牧野伸顕の情報(まきののぶあき) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
牧野 伸顕さんについて調べます
■名前・氏名 |
牧野伸顕と関係のある人
松岡洋右: そして10月15日に内大臣の牧野伸顕に対して「今日は私を捨てて協力内閣に依るの外なし」と語るなど、満洲事変勃発当初は、事態の収束を図るために民政党との協力内閣構想を積極的に主張した。 原敬: 事前の構想では外務大臣として牧野伸顕、法務大臣として平沼騏一郎の入閣も検討していたが両名は断った。 西園寺公望: しかし決定が遅れたことと、西園寺のために船室を改装する必要があったため、西園寺が出発したのは牧野伸顕や珍田捨巳といった他の全権が出発してから1ヶ月後の大正8年(1919年)1月14日のことであった。 八木沼純子: 子沢山だった曽祖父・松方正義の子孫は約600人おり、その中には松本重治、エドウィン・ライシャワー元駐日アメリカ合衆国特命全権大使、白洲次郎、松方三郎、牛場信彦、牛場友彦、松方正熊、井上保次郎、遠縁には大久保利通、牧野伸顕、麻生太賀吉、麻生太郎、福沢諭吉、小沢征爾、芦田均、柳原前光、柳原白蓮、堤清二、木内みどり、水野成夫、近藤廉平、吉田茂などがいる。 松方正義: 1934年(昭和9年)7月2日午後2時に松方公十年祭が青山霊園で盛大に行われ、斎藤実首相以下、鈴木貫太郎侍従長、若槻禮次郎民政党総裁、牧野伸顕内大臣らが出席した。 岡田啓介: 後に昭和天皇は『昭和天皇独白録』の中で岡田と元内大臣・牧野伸顕の意見が最も穏当だったと回想している。 武見太郎: 医師会サイドからだけでなく、吉田茂閨閥(吉田茂の妻雪子は牧野伸顕の長女)に連なり、その私的なブレーンとしても政治に関わっていた。 大久保利通: 牧野伸顕 四元義隆: 1932年に血盟団事件に参加し、牧野伸顕の暗殺を担当していたが未遂に終わり逮捕される。 折田彦市: 第三高等学校長の折田は、牧野伸顕(文部次官)、木下広次(文部省専門学務局長、元第一高等学校校長)、永井久一郎(文部省会計課長)とともに創立委員に任命され、審議にあたっている。 倉富勇三郎: 1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の批准問題では、条約反対を唱えて濱口内閣倒閣を図るが、元老西園寺公望や内大臣牧野伸顕、更に昭和天皇までが内閣擁護の姿勢を見せたためにその圧力に屈した。 古河太四郎: 同年10月23日、京都盲唖院長の鳥居嘉三郎、東京盲唖学校長の小西信八とともに盲唖学校と聾唖学校の設置の法規制定をうったえる建議を牧野伸顕文部大臣に提出。 千聖: 高祖父・牧野伸顕(伯爵、内大臣などを歴任。 皇太后良子: 1922年(大正11年)1月22日、皇太子は宮内大臣牧野伸顕を呼び寄せ、将来の家族のプライベートな環境を保つため、女官の通勤制について意見を述べた。 皇太后良子: 6月20日、宮内大臣牧野伸顕は結婚を許可する親書に署名するよう皇太子に求め、父大正天皇に代わって摂政として署名することによって、勅許が下りた。 北一輝: 同年、北海道皇室御料林払下げに宮内省関係者に不正があるとして内大臣牧野伸顕の辞職を求めた宮内省怪文書事件に連座し、出版法違反と恐喝の容疑で逮捕。 吉田茂: 1931年より駐イタリア大使、但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、このころ第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた。 三島通陽: 通陽にボーイスカウト運動を勧めたのは、竹内(内田)二郎(1897-1988)なる人物だが、義理の叔父である牧野伸顕がパリ講和会議から帰国した際に、芝居や文芸よりもボーイスカウトをやるよう勧めたという。 床次竹二郎: 床次は鹿児島出身であり、松方正義と牧野伸顕が宮中に、山本権兵衛が海軍に、という図式である。 武見太郎: 1941年(昭和16年)、秋月英子(父・子爵秋月種英と母・利武子の二女 / 利武子の父は牧野伸顕伯爵)と結婚した。 徳川家達: このため、実弟の徳川頼倫は牧野伸顕に「兄が恥を知らず、今なお公職を執り、引退の考えがないのは困ったものだ」と嘆いたことがあった。 清沢洌: 大久保の外戚である吉田茂(妻が牧野伸顕の娘で、利通の孫にあたる)がこの本を贈呈されて一読、感銘を受けた旨を記した清沢宛の書簡が現存している。 大久保利通: 牧野伸顕 「父は碁が非常に好きだった。 徳川家達: また大久保利通の次男で当時ロンドン公使館書記生を務めていた同世代の牧野伸顕とも親しくなった。 宇垣一成: すなわち昭和14年(1939年)、吉田は、平沼内閣総辞職が噂されると、岳父で元内大臣の牧野伸顕や貴族院議員の樺山愛輔、元時事新報社社長の小山完吾らを通じ宇垣擁立工作を行うが、昭和天皇や陸軍が阿部信行を推したこともあり、断念した。 江原真二郎: ドラマスペシャル・白洲次郎(2009年) - 牧野伸顕 鈴木貫太郎: 昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった。 西園寺公望: しかし同年6月、高橋内閣が政友会の内紛で倒れたときには、宮内大臣牧野伸顕が松方と連携し、加藤友三郎を後継首相に選定した。 三浦謹之助: 明治天皇、大正天皇、貞明皇后、昭和天皇、山縣有朋、西園寺公望、松方正義、大隈重信、桂太郎、寺内正毅、原敬、加藤高明、浜口雄幸、犬養毅、井上馨、平沼騏一郎、牧野伸顕、福沢諭吉、中村福助、三浦環、小唄勝太郎、大倉喜八郎、安田善次郎、福沢桃介 原敬: 1919年(大正8年)1月から開始されたパリ講和会議では、西園寺を首席全権、牧野伸顕を全権とする全権団を送った。 |
牧野伸顕の情報まとめ
牧野 伸顕(まきの のぶあき)さんの誕生日は1861年11月24日です。鹿児島出身の政治家のようです。
兄弟、事件、結婚、病気、脱退、趣味、映画、テレビ、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1949年に亡くなられているようです。
牧野伸顕のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日〈文久元年10月22日〉 - 1949年〈昭和24年〉1月25日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。名は「シンケン」と音読みされることもある。幼名は伸熊(のぶくま)。以前の諱は是利(これとし)。 大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。 1861年11月24日(文久元年10月22日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士で維新の三傑の一人・大久保一蔵(後の利通)と妻・満寿子の次男として生まれた。生後間もなく父・利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となるが、1868年(慶応4年)に吉之丞が戊辰戦争における北越戦争で戦死したため、名字が牧野のまま大久保家で育った。 1871年(明治4年)、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米し、フィラデルフィアの中学を経て、1874年(明治7年)に帰国し開成学校(後の東京帝国大学)文学部和漢文学科に入学する。1880年(明治13年)、東京大学を中退して外務省に入省。ロンドンの日本大使館に赴任し、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文の知遇を得る。帰国後、太政官権小書記官、法制局参事官、兵庫県大書記官、黒田清隆首相秘書官、福井県知事、茨城県知事、文部次官、在イタリア公使、オーストリア公使等を歴任した。牧野は太政官権小書記官時代、伊藤に随行し北京にて伊藤と李鴻章との駆け引きを肌で感じたという。オーストリア公使時代には、日本とギリシャとの通商条約締結、ロシアとの戦争を見越した情報宣伝操作、第一次世界大戦後の君主国の動向の調査などがある。ヨーロッパにおいて黄禍論の広まりを防ごうとした。また、イギリス王室外交の有効性を指摘している。 第1次西園寺内閣で文部大臣を務めた際、1907年(明治40年)11月4日に外交官時代の功績によって男爵を授けられた。文部大臣時代の功績として義務教育の年限を4年から延長して6年としたこと(1907年)と文部省から1万円を支出して、美術展覧会・文展が開かれたことがある(1907年)。第2次西園寺内閣で農商務大臣。さらに枢密顧問官に転じた後、第1次山本内閣で外務大臣となる。山本権兵衛と三浦梧楼から、山縣閥への牽制として当初宮内大臣への就任を打診されたが、政府と宮中の長官を薩摩人が占めることに誤解を抱かれるとの懸念から辞退している。 この時期の牧野は、伊藤やその後継者である西園寺公望に近く、初期の立憲政友会と関係の深い官僚政治家となり、対外協調的な外交姿勢と英米型自由主義による政治姿勢を基調とし、一方では薩摩閥により広く政界、外交界、宮中筋と通じるという、独自の地位を築きあげた。1914年(大正3年)3月31日、貴族院勅選議員に任じられる。 1919年(大正8年)、第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加した。一行の首席は西園寺であったが実質的には牧野が采配を振っており、随行員には近衛文麿や女婿の吉田茂、松岡洋右などがいた。パリ講和会議では、日本の次席全権大使として人種的差別撤廃提案を行っている。1920年(大正9年)9月7日、牧野はパリ講和会議の論功行賞により男爵から子爵へ陞爵し、同時に旭日桐花大綬章を授けられた。 1921年(大正10年)、宮中某重大事件の影響で中村雄次郎宮相が辞任すると元老の松方正義が後継選択を行い、2月19日に親任式が行われ牧野が宮内大臣に就任することとなった。が、薩派の山之内一次や樺山資英らが牧野を松方・山本の後を嗣ぐ次代のエースとみなしており、辞退を勧告した。また、西園寺公望も宮相就任の挨拶に来た牧野に「宮相も従来からの候補であったが、首相として原敬の後を引き受けてもらいたかった」と発言している。穏健な英米協調派で自由主義的傾向が強い牧野を宮内大臣に推したのは、天皇及び宮中周辺に狂信的な皇室崇拝者を置くことで皇室が政治的な騒乱に巻きこまれることを嫌った西園寺の意向であるという。これ以降、牧野は西園寺の意を体して、宮中における自由主義を陰に陽に守り抜くことをその政治的使命とする。宮相就任後、牧野は元老と内大臣との間の情報仲介役として、後継首班奏請に関与するようになる。だが宮相になった翌年に山縣が亡くなり、元老は松方と西園寺のみとなり、両者とも病臥することが多くなった。 1925年(大正14年)、内大臣に転じ、1935年(昭和10年)まで在任した。牧野は常侍輔弼という大任に加え、後継首相の選定にもあずかることになった。牧野は内大臣就任直後、同年4月9日伯爵に陞爵する。宮相在任中の皇太子洋行、摂政設置、皇太子結婚などの任務挙行の功績による。牧野に対する天皇の信頼は厚く、15年後、多難な時期に退任の意向を聞いた昭和天皇が涙を流したという逸話がある。牧野の後任の内大臣には湯浅倉平を推薦し、牧野はその後も宮中、外交への影響力を保持し続けようとした。健康がすぐれず、また、就任以来15年になるので人心を新たにすることを退任の理由とした。牧野には当時持病として神経痛とじんましんがあり、1932年以降には、宮中での晩さん会の中座、陸海軍大演習の不参といった、公務にも支障をきたすほどの容体になっていた。 1932年5月15日、午後5時頃、古賀中尉以下5名は泉岳寺前にある小屋の二階に集合、計画を確認するとタクシーに乗車して三田の内大臣官邸に向かった。午後5時25分、第二組は内大臣官邸に到着。古賀が邸内に手榴弾を投げ込んで爆発させた。更に古賀は警備の警察官に向かって発砲し負傷させる。池松元陸軍士官学校本科生も手榴弾を投げ込んだが不発であった。古賀は警視庁での決戦を重視し、牧野内府殺害計画を放棄、内大臣官邸については威嚇に止める事として、再びタクシーに乗車した。途中、三上中尉らが準備したビラを街頭に散布し、警視庁に向かった。 襲撃時、孫の淑子(牧野伸通の子、後杉山元太郎妻)は事態に気付いていたが、伸顕本人は奥座敷にいたため騒ぎに気づかなかったという。古賀は憲兵隊に出頭した後に、牧野内府を殺害しようとしなかった事を同志らに問いただされ、謝罪した。 1936年(昭和11年)、二・二六事件の折には親英米派の代表として湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していたところを襲撃されるが、孫でもある麻生和子(吉田茂の娘で麻生太郎の母)の機転によって窮地を脱した一方で、護衛の警官が殺害された。また牧野を殺害対象としたテロ計画は、この事件の前にも8件もあった。 第二次世界大戦下にあっても天皇の信頼は衰えず、数度宮中に招されて意見具申をした。最晩年は千葉県東葛飾郡田中村(現・柏市)に居住した。戦後も皇室と天皇の処遇に関心があり、GHQで憲法問題担当政治顧問のケネス・コールグルーヴと会談し情報を天皇に伝え、天皇謁見を依頼したり、東京に帰った明仁親王に幕末の外交談や留学談、英米の政治家の懐旧談を語った。オールド・リベラリストの1人として牧野の評価が高まり、一時は鳩山一郎追放後の自由党総裁に推す声さえあったが、老齢を理由に政界に復帰することはなかった。しかし、娘婿の吉田茂は総理になった後に国政運営の相談を兼ねて度々牧野のもとを訪れていたと伝わる。 1949年(昭和24年)1月25日、田中村の自宅で死去。87歳没。墓所は青山霊園(1ロ1-6-12)。牧野の死後、ほとんど財産らしきものは残っていなかったという。
牧野伸顕夫妻
文部大臣として初入閣したころ(1906年)
大正期の牧野伸顕
伊藤博文は、人の長所をみて決して短所を見なかった。牧野の対人姿勢は伊藤に学んだ。相手の話をよく聞き、自分の意見と異なっていても、頭ごなしに否定せず、再考させた。三浦梧楼は牧野を石橋を叩いて渡らない人と評した。内大臣時代秘書官長として仕えた木戸幸一も、牧野は「非常に頭が柔軟であった、若いわれわれが話せるような空気がある」と評している。牧野には「保守」と「進歩」のアンビバレントな両面性があり、有馬頼寧の同和問題への取り組みを評価したり、大川周明や安岡正篤を尊王家として評価したりしている。牧野は、皇室を護持していくうえで社会の変動を敏感に察知し、かつ、柔軟に対応する能力を身に着けていた。 牧野伸顕は内大臣として若き昭和天皇を補佐したが、世界大戦に向かい混迷する世界情勢下において天皇の信任厚く、『入江侍従長日記』によれば牧野が軍部ににらまれ更迭が決まった1935年12月26日に牧野の辞任を裁可する書類を見て天皇は声を上げて泣いたとの証言がある。 牧野が宮相として後継首班奏請に参画できたのは元老の減員、高齢化による機能の代行と宮内官僚内の職域を越えた横断的な側面があった。牧野は元老と重臣の間の連絡役に徹しようとした。牧野は有力な重臣を準元老として機能を継続しようとしたが、西園寺と平田内大臣は反対し、松方の死後、当分元老と内大臣でその機能を果たそうとした。平田内大臣は病気がちとなり、牧野が内大臣に就任した。牧野は宮中に入ってから牧野グループを作っていった。反対派には、一部は人事権を使った。田中義一は天皇の権威を利用した政権運営を行ったが、天皇は田中に対して不信感があり、牧野、西園寺、鈴木侍従長は天皇の任命大権を利用した。ロンドンにおける軍縮会議に出席していた若槻礼次郎ら全権団は妥協案受け入れの是非を請訓してきた時、政府案を天皇に上奏する前に軍部は帷幄上奏をしようとしたが、鈴木侍従長が延期させた。牧野はこれに関係していなかったが、橋本徹馬が右翼団体の発行紙にデマを書いたので、牧野が条約反対派を抑え込んだと思われ、軍部と右翼からつけねらわれることとなった。 牧野は若槻内閣や犬養内閣の対応をみるにつけ、持論である天皇を支える任に足る人物を結集させ、時局の鎮静化をはかろうと考えていたが、元老、重臣を政局に介入させる構想は賛成を得られなかった。満州問題による国際連盟脱退を回避しようとしたが、軍部の熱気におされ、西園寺は天皇や牧野の主張を退けた。外部勢力による天皇側近批判が強くなり、牧野グループは辞任が多くなった。牧野と元老の西園寺との仲も微妙になった。しかし、西園寺も長く牧野の退官には反対した。昭和維新を思い立った陸軍青年将校は西園寺、斎藤内大臣、鈴木侍従長のほかに牧野を「君側の奸臣」とした。その後も近衛首相、駐日英大使などが意見を聞きに来たが、牧野は後継首班奏請には関わらないようにした。西園寺は、牧野を身の危険にさらすことになるのを避けさせたいと判断したのである。 牧野には自分も興味をもっていた芸術・文化への貢献がある。 明治期の美術界の指導者であった岡倉天心は、開成学校に牧野入学の翌年入学。そして、牧野14、5歳の頃から4、5年同学したが、牧野の認識によれば、天心の学力は同級者として常に秀でていた。英文学に通じ、英作文の内容では到底自分は及ばなかったと述懐している。天心は文部次官であった牧野に美術学校長の立場から美術学校の予算を要求するなどし、その後も両者の関係は天心の没するまで終身友情として続いた。1907年(明治40年)には牧野は文部省美術展覧会、文展を創設した。また牧野は帝国図書館(現・国立国会図書館)の設置に尽力した。 また、牧野及び平山成信が、赤星鐡馬の寄附金を基に文化研究奨励及び講演、出版のための公益法人である財団法人啓明會を1918年(大正7年)8月8日に設立した。文部省(現・文部科学省)管轄としては日本で初めての学術財団となった。 牧野の趣味としては囲碁、読書、歌舞伎鑑賞、映画鑑賞がある。自宅や茶屋で囲碁会を催しており、五・一五事件の時も対局中であった。森有礼文相とも碁を打った。1924年(大正13年)から1946年(昭和21年)まで、日本棋院初代総裁をつとめた。2023年(令和5年)には日本棋院の第20回囲碁殿堂入り 。 読書は和洋の区別なく、文学から、時事、ノンフィクションに至るまで様々である。英語の小説から『ニッポンタイムズ』も読んだ。河上徹太郎、小林秀雄ら文学界の人を招いて歓談することがあった。また、シャーロッキアンの草分け的存在としても有名である。 1883年(明治16年)12月25日 - 正七位 1886年(明治19年)7月8日 - 従六位 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1891年(明治24年)12月2日 - 正五位 1893年(明治26年)12月28日 - 勲四等瑞宝章 1895年(明治28年)
12月29日 - 勲三等瑞宝章 1899年(明治32年)10月12日 - 勲二等瑞宝章 1900年(明治33年)3月10日 - 正四位 1902年(明治35年)12月28日 - 旭日重光章 1905年(明治38年)4月10日 - 従三位 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章 1907年(明治40年)11月4日 - 男爵 1908年(明治41年)4月20日 - 正三位 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正) 1920年(大正9年)9月7日 - 子爵・旭日桐花大綬章 1921年(大正10年)8月30日 - 従二位 1925年(大正14年)4月9日 - 伯爵 1927年(昭和2年)12月15日 - 正二位 1931年(昭和6年)3月20日 - 帝都復興記念章 1940年(昭和15年)
8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1949年(昭和24年)1月25日 - 従一位 1899年(明治32年)11月2日
ギリシャ王国:ソーヴール第一等勲章 1901年(明治34年)5月17日 - オーストリア=ハンガリー帝国:鉄冠第一等勲章(英語版) 1906年(明治39年)4月26日 - オーストリア=ハンガリー帝国:レオポール大綬章(英語版) 1907年(明治40年)10月15日 - 大清帝国:頭等第三双龍宝星 1908年(明治41年)5月2日
大韓帝国:大勲位李花大綬章 1914年(大正3年)4月2日 - イタリア王国:サンモーリスエラザル第一等勲章 1918年(大正7年)10月26日 - スペイン王国:シャルルトロア第一等勲章(英語版) 1922年(大正11年)
11月2日 - イギリス帝国:ヴィクトリア勲章ナイトグランドクロス 1923年(大正12年)4月10日
ポーランド共和国:オドロゼニアポルスキー勲章グランクロア 1924年(大正13年)5月19日 - フランス共和国:ドラゴンドランナン勲章グランクロア 1925年(大正14年)4月24日 - ルーマニア王国:エトアルドルーマニー勲章グランクロア 1930年(昭和5年)4月17日 - ドイツ国:赤十字第一等名誉章 1931年(昭和6年)2月2日 - チェコスロバキア共和国:リオンブラン勲章グランクロア 1934年(昭和9年)3月1日 - 満洲帝国:建国功労章 1935年(昭和10年)9月21日 - 満洲帝国:満洲帝国皇帝訪日記念章 1937年(昭和12年)2月9日 - 満洲帝国:勲一等龍光大綬章 茶谷誠一『牧野伸顕』による。 1861年 10月22日、薩摩藩加治屋下加治屋に生まれる。出生後親戚の牧野家の養子となる。 1863年 大久保利通一家は新照院に転居。 1867年 新照院郷中で教育を受ける。10歳ごろから造士館でも教育を受ける。翌1868年養父死亡。 1871年 1月、父・利通、兄・利和と共に上京。11月、岩倉使節団に留学生として随行。 1872年 アメリカ合衆国・フィラデルフィアの学校に留学。 1874年 秋、帰国。鹿児島へ帰省後、上京。東京開成学校(東京大学)に入学。この頃、是利と称する。 1878年 5月14日、利通暗殺さる。12月7日、母・満寿子病死。 1879年 12月11日、外務省御用係となる。東京大学中退。 1880年 3月9日、外務省書記生(専門職)となり、イギリス公使館に勤務。 1882年 イギリスを訪れた伊藤博文の知遇を得る。 1883年 10月14日、帰国。太政官権少書記官となる。 1885年 2月、伊藤博文に随行し北京にいく。12月23日、法制局参事官になる。 1886年 5月26日、兵庫県大書記官となる。 1887年 三島通庸の次女・峰子と結婚する。 1888年 5月5日、総理大臣・黒田清隆の秘書官となる。 1891年 8月13日、福井県知事となる。 1892年 11月16日、茨城県知事となる。 1893年 3月10日、文部次官となる。 1897年 5月25日、イタリア公使となる。 1898年 5月2日、オーストリア公使(兼スイス公使)となる。 1906年 帰国後、3月27日、文部大臣に就任。 1907年 10月25日、第1回文部省美術展覧会を開催。11月4日、男爵を授けられる。 1908年 7月4日、第1次西園寺内閣総辞職。同月14日、文相を辞任。 1909年 11月17日、枢密顧問官となる。 1911年 8月30日、農商務大臣に就任する。 1912年 12月5日、第2次西園寺内閣総辞職。同月21日、農商務相を辞任。 1913年 2月20日、外務大臣に就任する。 1914年 3月24日、第1次山本内閣総辞職。4月16日、外相を辞任。3月31日、貴族院議員に勅任される。 1917年 6月6日、臨時外交委員会の委員となる。 1918年 11月27日、パリ講和会議全権に内定する。 1919年 1月、パリ講和会議に次席全権として参加する。 1920年 9月7日、子爵に陞爵される。 1921年 2月19日、宮内大臣に就任する。他の公職をすべて辞任する(3月2日、貴族院議員辞任)。鎌倉二階堂の地に移る。 1924年 創設された日本棋院の初代総裁に推戴される。 1925年 3月30日、内大臣に転任する。4月9日、伯爵に陞爵される。 1928年 6月、弟の利武が大久保侯爵家を継承する。 1929年 6月27日、張作霖爆殺問題の処理をめぐり、天皇が田中義一首相を叱責する。 1930年 4月以降、加藤寛治軍令部長の上奏を阻止したとのデマが流れだす。 1931年 11月19日、天皇の行幸に供奉し、鹿児島に帰省する。 1932年 5月15日、内大臣官邸で襲撃を受ける。 1934年 10月30日、木戸幸一秘書官長に初めて辞意を伝える。 1935年 12月26日、内大臣を辞任する。 1936年 1月20日、帝室経済顧問となる。2月26日、湯河原で湯治中、二・二六事件で襲撃を受ける。渋谷区神山町の地に移る。 1937年 11月1日、兄弟や親族から喜寿の祝いを受ける。 1945年 2月19日、天皇に戦局の今後について上奏。6月1日、空襲で罹災し千葉県東葛飾郡柏町に疎開。戦後占領下でも相談役として、天皇や側近たちに宮中改革などに助言を行う。 1948年 天皇から米寿の御下賜品を贈られる。 1949年 1月25日、ぜんそく性心臓衰弱により死去。同日、従一位。 祖父:利世(薩摩藩士) 祖母:福(薩摩藩侍医・皆吉鳳徳の次女) 父:利通(薩摩藩士、政治家) 母:満寿子(薩摩藩士・早崎七郎右衛門の次女) 兄:利和(実業家、政治家) 弟:利武(内務官僚、政治家)
弟:雄熊(石原近昌の養子) 妹:芳子(外務大臣・伊集院彦吉の妻) 異母弟:利夫 異母弟:駿熊(妻は税所篤秀の妹) 異母弟:七熊 異母弟:利賢(横浜正金銀行頭取、高橋是清の女婿)
養父:吉之丞(北越戦争で戦死) 妻:みね(三島通庸の次女) 長男:伸通(式部官) 孫:伸和(伸通の長男。日東化学工業副社長) 孫:林貞子(伸通の長女、1919年 - 2006年。学習院大学名誉教授・林友春(伯爵・林博太郎の長男)の妻。幼児教育専門家、東海大学名誉教授、松濤幼稚園の創設者) 玄孫:千聖(ミュージシャン) 曾孫:三井富美子(貞子の長女、三井之乗(男爵・三井八郎右衛門の四男)の妻。若葉会幼稚園園長) 曾孫:小林絢子(貞子の次女、元フコク生命社長・小林喬(小林中の長男)の妻) 玄孫:堀内詔子(貞子の孫、絢子の長女。富士急行社長・堀内光一郎(元通産大臣、自民党総務会長・堀内光雄の長男)の妻。衆議院議員、五輪担当大臣兼ワクチン担当大臣) 孫:杉山淑子(伸通の次女。元ホーネンコーポレーション社長・杉山元太郎(杉山金太郎の長男)の妻) 長女:吉田雪子(第45・48~51代内閣総理大臣・吉田茂の妻)
孫:麻生和子(雪子の三女、麻生太賀吉の妻)
曾孫:麻生泰(和子の三男。実業家、麻生セメント会長)
玄孫:麻生健(泰の次男。実業家、学校法人麻生塾理事長) 曾孫:寬仁親王妃信子(和子の三女。皇族、寬仁親王(大正天皇の孫、三笠宮崇仁親王の長男)の妻)
玄孫:瑶子女王(信子妃の次女。皇族) 次女:秋月利武子(子爵・秋月種英(秋月種樹の次男)の妻)
牧野は、大久保家以外に親戚の三島家、伊集院家、秋月家の人たちと終生変わりなく親交を重ねた。1919年パリ講和会議の後、大久保利賢が利武、伸顕、吉田茂をロンドンに招いた。利和、伸顕、利武の年上の3兄弟が中心となり、毎年5月14日の利通の命日をお祭りと称して集まった。利通の100回忌までは毎年行いその後は5年毎に行っている。伸顕の喜寿にも会合をもった。 『松濤閑談』創元社、1940年6月。 NCID BN1038846X。全国書誌番号:46057811 全国書誌番号:58004302。
『回顧録』 全3巻、文藝春秋新社、1948年1月-1949年12月。 NCID BN1046423X。全国書誌番号:48006342 全国書誌番号:48014538 全国書誌番号:49002214。
『回顧録』 上(改版)、中央公論新社〈中公文庫〉、2018年5月。ISBN 9784122065895。 NCID BB26126741。全国書誌番号:23063090。 『回顧録』 下(改版)、中央公論新社〈中公文庫〉、2018年5月。ISBN 9784122065901。 NCID BB26126741。全国書誌番号:23063092。 伊藤隆・広瀬順晧 編『牧野伸顕日記』中央公論社、1990年11月。ISBN 9784122065901。 NCID BN05616612。全国書誌番号:91039155。 ^ 茶谷によると一時是利(これとし)と名乗ったという(1874年 - 1878年)。 ^ ここでいう「(旧)東京大学」は(東京)開成学校の後身で(東京)帝国大学の前身校である。 ^ 河上は牧野の孫吉田健一の師。1940年4月頃には、河上、小林、林房雄を牧野の私宴に招き、主に林の『西郷隆盛』をめぐって歓談。一方で、「思想といふものが餘りにレッテル化して取扱はれるわが文化」の風潮に対して戦うよう、文学者に期待する旨の注文を出している。なお、牧野は幼少時に西郷が大久保家の玄関先を訪ね、大久保家の執事が使い込みをしたことを叱責する様子を目撃している。 ^ 「牧野伸顕」 『 大辞林 第三版』三省堂、weblio辞書。 ^ 茶谷 2013, pp. 14, 227 ^ 中谷宇吉郎. “牧野伸顕伯の思い出”. www.aozora.gr.jp. 2022年11月23日閲覧。 ^ 第2版,『世界大百科事典』内言及, 『朝日日本歴史人物事典』,『日本大百科全書』(ニッポニカ),『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』,『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』,『百科事典マイペディア』,『精選版 日本国語大辞典』,『旺文社日本史事典 三訂版』,『デジタル大辞泉』,『世界大百科事典』. “牧野伸顕とは”. コトバンク. 2022年11月23日閲覧。 ^ 大蔵省印刷局 [編]. 日本マイクロ写真(編)「授爵敍任及辭令 / - / - / 牧野伸顯外二名」『官報』、1889年11月14日、134 (コマ番号0002.jp2)、doi:10.11501/2945164。 ^ 茶谷 2013, p. 227 ^ 「官報|number= 1467」1888年5月23日、2022年11月23日閲覧。 国立国会図書館デジタルコレクション。 ^ 「授爵敍任及辭令 / - / - / 牧野伸顯外一名(文部省)」『官報』第2910号、188 (コマ番号0005.jp2)。 ^ 茶谷 2013, p. 27 ^ 茶谷 2013, pp. 37–42 ^ 『官報』第7307号、明治40年11月5日。 ^ 『官報』第501号、大正3年4月2日。 ^ 茶谷 2013, p. 96 ^ 茶谷 2013, p. 106 ^ 茶谷 2013, pp. 158–159 ^ 茶谷 2013, p. 155 ^ 茶谷 2013, p. 207-210 ^ 『朝日新聞』 1949年1月26日 ^ 新聞集成大正昭和編年史刊行会(編)「牧野伸顕氏卜報」『新聞集成昭和編年史』第23-24巻(昭和23-24年度版)、新聞集成大正昭和編年史刊行会、51頁、全国書誌番号:65010082。 ^ 茶谷 2013, p. 21 ^ 茶谷 2013, p. 19 ^ 茶谷 2013, p. 20 ^ 茶谷 2013, p. 81 ^ 木下道雄 2017, p. 352. ^ 茶谷 2013, p. 98 ^ 茶谷 2013, pp. 117–128 ^ 茶谷 2013, p. 132 ^ 茶谷 2013, p. 189 ^ 茶谷 2013, p. 31 ^ 牧野伸顕『松濤閑談』創元社、1940年、119-125頁。 ^ 茶谷 2013, p. 22 ^ “中村道碩、牧野伸顕、加藤正夫が囲碁殿堂入り(第20回囲碁殿堂表彰)”. 日本棋院 (2023年11月9日). 2024年3月30日閲覧。 ^ 茶谷 2013, p. 179 ^ 河上徹太郎『文學界』1940年5月号後記 ^ 牧野伸顕『松濤閑談』創元社、1940年 pp.141-142 ^ 「故正二位牧野伸顕位階追陞の件」 アジア歴史資料センター Ref.A20040500500 ^ 『官報』第183号「叙任」1884年2月12日。 ^ 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。 ^ 「授爵敍任及辭令 / - / - / 牧野伸顯(法制局)」『官報』第1935号、1889年12月9日、227 (コマ番号0002.jp2)、doi:10.11501/2945164。 ^ 『官報』第2531号「叙任及辞令」1891年12月5日。 ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。 ^ 『官報』第3476号「叙任及辞令」1895年2月2日。 ^ 『官報』第3753号「叙任及辞令」1896年1月4日。 ^ 『官報』第5005号「叙任及辞令」1900年3月12日。 ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。 ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。 ^ 『官報』第7442号「叙任及辞令」1908年4月21日。 ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。 ^ 『官報』第2431号「叙任及辞令」1920年9月8日。 ^ 『官報』第2726号「敍任及辞令」1921年9月1日。 ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。 ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。 ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。 ^ 『官報』第4909号「叙任及辞令」1899年11月10日。 ^ 『官報』第5365号「叙任及辞令」1901年5月24日。 ^ 『官報』第6847号「叙任及辞令」1906年4月30日。 ^ 『官報』第7297号「叙任及辞令」1907年10月24日。 ^ 『官報』第7459号「叙任及辞令」1908年5月11日。 ^ 『官報』第505号「叙任及辞令」1914年4月8日。 ^ 『官報』第1872号「叙任及辞令」1918年10月29日。 ^ 『官報』第2893号「叙任及辞令」1922年3月28日。 ^ 『官報』第3079号「叙任及辞令」1922年11月4日。 ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1923年4月13日。 ^ 『官報』第3523号「叙任及辞令」1924年5月23日。 ^ 『官報』第3801号「叙任及辞令」1925年4月27日。 ^ 『官報』第989号「叙任及辞令」1930年4月19日。 ^ 『官報』第1228号「叙任及辞令」1931年2月4日。 ^ 『官報』第2511号・付録「辞令二」1935年5月20日。 ^ 『官報』第2725号「叙任及辞令」1936年2月4日。 ^ 「内大臣伯爵牧野伸顕外三十七名満洲国勲章受領及佩用ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113229300 ^ 茶谷 2013, pp. 226–231 ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、29頁。 ^ 国立国会図書館専門資料部 編『斎藤実関係文書目録』 書類の部 2 (昭和期・日記・伝記資料等)、国立国会図書館、東京〈憲政資料目録 ; 第18〉、1995年3月、170,195頁。全国書誌番号:95066348。 ISBN 4-87582-424-6p.170「斎藤内閣・岡田内閣」。p.195、軍縮「57 斎藤実宛抗議文 §(2)牧野内大臣に呈するの書 其一 紫雲荘 昭和五年七月一四日 活版 二枚」「68 奇怪なる牧野内大臣及び鈴木侍従長の行為 昭和五年 謄写 同文二綴」「69 統帥大権干犯、国防破壊に関する内大臣牧野伸顕一派の策動経過 謄写 一綴」。 ^ 猪野三郎監修『第十二版 大衆人事録』(昭和12年)東京・六一四頁 ^ 『歴史REAL 敗者の明治維新』(洋泉社、2018年) ^ 佐藤朝泰 著 『豪閥 地方豪族のネットワーク』159頁 ^ 茶谷 2013, pp. 6 ^ 茶谷 2013, p. 18 ^ 茶谷 2013, p. 188 松田好史「内大臣の側近化と牧野伸顕」「日本歴史743号」、2010年4月。 下園佐吉「牧野伸顕伯」人文閣 1940年10月。序文:近衛文麿、木戸幸一、竹越与三郎。 茶谷誠一『牧野伸顕』吉川弘文館〈人物叢書〉、2013年。 ISBN 978-4-642-05269-6 木下道雄『側近日誌』中央公論社〈中公文庫〉、2017年2月25日。 『226』(1989年、演:増田順司) 『関西テレビ開局25周年記念 吉田茂』(1983年、演:上原謙) 『山河燃ゆ』(1984年、演:岡田映一) 『翔ぶが如く』(1990年、演:三浦竜也) 『白洲次郎』(2009年、演:江原真二郎) 『負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜』(2012年、演:加藤剛) 『昭和天皇物語』(2017年 - 、小学館『ビッグコミックオリジナル』連載)
吉田茂書翰の宛名一覧 原田熊雄 -「西園寺公と政局」(岩波書店)にも多く出てくる人物。 『牧野伸顕』 - コトバンク 『牧野 伸顕』 - コトバンク 国立国会図書館 憲政資料室 牧野伸顕関係文書(書翰の部) 国立国会図書館 憲政資料室 牧野伸顕関係文書(書類の部) 牧野伸顕 :: 東文研アーカイブデータベース 牧野 伸顕 / クリック 20世紀 - ウェイバックマシン(2021年4月16日アーカイブ分) 表 話 編 歴 牧野伸顕1924-1946 津島壽一1955-1967 足立正1967-1973 佐藤喜一郎1973-1974 田実渉1974-1982 稲山嘉寛1982-1987 朝田静夫1993-1996 今井敬2004- 表 話 編 歴 初代 近衛篤麿:1898(明治31)年-1904(明治37)年 第2代 青木周蔵:1904(明治37)年-1907(明治40)年 第3代 鍋島直大:1907(明治40)年-1918(大正7)年・総裁:1918(大正7)年-1921(大正10)年 第4代 牧野伸顕:1918(大正7)年-1936(昭和11)年 第5代 近衛文麿:1936(昭和11)年-1945(昭和20)年 表 話 編 歴 万里小路博房1869-1871 徳大寺実則1871-1884 伊藤博文1884-1885 伊藤博文1885-1887 土方久元1887-1898 田中光顕1898-1909 岩倉具定1909-1910 渡辺千秋1910-1914 波多野敬直1914-1920 中村雄次郎1920-1921 牧野伸顕1921-1925 一木喜徳郎1925-1933 湯浅倉平1933-1936 松平恒雄1936-1945 石渡荘太郎1945-1946 松平慶民1946-1947 松平慶民1947-1948 田島道治1948-1949 田島道治1949-1953 宇佐美毅1953-1978 富田朝彦1978-1988 藤森昭一1988-1996 鎌倉節1996-2001 湯浅利夫2001-2005 羽毛田信吾2005-2012 風岡典之2012-2016 山本信一郎2016-2019 西村泰彦2019-現在 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 河野敏鎌 西郷従道 谷干城 西郷従道 山縣有朋 土方久元 黒田清隆 榎本武揚 井上馨 岩村通俊 陸奥宗光 河野敏鎌 佐野常民 後藤象二郎 榎本武揚 大隈重信 山田信道 伊東巳代治 金子堅太郎 大石正巳 曾禰荒助 林有造 平田東助 清浦奎吾 松岡康毅 大浦兼武 小松原英太郎 牧野伸顕 仲小路廉 山本達雄 大浦兼武 河野広中 仲小路廉 山本達雄 荒井賢太郎 田健治郎 岡野敬次郎 前田利定 高橋是清 山崎達之輔 内田信也 島田俊雄 石黒忠篤 千石興太郎 表 話 編 歴 大木喬任 木戸孝允 西郷従道 寺島宗則 河野敏鎌 福岡孝弟 大木喬任 森有礼 榎本武揚 芳川顕正 大木喬任 河野敏鎌 井上毅 西園寺公望 蜂須賀茂韶 濱尾新 外山正一 尾崎行雄 犬養毅 樺山資紀 松田正久 菊池大麓 児玉源太郎 久保田譲 桂太郎 牧野伸顕 小松原英太郎 長谷場純孝 柴田家門 奥田義人 大岡育造 一木喜徳郎 高田早苗 岡田良平 中橋徳五郎 鎌田栄吉 犬養毅 岡野敬次郎 江木千之 岡田良平 三土忠造 水野錬太郎 勝田主計 小橋一太 田中隆三 鳩山一郎 斎藤実 松田源治 川崎卓吉 潮恵之輔 平生釟三郎 林銑十郎 安井英二 木戸幸一 荒木貞夫 河原田稼吉 松浦鎮次郎 橋田邦彦 東條英機 岡部長景 二宮治重 兒玉秀雄 太田耕造 松村謙三 前田多門 安倍能成 田中耕太郎 高橋誠一郎 森戸辰男 下条康麿 高瀬荘太郎 天野貞祐 岡野清豪 大達茂雄 安藤正純 松村謙三 清瀬一郎 灘尾弘吉 松永東 灘尾弘吉 橋本龍伍 松田竹千代 荒木万寿夫 愛知揆一 中村梅吉 有田喜一 剱木亨弘 灘尾弘吉 坂田道太 高見三郎 稲葉修 奥野誠亮 三原朝雄 永井道雄 海部俊樹 砂田重民 内藤誉三郎 谷垣専一 田中龍夫 小川平二 瀬戸山三男 森喜朗 松永光 藤尾正行 塩川正十郎 中島源太郎 西岡武夫 石橋一弥 保利耕輔 井上裕 鳩山邦夫 森山眞弓 赤松良子 与謝野馨 島村宜伸 奥田幹生 小杉隆 町村信孝 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 町村信孝 遠山敦子 河村建夫 中山成彬 小坂憲次 伊吹文明 渡海紀三朗 鈴木恒夫 塩谷立 川端達夫 高木義明 中川正春 平野博文 田中眞紀子 下村博文 馳浩 松野博一 林芳正 柴山昌彦 萩生田光一 末松信介 永岡桂子 盛山正仁 阿部俊子 省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。 カテゴリ 表 話 編 歴 佐野常民1873 弁理公使 / 1873-1874 河瀬真孝1873 弁理公使 青木周蔵1875-1880 井田譲1880-1882 上野景範1882-1884 西園寺公望1885-1887 戸田氏共1887-1890 渡辺洪基1890-1892 大山綱介1892-1895 臨時代理公使 高平小五郎1896-1899 牧野伸顕1899-1906 大使館昇格1907 内田康哉1907-1909 秋月左都夫1910-1913 佐藤愛麿1914 第一次大戦中引揚 公使館開設 本多熊太郎1921-1924 赤塚正助1924-1926 大野守衛1927-1930 有田八郎1931-1932 松永直吉1933-1935 谷正之1936-1937 独墺合邦により総領事館に格下げ1938 山路章1938-1941 N/A 合邦解消、総領事館閉鎖1945 公使館開設 大野勝巳1955-1956 古内広雄1957 大使館昇格1957 古内広雄1957-1961 内田藤雄1961-1964 法眼晋作1965-1968 新関欽哉1968-1971 藤山楢一1971-1975 鹿取泰衛1975-1979 山戸徹1980-1983 宮沢泰1983-1985 村田良平1985-1987 矢田部厚彦1987-1989 長谷川和年1989-1992 小野寺龍二1992-1993 黒川剛1993-1996 高島有終1996-1999 伊集院明夫1999-2003 橋本宏2003-2006 梅津至2006-2007 田中映男2007-2010 岩谷滋雄2010-2013 竹歳誠2013-2016 小井沼紀芳2016-2019 水谷章2019-2022 水内龍太2022- 表 話 編 歴 佐野常民1873 弁理公使 1873-1874 河瀬真孝1873 弁理公使 青木周蔵1875-1880 井田譲1880-1882 上野景範1882-1884 西園寺公望1885-1887 戸田氏共1887-1890 渡辺洪基1890-1892 大山綱介1892-1895 臨時代理公使 高平小五郎1896-1899 牧野伸顕1899-1906 大使館昇格1907 内田康哉1907-1909 秋月左都夫1910-1913 佐藤愛麿1914 引揚 オーストリア=ハンガリー帝国解体1918 在オーストリア公使が兼轄1921-1937 本多熊太郎1921-1924 赤塚正助1924-1926 大野守衛1927-1930 有田八郎1931-1932 松永直吉1933-1935 谷正之1936-1937 独墺合邦により公使館消滅1938 公使館開設 松宮順1938-1939 井上庚二郎1939-1940 大久保利隆1941-1943 森喬未赴任 引揚1944 再開1960 小川清四郎1960-1962 吉田健一郎1962-1964 大使館昇格1964 吉田健一郎1964-1966 八木正男1966-1968 卜部敏男1968-1969 上田常光1970-1973 都倉栄二1973-1975 齋木千九郎1957-1978 杉原真一1978-1981 角谷清1981-1983 和智一夫1983-1986 茂木良三1986-1989 関榮次1989-1992 堤功一1992-1995 田中義具1995-1997 久米邦貞1997-1998 糠沢和夫1998-2001 松本和朗2001-2003 稲川照芳2003-2006 鍋倉眞一2006-2009 伊藤哲雄2009-2012 山本忠通2012-2014 小菅淳一2014-2017 佐藤地2017-2020 大鷹正人2020-2024 小野日子2024- 表 話 編 歴 鮫島尚信1880 井田譲1881-1883 蜂須賀茂韶1883-1887 戸田氏共1887-1890 渡辺洪基1890-1892 高平小五郎1895-1899 牧野伸顕1899-1906 内田康哉1907-1909 秋月左都夫1909-1913 佐藤愛麿1914-1916 三浦弥五郎1916-1918 本多熊太郎1918-1919 有吉明1921-1926 吉田伊三郎1927-1930 矢田七太郎1930-1933 堀田正昭1934-1936 天羽英二1937-1939 栗原正1940 三谷隆信1940-1942 阪本瑞男1942-1944 加瀬俊一1944-1945 閉鎖1945 再開1952 萩原徹1952-1955 萩原徹1956-1957 奥村勝蔵1957-1960 木村四郎七1960-1963 大江晃1963-1965 鶴岡千仭1966-1967 柿坪正義1967-1969 西山昭1969-1972 井川克一1972-1974 力石健次郎1974-1978 岡田晃1978-1983 西田誠哉1983-1984 吉田長雄1984-1987 松原進1987-1989 大嶋鋭男1989-1992 加藤千幸1992-1994 黒河内康1994-1996 村田光平1996-1999 國松孝次1999-2002 中村雄二2002-2005 阿部信泰2006-2008 小松一郎2008-2011 梅本和義2011-2012 前田隆平2013-2016 本田悦朗2016-2019 白石興二郎2019-2022 藤山美典2022- 表 話 編 歴 在オーストリア=ハンガリー弁理公使が兼轄 佐野常民1873 河瀬真孝1873 昇格 河瀬真孝1873-1877 西郷従道1878 (未赴任) 鍋島直大1880-1882 浅野長勲1882-1883 田中不二麿1884-1887 徳川篤敬1887-1890 中島信行1893 高平小五郎1894-1896 栗野慎一郎1896-1897 牧野伸顕1897-1899 大山綱介1899-1906 昇格 高平小五郎1907-1908 林権助1908-1916 伊集院彦吉1916-1919 落合謙太郎1920-1926 松田道一1926-1929 吉田茂1931-1932 松島肇1932-1934 杉村陽太郎1934-1936 堀田正昭1936-1937 白鳥敏夫1938-1939 天羽英二1939-1940 佐藤尚武1940 堀切善兵衛1940-1942 日高信六郎1942-1943 イタリア王国と国交断絶、イタリア社会共和国が国交継承 日高信六郎1943-1945 イタリア社会共和国が崩壊 イタリア共和国と国交再開を合意1951 井上孝治郎1951-1952 イタリア共和国と国交再開1952 井上孝治郎1952全権公使 原田健(英語版)1952-1955 太田一郎1956-1959 鈴木九萬1959-1961 門脇季光1961-1963 中川融1964-1965 与謝野秀1965-1967 田付景一1967-1969 高野藤吉1969-1972 竹内春海1972-1975 藤山楢一1975-1979 影井梅夫1979-1982 堀新助1982-1984 西田誠哉1984-1987 手島冷志1987-1990 浅尾新一郎1990-1992 渡辺幸治1992-1993 英正道1993-1997 瀬木博基1997-2000 林暘2000-2002 松原亘子2002-2005 中村雄二2005-2008 安藤裕康2008-2011 河野雅治2011-2014 梅本和義2014-2017 片上慶一2017-2020 大江博2019-2022 鈴木哲2022- 表 話 編 歴 山岡高歩 山口正定 権参事 野村素介 渡辺徹 関新平 権参事→参事 中山信安 権令 野村維章 権令→県令 人見寧 島惟精 安田定則 安田定則 石井省一郎 牧野伸顕 高崎親章 江木千之 小野田元熈 清棲家教 柏田盛文 河野忠三 寺原長輝 大塚貢 未赴任 森正隆 坂仲輔 岡田宇之助 力石雄一郎 守屋源次郎 藤沼庄平 次田大三郎 末松偕一郎 伊東喜八郎 中山佐之助 森岡二朗 牛島省三 田中無事生 君島清吉 阿部嘉七 安藤狂四郎 林信夫 挟間茂 吉永時次 内藤寛一 辻山治平 古井喜実 今井久 橋本政実 友末洋治 国塩耕一郎 友末洋治 岩上二郎 竹内藤男 橋本昌 大井川和彦 表 話 編 歴 村田氏寿 参事 村田氏寿 県令 石黒務 県令→知事 安立利綱 牧野伸顕 荒川邦蔵 波多野伝三郎 関新吾 岩男三郎 宗像政 阪本釤之助 中村純九郎 池松時和 香川輝 佐藤孝三郎 川島純幹 湯地幸平 白男川譲介 福永尊介 豊田勝蔵 市村慶三 小浜浄鉱 斎藤直橘 小浜浄鉱 大達茂雄 近藤駿介 羽生雅則 中野与吉郎 木村清司 久保田畯 三好重夫 永野若松 加藤初夫 宮田笑内 斎藤武雄 小幡治和 吉川覚 未赴任 小幡治和 羽根盛一 北栄造 中川平太夫 栗田幸雄 西川一誠 杉本達治 表 話 編 歴 皇道派:荒木貞夫 - 真崎甚三郎 - 柳川平助 - 小畑敏四郎※ - 秦彦三郎 - 山下奉文 - 山岡重厚 - 土橋勇逸 - 牟田口廉也統制派:永田鉄山※ - 東條英機※ - 小磯國昭 - 建川美次 - 梅津美治郎 - 池田純久満洲派:石原莞爾 - 板垣征四郎 - 花谷正 - 片倉衷清軍派:重藤千秋 - 橋本欣五郎 - 長勇 - 小原重孝(※は「バーデン=バーデンの密約」参加者) 野中四郎 - 安藤輝三 - 栗原安秀 - 中橋基明 - 村中孝次 - 磯部浅一 - 香田清貞 - 北一輝 - 西田税 岡田啓介 - 松尾伝蔵(死亡) - 高橋是清(死亡) - 斎藤實(死亡) - 鈴木貫太郎 - 渡辺錠太郎(死亡) - 牧野伸顕 昭和天皇 - 秩父宮雍仁親王 - 伏見宮博恭王 - 西園寺公望 - 徳川義親 - 加藤寛治 - 川島義之 - 本庄繁 - 香椎浩平 - 鈴木貞一 - 馬奈木敬信 - 匂坂春平 - 小坂慶助 - 迫水久常 -斎藤瀏 - 広田弘毅 - オイゲン・オット - リヒャルト・ゾルゲ FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ イスラエル アメリカ 日本 チェコ オランダ CiNii Books CiNii Research SNAC IdRef 日本の宮内省関係者 東亜同文会の人物 大正時代の閣僚 日本の外務大臣 日本の文部大臣 明治時代の閣僚 日本の農商務大臣 日本の枢密顧問官 昭和時代の内大臣 日本の宮内大臣 貴族院勅選議員 大正時代の貴族院議員 明治日本の公使 戦前日本の文部官僚 茨城県知事 福井県知事 内閣総理大臣秘書官 戦前日本の法制官僚 日本の官僚 (1868-1949) 日本の参事院関係者 東邦協会の人物 興亜会の人物 岩倉使節団の人物 二松學舍出身の人物 五・一五事件の人物 二・二六事件の人物 日本の伯爵 日本の子爵 日本の男爵 従一位受位者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 勲三等瑞宝章受章者 勲四等瑞宝章受章者 柏市の歴史 在アメリカ合衆国日本人 在イギリス日本人 在イタリア日本人 薩摩大久保家 大久保利通 吉田茂 牧野伸顕家 鹿児島県出身の人物 薩摩国の人物 1861年生 1949年没 青山霊園に埋葬されている人物 プロジェクト人物伝項目 2024/11/21 07:41更新
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makino nobuaki
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