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吉田茂の情報 (よしだしげる)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

吉田茂の情報(よしだしげる) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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吉田 茂さんについて調べます

■名前・氏名
吉田 茂
(読み:よしだ しげる)
■職業
政治家
■吉田茂の誕生日・生年月日
1878年9月22日 (年齢89歳没)
寅年(とら年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
東京出身

吉田茂と同じ1878年生まれの有名人・芸能人

吉田茂と同じ9月22日生まれの有名人・芸能人

吉田茂と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


吉田茂と関係のある人

田中耕太郎: 1957年8月19日の、皇太子明仁親王と正田美智子との軽井沢のテニスコートでの出会いは、田中耕太郎が、カトリック人脈である小泉信三、吉田茂らと共に演出したとされており、田中もその出会いの場に立ち会っている。


牧野伸顕: 1936年(昭和11年)、二・二六事件の折には親英米派の代表として湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していたところを襲撃されるが、孫でもある麻生和子(吉田茂の娘で麻生太郎の母)の機転によって窮地を脱した一方で、護衛の警官が殺害された。


麻生太賀吉: 妻和子は吉田茂の三女。


緒方貞子: 夫・緒方四十郎(元日本銀行理事)は、朝日新聞社副社長や自由党総裁、吉田茂政権で副総理を務めた緒方竹虎の三男である。


吉岡専造: 『写真集 吉田茂』(吉田茂国際基金、2004年)


植木庚子郎: 追放解除後の1952年、第25回衆議院議員総選挙に吉田茂率いる自由党公認で旧福井全県区より立候補し当選する。


笹山茂太郎: 反自由党・反吉田茂を掲げる民主党野党派と行動を共にした。


杉原誠四郎: 『続・吉田茂という病』自由社、2022年(波多野澄雄との共著) ISBN 978-4908979194


白洲次郎: 「占領下の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、ただ二人――一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。


安倍晋三: 戦後の日本における国葬の実施は、天皇・皇后を除いて吉田茂以来2人目で、戦前を含む内閣総理大臣経験者としては6人目となった。


松岡洋右: 松岡は吉田茂の2年先輩の外交官であり、友人関係があった。


小原直: また、この時期に各省次官合同会議で外務次官であった吉田茂と親交を結び、戦後死去するまで交友関係が続いた。


広田弘毅: また、軍の国防問題講演会や国体明徴講演会に対抗するため、吉田茂ら待命の大公使に国内各地で外交問題講演会を開かせた。


橋本登美三郎: だが、1955年の保守合同に際しては、橋本の恩師である吉田茂が自由民主党への参加を拒否してその側近の佐藤栄作もこれに従う。


杉原誠四郎: また、この問題を問い質す過程で「アジア歴史資料センター」センター長である波多野澄雄と、互いに個人の資格で対談し、『吉田茂という病』『続・吉田茂という病』を刊行に至った。


大久保武雄: 首相吉田茂の承認の下、日本占領にあたっていた連合国軍の指示に従い、10月16日に海上保安庁は日本特別掃海隊を編成。


阿南惟幾: 近衛上奏文による終戦策を進めていた外交官吉田茂(元駐英大使)が阿南の陸軍大臣就任直後の4月15日に憲兵隊に拘束された。


赤城宗徳: 政界に復帰後は吉田茂政権打倒に動き、1954年自由党を離党し鳩山一郎を総裁とする日本民主党に参加した。


有田八郎: 一方畔上が料亭再開のための資金援助を吉田茂に頼んだことで、夫婦は揉め、1955年(昭和30年)に離婚した。


松野鶴平: 1946年5月13日、深夜、鶴平が外相官邸の塀を乗り越えて、これに忍び込み、寝ていた吉田茂を起こし、朝まで総裁になるようにと説得しつづけた。吉田茂は根負けして総裁となり、第一次吉田内閣が発足する。


入江俊郎: 1952年8月26日、後任の法制局長が定まらないまま衆議院法制局長を辞職したが、同月30日には吉田茂内閣による任命で、史上最年少の51歳で最高裁判所判事となる。


戸川猪佐武: その後は、創作活動に重点を置くようになり、吉田茂から鈴木善幸に至るまでの保守政界の内幕を描いた実録政治小説『小説吉田学校』全8巻は、ベストセラーとなり、戸川は地位を確立した。後にこれらを更に掘り下げた『小説吉田茂』と『小説三木武吉』なども執筆している。


小市慢太郎: 負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜(2012年9月 - 10月) - 池田勇人 役


四元義隆: 古嶋は、当時自民党最高顧問を務め、吉田茂の指南役を務めていた。


尾上寛之: 負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜 第4話・第5話(2012年9月29日・10月6日、NHK) - 宮沢喜一 役


今井朋彦: 土曜ドラマスペシャル「負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜」(2012年、NHK) - 東久邇宮稔彦王 役


舟越保武: 「吉田茂像」1981年 東京都千代田区北の丸公園


篠井英介: 負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜 (2012年、NHK) - 芦田均 役


今日出海: 『吉田茂』講談社、1967年/中公文庫、1983年


松本治一郎: しかし公職追放は解除されたものの時の外務大臣・吉田茂の妨害によって第22回衆議院議員総選挙への立候補届出には間に合わず、翌年の第1回参議院議員通常選挙に立候補することになる。


吉田茂の情報まとめ

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吉田 茂(よしだ しげる)さんの誕生日は1878年9月22日です。東京出身の政治家のようです。

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実施した政策、人物などについてまとめました。父親、家族、卒業、事件、解散、病気、引退、テレビ、趣味、ドラマに関する情報もありますね。89歳で亡くなられているようです。

吉田茂のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。旧姓・竹内。

内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)(第45・48・49・50・51代)、外務大臣(第73・74・75・78・79代)、農林大臣(第5代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、衆議院議員(7期)、貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、二松学舎大学舎長(第5代)を歴任した。

東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、及び1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。

優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板し、かつ長期政権を築いた者は吉田と安倍晋三の2人のみである。

政治活動以外の公的活動としては、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學館大学において総長に就任した。また、二松学舎では、金子堅太郎の後任として学校法人の理事長にあたる舎長に就任した。

1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)に生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった。実母の身元はいまでもはっきりしない。竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ。

吉田の実父と養父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)の明治維新(めいじいしん)をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった。その養母は徳川期儒学の所産であった。

1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という。養父・健三が40歳で死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などと言っている。

少年期は、大磯町西小磯で養母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。

同年9月から、日本中学(日本学園中学校・高等学校の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校(一橋大学の前身)に籍を置くが、商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶應義塾・東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に旧制学習院高等学科(のちの旧制学習院高等科、学習院大学の前身)を卒業した。

同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)9月に無試験で東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省する。同期入省者には首席で合格した広田弘毅の他、武者小路公共、池邊龍一、林久治郎、藤井實らがいた。

1918年山東省の済南で領事として勤務していた吉田は、岳父の牧野伸顕と共にパリ講和会議に出席した。当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、田中首相や陸軍から止められるほどであった。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、満洲事変以後もその点で一貫していた。中華民国の奉天総領事館で総領事を務めた時代に東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離論」を支持。1928年(昭和3年)、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官に就任する。

1931年より駐イタリア大使、但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、このころ第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた。統計をつかさどる中央統計委員会委員を兼ねた。

1936年(昭和11年)の二・二六事件から2か月後に駐イギリス大使となった。大命を拝辞した盟友の近衛文麿から広田への使者を任されて広田内閣で組閣参謀となり、外務大臣・内閣書記官長を予定したが、寺内寿一ら陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年(昭和14年)待命大使となり外交の一線からは退いた。

太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦敗北を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、その後日本軍はアメリカ本土空襲やレンネル島沖海戦、オーストラリア空襲など一部勝利を重ねたため成功しなかった。

しかし1945年に入り日本の敗色が濃くなると、近衛文麿に殖田俊吉を引き合わせ、後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)。40日あまり後に不起訴・釈放となったが、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる。

終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。 短期間のうちに東久邇宮内閣が立ち行かなくなると東久邇、木戸幸一、近衛文麿らは吉田に後継首相となるよう説得に当たったが固辞。同年10月には吉田も後押しした幣原が首相に担ぎ上げられ、吉田は引き続き幣原内閣の外務大臣に就任した。同年12月、貴族院議員に勅選される。

翌1946年(昭和21年)5月、日本自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴う後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。同年12月20日には、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。大蔵大臣に石橋湛山を任じて傾斜生産や復興金融金庫によって戦後経済復興を推し進めた。

1947年(昭和22年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。

自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし吉田は、首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。この間、政策に不満を持ち民主党を離党した幣原喜重郎や田中角榮らの民主クラブと日本自由党が合併し民主自由党が結成され、吉田が総裁に就任した。

このときGHQ民政局による山崎首班工作事件が起こるも失敗。 これを受けて吉田は民主自由党単独で第2次内閣を組織した。その直後に社会党などの野党は内閣不信任を提出、可決されたため、吉田は衆議院を解散した(馴れ合い解散)。第24回衆議院議員総選挙で民主自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。

1949年(昭和24年)3月、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、共産主義の悪と戦う手段として、私は、長い間、米議会の下院非米活動委員会をモデルにした「非日活動委員会」を設置することが望ましいと熟慮してきた。」なる書簡を送り、破壊活動防止法と公安調査庁、内閣調査室が、1952年(昭和27年)に、設置、施行されるきっかけを作る。アメリカでは当時、赤狩り旋風が吹き荒れていた。

朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(日米安保)を結んだ。国内では全面講和論の支持者も少なくなく、吉田は政治生命を賭けて平和条約の調印に臨んだが、帰国後の内閣支持率は戦後最高の58%(朝日新聞)に上った。しかし、ここが吉田の頂点であった。

側近の白洲次郎などが独立達成を花道とした退陣を勧めるなど退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投した。しかし、党内に公職追放を解かれた鳩山一郎を総裁に復帰させる動きがあり、吉田は衆議院を解散(抜き打ち解散)した。第25回衆議院議員総選挙で自由党の議席は過半数をわずかに上回るものだった。吉田は第4次吉田内閣を組織した。1953年(昭和28年)2月、吉田が衆議院予算委員会で質問者(西村栄一)に対し「バカヤロー」と発言したことが問題となり、三木武吉ら反吉田グループは吉田に対する懲罰事犯やそれに続く内閣不信任案を可決させ、吉田は衆議院解散(バカヤロー解散)で対抗した。選挙の結果、自由党は少数与党に転落、改進党との閣外協力で第5次吉田内閣を発足させて延命を繋いだ。吉田内閣は鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。

1954年(昭和29年)1月から強制捜査が始まった造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の収賄罪の逮捕を延期させた(後に佐藤は政治資金規正法違反で在宅起訴されるが国連加盟恩赦で免訴となる)。これが戦後唯一の指揮権発動である。当然ながら、新聞などに多大なる批判を浴びせられた。また、同年6月3日の警察庁及び道府県警察を設置する警察法全面改正をめぐる混乱では、議長堤康次郎に議院警察権を発動させて国会に警官隊を初めて投入した。同年7月1日には保安庁と保安隊を防衛庁と自衛隊に改組させており、野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及した際は吉田は「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁した。同年12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎ら側近に諌められて断念し、12月7日に内閣総辞職、翌日に自由党総裁を辞任した。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日。

造船疑獄では吉田自身が国会から証人喚問を複数回要求されたが、公務多忙や病気を理由に出頭しなかった。国会から議院証言法違反(不出頭罪)で告発されるも、吉田が首相を退いた後である1955年5月19日に検察は不起訴処分とした。

1955年(昭和30年)の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介で1957年(昭和32年)に入党した。1962年(昭和37年)、皇學館大學総長就任、翌1963年(昭和38年)10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退した。しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、「大長老」「吉田元老」などと呼ばれ、政界の実力者として隠然たる影響力を持っていた。

1964年(昭和39年)、日中貿易覚書にともなう中華人民共和国との関係促進や周鴻慶事件の処理に態度を硬化させた中華民国を池田勇人首相の特使として訪問、蔣介石と会談した(吉田書簡)。同年秋、生前叙勲制度の復活により大勲位菊花大綬章を受章。同年には、マッカーサー元帥の葬儀に参列するため渡米した。1965年(昭和40年)、米寿にあたり、天皇より鳩杖を賜る。

その後も回顧録をはじめとした著述活動などを続け、死の前年である1966年(昭和41年)には、『ブリタニカ百科事典』1967年版の巻頭掲載用として、"Japan's Decisive Century"(邦題:「日本を決定した百年」)と題した論文の執筆を行った。1967年(昭和42年)6月には「日本を決定した百年」を国内で出版したが、それから間もない8月末に心筋梗塞を発症した。このときは、あわてて駆けつけた義理の甥にあたる武見太郎(医師会会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。

死去前日の10月19日に「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である。翌20日正午ごろ、大磯の自邸にて死去した。突然の死だったため、その場には医師と看護婦3人しか居合わせず、身内は1人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという。享年90(満89歳没)。

佐藤栄作首相は東南アジア訪問中だったが、予定を繰り上げて21日夜に帰国、羽田空港から吉田邸に直行して遺体と対面した。22日未明に鎌倉の別邸に戻り、同日夜に再度吉田邸を訪問した。棺に納められていた吉田愛用のステッキが遺族から佐藤に贈られた。佐藤は代わりに自分のステッキを棺に入れた。

10月22日に死後洗礼を受け、洗礼名は「ヨゼフ・トーマス・モア吉田茂」であった。

10月23日に東京カテドラルで密葬が行われた。長男の健一は浄土宗での葬儀を希望したが、長女の桜子、三女の和子、次男の正男がカトリック葬を希望した。東京カテドラルは、1941年10月に妻・雪子の葬儀が行われ、吉田が涙を流した場所だった。幡ヶ谷火葬場で火葬され、遺骨は大磯の祭壇に置かれた。10月31日には戦後初の国葬が日本武道館で行われ、官公庁や国公立の学校は半休、公営競技も開催を終日取り止めた。テレビ各局も国葬実施前後に派手な番組やコマーシャルメッセージ(CM)の放送を行うことを自粛すると共に実施当日は特別追悼番組を放送して吉田を偲んだ。

戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。遺骨は青山霊園の一角において娘婿の麻生太賀吉らと並んで葬られたが、2011年に神奈川県横浜市の久保山墓地に改葬された。その後、大磯旧吉田茂邸内の七賢堂に人物神として祀られている。

吉田の銅像は、「北の丸公園」、「高知龍馬空港」、「大磯城山公園」の3箇所に建てられている。

吉田が死去した当時、存命中の内閣総理大臣経験者としては最高齢(1953年の阿部信行没後自身が死去するまで)であった(最古参は東久邇宮稔彦王のまま)。

実施した政策

1946年9月27日 : 労働関係調整法の公布・施行

1946年11月3日 : 日本国憲法の公布

1947年3月31日 : 教育基本法の公布・施行

1947年3月31日 : 学校教育法の公布・施行、学校制度改革、義務教育は中学3年まで延長。

1947年4月7日 : 労働基準法の公布・施行

1947年4月14日 : 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律の公布・施行

1947年5月3日 : 日本国憲法の発効

1949年1月1日 : 日本国憲法に適合させる改正刑事訴訟法の施行

1949年6月1日 : 労働組合法の公布・施行

1950年4月15日 : 公職選挙法の公布・施行

1950年5月4日 : 生活保護法の公布・施行

1950年6月5日 : 住宅金融公庫法の公布・施行

1950年12月13日 : 地方公務員法の公布

1950年12月28日 : 毒物及び劇物取締法の公布・施行

1951年2月13日 : 地方公務員法の施行

1951年3月31日 : 結核予防法の公布・施行

1951年6月30日 : 覚せい剤取締法の公布・施行

1951年9月8日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の署名

1951年11月18日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の批准

1952年4月28日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の発効

1952年7月21日 : 破壊活動防止法の公布・施行

1953年3月17日 : 麻薬及び向精神薬取締法の公布・施行

1954年5月19日 : 厚生年金保険法の公布・施行

1954年6月8日 : 警察法の公布・施行

1954年6月9日 : 自衛隊法&防衛庁設置法の公布

1954年7月1日 : 自衛隊法&防衛庁設置法の施行

人物

この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)出典検索: "吉田茂" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年6月)

性格・特徴

癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私にわたりユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。また、吉田の行動は当時の新聞の風刺漫画の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。

耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児書生の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせている。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという。

吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりすることもしばしばあった。昭和天皇に閣僚名簿を報告する際に、自分の側近である小沢佐重喜の名前を間違えて、天皇から注意を受けたことがある。

尊皇家・臣茂

尊皇家であり、終戦後、昭和天皇が戦争責任をとって退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという。

1952年(昭和27年)11月の明仁親王の立太子礼に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「臣茂」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「臣は総理大臣の臣だ」とやり返した。

住居

幣原内閣で外相に就任した際、東京・芝白金台の旧朝香宮邸を借り上げ、外務大臣公邸とした。これは傍系11宮家の皇籍離脱に伴い、旧皇族の経済的困窮を慮った昭和天皇の要請と言われる。その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。

佐藤栄作が内閣総理大臣であったころに吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという。

首相退陣後は神奈川県大磯町で暮らした。政界への影響力を保持し、国内外の要人が訪れることも多かった。豪壮な旧吉田邸は本人の没後も外交の舞台となり、1979年の日米首脳会談の会場となった。2009年に火災で全焼したが、寄付金により再建され、2017年4月1日に大磯町郷土資料館別館として公開された。ただ孫の麻生太郎は再建は意味がないとして当初は反対したという。同年10月23日には、河野太郎外相と訪日したミクロネシア連邦大統領との懇談・夕食会場として使われた。

趣味・嗜好

鼻眼鏡をかけていた。当時でも鼻眼鏡をかける人は少なかった。

大の葉巻好きで知られ、戦中戦後の輸入自体が不如意な時代にも、戦前に大量に買い溜めしておいた本場物のハバナを喫っていたほどであったが、サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には葉巻を断っていたという。晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きのハイライトに切り替えた。

吉田は落語が好きで、六代目春風亭柳橋を贔屓にしていた。さすがに自分から寄席に行けないので、しばしば柳橋を官邸に呼び、当時珍しかったテレビを高座代わりにして一席演じさせていた。孫である麻生太郎は、吉田に連れられて鈴本演芸場に行くエピソードを著書で紹介している。

吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。新人の番記者だった三宅久之は、吉田の印象について「傲岸不遜な『クソ爺』だった」と述べている。

もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人間であり、彼と親しかった白洲次郎は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。

車における英国趣味

英国趣味は自家用車にも及んだ。駐英大使時代ロールス・ロイスの中型モデル、「25/30HP」1937年式でフーパー製サルーンボディを架装した個体を私品として購入、帰国時には日本に持ち帰り、戦時中に政財界で奨励された皇室・軍などへの「自家用車献納」もせず手元に留め置いた。吉田はこの25/30HPロールスを戦後も長く愛用、1950年代には同車をイギリスに送ってオーバーホールを頼んでまで使い続けた。

一方、1960年代に入り日本の自動車輸入制限が緩和された際には、首相時代、西ドイツ首相コンラート・アデナウアーと個人的に交わした「貴国復興の暁にはドイツ車を購入する」という旧約から、当時のドイツ製最高級車メルセデス・ベンツ「300SE(W111)」を購入、その旨の電報をアデナウアーに送っている。いずれも専属運転手の乗務により吉田の足として用いられたが、両車とも吉田没後は麻生太賀吉に引き継がれてのち、日本国内の自動車愛好家に譲られ、2000年代に至っても自走可能なコンディションで保管されている。特にロールス・ロイスは、吉田に関連するテレビドラマやイベントでも公開され、公衆の目に触れる機会が多い。

政治姿勢

駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際、イタリアの外務省からは吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりに、ムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。

首相時代、利益誘導をしてもらうべく、たびたび地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。

2024/06/15 02:34更新

yoshida shigeru


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