高松宮妃喜久子の情報(たかまつのみやひきくこ) 皇族 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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高松宮妃 喜久子さんについて調べます
■名前・氏名 |
高松宮妃喜久子と関係のある人
皇后美智子: また次男の文仁親王と長女の清子内親王は高松宮妃喜久子と関係が深く、孫のようにかわいがられていたといわれる。 皇太后良子: 皇后は海外経験が無く外遊を強く希望しており、これを知った高松宮妃喜久子が吉田茂元首相を介して佐藤栄作首相に、来日したベルギー王弟アルベール王子を介してベルギー国王ボードゥアン1世にそれぞれかけあい、同国を含む外遊が実現するに至った。 皇太后良子: 皇太子明仁親王(当時)と民間出身である正田美智子との婚約が決定された(当時の感覚では貴賤結婚)際には、婚約内定に前後した10月1日に秩父宮妃勢津子や高松宮妃喜久子に対し「東宮様のご縁談について平民からとはけしからん」などと強い不快感を示していた。 皇太后良子: 結局、1969年(昭和44年)4月に元皇族妃で高松宮妃喜久子とも交流があった北白川祥子が女官長に就任した。 |
高松宮妃喜久子の情報まとめ
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高松宮妃 喜久子(たかまつのみやひ きくこ)さんの誕生日は1911年12月26日です。東京出身の皇族のようです。
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栄典、系譜などについてまとめました。結婚、卒業、テレビ、姉妹、兄弟に関する情報もありますね。92歳で亡くなられているようです。
高松宮妃喜久子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年〈明治44年〉12月26日 - 2004年〈平成16年〉12月18日)は、日本の皇族。元華族。高松宮宣仁親王の妃。 旧名、徳川 喜久子(とくがわ きくこ)。徳川慶久公爵令嬢。母は有栖川宮威仁親王の第2王女・實枝子女王。身位は親王妃。お印は初めが亀(かめ)、結婚後は撫子(なでしこ)。 1911年(明治44年)12月26日、誕生。母・實枝子は、有栖川宮威仁親王の王子女でただ一人、夭逝を免れた。 1912年(明治45年)4月12日、両親に連れられ舞子別邸(兵庫県)で静養中の祖父有栖川宮威仁親王の元を訪れると、威仁親王は当時唯一の孫である喜久子を「喜久女、喜久女」と呼び可愛がったため、慰子妃の勧めで、夫妻はそのまま喜久子を舞子別邸に預けて帰京した。 1913年(大正2年)6月22日、病状が重篤となった威仁親王の元に宮内大臣渡辺千秋伯爵が派遣され、大正天皇第3皇男子の宣仁親王(当時8歳)に「高松宮」の称号を与えて有栖川宮家の祭祀を継承させる内諭が伝達された。威仁親王は翌7月10日に薨去し、国葬が執り行われた。祖父の死をまだ理解できない喜久子が折り紙の鶴を折ったり、棺の中の祖父に会いたいとせがむ姿は、人々の涙を誘った。 こうして有栖川宮の祭祀を継承する宣仁親王の妃として、有栖川宮の血を受け継ぐ喜久子が擬された。喜久子自身も、後年、著書の中で2歳当時に結婚が決まったとしている。 1929年(昭和4年)に女子学習院本科を卒業。翌1930年(昭和5年)2月4日、18歳で宣仁親王と結婚。同日付で、勲一等に叙され、宝冠章を授与された。明治天皇の孫と徳川慶喜の孫の結婚とあって、「公武合体」と話題を呼んだ。 その2か月後、昭和天皇の名代となった宣仁親王と共に14か月にわたり欧米を歴訪した。1930年(昭和5年)には日本赤十字社名誉社員の称号を受ける。 実母の實枝子を結腸癌で亡くしたのを機に癌の撲滅に関わるようになる。1934年(昭和9年)には、財団法人「がん研究会」(癌研・がん研)にラジウムを寄付し、その後も癌研を支援した。1949年(昭和24年)からは日本赤十字社の名誉副総裁に推戴された。 1968年(昭和43年)には、高松宮妃癌研究基金の設立に関与するなど、生涯を通して癌撲滅に関与した。しかし、後に夫・宣仁親王を肺癌で失い、さらに晩年は自らも癌と闘うこととなった。 1987年(昭和62年)2月3日、宣仁親王と死別する。その6年後に発見された親王の日記は、1921年(大正10年)1月1日から1947年(昭和22年)11月にかけての、皇族および海軍の貴重な資料で、喜久子妃により1995年(平成7年)から『高松宮日記』(中央公論社)全8巻として刊行された。 1998年(平成10年)にはエッセイ『菊と葵のものがたり』(中央公論社)を上梓。 ハンセン病患者の救済運動にも関わり、1993年(平成5年)の高松宮記念ハンセン病資料館(後の国立ハンセン病資料館)の設立に尽力した。また、日仏会館の総裁として日仏交流にも尽くしたことが業績として挙げられる。 2000年(平成12年)6月16日に香淳皇后が崩御すると、喜久子妃は皇族最年長者となった。翌2001年(平成13年)12月の敬宮(愛子内親王)の誕生に際しては、もし男児が誕生しなければ、女性の天皇の皇位継承は日本の歴史から見て不自然ではないとする趣旨の手記を雑誌『婦人公論』2002年1月22日号に寄稿している。 2003年(平成15年)に乳癌が発見され、翌年2月にはその摘出手術を受けた。一時体調は安定し6月には退院したが、8月に再度入院し10月18日には人工透析のための手術を受けていた。 2004年(平成16年)11月、行く末を気に掛けていた紀宮(後の黒田清子)の婚約が報道された時は、非常に喜んだという。 2004年(平成16年)12月18日午前4時24分、聖路加国際病院で敗血症のため薨去した、92歳没。93歳の誕生日のわずか8日前で、この日は清子内親王と黒田慶樹との婚約内定発表会見が予定されており、病室でもテレビ中継が視聴できるよう準備されていたが、妃の薨去によって会見は同年12月30日に延期された。 葬儀は豊島岡墓地で斂葬の儀が行われたのち、落合斎場で火葬され、同墓地内の墓所に葬られた。高松宮は後継となる子孫がいないため喜久子妃の薨去で廃絶。同宮家が祭祀を継いだ有栖川宮ともども、これで系統が途絶えることとなった。 母の實枝子から書道の有栖川流を継承し、文仁親王や正仁親王妃華子に自ら手ほどきをした。 栄典勲章(国内)1930年(昭和5年)2月4日 - 勲一等宝冠章 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 外国勲章国名等は受章当時。日付は、日本の官報で受章した(捧呈された)日付、又は当該国官報等で授与された日付のうち、早い方。 1930年(昭和5年)11月4日 - 1930年(昭和5年)11月12日 - 1931年(昭和6年)1月5日 - 系譜
弟:徳川慶光(1913年 - 1993年) - 公爵 妹:榊原喜佐子(1921年 - 2013年)、回想記を3冊著している(各草思社)。 妹:井手久美子(1922年 - 2018年) 父方の祖父は最後の征夷大将軍で後に公爵となった徳川慶喜。祖父の名の慶喜と、父の名の慶久それぞれ一文字を取り、喜久子と名づけられた。 秩父宮妃勢津子とは、義姉妹であり、四従姉妹でもある(勢津子の祖父・松平容保と喜久子の祖父徳川慶喜が又従兄弟同士であるため。容保の祖父・松平義和と慶喜の祖父・徳川治紀が兄弟)。 2024/06/27 19:17更新
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高松宮妃喜久子と同じ誕生日12月26日生まれ、同じ東京出身の人
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