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高松宮宣仁の情報 (たかまつのみやのぶひと)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

高松宮宣仁の情報(たかまつのみやのぶひと) 皇族 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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高松宮 宣仁さんについて調べます

■名前・氏名
高松宮 宣仁
(読み:たかまつのみや のぶひと)
■職業
皇族
■高松宮宣仁の誕生日・生年月日
1905年1月3日 (年齢1987年没)
巳年(へび年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
東京出身

高松宮宣仁と同じ1905年生まれの有名人・芸能人

高松宮宣仁と同じ1月3日生まれの有名人・芸能人

高松宮宣仁と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


高松宮宣仁と関係のある人

高円宮憲仁親王: 日本サッカー協会総裁としてではあるが、皇族の大韓民国訪問は、高円宮夫妻が第二次世界大戦後初である(※それ以前には、韓国最後の皇太子李垠やその妻・李方子の葬儀などに参列するため秩父宮妃勢津子、高松宮宣仁親王、同妃喜久子、三笠宮崇仁親王、同妃百合子、寬仁親王が韓国を訪問したことがあるが、公式訪問ではない)。


山本五十六: 1937年(昭和12年)12月、高松宮宣仁親王(海軍少佐)が軍令部に着任する際、海軍省の正面玄関で職員全員が皇族を出迎える計画だったところ、山本は予定を取り消させ、高松宮は一少佐として到着した。


高円宮妃久子: 日本サッカー協会総裁としてではあるが、皇族の公式な韓国訪問は、高円宮夫妻が第二次世界大戦後初である(※それ以前には、韓国最後の皇太子李垠やその妻・李方子の葬儀などに参列するため秩父宮妃勢津子、高松宮宣仁親王、同妃喜久子、三笠宮崇仁親王、同妃百合子、寬仁親王が韓国を訪問したことがあるが、公式訪問ではない)。


チェスター=ニミッツ: 一方、日本軍の軍令部はそれなりに関心を示したようで、大戦中は第一課に所属していた高松宮宣仁親王は1941年12月20日の日記に「米国は太平洋艦隊司令長官に潜水艦屋をもってきた、潜水艦戦に当分は出るのであろう」と記した。


伊藤庸二: 高松宮宣仁親王に相談をし、元軍令部の富岡定俊と共に史実調査の仕事をすることとなった。


三笠宮崇仁親王: 3人の兄たち(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)とは年齢も離れた四男であり(大正天皇の4人の皇男子のうち唯一の大正時代生まれ)、皇位継承の可能性が低かったことから、かなり自由な立場で行動した。


秩父宮雍仁: 26日朝に高松宮宣仁親王から連絡を受けた秩父宮は倉茂周蔵連隊長の許可を受けた上で、翌日の27日に奥羽本線、羽越本線、信越本線、上越線経由で上京した。


東久邇宮稔彦王: 既に戦争犯罪人裁判における昭和天皇罪状免責を決定していたGHQでは、「退位論」(当時の皇位継承者であった皇太子明仁親王への譲位、また未成年であった皇太子が成人するまでの間は、三人いた皇弟の一人・高松宮宣仁親王が摂政を務めるという案)の進展が天皇の責任問題につながりかねないとして警戒し、日本政府および皇室関係者をはじめ宮中と連絡してこれに対応した。


小川佐助: 小川は農林省、宮内省および面会を求めた昭和天皇代理の高松宮宣仁親王にアイヌの優先権を訴え、最終的に姉去はアイヌ協会派の小作農、元御料牧場従業員で組織された帰農同盟、帰農同盟の協力を仰いだアイヌ小作農の間で三分割された。


秩父宮雍仁: 昭和天皇は兄、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。


高松宮妃喜久子: 高松宮宣仁親王の妃。


辻政信: 一連の参謀本部の人事異動について高松宮宣仁親王は「責任をとるようでとらない陸軍式ではないか」と見ていた。


横山富雄: 宝塚記念を制した後は高松宮宣仁親王台覧下で行われた第1回高松宮杯に参戦し、断然の1番人気に推されるもシュンサクオーと僅かクビ差の2着に敗れる。


東條英機: このことについて、高松宮宣仁親王は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。


東久邇宮稔彦王: 1942年(昭和17年)元日、参内して祝賀の挨拶をした際、昭和天皇から開戦直前の1941年(昭和16年)11月30日に高松宮宣仁親王との間で起きた出来事を打ち明けられ、海軍の実情を初めて知ることになる。


皇太后良子: 1932年(昭和7年)に学齢を迎えた第1皇女子・照宮は、甘やかされて育ったと義弟の高松宮宣仁親王らから批判され、天皇・皇后との妥協案として新築された呉竹寮に移り親元を離れて教育されることとなった。


昭和天皇: 弟に、秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)、高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)、三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)の3人がいる。


塩田広重: 胃腸手術の権威として知られ、高松宮宣仁親王をはじめとした皇族5人と政治家3人に手術を施している。


三笠宮崇仁親王: ちなみに、同センターの隣には、兄・高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁を務めた国際基督教大学(ICU)があり、大甥にあたる秋篠宮文仁親王・同妃紀子の長女の眞子内親王と次女の佳子内親王の姉妹が卒業している。


田中舘愛橘: 1930年代には高松宮宣仁親王、昭和天皇、伏見宮博恭王などの皇族が相継いで航空研に訪れたことに見られるように、国家からも相当の期待を受けた。


淵田美津雄: 同期に源田実、高松宮宣仁親王らがいる。


嶋田繁太郎: 11月30日、軍令部員の高松宮宣仁親王が戦争慎重論を上奏した。


藤原義江: 歌劇団の20名が参加したこの公演は、三宅春恵(ソプラノ)の蝶々さんを始めとする歌唱陣は一定の評価を得たが、藤原の交渉能力の低さから歌劇団には莫大な資金負担となった(藤原は高松宮宣仁親王の口利きで日本興業銀行から100万円を融通してもらい、後には棒引きしてもらったという)。


山本五十六: 高松宮宣仁親王や作家・司馬遼太郎は、山本は決死の覚悟で前線に赴いたのではないかという見解を示している。


愛新覚羅溥儀: この際は日本海軍の戦艦「日向」を皇帝御召艦とし、6月26日に大連港から横浜港に到着した際に高松宮宣仁親王の出迎えを受けた後、再び東京駅に出迎えた昭和天皇と5年振りに固い握手を交えた。


井植歳男: 高松宮宣仁親王臨席の下で行われた第1船の進水式の際、トラブルで船台から船が滑り降りなくなった原因を調べるため、寒風が吹く中、歳男が冷たい海へ裸で飛び込み、海中に敷いてあるレールの継ぎ目のずれを直したというエピソードもある。


東條英機: その中に、高松宮宣仁親王と細川護貞によって計画された東條の暗殺計画があった。


三笠宮崇仁親王: 3人の兄(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)は明治生まれ即ち父である大正天皇がまだ皇太子であった時にその男子として生まれ、早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育された。


乃木希典: 乃木は大正元年(1912年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)および光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。


淵田美津雄: その後二人は淵田と海兵同期の高松宮宣仁親王に誘われて27日、霞ヶ関離宮の皇族の集まりに顔を出した。


高松宮宣仁の情報まとめ

もしもしロボ

高松宮 宣仁(たかまつのみや のぶひと)さんの誕生日は1905年1月3日です。東京出身の皇族のようです。

もしもしロボ

卒業、結婚、現在、事件、病気、姉妹に関する情報もありますね。1987年に亡くなられているようです。

高松宮宣仁のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年〈明治38年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉2月3日)は、日本の皇族、海軍軍人。有栖川宮の祭祀を継承。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。

大正天皇と貞明皇后の第三皇子。皇長兄に昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、皇弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。

1905年(明治38年)1月3日、当時の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第3皇男子として青山東宮御所で誕生。幼称(御称号)を光宮(てるのみや)といった。

高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承したのには故がある。1913年(大正2年)7月10日、有栖川宮第10代・威仁親王が後嗣・栽仁王に先立たれたまま薨去した。皇室典範によって皇族の養子縁組が禁じられていたため、有栖川宮は断絶が確定した。

威仁親王が危篤となって以降7月6日、当時8歳だった宣仁親王に高松宮(有栖川宮家の旧称)の称号が授与され、有栖川宮の祭祀を将来的に宣仁親王に受け継がせることとなった。7月17日の国葬では、宣仁親王が勅命によって喪主を務めることとなった。

1923年(大正12年)、有栖川宮最後の皇族となった威仁親王妃慰子の薨後1年祭をもって同宮が絶家すると、その祭祀、および邸宅などの財産は正式に高松宮に引き継がれた。

1920年(大正9年)4月、学習院中等科三年退学、海軍兵学校予科入学。無試験で入学できる皇族子弟は他の生徒より知的・体力的に劣らざるを得なかった。宣仁親王の予科入学に際してはレントゲン検査も含め健康管理に万全の準備が整えられていたが、凍傷になったため他の生徒とは異なる厚手の作業着が用意された。1921年(大正10年)8月24日、海軍兵学校本科に編入(52期)。1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業、少尉候補生となったが9月に赤痢のために、候補生遠洋航海は断念。

1925年(大正14年)1月3日、成年を迎え、同日付で貴族院皇族議員に就任。1月13日に成年式が執り行われ、8月には、長兄摂政宮皇太子裕仁親王の樺太行啓に同行した。同年12月1日、海軍少尉に任官。1927年(昭和2年)12月1日付で海軍中尉に昇任。

1930年(昭和5年)2月4日、自身が祭祀を継承している有栖川宮威仁親王や徳川慶喜の孫にあたる徳川喜久子と結婚。「公武合体」と話題を呼んだ。

同年、兄・昭和天皇の名代として妻・喜久子と14か月にわたって欧米を周遊訪問し、5月27日には米カリフォルニア州・サンフランシスコに立ち寄って日系移民たちの前でスピーチを行った。なおこの時のスピーチは地元住民によってレコードに録音され、現存している。

長兄裕仁親王、次兄雍仁親王と(1906年頃)
長兄裕仁親王、次兄雍仁親王と(1906年頃)

次兄雍仁親王と(1922年頃)
次兄雍仁親王と(1922年頃)

海軍少尉任官(1925年以降)
海軍少尉任官(1925年以降)

徳川喜久子との婚儀(1930年2月)
徳川喜久子との婚儀(1930年2月)

訪欧中、ベルリンにて(1930年8月)
訪欧中、ベルリンにて(1930年8月)

1932年(昭和7年)11月29日、海軍砲術学校高等科を卒業し、巡洋艦「高雄」、戦艦「扶桑」の分隊長に補される。1933年(昭和8年)11月から約1年間、広島県呉市新宮町で暮らす(邸の名前は俊山荘)。

当時は、昭和天皇にまだ皇子が無く、男児の誕生が強く望まれていた。また、義母徳川實枝子(有栖川宮威仁親王第2女子:實枝子女王、喜久子妃の実母)が癌に倒れ、1933年(昭和8)4月25日に逝去していた。宣仁親王は、その日の日記に「子を成すことが、義母:實枝子や父:大正天皇に対する”つとめ”」であるという主旨の内容を記している。同年12月23日に、昭和天皇の第5子、第1皇男子として継宮明仁親王(のち第125代天皇、上皇)が誕生した際には、「重荷のおりた様なうれしさ」と日記に記した。

宣仁親王の喜びは大きく

—中央公論社『菊と葵のものがたり』 p.198

をはじめ、複数の和歌を詠んだ。

結果的に、長兄・昭和天皇(7人:2男5女)、弟・三笠宮崇仁親王(5人:3男2女)と違い、宣仁親王は次兄・秩父宮雍仁親王同様に子女は無く、夫妻の血筋は遺されていない。

1934年(昭和9年)11月10日、海軍大学校に入校(甲種学生34期)、1935年(昭和10年)11月15日付で、海軍少佐に昇任。1936年(昭和11年)11月26日、海軍大学校卒業、同年12月1日に軍令部出仕兼部員に補され、第二部(軍備)、第三部(情報)、第四部(通信)などを歴任。

1940年(昭和15年)4月29日、支那事変従軍記章と功四級金鵄勲章を受ける。同年7月3日、戦艦「比叡」砲術長、11月15日に海軍中佐に進級。「比叡」砲術長時代、部下に海軍将校の心得を訓示した際、「青年士官は現在任務が重要であり、艦の中堅となること現在の最大の任務なり。これをわきまえていれば五・一五事件は起こらぬ筈なり」と述べた。

1940年(昭和15年)11月10日に、内閣主催で、昭和天皇・香淳皇后臨御の下に宮城外苑にて挙行された「紀元二千六百年式典」の翌11月11日に同会場で行われた奉祝会で、その総裁であった兄・秩父宮雍仁親王が病気により欠席したため、その代理を務め、同奉祝会で長兄・昭和天皇への奉祝詞奏上、自身による聖寿万歳三唱などを行った。

1941年(昭和16年)4月5日、「なるべく近くに」と長兄・昭和天皇の内意により、横須賀海軍航空隊教官に補される。同年11月15日付で、海軍中佐に昇任。

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の11月20日、軍令部部員と大本営海軍参謀を務めた。この頃、保科善四郎(海軍省兵備局長)に日本軍の実情を聞き、燃料不足を理由に長兄・昭和天皇に対し開戦慎重論を言上する。天皇は当初宣仁親王を主戦論者と見ていた為衝撃を受け、総理兼陸軍大臣・東條英機、軍令部総長・永野修身、海軍大臣・嶋田繁太郎を急遽呼んで事情を聞いたという。戦後、GHQ戦史室調査員・千早正隆が親王に当時の心境を尋ねると、戦争回避は難しいと知りながらも「真相を申し上げるのは直宮(じきみや)としての責務である。」と語っている。

11月30日、宣仁親王は兄天皇のもとを再訪し、開戦について意見を交わした。その際、統帥部の予測として「五分五分の引き分け、良くて六分四分の辛勝」と伝えた上で、敗戦を懸念する昭和天皇に対し、翌日に海軍が戦闘展開する前に戦争を抑え、開戦を中止するよう訴えた。だが天皇は、政府・統帥部の意見を無視した場合、クーデターが発生して、より制御困難な戦争へ突入すると考えており、宣仁親王の意見を聞き入れることはできなかった。

1942年(昭和17年)11月1日、海軍大佐に昇級。満州国にも派遣された。

開戦後も宣仁親王は和平を唱え、嶋田海相の辞任や東條内閣の総辞職を度々主張し、後の終戦後史上唯一の皇族の総理となる東久邇宮稔彦王、弟・三笠宮崇仁親王等の和平派皇族や、米内光政元首相等をはじめとする海軍左派、近衛文麿前首相及び、首相を戦後に務める吉田茂等の政界の和平派と結んだ。更に側近の細川護貞によれば、信任する高木惣吉海軍少将や神重徳海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める東條の暗殺さえ一時は真剣に考えていたという。

宣仁親王は1944年(昭和19年)夏ごろには、政府の方針に異を唱える言動を繰り返しており、「絶対国防圏が破られた以上、大東亜共栄圏建設の理想を捨て、如何にしてより良く負けるかを模索すべきだ」「一億玉砕など事実上不可能。新聞などは玉砕精神ばかり論じていて間違っている」と主張していた。このような言説を内大臣の木戸幸一は嫌っており、側近の木戸を通じ、昭和天皇の宣仁親王に対する印象も悪化していった。昭和天皇自身はあくまで政府・軍高官との直接のやり取りを重視するのが筋と考えており、宣仁親王を遠ざけていた。宣仁親王は昭和天皇と直接話す機会が徐々に少なくなっている事を周囲に語っている。

1945年(昭和20年)4月9日、戦局の悪化を受けて、宣仁親王は民心一新の為、兄・昭和天皇の名代として伊勢神宮を参拝した。この参拝は元々宣仁親王自身の発案であり、宣仁親王は若い官吏が国民に対し威張り不親切な態度を取っている現状を憂い、神罰で以てこれにあたることを考えていた。しかし天皇は官吏任命も自身の責任であるとし、神罰の祈願には反対したため、あくまで平和到来とその後の国家指導に関する祈願のみを名代として託すことになった。

大戦末期にはフィリピンに向かう大西瀧治郎海軍中将に対して「戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しい」と伝えた。

1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送において兄・昭和天皇が読み上げた「終戦の詔書」について、「天皇が国民にわびることばはないね」と天皇の責任(昭和天皇の戦争責任論)について指摘している。

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、実質的にはほとんど米軍)が進駐する間際には東久邇宮稔彦王首相宮(史上唯一の皇族首相かつ任期が54日間と史上最短の首相)の命を受けて寺岡謹平海軍中将や第三航空艦隊参謀長・山澄忠三郎大佐と共に、厚木海軍飛行場において徹底抗戦を主張する第三〇二海軍航空隊に対し、武装解除の説得に赴いた。

終戦時に軍令部第一部長・富岡定俊少将の構想で、有事の際に皇統を守ることを目的とした皇統護持作戦に協力する。宣仁親王によれば「いろいろなプランがあり、必要な時にどれかを選んでやればよいと考えていた」という。また邸宅の本館を光輪閣と改称し、ウィロビー、ホイットニーなどの占領軍(GHQ)関係者を招いて昭和天皇の勅旨を伝えるなどし、終戦直後の不安定な状況下の天皇制の維持にも努めた。1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職。

終戦直前の1945年(昭和20年)7月21日から日本赤十字社の総裁を務めていたが、GHQによる公職追放の影響で、1948年(昭和23年)7月31日に退いた。

1951年(昭和26年)10月頃に高松宮は、野村吉三郎元大将を通じて旧海軍関係者に対して、『講和条約発効後、皇室保持と「再軍備精神を喚起する」ために昭和天皇は譲位し、新たな天皇が再軍備後の新「国軍」を指揮する』という命令を伝えていたとされる。

1975年(昭和50年)2月号の文藝春秋において、政治評論家の加瀬英明によるインタビュー記事『高松宮かく語りき』が掲載された。この中で高松宮は、開戦時に長兄・昭和天皇に戦争反対を進言したこと、ミッドウェーでの敗北以降は戦争終結に向け努力していたことを述べた。また、その後の手記発表など戦時中に和平派として活動したとする内容に昭和天皇が不快感を示していたともされる。

しかし、昭和天皇は高松宮に関し「政府当局の意見よりも周りの同年輩の者や出入りする者の意見に流されやすく、日独同盟締結以来戦争を謳歌していたが、東條内閣成立後は開戦に反対し、その後海軍の意見に従い、開戦後は悲観的で陸軍に対する反感を持っていた」と捉えており、高松宮に対しては複雑な心境があった。その後昭和天皇は入江相政侍従に命じて当時の記憶を書き留めさせた。

1953年(昭和28年)に兄の秩父宮雍仁親王が肺結核で危篤となった際、長兄・昭和天皇は弟宮の最期に一目会うことを願ったが叶わなかった。これを天皇は大変悔やんだとされ、1986年(昭和61年)に宣仁親王が末期の肺癌に侵されたときは、昭和天皇は3度にわたって親ら親王のもとへ渡御し、見舞っている。宣仁親王自身には、病名は「老人性結核」と伝えられていた。

天皇が弟宮を見舞った最後は、1987年(昭和62年)2月3日、宣仁親王薨去の当日で、須崎御用邸での静養を中止してのことだった。昭和天皇が病室に着御した時すでに親王の意識はなかったが、宣仁親王妃喜久子の願いもあり、天皇は手を握った。昭和天皇と今生の別れを行った約1時間後の13時10分、宣仁親王は肺癌のため東京・広尾の日本赤十字社医療センターで薨去。82歳没。

雍仁親王以来、34年ぶりに皇族の弔事となったため、宮内庁は斂葬の儀の運営方法を相当模索したとされる。2月10日、斂葬の儀が執り行われ、落合斎場で火葬に付された後、同日豊島岡墓地に葬られた。

没後、戦時中を含み27年20冊に渡って書き連ねられた『高松宮日記』が、大井篤に「国宝級の資料」と評され、喜久子妃の尽力により、宮内庁の反対を押し切る形で刊行された。

1925年(大正14年)12月1日 - 大勲位菊花大綬章

1931年(昭和6年)12月5日 - 帝都復興記念章

1940年(昭和15年)4月29日

    功四級金鵄勲章

    支那事変従軍記章

    1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章

    国名等は受章当時。日付は、日本の官報で受章した(捧呈された)日付、又は当該国官報等で授与された日付のうち、早い方。

    1930年(昭和5年)7月30日 - ベルギーの旗 ベルギー : レオポルド勲章(英語版)大綬章

    1930年(昭和5年)8月8日 - オランダの旗 オランダ : オランダ獅子勲章(英語版)大綬章

    1930年(昭和5年)8月26日 -  スウェーデン :セラフィム勲章(英語版)大綬章

    1930年(昭和5年)9月3日 -  ノルウェー : 聖オーラヴ勲章大綬章

    1930年(昭和5年)11月4日 - スペインの旗 スペイン王国 : カルロス3世勲章(英語版)頸飾

    1930年(昭和5年)11月12日 - ポルトガルの旗 ポルトガル : 塔と剣勲章(英語版)

    1931年(昭和6年)1月5日 - ユーゴスラビア王国の旗 ユーゴスラビア王国:カラジョルジェの星勲章(英語版)大綬章

    1931年(昭和6年)1月24日 - ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国:カロル1世勲章(英語版)大綬章

    1931年(昭和6年)1月28日 - ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国:ハンガリー王国メリット勲章(英語版)大綬章

    1931年(昭和6年)2月3日 - オーストリアの旗 オーストリア : オーストリア共和国功績勲章(ドイツ語版)金章

    1931年(昭和6年)2月7日 - チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア : 白獅子勲章(英語版)大綬章

    1931年(昭和6年)3月20日 - フランスの旗 フランス共和国:レジオンドヌール勲章グランクロワ

    年の近い、長兄・昭和天皇や次兄・秩父宮雍仁親王とは、幼少期から生涯にわたって親しかった。

    三笠宮崇仁親王の子供たちを可愛がり、「おじさま」と呼ばれて慕われていた。礼宮文仁親王は「叔父様のような字を書きたい」と言ったことがきっかけで、喜久子妃の弟子として有栖川流書道を伝承することとなった。

    誕生時の皇位継承順位は、兄の裕仁親王・雍仁親王に次ぐ第3位であった。裕仁親王が昭和天皇に践祚したことで順位が繰り上がり、第2位となった。

    宣仁親王はスポーツ・国際親善交流・厚生・美術・工芸など、多岐にわたる活動を行った。中でも競馬の高松宮杯(現・「高松宮記念」)については、病に倒れるまで毎年観戦し、自ら優勝杯の授与も行っていた。

    済生会などの総裁を務め、社会活動にも貢献した。なお、赤い羽根を渡すアメリカの慈善福祉の慣習を赤い羽根共同募金として日本に導入したのは宣仁親王だとされる。これは、社会事業共同募金中央委員会(中央共同募金会)の総裁として、鶏を屠殺する際に出る羽を「赤心」(≒真心)に例え赤く染めて募金のシンボルにすることを提案したことに由来する。

    1947年には、皇族として初めてハンセン病患者を収容していた国立療養所栗生楽泉園を訪問した。

    また、戦後は日米親善活動の一環で、国際基督教大学(ICU)の設立準備委員会名誉総裁を務めた。

    ゴルフやスキー好きでも知られ、暖かい季節は夫妻で再三各地のゴルフ場を訪れてプレーを楽しみ、雪の季節になればよく雪山でスキーを楽しんでいた。

    また夏になると、高輪の邸宅のプールを近所の子供のために開放していた。

    大日本帝国憲法期は、帝国海軍将校で終戦時は大佐であった。兄・雍仁親王が結核で病身であったので、占領期は、兄・昭和天皇を間接的に助けようという意向が強く、東京裁判(極東国際軍事裁判)の関係者を招き1947年(昭和22年)2月8日、鴨猟を行なったりした。皇室などの伝統のない外国人も喜んだとある。また福祉の宮としても有名で、母・貞明皇后の活動を継ぎ、「ハンセン病の藤楓協会」の総裁を務め入園者の福祉の増進に尽力した。皇室ゆかりの門跡寺院仁和寺を支える「仁和会」総裁も務めた。

    海軍兵学校在学中は特別官舎で過ごし、授業の多くはマンツーマン教育を受けるなど、特別扱いではあったものの、訓練および授業では、他の生徒と同じように扱ってほしいと望んでいたといわれる。初期の『高松宮日記』にも、特別扱いされることへの不満の記述が随所にみられる。後に宣仁親王が砲術長として着任した戦艦「比叡」は大和型戦艦の実験艦としての役割を担っており、宣仁親王の着想が戦艦「大和」に採用された例もあったという。この「比叡」でも艦長・有馬馨以下周囲が宣仁親王のために参謀長室や参謀長休憩室(艦橋勤務時)を提供したり、飲料水を特別に消毒するなど気をつかう事が多かったが、親王は断固として一将校として勤務し、有馬艦長に「殿下ほど忠実に命令を実行する士官に接したことはない」と言わしめた。宣仁親王も「比叡」を気にかけており、転属後も幾度か来艦している。

    帝国海軍への思い入れは深く、1977年(昭和52年)に松永市郎(海軍大尉)が海軍時代回想記を出版すると、松永と数名の海軍将校を邸宅に招いた。宣仁親王は「海軍のことを書いても、美点、長点だけを書いては、後世の役に立たない。むしろ、海軍の欠点、短所を書いておけば、それが後世のためになる。これからは、海軍の悪かったことも堂々と書きたまえ。そのために苦情を言う者が出てきたら、高松が言ったと答えたまえ」(原文まま)と声をかけている。

    戦後、1971年(昭和46年)には、硫黄島の戦跡(第二次大戦末期の硫黄島の戦い)を訪問した。宣仁親王は、骨が入口周辺に積み重なっていた洞窟の前で、地べたに正座して、両手を突き首を垂れ、じっと瞑想状態に入った。また当時は、硫黄島には至る所に散らばったままの遺骨もあったが、仕方なしに海上自衛隊駐屯部隊の隊員も、普段は靴で遺骨を踏んで歩くようになってしまっていた。しかし、宣仁親王はそれをためらい、靴と靴下も脱ぎ、素足になって骨片の散らばる洞窟内へ入って行った。その洞窟内には、硫黄島という名前の通り地面から硫黄のガスが噴き出していたという。

    『高松宮日記』中央公論社

      第一巻 1996年(平成8年)3月刊行 ISBN 4-12-403391-5。全国書誌番号:96063037。

      第二巻 1995年(平成7年)6月刊行 ISBN 4-12-403392-3。全国書誌番号:95072287。

      第三巻 1995年(平成7年)11月刊行 ISBN 4-12-403393-1。全国書誌番号:96032353。

      第四巻 1996年(平成8年)7月刊行 ISBN 4-12-403394-X。全国書誌番号:97018217。

      第五巻 1996年(平成8年)11月刊行 ISBN 4-12-403395-8。全国書誌番号:97038500。

      第六巻 1997年(平成9年)3月刊行 ISBN 4-12-403396-6。全国書誌番号:98004387。

      第七巻 1997年(平成9年)7月刊行 ISBN 4-12-403397-4。全国書誌番号:98030577。

      第八巻 1997年(平成9年)12月刊行 ISBN 4-12-403398-2。全国書誌番号:98073044。。

      没後、1991年(平成3年)に高松宮付の宮務官が宮邸の倉庫より発見した、日記は大正10年(1921年)から昭和22年(1947年)までの、日々の公務が書かれている。喜久子妃の強い希望で一部編集を経て出版された。編集委員は細川護貞・大井篤・阿川弘之・豊田隈雄。

      『高松宮宣仁親王』同 伝記刊行委員会編 朝日新聞社、1991年(平成3年)

        『高松宮宣仁親王 復刻 皇族軍人伝記集成16』佐藤元英解説、ゆまに書房、2012年(平成24年)

        『高松宮宣仁親王殿下をお偲びして 藤楓協会三十五年の歩み』藤楓協会編 1988年(昭和63年)、非売品

        ^ 『Address of PRINCE TAKAMATSU』 高松宮宣仁親王 San Francisco May 27,1931。公家訛が混じりながらも潑剌とした声調であったという

        ^ 御料車のニッサン・プリンス・ロイヤルを改造し皇族霊柩車とした。2年後の昭和天皇大葬や、13年後の香淳皇后大葬にも同じ車両が運用された。

        ^ なお同大学は甥にあたる第125代天皇上皇明仁の孫で、秋篠宮文仁親王・同妃紀子の長女・眞子内親王と次女・佳子内親王の姉妹が在籍・通学しており、高松宮・秋篠宮という皇統直系の直宮家の皇族が関わりを持ったということになる。同大学キャンパスの所在地である東京都三鷹市には、弟・三笠宮崇仁親王が名誉総裁を務めた「公益財団法人中近東文化センター」もあり、同じ天皇の弟宮同士が関わって共通した点にもなる

        ^ 宮内庁「旧高松宮家」

        ^ 皇室略牒 宮内省図書寮

        ^ 大正2年宮内省告示第8号(『官報』号外、大正3年7月6日)(NDLJP:2952379)

        ^ 『官報』号外「宮廷録事」、大正13年7月11日(NDLJP:2952384/1/14)

        ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、33頁。

        ^ 大正14年宮内省告示第1号(『官報』第3716号、大正14年1月14日)(NDLJP:2955864/1/2)

        ^ 『官報』第279号「敍任及辭令」、昭和2年12月2日(NDLJP:2956739/1/4)

        ^ 昭和5年宮内省告示第5号(『官報』第929号、昭和5年2月5日)(NDLJP:2957396)

        ^ 原 2017 p.406

        ^ 原 2017 p.407

        ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.198

        ^ 『官報』第2663号「敍任及辭令」、昭和10年11月16日(NDLJP:2959142/1/4)

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        ^ 細川護貞『細川日記』 上巻、昭和十九年七月十一日の条より、p266 (中公文庫、2002年改版) ISBN 4-12-204072-8

        ^ 寺崎 1995 p.123-124

        ^ 寺崎 1995 p.122-123

        ^ 吉田 1992

        ^ 秦郁彦 『裕仁天皇五つの決断』 講談社 p.276

        ^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。

        ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.135

        ^ 柴山太 『日本再軍備への道―1945‐1954年』 ミネルヴァ書房 p.548

        ^ 吉田 1992 p.74-75

        ^ 寺崎 1995 p152(鈴木内閣 (十一)八月十二日の皇族会議)

        ^ 『入江日記』

        ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.234

        ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.240

        ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.46-53

        ^ 『官報』第3982号「授爵・敍任及辭令」、大正14年12月2日(NDLJP:2956132/1/2)

        ^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」、昭和6年12月28日

        ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」、昭和16年10月23日(NDLJP:2960937/1/26)

        ^ the Royal Decree of 30.07.1930

        ^ 『官報』第1080号「宮廷録事」、昭和5年8月5日(NDLJP:2957547/1/2)

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        ^ 『官報』第1106号「宮廷録事」、昭和5年9月4日(NDLJP:2957573/1/2)

        ^ 『官報』第1157号「宮廷録事」、昭和5年11月6日(NDLJP:2957624/1/3)

        ^ 『官報』第1164号「宮廷録事」、昭和5年11月14日(NDLJP:2957631/1/3)頸飾

        ^ 『官報』第1204号「宮廷録事」、昭和6年1月7日(NDLJP:2957672/1/5)

        ^ 『官報』第1222号「宮廷録事」、昭和6年1月28日(NDLJP:2957692/1/2)

        ^ 『官報』第1224号「宮廷録事」、昭和6年1月30日(NDLJP:2957692/1/2)

        ^ 『官報』第1229号「宮廷録事」、昭和6年2月5日(NDLJP:2957697/1/3)

        ^ 『官報』第554号「宮廷録事」、昭和6年2月10日(NDLJP:2957701/1/11)

        ^ 『官報』第1267号「宮廷録事」、昭和6年3月24日(NDLJP:2957735/1/4)

        ^ 山階会『山階宮三代 下』P.291

        ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.139

        ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.124

        ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.36

        ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.90

        ^ 「高松宮様草津へ ライ病院御視察」『朝日新聞』昭和22年8月3日2面

        ^ 工藤美知尋『高松宮と終戦工作 和平を希求した宣仁親王の太平洋戦争』に詳しい。潮書房光人社<光人社文庫>、2014年

        ^ 太平洋戦争研究会編 『東京裁判がよくわかる本』 p.199 PHP研究所 2002年

        ^ 有馬 2001 p.23-24

        ^ 有馬 2001 p.19, p.26

        ^ 有馬 2001 p.23

        ^ 有馬 2001 p.25

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        ^ 松永 1991p.58

        ^ 松永 1991p.59

        ^ 阿川弘之 『高松宮と海軍』 中央公論社 1999 p.102-103

        ^ 『明日への選択』 平成10年2月号

        松永市郎『次席将校 『先任将校』アメリカを行く』光人社、1991年4月。ISBN 4-7698-0556-X。 

        吉田裕『昭和天皇の終戦史』岩波書店〈岩波新書〉、1992年12月。ISBN 978-4004302575。 

        千早正隆『元連合艦隊参謀の太平洋戦争 千早正隆インタビュー 東京ブックレット17』東京新聞出版局、1995年8月。ISBN 4-8083-0544-5。 

        寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録』文藝春秋〈文春文庫〉、1995年7月。ISBN 978-4167198039。 

        高松宮妃喜久子『菊と葵のものがたり』中央公論社、1998年11月。ISBN 978-4120028397。 

          高松宮妃喜久子『菊と葵のものがたり』中公文庫、2002年1月。ISBN 978-4122039599。 

          有馬馨『帝国海軍の伝統と教育 付・比島作戦の思い出』五曜書房、2001年。ISBN 4795253994。 

          原武史『皇后考』講談社、2015年2月。ISBN 978-4062193948。 

            原武史『皇后考』講談社学術文庫、2017年12月。ISBN 978-4062924733。 

            阿川弘之『高松宮と海軍』-『高松宮日記』編纂に携わった著者の「日記」編纂記、前篇と後篇、時代と背景を解説する「海軍を語る」も収録。

              (中央公論社、1996年/中公文庫、1999年)、ISBN 4-12-002549-7/ISBN 4-12-203391-8

              平野久美子『高松宮同妃両殿下のグランド・ハネムーン』(中央公論新社、2004年) ISBN 4-12-003494-1

              岩崎藤子『九十六年なんて、あっと言う間でございます 高松宮宣仁親王妃喜久子殿下との思い出』(岩下尚史編、雄山閣、2008年) ISBN 978-4-639-02023-3

              『高松宮宣仁親王』(同刊行委員会編、朝日新聞社、1988年) ISBN 4-02-255817-2

              『高松宮宣仁親王殿下 特別写真集』(同刊行委員会編、毎日新聞社、1988年) ISBN 4-620-80206-9

              NHKビデオ 『秘録 高松宮日記の昭和史』(中央公論新社、1998年) NHKスペシャルで1996年(平成8年)秋に放送の編集版。

              高松宮記念 (競馬)

              高松宮記念杯競輪

              高松宮記念特別競走

              大日本農会

              宮様スキー大会 - 自身及び兄の秩父宮雍仁親王が1928年(昭和3年)に北海道に行啓した際に開催されたスキー大会が開設の端緒となった。

              徳川慶光 - 実質的に義弟。

              井手久美子 - 実質的に義妹。

              榊原政春 - 実質的に相婿の関係。

              宮内庁「旧高松宮家」

              高松宮殿下台臨八紘の基柱竣工 - NHK放送史

              高松宮殿下台臨 満洲事変記念日 - NHK放送史

              高松宮殿下台臨 海軍兵学校卒業式 - NHK放送史

              高松宮殿下 南方御視察 - NHK放送史

              高松御差遣宮殿下 建国十周年御慶祝 - NHK放送史

              高松宮殿下台臨 海の精強巣立つ - NHK放送史

              高松宮殿下御台臨 神宮氷上大会 - NHK放送史

              高松宮殿下台臨 海軍機関学校卒業式 - NHK放送史

              高松宮殿下台臨 大化改新千三百年祭 - NHK放送史

              高松宮 炭焼を御覧 -福島県<時の話題> - NHK放送史

              カメラ訪問 高松宮と語る - NHK放送史

              NHKスペシャル「秘録 高松宮日記の昭和史」 - NHK放送史

              建宮敬仁親王

              明宮嘉仁親王(大正天皇)

              昭宮猷仁親王

              満宮輝仁親王

              有栖川宮威仁親王

              閑院宮載仁親王

              華頂宮博厚親王

              東伏見宮依仁親王

              迪宮裕仁親王(昭和天皇)

              淳宮雍仁親王(秩父宮)

              光宮宣仁親王(高松宮)

              澄宮崇仁親王(三笠宮)

              継宮明仁親王(上皇)

              義宮正仁親王(常陸宮)

              寬仁親王(三笠宮家)

              宜仁親王(桂宮)

              憲仁親王(高円宮)

              浩宮徳仁親王(今上天皇)

              礼宮文仁親王(秋篠宮)

              悠仁親王(秋篠宮家)

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              高松宮宣仁親王

              高松宮

              20世紀日本の人物

              20世紀日本のノンフィクション作家

              20世紀の軍人

              日本の日記作家

              日本の親王

              貴族院皇族議員

              大正時代の貴族院議員

              昭和時代の貴族院議員

              戦後日本の男性皇族

              大正天皇の子女

              皇族海軍軍人

              大日本帝国海軍大佐

              太平洋戦争の人物

              日本の赤十字の人物

              日本の競馬に関する人物

              競輪に関連する人物

              高松宮記念杯競輪

              競艇に関係する人物

              大勲位菊花大綬章受章者

              功四級金鵄勲章受章者

              レジオンドヌール勲章グランクロワ受章者

              スキーに関する人物

              肺癌で亡くなった人物

              学習院中・高等科出身の人物

              海軍兵学校 (日本)出身の人物

              海軍大学校出身の人物

              東京都区部出身の人物

              1905年生

              1987年没

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仁木 多鶴子(にき たづこ)
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仁木 多鶴子(にき たづこ、1939年1月3日 - 1983年9月12日)は、日本の女優。本名は鶴田和子。 東京府(現東京都)出身。国立音楽大学附属中学校、国立音楽大学附属高等学校を経て、国立音楽大…

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中村 れい子(なかむら れいこ、1960年〈昭和35年〉1月3日 - )は、日本の元女優。本名は中村 範子。 東京都品川区出身。東京都立南高等学校卒業、日本大学芸術学部演劇科出身。芸能活動時の所属…

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霧立 のぼる(きりたち のぼる)
1917年1月3日生まれの有名人 東京出身

霧立 のぼる(きりたち のぼる、1917年(大正6年)1月3日 - 1972年(昭和47年)3月22日)は、元宝塚少女歌劇団娘役で日本の女優。本名は島田 キミ、東京市出身。愛称は「しまちゃん」(本名に…


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高松 大樹(たかまつ だいき)
1981年9月8日生まれの有名人 山口出身

高松 大樹(たかまつ だいき、1981年9月8日 - )は、山口県宇部市出身の元プロサッカー選手、サッカー解説者、政治家。現役時代のポジションはフォワード。元日本代表。現大分市議会議員(2期)。 小…

高松 雪乃(たかまつ ゆきの)
1991年9月20日生まれの有名人 神奈川出身

高松 雪乃(たかまつ ゆきの、1991年9月20日 - )は、日本のタレント。愛称はゆきのん。元ワタナベエンターテインメント所属。現在はフリーで活動。 神奈川県出身。身長157cm、体重40kg、ス…

高松 咲希(たかまつ さき)
2010年9月23日生まれの有名人 神奈川出身

高松 咲希(たかまつ さき、2010年9月23日 - )は、日本の子役、女優、ファッションモデル。Ima-wo属。 2015年6月、「第1回 クラージュ×雑誌LUCAコラボ・オーディション」でグラン…

高松 いく(たかまつ いく)
1986年5月16日生まれの有名人 東京出身

高松 いく(たかまつ いく、1986年5月16日 - )は、東京都出身の元女優。 所属事務所はエレガンス、ビッグアップル、コムスシフトを経て、株式会社プロダクション尾木傘下の株式会社アラベスクに所属…


高松 あい(たかまつ あい)
1984年5月26日生まれの有名人 埼玉出身

高松 あい(たかまつ あい、1984年5月26日 - )は、日本の女優。 本名同じ。埼玉県行田市出身。血液型A型。第1回ザ・ジャパン・オーディション出身者。長良プロダクション系列ワンペアに所属してい…

高松 由香(たかまつ ゆか)
9月9日生まれの有名人 埼玉出身

高松 由香(たかまつ ゆか、9月9日 - )は、日本の女性声優。埼玉県出身。元青二プロダクション所属。 主な出演は『FNS地球特捜隊ダイバスター』(2005年~、第33話まで)のジュンペイ役。 …

高松 英郎(たかまつ ひでお)
1929年10月24日生まれの有名人 高知出身

高松 英郎(たかまつ ひでお、1929年〈昭和4年〉10月24日 - 2007年〈平成19年〉2月26日)は、日本の俳優。本名は武市 哲郎(たけいち てつお)。高知県長岡郡大篠村(現:南国市)生まれ。…

高松 しげお(たかまつ しげお)
1943年11月25日生まれの有名人 東京出身

高松 しげお(たかまつ しげお、本名:高松茂雄、1943年11月25日 - )は、日本の俳優、声優、漫談家。元漫才師である。旧芸名晴乃タック。身長163cm。エ・ネスト所属。趣味は釣りとパチンコ、特技…

たかまつ なな(たかまつなな)
1993年7月5日生まれの有名人 神奈川出身

たかまつ なな(1993年7月5日 - )は、日本のお笑いタレント。株式会社笑下村塾 創業者・取締役・元代表取締役社長。お笑いジャーナリスト、YouTuber、番組プロデューサー、コンサルタントとして…


高松 新一(たかまつ しんいち)
1980年11月21日生まれの有名人 千葉出身

高松 新一(たかまつ しんいち、1980年11月21日 - )は、日本の元お笑い芸人。漫才コンビオジンオズボーンのツッコミ担当で、松竹芸能に所属していた。 千葉県富里市出身、千葉県立富里高等学校卒業…

高松 棟一郎(たかまつ とういちろう)
1911年1月8日生まれの有名人 栃木出身

高松 棟一郎(たかまつ とういちろう、1911年1月8日 - 1959年5月26日)は、日本のジャーナリスト。父は真岡町長や下野銀行支店長を務め、煙草元売捌所を営業していた高松 甚一郎。弟は洋画家でグ…

高松 信太郎(たかまつ しんたろう)
1981年2月7日生まれの有名人 東京出身

火災報知器(かさいほうちき)は、太田プロダクション所属のお笑いコンビ。1998年結成。 小林 知之(こばやし ともゆき、 (1980-11-13) 1980年11月13日(44歳) - ) 高松 信…

高松 次郎(たかまつ じろう)
1936年2月20日生まれの有名人 東京出身

高松次郎(たかまつ じろう、昭和11年(1936年)2月20日 - 平成10年(1998年)6月25日)は、前衛美術、現代日本美術家。本名は新八郎。 東京都に生まれ、1954年に東京藝術大学絵画科(…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「高松宮宣仁」を素材として二次利用しています。

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