皇后美智子の情報(こうごうみちこ) 皇族 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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皇后 美智子さんについて調べます
■名前・氏名 |
皇后美智子と関係のある人
眞子内親王: 天皇明仁と皇后美智子にとって初孫であった。 皇太子徳仁親王: 2016年(平成28年)1月28日、父帝・明仁が皇后美智子(当時)とともに第二次世界大戦戦没者慰霊を目的としたフィリピン訪問のために不在であったことから、第3次安倍第1次改造内閣で経済再生・経済財政担当大臣が甘利明から石原伸晃へ交代したことに伴う閣僚の認証官認証式を国事行為臨時代行の形で執り行った。 今上天皇: また皇后美智子(現・上皇后美智子)も第125代天皇明仁を「今上陛下(きんじょうへいか)」と公の場では呼んでいた。 正田建次郎: また建次郎の弟・英三郎には2男2女がおり、英三郎の長女は上皇后美智子。 草彅剛: 行政からの厚い信頼も得ており、上皇后美智子、チェ・ジウ等からも高く評価されている。 草彅剛: 2011年1月20日に草彅主演映画『僕と妻の1778の物語』を上皇后美智子とともに隣り合って鑑賞しており、出迎えから映画鑑賞、会談まで計約3時間に及んだ交流の締めくくりには、約30秒にわたる長い握手を交わしている。 大原総一郎: 次女・泰子は正田英三郎の次男(上皇后美智子の弟)正田修に嫁ぐ。 三浦大知: 上皇明仁作詞・上皇后美智子作曲の「歌声の響」を記念演奏した。 石川浩司: 父は国家公務員(キャリア官僚)、母は上皇后美智子の学友という家庭に長男(他に弟が二人)として出生。 緒方貞子: なお、緒方と平成の皇室とは、上皇后美智子の母校が自身と同じ聖心女子大学であるという共通点がある。 小泉清子: 1963年(昭和38年)、軽井沢で催した鈴乃屋の展示会に皇后美智子の女官が訪れたことがきっかけで美智子との交流が始まり、美智子の着物のデザインを担当した。 水島三一郎: したがって、上皇后美智子は義理の姪に当たる。 愛子内親王: 同年12月1日、13歳の誕生日を迎え、皇居内の御所に居住する祖父母の天皇明仁と皇后美智子(当時)を初めて一人で挨拶のため訪問した。 まど・みちお: 皇后美智子選・英訳『どうぶつたち ( 正田建次郎: 上皇后美智子は建次郎の姪にあたる。 皇太子徳仁親王: また、天皇明仁と皇后美智子(いずれも当時)は「『皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい』との大御心を宮内庁に伝えた」とされる。 まど・みちお: 皇后美智子選・英訳『ふしぎなポケット ( 須賀敦子: 1951年、聖心女子大学第一期生として文学部外国語外国文学科を卒業(同大第一期生には中村貞子=緒方貞子、後輩に正田美智子=上皇后美智子がいた)。 芦田淳: 上皇后美智子の皇太子妃時代における専任デザイナーを務めたことで知られている。 正田英三郎: 上皇后美智子の父であり、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の母方の祖父(外祖父)にあたる。 黒坂黒太郎: 2016年1月、東京芸術劇場で行われた「コカリナ20周年コンサート」には上皇后美智子が来場し、会場でコカリナを演奏した。 渡辺みどり: 皇后美智子さま 愛と喜びの御歌(講談社/2007年11月) 紀宮清子: 上皇明仁、上皇后美智子の長女。 前田陽一: 実妹の神谷美恵子は皇太子妃(現在の上皇后美智子)の相談者だったので、時期は異なるが(昭和期に)兄妹で平成期の天皇・皇后の補佐役を務めたことになる。 織田幹雄: 一方で二人は、上皇明仁の学友(正雄は学習院中等科で同級生、和雄は2歳後輩のテニス仲間であり常陸宮正仁親王と同級生)として知られ、上皇后美智子とを繋いだ関係者でもある。 愛子内親王: 2019年(令和元年)5月1日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行(前日の2019年(平成31年)4月30日に祖父の天皇明仁が退位し上皇となり、祖母の皇后美智子は上皇后となる)により父の皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位、母の皇太子妃雅子も皇后となる。 草彅剛: また、この翌日には、盧大統領と対談した草彅について、上皇后美智子に「韓国語はいかがでしたか」と尋ねられた盧大統領夫人の権良淑が「上手でしたよ」と応じている。 児島由美: 2013年11月1日には、制作に携わった上智大学記念歌「神様のシンフォニー」にて天皇・皇后(現在の上皇明仁・上皇后美智子夫妻)の拝謁に出向いた。 曽野綾子: 大学の後輩である上皇后美智子とは親交が深く、三浦の生前から夫婦ぐるみで親しかった。 美濃部亮吉: 附属中学の同級生には、正田英三郎(日清製粉名誉会長、上皇后美智子の父)、岸本英夫(東京大学名誉教授)、芳賀檀(ドイツ文学者)、諸井三郎(作曲家)などがいる。 |
皇后美智子の情報まとめ
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皇后 美智子(こうごう みちこ)さんの誕生日は1934年10月20日です。東京出身の皇族のようです。
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年譜、外国訪問などについてまとめました。現在、卒業、子役、結婚、事件、家族に関する情報もありますね。今年の情報もありました。皇后美智子の現在の年齢は89歳のようです。
皇后美智子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)上皇后美智子(じょうこうごうみちこ、1934年〈昭和9年〉10月20日 - )は、日本の皇族。第125代天皇・明仁の皇后。身位は上皇后。敬称は陛下。お印は白樺。勲等は勲一等。旧名は正田 美智子(しょうだ みちこ)。 明治時代以降初めての民間出身の皇后ならびに皇族。現皇室典範下で立后した初めての皇后でもある。2019年の明仁の退位に伴い、新たに設けられた身位である上皇后となった。 現在の住居は、東京都港区元赤坂の赤坂御用地にある仙洞御所。 1934年(昭和9年)10月20日、日清製粉グループ会長の正田英三郎・正田富美(1981年(昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の長女として東京府東京市本郷区(現・東京都文京区東部)の東京帝国大学医学部附属病院で誕生。 大和郷幼稚園、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園を経て、1941年(昭和16年)に雙葉学園雙葉小学校に入学。1944年(昭和19年)、疎開のため、神奈川県藤沢市の乃木高等女学校附属小学校(現・湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現・館林市立第二小学校)、1945年(昭和20年)5月には、長野県の軽井沢第一国民学校(初等科5年に転入、同年9月まで在籍)と転校を繰り返し、軽井沢にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の俵孝太郎旧居に、一時在住したこともある。 小学生時代の性格は、担任の回想では「真面目な女子児童」、「活発で勝ち気だった」、「神経質な性格だった」とされていて、スポーツが得意な女子だった。また、ピアノ・絵画・料理、香道も習っていた。 1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業するが、当時は品川区五反田に在住しており通学に不便なことから聖心女子学院中等科へ入学する。1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院高等科を卒業。中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称は米国の子役であったシャーリー・テンプルのような天然パーマだったことから「テンプルちゃん」や「ミッチー」「ミチ」と呼ばれていた。 1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現・英語英文学科英語英文学専攻)を卒業。在学中に中学・高校の英語教員免許取得 。在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた。卒業式では総代として答辞を読んだ。自身は大学院進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。クラブ活動では合唱部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた。テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、関東学生ランキングの第4位にランクインした。昭和29年度(1954年度)の成人の日記念の読売新聞社主催の感想文では2位に入選した。大学の卒業論文は、『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』(The Forsyte Chronicles by John Galsworthy)。大学卒業後にフランス語の習得をしながら19世紀の児童文学の研究を続けていた。 同年8月、長野県の軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会にて当時皇太子だった明仁親王と出会う。テニスコートの誓いにちなんだ「テニスコートの出会い」として知られ、その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。明仁親王は正田美智子(当時)の写真を「女ともだち」と題して宮内庁職員の文化祭に出品したが、「皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然」と考えられていた時代であり、誰も彼女を「お妃候補」とは思わなかったようである。 1958年(昭和33年)、ベルギーにて開催された「聖心世界同窓会第1回世界会議」の日本代表として出席し、欧米各国に訪問旅行する。 1958年7月24日、日本新聞協会加盟の新聞・通信・放送各社は、皇太子妃の選考について正式発表まで自発的報道管制を決定した。『週刊女性』11月23日号は正田美智子内定を報道し、問題となった。 同年11月27日、皇太子明仁親王と正田美智子の結婚が皇室会議(議長:内閣総理大臣・岸信介)において満場一致で可決された。同日、両親の正田英三郎と富美子夫人との記者会見にて、記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答。これは当時の流行語にもなった。また第一印象について「ご清潔な方」とした。皇太子明仁親王と正田美智子の巨大な写真がデパートに飾られる・「美智子さまぬりえ」が発売されるなどのミッチー・ブームが起こる。 「(将来の皇后となる)皇太子妃は「皇族(臣籍降下後の旧宮家)か五摂家(伯爵以上)といった特定の旧華族に属する女性から選ばれる」ということが習わしとされており、「平民から妃を迎える」ということが考えられなかった時代で、1958年(昭和33年)の正田美智子の結婚は、旧皇族・旧華族らに強く反対された。 旧皇族久邇宮家出身で姑ともなる皇后良子(当時)は夏に、静岡県の御殿場に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えたとされる。しかし11月の皇室会議では、猛反対をした一人であった秩父宮妃勢津子も賛成し、全員一致で可決した。 旧皇族の梨本伊都子は、明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付の日記に、「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた」と記している。ただ、この結婚に理解を示した義理の姪の配偶者(伊都子の夫梨本宮守正王の兄が久邇宮邦彦王であり香淳皇后の父)である昭和天皇の意向もあり、伊都子は以後は表立って批判することはなくなった。 1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と結婚する。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まった。「燕尾服の胸元には大勲位菊花大綬章、シルクハットを右手に晴ればれとしたお顔の皇太子殿下。ダイヤをちりばめた宝冠ティアラー、白いローブデコルテの上には金糸を縫い取りましたショール、美しくも気高いプリンセス美智子妃殿下。白地に花模様のお馬車のシートにむつまじく寄り添われたこの一組の明日の日本の象徴は、奉祝の人波の嵐のような歓呼ににこやかに応えておられます」とはNHKによる実況放送の一部である。またパレードの際には暴漢が馬車を襲撃して取り押さえられる事件が起こった。 お印は夫妻の出会いの場だった軽井沢にちなんで白樺とした。 晴れがましい成婚パレード・民間での祝福ムードとは対照的に、貴賤結婚であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の令嬢がいたことなどの理由から、一部の皇族・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからもさまざまな非難を受けたとされる。美智子妃は1969年に、昭和天皇の侍従入江相政に対し「(香淳皇后は)平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか」と尋ねたという。 一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる東久邇成子より自宅のホームパーティーに招待されるなど、好意的な旧皇族も存在した。 1960年(昭和35年)2月23日に第一子・第一男子徳仁親王(浩宮)が誕生した。出産後、昭和天皇、香淳皇后より「ごくろうさまでした。しっかり、静養するように」と労いの言葉をかけられた。また、後の第126代天皇となる浩宮徳仁の命名は祖父・昭和天皇が行った。親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。美智子妃は当時、側近である黒木従達東宮侍従に「どのようなときでも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。同年9月22日 - 10月7日、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国連邦政府より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待され、ドワイト・アイゼンハワー大統領夫妻と会談した。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。 1963年(昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日に小山いと子が美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説『美智子さま』の連載と単行本発行中止を宮内庁が平凡出版に申し入れ、連載は中止された。直後の3月22日に宮内庁病院に緊急入院、胞状奇胎と診断され翌23日の午後に流産の処置手術が行われた。全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連づけ、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる。このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった。7月8日から皇太子・皇孫浩宮とともに軽井沢で過ごしたあと、9月1日に帰京し、9月13日の第18回国民体育大会(山口国体)から、段階的に公務に復帰した。 1961年(昭和36年)夏頃、聖心女子大学でキリスト教女子教育を受けた事情からキリスト教に心酔していることに昭和天皇が激怒し、美智子妃が「絨毯の上にひれ伏して謝ったが、天皇のお怒りは容易に静まらなかった」と『文藝春秋』が報じた。 1965年(昭和40年)11月30日、第二子・第二男子文仁親王(礼宮)誕生。 1969年(昭和44年)4月18日、皇太子明仁親王との第三子・第一女子清子内親王(紀宮)誕生。苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行なっていた。 これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止した。 1984年(昭和59年)、銀婚式となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点をつけるか」との問いに対し、皇太子が「点数をつけることはできないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。 1986年(昭和61年)3月、子宮筋腫の手術を受ける。このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪韓は中止になった。手術の際も夫・皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断は極限まで下されなかった。退院の際、宮内庁病院玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。 晩年の昭和天皇一家の写真にて、嫁・美智子妃が腰を悪くしていた姑・香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。秩父宮妃勢津子とはともにマラソンを観戦した姿も目撃・報道された。また次男の文仁親王と長女の清子内親王は高松宮妃喜久子と関係が深く、孫のようにかわいがられていたといわれる。 1989年(昭和64年)1月7日、義父の昭和天皇が崩御し夫の明仁親王即位に伴い、皇太后となった姑の香淳皇后を引き継ぎ立后する。即位・立后後の記者会見においては、皇太子となり東宮仮御所にて独立する長男の徳仁親王について「時たまでよろしいから、ヴィオラを聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。 1993年(平成5年)10月20日、満59歳の誕生日に赤坂御所にて倒れる。 同年の『宝島30』1993年8月号には「皇室の危機-『菊のカーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員・大内糺」を称する人物による記事が掲載されていた。 島田雅彦のまとめによれば、その中で大内を名乗る人物は、天皇夫妻を昭和天皇や香淳皇后に比して、「華美で西洋風な生活を送り、神道よりもキリスト教に親和性が高く(元々、皇后が学習院ではなくミッション系大学の出でもあることから)、国民の望む皇室の主としてふさわしくない」という批判をし、それを皮切りに『週刊文春』などにも平成の皇后に対するバッシング記事が相次いで掲載された。宮中の最高権力者の一人となった皇后への、守旧派の「最後の反撃」と国民の「漠たる反感」が背景とされる。 このため皇后は精神的な苦痛から失声症となった。これに対し、宝島社および文藝春秋の関係者宅に何者かが銃弾を撃ち込む騒動が起き、このショックと皇后が宮中祭祀を熱心に行ったことで事態は沈静化したが、前代とは違う形の菊タブーが明らかになったとされる。翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している。 1994年(平成6年)10月20日、還暦を迎える。 1995年(平成7年)1月31日、天皇と共に夫妻で兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災発生後の兵庫県神戸市を見舞い(行幸啓)、同市長田区の菅原市場にその日皇居から自ら切って持参した黄色と白の水仙を供えた。この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市布引ハーブ園内で展示されている。被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者の労をねぎらう様子が大きな反響を呼ぶ。また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた。 1998年(平成10年)、インド・ニューデリーで開催された「国際児童図書評議会(IBBY)」に際してビデオによる講演を行い、日本神話に触れ、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。2002年(平成14年)、IBBYの本部があるスイス・バーゼルで開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY名誉総裁として出席し祝辞を述べた。これが唯一の単独での海外公務となっている。 2002年(平成14年)10月20日、皇后の満68歳の誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答で、次のように北朝鮮による日本人拉致問題についてコメントした。「小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみとともに、無念さを覚えます。なぜ私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います。」 2005年(平成17年)10月20日、清子内親王降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、徳仁親王が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、文仁親王が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという。 2007年(平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。ストレス性のものと診断された。通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。同年5月21日からは、天皇とともに欧州訪問の途についている。8月8日には須崎御用邸での静養を中止し、天皇とともに新潟県中越沖地震の被災地を訪問。 しかしながら、2008年(平成20年)で皇后も74歳の高齢となり、健康上の理由から公務軽減が検討された。 2011年(平成23年)3月30日、 天皇とともに夫妻で、同年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震による東日本大震災の被災者約290人が避難している東京武道館(東京都足立区)を訪問し(行幸啓)、膝をつきながら、一人ひとりを親しく激励した。 2015年(平成27年)7月29日、皇后は6月末ごろから胸の痛みを訴え、その頻度が週に数回程度から徐々に増えてきたため、同月24日に24時間の心電図検査を受けた。その結果、心臓の筋肉に血流が不足する心筋虚血を疑う所見がみられたという。宮内庁は29日、心筋虚血の疑いがあるため、同年8月9日に、東京大学病院で精密検査を受診すると発表した。同病院で冠動脈の状態をCT検査で確認し、治療を受け、以後体調は安定している。 2016年(平成28年)8月8日に国民に向けたビデオメッセージとして全国放送された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の録画収録の際には、その場にも同伴した。2017年(平成29年)6月9日に天皇の退位等に関する皇室典範特例法が成立、202年ぶりとなる天皇譲位が実現することとなった。 これにより夫・明仁が2019年(平成31年)4月30日で退位し同日の退位礼正殿の儀にて皇后としての最後の公務に臨んだ。翌(令和元年)5月1日に長男の皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位することに伴い、皇太子徳仁親王妃雅子が立后した。 美智子の称号は「上皇后(じょうこうごう)」となった。前皇后の称号については、夫帝の生死に関わらず歴史的に用いられてきた「皇太后(こうたいごう)」、あるいはその略称である「太后(たいこう)」の称号を用いるべきであるとする反対意見もあったが、「退位した上皇が健在にもかかわらず、(皇室史上においても)崩御により夫と死別した未亡人というイメージが強い皇太后の称号を使用することは避けるべき」という見解が出たため、新称号を創設する運びとなった。 上皇后となって1か月が経過した後、2019年(令和元年)6月8日に宮内庁病院で心臓の検査を受けた。この検査は白内障の手術を受けるために行われた血液検査において、心不全の診断指標であるBNP値が上昇していたことから実施された。専門医による診断の結果、中等度の三尖弁逆流症、軽度の僧帽弁逆流症及び不整脈の所見が認められた。その後、上皇との同伴で京都府での「孝明天皇山陵及び明治天皇山陵に親謁の儀」を済ませた後の6月16日に右眼の白内障手術を、6月23日に左眼の白内障手術を受けた。以後は、目の保護のためサングラスをつける。 2020年(令和2年)1月2日、夫の上皇明仁、天皇徳仁と皇后雅子および他の皇族らと共に、皇居での新年一般参賀に参加。夫の上皇とともに上皇后となって以降、初めて公の場で姿を見せた。同年3月31日、上皇と共に仮住居となる高輪皇族邸(高輪仙洞仮御所)に引越した。それ以降、新型コロナウイルスの影響により、ほとんど外出を控えるようになり、国民の目に触れることも少なくなっていた。同年9月11日、定期健診のため宮内庁病院に赴いた。 2022年(令和4年)4月26日、夫の上皇明仁とともに静養先の葉山御用邸を出発し、赤坂の仙洞御所(旧赤坂御所)に引っ越した。 2024年6月3日、宮内庁の黒田武一郎次長は定例記者会見で、新型コロナウイルスに感染していることが確認された、と発表した。 年譜1934年(昭和9年)10月20日、東京府東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)の東京帝国大学医学部附属病院にて誕生。 1939年(昭和14年)、大和郷幼稚園に入園(文京区本駒込)。 1939年(昭和14年)、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園に編入園(千代田区六番町)。 1941年(昭和16年)、雙葉学園雙葉小学校に入学。 1944年(昭和19年)、乃木高等女学校附属小学校(現・湘南白百合学園小学校)に編入学(神奈川県藤沢市)。
1945年(昭和20年)5月、軽井沢第一国民学校(現・軽井沢町立東部小学校)に編入学。 1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業。 1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院中等科を卒業。 1955年(昭和30年)3月、聖心女子学院高等科を卒業。 1957年(昭和32年)、聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現・英語英文学科英語英文学専攻)を卒業。 1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王(当時)と成婚。皇太子妃冊立。
1960年(昭和35年)2月23日、浩宮徳仁親王(第1子/長男、第126代天皇)を出産。 1965年(昭和40年)11月30日、礼宮文仁親王(第2子/次男、秋篠宮)を出産。 1969年(昭和44年)4月18日、紀宮清子内親王(第3子/長女、黒田清子)を出産。 1989年(昭和64年)1月7日、義父の昭和天皇崩御。皇太子明仁親王の皇位継承による第125代天皇践祚に伴い皇后冊立(立后)。 2019年(令和元年)5月1日、明仁の退位に伴い(皇室典範特例法による上皇)、上皇后となる。 外国訪問単独訪問2002年(平成14年)9月28日 - 10月3日、
2014年(平成26年)12月11日 - 12月13日、
明仁との訪問
2024/06/19 19:04更新
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kougou michiko
皇后美智子と同じ誕生日10月20日生まれ、同じ東京出身の人
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