻) 1977年(NHKドラマ「河内まんだら」原作) ドストイエフスキイ『流人の家』春陽堂訳述叢書 1924 ラフカデオ・ヘルン『文学入門』金星堂 1925 『小泉八雲随筆集』明治大正随筆選集 人文会出版部 1926 『支那文学大観 第5・6巻 桃花扇』支那文学大観刊行会 1926 云亭山人『桃花扇』鹽谷温 原註 北隆堂書店 1930 C・W・リイドビーター『神秘的人間像』文曜書院 1940年 極道辻説法 CBSソニー 1977年 和尚の遺言 CBSソニー 1977年 1954年3月の第五福竜丸被爆事件の船内残留物を調査し、被爆罹災した核実験が水爆であると確認した分析化学者・理学博士、木村健二郎、航研機パイロットの藤田雄蔵とは幼なじみであり、藤田とはよく二人でグライダーのようなものを作って遊んでいた。横浜市の老松小学校の同級生尾崎士郎は東光にのべつ殴られて泣かされ、故郷岡崎に逃げ帰ったが、東光は全く憶えておらず、士郎の作り話だったかもしれないと述べている。関西学院の後輩稲垣足穂を高く評価していたが、足穂も在学中に今から殴られたことがあると言われ、友人が「今東光のところへ遊びにいこう」と言っても「あいつから殴られた恨みが消えないんで行かねえ」とへそを曲げていたが、東光は「オレなぐった覚え、ねえんだよ」と忘れていた(「極道辻説法」より)。 東京で画の勉強を行っていた際、伯父の使いで森鷗外の観潮楼へ『渋江抽斎』の執筆資料を届けたこともある。帝国劇場で開催されたある音楽会の席上、武者小路実篤の紹介で夏目漱石とも一度対面している。 谷崎の秘書を務めていた当時は意図的に柔弱な文学青年の身なりをしてカフェに入り、チンピラに言いがかりをつけられるのを待ち、期待通り喧嘩を売られると表に出て相手を半殺しの目に遭わせ、「やい。文学をやってる人間は皆な優さ男の意気地無しと思うなよ。俺みてえに喧嘩が三度の飯よりも好きな奴もいるんだ。見損うなよ」と啖呵を切っていた。大山倍達と交際し、極真空手初段の段位を贈られたこともある。「文壇諸家価値調査表」でも「腕力」の部で100点満点を与えられるなど、腕力の強さは古くから知られていた。 毒舌日本史 文藝春秋 1972年で出口王仁三郎との交流を描いている。 特定の出版社に縛られないで執筆する「鎖に繋がれていない犬、首輪のない犬たちの会」という作家の集まりである野良犬会を1973年に結成、会長を務めた。副会長は柴田錬三郎。事務長は梶山季之。会員には井上ひさし、黒岩重吾、瀬戸内晴美、田中小実昌、田辺聖子、陳舜臣、戸川昌子、野坂昭如、山口瞳、藤本義一、吉行淳之介といった面子が顔を揃えていた。 テレビや雑誌で見せる型破りな姿とは裏腹に、プライベートでは静かで謙虚な人柄であった。死の直前の主治医であった医師は、東光がガンによる苦痛をものともせず「大丈夫だ」とニコリと笑っていた姿を見て「こんなに意志の強い患者は初めて見た」と言い「テレビで見せる姿とは違って、非常に思慮深い思考をなさる人でした。ただ髪の毛はいつお剃りになっているかわかりませんが、生えてはきませんでしたね」と感想を残している。 1930年先進社から出版された『奥州流血録』は、生出仁(1904年 - 1954年)による代作であり、1988年に岩手出版から生出名義の『愛闘』として出版された。 『異人娘と武士』阪東妻三郎プロダクション、井上金太郎監督、1925年、阪東妻三郎、関操 『美男お小姓 人斬り彦斉』日活、佐伯清監督、八住和雄脚色、1955年、坂田藤十郎 (4代目)、山根寿子 『春泥尼』日活、阿部豊監督、1958年、筑波久子、左幸子、岡田真澄 船戸順 環三千世 『みみずく説法』東京映画、久松静児監督、1958年、森繁久彌(東光役)、司葉子 『河内風土記 おいろけ説法』宝塚映画、久松静児監督、1961年、森繁久彌、原知佐子、加東大介、藤木悠、浪花千栄子 『河内風土記 続おいろけ説法』宝塚映画、久松静児監督、1961年、森繁久彌、高島忠夫、浪花千栄子、山茶花究、花菱アチャコ 『河内風土記 おいろけ繁盛記』宝塚映画、佐伯幸三監督、1963年、フランキー堺、進藤英太郎、池内淳子、伴淳三郎 『河内カルメン』日活、鈴木清順監督、1966年、野川由美子、伊藤るり子、宮城千賀子 『尼くずれ』大映、池広一夫監督、1968年、安田道代、三木本賀代 『悪名』大映京都、田中徳三・森一生・安田公義・マキノ雅弘・増村保造監督・依田義賢脚色、勝新太郎、田宮二郎主演 『お吟さま』松竹、田中絹代監督、成澤昌茂脚色、1962年、有馬稲子、仲代達矢、高峰三枝子 『河内ぞろシリーズ』 (『河内ぞろ』の映像化) (1964年、日活)
『河内ぞろ 喧嘩軍鶏』 『河内ぞろ あばれ凧』 『河内フーテン族』宝塚映画、千葉泰樹監督、伊福部昭音楽、1968年、フランキー堺、ハナ肇、野川由美子、酒井和歌子、藤木悠 『ゾロ目の三兄弟』(『河内ぞろ』の映像化) 東映、山下耕作監督、高田宏治脚色、小林旭、渡瀬恒彦、田中邦衛 『お吟さま』東宝&大映京都、熊井啓監督 依田義賢脚色、伊福部昭音楽、1978年、中野良子・中村吉右衛門・志村喬主演 他多数 渋谷天外 - 「みみずく説法」文芸劇場(NHK版)1962年5月11日、ほか 森繁久弥 - 「みみずく説法」東宝 小倉一郎 - 「生きて行く私(1984年版)」MBS・PDS 伊武雅刀 - 「女の一代記」シリーズ 毒蝮三太夫 - 「全身編集長」~文豪から学ぶオトコの生き方~(NHK)2014年4月、ほか ^ 仏門に入った後は今春聽が戸籍名、今東光が筆名となった。自筆年譜には「午前5時、日輪と共に生る。依て父母之に命名して東光」とある。 ^ 函館商船学校に入学、帆船全済丸、帆船尾張丸、開成丸、明治丸の乗船を経て、明治22年 1889 卒業後、大阪商船会社に入社、明治27年 1894 日本郵船会社に入社。 ^ 当時の東大出の月収が50円だった時代に顧問料は150円。作家業を含めると1000円程の月収があったという。 ^ 多くの年譜が安楽寺住職と記すが事実ではない。 ^ 『東光金蘭帖』中央公論社 1959年/中公文庫 1978年 ^ 1950年、東宝争議後、東宝レッドパージによる組合幹部らの大量解雇に、山本薩夫、今井正、亀井文夫、伊藤武郎、岩崎昶ら東宝退社組が中心となり「新星映画」を設立。1953年には「新世紀映画」を設立した伊藤武郎が、1954年、「北星映画」代表を経て、新たに「新星映画」「キヌタプロダクション」のスタッフを糾合して「独立映画」を設立、社長となりこの工場跡地に中央映画撮影所を建設した(のち 調布映画撮影所)。「ここに泉あり」「真昼の暗黒」「異母兄弟」「人間の壁」などが製作された。 ^ 「天台院小史 今春聽 1953」(東大阪新聞社『河内史談 第参輯』所収P18 には、「天和三(1683)年二月、竪者権大僧都法印念海といふ人が…再建した」とある。念海は 元和九年(1623)の生まれ。父 空運は 及意上人空源の法弟子で、母は 空源の娘。寛永15年(1638年)春、上野 寛永寺一山 三明院 賢海のもと得度、南光坊天海に従い比叡山麓 坂本 大覚寺で加行。坂本 滋賀院にて 天海から 三部灌頂 及び 瑜祇等密教の伝法を受け、比叡山東塔の学頭寺院である 正覚院にて阿闍梨灌頂を修した。賢海示寂ののち 三明院 第二世として入山、かつて天海の命に賢海が兼領していた諸寺も主管し江戸と上方を往還した。念海については、三河 神宮寺にも記録があり、『念海大和尚』「権大僧都法印念海者雖非当院住持当寺累代之住持皆悉潤於海師之息澤故記於此伝聞...念海法印慈眼大師之末弟而住持于武陽下谷坂本三明院今者養玉院云而兼帯山門坂本大学寺(坂本大覚寺)大坂天樹寺(聖龍山天鷲寺:最澄開創 後陽成天皇勅諚寺 空源再興 天海開基 賢海中興)...於山弁流冨於海見聞之衆人悉無不帰敬師平月向人談法華一乗與涅槃佛性...」念海坐像(仏師長五郎作 寛文十一 1671年)も現存する。《東京都品川区指定文化財「木造念海和尚像」旧金光山三明院大覚寺=養玉院蔵)》。天和元年(1681年)、堺 光澤寺を再興し、天和二(1682)年、江戸・養玉院を勇退し西下、大坂 天鷲寺に住した。河内国若江郡・天台院の再興はその翌年の天和三(1683)年である。元禄三(1690)年七月七日遷化 六十八歳。墓処は近江長浜、善光寺近江別院・豊学山東雲寺(北城金光山支院として空源による中興開山)、また天台院再興と同時期、和泉国樽井に開基上人として創建した 南漸寺(現 南泉寺)にも供養塔が現存している。 ^ 文化四(1807)年七月八日寂 春秋百六歳 ^ 短篇集『闘鶏』(角川書店刊 解説平野謙)あとがきで、河内人は「下劣で、ケチン坊で、助平で、短気で、率直で、つまりは僕自身に似た人物」と書いている。 ^ このような作家の宗教者としての内面、深層に触れることなく、直木賞作家=大衆小説作家、通俗作家として、皮相、類型的解釈で摘み取る読者、文壇的関係者は多く、八尾をはじめ河内・大阪周辺では、東光の小説が河内を有名にするどころか「柄の悪い場所」というネガティブな印象を全国に定着させたとして今でも嫌う向きがある。八尾市では何度か彼の彫像建立の計画があったが、上記等の理由で住民の同意を得られず成立していない。 ^ また後には極真会館の顧問も務め、名誉三段も贈られた。極真会館の大山倍達氏は「いろいろな作家先生に空手を勧めたが、実際にやられたのは今先生御一人だった。」と語っている ^ 矢野隆司 「今東光 : 関西学院と東光の生涯」 関西学院史紀要 2005年3月25日 p7 ^ 尾崎秀樹「今東光と歴史文学」(『武蔵坊辨慶(4)』徳間文庫 1985年) ^ 茶谷十六「解説 悲運の作家生出仁の再生を期す」生出仁『愛闘』(岩手出版 1989第2版[初版1988]):565-587 ^ 岩崎昶『日本映画私史』(朝日新聞社、1977年)による ^ 『仏教年鑑 1930』 ^ 「独立プロ名画特選」 ^ 「社党、今東光氏追及へ 『自衛隊は人を殺せ』の発言で」朝日新聞1970年6月4日付け夕刊、参議院内閣委員会(第63回国会閉会後)会議録第1号(1970年(昭和45年)7月8日)27頁の矢山有作発言、参議院決算委員会(第63回国会閉会後)会議録第3号(1970年(昭和45年)7月9日)1頁の和田静夫発言。 ^ 昭和文士は迫力十分 大阪・今東光資料館で藤本義一との交流振り返る企画展 ^ 短編集 「人斬り彦斎」「北斎秘画」「写楽の腕」「森蘭丸」「甘い匂いを持つ尼」「信長を刺した女」「八尾別当」 ^ 今東光『十二階崩壊』(中央公論社、1978年)p.73 ^ 今東光『十二階崩壊』(中央公論社、1978年)pp.150-151 ^ 今東光『毒舌 身の上相談』pp.201-203(集英社文庫、1994年) ^ “出版・読書メモランダム”. 出版・読書メモランダム. 2021年7月27日閲覧。 平野謙『昭和文学史』筑摩書房 1963年 高見順『昭和文学盛衰史』講談社 1965年 尾崎秀樹「作家と作品」、サトウハチロー「今東光和尚にお世話になったボク」(『日本文学全集 今東光・今日出海』集英社 1972年) 有吉佐和子 大宅壮一 近衛文麿 柴田錬三郎 太宰治 戸川昌子 松本清張 山田耕筰 横光利一 伊藤真乗 ヘンリー・小谷 佐藤春夫 谷崎潤一郎 川端康成 梶山季之 世相を斬る(2代目司会者) 瀬戸内寂聴 今東光 - NHK人物録 表 話 編 歴 星一↓ 柳川宗左衛門† 早川慎一 松本治一郎† 高橋龍太郎 田中耕太郎↓ 梅原真隆 佐々木良作 山本勇造 尾崎行輝 堀越儀郎 柏木庫治 伊藤保平 西園寺公一 岡部常 膳桂之助† 西田天香 赤松常子 岩間正男 徳川宗敬 和田博雄↓ 鈴木清一 広瀬与兵衛 宮城タマヨ 大野幸一 楠見義男 東浦庄治↓ 奥むめお 原虎一 高瀬荘太郎 木下辰雄 金子洋文 青山正一 高良とみ 河崎なつ 岡田宗司 木内キヤウ 大隈信幸↓ 慶松勝左衛門† 稲垣平太郎 水橋藤作 高田寛 兼岩伝一 中村正雄 鈴木直人↓ 荒井八郎↓ 岡村文四郎 鬼丸義斎 井上なつゑ 小泉秀吉 岡本愛祐 川上嘉 中山寿彦 中川以良 丹羽五郎 羽仁五郎 寺尾豊 下条康麿 河野正夫 佐々弘雄↓ 重宗雄三 宿谷栄一 市来乙彦 安部定 大西十寸男↓ 藤井新一 水久保甚作 鎌田逸郎 中野重治 安達良助 堀真琴 松野喜内 木村禧八郎 寺尾博 穂積真六郎 矢野酉雄 藤井丙午 飯田精太郎 小川友三↓ 小野光洋 塚本重蔵 松井道夫 吉松喬† 星野芳樹 北條秀一 三島通陽 小林勝馬 中西功↓ 来馬琢道 新谷寅三郎 松嶋喜作 内村清次 大山安 浅岡信夫 江熊哲翁 松村真一郎 伊東隆治 細川嘉六 小杉イ子 仲子隆 国井淳一↑ 山川良一 高木正夫 加藤正人 杉山昌作 岩沢忠恭 加藤シヅエ 泉山三六 荒木正三郎 大谷瑩潤 長島銀蔵 菊川孝夫 三浦辰雄 常岡一郎 野田卯一↓ 高橋道男 瀧井治三郎 岡田信次 一松定吉 野溝勝 内村清次 平井太郎 藤原道子 栗山良夫 溝口三郎 石川清一 愛知揆一↓ 上条愛一 小笠原二三男 松原一彦 小酒井義男 片柳真吉 宮本邦彦 重宗雄三 堀木鎌三 高田なほ子 羽仁五郎 松本昇↓ 大矢半次郎 石川栄一 矢嶋三義 小野義夫 小林政夫 鈴木文四郎↓ 白波瀬米吉 小林孝平 田中一 須藤五郎 木村禧八郎 細川嘉六† 森八三一 中山寿彦 小川久義 鈴木恭一↓ 椿繁夫 山花秀雄↓ 寺尾豊 加藤シヅエ 加藤正人 高田なほ子 中村正雄 下条康麿 藤原道子 竹中恒夫 柴田栄 重宗雄三 天坊裕彦 鈴木強 占部秀男 野溝勝 北村暢 田中一 杉山昌作 迫水久常 栗山良夫↓ 松村秀逸 泉山三六 大谷藤之助 岩沢忠恭 辻武寿 小笠原二三男 手島栄 平林剛 小野義夫↓ 勝俣稔 阿部竹松 塩見俊二 一松定吉 小酒井義男 大谷瑩潤 荒木正三郎 本多市郎↓ 矢嶋三義 石黒忠篤↓ 常岡一郎 岩間正男 横川正市 谷口弥三郎 大竹平八郎 小林孝平↓ 北条雋八 江藤智 森八三一 堀木鎌三 光村甚助 稲浦鹿蔵 内村清次 柴谷要 小西英雄† 上条愛一↑ 中上川アキ↓ 加藤シヅエ 長谷川仁 迫水久常 源田実 浅井亨 山崎斉 丸茂重貞 北条雋八 鈴木一弘 山下春江 大谷藤之助 渋谷邦彦 二宮文造 小林武 岩間正男 鈴木市蔵 稲浦鹿蔵 森八三一 野知浩之 天坊裕彦 小西英雄↓ 林塩 田中一 重宗雄三 辻武寿 野々山一三 中村順造 藤原道子 鬼木勝利 北村暢 高山恒雄 鈴木強 占部秀男 江藤智 日高広為 横川正市 小酒井義男 野溝勝 豊田雅孝 竹中恒夫 向井長年 手島栄↓ 中村正雄 川野三暁 大竹平八郎 柴谷要 森田たま 光村甚助 松村秀逸↓ 阿部竹松↑ 山高しげり↑ 石原慎太郎↓ 青島幸男 上田哲 今春聴 重宗雄三 長谷川仁 大松博文 三木忠雄 小林国司 二宮文造 田渕哲也 鈴木一弘 上林繁次郎 小笠原貞子 塩出啓典 岩間正男 永野鎮雄 峯山昭範 森八三一 沢田実 加藤シヅエ 小林武 内田善利 向井長年 山田勇 松本英一 藤原房雄 渡辺武 中村正雄↓ 上田稔 若林正武 玉置猛夫 迫水久常 源田実 鈴木強 大竹平八郎 長田裕二 和田静夫 藤原道子 田口長治郎 大谷藤之助 江藤智 亀井善彰 長屋茂 山下春江 田中一 安永英雄 阿具根登 高山恒雄 横川正市 北村暢 宮田輝 市川房枝 青島幸男 鳩山威一郎 山東昭子 斎藤栄三郎 丸茂重貞 小林国司 目黒今朝次郎 田渕哲也 三木忠雄 秦豊 糸山英太郎 鈴木一弘 峯山昭範 片山甚市 佐藤信二↓ 和田静夫 二宮文造 内田善利 山中郁子 案納勝 岡田広 江藤智 迫水久常↓ 阿具根登 藤原房雄 太田淳夫 長田裕二 松本英一 坂野重信 野田哲 向井長年↓ 大谷藤之助 内藤功 福間知之 源田実 立木洋 塩出啓典 柄谷道一 粕谷照美 安永英雄 上林繁次郎 神谷信之助 和田春生↓ 大鷹淑子 神田博↓ 下村泰 渡辺武 小巻敏雄 森下泰 岩間正男 上田稔 近藤忠孝 市川房枝 青島幸男 鳩山威一郎 宮田輝 中山千夏 山東昭子 大鷹淑子 岡部三郎 美濃部亮吉↓ 大河原太一郎 田渕哲也 田沢智治 斎藤栄三郎 村上正邦 長田裕二 岡田広 井上孝 関口恵造 板垣正 源田実 山中郁子 福間知之 丸茂重貞↓ 梶原清 目黒今朝次郎 鈴木一弘 松浦功 田中正巳 峯山昭範 坂野重信 片山甚市 大川清幸 野田哲 江藤智↓ 鈴木和美 二宮文造 阿具根登 太田淳夫 塩出啓典 藤原房雄↓ 鶴岡洋 松本英一 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第33回 該当作品なし 第34回 新田次郎『強力伝』/邱永漢『香港』 第35回 南條範夫『燈台鬼』/今官一『壁の花』 第36回 今東光『お吟さま』/穂積驚『勝烏』 第37回 江崎誠致『ルソンの谷間』 第38回 該当作品なし 第39回 山崎豊子『花のれん』/榛葉英治『赤い雪』 第40回 城山三郎『総会屋錦城』/多岐川恭『落ちる』 第41回 渡辺喜恵子『馬淵川』/平岩弓枝『鏨師』 第42回 司馬遼太郎『梟の城』/戸板康二『團十郎切腹事件』他 第43回 池波正太郎『錯乱』 第44回 寺内大吉『はぐれ念仏』/黒岩重吾『背徳のメス』 第45回 水上勉『雁の寺』 第46回 伊藤桂一『螢の河』 第47回 杉森久英『天才と狂人の間』 第48回 山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』/杉本苑子『孤愁の岸』 第49回 佐藤得二『女のいくさ』 第50回 安藤鶴夫『巷談本牧亭』/和田芳恵『塵の中』 第51回 該当作品なし 第52回 永井路子『炎環』/安西篤子『張少子の話』 第53回 藤井重夫『虹』 第54回 新橋遊吉『八百長』/千葉治平『虜愁記』 第55回 立原正秋『白い罌粟』 第56回 五木寛之『蒼ざめた馬を見よ』 第57回 生島治郎『追いつめる』 第58回 野坂昭如『アメリカひじき』『火垂るの墓』/三好徹『聖少女』 第59回 該当作品なし 第60回 陳舜臣『青玉獅子香炉』/早乙女貢『僑人の檻』 第61回 佐藤愛子『戦いすんで日が暮れて』 第62回 該当作品なし 第63回 結城昌治『軍旗はためく下に』/渡辺淳一『光と影』 第64回 豊田穣『長良川』 第65回 該当作品なし 第66回 該当作品なし 第67回 綱淵謙錠『斬』/井上ひさし『手鎖心中』 第68回 該当作品なし 第69回 長部日出雄『津軽世去れ節』『津軽じょんから節』/藤沢周平『暗殺の年輪』 第70回 該当作品なし 第71回 藤本義一『鬼の詩』 第72回 半村良『雨やどり』/井出孫六『アトラス伝説』 第73回 該当作品なし 第74回 佐木隆三『復讐するは我にあり』 第75回 該当作品なし 第76回 三好京三『子育てごっこ』 第77回 該当作品なし 第78回 該当作品なし 第79回 津本陽『深重の海』/色川武大『離婚』 第80回 宮尾登美子『一絃の琴』/有明夏夫『大浪花諸人往来』 第81回 田中小実昌『浪曲師朝日丸の話』『ミミのこと』/阿刀田高『ナポレオン狂』 第82回 該当作品なし 第83回 向田邦子『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』/志茂田景樹『黄色い牙』 第84回 中村正䡄『元首の謀叛』 第85回 青島幸男『人間万事塞翁が丙午』 第86回 つかこうへい『蒲田行進曲』/光岡明『機雷』 第87回 深田祐介『炎熱商人』/村松友視『時代屋の女房』 第88回 該当作品なし 第89回 胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』 第90回 神吉拓郎『私生活』/高橋治『秘伝』 第91回 連城三紀彦『恋文』/難波利三『てんのじ村』 第92回 該当作品なし 第93回 山口洋子『演歌の虫』『老梅』 第94回 森田誠吾『魚河岸ものがたり』/林真理子『最終便に間に合えば』『京都まで』 第95回 皆川博子『恋紅』 第96回 逢坂剛『カディスの赤い星』/常盤新平『遠いアメリカ』 第97回 白石一郎『海狼伝』/山田詠美『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』 第98回 阿部牧郎『それぞれの終楽章』 第99回 西木正明『凍れる瞳』『端島の女』/景山民夫『遠い海から来たCOO』 第100回 杉本章子『東京新大橋雨中図』/藤堂志津子『熟れてゆく夏』 第101回 ねじめ正一『高円寺純情商店街』/笹倉明『遠い国からの殺人者』 第102回 星川清司『小伝抄』/原尞『私が殺した少女』 第103回 泡坂妻夫『蔭桔梗』 第104回 古川薫『漂泊者のアリア』 第105回 宮城谷昌光『夏姫春秋』/芦原すなお『青春デンデケデケデケ』 第106回 高橋義夫『狼奉行』/高橋克彦『緋い記憶』 第107回 伊集院静『受け月』 第108回 出久根達郎『佃島ふたり書房』 第109回 髙村薫『マークスの山』/北原亞以子『恋忘れ草』 第110回 佐藤雅美『恵比寿屋喜兵衛手控え』/大沢在昌『新宿鮫 無間人形』 第111回 中村彰彦『二つの山河』/海老沢泰久『帰郷』 第112回 該当作品なし 第113回 赤瀬川隼『白球残映』 第114回 小池真理子『恋』/藤原伊織『テロリストのパラソル』 第115回 乃南アサ『凍える牙』 第116回 坂東眞砂子『山妣』 第117回 篠田節子『女たちのジハード』/浅田次郎『鉄道員(ぽっぽや)』 第118回 該当作品なし 第119回 車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』 第120回 宮部みゆき『理由』 第121回 佐藤賢一『王妃の離婚』/桐野夏生『柔らかな頬』 第122回 なかにし礼『長崎ぶらぶら節』 第123回 船戸与一『虹の谷の五月』/金城一紀『GO』 第124回 山本文緒『プラナリア』/重松清『ビタミンF』 第125回 藤田宜永『愛の領分』 第126回 山本一力『あかね空』/唯川恵『肩ごしの恋人』 第127回 乙川優三郎『生きる』 第128回 該当作品なし 第129回 石田衣良『4TEEN フォーティーン』/村山由佳『星々の舟』 第130回 江國香織『号泣する準備はできていた』/京極夏彦『後巷説百物語』 第131回 奥田英朗『空中ブランコ』/熊谷達也『邂逅の森』 第132回 角田光代『対岸の彼女』 第133回 朱川湊人『花まんま』 第134回 東野圭吾『容疑者Xの献身』 第135回 三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』/森絵都『風に舞いあがるビニールシート』 第136回 該当作品なし 第137回 松井今朝子『吉原手引草』 第138回 桜庭一樹『私の男』 第139回 井上荒野『切羽へ』 第140回 天童荒太『悼む人』/山本兼一『利休にたずねよ』 第141回 北村薫『鷺と雪』 第142回 佐々木譲『廃墟に乞う』/白石一文『ほかならぬ人へ』 第143回 中島京子『小さいおうち』 第144回 木内昇『漂砂のうたう』/道尾秀介『月と蟹』 第145回 池井戸潤『下町ロケット』 第146回 葉室麟『蜩ノ記』 第147回 辻村深月『鍵のない夢を見る』 第148回 朝井リョウ『何者』/安部龍太郎『等伯』 第149回 桜木紫乃『ホテルローヤル』 第150回 朝井まかて『恋歌』/姫野カオルコ『昭和の犬』 第151回 黒川博行『破門』 第152回 西加奈子『サラバ!』 第153回 東山彰良『流』 第154回 青山文平『つまをめとらば』 第155回 荻原浩『海の見える理髪店』 第156回 恩田陸『蜜蜂と遠雷』 第157回 佐藤正午『月の満ち欠け』 第158回 門井慶喜『銀河鉄道の父』 第159回 島本理生『ファーストラヴ』 第160回 真藤順丈『宝島』 第161回 大島真寿美『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』 第162回 川越宗一『熱源』 第163回 馳星周『少年と犬』 第164回 西條奈加『心淋し川』 第165回 佐藤究『テスカトリポカ』/澤田瞳子『星落ちて、なお』 第166回 今村翔吾『塞王の楯』/米澤穂信『黒牢城』 第167回 窪美澄『夜に星を放つ』 第168回 小川哲『地図と拳』/千早茜『しろがねの葉』 第169回 垣根涼介『極楽征夷大将軍』/永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』 第170回 河﨑秋子『ともぐい』/万城目学『八月の御所グラウンド』 第171回 一穂ミチ『ツミデミック』 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ イスラエル アメリカ 日本 韓国 オランダ CiNii Books CiNii Research IdRef 今東光 20世紀日本の小説家 全国区選出の参議院議員 自由民主党の参議院議員 昭和時代の参議院議員 天台宗の僧 神智学 直木賞受賞者 華北交通の人物 関西学院高等部出身の人物 横浜市出身の人物 1898年生 1977年没 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータと異なるNHK人物録ID FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/19 21:53更新
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kon toukou
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