木戸幸一の情報(きどこういち) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
木戸 幸一さんについて調べます
■名前・氏名 |
木戸幸一と関係のある人
牧野伸顕: 内大臣時代秘書官長として仕えた木戸幸一も、牧野は「非常に頭が柔軟であった、若いわれわれが話せるような空気がある」と評している。 小磯国昭: 小磯は自身も米内と同様に現役復帰する事で陸相を兼任する事を考えたが、陸軍内部や重臣(近衛文麿、木戸幸一ら)の間に反対が強く断念。 東條英機: これを知り、東條はついに陸軍参謀総長兼任を決意し、2月19日に、内大臣・木戸幸一に対し「陸海軍の統帥を一元化して強化するため、陸軍参謀総長を自分が、海軍軍令部総長を嶋田海相が兼任する」と言い天皇に上奏した。 山下奉文: その動きを知った内大臣の木戸幸一は、陸軍首脳部と相談もせずに上奏で強行突破すれば、陸軍を刺激することになると換言し上奏を止めさせている。 東條英機: 7月13日、東條の相談を受けた木戸幸一は、 ハーバート=ノーマン: また、政財界・言論界から20万人以上を公職追放した民政局次長のチャールズ・L・ケーディスの右腕として協力したほか、戦犯容疑者調査を担当し、近衛文麿と木戸幸一をA級戦犯に指名し、起訴するための「戦争責任に関する覚書」を提出した。 和田昭允: 和田小六・春子の長男、木戸孝允の義理の曾孫、山尾庸三の曾孫、吉川重吉の孫、木戸幸一の甥、都留重人の義弟。 中村伸郎: 激動の昭和史 軍閥(1970年) - 木戸幸一 近衛文麿: 1927年(昭和2年)には旧態依然とした所属会派の研究会から離脱して木戸幸一、徳川家達らとともに火曜会を結成して貴族院内に政治的な地盤を作り、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物となっていった。 鈴木貫太郎: こうした状況で、木戸幸一と米内光政の働きかけにより、6月22日の御前会議でソ連に米英との講和の仲介を働きかけることが決定された。 末次信正: しかし近衛や木戸幸一には末次を制御することはできなかった。 山尾庸三: 木戸幸一(太平洋戦争時の昭和天皇側近)の外祖父(長女の寿栄が木戸の母)に当たる。 近衛文麿: 1940年(昭和15年)3月25日には聖戦貫徹議員連盟が結成され、5月26日には近衞が木戸幸一や有馬頼寧と共に、「新党樹立に関する覚書」を作成した。 阿南惟幾: 沖縄戦においては、5月3日から開始された第32軍による総攻撃が失敗して戦況は悪化の一途をたどり、沖縄での一撃に期待をしていた昭和天皇の意思は次第に早期の和平に傾いており、内大臣木戸幸一に、「鈴木は講和の条件などについては弱い。 阿南惟幾: 米内内閣は首相米内光政の方針により日独伊三国同盟の締結には反対であったが、陸軍内で日に日に高まる同盟推進論に「人の和」を重視する阿南と沢田も抗しきれず、7月8日に内大臣木戸幸一に、陸軍は日独伊三国同盟を推進するため、近衛文麿を首班とする内閣を要望していることを伝えて、沢田、武藤と図って陸軍大臣の畑俊六大将に辞職を進言した。 宇垣一成: 特に、吉田茂は、昭和14年から18年にかけて度々、宇垣首班擁立工作を行なったが、陸軍や内大臣の湯浅倉平、木戸幸一らの反対で全て失敗に終わった(吉田はこうした活動が元で昭和20年4月に憲兵隊に逮捕された)。 広田弘毅: 一方で『木戸幸一日記』では会議で「危機に直面して直に戦争に突入するは如何なるものにや」「仮令(たとい)打ち合いたる後と雖も、常に細心の注意を以て機会を捉えて外交々渉にて解決の途をとるべきなりと思う」と発言したとされる。 近衛文麿: 京都では木戸幸一、原田熊雄、織田信恒、赤松小寅などと友人になった。 東郷茂徳: 天皇は宣言の具体的な点についてはソ連を通じた折衝で明らかにしたいという東郷の意見に賛同し、木戸幸一との会談の後、モスクワでの交渉の結果を待つという東郷の意見を認めた。 歌澤寅右衛門: プライド・運命の瞬間 - 木戸幸一 役 戸沢佑介: 太陽(2005年) - 木戸幸一 役 斎藤実: 葬儀・告別式は同年3月22日築地本願寺にて営まれ、陪柩者として列した木戸幸一は「国民葬の如き観」との感想を記す。 杉山元: 1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲を機とした東條英機首相兼陸相の参謀総長兼任の際には、山田乙三教育総監とともに統帥権独立を盾として抵抗するが、昭和天皇と木戸幸一内大臣に対する宮中工作をすませた東條に屈して辞任。 ジョセフ=キーナン: 1947年12月31日に、「天皇の平和に対する希望に反した行動を、木戸幸一内大臣がとったことがありますか?」というローガン弁護人の質問に対し、東條英機が「勿論ありません。 佐藤慶: ヒロシマ 原爆投下までの4か月 - 木戸幸一 鈴木貫太郎: これは、東條ら戦争継続派に対する鈴木のカムフラージュと言われており、内大臣(木戸幸一)に会いに行くと、「皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。 真崎甚三郎: 以降、3回に亘って尋問が行われたが、供述内容は、敵対していた東條英機らの統制派軍人や木戸幸一に対する戦争責任と、アメリカとの戦争を回避しようとしていたことを主張した。 真崎甚三郎: 本庄繁侍従武官長から天皇に上奏書類を非公式に見せ、天皇も「真崎の言うことも一理ある」と発言したが、湯浅の中傷、木戸幸一が真崎の直訴を阻止したために、天皇の考えを変えさせるに至らなかったと主張している。 阿部信行: 妻・由喜子は木戸幸一の長女。 近衛文麿: なお近衞と東條は、東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は皇族に累が及ぶことを懸念する内大臣・木戸幸一らの運動で実現せず、東條が次期首相となった。 |
木戸幸一の情報まとめ
木戸 幸一(きど こういち)さんの誕生日は1889年7月18日です。東京出身の政治家のようです。
栄典・叙勲、著書などについてまとめました。卒業、事件、病気に関する情報もありますね。
木戸幸一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)木戸 幸一(きど こういち、1889年(明治22年)7月18日 - 1977年(昭和52年)4月6日)は、日本の官僚、政治家。侯爵。 昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。 1889年(明治22年)7月18日に東京府赤坂区新坂町六二において侯爵木戸孝正の長男として生まれた。父の木戸孝正は、明治の元勲である木戸孝允の妹治子と長州藩士来原良蔵の長男である。 学習院高等科では原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下に当たる。「学習院高等科から出た者は、東京の大学が満員だから全部京都大学へ行けというような話」があり、木戸、原田、織田は京都帝国大学法科大学政治学科に入学し、河上肇に私淑した。同校卒業後は農商務省へ入省した。農商務省が農林省と商工省に分割の際は、商工省に属することとなる。 1915年(大正4年)に農商務省に入り、農務局で蚕糸業改良の調査から水産局事務官、工務局工務課長、同会計課長、産業合理局部長などを歴任する。父の死去に伴い、1917年(大正6年)8月30日、侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員に就職した(1945年12月27日辞任)。 商工省では臨時産業合理局第一部長兼第二部長を務め、吉野信次と岸信介が起案した重要産業統制法を岸とともに実施した。1930年(昭和5年)、友人であった近衛文麿の抜擢により、商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。 1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて日本の陸軍皇道派が起こした二・二六事件では杉山元や東條英機をはじめとする陸軍統制派と連携して事件の処理を行い、その功績を昭和天皇に認められ、中央政治に関与するようになる。 1937年(昭和12年)の第1次近衛内閣で文部大臣・初代厚生大臣(1938年1月11日就任)、1939年(昭和14年)の平沼内閣で内務大臣を歴任する。文部大臣兼厚生大臣として1940年(昭和15年)に開催予定であった東京オリンピックの開催権返上を決定したのが木戸である。 1940年には近衛と有馬頼寧と共に「新党樹立に関する覚書」を作成し、近衛新体制づくりに関わった。 1940年6月1日に近衛、湯浅、米内、その他上層部一致の推挙で内大臣に就任した。この時50歳。内大臣としては異例の若さだったという。 木戸の内大臣就任は特に陸軍、右翼から歓迎されたという。 内大臣になった木戸は天皇が三国同盟に反対し、かつ米内光政を深く信任していたことを知りながらも三国同盟に突き進む陸軍の推す近衛文麿を首相に奏薦した。この時、天皇は従来の手続きに準じて、元老西園寺公望の意見もあえて聞きたい意向を示したが木戸が西園寺の病気等を理由に斥けた。しかし、西園寺が奉答しなかったのは内大臣秘書官長が西園寺のもとを訪れて近衛の後継首相への同意を求められたので、同意しないという抵抗の意味で奉答しなかったようである。昭和天皇も木戸も近衛に陸軍を抑えることを期待していたようだが、西園寺の見立て通り近衛は陸軍に引っ張られて三国同盟を締結し日本は米英との戦争に大きな一歩を踏み出してしまった。 昭和15年(1940年)に締結された日独伊三国同盟は昭和天皇は反対であったにもかかわらず、天皇側近の内大臣として木戸は同盟を推進した。三国同盟締結後に木戸に会った元老西園寺公望公爵秘書原田熊雄は木戸に「これくらい重大な国家の運命にかかわる問題を、一言も元老に話さなかったのは甚だ遺憾に思う」と述べており、木戸幸一は天皇が三国同盟に反対しており、かつ元老の西園寺公望も三国同盟に反対していることを知りながらあえて西園寺に相談しないようにした。木戸は天皇や西園寺の意向をあえて無視して強い意向で三国同盟を進めたと考えらる。 このようなことは東京裁判のコミンズ・カー検事の最終諭告においても、天皇が三国同盟に反対していたにもかかわらず木戸の誘導により三国同盟が締結された可能性を指摘している。 1940年から1945年(昭和20年)に内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や元・内大臣牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グループとして、学習院時代からの学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界をリードした。親英米派でも自由主義者でもなかったが、親独派として知られた。几帳面な官僚主義的性格の持ち主で、天皇の信頼は厚かった。西園寺が首班指名を辞退したのちは、木戸が重臣会議を主催して首班を決定する政治慣習が定着、終戦直後にいたるまで後継総理の推薦には木戸の意向・判断が重要となる。とりわけ1940年11月に西園寺が死去したのちは、木戸は首班指名の最重要人物となった。 1941年(昭和16年)9月6日の御前会議において日本は日米開戦の準備の方針を決定したのだが、天皇はこの重要な方針を決定する会議の席上で参加者に直接質問をしたいという意向を示したのだが、木戸によって阻止された。天皇は直接の質問を控えて明治天皇の御製を詠んで平和への意向を示すにとどまった。 開戦の是非を巡る近衛と陸海軍との軋轢と、日米交渉の行き詰まりによって第3次近衛内閣は1941年(昭和16年)10月に総辞職した。後継候補としては、陸軍将官でもあった東久邇宮稔彦王による皇族内閣が東條も含めた広い支持を集めていた。近衛も東久邇宮内閣案を昭和天皇に奏上し木戸にも話した(「東久邇宮日記」)。 海軍も東久邇宮によって開戦回避のための組閣がなされるものと予測して準備していた。 ところが天皇は「若し皇族総理の際、万一戦争が起こると皇室が開戦の責任を採る事となるので良くないと思つた」ために否定的であった。そこで内大臣室にて辞表提出後の近衛と後継について密談した木戸は、及川古志郎海相と東條英機陸相の名を挙げるも、及川では陸軍が陸相を出さないだろうと反論される。こうして後継候補決定に最も影響力を有する2人の間では東條指名で固まった。 同月17日に宮中で開かれた重臣会議において、林銑十郎から東久邇宮の出馬を求める声が挙がった。これに対し、「万一皇族内閣の決定が、開戦ということになった場合を考えると、皇室をして国民の怨府たらしむる恐れなきにあらず」と述べ反対した木戸が東條を推す。すると若槻禮次郎には、東條では外国に対する印象が悪くなる、木戸の考えは「やけのやん八」ではないか、と反論された。かといって及川では陸軍の同意が得られぬと、海軍出身の岡田啓介と米内光政が述べると、代わりの宇垣一成であっても同様と阿部信行が発言した。他にこれといった人物も挙がらぬ中、最終的に阿部、広田弘毅、原嘉道からの賛同を得た木戸が東条英機が陸軍大臣のまま首相を兼任することを提案し、木戸の意見が「重臣会議」で承認された。その日の午後に天皇へ東條を後継内閣首班とすることを奉答した。 東条組閣を聞いた海軍省軍務局長の岡敬純は大きな衝撃とともに「とんでもないこと」と発言し、「これで戦争と直感した」と語っている。 木戸が東條を推挙した理由としては様々な説が唱えられてきた。木戸は戦後になって、当時既に対米戦争の開戦と敗北は必至であるとみており、皇族が開戦時の首相では問題になると考えたと述べている。「対米開戦を主張する陸軍を抑えるには現役陸軍大臣で実力者である東條を使うしかなく、また東條の昭和天皇に対する忠誠心は非常に強いので、首相になれば天皇の意向に沿って開戦反対に全力を尽くしてくれるだろう」との考慮があったとされることも多い。昭和天皇も東條の首班指名を聞いて「虎穴にいらずんば虎子を得ずだね」とコメントしていることもこの説の傍証となっている。 一方、木戸が東条を推薦した理由は「陸軍のじゃじゃ馬が言うことを聞かぬので、一度このへんで、東条あたりに国政をまかせてみよう。これで難しさを味わわせ、陸軍が失敗して懲りたななら、少しはおとなしくなるだろう」というような無責任とも言える理由があったとも言われている。実際に陸軍省にいた東条は宮内省から呼ばれた時に簡単な拝謁か、陸軍の強硬策について「お叱り」を受けるものだと考えていたという。 木戸も日米戦争の焦点となった支那駐兵問題について、撤兵には絶対反対の姿勢をとっており、同じく陸軍統制派の杉山元参謀総長や東條英機陸軍大臣とは連帯関係にあった。 第二次世界大戦初期こそ東條内閣を支えたが、戦局が不利になると和平派重臣と提携して東條を見限り、和平工作に傾倒した。1945年1月には天皇の求めに応じ各重臣の謁見を手配し、戦争の見通しや人事政策などに関する意見を述べさせたが、この謁見が全て終了したのは2月に連合国側がヤルタ協定を締結したあとであり、結果的に終戦工作は失敗した。 東條内閣、小磯内閣の総辞職を経た戦争末期には、重光葵と2人で終戦工作に取り組み、6月には和平方針案の「木戸試案」を作成、鈴木貫太郎内閣の面々や陸海軍に和平方針を説いて回るなど、和平派の中心人物の一人として動いた。徹底抗戦を主張する陸軍に「木戸試案」を納得させたことで和平への動きは大きく高まることになった。その反面、暗殺計画が持ち上がるほど本土決戦派から疎まれた木戸は、8月15日未明には、横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉を隊長として横浜高等工業学校の学生らによって構成された「国民神風隊」によって、平沼や鈴木と同様に自宅を焼き討ちされた(宮城事件)。 1945年(昭和20年)8月、東久邇宮内閣が発足したものの連合国司令部との軋轢の中、短期間のうちに立ち行かなくなった。東久邇は木戸らとともに吉田茂を後任の首相に推したが吉田に固辞され、幣原内閣が発足した。 1945年12月6日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し木戸を逮捕するよう命令を発出(第四次逮捕者9名中の1人)。A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に勾留、起訴された。 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、昭和天皇の戦争責任などに関して、自らの日記(『木戸日記』)などを証拠として提示した。東京裁判期の日記と併せ公刊されている(東京大学出版会)。日本語で372枚にも及ぶ宣誓供述書で「隠すところなく、恐るるところなく」、いかに自分が「軍国主義者と戦い、政治的には非力であったか」を述べ、当時の政府や軍部の内情を暴露して天皇免訴に動いた。 しかし、結果的には連合国との開戦に対して明確に反対しなかったことから、イギリス代表検事であるアーサー・S・コミンズ・カーからは、「“天皇の秘書”であるなら、親英米派であった天皇の意向に沿って行動するのが道徳であろう」として、「不忠の人間」であると強く批判された。結局、木戸の日記や証言は天皇免訴の決定的証拠にはならず、東條の証言によって天皇の免訴は最終的に決定することになった。 この『木戸日記』は、軍人の被告らに対しては不利に働くことが多かったため、軍人被告の激しい怒りを買うことになった。武藤章や佐藤賢了は、巣鴨拘置所と法廷を往復するバスの中で、木戸を指差しながら同乗の笹川良一に向かって「笹川君! こんな嘘吐き野郎はいないよ。我々軍人が悪く言われる事は、別に腹は立たんが、『戦時中、国民の戦意を破砕する事に努力してきました』とは、なんという事をいう奴だ。この大馬鹿野郎が」と吐き捨て、それを聞いていた橋本欣五郎も「本来ならこんな奴は締め上げてくれるんだが、今はそれもできんでね」と罵り、木戸もこの時ばかりは、顔を真っ赤にして俯きながら手持ちの新聞紙で顔を覆い隠したという。 その木戸も終身禁錮刑の判決を受け、服役する。木戸に対する判事団のジャッジは、荒木貞夫・大島浩・嶋田繁太郎と並んで11人中5人が死刑賛成、といったわずか1票差で死刑を免れたという結果だった。 1955年(昭和30年)に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退する。後に青山のマンションに転居する。1969年(昭和44年)、傘寿の際には、昭和天皇から賜杖を下賜されている。また『木戸日記』については1967年(昭和42年)に大久保利謙早稲田大学講師を相手に政治談話として内大臣時代(1940年-1945年)の話を録音しており、1974年(昭和49年)製作の海外ドキュメンタリー『秘録 第二次世界大戦』でもインタビューに出演している。 1977年(昭和52年)4月6日、宮内庁病院で胆汁性肝硬変のため87歳で没した。同月7日、天皇・皇后は田中侍従を使いとして供物料を供した。 遺骨は東京都府中市多磨町の多磨霊園に埋葬された。 栄典・叙勲1915年(大正04年)08月10日 - 正五位 1931年(昭和06年)05月01日 - 帝都復興記念章 1937年(昭和12年)11月01日 - 正三位 1940年(昭和15年)
8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1941年(昭和16年)08月15日 - 従二位 1942年(昭和17年)09月08日 - 勲一等瑞宝章 著書農商務省・商工省時代『支那ノ棉花ニ関スル調查. 其ノ3』臨時産業調查局、1919年。OCLC 33786474。 『展觀目録』妻木忠太 [解説]、[木戸幸一]、1926年。 NCID BA62260128。 極東国際軍事裁判『木戸日記 : 木戸被告人宣誓供述書 全文』極東国際軍事裁判研究会 [編集校訂]、平和書房,日本出版配給株式會社 [配給元]〈極東国際軍事裁判研究〉、1947年。OCLC 26940318。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8795027。 『東京裁判における木戸証言 : 軍政最後の権謀をあばく旋風時代の宮廷秘史』2号、キング出版社〈ニュース解説〉、1947年。OCLC 673849467。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2982778。 日記、文書類、書翰『木戸幸一関係文書』木戸日記研究会 [校訂]、東京大学出版会、1966年。OCLC 663513766。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2982796。 — 手記、文書類、書翰、筆者索引 『木戸幸一日記』木戸日記研究会 [校訂]; 岡義武 [解題]、東京大学出版会、1966年。 NCID BN01329313。
下巻(1938–1945年、索引) (英語) The diary of Marquis Kido, 1931-45 : selected translations into English. University Publications of America. (1984). NCID BA12116425 — 抄訳 『木戸幸一日記 : 東京裁判期』木戸日記研究会 [編集校訂]、東京大学出版会、1980年。 NCID BB02603358。 その他長與善郎『少年滿洲讀本』木戸幸一 [序]、日本文化協會、1937年。OCLC 32597704。 2024/06/15 01:27更新
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kido kouichi
木戸幸一と同じ誕生日7月18日生まれ、同じ東京出身の人
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