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宇垣一成の情報 (うがきかずしげ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

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宇垣 一成さんについて調べます

■名前・氏名
宇垣 一成
(読み:うがき かずしげ)
■職業
軍人
■宇垣一成の誕生日・生年月日
1868年8月9日
辰年(たつ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
岡山出身

宇垣一成と同じ1868年生まれの有名人・芸能人

宇垣一成と同じ8月9日生まれの有名人・芸能人

宇垣一成と同じ出身地岡山県生まれの有名人・芸能人


宇垣一成と関係のある人

米内光政: キーナンは翌月若槻禮次郎、岡田啓介、宇垣一成らとともに米内を招いてカクテルパーティーを開き、4人を「真の平和愛好者」と呼んだ。


床次竹二郎: 床次の死は唐突であったらしく、宇垣一成が9月8日の日記に「林銑十郎氏が陸相辞任の意向を誰にも言ったことはないと新聞に公表した翌日に辞表を提出したこと、稲田博士が床次氏の病状良好心配なしと発表した翌朝に逝去したこと、これらは呆気なく感じると同時に、公人練達の士の言分もあてにならぬ、信用できぬとの感を社会に深く起こさせてしまったことは遺憾である」と書き付けている。


近衛文麿: 宇垣一成内閣は陸軍の反対で組閣流産し、首相となった林銑十郎も5月31日に在職わずか3か月で辞任した。


砂田重政: 1937年には宇垣一成首班工作に携わった。


板垣征四郎: 天皇が「関係大臣との連絡はどうか」と問うと板垣は、宇垣一成外相も米内光政海相も賛成であると答えた。


鈴木貞一: 1月 - 蔣介石工作の為に、宇垣一成陸軍大臣の命を受けて武漢へ出張する。


土門拳: 1938年 - 土門が撮影した、当時の外務大臣・宇垣一成のルポルタージュ、「日曜日の宇垣さん」が、「婦人画報」の9月号と、アメリカのグラフ誌「ライフ」9月5日号に掲載される。


白鳥敏夫: また板垣征四郎陸軍大臣も白鳥を次官に起用するよう求め、7月には、大川周明が白鳥の起用を求める外務省若手の連名書を宇垣一成外相に提出し、また若手官僚7人が宇垣の私邸を訪れて白鳥の次官起用を暗に求めるという一件もあった。


安井誠一郎: 1931年には同郷で朝鮮総督の宇垣一成に請われて秘書官となり、朝鮮総督府専売局長を務めた後、1936年、京畿道知事に就任した。


倉成正: 宇垣一成


大麻唯男: 敗戦後は大日本政治会を母体とした政党・日本進歩党の結成に尽力するが、総裁の座を巡って町田と宇垣一成の何れかにするかで党内が揉めることになった。


鳩山一郎: 鳩山が主として軽井沢を舞台に交流したのは、近衛文麿、吉田茂、宇垣一成、真崎甚三郎、松野鶴平、芦田均、笹川良一、赤尾敏といった人々であり、隠遁とはいっても軽井沢にいる政治家たちとの情報共有は欠かさず、終戦和平工作にも関与した。


土門拳: このことに土門は怒り、1年後の1938年、土門はタイムライフ社からの依頼により、当時の外相の宇垣一成を取材。


汪兆銘: 日本は、つぎつぎに大軍を投入する一方、外相宇垣一成がイギリスの仲介による和平の途を模索していた。


広田弘毅: 後任はかつて広田内閣後の首相候補となった宇垣一成であった。


荒木貞夫: 武藤はどちらかというと「反宇垣一成」で皇道派の庇護者であったため、統制派の独裁を嫌い、特に荒木を可愛がったらしい。


杉山元: 1924年(大正13年)から陸軍大臣をつとめた宇垣一成に重用され、1928年(昭和3年)には陸軍省軍務局長に就任。


木戸幸一: かといって及川では陸軍の同意が得られぬと、海軍出身の岡田啓介と米内光政が述べると、代わりの宇垣一成であっても同様と阿部信行が発言した。


石原莞爾: これにより、次期首相にはかつて軍縮に成功し、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣一成大将が俄然有力視され、ついに大命降下される運びとなった。


東條英機: 宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。


広田弘毅: 広田の後任として組閣大命を受けたのは宇垣一成であったが、陸軍が反対し軍部大臣現役武官制によって陸軍大臣が得られずに組閣できずに終わる。


安井誠一郎: 1931年(昭和6年) - 朝鮮総督の宇垣一成に請われて秘書官となる。


板垣征四郎: 満洲事変に於ける関東軍の行動は、宇垣一成派が追放された後に陸軍の実権を握っていた一夕会系中堅幕僚層からの支持を受け、永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、参謀本部の東条英機編成動員課長、渡久雄欧米課長などが、関東軍の活動を有利にさせる方向で動いた。


西園寺公望: このころ、西園寺邸によく出入りしていた宇垣一成陸軍大将を担いだクーデター未遂事件、「三月事件」が発生した。


板垣征四郎: 陸相在任中は宇垣一成外相による日華和平交渉に際しては、「蔣介石の下野」を講和の条件とする強硬論をぶち上げ、結果として交渉不成立の原因を招いた。


イッセー尾形: 「一成」の名は宇垣一成に因むという。


犬養毅: 陸軍もまた大正十四年、宇垣一成陸軍大臣(第一次加藤高明内閣)の下で四個師団を廃し、2,000人あまりの将校が馘首された苦い経験があったため、海軍の態度に同調した(宇垣軍縮)。


大川周明: 学生時代には参謀本部でドイツ語の翻訳をしており、宇垣一成、荒木貞夫、杉山元、建川美次、東条英機、永田鉄山、岡村寧次らと知己があった。


正木ひろし: なお雑誌寄稿者中には長谷川如是閑、内田百閒、武者小路実篤、馬場恒吾、読後感想を寄せた購読者には宇垣一成、小林一三、坪田譲治、藤田嗣治、三木清、萩原朔太郎、ラス・ビハリ・ボースなどの名前もあり、正木の交友関係の広さをうかがわせる。


勝部演之: NHKスペシャル「緒方貞子 戦争が終わらない この世界で」(2013年) - 宇垣一成


宇垣一成の情報まとめ

もしもしロボ

宇垣 一成(うがき かずしげ)さんの誕生日は1868年8月9日です。岡山出身の軍人のようです。

もしもしロボ

評価、逸話などについてまとめました。引退、兄弟、事件、脱退、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。

宇垣一成のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

宇垣 一成(うがき かずしげ、旧字体:宇垣 一成󠄁、1868年8月9日〈慶応4年6月21日〉- 1956年〈昭和31年〉4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。位階勲等は正二位勲一等功四級。

大正末期から昭和初期にかけて長州出身者に代わって陸軍の実権を握り、宇垣閥と称される勢力を築いた。陸軍大臣として宇垣軍縮を断行した。予備役入り後に組閣の大命が下ったが陸軍の反対で頓挫し、以後も幾度か首相に擬せられたがいずれも実現しなかった。短期間外相を務めた後公職から引退し、戦後になり参議院議員となったが在職中に死去した。

慶応4年(1868年)備前国磐梨郡大内村(現・岡山県岡山市東区瀬戸町大内)の農家に5人兄弟の末子として生まれた。水呑百姓・宇垣杢右衛門の五男で、幼名は杢次(もくじ)。後に海軍中将となる宇垣纏と同郷だが縁戚ではない。

大正13年(1924年)、清浦内閣の陸軍大臣に就任した。この組閣では、初め、陸軍の長老・上原勇作元帥が福田雅太郎を推していたが、田中義一が陸軍三長官会議の合意を説得材料として宇垣を陸軍大臣とし、これ以後、陸軍三長官の推薦に基づき陸軍大臣人事を決定することが慣例となる。ところがこの慣例は、のちに宇垣が組閣する際に大きな壁として立ちはだかることとなった。

加藤高明内閣でも陸軍大臣に留任した。このころ、田中および政友会と距離をとるようになり、憲政会の方針で宇垣軍縮を実行した。すなわち大正14年(1925年)に、軍事予算の削減を目的とする軍縮を要求する世論の高まりを受けた加藤内閣は、陸軍省経理局長の三井清一郎を委員長とする陸軍会計経理規定整理委員会を設け、21個師団のうち高田の第13師団、豊橋の第15師団、岡山の第17師団、久留米の第18師団の計4師団、連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校が廃止された。

この宇垣軍縮は、予算縮減を目的とはしていたものの、実際には、浮いた予算を装備の更新に回した。第一次世界大戦を経て近代化されていた諸外国の陸軍に比べ日本の装備は見劣りがしていたからである。戦車連隊と高射砲連隊各1個、飛行連隊2個、台湾での山砲兵連隊1個の新設、自動車学校と通信学校の開校、飛行機、戦車、軽機関銃、自動車牽引砲、野戦重砲の配備がおこなわれた。定員の縮小に伴い多くの将校が退役させられ、師団長4人、歩兵連隊長16人のポストがなくなった。これらは将校の反発を招いた。さらに中学校以上の学校に、余った将校を配置し、軍事教育を徹底させて国家総動員体制を構築しようとした。第1次若槻内閣でも引き続き留任し昭和2年(1927年)まで務めた。陸軍大将に進級。

昭和2年(1927年)には、政友会政権下での陸相を辞退して朝鮮総督に就任した。昭和4年(1929年)には、濱口雄幸内閣で再び陸軍大臣に就任し、再度軍縮を検討するも、自身の健康悪化と濱口首相遭難事件で実現しなかった。

このころ、幕僚が首謀者となり宇垣ら陸軍首脳も関与していた三月事件が発覚した。宇垣は、クーデター後の首相就任が予定されていたが、陸軍内の政友会系派閥に計画が漏れたためこの計画を断念した。昭和6年(1931年)に予備役となり、昭和11年(1936年)まで再び朝鮮総督を務めた。朝鮮総督時代に「内鮮融和」を掲げ、皇民化政策を行った。一方で農村振興と工鉱併進政策を推進したが、実効性には乏しく、宇垣の次に朝鮮総督となった南次郎の統治時代には、受け継がれなかった。また金の産出を奨励したものの、朝鮮系資本が育っていなかったことと国家予算の中から朝鮮への莫大な持ち出しが続きその回収のためほとんどの利益が日本資本に流されたことから、朝鮮人にまで利益は行き渡らなかった。ただし大谷敬二郎によれば、朝鮮人の間で歴代総督のなかで「朝鮮人のために尽くしてくれた唯一の総督」と宇垣が高く評価されていた。

昭和12年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。このころは、昭和6年(1931年)の満州事変、翌昭和7年(1932年)の五・一五事件、翌昭和8年(1933年)の国際連盟脱退、昭和11年(1936年)には二・二六事件など、軍部による策謀によって日本の国際的孤立化が進み、陸軍皇道派などによるテロ事件が散発し、新聞報道による政治批判と政党政治の腐敗による国民の政治家不信などによって政情が不安定になっていった時期である。また、政情不安を理由に軍部の政治への干渉が著しくなり、危険な戦争への突入が懸念されていた。

これに対し、元老・西園寺公望は、加藤内閣の陸軍大臣として内閣の方針によく協力し、軍縮に成功した宇垣の手腕を高く評価し、宇垣ならば軍部に抑えがきくと考えたので、奏上により、組閣の大命降下がなされる運びとなった。「大物でありながら軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣」の首班登場は、世評も高かった。

ところが、石原莞爾参謀本部第一部長心得や田中新一陸軍省兵務局兵務課長などの陸軍中堅層は、軍部主導で政治を行うことを目論んでいた。宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、彼らは宇垣の組閣を阻止すべく動いた。石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、寺内大臣から中島今朝吾憲兵司令官に命じて、宇垣に自主的に大命を拝辞させるように「説得」するようにとはからった。中島中将は、宇垣が組閣の大命を受けようと参内する途中、宇垣の車を多摩川六郷橋で止めてそこに乗り込み、寺内大臣からの命令であると言って拝辞するようにと「説得」したが。宇垣はこれを無視して大命を受けた。

しかし、石原は諦めず、軍部大臣現役武官制に目をつけて、宇垣内閣の陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官にも工作は成功し、陸軍大臣のポストは宙に浮いた。宇垣は小磯に直接陸相就任を打診したが、「三長官会議で合意がとれればよい」「(合意がとれないから直接頼んでいるのだと詰め寄った宇垣に)三長官会議の合意がとれない状態で引き受けても、東京に向かう途中で『予備役編入』の通知を受け取って無駄骨になる」と言われた。

当時予備役陸軍大将だった宇垣自身が首相と陸相の兼任による内閣発足を模索し「自らの現役復帰と陸相兼任」を勅命で実現させるよう湯浅倉平内大臣に打診したが、失敗した際の宮中への悪影響を恐れた湯浅らに拒絶された。このため宇垣は、組閣を断念せざるを得ない状態へ追い込まれた。石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を、人生最大級の間違いとして反省している。石原の反省の意味するところは、宇垣の組閣流産の後、政治の流れが、石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入へと動いていったことを顧みたものであり、石原の見立てでは、宇垣の力をもってすれば、この流れを変えることができた。また西園寺もこの組閣失敗によって気力をなくし、天皇の下問と奉答を辞退したい意向を述べるほどであった。

なお、反宇垣派の中心的な人物であった石原と田中は仙台陸軍地方幼年学校の出身で、石原の原隊は歩兵第65連隊、田中の原隊は歩兵第52連隊でこれらはすべて宇垣軍縮により廃止されたものであった。この怨念が二人を反宇垣に走らせた原動力となったと理解することもできる。

予備役でも陸相になることが可能であれば、宇垣自身が陸相を兼任して宇垣内閣が発足できたのであるが、大正デモクラシーのさなかの第1次山本内閣において軍部大臣の現役武官制が廃止されて予備役に拡大されるとき、強硬に反対して陸軍首脳部を突き上げたのは四半世紀前の宇垣その人(当時陸軍省軍務局軍事課長)であり、直前の広田内閣でその現役武官制が復活したことによって組閣の断念に追い込まれたのは皮肉であった。

この後もたびたび次期首相候補として名前が挙がるが、「陸軍が賛成しない」として大命降下には至らなかった。昭和13年(1938年)に第1次近衛内閣で外務大臣に就任さらに拓務大臣を兼任している。

組閣流産から半年後の昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件が勃発、日中戦争に突入した。近衛文麿首相は事変初期段階での収拾に失敗し、いわゆる近衛声明(「爾後国民政府ヲ対手トセズ」)を発するに及んで泥沼化が懸念されていた。事態を憂慮していた宇垣は昭和13年(1938年)5月の改造内閣に外務大臣としての入閣を請われると、日中和平交渉の開始や「対手とせず」方針の撤回を条件に就任、子分の杉山陸相や後任の板垣陸相を使い中国本土や満州への進攻に邁進した。早々に近衛声明の再検討を表明し、駐日英国大使クレーギー・駐中英国大使カー(英語版)などを介し孔祥熙国民政府行政院長らと極秘に接触、中国側からの現実的な和平条件引き出しにも成功している(すべて外務省の外交交渉)(宇垣工作)。しかし近衛首相は蔣介石の下野など和平条件吊り上げの姿勢を見せ、近衛声明の維持を表明するなどした。また陸軍は外務省の和平工作を妨害する意図もあっていわゆる興亜院の設置を働きかけ、対中外交の主導権を外務省から奪うことを画策、近衛も賛成した。こうして、近衛首相からも梯子を外された形となり、外相を辞任した。なお、在任中に発生したソ連との国境紛争張鼓峰事件を陸軍が停戦交渉によって停戦させている。在任中には牛場信彦らいわゆる革新派とされる若手外交官が宇垣宅を訪問して対中強硬論や革新派のリーダー白鳥敏夫の次官就任といった外交刷新を訴えるといった「事件」も発生しているが、省内のこうした路線対立も宇垣の指導力発揮を困難なものにしていた。以上のように首相や外務省の支えが無い中で、さしたる成果もあげられないまま辞任に至ったが、目下の課題を実務的に処理する堅実な姿勢を見せた。宇垣が国民政府から引き出した条件は後の日米交渉に比べてはるかに有利なものであるのはもちろん、交渉ルートが確実に国民政府中枢と通じた「筋の良い」ものであったこと、相互の信頼関係の存在などから、その後様々な形で行われた日中和平の試みのなかでも最も実現性が高く貴重なものであったとの評価もある。満州事変以来の日本外交を厳しく批判していた外交評論家の清沢洌は宇垣外交を高く評価、「日本は久々に外交を持った。外交官ではない人物によって」と評したとされる。

昭和12年(1937年)9月に辞任し以後一線を退いたあとも、民間から重臣層に至る幅広い和平派グループからの信頼が厚い宇垣は、何度も首班候補に挙げられた。

 特に、吉田茂は、昭和14年から18年にかけて度々、宇垣首班擁立工作を行なったが、陸軍や内大臣の湯浅倉平、木戸幸一らの反対で全て失敗に終わった(吉田はこうした活動が元で昭和20年4月に憲兵隊に逮捕された)。すなわち昭和14年(1939年)、吉田は、平沼内閣総辞職が噂されると、岳父で元内大臣の牧野伸顕や貴族院議員の樺山愛輔、元時事新報社社長の小山完吾らを通じ宇垣擁立工作を行うが、昭和天皇や陸軍が阿部信行を推したこともあり、断念した。また、昭和15年(1940年)秋には第2次近衛内閣の総辞職を勧告し、宇垣に対しても組閣工作を促す手紙を送っている。さらに、昭和17年(1942年)、吉田は、4月に宇垣と平沼騏一郎の会談、10月に宇垣と真崎甚三郎(陸軍皇道派の領袖)の会談を実現させ、12月には東大病院に入院中の近衞文麿への根回しを行い、宇垣に組閣を打診したが、このときは拘束の多い中での組閣は望まないとして宇垣のほうが断っている。  宇垣擁立工作を行なったのは吉田だけではない。東條内閣打倒の急先鋒だった中野正剛らは、昭和18年(1943年)、宇垣が後継首班として倒閣運動を行い、重臣たちの了解も取り付けた。宇垣本人も中野の策を了承し、東條内閣打倒に賛意を示した。しかし中野たちのこの倒閣運動は東條英機に事前に弾圧され、ここでも宇垣内閣は誕生することはなく終わった。

 結局、軍部を抑えることのできる人材として期待を集めた宇垣ではあったが、陸軍大臣時代に大規模な宇垣軍縮を実施したこと、三月事件で実行直前に翻意したことで陸軍内に敵が多く、ついに首相となることなく、昭和19年(1944年)に拓殖大学第5代学長に就任した。

昭和20年(1945年)、太平洋戦争終結の後、公職追放。

東京裁判を主導した主席検察官のキーナンは、米内光政・若槻礼次郎・岡田啓介と並んで宇垣を「ファシズムに抵抗した平和主義者」と呼び賞賛し、四人をパーティに招待し歓待している。

昭和27年(1952年)に追放解除された。昭和28年(1953年)4月に行われた第3回参院選挙で全国区から立候補し、51万票を集めトップ当選した。当選圏は約15万票だったが、宇垣は最高点51万3765票を集めて当選した。選挙運動中に倒れ、ほとんど議員活動はできなかった。山田風太郎によると死因は「打ち合わせ中の火鉢の焚き過ぎによる一酸化炭素中毒」で昭和31年(1956年)に静岡県伊豆長岡町(現在の伊豆の国市長岡)の松籟荘で議員在職のまま死亡した。墓所は多磨霊園。宇垣の87歳は、平成28年(2016年)現在、現職の参議院議員として最高齢タイ記録である(もう1人は市川房枝、こちらも議員在職のまま死亡)。

評価

上原勇作元帥を中心とする九州閥には「蝙蝠のような男」と揶揄された。田中義一の腹心として陸相に抜擢されたにもかかわらず、自身の派閥強化のため反長州閥的な行動(予備役入りや陸大からの排除)をとる。怪文書内で軍部大臣現役武官制に固執し政党政治を強く批判、三月事件に代表されるように軍部による国家支配を画策したにもかかわらず、西園寺により首班指名されるとそれら全てを否定した。三月事件でも態度を翻している。軍国主義を誰よりも推進させてきた張本人の変節は石原のみならず宇垣閥にも受け入れられるものではなかった。ファシズムに抵抗したのではなく、ファシズムに受け入れられなかったのである。

「聞き置く」など曖昧な表現を多用し、外相在任中に起きた張鼓峰事件においては、あたかも出兵を容認したかのように受け取られた。宇垣は昭和天皇に対しては明確に反対論を上奏していたため天皇は不信感を持ったとされ、『昭和天皇独白録』では「この様な人を総理大臣にしてはならないと思ふ」と酷評されていた。昭和天皇は三月事件の遠因も宇垣の言い回しが原因ではないかと考えていた。

自他ともに認める首相候補であり、内閣流産後も幾度となく候補として名前が挙がったが、結局首相になれず候補のままで他界したことから「政界の惑星」と呼ばれるようになった。惑星は太陽(=首相)のまわりを回り続けるが、自ら太陽(=首相)にはなれないとの意味である。議会主義を尊重していたことなどから大物軍人としては珍しく政党政治家グループにも人気があり、戦前は民政党総裁に、戦後直後には日本進歩党総裁に推されたことがあったが、これらも実現をみることはなかった。

逸話

この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)出典検索: "宇垣一成" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL2024年2月)

宇垣は、田舎者らしく無頓着な平民的容貌だったが、人一倍功名心に燃えているところもあった。

田中の援助で陸相になれたにもかかわらず、「余に対する内外の期待はかなり大である」、「帝国の運命盛衰は吾一人にある」と日記に書くほど自意識過剰であった。

公刊された『宇垣一成日記』(正式名は『一如庵随想録』)には「!」が2000回以上、「!!」が1000回以上用いられているという。

2024/06/16 01:10更新

ugaki kazushige


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渡辺 善太郎(わたなべ ぜんたろう)
1963年8月9日生まれの有名人 岡山出身

渡辺 善太郎(わたなべ ぜんたろう、1963年8月9日 - 2021年7月22日)は、日本の音楽家、音楽プロデューサー、ソングライター、編曲家。岡山県倉敷市出身。レインボーエンタテインメント所属。 …


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