小磯国昭の情報(こいそくにあき) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
小磯 国昭さんについて調べます
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小磯国昭と関係のある人
樋口季一郎: しかし、上官の小磯国昭(後年の首相)に慰留され、満洲国のハルビンに赴任する。 重光葵: 東條英機内閣・小磯国昭内閣において外相を務める。 板垣征四郎: しかし同年の荒木貞夫による皇道派人事で関東軍司令官に武藤信義大将、参謀長に小磯国昭中将、参謀副長に岡村寧次少将が就任し満洲組が左遷されると、この頃の板垣にはもはや関東軍を牛耳る力はなかったとされる。 汪兆銘: 汪公館に務めた程西遠の記録によれば、見舞客としては、東条英機・近衛文麿・石渡荘太郎・青木一男・小倉正恒・杉山元・小磯国昭・阿部信行・柴山兼四郎・後宮淳・天羽英二・重光葵・松井太久郎らの名があり、中国人では、家族のほか方君璧・褚民誼・周仏海・蔡培・鮑文樾らが見舞った。 米内光政: 残りの小磯国昭、鈴木貫太郎は大命降下時予備役であった)。 鈴木貫太郎: 次に陸軍が決まったのなら次は海軍と鈴木の胸中に最初からあった米内光政を留任させるという考えを前首相の小磯国昭へ相談した。 松下達夫: これが真実だ 第35話「最後の日中平和交渉」(1960年、CX) - 小磯国昭総理大臣 宇垣一成: 宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官にも工作は成功し、陸軍大臣のポストは宙に浮いた。 安達謙蔵: 軍部では小磯国昭、さらに西園寺にも構想を打ち明けている。 汪兆銘: 遺体を陸軍小牧飛行場から飛行機に乗せて送り出す際には、小磯国昭首相・重光葵外相ら当時の政府閣僚、近衛文麿・東条英機ら重臣が見送りに訪れた。 東郷茂徳: 簡潔に言えば、東郷は小磯国昭内閣で重光葵外相が進めたスウェーデンを仲介者とする和平工作を打ち切り、スウェーデン政府の和平仲介中止を指令し、仮想敵国で対日参戦を伺っているソ連を和平仲介に選び、ポツダム宣言発表後もソ連仲介の和平に固執し続けた。 石原莞爾: 宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官への工作も成功し、誰一人として宇垣内閣の陸軍大臣を引き受ける者はいなかった。 岸信介: 総辞職後も岸への怒りが収まらない東條は、新たに組閣の大命を受けた小磯国昭との会談で、暗に岸を指して一部の前閣僚には前官礼遇を与えないことを要請した。 白鳥敏夫: また同年には若手外務省官僚の重光外相・大東亜相に対する反対運動が発生したが、本間雅晴中将の小磯国昭首相に対する報告によると、この運動を煽動した者の中に白鳥がいたとされる。 板垣征四郎: 朝鮮軍司令官となってからも東亜連盟運動に関与しており朝鮮の活動家青年達とも接触を持ったが、司令官としては朝鮮総督の小磯国昭や朝鮮総督府政務総監らと共調した内鮮一体の植民政策を押し進めた。 |
小磯国昭の情報まとめ
小磯 国昭(こいそ くにあき)さんの誕生日は1880年3月22日です。栃木出身の軍人のようです。
卒業、事件に関する情報もありますね。1950年に亡くなられているようです。
小磯国昭のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月22日 - 1950年〈昭和25年〉11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。山形県士族。山形県新庄市出身。 陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役に編入された。その後平沼内閣と米内内閣で拓務大臣、朝鮮総督(第8代)を務め、太平洋戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として1944年(昭和19年)に内閣総理大臣に就任した(小磯内閣)。悪化の一途をたどる戦局を挽回できず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、1945年(昭和20年)4月に辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。 栃木県宇都宮に山形県士族(旧新庄藩士)で警察署警部であった内務官僚小磯進の長男として生まれた。小磯家は槍術の本心鏡智流を伝えた小磯条左衛門(初名は半太夫)を祖とする家柄であり、『新庄藩系図書』によれば、梅田杢之丞の門弟で、延宝年中に召し抱えられたという。 新庄小学校、上山小学校を経て、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)を卒業するまで8箇所の学校に在籍した。その後、陸軍士官学校(12期)、陸軍大学校(22期)卒業。 小磯は陸大での成績が同期55人中33番であり、20番以下の成績の者で小磯ほど出世した者は他にはいない。若いころはエリートコースを歩んでおらず、陸軍内の派閥にも属していなかった。このような事情により小磯の陸軍内での人気は高くなかった。しかし当時の陸軍の最大の実力者だった宇垣一成にその能力を買われ、小磯は陸士同期の杉山元や二宮治重らと共にその側近として重用されていった。これに畑俊六をあわせたこの四人は陸士・陸大の同期で、その後も近い関係を保ったまま昇進していく。 1930年(昭和5年)、杉山の後任として軍務局長に抜擢されると、人付き合いの良さや耳学問と読書で吸収した知識を活かし頭角を現した。その演説は理論構成もしっかりし、表現力も豊かで一級品といわれた。1931年(昭和6年)には宇垣を首班とする軍事政権樹立を図る三月事件の中心人物として関与。結局この計画は中止されるが、その後の小磯の軍歴に大きな影響を及ぼす。 三月事件や十月事件などの責任問題を背景に同年11月、荒木貞夫が陸相となり、いわゆる皇道派が陸軍内の実権を握ると、彼等は宇垣閥の排除を開始。小磯は1932年(昭和7年)2月に陸軍次官に昇進するものの、大臣は皇道派の荒木貞夫で、半年で中央を追われ関東軍参謀長となる。後任次官には陸士同期で皇道派の柳川平助が就いた。その後は皇道派と永田鉄山や東條英機ら統制派の確執が続くが、1936年(昭和11年)に二・二六事件が発生、翌年までの粛軍人事で皇道派は壊滅した。朝鮮軍司令官だった小磯は大将に進級するが、寺内寿一や梅津美治郎ら陸軍首脳部とは疎遠となっており、予備役間近と考えられていた。 1937年(昭和12年)、広田弘毅の後継として宇垣に組閣の大命が下る。しかしかつて陸軍の首魁であった宇垣の掣肘を嫌う石原莞爾ら省部中堅層が策動した結果、陸軍首脳部は三月事件の責任や派閥色を名目に陸相を推薦せず、復活したばかりの軍部大臣現役武官制を早くも利用して宇垣の組閣を流産させる決定を下していた。宇垣は小磯に陸相就任を直接要請するが、小磯は三長官の同意がないことを理由にこれを固辞。ここに至ってさすがの宇垣も大命を拝辞せざるを得なくなった。小磯は宇垣に陸相就任を受諾しても東京に着くまでに予備役にされてしまうと伝えていたともいう。宇垣はその日の日記に「小磯の台頭が炎となり小磯の軽挙が招来したる三月事件が其の口実に利用せらるる(中略)。彼の捨身的奮起を促し見たりしが、彼も凡庸儕輩と等しく明哲保身以外に立ち得ざりしは可憐なり矣」と書き付けて憤りを露わにしている(『宇垣日記』)。 1938年(昭和13年)に予備役編入。1939年(昭和14年)、平沼内閣において拓務大臣として初入閣した。翌年には米内内閣でも拓務大臣として再入閣を果たした。 太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)に朝鮮総督に就任し、「内鮮一体」をスローガンに前任者の南次郎総督が行った皇民化政策をよりいっそう押し進めた。小磯は朝鮮人官吏の登用、朝鮮人企業の推進、朝鮮人の政治関与の実現などを掲げ、1943年(昭和18年)8月1日には総督府統治下の朝鮮にも徴兵制度を施行した。朝鮮独立について小磯は「今更、朝鮮の独立を夢みるのは九州や、北海道が独立を企図すると同じで馬鹿げた意味のないこと」と否定的だった。 アメリカ軍の反攻が本格化すると重臣らによって東條内閣の倒閣運動が発生し、サイパン失陥によって東條は辞任を余儀なくされた。後任を決める重臣会議では、南方軍総司令官の寺内寿一、朝鮮総督の小磯、支那派遣軍司令官の畑俊六の3人に候補が絞られるが、前線指揮官の寺内を呼び戻すことに東条が反対、畑についても重臣の多くが反対し、米内光政、平沼騏一郎らの推す小磯に落ち着いた。 当初は小磯単独の予定だったが、久しく中央政官界から離れており、国内にさしたる政治基盤を持たない小磯の指導力不足を懸念した近衛の発案で、元首相で海軍の重鎮である米内と連立させることになった。昭和天皇は重臣とも話した上で、小磯・米内の両名に「協力して内閣の組織を命ずる」という異例の大命を下した。 米内の副首相兼海相就任に伴う現役復帰について、海軍省内では野村直邦海相、岡敬純次官以下反対の空気があった。野村と岡は7月17日にそれぞれ海相と次官に就任したばかりであり、さらには岡は米内と反りが合わないためである。7月18日の首脳会議で激論が交わされ、小磯は米内起用が昭和天皇の意思である事などを述べたが、野村海相はその真偽を確かめようと、同21日武官長・内大臣を通さずに単身参内し、米内起用の件に関して直接昭和天皇に問い質した。海軍省内の混乱など、既に聞き及んでいた昭和天皇は、その場ではっきりと米内起用の方針を伝え、米内の現役復帰が決まった。これに伴い野村は軍事参議官に転じ、岡は米内の「一夜にして放逐する」との予告通り中央から遠ざけられた。 陸相に関しても、前首相の東條が当初陸相留任の姿勢を見せるなど波乱含みの展開となる。小磯は自身も米内と同様に現役復帰する事で陸相を兼任する事を考えたが、陸軍内部や重臣(近衛文麿、木戸幸一ら)の間に反対が強く断念。小磯は山下奉文または阿南惟幾の起用を望んだが容れられず、結局は東條・梅津美治郎参謀総長・杉山元教育総監による三長官会議で、杉山が陸相に回ることとなった。 同22日、小磯内閣発足。小磯は総理大臣就任時には予備役となってから6年も経っており、「日本はこんなに負けているのか」と口走るほど戦況に疎かった。また予備役のまま総理に就任したことで、戦局を検討する大本営の会議にも規則により出席できなかった。1945年3月16日、天皇の特旨によって大本営に列した。 そこで小磯は陸海軍の指揮系統を一本化し和平を促進するため、陸軍参謀総長と海軍軍令部総長の上に最高幕僚長を設置する案を推進したが、これには軍令権が事実上陸軍に吸収されるとして海軍が猛反発。陸軍側は最高幕僚長を海軍から出すことを提案し、昭和天皇は米内にこれを打診するが固辞、結局この案は実を結ばなかった。代わりに最高戦争指導会議を設立し、首相が陸海軍を統制する事で決着したが、小磯がその指導会議で発言しても、秦彦三郎陸軍参謀次長に「近代的作戦用兵を知らない首相は口出しするな」とたしなめられたりするほどで、とても指導力を発揮しているとは言えない状況だった。陸軍省内でもこの内閣は2か月で潰れるという噂でもちきりだった。 小磯は米軍に一撃を加えた上で対米講和を図ることを意図し、レイテ決戦へと向かっていく。しかし現地の山下奉文第十四方面軍司令官と寺内南方軍総司令官の対立、陸海軍の意見不一致で作戦がまとまらず、10月23日から25日にかけてのレイテ沖海戦では空母4隻、戦艦3隻を失う手痛い打撃を受けレイテ決戦は断念、持久戦方針へと転換された。しかし小磯は決戦方針の転換を聞かされておらず「レイテ決戦は天王山」と呼号し、昭和天皇から作戦中止を知らされて大恥をかいている。 小磯は蔣介石政権との単独和平工作を企図し、緒方竹虎情報局総裁と共に、同政権国防部長何応欽と繋がっているといわれた繆斌に接触した(繆斌工作)。陸海軍首脳部も一時はこの工作に賛同したが、重光葵外務大臣が猛反対する。重光は「繆斌に蔣介石との繋がりはなく、日本の機密情報を持ち帰って寝返ろうとしているだけの和平ブローカー」としてそれを示す資料を軍首脳に提示、杉山陸相・米内海相も重光に同意し、一転して同工作に反対した。木戸内大臣、梅津参謀総長、昭和天皇も同工作に反対し、小磯は繆斌工作を断念せざるを得なくなった。 いよいよ進退窮まった小磯は再び自身の現役復帰と陸相兼務を画策するが、杉山陸相に拒絶される。その後、杉山陸相が本土決戦に向けて新設された第一総軍司令官として転出することになったため、小磯はあらためて自身の現役復帰と陸相兼務を試みたが、三長官会議で阿南惟幾が後任の陸相に選ばれる。小磯は首相就任当初に阿南の陸相就任を望んでいたが、このころになると小磯の利となる時期を逸していたため、八方塞がりとなった小磯内閣は1945年(昭和20年)4月7日、内閣総辞職。発足から約8か月半だった。後任の首相には昭和天皇たっての希望で、海軍軍人で元侍従長の鈴木貫太郎が就任し、鈴木貫太郎内閣が成立した。 1945年(昭和20年)11月19日、連合国軍最高司令官総司令部は、日本政府に対し小磯ら11人を戦争犯罪人として逮捕し、巣鴨刑務所に拘禁するよう命令した。小磯には「朝鮮の虎」とのアダ名が付けられていた。予審検事による尋問の中で検事が「将軍は、朝鮮のトラと呼ばれている。トラは侵略的ないきものである。その理由をお答え願いたい」と質問した。これに対し小磯は「たぶん、歴代の朝鮮総督のうち、ご覧のとおり私が一番の醜男だ。この顔がトラに似ているからでは」と答えた。その場で速記を取っていた女性速記者が笑い出し、検事も「よく分かった」と了解した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。1948年(昭和23年)に極東国際軍事裁判で終身禁錮刑となる。1950年(昭和25年)4月25日、心臓病で重体となった妻・馨子の見舞いのため12時間の仮出所を許されて自宅で対面(馨子は翌5月に死去)。同年11月3日、巣鴨拘置所内で食道癌により死去した。享年70。墓所は青山霊園(1ロ8-33)。 妻:馨子(新潟県士族牧口義方五女)
長女:美智子 1898年(明治31年)- 12月 士官候補生。 1899年(明治32年)- 6月 上等兵。8月 二等軍曹に進級。11月 一等軍曹に進級。12月 陸軍士官学校入学。 1900年(明治33年)- 11月 曹長に進級。陸軍士官学校卒業(12期)。 1901年(明治34年)- 6月 少尉に進級、歩兵第三十連隊附。 1903年(明治36年)- 11月 中尉に進級。 1904年(明治37年)- 3月 日露戦争に従軍( - 1905年12月)。 1905年(明治38年)- 6月 大尉に進級。 1906年(明治39年)- 3月 歩兵第三十連隊中隊長。 1910年(明治43年)- 11月 陸軍大学校卒業(22期)。12月 陸軍士官学校教官。 1912年(大正元年)- 9月 関東都督府参謀。 1914年(大正3年)- 8月 少佐に進級、歩兵第二連隊大隊長 1915年(大正4年)- 6月 参謀本部員。8月 内モンゴル派遣( - 1917年1月)。 1918年(大正7年)- 7月 中佐に進級。8月 第十二師団参謀。 1919年(大正8年)- 4月 参謀本部兵站班長。 1921年(大正10年)- 7月 航空本部員。 1922年(大正11年)- 2月 大佐に進級。6月 欧州出張( - 1923年3月)。 1923年(大正12年)- 3月 陸軍大学校教官。8月 歩兵第五十一連隊長。 1925年(大正14年)- 5月1日 参謀本部編制動員課長に昇進。 1926年(大正15年)- 12月 少将に進級。 1927年(昭和2年)- 7月26日 航空本部総務部長に昇進。 1929年(昭和4年)- 8月1日 陸軍省整備局長に昇進。 1930年(昭和5年)- 8月1日 陸軍省軍務局長に昇進。 1931年(昭和6年)- 8月1日 中将に進級。 1932年(昭和7年)- 2月29日 陸軍次官に昇進(陸軍大臣は皇道派の荒木貞夫)。8月8日 関東軍参謀長兼特務部長に転出。 1934年(昭和9年)- 3月5日 第五師団長。 1935年(昭和10年)- 12月2日 朝鮮軍司令官。 1937年(昭和12年)- 7月21日 大将に進級。 1938年(昭和13年)- 7月29日 予備役編入。 1939年(昭和14年)- 4月7日 平沼内閣で拓務大臣( - 8月30日)。 1940年(昭和15年)- 1月16日 米内内閣で拓務大臣( - 7月22日)。 1941年(昭和16年)- 7月 満州移住協会理事長。 1942年(昭和17年)- 5月29日 朝鮮総督( - 1944年7月21日)。 1944年(昭和19年)- 7月22日 内閣総理大臣。8月4日 最高戦争指導会議設置。9月7日 インドネシアの独立を容認する「小磯声明」を発表。 1945年(昭和20年)- 3月 繆斌来日。4月3日 繆斌工作が頓挫。4月7日 小磯内閣総辞職。11月19日 GHQより戦犯として逮捕命令が下る。 1946年(昭和21年)- 4月29日 A級戦犯として起訴。 1948年(昭和23年)- 11月12日 極東国際軍事裁判で終身禁錮の判決を受ける。 1950年(昭和25年)- 11月3日 巣鴨拘置所内で食道癌により死去、満70歳。 1901年(明治34年)10月10日 - 正八位 1904年(明治37年)2月19日 - 従七位 1905年(明治38年)8月11日 - 正七位 1910年(明治43年)9月30日 - 従六位 1915年(大正4年)10月30日 - 正六位 1920年(大正9年)11月30日 - 従五位 1925年(大正14年)12月28日 - 正五位 1931年(昭和6年)1月16日 - 従四位 1934年(昭和9年)3月15日 - 正四位 1937年(昭和12年)4月1日 - 従三位 1938年(昭和13年)8月24日 - 正三位 1944年(昭和19年)8月1日 - 従二位 1906年(明治39年)4月1日 - 功四級金鵄勲章・勲五等双光旭日章・明治三十七八年従軍記章 1917年(大正6年)11月7日 - 大正三四年従軍記章 1919年(大正8年)10月25日 - 勲三等瑞宝章 1920年(大正9年)11月1日 - 功三級金鵄勲章・旭日中綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章 1930年(昭和5年)11月6日 - 勲二等瑞宝章 1934年(昭和9年)
4月29日 - 功二級金鵄勲章・旭日大綬章・昭和六年乃至九年事変従軍記章 1934年(昭和9年)5月9日 - 満州帝国:勲一位景雲章 1942年(昭和17年)3月14日 - 満州帝国:勲一位龍光大綬章 1944年(昭和19年)7月20日 - 中華民国:特級同光勲章 プライド 運命の瞬間(1998年、東映、演:木村進) 山河燃ゆ(1984年、NHK、演:須藤健) ^ 小磯に対する昭和天皇の評価は、「三月事件にも関係があったといわれているし、また神がかりの傾向もあり、且つ経済の事も知らない」、「米内・平沼が薦めるので不本意ながら大命降下したが、案の定小磯内閣は良くなかった」、「小磯は側から言われるとすぐぐらつき言う事が信用できない、腹もなく自信もなく米内を煩わせていた」などと一概に低い。 ^ 東条内閣倒閣工作に関与していた重臣たちも後任までは詳細に検討しておらず、元首相若槻禮次郎は「陸軍大将を任官年次の古い順に見ていって適当な人物を捜すという総理大臣を推薦するのか何を推薦するのかわからんようなことをやって小磯が選ばれた」と回想している。 ^ この大命に困惑した米内は「首班はどちらなのか」と確認している。官制上は小磯が首相、米内が副首相格の海相であるとの回答を得ると「それなら小磯君がやりたいようにやればいい」と組閣はほとんど小磯に任せきりだった。米内は小磯が拓相として初入閣した平沼内閣で海相を務め、その後自ら組閣した米内内閣でも小磯を拓相に迎えており、知らぬ仲ではなかった。 ^ 小磯と杉山は既に往時の親密な関係ではなく、戦局の円滑な情報交換に不安を残す結果となった。 ^ 昭和天皇は(仮に最高幕僚長が設置されたとしても)「体の良いオブザーバー(= お飾り)になっていただろう」と回想している。 ^ 最高幕僚長構想は戦後の再軍備によって発足した自衛隊で統合幕僚会議議長(後の統合幕僚長)という形で実現した。 ^ 昭和天皇は繆斌工作に関し、「繆斌は汪精衛を見捨てた男である。元来重慶工作は南京政府に一任しているのだから、日本が直接乗り出すのは不信な行為であるし、いやしくも一国の首相ともある者が蔣介石の親書も持って居ない一介の男である繆斌如き者の力によって日支全面和平を図ろうと考えるのは、頗る見識の無い事である。たとえ成功しても国際信義を失うし、失敗すれば物笑いとなる」と自身の見解を述べている。 ^ 法廷証第114号: [小磯國昭關スル人事局履歴書] ^ 半藤 2013, 位置No. 3707-3708、陸軍大将任官年月日一覧〔昭和期(昭和十五年まで)〕 ^ 半藤 2013, 位置No. 3720-4133, 陸軍大将略歴〔昭和元年から十五年末までに親任〕 ^ “新庄市の紹介 > 新庄偉人伝 > 小磯 國昭”. 新庄市. 2021年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月28日閲覧。 ^ 『昭和天皇独白録』p.114 ^ 寺崎英成『昭和天皇独白録』文藝春秋、1995年。ISBN 4167198037。 ^ 吉松安弘『東條英機暗殺の夏』1984年(新潮社) ^ 服部卓四郎『大東亜戦争全史 第4巻』鱒書房、1953年、121頁。 ^ 『昭和天皇独白録』p.127 ^ 『昭和天皇独白録』p.117 ^ 『昭和天皇独白録』p.126 ^ 伊藤隆・渡邊行男編『重光葵手記』p.464-467 ^ 『昭和天皇独白録』p.124-125 ^ 荒木・南・小磯・松岡ら十一人に逮捕命令(昭和20年11月20日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p319 ^ 『東京裁判 (上)』中公新書、1971年。 ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。 ^ 『出版年鑑 1951年版』(出版ニュース社、1951年)p.69 ^ 『社会人』第14号(社会人社、1950年6月)p.124 ^ 『官報』第5484号「叙任及辞令」1901年10月11日。 ^ 『官報』第6188号「叙任及辞令」1904年2月20日。 ^ 『官報』第6640号「叙任及辞令」1905年8月17日。 ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。 ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。 ^ 『官報』第2500号「叙任及辞令」1920年12月1日。 ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1926年2月22日。 ^ 『官報』第1225号「叙任及辞令」1931年1月31日。 ^ 『官報』第2164号「叙任及辞令」1934年3月22日。 ^ 『官報』第3073号「叙任及辞令」 1937年4月2日。 ^ 『官報』第3495号「叙任及辞令」昭和13年8月26日 ^ 『官報』第5329号「叙任及辞令」 昭和19年10月18日 ^ 『官報』第2169号「叙任及辞令」1919年10月27日。 ^ 『官報』第1158号「叙任及辞令」 1930年11月7日。 ^ 『官報』第2176号「叙任及辞令」昭和9年4月6日 ^ 『官報』第3037号・付録「辞令二」1937年2月19日。 ^ 『官報』第4555号「叙任及辞令」 昭和17年3月18日 ^ 「長谷川清外三十一名外国勲章記章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113504700 半藤一利 他『歴代陸軍大将全覧 【昭和編】満州事変・支那事変期』(Amazon Kindle)中央公論新社、2013年。 日蓮宗
小磯國昭 内閣 施政方針演説 小磯内閣総辞職 / クリック 20世紀 『小磯国昭』 - コトバンク 表 話 編 歴 伊藤博文 黑田淸隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 伊藤博文1906-1909 曾禰荒助1909-1910 寺内正毅1910 寺内正毅1910-1916 長谷川好道1916-1919 斎藤実1919-1927 宇垣一成(臨時代理)1927 山梨半造1927-1929 斎藤実1929-1931 宇垣一成1931-1936 南次郎1936-1942 小磯國昭1942-1944 阿部信行1944-1945 表 話 編 歴 高島鞆之助 田中義一 松田源治 原脩次郎 若槻禮次郎 秦豊助 永井柳太郎 岡田啓介 兒玉秀雄 永田秀次郎 結城豊太郎 大谷尊由 宇垣一成 近衛文麿 八田嘉明 小磯國昭 金光庸夫 小磯國昭 松岡洋右 秋田清 豊田貞次郎 東郷茂徳 井野碩哉 廃止 表 話 編 歴 板垣征四郎 木村兵太郎 土肥原賢二 東條英機 広田弘毅 武藤章 松井石根 荒木貞夫 梅津美治郎 大島浩 岡敬純 賀屋興宣 木戸幸一 小磯國昭 佐藤賢了 嶋田繁太郎 白鳥敏夫 鈴木貞一 橋本欣五郎 畑俊六 平沼騏一郎 星野直樹 南次郎 重光葵(7年) 東郷茂徳(20年) 松岡洋右:裁判中の1946年(昭和21年)6月27日に病死のため公訴棄却 永野修身:裁判中の1947年(昭和22年)01月5日に病死のため公訴棄却 大川周明:裁判中の1947年(昭和22年)04月9日に梅毒による精神障害が認められ訴追免除 FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data イスラエル アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 小磯國昭 日本の内閣総理大臣 昭和時代戦前の閣僚 拓務大臣 朝鮮総督 第二次世界大戦期の政治家 大日本帝国陸軍大将 陸軍省整備局長 A級戦犯 公職追放者 従二位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等瑞宝章受章者 功二級金鵄勲章受章者 太平洋戦争の人物 関東軍の人物 三月事件の人物 十月事件の人物 獄死した人物 食道癌で亡くなった人物 陸軍大学校の教員 陸軍士官学校 (日本)の教員 陸軍大学校出身の人物 陸軍士官学校 (日本)出身の人物 山形県立山形東高等学校出身の人物 山形県立新庄北高等学校出身の人物 栃木県出身の人物 山形県出身の人物 1880年生 1950年没 青山霊園に埋葬されている人物 プロジェクト人物伝項目 2024/11/18 05:46更新
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koiso kuniaki
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