高松宮宣仁の情報(たかまつのみやのぶひと) 皇族 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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高松宮 宣仁さんについて調べます
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高松宮宣仁と関係のある人
昭和天皇: 8月、戦艦「長門」で、高松宮宣仁親王と朝融王を伴い、当時は南半分が日本領だった樺太を視察した(樺太行啓)。 乃木希典: 乃木は大正元年(1912年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)および光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。 田中健五: 海軍兵学校教授であり、高松宮宣仁親王に英語を指導したことでも知られる田中酉熊の五男として生まれる。 大西瀧治郎: その計画では、大西は高松宮宣仁親王(海軍大佐)に会い米内光政海軍大臣の説得を依頼、土肥一夫中佐は永野修身元帥を、富岡定俊第一部長は及川古志郎大将を、大前敏一第一課長は野村直邦大将と近藤信竹大将を説得するよう割当を決めた。 三笠宮崇仁親王: ちなみに、同センターの隣には、兄・高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁を務めた国際基督教大学(ICU)があり、大甥にあたる秋篠宮文仁親王・同妃紀子の長女の眞子内親王と次女の佳子内親王の姉妹が卒業している。 東久邇宮稔彦王: 1942年(昭和17年)元日、参内して祝賀の挨拶をした際、昭和天皇から開戦直前の1941年(昭和16年)11月30日に高松宮宣仁親王との間で起きた出来事を打ち明けられ、海軍の実情を初めて知ることになる。 伊藤庸二: 高松宮宣仁親王に相談をし、元軍令部の富岡定俊と共に史実調査の仕事をすることとなった。 昭和天皇: 弟に、秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)、高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)、三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)の3人がいる。 淵田美津雄: 同期に源田実、高松宮宣仁親王らがいる。 皇太后良子: 1932年(昭和7年)に学齢を迎えた第1皇女子・照宮は、甘やかされて育ったと義弟の高松宮宣仁親王らから批判され、天皇・皇后との妥協案として新築された呉竹寮に移り親元を離れて教育されることとなった。 井植歳男: 高松宮宣仁親王臨席の下で行われた第1船の進水式の際、トラブルで船台から船が滑り降りなくなった原因を調べるため、寒風が吹く中、歳男が冷たい海へ裸で飛び込み、海中に敷いてあるレールの継ぎ目のずれを直したというエピソードもある。 三笠宮寛仁親王: 伯父の高松宮宣仁親王の影響を受けて、早くから障害者福祉やスポーツ振興などの公務に積極的に取り組んできた。 小川佐助: 小川は農林省、宮内省および面会を求めた昭和天皇代理の高松宮宣仁親王にアイヌの優先権を訴え、最終的に姉去はアイヌ協会派の小作農、元御料牧場従業員で組織された帰農同盟、帰農同盟の協力を仰いだアイヌ小作農の間で三分割された。 高松宮妃喜久子: 高松宮宣仁親王の妃。 芝山みよか: 1967年(昭和42年)には、高松宮宣仁親王にカナダ訪問に際して、その妃である宣仁親王妃喜久子の美容および着付け担当者として、宮内庁より随行員を拝命した。 山本五十六: 1937年(昭和12年)12月、高松宮宣仁親王(海軍少佐)が軍令部に着任する際、海軍省の正面玄関で職員全員が皇族を出迎える計画だったところ、山本は予定を取り消させ、高松宮は一少佐として到着した。 藤原義江: 歌劇団の20名が参加したこの公演は、三宅春恵(ソプラノ)の蝶々さんを始めとする歌唱陣は一定の評価を得たが、藤原の交渉能力の低さから歌劇団には莫大な資金負担となった(藤原は高松宮宣仁親王の口利きで日本興業銀行から100万円を融通してもらい、後には棒引きしてもらったという)。 米内光政: 米内の酒の量は『海量』か」と尋ねたところ、高松宮宣仁親王が「いえ、米内は『洋量(ヤンリャン)』です」と返したエピソードがある。 東久邇宮稔彦王: 既に戦争犯罪人裁判における昭和天皇罪状免責を決定していたGHQでは、「退位論」(当時の皇位継承者であった皇太子明仁親王への譲位、また未成年であった皇太子が成人するまでの間は、三人いた皇弟の一人・高松宮宣仁親王が摂政を務めるという案)の進展が天皇の責任問題につながりかねないとして警戒し、日本政府および皇室関係者をはじめ宮中と連絡してこれに対応した。 横山富雄: 宝塚記念を制した後は高松宮宣仁親王台覧下で行われた第1回高松宮杯に参戦し、断然の1番人気に推されるもシュンサクオーと僅かクビ差の2着に敗れる。 吉田初三郎: 高松宮宣仁親王など皇族や松井石根など軍人との交友も広く、驚異的なペースで依頼を受け、鳥瞰図を制作し続けた。 淵田美津雄: その後二人は淵田と海兵同期の高松宮宣仁親王に誘われて27日、霞ヶ関離宮の皇族の集まりに顔を出した。 田中舘愛橘: 1930年代には高松宮宣仁親王、昭和天皇、伏見宮博恭王などの皇族が相継いで航空研に訪れたことに見られるように、国家からも相当の期待を受けた。 東條英機: このことについて、高松宮宣仁親王は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。 塩田広重: 胃腸手術の権威として知られ、高松宮宣仁親王をはじめとした皇族5人と政治家3人に手術を施している。 愛新覚羅溥儀: この際は日本海軍の戦艦「日向」を皇帝御召艦とし、6月26日に大連港から横浜港に到着した際に高松宮宣仁親王の出迎えを受けた後、再び東京駅に出迎えた昭和天皇と5年振りに固い握手を交えた。 高円宮憲仁親王: 日本サッカー協会総裁としてではあるが、皇族の大韓民国訪問は、高円宮夫妻が第二次世界大戦後初である(※それ以前には、韓国最後の皇太子李垠やその妻・李方子の葬儀などに参列するため秩父宮妃勢津子、高松宮宣仁親王、同妃喜久子、三笠宮崇仁親王、同妃百合子、寬仁親王が韓国を訪問したことがあるが、公式訪問ではない)。 石原莞爾: 戦中、ガダルカナル島の戦いにおいて海軍大佐であった高松宮宣仁親王の求めに応じ、石原は、ガダルカナル島からの撤退、ソロモン、ビスマーク、ニューギニヤの放棄、サイパン、テニアン、グアムの要塞化と攻勢終末点(西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラなどの戦略資源地帯を中心とする)及び東南アジアとの海上輸送路の確立をすることにより、不敗の態勢が可能である旨も語っている。 三笠宮崇仁親王: 3人の兄(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)は明治生まれ即ち父である大正天皇がまだ皇太子であった時にその男子として生まれ、早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育された。 チェスター=ニミッツ: 一方、日本軍の軍令部はそれなりに関心を示したようで、大戦中は第一課に所属していた高松宮宣仁親王は1941年12月20日の日記に「米国は太平洋艦隊司令長官に潜水艦屋をもってきた、潜水艦戦に当分は出るのであろう」と記した。 |
高松宮宣仁の情報まとめ
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高松宮 宣仁(たかまつのみや のぶひと)さんの誕生日は1905年1月3日です。東京出身の皇族のようです。
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栄典、系譜などについてまとめました。卒業、結婚、現在、事件、病気に関する情報もありますね。
高松宮宣仁のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年〈明治38年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉2月3日)は、日本の皇族、海軍軍人。有栖川宮の祭祀を継承。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。 大正天皇と貞明皇后の第三皇子。皇長兄に昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、皇弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。 1905年(明治38年)1月3日、当時の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第3皇男子として青山東宮御所で誕生。幼称(御称号)を光宮(てるのみや)といった。 高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承したのには故がある。1913年(大正2年)7月10日、有栖川宮第10代・威仁親王が後嗣・栽仁王に先立たれたまま薨去した。皇室典範によって皇族の養子縁組が禁じられていたため、有栖川宮は断絶が確定した。 威仁親王が危篤となって以降7月6日、当時8歳だった宣仁親王に高松宮(有栖川宮家の旧称)の称号が授与され、有栖川宮の祭祀を将来的に宣仁親王に受け継がせることとなった。7月17日の国葬では、宣仁親王が勅命によって喪主を務めることとなった。 1923年(大正12年)、有栖川宮最後の皇族となった威仁親王妃慰子の薨後1年祭をもって同宮が絶家すると、その祭祀、および邸宅などの財産は正式に高松宮に引き継がれた。 1920年(大正9年)4月、学習院中等科三年退学、海軍兵学校予科入学。無試験で入学できる皇族子弟は他の生徒より知的・体力的に劣らざるを得なかった。宣仁親王の予科入学に際してはレントゲン検査も含め健康管理に万全の準備が整えられていたが、凍傷になったため他の生徒とは異なる厚手の作業着が用意された。1921年(大正10年)8月24日、海軍兵学校本科に編入(52期)。1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業、少尉候補生となったが9月に赤痢のために、候補生遠洋航海は断念。 1925年(大正14年)1月3日、成年を迎え、同日付で貴族院皇族議員に就任。1月13日に成年式が執り行われ、8月には、長兄摂政宮皇太子裕仁親王の樺太行啓に同行した。同年12月1日、海軍少尉に任官。1927年(昭和2年)12月1日付で海軍中尉に昇任。 1930年(昭和5年)2月4日、自身が祭祀を継承している有栖川宮威仁親王や徳川慶喜の孫にあたる徳川喜久子と結婚。「公武合体」と話題を呼んだ。 同年、兄・昭和天皇の名代として妻・喜久子と14か月にわたって欧米を周遊訪問し、5月27日には米カリフォルニア州・サンフランシスコに立ち寄って日系移民たちの前でスピーチを行った。なおこの時のスピーチは地元住民によってレコードに録音され、現存している。
![]() 長兄裕仁親王、次兄雍仁親王と(1906年頃)
![]() 次兄雍仁親王と(1922年頃)
![]() 海軍少尉任官(1925年以降)
![]() 徳川喜久子との婚儀(1930年2月)
![]() 訪欧中、ベルリンにて(1930年8月)
1932年(昭和7年)11月29日、海軍砲術学校高等科を卒業し、巡洋艦「高雄」、戦艦「扶桑」の分隊長に補される。1933年(昭和8年)11月から約1年間、広島県呉市新宮町で暮らす(邸の名前は俊山荘)。 当時は、昭和天皇にまだ皇子が無く、男児の誕生が強く望まれていた。また、義母徳川實枝子(有栖川宮威仁親王第2女子:實枝子女王、喜久子妃の実母)が癌に倒れ、1933年(昭和8)4月25日に逝去していた。宣仁親王は、その日の日記に「子を成すことが、義母:實枝子や父:大正天皇に対する”つとめ”」であるという主旨の内容を記している。同年12月23日に、昭和天皇の第5子、第1皇男子として継宮明仁親王(のち第125代天皇、上皇)が誕生した際には、「重荷のおりた様なうれしさ」と日記に記した。 宣仁親王の喜びは大きく をはじめ、複数の和歌を詠んだ。 結果的に、長兄・昭和天皇(7人:2男5女)、弟・三笠宮崇仁親王(5人:3男2女)と違い、宣仁親王は次兄・秩父宮雍仁親王同様に子女は無く、夫妻の血筋は遺されていない。 1934年(昭和9年)11月10日、海軍大学校に入校(甲種学生34期)、1935年(昭和10年)11月15日付で、海軍少佐に昇任。1936年(昭和11年)11月26日、海軍大学校卒業、同年12月1日に軍令部出仕兼部員に補され、第二部(軍備)、第三部(情報)、第四部(通信)などを歴任。 1940年(昭和15年)4月29日、支那事変従軍記章と功四級金鵄勲章を受ける。同年7月3日、戦艦「比叡」砲術長、11月15日に海軍中佐に進級。「比叡」砲術長時代、部下に海軍将校の心得を訓示した際、「青年士官は現在任務が重要であり、艦の中堅となること現在の最大の任務なり。これをわきまえていれば五・一五事件は起こらぬ筈なり」と述べた。 1940年(昭和15年)11月10日に、内閣主催で、昭和天皇・香淳皇后臨御の下に宮城外苑にて挙行された「紀元二千六百年式典」の翌11月11日に同会場で行われた奉祝会で、その総裁であった兄・秩父宮雍仁親王が病気により欠席したため、その代理を務め、同奉祝会で長兄・昭和天皇への奉祝詞奏上、自身による聖寿万歳三唱などを行った。 1941年(昭和16年)4月5日、「なるべく近くに」と長兄・昭和天皇の内意により、横須賀海軍航空隊教官に補される。同年11月15日付で、海軍中佐に昇任。 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の11月20日、軍令部部員と大本営海軍参謀を務めた。この頃、保科善四郎(海軍省兵備局長)に日本軍の実情を聞き、燃料不足を理由に長兄・昭和天皇に対し開戦慎重論を言上する。天皇は当初宣仁親王を主戦論者と見ていた為衝撃を受け、総理兼陸軍大臣・東條英機、軍令部総長・永野修身、海軍大臣・嶋田繁太郎を急遽呼んで事情を聞いたという。戦後、GHQ戦史室調査員・千早正隆が親王に当時の心境を尋ねると、戦争回避は難しいと知りながらも「真相を申し上げるのは直宮(じきみや)としての責務である。」と語っている。 11月30日、宣仁親王は兄天皇のもとを再訪し、開戦について意見を交わした。その際、統帥部の予測として「五分五分の引き分け、良くて六分四分の辛勝」と伝えた上で、敗戦を懸念する昭和天皇に対し、翌日に海軍が戦闘展開する前に戦争を抑え、開戦を中止するよう訴えた。だが天皇は、政府・統帥部の意見を無視した場合、クーデターが発生して、より制御困難な戦争へ突入すると考えており、宣仁親王の意見を聞き入れることはできなかった。 1942年(昭和17年)11月1日、海軍大佐に昇級。満州国にも派遣された。 開戦後も宣仁親王は和平を唱え、嶋田海相の辞任や東條内閣の総辞職を度々主張し、後の終戦後史上唯一の皇族の総理となる東久邇宮稔彦王、弟・三笠宮崇仁親王等の和平派皇族や、米内光政元首相等をはじめとする海軍左派、近衛文麿前首相及び、首相を戦後に務める吉田茂等の政界の和平派と結んだ。更に側近の細川護貞によれば、信任する高木惣吉海軍少将や神重徳海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める東條の暗殺さえ一時は真剣に考えていたという。 宣仁親王は1944年(昭和19年)夏ごろには、政府の方針に異を唱える言動を繰り返しており、「絶対国防圏が破られた以上、大東亜共栄圏建設の理想を捨て、如何にしてより良く負けるかを模索すべきだ」「一億玉砕など事実上不可能。新聞などは玉砕精神ばかり論じていて間違っている」と主張していた。このような言説を内大臣の木戸幸一は嫌っており、側近の木戸を通じ、昭和天皇の宣仁親王に対する印象も悪化していった。昭和天皇自身はあくまで政府・軍高官との直接のやり取りを重視するのが筋と考えており、宣仁親王を遠ざけていた。宣仁親王は昭和天皇と直接話す機会が徐々に少なくなっている事を周囲に語っている。 1945年(昭和20年)4月9日、戦局の悪化を受けて、宣仁親王は民心一新の為、兄・昭和天皇の名代として伊勢神宮を参拝した。この参拝は元々宣仁親王自身の発案であり、宣仁親王は若い官吏が国民に対し威張り不親切な態度を取っている現状を憂い、神罰で以てこれにあたることを考えていた。しかし天皇は官吏任命も自身の責任であるとし、神罰の祈願には反対したため、あくまで平和到来とその後の国家指導に関する祈願のみを名代として託すことになった。 大戦末期にはフィリピンに向かう大西瀧治郎海軍中将に対して「戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しい」と伝えた。 1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送において兄・昭和天皇が読み上げた「終戦の詔書」について、「天皇が国民にわびることばはないね」と天皇の責任(昭和天皇の戦争責任論)について指摘している。 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、実質的にはほとんど米軍)が進駐する間際には東久邇宮稔彦王首相宮(史上唯一の皇族首相かつ任期が54日間と史上最短の首相)の命を受けて寺岡謹平海軍中将や第三航空艦隊参謀長・山澄忠三郎大佐と共に、厚木海軍飛行場において徹底抗戦を主張する第三〇二海軍航空隊に対し、武装解除の説得に赴いた。 終戦時に軍令部第一部長・富岡定俊少将の構想で、有事の際に皇統を守ることを目的とした皇統護持作戦に協力する。宣仁親王によれば「いろいろなプランがあり、必要な時にどれかを選んでやればよいと考えていた」という。また邸宅の本館を光輪閣と改称し、ウィロビー、ホイットニーなどの占領軍(GHQ)関係者を招いて昭和天皇の勅旨を伝えるなどし、終戦直後の不安定な状況下の天皇制の維持にも努めた。1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職。 終戦直前の1945年(昭和20年)7月21日から日本赤十字社の総裁を務めていたが、GHQによる公職追放の影響で、1948年(昭和23年)7月31日に退いた。 1951年(昭和26年)10月頃に高松宮は、野村吉三郎元大将を通じて旧海軍関係者に対して、『講和条約発効後、皇室保持と「再軍備精神を喚起する」ために昭和天皇は譲位し、新たな天皇が再軍備後の新「国軍」を指揮する』という命令を伝えていたとされる。 1975年(昭和50年)2月号の文藝春秋において、政治評論家の加瀬英明によるインタビュー記事『高松宮かく語りき』が掲載された。この中で高松宮は、開戦時に長兄・昭和天皇に戦争反対を進言したこと、ミッドウェーでの敗北以降は戦争終結に向け努力していたことを述べた。また、その後の手記発表など戦時中に和平派として活動したとする内容に昭和天皇が不快感を示していたともされる。 しかし、昭和天皇は高松宮に関し「政府当局の意見よりも周りの同年輩の者や出入りする者の意見に流されやすく、日独同盟締結以来戦争を謳歌していたが、東條内閣成立後は開戦に反対し、その後海軍の意見に従い、開戦後は悲観的で陸軍に対する反感を持っていた」と捉えており、高松宮に対しては複雑な心境があった。その後昭和天皇は入江相政侍従に命じて当時の記憶を書き留めさせた。 1953年(昭和28年)に兄の秩父宮雍仁親王が肺結核で危篤となった際、長兄・昭和天皇は弟宮の最期に一目会うことを願ったが叶わなかった。これを天皇は大変悔やんだとされ、1986年(昭和61年)に宣仁親王が末期の肺癌に侵されたときは、昭和天皇は3度にわたって親ら親王のもとへ渡御し、見舞っている。宣仁親王自身には、病名は「老人性結核」と伝えられていた。 天皇が弟宮を見舞った最後は、1987年(昭和62年)2月3日、宣仁親王薨去の当日で、須崎御用邸での静養を中止してのことだった。昭和天皇が病室に着御した時すでに親王の意識はなかったが、宣仁親王妃喜久子の願いもあり、天皇は手を握った。昭和天皇と今生の別れを行った約1時間後の13時10分、宣仁親王は肺癌のため東京・広尾の日本赤十字社医療センターで薨去。享年82。 雍仁親王以来、34年ぶりに皇族の弔事となったため、宮内庁は斂葬の儀の運営方法を相当模索したとされる。2月10日、豊島岡墓地に葬られた。 没後、戦時中を含み27年20冊に渡って書き連ねられた『高松宮日記』が、大井篤に「国宝級の資料」と評され、喜久子妃の尽力により、宮内庁の反対を押し切る形で刊行された。 栄典勲章等(国内)1925年(大正14年)12月1日 - 大勲位菊花大綬章 1931年(昭和6年)12月5日 - 帝都復興記念章 1940年(昭和15年)4月29日
支那事変従軍記章 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 外国勲章国名等は受章当時。日付は、日本の官報で受章した(捧呈された)日付、又は当該国官報等で授与された日付のうち、早い方。 1930年(昭和5年)7月30日 - 1930年(昭和5年)8月8日 - 1930年(昭和5年)8月26日 - 1930年(昭和5年)9月3日 - 1930年(昭和5年)11月4日 - 1930年(昭和5年)11月12日 - 1931年(昭和6年)1月5日 - 1931年(昭和6年)1月24日 - 1931年(昭和6年)1月28日 - 1931年(昭和6年)2月3日 - 1931年(昭和6年)2月7日 - 1931年(昭和6年)3月20日 - 系譜
系図
2024/06/22 00:38更新
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takamatsunomiya nobuhito
高松宮宣仁と同じ誕生日1月3日生まれ、同じ東京出身の人
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