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織田幹雄の情報 (おだみきお)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

織田幹雄の情報(おだみきお) 陸上競技/三段跳び 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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織田 幹雄さんについて調べます

■名前・氏名
織田 幹雄
(読み:おだ みきお)
■職業
陸上競技
三段跳び
■織田幹雄の誕生日・生年月日
1905年3月30日 (年齢1998年没)
巳年(へび年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
広島出身

織田幹雄と同じ1905年生まれの有名人・芸能人

織田幹雄と同じ3月30日生まれの有名人・芸能人

織田幹雄と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


織田幹雄と関係のある人

山内リエ: 跳躍技についての正式な指導を受けたのは女学校4年の時、郷土の先輩・織田幹雄の講習会に参加したのが最初。


大島鎌吉: 関西大学法律科に進学し、アムステルダム・オリンピック予選会を兼ねた全日本選手権で走幅跳2位、三段跳3位となるも選に漏れた(この時五輪選手に選ばれた織田幹雄は三段跳びで日本人初の金メダリストとなった)。


鎧坂哲哉: 2017年 第51回織田幹雄記念国際陸上競技大会 5000m 2位 13分32秒16


八田一朗: 同郷の織田幹雄は早稲田の一学年上にあたる。


南部忠平: 1924年(大正13年)にはパリオリンピックの代表選考会に出場し、三段跳で織田幹雄を破って優勝したが、「織田に勝ったら殴られる」という噂を鵜呑みにして札幌に逃げ帰ったため代表選手には選ばれなかった。


小掛照二: 同郷の先輩・織田幹雄(アムステルダムオリンピック(1928年))、から南部忠平(ロサンゼルスオリンピック(1932年))、田島直人(ベルリンオリンピック(1936年))まで三大会連続で金メダルを獲り、当時は日本のお家芸だった三段跳を教師の勧めで始める。


土井杏南: 4月の織田幹雄記念国際陸上競技大会の100mに11秒64で3位入賞すると、6月の第103回日本陸上競技選手権大会では11秒72で2位、9月の全日本実業団対抗陸上競技選手権では11秒74で優勝した。


土井杏南: 高校2年に進級後、初の大会となった4月29日の織田幹雄記念国際陸上競技大会(広島広域公園陸上競技場)グランプリ種目の女子100mに出場、予選で11秒53、A決勝で11秒50をマーク、高校の先輩でもある高橋萌木子が保持していた高校日本記録を続けて更新 すると、5月6日のゴールデングランプリ川崎(川崎市等々力陸上競技場)ではシニア国際大会初出場、女子100mではアリソン・フェリックス(


松川尚瑠輝: いだてん〜東京オリムピック噺〜(2019年) - 織田幹雄


円谷幸吉: しかし、かねてより円谷のスピードに着目していた織田幹雄は、マラソンを走ることを勧めた。


岩出玲亜: 世界ハーフマラソンの後も織田幹雄記念国際陸上競技大会を始めとしてトラックレースに出場し、10月26日の実業団女子駅伝西日本大会に3区走者として出場した。


深井瞬: 陸上競技:2009年4月29日、広島広域公園陸上競技場で行われた、第43回織田幹雄記念国際陸上競技大会。


ダグラス=マッカーサー: 金メダルを三段跳で獲得した織田幹雄は終戦時に、その折のアメリカ選手団団長のマッカーサーが占領軍の最高司令官であったことに驚いたという。


田島直人: 兄・田島元も三段跳の日本チャンピオンになったことのあるジャンパーで、旧制広島一中時代の織田幹雄と親交があり岩国中学に来てよく一緒に練習した。


円谷幸吉: 西内が円谷を勧誘したのは、当時の自衛隊体育学校校長から推薦を受けたオリンピック強化本部長の織田幹雄が「ときどき見てやってくれないか」と前年6月に依頼したことによる。


西田修平: 和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)卒業後、織田幹雄に感化されて早大理工科に進学。


円谷幸吉: 寺沢は後年、円谷の選出について「みんな、期待はしていなかったと思います」と述べ、実際の選考も織田幹雄の推薦で決定するまで難航したとされる。


権藤博: 織田幹雄が「何とかコイツを東京オリンピックに出せないものか。


塚原直貴: 第43回織田幹雄記念国際陸上競技大会


田島直人: 織田幹雄・南部忠平に続く日本人選手による3大会連続での金メダル獲得であり、リーフェンシュタールの「民族の祭典」にも収録されている。


八田一朗: アメリカスポーツ界を見学した織田幹雄の助言を受け1950年、日米対抗試合開催。


山内リエ: 織田幹雄は「山内さんは人見絹枝亡き後のわが国女子陸上界が生んだ偉才である。


塚原直貴: 第49回織田幹雄記念国際陸上競技大会


南部忠平: 千里山へと定住し、当時在住していた織田幹雄と共に関西大学運動場で猛練習を重ね、1932年(昭和7年)8月4日のロサンゼルスオリンピックの三段跳では優勝(金メダル)の快挙を成し遂げた。


サムエル=ワンジル: 入社直後2005年4月の兵庫リレーカーニバル10000mで27分32秒43、翌週の織田幹雄記念国際陸上競技大会5000mで13分12秒40と、自己ベストを立て続けに記録した。


福島千里: 100m:11秒21(2010年4月29日/織田幹雄記念国際陸上競技大会)日本記録


鎧坂哲哉: ニューイヤー駅伝優勝後は、出身地広島県で行われる第51回織田幹雄記念国際陸上競技大会グランプリ男子5000mで準優勝(日本人1位)、旭化成陸上部の本拠地で行われるゴールデンゲームズinのべおか男子10000mで優勝を果たすなど復調傾向にある。


川本信正: 府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)を経て1931年東京商科大学(現・一橋大学)を卒業し、織田幹雄の推薦により読売新聞に入社。


市川華菜: 2011年に入ると、4月の織田幹雄記念国際陸上競技大会で追い風参考ながら女子100mで11秒28を記録。


ディーン元気: 2012年4月29日に広島広域公園陸上競技場で行われたロンドンオリンピック日本代表選考会を兼ねた第46回織田幹雄記念国際大会において、派遣標準A記録を突破し、村上幸史のベスト(83m53、当時)を超え、日本歴代2位(当時)となる84m28を投げた。


織田幹雄の情報まとめ

もしもしロボ

織田 幹雄(おだ みきお)さんの誕生日は1905年3月30日です。広島出身の陸上競技
三段跳びのようです。

もしもしロボ

現在、卒業、兄弟、結婚、引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1998年に亡くなられているようです。

織田幹雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日 - 1998年(平成10年)12月2日)は、日本の陸上選手、指導者。広島県安芸郡海田町出身。1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリスト。

「日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人初のオリンピック金メダリストでもある。織田の金メダルにより、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳した。早稲田大学時代に競技会のプログラムを作る際、織田が「三段跳」と訳した。三段跳では、織田(1928年五輪)・南部忠平(1932年五輪)・田島直人(1936年五輪)と3大会連続で金メダルを獲得したことから、当時は、「日本のお家芸」とも言われた。なお、南部と織田は終生の友人であり、田島は織田の影響で三段跳を始めた関係でもある。「陸上の神様」、あるいは「日本陸上界の父」と呼ばれ、戦後日本全国で陸上競技を指導・普及した、いわば、育ての親のような存在である。国際オリンピック委員会オリンピック功労賞受賞。

文化功労者、広島県名誉県民、安芸郡海田町名誉町民、東京都名誉都民、渋谷区名誉区民。最終学歴は早稲田大学商学部卒業。朝日新聞社に入社し最終的には朝日新聞運動部部長、のち早稲田大学教授を務めた。

実兄は元中国電力筆頭理事で小水力発電メーカーを立ち上げた実業家の織田史郎。妻は貴族院議員・中村純九郎の三女。実業家で第7代住友財閥総理事の古田俊之助は義兄。妻の伯母は天文学者・寺尾寿の先妻。長男の正雄と次男の和雄は共に父・幹雄関連の著書で名を連ね関連イベントに登場する。正雄は日独協会理事を務めドイツ関連の書籍をいくつか出している。一方で二人は、上皇明仁の学友(正雄は学習院中等科で同級生、和雄は2歳後輩のテニス仲間であり常陸宮正仁親王と同級生)として知られ、上皇后美智子とを繋いだ関係者でもある。

1905年(明治38年)、広島県安芸郡海田市町(現海田町稲荷町)に生まれた。

海田尋常小学校(現海田町立海田小学校)へ入学、在学中に海田市町と隣の広島市船越村の尋常小学校3校の合併で鼓浦尋常高等小学校 ができ同校を卒業する。なお鼓浦尋常高小の後進は広島市立船越小学校であるが、この経緯から織田の出身校は海田小で統一されている。尋常小学校時代に安芸郡の体育大会での200m走で優勝している。怒った顔を見たことがないといわれるほど温厚な人物だったが、小学校時代から人一倍負けず嫌いだった。

1918年(大正7年)、広島市中心部にある広島県立広島中学校(のち県立広島第一中、現広島県立広島国泰寺高等学校)へ入学、同年1年時に校内の8マイルマラソン(約13km)で優勝している。ただ当時同校には、陸上競技部は存在しておらず、足に自信があった織田は西日本で一番強かったサッカー部へ入部する。第4代日本サッカー協会会長の野津謙や広島カープの設立で知られる谷川昇はサッカー部の6年先輩、サッカー日本代表選手の深山静夫は5年先輩にあたる。利き足は左だったが両足でボールを蹴ることが出来、入部当初は試合に出られなかったが3年生からフルバック(DF)や左ウイング(FW)など様々なポジションで試合に出られるようになる。のちの陸上跳躍競技でも織田はこの左足 を使うことになっていった。

1920年(大正9年)、広島一中3年時にアントワープ五輪陸上十種競技代表の野口源三郎が広島で講習会を開くこととなり、参加することになった。この時に織田は走高跳で自分の身長(当時155cm)より高く飛んでみせ、それを見た野口から褒められたことが陸上へ進むきっかけとなった。野口の指導を受けた5日間を記したノートは「原点ノート」と呼ばれ、海田町ふるさと館に展示されている。

1921年(大正10年)広島一中4年時、徒歩部(陸上部)ができたことから、サッカー部を辞め徒歩部へ入部した。当時は強豪だったサッカー部がグラウンドを占拠したことから隅で練習を積み、また徒歩部には指導者がいなかったため本屋を歩きまわり独学で練習した。走幅跳の空中での動作がうまくいかず、自宅近くを流れる瀬野川に向かって跳び、足の振り方を練習した。この年、上海で開かれた第5回極東選手権競技大会で、日本の走高跳陣は惨敗した。織田は自分の力なら十分入賞できることを知って残念がった。織田の記録は地方に埋もれたままだった。上海からの帰途、広島に立ち寄った極東大会のサッカー代表の中に十種競技をやっていた佐々木等がいた。指導を受けた織田は何をやっても佐々木を凌ぎ、走高跳では日本記録を軽く超えた。びっくりした佐々木が惜しいことをしたと雑誌『運動界』に織田を紹介した。

1922年(大正11年)、広島一中5年の時、9月に大阪で神戸高商主催の全国中等学校陸上競技大会が開かれることを新聞で知る。矢もたてもたまらず校長室に行き、弘瀬時治校長に「全国大会に参加させてください」と直談判。弘瀬から「参加させてもいい。しかし本校の方針は参加させるだけではいかん。勝つ者しか参加させない主義である。キミは勝つ自信があるのか」と問われた。「勝てるかどうかわかりません」と言えば参加のチャンスは失われると考えた織田は思わず「絶対に全国制覇する自信があります」と答えた。弘瀬は「そんなに自信があるなら行け。石にかじりついても勝ってこい」と激励し「ところで遠征する金はあるのか」と聞いた。「ありません」と答えると弘瀬はポケットから70円を出し、「これでがんばってこい」とお金を手渡した。広島一中はサッカー部の全盛時代で陸上部は創部二年目で日陰の存在、部費は30円だった。70円は大金で織田は感激のあまり体が震えた。早速十数人の部員を集めて「どうしても勝とう」と誓い合った。夏休みの40日間、暑い広島の夏にサッカー部が朝夕の涼しい時間を練習時間に当てられ、陸上部が割り当てられたのは午後1時から3時まで。部員は日射病で次々に倒れ最後までやり抜いたのは織田と1年先輩の沖田芳夫の二人だけ。織田はもともとジャンプが専門だったが部員がいなくなったため、あらゆる種目に取り組んだ。こうして広島一中は全国中等学校陸上競技大会に織田と沖田に貫田武を加え、たった3人で初参加し、初優勝を果たし、織田自身も走高跳と走幅跳で優勝した。織田と沖田は中国地方の大会ではほぼ二人だけで全競技勝利しており、のち「広島一中の双璧」と謳われる。

一か月後の11月、17歳の時に広島高師で行われた第6回極東選手権競技大会一次予選会において走高跳1m73、走幅跳6m29の日本新記録を樹立、三段跳は13m38で日本記録にあと7cm届かなかった。灼熱の猛練習が名選手への道を拓いた。

1923年(大正12年)、家庭の経済的理由から授業料のいらない広島高等師範学校臨時教員養成所へ進学する。なお沖田はこの年に進学しており2人共1922年度つまり同年度に広島一中卒業ということになる。同年、第6回極東選手権に日本代表として初選出。うち広島出身者は織田と沖田、浅岡信夫ら5選手だった。初の国際競技会出場だった織田は走幅跳、三段跳で優勝。当時の毎日新聞は「日本一のジャンパー」「跳躍の鬼才」「ジャンプの麒麟児」と謳った。日本体育協会は「此の大会の偉大なる収穫は日本の陸上及び水泳競技においてようやく世界的レベルに至った一事と、陸上の織田幹雄、水泳の高石勝男と天才的少年が活躍したことである」と評した。

1924年(大正13年)広島高師臨教2年時、パリ・オリンピックに出場。五輪日本選手団は陸上・水泳・テニス・レスリングの全28人で、織田は跳躍では唯一の日本代表だった。当時の日本陸上は世界の情勢に程遠く、オリンピック村で他国のチーム関係者に話を聞いて驚くような状況だった。織田は走高跳では予選落ちするも、三段跳で14m35(日本新記録)をたたき出し、日本陸上初の入賞(6位)を果たした。

1925年(大正14年)、奨学金を得て第一早稲田高等学院(現早稲田大学高等学院)へ進学、早稲田大学競走部に所属する。同郷で後に"日本レスリング界の父"と呼ばれる八田一朗は同学校の一学年下、同じく同郷で後に日本水泳連盟会長となる藤田明も後輩にあたる。競走部には広島一中の先輩で親友であった沖田(1923年入部)、そして南部忠平(1924年入部)がおり、特に南部とは以降70余年に及ぶ終生の親友となり兄弟よりも仲がいいと言われお互い切磋琢磨し大きな業績を残した。五輪に日本代表として出た経験を持つ織田だったが、競走部では1年から雑用をやったことを回想している。在学中、走幅跳および三段跳で日本記録を更新しただけでなく、第7回極東選手権競技大会予選会では十種競技で、第13回日本陸上競技選手権大会では400mリレー(山口直三・大沢重憲・織田・南部)で日本新を記録している。

1928年(昭和3年)、沖田の後を追う形で早稲田大学商学部に進学する。引き続き早大競走部に在籍、沖田・南部らと競走部黄金期の立役者となり、早稲田スポーツの先駆者となった。自身の活躍と共に陸上のコーチはいない時代のため、中島亥太郎や織田を慕って入部してきた西田修平ら後輩を指導した。当時早大競走部部長であり同年に発足した日本学生陸上競技連合初代会長で、後に1940年幻の東京オリンピック招致に動いた山本忠興は、織田を通じて陸上競技の知識を習得した。

1929年(昭和4年)、早大競走部主将となる。以降も一線級の陸上競技者として活躍した。

1931年(昭和6年)、大学を卒業し朝日新聞社に入社し大阪朝日新聞社運動部に所属した。同年第1回一般対学生陸上競技大会(神宮)にて、当時の三段跳の世界記録(15m58)を樹立した。なお、織田はいくつも日本記録を更新しているが、世界記録を更新したのはこの記録のみで、この記録も後に南部が更新することになる。また同大会では南部も走幅跳で世界記録を更新している。

1932年(昭和7年)3月、台湾での指導中に足を負傷してしまい、これが織田の選手寿命を縮める結果となった。

同1932年、ロサンゼルスオリンピックが開幕、織田は五輪日本選手団の旗手を務め、陸上競技日本代表のコーチ・主将・選手として出場したものの、選手として出場した三段跳では記録が振るわなかった。ただ三段跳では南部が15m72の世界新記録を樹立し金メダルを、大島鎌吉が銅メダルを獲得している。

五輪が終わった同1932年11月、山本忠興を媒酌人として結婚した。以降、怪我もあり陸上の第一線から退き、1934年(昭和9年)第34回日本陸上競技選手権大会での走高跳1m85を飛んで2位に入ったことが記録として最後のものとなった。

その後も織田は陸上競技指導者として活躍した。当時は指導者はおらず、陸上コーチは織田が中心になって始めた。現役時代の戦前から、一線を退いた戦後にかけて主に朝日新聞・毎日新聞主催で、南部らと県庁所在地で行かない所はないというくらい陸上の指導に全国を巡回した。この間、戦争へ向かって進む中でスポーツ界に暗い影を落とす。その一つが、1938年(昭和13年)東京五輪開催権返上であった。織田は、コーチとして指導する中でアメリカに五輪の跳躍競技で勝てると確信していたが、準備委員会は機能しておらず東京の競技場の建設も止まり、国中が開催する雰囲気ではなかった、と回想している。更に太平洋戦争では選手たちが死亡している。

終戦4ヶ月後にあたる1945年(昭和20年)12月9日、織田の提案で東京大学競技場にて競技会が開かれ陸上競技愛好家が全国から集い織田も走高跳に出場した。同日、平沼亮三を会長として日本陸上競技連盟(JAAF)新組織発足、織田はJAAF強化担当ヘッドコーチに就任する。つまりこの日が日本陸上界復活の日となった。

戦後も織田は世界を相手に戦える人材の育成に奔走した。1948年(昭和23年)、日本オリンピック委員会(JOC)委員に就任。同年に行われたロンドンオリンピックには日本はまだ参加が許されず、また日本人の海外渡航も未だほとんど許されない時代、同郷の松本瀧藏らの支援を受け、この年強化の見識を広めるため単身5ヶ月に渡り欧米競技会を視察した。

1949年(昭和24年)、戦後スポーツ最初の国際試合となった全米水泳選手権に古橋廣之進ら一行と渡米しアメリカのスポーツ界を見学、そこで今後はスピード時代であると痛感し陸上界に進言し、また織田の大学の後輩でもあるアマチュアレスリングの八田一朗にも進言すると八田は翌1950年にアメリカレスリングチームを日本に招いた。それまで力一辺倒の日本レスリングにアメリカから学んだ技が加わり、日本レスリングは急激な進歩を遂げた。同1949年、米国体育協会(AAU)のダニエル・J・フェリス(ダン・フェリス)事務局長、GHQ民間情報教育局(CIE)のウィリアム・ニューフェルド(英語版)体育官に交渉して、米国陸上代表と一緒に欧州遠征に向かい、欧州の新しい技術や世界の新しい情勢を吸収する。招かれたスペインでは、織田はルイス・フェリペ・アレタ(スペイン語版)に跳躍技を指導した。後にアレタは東京オリンピック走幅跳でスペイン陸上史上初の入賞(6位)を果たしたことから、スペインチーム団長だったフアン・アントニオ・サマランチは織田の自宅にお礼に来たという。

これらの渡航資金は、カリフォルニアのフレッド・イサム・ワダ(和田勇)やハワイの米谷克巳などアメリカ在住の日系人たちの支援によるものである。和田には後にその金を返そうとすると第二の故郷である和歌山の学校に寄付してほしいと言い決してお金を受け取らなかった。第442連隊戦闘団出身で歯医者だった米谷には、織田がロンドン五輪視察前に立ち寄ったハワイでみすぼらしいスーツを着ていたためスーツと帽子を新調してもらっている。欧州遠征する選手全員のスーツをプレゼントしたのも米谷である。

1950年(昭和25年)、国際陸上競技連盟(IAAF)への復帰が許されIOCでオリンピックへの参加が許可されると、織田ヘッドコーチが適時コーチを選出する形でオリンピックだけを目指す強化体制がとられた。男女別に正月返上の強化合宿を行う。1951年(昭和26年)戦後初の海外遠征となったニューデリーアジア競技大会から1952年(昭和27年)ヘルシンキオリンピック、1954年(昭和29年)マニラアジア競技大会まで連続、陸上競技日本代表監督を務める。また1951年7月、14年ぶりに復活させた日米対抗戦を全国12ヶ所で18日間開催、この競技会は戦後の強化に大いに貢献して数十年の遅れを一年で回復したと言われる。

1958年(昭和33年)、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場が開場、「織田ポール」(後述)が建てられた。同年開催の東京アジア競技大会がこけら落としとなり、織田は聖火ランナーの最終走者を務め、聖火台に点火した。

1959年(昭和34年)、西田修平に代わりJAAF強化委員長に就任し、東京オリンピックまでの5年間の強化を一任された。

1960年(昭和35年)ローマオリンピックでは入賞者0と惨憺たる成績で、織田は中体連・高体連・学連・実業団という一貫したレールの上での強化を考え、強化委員会・指導委員会・研究委員会の3つの委員会が協力して強化にあたるという構想を発表する。オリンピック東京大会選手強化指導本部を設置し本部長を兼任して組織を統合した。強化指導本部は4年間で成功をおさめるため、世界の優秀なコーチや研究者を招き、科学的な強化法に役立つ理論と実践を学ぶ。また専任コーチの設置、トレーニングセンターの建設などの強化方針を決めた。特に世界的なコーチといわれたアーサー・リディアード(英語版)のマラソントレーニング方式は、高橋進や中村清らに大きな影響を与え、後の日本マラソン界の繁栄に寄与した。

陸上界から完全に引退していた同郷の小掛照二をJAAF強化コーチとして復帰させたり、棒高跳に出場した盛田久生のために最先端の特注品ポールを五輪直前に渡米し作らせる など、ギリギリまで陸上強化に尽力した。

また陸上競技メダル獲得のため、当時身体能力に優れていたプロ野球入団前の野球選手 に声をかけていた。その中で有名なのが、権藤博である。織田は「何とかコイツを東京五輪に出せないものか。出れば金メダルは確実」「400mハードルの選手に転向してほしい」と要請をした。具体的な競技種目まで話が進んだのは権藤のみである。また長嶋茂雄は「君のスピードなら陸上の中距離に転向すればメダルも夢ではない」と声をかけられたと証言している。

1964年(昭和39年)、東京オリンピックでは織田は陸上競技日本代表総監督(JAAF強化委員長)として指揮を執し、南部が陸上競技監督として活躍した。円谷幸吉をマラソンに転向させ、織田の狙い通り、円谷、君原健二、寺沢徹の三名をマラソン代表に選出、円谷が銅メダルを獲得した。

1965年(昭和40年)に母校である早稲田大学教授に就任し、またIAAF技術委員などを務め長く後進を指導、選手育成に尽力した。国際陸連の技術委員を長く務めた織田の理論家としての名声は海外でも高く、東京・渋谷の自宅に教えを請いに来る人は、日本人より外国人の方が多かった。1980年(昭和55年)モスクワオリンピックボイコット騒動の時には、当初から反対つまり五輪参加に向けて動いていた。同1980年、織田を会長に日本マスターズ陸上競技連合が創立。1989年(平成元年)、JAAF名誉会長に就任し死去するまで務めた。

織田は晩年、色紙にはこの言葉を好んで書いた。

また、織田は1986年4月には以下のものを残している。

陸上競技訓

織田は、晩年を夫妻で神奈川県三浦市油壺に暮らしていたが、妻の死を機に藤沢市鵠沼の有料老人ホームに入居した。1998年(平成10年)12月2日、織田は湘南鎌倉総合病院にてその生涯を閉じた。93歳没。

1998年12月25日に国立競技場で織田のお別れ会が開かれた。墓所は鎌倉市の東慶寺に在る。

1959年に紫綬褒章を受章している。1976年IOCオリンピック功労章を授与。1988年陸上界初の文化功労者に選出。1984年渋谷区名誉区民、1985年東京都名誉都民、1986年故郷の安芸郡海田町名誉町民、1989年広島県名誉県民、広島市名誉市民に顕彰。

織田の名前を冠したものがいくつか存在する。

「織田幹雄記念国際陸上競技大会」 - 広島広域公園陸上競技場で毎年4月末に開催される日本グランプリシリーズ。若いアスリートに「織田に続け」の願いを込められた大会であり、織田が存命だった1967年から開催されている。

「織田幹雄賞」 - 全日本マスターズ陸上競技選手権大会最優秀選手に贈られる賞。

東京にあるものは以下のもの。

「織田ポール」 - オリンピックにおける日本人初の金メダル獲得という偉業を記念して、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場開場年である1958年、トラック内に優勝記録と同じ長さの高さ15m21cmのポールが立てられた。この織田ポールは2013年の旧国立霞ヶ丘競技場陸上競技場解体と共に味の素ナショナルトレーニングセンター(東京都北区西が丘)に移設されている。

「織田フィールド」 - 代々木公園陸上競技場の愛称。

「織田幹雄記念陸上競技場」 - 母校早稲田大学の所沢キャンパス内にある早稲田大学競走部練習グラウンド。これは2005年に大先輩である織田の生誕100年記念として改名したもの。

地元広島県にもいくつかある。

「織田幹雄記念ポール(織田ポール)」 - 広島広域公園陸上競技場にも国立競技場と同サイズのポールがある。

地元海田町のいくつかの施設の国旗掲揚台メインポールは織田の金メダル記念として高さ15m21cmのものが立てられている。現状は母校海田町立海田小学校、海田総合公園内の野球場及びテニスコートの3箇所。

海田総合公園には「顕彰碑」と、「記録体感ゾーン」と呼ばれる15m21cm時の足型3つが地面に付けられている。

海田町ふるさと館には、織田の遺品の幾つかが展示されている。

「織田幹雄スクエア」- 2020年4月1日、旧千葉家住宅の南隣に、海田公民館と「織田幹雄記念館」の複合施設としてオープンした。JR海田市駅の北口から徒歩5分にある、3階建ての建物のうち、2階の100平方メートルの一室が「織田幹雄記念館」となっている。

織田は広島のスポーツ界が生んだ名選手の筆頭に挙げられる人である。特に、織田の故郷の海田町では地元が産んだヒーローとして扱われ、生き様を学校の教材として用いたりしている。

アムステルダム五輪表彰式

ダグラス・マッカーサーとの出会い

東京五輪聖火リレー最終ランナー

新聞記者

以下、早稲田大学競走部が取りまとめた世界および日本記録 を中心に記載する。

『陸上競技 其の本質と方法』(旺文社、1942/9)

『陸上競技(青年スポーツ新書)』(旺文社、1946/8)

『世界記録を目ざして(スポーツ叢書)』(御影文庫、1948/5)

『オリンピック物語』(朝日新聞社、1948/8)

『陸上競技(旺文社スポーツ・シリーズ)』(旺文社、1949/9)

『新らしい陸上競技 上巻 競走篇』(青雲社、1949/11)

『欧米スポーツ行脚』(朝日新聞社、1950)

『陸上競技 改訂版(旺文社スポーツ・シリーズ)』(旺文社、1951)

『オリンピック物語 改定版』(朝日新聞社、1952)

『スポーツの見方(入門百科叢書)』(大泉書店、1952/5)

『スポーツ(岩波新書〈第101〉)』(斎藤正躬(共著)、岩波書店、1952)

『陸上競技 3訂版(旺文社スポーツ・シリーズ)』(旺文社、1952)

『陸上競技 4訂版(旺文社スポーツ・シリーズ)』(旺文社、1954)

『陸上競技五十年』(時事通信社、1955)

『世界記録は破れる 陸上競技』(万有出版、1956/5)

『跳躍一路』(日本政経公論社、1956/5)

『私の信条 スポーツ精神』(ダヴィッド社、1957/10)

『陸上競技 重版(旺文社スポーツ・シリーズ)』(旺文社、1957)

『オリンピック(現代教養文庫)』(社会思想研究会出版部、1959/4)

『陸上競技 重版(旺文社スポーツ・シリーズ6)』(旺文社、1961)

『陸上運動(少年少女体育全集 ; 4)』(ポプラ社、1962)

『陸上競技 紙上技術コーチ』(ケン・ドーティ(共著)、ベースボールマガジン社、1962/2)

『全スポーツの筋力と柔軟性ためのコンディショニングの運動99例』(ケン・ドーティ(共著)、ベースボールマガジン社、1962)

『陸上競技 5訂版(旺文社スポーツ・シリーズ)』(旺文社、1963)

『東京オリンピック 少年少女20世紀の記録 22』(織田幹雄(著)、岸本健(写真)、あかね書房、1965/5)

『陸上競技百年』(時事通信社、1966/9)

『陸上競技(旺文社スポーツ教室)』(旺文社、1968)

『陸上競技百年 改訂増補版』(時事通信社、1970)

『金メダル』(早稲田大学出版部、1972/7)

『21世紀への遺言』(ベースボールマガジン社、1975/4)

『最新陸上競技入門』(ベースボールマガジン社、1975/6)

『陸上競技 改定版(旺文社スポーツ教室)』(旺文社、1976/1、ISBN 978-4010571552)

『陸上競技百年 改訂新版』(時事通信社、1976/5)

『わが陸上人生』(新日本出版社、1977/12)

『陸上競技 改定版(旺文社スポーツ教室)』(旺文社、1980/6)

『東京オリンピック 少年少女20世紀の記録 22』(織田幹雄(著)、岸本健(写真)、あかね書房、1982/4、ISBN 978-4251080820)

『陸上競技(カラーブックス スポーツのみかた 666)』(山田真市(共著)、保育社、1984/12、ISBN 978-4586506668)

『陸上競技わが人生』(ベースボールマガジン社、1991/10、ISBN 978-4583029351)

『織田幹雄 わが陸上人生(人間の記録 15)』(日本図書センター、1997/2、1977年新日本出版社(刊)『わが陸上人生』の改題、ISBN 978-4820542544)

『陸上競技ヨーロッパ転戦記 : 日本は強かった 織田幹雄日記から』(織田幹雄(著)、織田正雄・織田和雄(編集)、有斐閣アカデミア、2001/12)

『陸上競技 理論と技術』(織田幹雄(編)、朝日新聞社、1948/6)

『欧米スポーツ行脚』(朝日新聞社、1950)

『陸上競技読本』(日本陸上競技連盟普及部(編)、万有社、織田幹雄が三段跳の項を執筆、1950)

『トラック技術(講談社スポーツ叢書)』(ドン・カンハム(著)、織田幹雄(翻訳)、大日本雄弁会講談社、1953/3)

『フィールド技術(講談社スポーツ叢書)』(ドン・カンハム(著)、織田幹雄(翻訳)、大日本雄弁会講談社、1953/5)

『スポーツと冒険物語(新編・日本小国民文庫 10)』(織田幹雄・高橋健二(編)、新潮社、1957/1)

『東京オリンピック・ガイド』(織田幹雄・鈴木良徳(責任編集)、旺文社、1963/7)

『記録をうちたてた人々(さ・え・ら伝記ライブラリー 6)』(鈴木良徳(著)、さ・え・ら書房、1965/10、ピエール・ド・クーベルタン、ジム・ソープ、パーヴォ・ヌルミ、織田幹雄、人見絹枝、ジェシー・オーエンス、フランシナ・ブランカース=クン、エミール・ザトペックを紹介、ISBN 978-4378018065)

『疾走スピード 技術・トレーニングの徹底研究』(ジョージ・B.ディンティマン(著)、織田幹雄・窪田登(翻訳)、講談社、1972/9)

『40歳からのランニング入門』(織田幹雄(監修)、地球書館、1973/9)

『はしる (かがくのとも特製版)』(阿部馨(文)、堀内誠一(絵)、織田幹雄(監修)、福音館書店、1973/9)

『競技者とコーチのための陸上競技ダイナミックス』(トム・エッカー(著)、佐々木秀幸(訳)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1974/4)

『陸上競技トレーニング教科書』(ゼノン・ヴァジニ(著)、清和洋子(訳)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1975/2)

『左ききのためのゴルフ入門』(ボブ・チャールズ(著)、川上哲治(翻訳)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1975/10、ISBN 978-4583016818)

『ハードル (陸上競技入門シリーズ ; 3)』(福本久雄(著)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1976/1、ISBN 978-4583016931)

『棒高跳 (陸上競技入門シリーズ ; 5)』(山崎国昭(著)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1976/1、ISBN 978-4583017020)

『走幅跳 (陸上競技入門シリーズ ; 6)』(丸山吉五郎(著)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1976/1、ISBN 978-4583017068)

『砲丸投・ハンマー投 (陸上競技入門シリーズ ; 8)』(西藤宏司(著)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1977/1、ISBN 978-4583017938)

『中長距離・障害 (陸上競技入門シリーズ ; 2)』(帖佐寛章・勝亦紘一(共著)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1977/2、ISBN 978-4583017488)

『走高跳 (陸上競技入門シリーズ ; 4)』(大西暁志(著)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1977/2、ISBN 978-4583017457)

『円盤投・ヤリ投 (陸上競技入門シリーズ ; 9)』(宮下桂治・金子今朝秋(共著)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1977/9、ISBN 978-4583017846)

『陸上競技トレーナー用教科書』(L.S.ホメンコフ(編著)、小野耕三(訳)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1978/11)

『運動力学による陸上競技の種目別最新技術』(トム・エッカー(著)、佐々木秀幸・井街悠共(訳)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1979/8)

『マラソン (陸上競技入門シリーズ ; 10)』(築地美孝(著)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1980/3、ISBN 978-4583017396)

『三段跳 (陸上競技入門シリーズ ; 7)』(関岡康雄(著)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1982/7、ISBN 978-4583016832)

『ザ・チャンピオン セバスチャン・コー物語』(セバスチャン・コー、デヴィッド・ミラー(共著)、佐藤亘(翻訳)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1983/1、ISBN 978-4583023052)

『炎のスプリンター 人見絹枝自伝』(人見絹枝(著)、織田幹雄・戸田純(編集)、山陽新聞社出版局、1983/2、戦前刊行の人見絹枝(著)『スパイクの跡』・『ゴールに入る』の主要部分を現代語訳にして再構成したもの)

『短距離 (陸上競技入門シリーズ ; 1)』(湯浅徹平(著)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1983/7、ISBN 978-4583017204)

『織田幹雄さんへのインタビュー 少年~選手~指導者時代を通して』(織田幹雄(述)、荒井貞光(編集)、広島都市生活研究会、1983/3)

『リラックス プレッシャーへの挑戦』(バド・ウィンター(著)、荒井貞光(翻訳)、織田幹雄(監修)、ベースボールマガジン社、1984/9、ISBN 978-4583024332)

『織田幹雄スポーツ資料目録 (広島市博物館資料調査報告書〈4〉)』(広島市企画調整局文化担当(編)、荒井貞光(監修)、広島都市生活研究会、1985/3)

『広島名誉県民小伝 織田幹雄』(渡辺靖彦(著)、中国新聞社、1991)

『人見絹枝 炎のスプリンター (人間の記録 32)』(織田幹雄・戸田純(編集)、日本図書センター、1997/6、1983年山陽新聞出版局(刊)『炎のスプリンター 人見絹枝自伝』の改題、ISBN 978-4820542735)

^ ハリナ・コノパッカ(ポーランド、女子円盤投。オリンピック女子陸上競技最初の金メダリスト)や、ジョン・クック(アメリカ合衆国、砲丸投)の表彰式の映像で、他より大きな金メダリスト所属国の国旗が確認できる。

^ 大会組織委員会発行の報告書の写真でこのことに気づいた中条が南部忠平(当時毎日新聞運動部長)に尋ねたところ、南部は自分が秩父宮下賜の日の丸(日章旗の出所については「秩父宮から「もし、織田が優勝したらこの日の丸で体をくるんでやれ」と下賜されたもの」というバリエーションがある)を運んだということになっている話を面白がり、「おもしろい話は、そのままにしておけばいいんじゃないの」という返事であったという。中条の文章は、ジャーナリストが古い文章や他人の言葉から適当な物語を引用することで間違った情報が固定化することの危険性を自戒とともに記す趣旨のものではあるが、南部の返答については「さすが大人物の南部さんでした」とコメントしている。

^ “強い者は美しい…織田幹雄の言葉 : 名言 : 旅 : 新 ...”. 読売新聞. (2014年1月4日). https://web.archive.org/web/20170326135702/http://www.yomiuri.co.jp/stream/?id=03076 2014年4月24日閲覧。 

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織田幹雄、山田真市『陸上競技』保育社、1984年。ISBN 9784586506668。 

東敏郎『スポーツ八十年史』日本体育協会、1959年。 

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中条一雄『ひとすじの青春』藤森書店、1978年。 

金枡晴海『広島スポーツ100年』中国新聞社、1979年。 

河野徳男『広島スポーツ史』財団法人広島県体育協会、1984年。 

『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第一巻』文藝春秋、1988年。 

『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第三巻』文藝春秋、1988年。 

『激動のスポーツ史⑦陸上競技』ベースボール・マガジン社、1989年。ISBN 9784583027753。 

『スポーツ20世紀⑤』ベースボール・マガジン社〈BB・MOOK143 「スポーツ20世紀」シリーズ5〉、2000年。 

読売新聞 2010年10月31日日曜版

特集 スポーツ県・広島(archive) - 広島県

織田幹雄(おだ みきお) 大正12年卒の人物 - 鯉城同窓会

スポーツに関する日本初の一覧

日本の夏季オリンピック金メダル

1928年アムステルダムオリンピックの日本選手団

いだてん〜東京オリムピック噺〜(演:松川尚瑠輝)

日本陸上競技選手権大会の記録一覧

広島県出身の人物一覧

広島県立広島国泰寺高等学校の人物一覧

早稲田大学高等学院の人物一覧

早稲田大学の人物一覧

織田幹雄 - 国際オリンピック委員会 (英語)Edit on Wikidata

織田幹雄 - オリンピックチャンネルEdit on Wikidata

織田幹雄 - Olympedia (英語)Edit on Wikidata

織田幹雄 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ (英語)Edit on Wikidata

織田幹雄 - 国際陸上競技連盟 (英語)Edit on Wikidata

織田幹雄 - TrackField.brinkster.net (英語)Edit on Wikidata

織田幹雄さん快挙から90年 努力、工夫で五輪金1号 - JOC

織田幹雄 - NHK人物録

『織田幹雄』 - コトバンク

織田幹雄 広島陸上人 – 一般財団法人広島陸上競技協会

1896: アメリカ合衆国 ジェームズ・コノリー (USA)

1900: アメリカ合衆国 マイヤー・プリンスタイン (USA)

1904: アメリカ合衆国 マイヤー・プリンスタイン (USA)

1908: イギリス ティモシー・エイハーン (GBR)

1912: スウェーデン グスタフ・リンドブロム (SWE)

1920: フィンランド ビルホ・ツーロス (FIN)

1924: オーストラリア ニック・ウィンター (AUS)

1928: 日本 織田幹雄 (JPN)

1932: 日本 南部忠平 (JPN)

1936: 日本 田島直人 (JPN)

1948: スウェーデン アルネ・オーマン (SWE)

1952: ブラジル アデマール・ダ・シルバ (BRA)

1956: ブラジル アデマール・ダ・シルバ (BRA)

1960: ポーランド ヨゼフ・シュミット (POL)

1964: ポーランド ヨゼフ・シュミット (POL)

1968: ソビエト連邦 ヴィクトル・サネイエフ (URS)

1972: ソビエト連邦 ヴィクトル・サネイエフ (URS)

1976: ソビエト連邦 ヴィクトル・サネイエフ (URS)

1980: ソビエト連邦 ヤチェク・ウドミュー (URS)

1984: アメリカ合衆国 アル・ジョイナー (USA)

1988: ブルガリア フリスト・マルコフ (BUL)

1992: アメリカ合衆国 マイク・コンリー (USA)

1996: アメリカ合衆国 ケニー・ハリソン (USA)

2000: イギリス ジョナサン・エドワーズ (GBR)

2004: スウェーデン クリスチャン・オルソン (SWE)

2008: ポルトガル ネルソン・エボラ (POR)

2012: アメリカ合衆国 クリスチャン・テイラー (USA)

2016: アメリカ合衆国 クリスチャン・テイラー (USA)

2020: ポルトガル ペドロパブロ・ピチャルド (POR)

2024: スペイン ホルダン・ディアス (ESP)

13 有池要介

14 鈴木文夫

15 甲斐義智

16 甲斐義智

17 服部譲次

18 松本兼次郎

19 鴻沢吾老

20 鴻沢吾老

21 鴻沢吾老

22 下田貞晴

23 表総悟

25 田島元

26 織田幹雄

27 村上国平

28 南部忠平

29 南部忠平

30 南部忠平

31 南部忠平

32 南部忠平

33 南部忠平

34 湊川捨三

35 原田正夫

36 原田正夫

37 原田和孝

38 原田正夫

39 原田正夫

40 湯浅徹平

42 金山源権

46 青田峯雄

47 川又英

48 佐川憲昭

49 佐川憲昭

50 田島政次

51 田島政次

52 田島政次

53 田島政次

54 久保敏行

55 照谷朝勾

56 園田裕四郎

57 園田裕四郎

58 小田海平

59 東徹

60 河野八郎

61 花田克己

62 河津光郎

63 ソビエト連邦の旗イゴール・テルオバネシアン

64 山田宏臣

65 岡崎高之

66 山田宏臣

67 山田宏臣

68 山田宏臣

69 小倉新司

70 小倉新司

71 小倉新司

72 川越孝悦

73 小倉新司

74 川越孝悦

75 藤原長

76 大沢新平

77 町田王

78 臼井淳一

79 松山治彦

80 臼井淳一

81 大村一光

82 臼井淳一

83 臼井淳一

84 臼井淳一

85 臼井淳一

86 臼井淳一

87 臼井淳一

88 柴田博之

89 柴田博之

90 森長正樹

91 下仁

92 森長正樹

93 志田哲也

94 朝原宣治

95 朝原宣治

96 田川茂

97 朝原宣治

98 市川岳史

99 稲富一成

00 森長正樹

01 渡邉大輔

02 寺野伸一

03 寺野伸一

04 寺野伸一

05 寺野伸一

06 藤川健司

07 荒川大輔

08 菅井洋平

09 荒川大輔

10 菅井洋平

11 菅井洋平

12 荒川大輔

13 大岩雄飛

14 嶺村鴻汰

15 菅井洋平

16 嶺村鴻汰

17 橋岡優輝

18 橋岡優輝

19 橋岡優輝

20 津波響樹

21 橋岡優輝(8m36)*

22 橋岡優輝

23 城山正太郎

24 橋岡優輝

*は大会記録

走高跳

棒高跳

走幅跳

三段跳

砲丸投

円盤投

ハンマー投

やり投

18 原川五郎

19 佐藤信一

20 佐藤信一

21 佐藤信一

22 塚越要

23 佐藤信一

25 織田幹雄

26 織田幹雄

27 織田幹雄

28 織田幹雄

29 織田幹雄

30 山県勝

31 柴田義敏

32 田島直人

33 原田正夫

34 大島鎌吉

35 田島直人

36 矢田喜美雄

37 岡田和好

38 金山源権

39 原田正夫

40 原田正夫

42 金山源権

46 古田康治

47 高橋久男

48 長谷川敬三

49 山田逸二

50 飯室芳男

51 飯室芳男

52 ブラジルの旗アデマール・ダ・シルバ

53 飯室芳男

54 小掛照二

55 小掛照二

56 小掛照二

57 小掛照二

58 広田義征

59 柴田宏

60 櫻井孝次

61 下哲

62 櫻井孝次

63 オーストラリアの旗イアン・トムリンソン(英語版)

64 河野光朗

65 具志堅興清

66 具志堅興清

67 村木征人

68 村木征人

69 村木征人

70 具志堅興清

71 浜本昌伸

72 井上敏明

73 井上敏明

74 井上敏明

75 小林裕信

76 井上敏明

77 植田恭史

78 中西正美

79 中西正美

80 中西正美

81 池上正雄

82 植田恭史

83 植田恭史

84 植田恭史

85 山下訓史

86 山下訓史(17m15)*

87 山下訓史

88 山下訓史

89 小倉敏郎

90 イギリスの旗ジョン・ハーバート(英語版)

91 スウェーデンの旗トルド・ヘンリクソン(英語版)

92 山下訓史

93 カナダの旗エドリック・フローラル(英語版)

94 小松隆志

95 山下訓史

96 山下訓史

97 杉林孝法

98 杉林孝法

99 角田憲一

00 小松隆志

01 杉林孝法

02 小松隆志

03 杉林孝法

04 杉林孝法

05 石川和義

06 稲葉広幸

07 杉林孝法

08 石川和義

09 杉林孝法

10 鈴木義啓

11 十亀慎也

12 岡部優真

13 梶川洋平

14 石川和義

15 石川和義

16 山本凌雅

17 山本凌雅

18 山下航平

19 山下航平

20 池畠旭佳瑠

21 山下祐樹

22 伊藤陸

23 池畠旭佳瑠

24 安立雄斗

*は大会記録

走高跳

棒高跳

走幅跳

三段跳

砲丸投

円盤投

ハンマー投

やり投

16 野口源三郎

17 竹内廣三郎

18 竹内廣三郎

20 三橋義雄

21 阪東誠吾

22 益田弘

23 小林武夫

25 織田幹雄

26 小山濠一

27 織田幹雄

28 斎辰雄

29 斎辰雄

30 斎辰雄

31 斎辰雄

32 斎辰雄

33 金木房雄

34 小椋啓治

35 和賀行男

36 和賀行男

37 和賀行男

38 藤口末光

39 佐藤不二男

40 佐藤不二男

42 小杉光

46 和賀行男

47 和賀行男

48 和賀行男

49 入野進

50 平井文夫

51 西内文夫

52 西内文夫

53 西内文夫

54 コリンズ

55 笹井烈

56 佐々木主税

57 宮尾増造

58 香月清

59 香月清

60 遠山惣平

61 鈴木章介

62 香月清

63 香月清

64 鈴木章介

65 野上征雄

66 葛西康二

67 落合三泰

68 呉阿民

69 中村彰志

70 鬼塚純一

71 鬼塚純一

72 生田正範

73 鬼塚純一

74 鬼塚純一

75 笠井淳

76 鬼塚純一

77 岩井寿史

78 岩井寿史

79 小林敬和

80 小林敬和

81 尾縣貢

82 尾縣貢

83 古城健

84 古城健

85 古城健

86 古城健

87 古城健

88 松田克彦

89 松田克彦

90 金子宗弘

91 金子宗弘

92 金子宗弘

93 金子宗弘

94 金子宗弘

95 金子宗弘

96 金子宗弘

97 武井壮

98 丸小野仁之

99 菅間友一

00 丸小野仁之

01 平田卓朗

02 石沢雅俊

03 平田卓朗

04 田中宏昌

05 田中宏昌

06 田中宏昌

07 田中宏昌

08 田中宏昌

09 池田大介

10 右代啓祐

11 右代啓祐

12 右代啓祐

13 右代啓祐

14 右代啓祐(8308)*

15 右代啓祐

16 中村明彦

17 中村明彦

18 右代啓祐

19 右代啓祐

20 中村明彦

21 中村明彦

22 奥田啓祐

23 丸山優真

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*は大会記録

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