鈴木貫太郎の情報(すずきかんたろう) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


鈴木 貫太郎さんについて調べます
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鈴木貫太郎と関係のある人
東郷茂徳: 鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣。 迫水久常: また、終戦時の鈴木貫太郎内閣では早期和平を目指す岡田の強い意向で内閣書記官長に就任し御前会議での聖断に至る事務手続きの責任者などとして終戦工作の一翼を担い、更に終戦詔書の起草にも携わった。 平賀譲: 同年12月18日、皇太子(即位前の昭和天皇)、東郷平八郎元帥海軍大将、財部彪海軍大臣、鈴木貫太郎・井出謙治軍事参議官に対して講話を行い、皇太子から各種質問を受ける。 小磯国昭: 悪化の一途をたどる戦局の挽回を果たせず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、小磯は1945年(昭和20年)4月に辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。 高杉哲平: 山河燃ゆ(1984年) - 鈴木貫太郎 役 加藤寛治: 1929年(昭和4年)1月、鈴木貫太郎が急遽侍従長に転じた後を襲って、海軍軍令部長に親補された。 斎藤健: 尊敬する人物は高杉晋作、原敬、鈴木貫太郎、ガイウス・ユリウス・カエサル。 芦田伸介: 226(1989年、松竹富士) - 鈴木貫太郎 役 緒方竹虎: その後も終戦を挟んで1945年(昭和20年)5月、鈴木貫太郎内閣の内閣顧問、8月には東久邇宮内閣の国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任した。 志賀直哉: また「天皇制」「鈴木貫太郎」「国語問題」といった時事エッセイも残している。 東條英機: 鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年(昭和20年)4月の重臣会議で東條は、重臣の多数が推薦する鈴木貫太郎首相案に不満で、畑俊六元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向くことがありうる」と放言した。 上田耕一: 玉音放送を作った男たち(2015年) - 鈴木貫太郎 梅津美治郎: 終戦により調印式全権を依頼されると、降伏に賛成した米内光政や鈴木貫太郎(終戦当時の首相で、元海軍大将)らが適役であるとして一旦は拒否したが、9月2日に東京湾に停泊した米海軍の戦艦ミズーリの艦上で、降伏文書調印式が行われ、大本営を代表し署名した。 一木喜徳郎: 鈴木貫太郎が葬儀委員長になり、同21日に青山斎場で葬儀が行われた。 倉成正: 鈴木貫太郎 守田比呂也: 太陽(2005年) - 鈴木貫太郎 役 郡司成忠: ^ 『鈴木貫太郎自伝』 ISBN 978-4-8205-4265-0、58-59頁 藤本捨助: 1945年(昭和20年)5月には鈴木貫太郎内閣農商参与官に就任。 米内光政: 1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣にも海相として留任。 椎名悦三郎: 1945年(昭和20年)4月、鈴木貫太郎内閣の発足に伴い、椎名は軍需次官に昇進した。 山崎努: 日本のいちばん長い日(2015年) - 鈴木貫太郎 塩田広重: 1936年 二・二六事件では、暴漢に拳銃で襲撃された鈴木貫太郎の体内に打ち込まれた弾丸の摘出手術を行った。 真崎甚三郎: 鈴木貫太郎内閣の成立にも落胆したが、終戦後も政権入りを目指していた。 阿南惟幾: 同日、鈴木貫太郎は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず“黙殺”し、我々は戦争完遂に邁進する」と述べ、翌日の29日の新聞各紙で「政府は黙殺」などと報道され、さらに海外では「黙殺」が「reject(拒絶)」と報道された。 近衛文麿: 6月22日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一などから提案のあった「ソ連を仲介とした和平交渉」を行う事を政府に認め、7月7日に「思い切って特使を派遣した方が良いのではないか」と首相・鈴木貫太郎に述べた。 灘尾弘吉: 1945年4月、鈴木貫太郎内閣の発足とともに内務次官に就き、地方総監府の設置などを行った。 松村達雄: ヒロシマ 原爆投下までの4か月(1995年、NHK(日米加合作ドラマ)) - 鈴木貫太郎首相 東郷文彦: 義父が鈴木貫太郎内閣で再度外務大臣に就くと、その秘書官を務め、終戦処理の実務に関わった。 山本五十六: 1936年(昭和11年)2月の二・二六事件では、反乱に賛同する海軍青年士官を一喝して追い返し、重傷を負った侍従長・鈴木貫太郎のために医師を手配している。 阿南惟幾: 太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦が自明なものとなっていた1945年(昭和20年)4月、枢密院議長の鈴木貫太郎(元侍従長、元海軍軍令部長、元連合艦隊司令長官)に大命降下された。 |
鈴木貫太郎の情報まとめ

鈴木 貫太郎(すずき かんたろう)さんの誕生日は1868年1月18日です。千葉出身の軍人のようです。

現在、卒業、結婚、父親、事件、再婚、家族、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1948年に亡くなられているようです。
鈴木貫太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。 海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。さらに枢密顧問官も兼任した。 枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第62代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切ってポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終戦へと導いた。また江戸時代生まれの最後の内閣総理大臣である。 1868年1月18日(慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾で、当時は下総関宿藩の飛地)に関宿藩士で代官の鈴木由哲と妻・きよの長男として生まれる。1871年(明治4年)に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移す。 1877年(明治10年)、群馬県前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、1884年(明治17年)に海軍兵学校に入校(14期)。1895年(明治28年)、日清戦争に従軍。第三水雷艇隊所属の第五号型水雷艇第6号艇艇長として威海衛の戦いに参加し、発射管の不備もあって夜襲では魚雷の発射に失敗したものの(戦後、部下の上崎辰次郎上等兵曹が責任を感じ自決している)、湾内の防材の破壊や偵察などに従事した。その後、海門航海長として台湾平定に参加、次いで比叡、金剛を経て、1897年(明治30年)海軍大学校入校、砲術を学んだ後、1898年(明治31年)甲種学生として卒業。 同年、旧会津藩士・大沼親誠の娘・とよと結婚した。とよの姉は出羽重遠夫人である。 ドイツ駐在中だった1903年(明治36年)9月26日、鈴木は中佐に昇進したが、一期下の者たちより低いその席次 に腹をたて退役まで検討した。しかし「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙を父親から受けたことにより、思いとどまったという。同年末に日本海軍は対ロシア戦のため、アルゼンチンの発注でイタリアにおいて建造され竣工間近であった装甲巡洋艦「リバタビア」を急遽購入し巡洋艦「春日」としたが、鈴木はその回航委員長に任じられた。 1904年(明治37年)2月に日露戦争が始まったが、鈴木は「春日」の回航委員長として、僚艦「日進」と共に日本に向け回航中であった。日本に到着すると鈴木はそのまま「春日」の副長に任命され、黄海海戦にも参加した。その後第五駆逐隊司令を経て、翌1905年(明治38年)1月に第四駆逐隊司令に転じた。第四駆逐隊では、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれた。第四駆逐隊司令として日本海海戦に参加し、敵旗艦である戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、同「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどの戦果を挙げ勝利に貢献した。 日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献している。この武勲により、功三級金鵄勲章を受章する。 1912年(大正元年)、妻とよが33歳で死去。 1914年(大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。 翌年1915年(大正4年)、足立たかと再婚。たかは東京女子高等師範学校付属幼稚園の教員だったが、同幼稚園の児童を孫に持っていた菊池大麓の推薦により、裕仁親王(昭和天皇)の幼少期の教育係を勤めた人物であった。 1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。 1929年(昭和4年)に昭和天皇と皇太后・貞明皇后の希望で、予備役となり枢密顧問官兼侍従長に就任した。鈴木自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次に直すと三十位ほど階級が下であったために、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。 宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、「大侍従長」と呼ばれた。また、1930年(昭和5年)に、海軍軍令部長・加藤寛治がロンドン軍縮条約に対する政府の回訓案に反対し、単独帷幄上奏をしようとした際には、後輩の加藤を説き伏せ思い留まらせている。本来、帷幄上奏を取り次ぐのは侍従武官長であり、当の奈良武次が「侍従長の此処置は大に不穏当なりと信ず」と日記に記しているように、鈴木の行動は越権行為のおそれがあった。 昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の 1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が発生した。事件前夜に鈴木はたか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招きで夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。 午前5時ごろに安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃した。鈴木ははじめ一隊に応戦するために納戸に置いていた刀を取りに行ったが、襲撃をうける前に妻のたかが泥棒が入られた時に刀でも持ってこられたら困ると思い片付けていたため鈴木は手ぶらで反乱軍の前に出ていった。はじめ安藤の姿はなく、下士官が「閣下でありますか?」と問うと鈴木が「そうだ、私が鈴木だ。何事がおこってこんな騒ぎをしているのか、話したらいいじゃないか」と冷静に言ったが下士官たちが答えることはなくそのうち「暇がありませんから撃ちます」と言い鈴木が「じゃあ撃て」と言うと下士官が兵士たちに発砲を命じた。この時兵士たちが発砲した拳銃は、明治二十六年式拳銃であったことが後にたかが証言している。鈴木は四発撃たれ、肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾し倒れ伏した。血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが鈴木がまだ息をしていることに気づき最後に一言を言いたいと思い「お待ち下さい!」と大声で叫び、「老人ですからとどめはお止め下さい。どうしても必要というなら私が致します」と気丈に言い放った。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「とどめは残酷だからよせ、鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令した。そしてたかの前に進みたかが「何事があってこのようなことになりましたか」と尋ねると、「閣下の考えている事と、我々躍進日本を志す若者との意見の相違です。それで奥様にはお気の毒なことを致しました。」と静かに語り、たかが貴方のお名前を聞きたいと尋ねると安藤は自分の名前をたかに告げ「暇がありませんから」とその場を後にした、帰り際に女中部屋の前を通った際「こうして鈴木閣下を殺してしまった以上自分も自決しなければならない」を言っているのを部屋にいた女中が聞いておりその後玄関で待っていた兵士たちが安藤に「いかかでしたか」と聞くと、「完全に目的を達した」といい兵士を引き連れて官邸を引き上げた。この際この玄関での会話を聞いていた警視庁の巡査は警視庁に、鈴木死亡と連絡した。 安藤が去ったのちたかが鈴木に駆け寄ると手で黙ってろと言い、反乱部隊が外で数を数え去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。たかが止血の処置をとっていると官舎が横であった宮内大臣の湯浅倉平が兵士が去ったのを見計らって駆けつけた。鈴木は湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、宮城へ行ってお上に申し上げてください」と言った。声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた。湯浅が帰った後、近所に住んでいた日本医科大学学長塩田広重が駆けつけ、たかに「奥さんご安心なさい私がきましたから」と声をかけ部屋の中に入ったが鈴木は大量に出血しており、駆けつけた塩田がその血で転んで血まみれになってしまったという。鈴木は畳の上で撃たれた状態のままで横になっていたため布団を敷きその上にのちに駆けつけた鈴木の主治医とともに移動させた。この時、不用意に動かしてしまった為、顔が白くなっていき鈴木の心臓が停止してしまった。その後、塩田が看護婦を連れてきて、鈴木の血液型を調べO型をいうことがわかったため大急ぎでO型の血液を運び込み輸血を行った。輸血を行うためO型の輸血用の血液を運んできた医師は内閣総理大臣官邸沿いの道を通ってきたため、途中反乱軍に「こっちへ来てはならん。」と止められたが、その止めた反乱軍の兵士が血液を運んできた医師に以前に助けられていたため、医師が事情を話すと「ここでそんなことを言っちゃなりません。私がついて行ってあげますから」と兵士に案内され反乱軍に止められることなく鈴木邸へ着くことができたという。 塩田とたかが血まみれの鈴木を円タクに押し込み日医大飯田町病院に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止した。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ、奇跡的に息を吹き返した。頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重症だったが、胸部の弾丸が心臓をわずかに右に外れたことと頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いした。 この時体の中に残った弾丸は塩田が鈴木に「うるさいようでしたらいつでも取り出してあげますよ」と提案したが、結局鈴木はこの提案を断り、生涯弾丸は体の中に残ったままであった。 安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね時局について話を聞いており面識があった。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い、後に座右の銘にするからと書を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っている。安藤が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた。決起に及び腰であった安藤に対して磯部浅一は死ぬまで鈴木を憎み続け、獄中で残した日記で他の「君側の奸」たちとともに繰り返し罵倒している。 事件から約1か月余りたった4月中旬には回復を遂げて職務に復帰したが、11月20日に老齢により侍従長を退任し枢密顧問官専任となった。同日、長年の勲功によって特に男爵に叙せられた。 1937年(昭和12年)1月、鈴木の生地に鎮座する多治速比売神社に二・二六事件での負傷からの本復祝としてたか夫人と参拝し「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。そのお礼にお参りに来ました」と語ったと、当時の宮司夫人などにより伝えられている。 1941年(昭和16年)12月8日に日本は対米英開戦して太平洋戦争(大東亜戦争)に参戦したが、戦況が悪化した1945年(昭和20年)4月、枢密院議長に就任していた鈴木は、同月5日に戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席した。 構成メンバーは6名の総理大臣経験者と内大臣の木戸幸一、そして枢密院議長の鈴木であった。若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが、鈴木は驚いて「かねて、岡田閣下にも申したことがあるけれども、軍人が政治に身を乗り出すのは国を滅ぼすものだと考えている。ローマ帝国の滅亡もしかり、カイザーの末路、ロマノフ王朝の滅亡またしかりである。だから自分が政治の世界にでるのは、自分の主義や信念のうえからみても困難な事情がある。しかも、私は耳も遠くなっているのでお断りしたい。」と答えた。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。 東條英機は、日本陸軍が本土防衛の主体であるとの理由で元帥陸軍大将の畑俊六を推薦し、「国内が戦場になろうとしている現在、よほどご注意にならないと、陸軍がそっぽを向く恐れがある。陸軍がソッポを向けば、内閣は崩壊するほかはない。」と高圧的な態度で言った。これに対して岡田啓介が「この重大な時局、大困難にあたり、いやしくも大命を拝した者に対してソッポをむくとはなにごとか、国土を防衛するのは、いったい、誰の責任であるか。陸海軍ではないか。」と東條をたしなめ、東條は反論できずに黙ってしまった。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された。 重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、「卿に組閣を命ずる」と組閣の大命を下した。この時の遣り取りについては、侍立した侍従長の藤田尚徳の証言がある。「陛下の御言葉は、誠に恐れ多く受け賜りました。ただ、このことは、なにとぞ拝辞のお許しをお願い致したいと存じます。昼間の重臣会議でも、このことはしきりに承りましたが、鈴木は固辞致しました。鈴木は一介の武臣です。これまでに政界とはなんら交渉もなく、又、何らの政治的な意見も持っておりません。鈴木は、軍人が政治に関わらないことを明治天皇に教えられ、今日までモットーにしてまいりました。陛下の御言葉にそむくのは、大変恐れおおいとは思いますが、なにとぞ、この一事は拝辞のお許しをお願いしたいと願っております。」 「軍人は政治に関与せざるべし」という信念から辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して天皇はにっこりと笑みを浮かべて、「鈴木がそのように考えるだろうということは、私も想像しておった。鈴木の心境はよくわかる。しかし、この国家危急の重大な時期に際して、もう人はいない。頼むから、どうか、気持ちを曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた。鈴木は自身に政治的手腕はないと思っていたが、「頼む」とまで言われると深くうなだれて「とくと考えさせていただきます」と、それ以上は固辞しなかった。 天皇から頼まれて首相に就任するというのは異例のことだった。また、鈴木内閣の組閣が終わった後、鈴木は大宮御所にかつて鈴木を侍従長に推した貞明皇后(大正天皇の皇后、当時は皇太后)を訪ねた際、鈴木が組閣の報告をすると、皇太后は鈴木に椅子をすすめ、「今、歳の若い陛下が国運興廃の岐路に立って、日夜、苦悩されている。もともと陛下としてはこの戦争を始めるのは本意ではなかった。それが、今は敗戦につぐ敗戦を以てし、祖宗に受けた日本が累卵の危機にひんしている。鈴木は陛下の大御心を最もよく知っているはずである。どうか、親代わりになって、陛下の胸中の苦悩を払拭してほしい、また多数の国民を塗炭の苦しみから救ってほしい」と鈴木に話し、涙を流した。 この話を鈴木は戦後まで語らず、戦後に千葉県の関宿で悠々自適な生活を送っていた鈴木を左近司政三が訪ねた際に秘話として声を詰まらせて、泣きながら鈴木は左近司に話したという。 4月5日の夜、大命を受けて午後11時過ぎに小石川の丸山町の自宅へ帰って来た鈴木は、玄関で誰に言うともなく「困ったことになった」と呟きながら居間へ入った。翌6日鈴木と朝食を共にした一は「こうなった以上私は農商務省の局長をやめて、お父さんの秘書官として助けようと思います」と自分の意思を告げると、鈴木は「そうか、そうしてくれるか」と微笑みながらいった。 鈴木は、どういうふうに組閣をするのか事務的なことはわからず、親友であった岡田啓介にいきなり電話をかけ、「軍需大臣になってほしい」と頼み込んだ。岡田は自分なんかを軍需大臣に考える様では、どんな内閣を作るのかわからんぞと心配になり、すぐに組閣本部であった鈴木の自宅へ行った。 組閣本部は電話のかけ方にも慣れていないものしか周囲におらず、岡田はすぐに二・二六事件の際に生死を共にした娘婿の迫水久常を呼び寄せた。この時迫水は大蔵省の局長であったが、岡田が切羽詰まった様子で頼んできたため、直ちに上司である津島壽一大蔵大臣に電話の件を話し、鈴木邸に駆けつけた。迫水が着くと鈴木は岡田と対座しており、机の上には閣僚名簿とかかれた紙が置いてあったがその紙には官名は書いてあったが、具体的な名前が書き込んであったのは、内閣総理大臣に鈴木の名前と、内閣書記官長に迫水の名前のみであった 組閣に際して、書記官長に内定した迫水は空襲下でも安心して組閣工作が進められる場所として、東條内閣の終わり頃から重臣会議の会場としてしばしば使われてきた日比谷の第一生命館を組閣本部に白羽の矢を立て、鈴木へ連絡したが、鈴木は「そんなことをする必要はない。今度の組閣はどうしてもこの鈴木家でやりたいと」言った為、鈴木邸を組閣本部にとして、組閣工作を進めた。 組閣の第一歩として陸軍大臣を決めるため、鈴木と長男の一が陸軍省へ訪問するところから始まった。出迎えた現職陸軍大臣の杉山元に対し、鈴木は侍従長時代、侍従武官であった阿南惟幾を陸軍大臣に指名した。 杉山は直ちに陸軍三長官会議を開き三つの条件付きで、阿南を入閣させることに決めた。 条件として、一、あくまで戦争を完遂すること 二、陸海軍を一体化すること 三、本土決戦必勝のため、陸軍の企図する諸政策を具体的に躊躇なく実行すること。 鈴木はこの三条件をあっさりと呑みこうして陸軍大臣が決まった。 次に陸軍が決まったのなら次は海軍と、鈴木の胸中に最初からあった米内光政を留任させるという考えを前首相の小磯国昭へ相談した。小磯は「異論はない」と承認したが、当の本人であった米内は、「私は前内閣が発足するとき、小磯大将と共に大命を拝受した身である。その小磯内閣が総辞職した以上、責任の一半は私にもある。他の大臣の留任は致し方がないとしても私は小磯と共に下野するのがよいと考えている。私はまず第一候補として井上成美中将、もし井上中将が受けない場合には長谷川清大将を推したいという腹づもりを持っている。それに私自身、近頃健康もすぐれないので、こんどは閣外に去らせてもらいたい。しかし、閣外にあっても協力だけは惜しまないつもりでいる。」と受ける気配がなかったが、米内の推す井上成美中将と長谷川清大将は二人とも口を揃えて、米内の留任が最も良いと言って、こちらも受ける気がなく、結局、鈴木は強引に米内の留任を決めた。 大蔵大臣の選考では鈴木の構想どうり勝田主計に白羽の矢をたて、直ちに疎開先であった埼玉県へ遣いを走らせたが、当の勝田は歳を取りすぎて体が動かないという理由で受けようとせず、「どうしても適当な人が見つからない場合は、私の娘婿である廣瀬豊作を起用したらいかがでしょう」と大蔵省の官僚であった広瀬豊作を推薦し、鈴木は親友であった勝田が推薦するならと広瀬の入閣を決めた。 農商大臣に関しては、以前から鈴木家と家族ぐるみのつきあいをしていた石黒忠悳の息子である石黒忠篤へ依頼し、石黒は快くこれを承諾した。 国務大臣兼情報局総裁は、当時日本放送協会会長であった下村宏を鈴木は想定していた。下村は鈴木に呼び出され、国務大臣兼情報局総裁への就任を依頼されたが即答は差し控え放送会館へ引き返した。しかし、鈴木の側近からの、下村は他からの推挙によるものではなく鈴木が持っていた手駒である、という言葉で入閣を決断した。 こうして4月7日の夜半に親任式を終えて鈴木内閣が発足した。鈴木は非国会議員、江戸時代生まれ という二つの点で、内閣総理大臣を務めた人物の中で、最後の人物である(但し鈴木が亡くなった時点で平沼のほか、岡田や若槻も存命していたため江戸時代生まれの首相経験者で最後の生き残りではない)。満77歳2か月での内閣総理大臣就任は、戦前・戦後を通じて日本最高齢の記録である。 鈴木は総理就任にあたり、メディアを通じて次のように表明した。なお日本ニュースでは「」の部分のみが放映された。 日米関係への姿勢今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは、亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います。 — 内閣総理大臣 鈴木貫太郎
という談話を世界へ発信している。1945年4月23日のTIME誌の記事では、以下のように発言が引用されている。
終戦工作首相退任後死去![]() 年譜
1877年(明治10年) - 父の群馬県庁への就職に伴い前橋市に転居。 1878年(明治11年) - 第一番小学校厩橋学校(現・前橋市立桃井小学校)卒。 1883年(明治16年) - 群馬中学(現・群馬県立前橋高等学校)に進むも中退し、攻玉社に学ぶ。 1884年(明治17年) - 海軍兵学校入校。 1887年(明治20年)7月25日 - 海軍兵学校卒(14期)。 1888年(明治21年) - 任海軍少尉。大沼トヨと結婚。 1892年(明治25年)12月21日 - 任海軍大尉。 1895年(明治28年)- 日清戦争に従軍。 1897年(明治30年)3月30日 - 海軍大学校砲術学生。 1898年(明治31年)
6月28日 - 任海軍少佐。 12月19日 - 海軍大学校甲種学生卒(1期)。 1901年(明治34年)7月29日 - ドイツ駐在(〜1903年(明治36年)12月30日)。 1903年(明治36年)9月26日 - 任海軍中佐。 1904年(明治37年) - 日露戦争に駆逐隊司令として従軍(〜1905年(明治38年))。 1907年(明治40年)9月28日 - 任海軍大佐。 1910年(明治43年)7月25日 - 海軍水雷学校長。 1913年(大正2年)
8月10日 - 第二艦隊司令官。 12月1日 - 海軍省人事局長。 1914年(大正3年)4月17日 - 海軍次官。 1917年(大正6年)
9月1日 - 練習艦隊司令官。 1918年(大正7年)12月1日 - 海軍兵学校長。 1920年(大正9年)12月1日 - 第二艦隊司令長官。 1921年(大正10年)12月1日 - 第三艦隊司令長官。 1922年(大正11年)7月27日 - 呉鎮守府司令長官。 1923年(大正12年)8月3日 - 任海軍大将。 1924年(大正13年)1月27日 - 第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官。 1925年(大正14年)4月15日 - 海軍軍令部長。 1929年(昭和4年)
2月14日 - 枢密顧問官を兼任。 1936年(昭和11年)
11月20日 - 侍従長辞職。同日男爵に叙せられる。 1940年(昭和15年)6月24日 - 枢密院副議長に就任。 1944年(昭和19年)8月10日 - 枢密院議長に就任。 1945年(昭和20年)
7月28日 - ポツダム宣言について「黙殺」声明。 8月14日 - ポツダム宣言受諾を御前会議で決定。宮城事件に遭う。 8月15日 - 玉音放送のあと内閣総辞職。 12月15日 - 枢密院議長就任。 1946年(昭和21年)6月3日 - 公職追放。枢密院議長を辞職。 1948年(昭和23年)4月17日 - 千葉県東葛飾郡関宿町で死去(満80歳)。 1891年(明治24年)12月14日 - 正八位 1893年(明治26年)1月31日 - 従七位 1895年(明治28年)11月26日 - 正七位 1898年(明治31年)9月10日 - 従六位 1903年(明治36年)11月10日 - 正六位 1907年(明治40年)11月30日 - 従五位 1913年(大正2年)2月10日 - 正五位 1916年(大正5年)2月21日 - 従四位 1920年(大正9年)12月20日 - 正四位 1923年(大正12年)11月12日 - 従三位 1926年(大正15年)12月1日 - 正三位 1931年(昭和6年)12月15日 - 従二位 1938年(昭和13年)12月28日 - 正二位 1960年(昭和35年)8月15日 - 従一位 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等瑞宝章・功五級金鵄勲章・明治二十七八年従軍記章 1901年(明治34年)11月30日 - 勲五等瑞宝章 1905年(明治38年)5月30日 - 勲四等瑞宝章 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章・勲三等旭日中綬章・明治三十七八年従軍記章 1915年(大正4年)
11月10日 - 大礼記念章(大正) 1916年(大正5年)
4月1日 - 勲一等旭日大綬章・大正三四年従軍記章 1917年(大正6年)11月29日 - 金杯一個 1920年(大正9年)11月1日 - 戦捷記章・大正三年乃至九年戦役従軍記章 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章 1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和) 1931年(昭和6年)3月20日 - 帝都復興記念章 1934年(昭和9年)4月29日 - 旭日桐花大綬章・昭和六年乃至九年事変従軍記章 1936年(昭和11年)11月20日 - 男爵 1937年(昭和12年)1月15日 - 御紋付銀盃 1940年(昭和15年)
8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1942年(昭和17年)5月5日 - 銀杯一組 1916年(大正5年)6月23日 - ロシア帝国:神聖アンナ第一等勲章 1918年(大正7年)8月3日 - イギリス帝国:バス第二等勲章 1919年(大正8年)10月25日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グラントフィシエ 1921年(大正10年)3月11日 - イタリア王国:サンモーリスエラザル第一等勲章 1934年(昭和9年)
5月9日 - 満州帝国:勲一位龍光大綬章 1935年(昭和10年)9月21日 - 満州帝国:満州帝国皇帝訪日記念章 1941年(昭和16年)12月9日 - 満州帝国:建国神廟創建記念章 父の鈴木由哲は久世家関宿藩の藩士、代官。関宿町町長 母のキヨは下野国佐野川崎の修験道本山遠江寺の僧、小野寺貞滝坊慶の三女 靖国神社宮司を務めた鈴木孝雄陸軍大将は長弟。 関東都督府外事総長、久邇宮御用掛の鈴木三郎は次弟(妻のトネは木下広次の長女)。 妹の敬子は彦根藩出身の永田廉平海軍大尉に嫁ぐが、永田が黄海海戦で戦死したため末弟茂が永田家の養嗣子に入る。永田の父である永田正備は桜田門外の変の際に主君である大老井伊直弼の護衛をしており、奮戦空しく殺害されている。 末弟で永田家の養嗣子に入った永田茂陸軍中佐は軍務での無理がたたり、40歳代前半で死去。 先妻のトヨ(旧姓:大沼)とは1912年に死別。兄は大沼龍太郎海軍機関少将。 後妻のタカ(旧姓:足立)は東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)の教諭であったが、菊池大麓東京帝大教授の推薦により、1905年(明治38年)から1915年(大正4年)まで皇孫御用掛として、幼少時の迪宮(昭和天皇)、淳宮(秩父宮)、光宮(高松宮)の養育に当たっていた。皇孫御用掛の役目を終えたのち、貫太郎と婚姻。貫太郎は後に侍従長を務めており、夫妻で天皇を支えた。二・二六事件の際、貫太郎が襲撃されたことをたかが昭和天皇に直接電話をかけて伝えた。昭和天皇は、侍従長、総理時代の貫太郎に「たかは、どうしておる」「たかのことは、母のように思っている」と語っている。 貫太郎の長女サカエは藤江恵輔陸軍大将と結婚した。 貫太郎の長男一(はじめ)は、農林省山林局長、侍従次長、外務省出入国管理庁長官などを務めた。 一の長男哲太郎(1926/12/17生)は通産省審議官、弁護士。 一の長女鈴木道子は音楽評論家。回想『祖父・鈴木貫太郎』(朝日新聞出版、2024年)を上梓。 貫太郎の次女ミツは後妻タカの弟で農学者で台北帝国大学教授足立仁と結婚した。 次女ミツが夫の足立仁とともに住んだ台北市昭和町の住居は現在も同地に保存され、レストラン「青田七六」として営業している。 次女ミツの孫に和歌山大学副学長で経済学部教授の足立基浩、日本経済新聞記者でテレビ東京ニューヨーク特派員の足立真理がいる。 『宰相 鈴木貫太郎』を上梓した東京大学名誉教授の小堀桂一郎は遠戚。 由哲:久世関宿藩和泉飛地代官、関宿町長
藤江次郎:陸軍中尉、飛行第45戦隊、1944年(昭和19年)2月19日ミンダナオ島沖で戦死。 藤江実:陸軍 藤江愛子
藤江尚 藤江弘子
高柳恵理子 藤江玲子 一:農林省官僚、宮内庁侍従次長、外務省出入国管理庁長官
由里 道子:音楽評論家 みつ
足立基浩:和歌山大学経済学部教授 足立たか:弟の足立仁は前述 孝雄:陸軍大将、靖国神社宮司
立見もと:男爵立見尚文陸軍大将の娘、兄子爵豊丸は陸軍省政務次官
夏子
八重子
千鶴子
よね
三郎:海軍主計大尉、関東都督府外事総長
くら けい
永田茂:姉けいの夫永田廉平が黄海海戦で死去したため永田家の養嗣子となる。 日本海海戦のときには、第四駆逐隊司令として、ロシアのバルチック艦隊の残存艦3隻を雷撃で撃沈した。そのため連合艦隊参謀・秋山真之から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われた。第四駆逐隊の乗組員たちは、その後毎年5月27日の海軍記念日に、鈴木を囲んで当時の思い出や海軍の将来を語り合う「晴濤会」という会合を催していた。会員の一人であった荒城二郎(当時「朝霧」乗組、のち中将)は、「翁(鈴木)はこの集まりを毎年楽しみにしていた。首相在任中の1945年にも官邸に会場を用意していたほどだったが、さすがにこの時は空襲による灯火管制・交通途絶により中止となった」と述懐している。 枢密院議長をしていた1943年(昭和18年)のこと、会議の席で海軍大臣・嶋田繁太郎が山本五十六の戦死(海軍甲事件。国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。驚いた鈴木が「それは一体いつのことだ?」と問うと嶋田は「海軍の機密事項ですので答えられません」と官僚的な答弁をした。すると、普段温厚で寡黙な鈴木が「俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!」(鈴木は1928年に予備役に編入され、1932年に後備役、1937年に退役。ただし、帝国海軍士官は終身官であったので、海軍大将の階級を有することには変わりない)と大声で嶋田を叱責し、周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされ驚愕したという。 同じころ、以前校長を務めた海軍兵学校を訪ね、校長の井上成美に会い「教育の効果が現れるのは20年先だよ、井上君」と鈴木が言うと、井上は大きく頷いたという。この三十年以上前、兵学校を卒業した井上が少尉候補生として乗り組んだ巡洋艦「宗谷」の艦長が鈴木であった。井上は終始戦争反対派、校長に就任してからは兵学校の制度や因習を改正し、戦後に名校長と讃えられている。二人の問答を傍らで聞いていた兵学校企画課長は「鈴木がはるばる広島県・江田島の兵学校まで来たのは、この一言を井上に告げるためだったのでは」と感じた、と戦後に述べている。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2023年2月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2023年2月) 海軍の命令で学習院に軍事教練担当の教師として派遣された折に、教え子に吉田茂がいた。吉田は鈴木の人柄に強く惹かれ、以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田の総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねたと言われている。例えば、「吉田君、俎板の鯉のようにどっしり構えること、つまり負けっぷりをよくすることだよ」などと言ったことを伝えていたと言われている。 1945年(昭和20年)8月14日の御前会議終了後、陸相・阿南惟幾は紙に包んだ葉巻きたばこの束を手に「終戦についての議論が起こりまして以来、私は陸軍の意見を代表し強硬な意見ばかりいい、助けなければならないはずの総理に対し、いろいろご迷惑をかけてしまいました。ここに慎んで詫びます。ですがこれも国と陛下を思ってのことで、他意はございませんことをご理解下さい。この葉巻は前線から届いたものであります。私は嗜みませんので、閣下がお好きと聞き持参致しました」と挨拶にきた。鈴木は「阿南さんのお気持ちは最初からわかっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出てきたことです。しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。我が国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本は必ず再建に成功します」と告げた。阿南は静かにうなずいて「私も、そう思います」と言って辞去した。鈴木は迫水久常に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいた。その数時間後、阿南は割腹自決した。阿南は鈴木の侍従長時代の侍従武官であり、そのときから鈴木の人柄に深く心酔していた。表面的には閣議や最高戦争指導会議で、鈴木と対立する強硬意見を言うことの多かった阿南であるが、鈴木への尊敬の気持ちは少しも変わらず、陸軍部内の倒閣運動を押さえ込むことに見えない形で尽力したりしている。 自分の意見と正反対の方向すなわち終戦の方へ流れがすすみはじめたころ、陸士同期の国務大臣・安井藤治に阿南は「どんな結論になっても自分は鈴木首相に最後まで事を共にする。どう考えても国を救うのはこの内閣と鈴木総理だと思う」と言ったという。この阿南の鈴木への深い敬意が、潜在的ではあるが、終戦への流れに大きな役割を果たしたといえる。 漢籍に通じ、特に『老子』を終生愛読した。空襲で目ぼしい財産を失ってからも、孫が古書店で買い求めた『老子』を読んだ。内閣書記官長の迫水久常に「大国を治むるは小鮮を烹(に)るが如し」(国の政治というものは小魚を煮るようなもので、決して慌てて動いてはいけない)という『老子』の一節を贈り、終戦工作の要諦を示唆している。 幼年に生地を去っているが、多治速比売神社への崇敬の念が深く中佐時代にも参拝したという。海軍中将鈴木貫太郎の名で「敬神崇祖」と書かれた大きな扁額が残されているが、現在は氏子参集殿に掲げられており、同文の扇面が複製され氏子に分けられた。また、大正12年の境内摂社稲荷社の本殿改築及玉垣新築に際して、海軍中将鈴木貫太郎の名で奉納した玉垣石が残されている。また、二・二六事件で重症を負った時、多治速比売命が枕元にお立ちになり命を救われたとして、翌年一月にたか夫人と本復祝の参拝をしている。戦後、鈴木神社創建の話が出た際は多治速比売神社の境内が適していると相談があったという。 「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という遺訓は、母校である前橋市立桃井小学校の基本目標になっており、校歌の歌詞にも採用されている。同校の卒業生でもある糸井重里は、この遺訓を「よくできたものである」と絶賛している。 『鈴木貫太郎自伝』 鈴木一 編、時事通信社、1968年、新装版1985・1991年。回顧談「終戦の表情」も収録
改訂版『鈴木貫太郎自伝』 小堀桂一郎解説・校訂、中央公論新社〈中公クラシックス〉、2013年 『雪つもりし朝 二・二六の人々』(2017年) - 作 植松三十里、KADOKAWA、ISBN 9784041052129 『黎明八月十五日』(1952年、演:青山杉作)※役名は総理大臣 『日本敗れず』(1954年、新東宝、演:斎藤達雄)※役名は総理 『叛乱』(1954年、新東宝、演:武村新)※役名は「鈴木侍従長」 『重臣と青年将校 陸海軍流血史』(1958年、新東宝、演:武村新) 『大東亜戦争と国際裁判』(1959年、新東宝、演:武田正憲) 『皇室と戦争とわが民族』(1960年、新東宝、演:林寛) 『八月十五日の動乱』(1962年、演:宇佐美淳也) 『銃殺』(1964年、東映、演:志摩栄)※役名は「鈴木侍従長」 『日本のいちばん長い日』(1967年、東宝、演:笠智衆) 『あゝ決戦航空隊』(1974年、東映、演:村上冬樹) 『動乱』(1980年、演:稲川善一)※役名は「侍従長」 『大日本帝国』 (1982年、東映、演:小山源基) 『226』 (1989年、松竹、演:芦田伸介) 『太陽』(2005年、演:守田比呂也) 『日本のいちばん長い日』 (2015年、松竹、演:山﨑努) NHK特集『日本の戦後』第1集 日本分割 知られざる占領計画 (1977年、NHK、演:嵐寛寿郎) 『歴史の涙』(1980年、TBS、演:西村晃) 『山河燃ゆ』(1984年、NHK大河ドラマ、演:平野元) 『そして戦争が終った』(1985年、TBS、演:森繁久彌) 『命なりけり 悲劇の外相東郷茂徳』(1994年、TBS、演:小林桂樹) 『ヒロシマ 原爆投下までの4か月』(1995年、NHK、演:松村達雄) 『聖断』 (2005年、テレビ東京、演:松方弘樹) 『落日燃ゆ』(2009年、テレビ朝日、演:東孝) 『坂の上の雲』第3部 (2011年、NHK、演:赤井英和) 『玉音放送を作った男たち』 (2015年、NHK BSプレミアム、上田耕一) 『アニメンタリー 決断』(第25話「最後の決断」、1971年、日本テレビ、演:勝田久) 『昭和天皇物語』- 作画 能條純一:原作 半藤一利「昭和史」、脚本:永福一成、監修:志波秀宇(2017年から小学館『ビッグコミックオリジナル』連載) 『日本のいちばん長い日』- 作画 星野之宣:原作 半藤一利(2021年 - 2022年、文藝春秋『文春オンライン』連載、「文春現代史コミックス」上・下で刊) ^ 財部彪、竹下勇、小栗孝三郎らが上位となっていた。 ^ たかは瀕死の夫に、霊気術を施していたという。 ^ 鈴木貫太郎より後の首相の東久邇宮稔彦王、幣原喜重郎、吉田茂は貴族院議員であり、1947年(昭和22年)に日本国憲法が施行されて以降は内閣総理大臣は国会議員から指名されるとの憲法上の要請により、全て衆議院議員が務めている。 ^ 一般に江戸時代の終わりは大政奉還とされるが、これは鈴木が生まれる前の1867年11月15日(慶応3年10月14日)である。一方、明治への改元は1868年10月23日(慶応4年9月8日)であるが、改元に際して「慶応4年をもって明治元年とする(正月までさかのぼって改元)」とされたことから、1868年1月25日(慶応4年1月1日)が明治の始まりとなり、鈴木の誕生日の一週間後となる。したがって、厳密には「明治改元前に生まれた最後の総理大臣」である。なお、「大政奉還前に生まれた最後の総理大臣」は平沼騏一郎。 ^ 退任時の年齢では大隈重信(満78歳6か月)が最高齢である。 ^ 終戦を遅らせ原爆を投下させたので鈴木には戦争責任がある、との社説もある。 ^ 通説では8月9日深夜に始まったとされていたが、『昭和天皇実録』において8月10日午前0時3分開始と確認された。 ^ 鈴木貫太郎を御祭神とした鈴木神社創建の実現には至っていない。 ^ 小堀は「そもそも、鈴木貫太郎という人に対する直感があったんですね。遠い縁戚に当たっていて、しょっちゅう会うという間柄ではありませんでしたが、人柄にも惹かれていました」と述べている。 ^ 海軍兵学校企画課長は兵学校のナンバースリー、艦隊の先任参謀にあたる。 ^ 同年8月に大将に昇進しているため、奉納は稲荷祭の2月の初午までと思われる。 ^ 長男で首相秘書官、戦後は侍従次長などを務めた。初刊は桜菊会出版部、1949年 ^ “≪“オール野田市”で鈴木貫太郎記念館を再建≫ 野田市鈴木貫太郎記念館 再建基金の創設へ”. 野田市. 2022年3月5日閲覧。 ^ 半藤一利 2006, p. 51. ^ 星亮一『出羽重遠伝 日本海海戦の勇者』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年、123-124頁。ISBN 4-7698-2429-7。 ^ 三好徹 2003, p. 94. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 34. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 37. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 41-42. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 43. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 46. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 48-52. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 54. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 112-113. ^ 茶谷誠一『宮中からみる日本近代史』筑摩書房〈ちくま新書 957〉、2012年、85頁。ISBN 978-4-480-06661-9。 ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 113-114. ^ 野口明「宮中生活の思い出 (PDF)」『弘道』807号、日本弘道会、1969年4月1日、2–6頁。2024年9月28日閲覧。 ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 138-141. ^ “「天皇のそばにいた男 鈴木貫太郎 太平洋戦争最後の首相」二・二六事件の証言・鈴木たかさん”. NHK戦争証言アーカイブス. 日本放送協会. 2024年8月3日閲覧。 ^ 鈴木貫太郎傳 1965, p. 138-141. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 141. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 141-143. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 142-143. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 143. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 146. ^ 「多治速比売神社と鈴木貫太郎」『堺・泉州』13号、堺泉州出版会、2002年、79–80頁。 ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 174. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 181. ^ 迫水久常 2015, p. 48 ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 182. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 179-180. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 180. ^ 迫水久常 2015, p. 50 ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 183. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 183-184. ^ 三好徹 2003, p. 95. ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 184. ^ 迫水久常 2015, p. ^ “日本ニュース第250号(公開日:1945年(昭和20年)4月23日)”. 戦争証言アーカイブス. NHK. 2014年11月3日閲覧。 ^ 迫水久常 2015, pp. 81–82 ^ 平川祐弘 1993, p. 80. ^ 保阪正康 2007, p. 142-150. ^ 半藤一利『聖断―天皇と鈴木貫太郎』文藝春秋、1985年、264-265頁。doi:10.11501/12396817。 ^ 鈴木貫太郎伝 1960, p. 255. ^ 志賀直哉『鈴木貫太郎』 ^ “昭和天皇が父親のように慕っていた…太平洋戦争を終結に導いた「77歳の老臣」に昭和天皇が打ち明けた本音 陸海軍が訴える「本土決戦」はどうしても避けたかった (3ページ目)”. 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2025/04/02 21:21更新
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suzuki kantarou
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