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■名前・氏名 |
権藤博と関係のある人
谷繁元信: 一方で権藤博は「野村克也さんや巨人のV9を支えた森昌彦さんといった捕手本流タイプ。 日野茂: 1972年開幕前の3月23日、解説者の権藤博が稲尾和久監督に推薦したこともあり、黒い霧事件で戦力不足となった西鉄ライオンズへ移籍。 近藤貞雄: この野球観は中日時代の教え子であった権藤博が短命に終わったことから形成されたが、与那嶺監督時代に一軍と二軍でそれぞれ投手コーチを務めていたことから権藤にも継承され、1998年に横浜ベイスターズを日本一に導いている。 下柳剛: 入団当初は制球力に難のある速球派投手だったが権藤博(1991年 - 1993年の一軍投手コーチ)や根本陸夫(1993年・1994年の一軍監督)は、下柳の豊富なスタミナを活かした「毎日打撃投手、毎日中継ぎ登板」という過酷な投げ込みで克服させた。 秋間登: 特警ウインスペクター 第5話「襲う! 巨大怪鳥」(1990年) - 権藤博士 河原隆一: 監督が権藤博に交代し、チームがセ・リーグ優勝を果たした1998年シーズンは故障などで30試合の登板に激減し、防御率も5点台だったが、松井秀喜(巨人)・金本知憲(広島)など左の強打者を得意とした。 阿波野秀幸: 近鉄時代に投手コーチを務め、阿波野の絶頂期を知る監督の権藤博が阿波野を積極的に起用した。 杉浦忠: 1960年も31勝を挙げ、シーズン30勝以上を2度以上記録したのも杉浦以外にはスタルヒン、野口二郎、別所毅彦、杉下、稲尾和久、金田正一、権藤博だけの大記録を達成した。 谷川昌希: 権藤博や藤川球児を投手としての目標に挙げている。 吉井理人: 「コーチ経験を積んだ今、あらためて振り返ってその教えが参考になっている指導者は?」との問いには、野村と共に近鉄時代の投手コーチだった権藤博の名を挙げている。 今中慎二: 同シーズン後に権藤博一軍投手コーチが退団したことに伴い、一軍投手コーチに就任した。 伊奈努: 引退後は豊橋市内でうどん屋を経営し、共に中日の後輩である権藤博や星野仙一(但し、両名とも伊奈とは中日で一緒にプレーしていない)も伊奈の店を度々訪れていた。 柿本実: 権藤博に次ぐチーム2位の20勝を記録し、初めて規定投球回(7位、防御率2.06)にも達する。 濃人渉: 師匠・石本秀一をヘッドコーチに招き、「天知-杉下ライン」に代わる「石本-濃人ライン」を敷いて、与那嶺要らを入団させ、新人権藤博の大車輪の活躍で巨人より1勝多い72勝をしたにもかかわらず、引き分けの差で2位に甘んじる、4月20日に日本生命で活躍していた内野手の柳川福三を獲得し、柳川事件を起こして、プロとアマの断絶を招いた。 ロバート=ローズ: 1998年から2000年まで横浜の監督を務めた権藤博を「最高のボス」と慕っている。 川崎憲次郎: 同シーズンの中日はリーグ2位ではあったが巨人戦で9勝18敗と大きく負け越しており、同年までに対巨人戦で(当時現役選手としては最多の)通算29勝を挙げていた川崎の「巨人キラー」っぷりを買っての補強で、背番号も杉下茂・権藤博・星野・小松辰雄・宣銅烈らエース級投手たちが背負ってきたエースナンバーである20を引き継いだ。 近藤昭仁: なお、皮肉にも3年前まで近藤が率いていた横浜は同日、権藤博監督の下で38年ぶり(近藤が現役選手として在籍していた1960年・大洋ホエールズ時代以来)・2度目となるセ・リーグ優勝を決めており、近藤は「38年前のV戦士」として秋山登・土井淳とともに祝辞を述べていた。 野口善男: 権藤博がチーフバッテリーコーチから昇格して監督に就任した1997年オフ、プロ野球脱税事件で波留敏夫が1998年の開幕から出場停止処分を受けることが確実視され、権藤は代役となる外野手として、かつて投手コーチとして所属した近鉄バファローズの中根仁の獲得を希望した。 鈴木尚典: なお、同年シーズンの首位打者争いは鈴木の打率が.337、広島東洋カープの前田智徳が.335の状態で残り試合は両チームの直接対決のみとなったが、横浜の監督の権藤博が試合前に「広島が前田を出場させるのなら、鈴木を休ませ、前田を全打席敬遠させる」と発言した。 高木守道: 投手コーチである権藤博(現役時代に同僚だった)は自軍の選手を厳しい口調で批判する高木に対し、「マスコミの前で選手の悪口を言わないでほしい。 仰木彬: 投手コーチの権藤博は「仰木さんは阿波野好きだったんですよ。 江尻亮: この時の試合は、2回表に江尻の2ラン本塁打で先制するも、4回裏に権藤博のタイムリー二塁打で同点、5回裏に竹中惇のソロ本塁打、6回裏にも2点を追加され苦しい展開になり、最後の9回表になって桑田武の2ラン本塁打が出て1点差に追い詰めたもののここまで4-5で敗れている。 濃人渉: これにより中日は1949年から固められた天知俊一体制から完全に決別したが、反面、子飼いの江藤慎一や権藤博を優遇したことから、チームは長年にわたる内紛体質を抱え込むことになる。 仰木彬: ワンポイントリリーフは勿論、1人の打者に対して打席が完了する前に継投したこともしばしばあったため、近鉄監督時代には権藤博投手コーチや吉井理人と、オリックス監督時代には山田久志投手コーチと対立することがあった。 遠藤一彦: 最多勝利:2回 (1983年、1984年)※2年連続はセ・リーグ最長タイ記録(他は金田正一、権藤博、村山実、平松政次、江川卓、斎藤雅樹、山本昌、セス・グライシンガー、内海哲也、菅野智之、青柳晃洋) 野村弘樹: 権藤博監督からは絶大の信頼を受け、日本シリーズでは「野村-斎藤隆-三浦-野村-斎藤隆-川村-野村」という、野村に3回巡るローテーションの先発予告をしていた。 中西太: 吉田義男は「中西さんは教える達人でしたね」と話しており、江夏豊は「名監督は数多くいても、名コーチは少ない」が持論だが、その中で「投げるほうの名コーチは権藤博さん、打つほうの名コーチは中西さん」と語っている。 中尾孝義: 西武退団後、中日時代のコーチだった横浜・権藤博監督に連絡するが良い返事は得られなかった。 都裕次郎: プロ入り当時の投手コーチであった権藤博からは、「とてもプロで続けられるフォームではない」と言われた。 奈良原浩: 権藤博は「私は投手でダメになったあと、遊撃に転向したので守備のこともわかる。 |
権藤博の情報まとめ
権藤 博(ごんどう ひろし)さんの誕生日は1938年12月2日です。佐賀出身の野球選手のようです。
卒業、引退、テレビ、事件、父親、母親、趣味、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。権藤博の現在の年齢は85歳のようです。
権藤博のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 権藤 博(ごんどう ひろし、1938年12月2日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手(投手・内野手、右投右打)、野球解説者・野球評論家。 次女は「株式会社SONOKO(旧:トキノ)」の社長を務めた権藤嘉江子。 鳥栖高校では内野手だったが、投手不在となり投手に転向。3年次の1956年には夏の甲子園佐賀大会準決勝に進出するが、佐賀商に惜敗。甲子園には行けなかったものの、その活躍から西鉄にスカウトされたが、その後に受けたブリヂストンタイヤのテストに合格。西鉄のテストで三原脩監督と川崎徳次の前で投げたことが自信になり、ブリヂストンのテストでは誰もバットにかすらなかった。先にブリヂストンから合格通知が届いたことと、当時はまだ体重62kgと体が細かったことで西鉄を断り、卒業後の1957年に入社。同社の久留米工場用度課に配属され、8時10分始業で16時10分終業のなか、野球部は14時に上がって練習だった。当時の福岡は社会人野球が盛んで、近くには日鉄二瀬や東洋高圧大牟田、北九州地区には八幡製鐵、門司鉄道局と全国に名を馳せる名門がひしめいていたが、ブリヂストンは同好会のようなチームで、練習は個々の自主性に委ねられていた。華奢であった権藤は体力作りに勤しみ、腹筋、背筋にランニング、球場近くにある筑後川の川べりを毎日走った。徐々に体が強くなり、球も速くなったが、もとより身体能力は抜群で、他分野からも高い評価を受けていた。織田幹雄が「何とかコイツを東京オリンピックに出せないものか。出れば金メダルは確実」とため息をつき、東京オリンピックに向けて陸上競技400mハードルの選手に転向してほしいという要請があったという逸話がある。3年目の1959年にはブリヂストンの球場に日本石油や日本通運、立教大などが来て試合をしたが、ほとんど打たれなかった。対戦した投手には1957年の第3回世界野球大会で日本の優勝に貢献した堀本律雄もいたが、堀本が投げるブルペンの後ろで見ていた同期入社でバッテリーを組む堤田忠夫が「ゴン(権藤)のほうがすごい球だよ」と言ってくれた。 1960年の都市対抗北九州南部予選初戦で、強豪日鉄二瀬を相手に延長10回まで無失点の快投をみせる。11回に1点を失い力尽きたが、その後、北九州代表になった日鉄二瀬の補強選手として出場。2試合に登板し、同じ鳥栖高の一年先輩である井上守(のち阪急)をリリーフし好投。計7イニングを無失点に抑え、日鉄二瀬の監督を退任し中日二軍監督となった濃人渉の働きかけで中日が獲得に動き、他にもいくつもの球団からスカウトされたが、最終的に「契約金はどの球団よりも高くする」と言われた巨人の誘いを断り、1961年に中日ドラゴンズへ入団。 杉下茂のあとの背番号20を受け継ぎ、1年目の同年のオープン戦で28.1回を投げて自責点1(防御率0.31)の成績を残すと、一軍監督となっていた濃人から「今年はおまえを軸にしていく」と言い渡された。1年目より伸びのある直球と大きく縦に落ちるカーブを武器にエースとして活躍し、救援もこなした。同年はチーム試合数130の半分以上にあたる69試合に登板、うち先発は44試合に及んだ。35勝19敗、投球回数429.1回、奪三振310、防御率1.70を記録。沢村賞、新人王を受賞した。長嶋茂雄には相性が悪く、奪三振なし、打率.448と打ち込まれた。なお投球回数429回1/3は、1950年の2リーグ制施行以降、それまでの最高記録であった1957年の秋山登(大洋)の406回を23回1/3超える日本プロ野球シーズン歴代最高記録であり、2020年シーズン終了時点でも破られていない(1リーグ制時代を含めると歴代13位)。 連投に連投を重ねる権藤を指した「権藤、権藤、雨、権藤(雨、雨、権藤、雨、権藤と続く)」という流行語も生まれたが、この言葉が生まれたきっかけは、当時巨人の投手であった堀本律雄が「中日の投手は権藤しかおらんのか、つぶれてしまうぞ。権藤、雨、旅行(移動日)、権藤、雨、権藤や」と記者に語ったことからだという。1961年7月4日からは「雨・完封・雨・移動日・完投・雨・移動日・先発(5回を投げる)・雨・雨・移動日・先発(5回を投げる)」という、このフレーズに近い12日間だったということもあった。 2年目の1962年はスライダーを覚えて、先発39試合を含む61試合に登板、30勝17敗、投球回数362.1回、奪三振212、防御率2.33の成績を残し、2年連続最多勝に輝いた。 過酷な登板に加え、当時の誤ったトレーニング・リハビリテーション方法(投球直後に肩を温めていた)により肩を痛めたうえに肘も故障し、3年目の1963年からは球威が落ちて10勝しか挙げられず、1964年は6勝と調子を落とした。 1965年の開幕を控えたころに西沢道夫監督から野手転向の話を受けたが、当時の権藤は1年目の成功体験が邪魔して周囲のアドバイスが素直に受け入れられなかった。西沢から強いリストを生かした打撃の可能性を評価し野手転向の勧めに従って、内野手に転向し、同年は伊藤竜彦らと三塁手のレギュラーを争い81試合に出場。1966年には開幕から2番・遊撃手として起用されるが、打撃の低迷が続く。1967年には主に三塁手として80試合に先発出場し、セ・リーグ最多犠打を記録。ようやく打撃の何たるかを掴みかけたと感じたが、この3年間で西沢の期待に応えたといえるほどの結果は残せなかった。 1968年キャンプイン直前に西沢が辞任、一方で徳武定之の移籍入団も決定した。杉下茂が監督に就任し、権藤の内野手としてのスローイングを見て、投手陣が弱体化していたこともあり「やっぱりお前はピッチャーだろう。もう一回やってみないか」とブルペンで投手練習を再開した。投手として投げはじめた途端に大人しかった右肩が痛みはじめ、4月27日の広島戦(松山)が最後の白星になった。 同年のキャンプ終盤、2軍メンバーとともに名古屋へ帰るようプロ入り9年目で初めて通達され、この時点で引退を決意した。投手時代の酷使体験は本人のみならず球界にも波及し、現役時代に投手コーチを務めていた近藤貞雄は「投手分業制」を発案するなど、のちの日本プロ野球に大きな影響を与えた。権藤自身はのちに連投に次ぐ連投だった新人時代を振り返り「あのころ、もう一人の僕がいたような気がして、自分でもすごいと思った」と話している。現役時代バッテリーを組んだ木俣達彦は著書の中で「しなやかで弾力的な足腰を使ったフォームで、おそらく150キロを超える直球を投げていた」と記している。その浮き上がるような速球は、かつて沢村栄治と対戦した松木謙治郎から「一番沢村に近い」と評されている。 引退後に球団からは一軍マネージャーを打診されるが、権藤は自分の性格から、チームに帯同すれば選手にコーチしてしまい、本職のコーチに対する越権行為になると判断して固辞。退団後は東海ラジオ野球解説者(1969年 - 1972年)を務めたが、当時の報酬は1試合ごとの歩合制であったため、蓄えがなかったわけではないものの経済的に最も苦しい時期であった。解説の仕事は月に2、3度で時間があったため、知人とゴルフに出かけ月の半分はコースに出るようになった。「権藤はプロゴルファーになるのか」と言われたこともあったが、本人にはそんな気持ちはなかった。そんな状況をみかねたダンロップスポーツ中部の経営者であった相羽義朗に「フラフラと遊んでばかりいたらいかん」と説教されて「野球解説の仕事しながらでいい。私の会社で働きなさい」と救いの手を差しのべられ、ブリヂストン以来2度目のサラリーマン生活が始まった。権藤はこのことについて「名古屋市内にある会社で伝票を書き、デパートなどでは棚卸し作業を行い、野球解説の日は午後から球場に出向いた。知らぬ間に道を踏み外そうとしていた私を軌道修正してくれた相羽社長は野球をまっとうさせてくれた大恩人だ」と述べている。 その後は与那嶺要監督に招かれ中日に復帰し、二軍投手コーチ(1973年 - 1980年)→一軍投手コーチ(1981年 - 1983年)を務め、1974年と1982年のリーグ優勝に貢献。郭源治・都裕次郎らを育成したほか、1982年、牛島和彦を監督の近藤とともに「先発をすると甘い球がある。でも勝負どころでは素晴らしい球を投げる。抑えの適性がある」と抑えに転向させると、牛島は抑えに定着して7勝4敗17セーブと成績を残した。 退団後はフジテレビ・東海テレビ・東海ラジオ野球解説者・中日スポーツ野球評論家(1984年 - 1987年)を経て、1988年からは仰木彬監督の誘いで近鉄バファローズ一軍投手コーチに就任。仰木とは現役時代から親交があり、仰木と権藤をコーチ時代に指導した坪内道則が仰木に相談された際、権藤を推薦した。くすぶっていた山崎慎太郎を先発ローテーションに入れ、加藤哲郎を再生し、吉井理人をストッパーに抜擢。シーズンの6月、リチャード・デービスが大麻不法所得で逮捕されるという事件が起き、権藤は本職ではなかったが、旧知の中日関係者にラルフ・ブライアントについて確認したところ、外国人枠の関係で当面は1軍での出場チャンスはないという。早速、仰木監督に伝え、中西太ヘッドコーチと西宮球場でのウエスタンの中日戦を視察した。スイングは粗いがとてつもなく速い。球団は中日に金銭トレードを申し入れ、獲得が決まった。近鉄コーチ1年目は前年リーグ最下位であったチーム防御率(4.22)がリーグ2位の3.23になり、1989年もチーム防御率2位を記録しリーグ優勝に貢献したが、仰木監督と折り合いが悪く、違約金1300万円を支払って同年限りで辞任。 辞任後の1990年は東海テレビ野球解説者・日刊スポーツ野球評論家を務めるが、同年オフダイエーと古巣・中日から投手コーチの打診が来る。同年夏にダイエーから要請があったのと、フロント入りしていた杉浦忠には南海監督時代にコーチとして誘われながら先約の近鉄を優先したため、生活の拠点を置く名古屋のチームだが、先に声をかけたダイエーを選択した。1991年から1993年までダイエー一軍投手コーチを務め、チーム防御率を5.56から4.22にまで改善させたが、それでもチーム防御率リーグ最下位から抜け出すことはできなかった。村田勝喜、本原正治を指導し、池田親興を抑えで起用し、ダイエーコーチ3年目、根本陸夫が監督になり、さっそく下柳剛の起用を進言し、息の長い下柳の基礎を作った。 退任後はフジテレビ・東海テレビ・東海ラジオ野球解説者・中日スポーツ野球評論家(1994年 - 1996年)を経て、1997年には横浜ベイスターズ一軍バッテリーチーフコーチに就任。チーム防御率は前年最下位の4.67から3.70に改善するなど投手陣を整備し、チームの2位躍進に貢献。1998年には監督に昇格。就任当時59歳で、監督初就任時の年齢としては当時の史上最年長記録であった。1年目にチームを38年ぶりのリーグ優勝・日本一に導き、その後も2000年まで監督を務め、いずれもチームはAクラス入りを果たした。 横浜監督退任後は東海ラジオ(2001年 - 2011年)・東海テレビ(2009年 - 2011年)野球解説者・スポーツ報知(2001年 - 2008年)野球評論家として活動していたが、この間の2002年より巨人の一軍投手コーチとして入閣の予定があったが、親交のある長嶋茂雄監督の退任に伴い、立ち消えになった。その他の球団からもコーチの誘いが公式、非公式含めてあったという。 現役時代の同僚でもある高木守道が中日の監督に復帰した2012年には、同球団の一軍投手コーチに再び就任。日本プロ野球球団の現役監督・コーチでは最高齢となる73歳で、12年ぶりに現場への復帰を果たした。投手コーチという肩書ではあったが、ヘッドコーチ格として髙木監督を支えた。 復帰後は、新人・若手投手の積極的な起用やそれまで先発要員だった山井大介の救援(セットアッパー→クローザー)転向などを通じて、チームのセントラル・リーグ2位と6年連続クライマックス・セ進出に貢献。しかしシーズン終盤にエースの吉見一起が故障で今季絶望となり、中田賢一、エンジェルベルト・ソトも登板不可能となる。残る先発投手はシーズン10勝の山内壮馬を除けば4勝の大野雄大、3勝の川上憲伸、山本昌、1勝の伊藤準規という状況であったが、ファイナルステージ第1戦から第3戦まで巨人に3連勝。しかしその後は3連敗で敗退。その直後となる10月24日に、退団が発表された。 2013年からは、東海テレビ・東海ラジオ野球解説者へ復帰するとともに、日刊スポーツ野球評論家としても活動。 2016年1月28日に「侍ジャパン強化試合 日本 vs 台湾」の日本代表投手コーチを務めることが発表され、2017年度WBCでも日本代表の投手コーチを務めた。 アメリカ・フロリダ教育リーグでのコーチ修業時代の経験から、選手を大人扱いする「Don't over teach(教え過ぎない・口を出し過ぎない)」という主義をコーチ・監督業を通して貫いている。権藤自身はこの指導スタイルを「奔放主義」と名付けている。選手の感性と自主性を尊重しながらチームを勝利に導く手腕は当時の各メディアでも話題となり、球界内でも評価が高い。 「今の野球は抑えで8割が決まる」「抑え投手は打者の4番に該当する。先発3本柱より格上」などといった持論をもっている。 現場復活への道を開いてくれた相羽社長と与那嶺の2人を恩人として挙げている。 「投球フォームはその投手の主張」が持論で、投手のフォームにはほとんど口を出さなかった。コーチとしてフォーム矯正を施したのは都裕次郎だけだという。 近鉄コーチ時代に指導を受けた加藤哲郎は「当時、投手陣はみんな権藤さんのことは慕っていました。僕の野球人生の中で恩師と呼べる人がいたら、それは唯一、権藤さんですね。現役時代、登板過多で肩を壊した経験があるので、ピッチャーの立場になって考えてくれる人でした」と述べている。 同じく近鉄コーチ時代に指導を受けた吉井理人は、最も影響を受けた尊敬するコーチとして権藤の名を挙げ「それまではベンチの首脳陣の目を気にしながら投げていたんですが、(権藤さんから)「打たれたときは俺のせいやから」と日々言われていました。マウンドに勇気を持って投げられたのはこのときからです」と述べている。 中日の投手だった平沼定晴は「プロに入って最初に出会った権藤博さんのインパクトは凄かったですね。投手コーチなのに監督みたい。しばらく最初は、顔を合わせるだけで体調が悪くなっちゃう。でも、育つためのやりやすさを作ってくださった」と述べている。 カウント2ストライク0ボールから明らかなボール球で外すことについて「投手が有利なのに何故わざわざ外すのか」と、3球勝負をしないバッテリーが多いことに苦言を呈している。 2020年代になるとすっかり球界に定着した先発投手の中6日ローテーションについては、2022年の動画で「とんでもない」「40幾つになっても投げる人のために(ある)」と否定しており「大体ピッチャーの肩は中2日で治り、中3日置けば十分行ける。気持ちを高ぶらせるためにもう1日置いて、中4日で十分」と主張している。その代わり、1シーズンや将来のことを考えて1登板原則100球、最大120球に球数を抑えるべきだと付け加えている。 コーチとしては直言居士で、たとえ上司(監督)であっても間違いだと思う言動には徹底して異論を唱えるタイプであり、「監督なんかに負けられるか、と思って仕事していた。監督にナメられてるようなコーチじゃ仕方がない。だから目一杯、自分を出す」と後年語っている。近鉄コーチ時代には仰木彬と、ダイエーコーチ時代には田淵幸一と、中日コーチ時代には高木守道との不仲説も噂され、特に高木監督との対立はメディアでたびたび取り上げられた(後述)。 近鉄コーチ時、権藤は投手の育成・心理体調の面から、戦略として頻繁に中継ぎなどをした仰木の投手起用に異議を訴えていた。一方の仰木は自著において「コーチは監督ではなく投手の利益代表でもない」ということから権藤の姿勢を「コーチという職分、位置をわきまえていなかった」と批判している。 中日コーチ時(2012年)には高木監督(当時)と投手起用などで持論をぶつけ合い、また当時の高木は報道陣の前やチーム内部で自軍の選手を名指しで批判・叱咤することが多かったため「マスコミの前で選手の悪口を言わないでほしい。選手は一番こたえるものです」「打たれた・打てないはコーチの責任。勝った負けたは監督の責任」と諭したこともあった。著書の中でも「プロ野球界に長く携わってきた私はコーチ時代に最悪の怒り方が分かった。人前で怒るのは最悪の怒り方。人前で怒られて嬉しい人はいないだろう。本人にとっては人前で怒られるのは恥以外の何事でもないからそのことによってプライドは大きく傷つく。」と記している。その一方で、退任の際に「高木監督に対するわだかまりはない」と発言している。 大洋、横浜、DeNAの歴代監督のなかで唯一監督就任中に全てAクラスでシーズンを終えた監督である。 横浜監督時代は「オレのことを『監督』と呼ぶな!」というユニークな方針を打ち出し、自らを「権藤さん」と呼ぶように指示していた。これは監督を退いた後を見据えていたのと、肩書きを捨てることで選手との垣根をなくすことが目的だった。このルールは自チームの選手やスタッフだけではなく取材陣も対象とされ、違反した者には罰金1,000円を支払わせるという名目になっていた。実際に、当時の所属選手の中でもベテランであった谷繁元信は、このルールを知らないまま権藤に「監督!」と呼び掛けたものの、権藤が聞こえていないフリをし、それに気付かぬまま再び「監督!」と呼んだところで、権藤に「ハイお前、罰金2,000円な!」と言われて狼狽したと語っている。 また夜間練習の強制もせず、各選手の自主性や危機感に任せた。選手全員を集めるミーティングも基本的に行わず、実施しても「皆さんはプロですからプロらしくやってください」など簡単な一言で済ませ、すぐ退出することが多かった。そのかわりグラウンド等で選手1人1人に対して個別にコミュニケーションを取ったという。 監督に就任してまもない時期、コーチ陣に「選手に練習をしやすい環境を整えてしっかりと練習を観察してほしい。ただし、選手がアドバイスを求めてくるまで技術的な指導はしなくていい」と述べており、これに対し山下大輔は「プロになる選手は当然ながらそれなりの素質を備えています。まして1軍の選手ともなれば、技術だけではなく野球になる考えもしっかり持っています。もちろん、プロになってまもなかったり不調で悩んだりしている選手からアドバイスを求められたら、適切に指導する必要があります。でも、そうではない選手にコーチが『ああでもない、こうでもない』と声をかけると、かえって混乱を招きかねません。権藤さんが徹底した『何もしない』という考えは、選手一人一人を最大限を認め尊重することだったと思います。つまり、何もしないことによって選手の自主性を引き出したのです。当時のベイスターズには個性的な野手や投手が多く、選手同士で刺激しあい切磋琢磨していました。決して仲がよいわけではないけれどチームが同じ方向を向いて一つにまとまっていたんです。リーグ優勝・日本シリーズ制覇を果たすことができたのも、言葉ではなく態度で個々の選手を尊重し自主性を促した権藤さんの考えによるところが大きかったと思います」と述べている。 権藤の監督時代に大活躍を見せたロバート・ローズからは「最高のボス」と慕われている。ローズは毎年のように自分に取って代わる外国人を獲得しようとしたり、年俸を渋ったりするフロントにわだかまりを持ち、引退も考えていた。その心情を察した権藤は、1999年の夏頃、球団の雇った通訳ではなく英語に堪能な自身の娘のみを同伴させて、1対1でローズと腹を割った話をした。結果「権藤が監督でいる間は引退を考えないようにするよ」と権藤に全幅の信頼を置き、大活躍の下地を作った。 座右の銘は「Kill or be Killed(殺るか、殺られるか)」。横浜監督時代、開幕ベンチ入り投手全員にこの一文を入れたサインボールを渡したという。 ダッグアウトで采配をとるとき、ベンチに座らず立ったまま、顎もしくは頬に掌を当てながら試合をみまもる姿が、しばしば中継カメラに映された。この佇まいは権藤のトレードマークとなり、当時のスポーツ新聞や週刊誌の風刺野球漫画ではよくネタにされていた。ちなみに、コーチ時代も同じポーズを取ることが多かったといわれている。 1998年の日本シリーズでは、対戦相手である西武の監督が以前から親交のある東尾修だったため、シリーズ直前にマスコミ公開での食事会を行っている。そこで非公式とはいえ、予告先発を約束した。グラウンド外での舌戦や腹の探り合い、駆け引きなどを排除し、選手たちの力と技の勝負を堪能してもらいたいという意味合いで行われた会食であった。また、シリーズ終了後には『Sports Graphic Number』においても東尾と対談を行っている。シリーズ終了後から数週間後に、直近まで競い合っていた敵チームの監督同士が対談するのは非常に稀である。 「(自分は)8割はピッチングコーチ」と公言し、試合でもベンチから配球のサインを出したり、自らマウンドへ出向き投手への指示や投手交代を行っていた。権藤の下で2000年に一軍投手コーチを務めた遠藤一彦は「私はピッチングコーチ補佐(的な立場)だと認識していた」と述懐している。一方、野手に対してはヘッドコーチの山下大輔や打撃コーチの高木由一に一任し、打者・走者へのサインも最小限にし、選手の判断に任せていた。山下は権藤に「攻撃では迷ったら、下手に動かず何もしないことですよ」とアドバイスし「その言葉をうのみしたわけではないしょうが、何もしないことを徹底してサインはほぼ出さなかった」「(1998年は)一度もバントのサインを出していない。あの年はエンドランのサインも一度も出していない」と語っている。しかしあまりにもサインが出ないため、最下位に沈んでいた2000年の前半には選手が主導して開かれたミーティングで、もう少し攻撃面の戦術も考えてサインを出すよう求められたという。 自身の現役時代の体験から「投手の肩は消耗品」が持論である。横浜の監督となった1998年には抑え投手の佐々木主浩を不動の中心とし、リリーフ投手にも『中継ぎローテーション』を確立し、連投による酷使を極力避けさせた。谷繁は「基本的に3連投はさせていないと思います。2日投げたら、翌日は絶対に休み。チームを“ブラック企業”にさせなかったんです。しかも、勝ちゲームで使える中継ぎを二手に分けていた。右なら五十嵐英樹、島田直也がいて、左は阿波野秀幸さん、森中聖雄など。そこでローテーションを組みながら、同じ日に五十嵐と島田を行かせないようにしていました。そうして万全の備えをしたうえで、先発が7回まで行ってくれれば楽なゲーム展開になります。極端にいえば、8回に3人でも突っ込めるわけですから。権藤さんは監督時代に「俺はピッチングコーチだ」と言っていましたし、投手陣のやりくりはさすがというしかありません」と述懐している。ただしダイエーコーチ時代の下柳剛に関してだけは例外扱いし、制球力をつけさせるため毎日のように練習や試合で登板させた。これは当時監督だった根本陸夫が下柳自身の体の強さや社会人時代から行っていた練習の質・量を把握しており、根本から「アイツは壊れん」と諭されたことによるものである。 「送りバントというのは、わざわざ敵にアウトを献上するという世にも馬鹿馬鹿しい作戦だ」「監督としては一貫して犠打の必要性を否定してきた」などと述べており、実際にも限られた場面でしか送りバントを用いなかった。このため横浜監督在任時のチーム犠打数は3年間ともリーグ最少である。いわゆるマネー・ボール理論で語られるものと類似しており「投手の肩は消耗品」「中継ぎローテーション」という持論などからもメジャーリーグでみられる思想と通じるものがある。ただし終盤1点を争うような展開での送りバントまでは否定しておらず、チームが優勝争いの輪に加わっているシーズン終盤からは監督は勝利のためなら何をやってもいいという考えも持っていた。 「審判は絶対」「抗議しても覆らない」という持論を遵守し、判定にほとんど異議を唱えることはなかった。岡田功によると、ある日の試合で、ストライク・ボールの判定でもめて選手に押されて抗議には向かったが、審判の前に立つなり「選手の手前、黙ってるわけにはいかんから、世間話していいかな? ちょっと時間くれな」というなり世間話をはじめ「ありがとう」といってベンチに戻っていったという。また1998年8月7日の広島戦では、鈴木尚典が打ったホームラン性の当たりを二塁打と判定され、権藤はベンチから出るも審判に一言確認しただけでベンチに下がっていった。これには選手たちから「いつも戦えと言ってるのに自分は戦わないのか?」と不信感を持たれ、権藤は翌日に「みんなに戦えと言ってきた。そう言っていながら俺は昨夜審判と戦っていなかった。すまん、今後気をつける」と謝った。その言葉通り、翌日の試合で波留敏夫が守備妨害をとられた際、ベンチを飛び出し声を荒げながら5分間にわたって猛抗議をした。 監督としての権藤は「何よりも野球は選手がやるもの。監督は、選手個々の考え方や才能を自由に発揮できる環境を作るだけ」という哲学を貫いた。リーグ優勝を果たして胴上げ直後の勝利監督インタビューも一言二言だけで終わらせ、その後の個別インタビューも「主役は選手だから」と出演を断るなど、ファンや取材陣の前で選手より目立つような言動を控えていた。これに対し、同時期にヤクルト・阪神の監督であり「野球は監督の采配如何で勝敗が決する」「監督というのは、広報も兼ねている」という持論を展開する野村克也は、権藤の采配スタイルやマシンガン打線を「勝って無礼(勝手無礼)な行儀の悪い野球」と評し、権藤や横浜選手の人格に至るような部分まで公然と批判を展開した。1998年、優勝マジック3の横浜は10月3日 - 10月6日と地元・横浜スタジアムでヤクルトとの4連戦を迎えた。この連戦以前の横浜は上記の因縁から権藤が「ID野球なんてクソくらえ」と選手にハッパをかけていたこともあり、ヤクルト戦では特に闘志をむき出しにして戦い、大きく勝ち越していた。地元胴上げの期待は最高潮に達していたが、野村は「1年目の権藤に簡単に優勝させるわけにはいかない」と闘争心を露にし、当時好調だった川崎憲次郎、石井一久、伊藤智仁らをぶつけて3連勝し、自身の目の前での胴上げだけは阻止した。 野村は自著で、権藤を「典型的な投手タイプの性格」「監督になってからも豪快な野球を好み」「酒豪だった」ことなどから「私とはすべてに対照的な野球人である」と評している。 一方で、野村が楽天監督に就任した際、『週刊ポスト』の『危険球座談会』で、江本孟紀と東尾修が野村の監督就任に否定的な意見を述べたのに対し権藤は「楽天の選手は野球を知らなすぎる。この際に野村さんからきちんと野球を教わったほうがよい」と述べ、2020年に野村が逝去した際には「野村さんのすごさは人材を見極める眼力。人のやらないことをやるアイデアマン、すごい野球人」などと語り、野村の監督的手腕については高く評価している。 同じ九州出身の大投手・稲尾和久を尊敬しており、投球フォームから普段の歩き方まで稲尾を模写するという私淑ぶりで、社会人野球(ブリヂストンタイヤ)時代に練習といえばひたすら稲尾の投球フォームをまねることだった。大きく振りかぶって、軸足の右足が爪先立ちになるくらい伸び上がって投げるフォームは稲尾とそっくりで、権藤は軸足のかかとの上げ方のためだけに別で1時間かけて練習していた。また、ちょっと首を傾けてややうつむき加減で走るところもよくまねたという。 一方で金田正一のNPB400勝の価値については、優勝を争ったところで投げていない(400勝の約90%にあたる353勝を弱小球団であった国鉄時代に挙げている)ということから否定している。 後進世代では菅野智之、大谷翔平、藤浪晋太郎の才能を「別格」と評しており、特に藤浪については「小さくまとまるべきではない」という趣旨で評価し、荒れ球も容認する考えを示している。同時に阪神時代の藤浪の起用法など二転三転した扱いについて阪神を批判しており「トレード出した方が良いんじゃないですか?」「あそこ(阪神)じゃ無理でしょ」と阪神というチームが藤浪を育成する器ではないと酷評した(2022年シーズン中時点)。 父親を早くに亡くしており、母親の手一つで育てられた。プロ入り以後、給料の半分は故郷の母の元へ送っていた。 ラグビーに造詣が深く、親交のある森重隆とテレビで対談したときには該博な知識を見せた。 ゴルフが趣味である。現役引退後に一時期ゴルフ関係の仕事に就いたことがある。プロゴルファーへの誘いもあったが断った。飛ばし屋で72歳にしてヘッドスピード48m/sを記録した。 各年度の太字はリーグ最高 各年度の太字はリーグ最高 最多勝利:2回 (1961年、1962年)※2年連続はセ・リーグ最長タイ記録(他は金田正一、村山実、平松政次、江川卓、遠藤一彦、斎藤雅樹、山本昌、セス・グライシンガー、内海哲也、菅野智之、青柳晃洋) 最優秀防御率:1回 (1961年) 最多奪三振:1回 (1961年)※当時連盟表彰なし 沢村栄治賞:1回 (1961年)※新人による受賞は3年連続。シーズン69登板は受賞者最多タイ 新人王(1961年) ベストナイン:1回 (1961年) 野球殿堂エキスパート部門(2019年) 初登板・初勝利:1961年4月9日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場) 投手三冠王:1回 (1961年)※史上10人目、22歳シーズンでの達成は前田健太と並ぶセ・リーグ最年少タイ
シーズン429.1投球回(1961年) ※セ・リーグ記録 新人記録(1961年)
完封勝利数:12 ※林安夫と並ぶタイ記録 無四球完投試合数:8 奪三振数:310 ※ 32完投も新人セ・リーグ記録 シーズン30勝以上:2年連続2度(1961年、1962年) ※2年連続はセ・リーグ記録。2度は杉下茂、金田正一と並ぶセ・リーグタイ記録。パ・リーグ、1リーグ時代を含めるとヴィクトル・スタルヒン、別所毅彦、杉浦忠と並ぶ歴代3位タイ記録。 オールスターゲーム出場:3回 (1961年 - 1963年) 20 (1961年 - 1968年) 64 (1973年 - 1977年) 76 (1978年 - 1983年) 70 (1988年 - 1989年、1991年 - 1993年) 72 (1997年 - 2000年、2012年) 『教えない教え』(2010年11月17日、集英社、ISBN 978-4087205671) 『もっと投げたくはないか 権藤博からのメッセージ』(2014年10月7日、日刊スポーツ出版社、ISBN 978-4817203250) 『継投論 投手交代の極意』(2017年12月1日、廣済堂出版、ISBN 978-4331521281)- 二宮清純と共著 『打者が嫌がる投球論 投手が嫌がる打撃論』(2019年11月30日、廣済堂出版、ISBN 978-4331522653)- 二宮清純と共著 『権藤語録 プロ野球 横浜優勝への軌跡』(Group21編、1998年10月、ケイエスエス、ISBN 978-4877092924) 『勝つ管理 私の流儀 横浜ベイスターズ38年ぶりの日本一!』(永谷脩著、小学館、1999年1月、ISBN 4093795428) 『決断 権藤博と東尾修の1年』(永谷脩著、文藝春秋、1999年1月、ISBN 4163547606) 『東海ラジオ ガッツナイター』 『BASEBALL SPECIAL〜野球道〜』(フジテレビ系列のプロ野球中継。東海テレビローカルでは「プロ野球中継」のタイトル) 『プロ野球ニュース』(フジテレビ系地上波時代に出演) 『ヒロミツのスーパードラゴンズ』(東海テレビ) 『プロ野球列伝〜不滅のヒーローたち〜』(テレビ愛知) 『談志・陳平の言いたい放だい』(TOKYO MX - 2005年5月7日、ゲスト) 『談志の格言』(TOKYO MX - 2009年4月26日、ゲスト) 『スーパーベースボール』(メ〜テレ、2008年6月11日(水)福岡ソフトバンクホークス対中日ドラゴンズ。本数契約) 『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』(TOKYO FM - 2009年9月8日、9月15日、2010年4月27日、10月12日、ゲスト) ^ 2017年に中日監督へ就任した森繁和が62歳で記録更新。 ^ 田淵の参謀だったヘッドコーチの黒田正宏が、権藤と対立して91年限りで退団。奇しくも黒田は、のちに権藤を辛辣に批判することになる野村克也の教え子といえる存在の1人にあたる。 ^ 黒田のダイエー退団の理由は田淵との確執もあり、2002年の阪神コーチと編成部長時代に和解している。 ^ 一例としては、1・2番を任せられることが多かった石井琢朗・波留敏夫には送りバント・ヒットエンドランなどの指示を出さず、ノーサインでコンビプレーを任せていたことなどが挙げられる。 ^ 【球跡巡り・第58回】「権藤、権藤、雨、権藤」 伝説の右腕を育んだ 久留米ブリヂストン球場 ^ “権藤博氏1月に野球殿堂入り 球数制限は反対、球児の気持ち最優先に”. 西日本スポーツ. (2019年3月24日). https://web.archive.org/web/20200912080506/https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/496637/ 2020年4月5日閲覧。 ^ 『スポーツ20世紀』ベースボール・マガジン社、2000年7月、p126 ^ スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球【5月30日】1961年(昭36)(Internet Archive) ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年 ^ 『ベースボールマガジン、2013年9月号 「黄金ルーキーの肖像 投手天下の時代に現れたスーパールーキー 権藤博インタビュー」』ベースボール・マガジン社、2013–9、14–17頁頁。 ^ “【焦土からのプレーボール 濃人渉物語(3)】勝利への執念 伝説の采配 「権藤、権藤”. 産経ニュース. (2015年8月12日). https://www.sankei.com/article/20150812-NIRJQRC4WRM7TFGW424BKF254M/ 2017年7月2日閲覧。 ^ 『週刊文春』2010年10月14日号 新・家の履歴書 権藤 博 ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』46頁 ^ 年度別成績 1961年 セントラル・リーグ ^ 310三振の権藤博氏が一つも奪えず 長嶋茂雄の打撃技術語る ^ “歴代最高記録 投球回 【シーズン記録】”. 日本プロ野球機構. 2021年3月16日閲覧。 ^ “【レジェンドたちの証言】「権藤、権藤、雨、権藤…」1日に2勝 権藤博氏 1961年10月8日、新人で35勝目”. 産経ニュース. 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2011 中畑清 2012 - 2015 アレックス・ラミレス 2016 - 2020 三浦大輔 2021 - 現在 表 話 編 歴 90 小久保裕紀 73 奈良原浩(ヘッド) 72 権藤博(投手) 80 稲葉篤紀(打撃) 87 仁志敏久(内野守備・走塁) 79 大西崇之(外野守備・走塁) 84 村田善則(バッテリー) 10 松井裕樹 11 菅野智之 12 秋吉亮 14 則本昂大 15 宮西尚生 17 藤浪晋太郎 19 増井浩俊 20 石川歩 30 武田翔太 34 岡田俊哉 35 牧田和久 41 千賀滉大 66 平野佳寿 9 炭谷銀仁朗 22 小林誠司 27 大野奨太 2 田中広輔 3 松田宣浩 4 菊池涼介 6 坂本勇人 13 中田翔 23 山田哲人 1 内川聖一 7 青木宣親 8 平田良介 25 筒香嘉智 51 鈴木誠也 55 秋山翔吾 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 水原茂 1963 川上哲治 1964 鶴岡一人 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 藤田元司 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 仰木彬 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 王貞治 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 落合博満 2008 渡辺久信 2009 原辰徳 2010 西村徳文 2011 秋山幸二 2012 原辰徳 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 工藤公康 2019 工藤公康 2020 工藤公康 2021 高津臣吾 2022 中嶋聡 2023 岡田彰布 2024 三浦大輔 表 話 編 歴 1950 小西得郎 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 水原円裕 1957 水原円裕 1958 水原円裕 1959 水原円裕 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 藤本定義 1963 川上哲治 1964 藤本定義 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 与那嶺要 1975 古葉竹識 1976 長嶋茂雄 1977 長嶋茂雄 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 近藤貞雄 1983 藤田元司 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 阿南準郎 1987 王貞治 1988 星野仙一 1989 藤田元司 1990 藤田元司 1991 山本浩二 1992 野村克也 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 長嶋茂雄 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 星野仙一 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 星野仙一 2004 落合博満 2005 岡田彰布 2006 落合博満 2007 原辰徳 2008 原辰徳 2009 原辰徳 2010 落合博満 2011 落合博満 2012 原辰徳 2013 原辰徳 2014 原辰徳 2015 真中満 2016 緒方孝市 2017 緒方孝市 2018 緒方孝市 2019 原辰徳 2020 原辰徳 2021 高津臣吾 2022 髙津臣吾 2023 岡田彰布 2024 阿部慎之助 表 話 編 歴 1947 別所昭 1948 中尾碩志 1949 藤本英雄 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 杉下茂 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 金田正一 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 小山正明 1963 伊藤芳明 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実, 堀内恒夫 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 星野仙一 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 小林繁 1978 松岡弘 1979 小林繁 1981 西本聖 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990 野茂英雄 1991 佐々岡真司 1992 石井丈裕 1993 今中慎二 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 西口文也 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2001 松坂大輔 2002 上原浩治 2003 井川慶, 斉藤和巳 2004 川上憲伸 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010 前田健太 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 前田健太 2016 K.ジョンソン 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2020 大野雄大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 佐藤孝夫 1953 権藤正利 1954 広岡達朗 1955 西村一孔 1956 秋山登 1957 藤田元司 1958 長嶋茂雄 1959 桑田武 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 城之内邦雄 1964 高橋重行 1966 堀内恒夫 1967 武上四郎 1968 高田繁 1969 田淵幸一 1970 谷沢健一 1971 関本四十四 1972 安田猛 1974 藤波行雄 1976 田尾安志 1977 斉藤明雄 1978 角三男 1979 藤沢公也 1980 岡田彰布 1981 原辰徳 1982 津田恒美 1983 槙原寛己 1984 小早川毅彦 1985 川端順 1986 長冨浩志 1987 荒井幸雄 1988 立浪和義 1989 笘篠賢治 1990 与田剛 1991 森田幸一 1992 久慈照嘉 1993 伊藤智仁 1994 藪恵市 1995 山内泰幸 1996 仁志敏久 1997 澤﨑俊和 1998 川上憲伸 1999 上原浩治 2000 金城龍彦 2001 赤星憲広 2002 石川雅規 2003 木佐貫洋 2004 川島亮 2005 青木宣親 2006 梵英心 2007 上園啓史 2008 山口鉄也 2009 松本哲也 2010 長野久義 2011 澤村拓一 2012 野村祐輔 2013 小川泰弘 2014 大瀬良大地 2015 山﨑康晃 2016 髙山俊 2017 京田陽太 2018 東克樹 2019 村上宗隆 2020 森下暢仁 2021 栗林良吏 2022 大勢 2023 村上頌樹 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 梶岡忠義 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 渡辺省三 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960 秋山登 1961 権藤博 1962 村山実 1963 柿本実 1964 G.バッキー 1965 金田正一 1966 堀内恒夫 1967 権藤正利 1968 外木場義郎 1969 江夏豊 1970 村山実 1971 藤本和宏 1972 安田猛 1973 安田猛 1974 関本四十四 1975 安仁屋宗八 1976 鈴木孝政 1977 新浦寿夫 1978 新浦寿夫 1979 平松政次 1980 松岡弘 1981 江川卓 1982 斉藤明夫 1983 福間納 1984 小林誠二 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 盛田幸妃 1993 山本昌広 1994 郭源治 1995 T.ブロス 1996 斎藤雅樹 1997 大野豊 1998 野口茂樹 1999 上原浩治 2000 石井一久 2001 野口茂樹 2002 桑田真澄 2003 井川慶 2004 上原浩治 2005 三浦大輔 2006 黒田博樹 2007 高橋尚成 2008 石川雅規 2009 チェン 2010 前田健太 2011 吉見一起 2012 前田健太 2013 前田健太 2014 菅野智之 2015 K.ジョンソン 2016 菅野智之 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2019 大野雄大 2020 大野雄大 2021 柳裕也 2022 青柳晃洋 2023 村上頌樹 2024 髙橋宏斗 表 話 編 歴 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 大友工, 長谷川良平 1956 別所毅彦 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 藤田元司 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 権藤博 1963 金田正一 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1971 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 江夏豊 1974 松本幸行, 金城基泰 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 高橋里志 1978 野村収 1979 小林繁 1980 江川卓 1981 江川卓 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1984 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 小松辰雄 1988 小野和幸, 伊東昭光 1989 斎藤雅樹, 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 斎藤雅樹 1993 今中慎二, 山本昌広, 野村弘樹 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹, B.ガルベス 1997 山本昌 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2000 M.バンチ 2001 藤井秀悟 2002 上原浩治, K.ホッジス 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 下柳剛, 黒田博樹 2006 川上憲伸 2007 S.グライシンガー 2008 S.グライシンガー 2009 吉見一起, 館山昌平 2010 前田健太 2011 吉見一起, 内海哲也 2012 内海哲也 2013 小川泰弘 2014 R.メッセンジャー, 山井大介 2015 前田健太 2016 野村祐輔 2017 菅野智之 2018 大瀬良大地, 菅野智之 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 青柳晃洋, 九里亜蓮 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1950 杉下茂 1951 金田正一 1952 金田正一 1953 金田正一 1954 杉下茂 1955 金田正一 1956 金田正一 1957 秋山登 1958 金田正一 1959 金田正一 1960 金田正一 1961 権藤博 1962 小山正明 1963 金田正一 1964 金田正一 1965 村山実 1966 村山実 1967 江夏豊 1968 江夏豊 1969 江夏豊 1970 江夏豊 1971 江夏豊 1972 江夏豊 1973 高橋一三 1974 金城基泰 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 池谷公二郎 1978 斉藤明雄 1979 新浦寿夫 1980 江川卓 1981 江川卓 1982 江川卓 1983 遠藤一彦 1984 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 遠藤一彦 1987 川口和久 1988 槙原寛己 1989 川口和久 1990 木田優夫 1991 川口和久 1992 仲田幸司 1993 今中慎二 1994 桑田真澄 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤隆 1997 山本昌 1998 石井一久 1999 上原浩治 2000 石井一久 2001 野口茂樹 2002 井川慶 2003 上原浩治 2004 井川慶 2005 門倉健, 三浦大輔 2006 川上憲伸, 井川慶 2007 内海哲也 2008 C.ルイス 2009 C.ルイス 2010 前田健太 2011 前田健太 2012 杉内俊哉, 能見篤史 2013 R.メッセンジャー 2014 R.メッセンジャー 2015 藤浪晋太郎 2016 菅野智之 2017 M.マイコラス 2018 菅野智之 2019 山口俊 2020 大野雄大 2021 柳裕也 2022 戸郷翔征 2023 今永昇太 2024 戸郷翔征 表 話 編 歴 投 権藤博 捕 森昌彦 一 藤本勝巳 二 土屋正孝 三 長嶋茂雄 遊 河野旭輝 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 森永勝治 VIAF 日本 日本の野球選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 最多勝利 (NPB) 最優秀防御率 (NPB) 最多奪三振 (NPB) セントラル・リーグ最優秀新人 (NPB) 沢村栄治賞 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 大阪近鉄バファローズ関連人物 福岡ソフトバンクホークス関連人物 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の監督 日本の野球殿堂表彰者 野球解説者 ブリヂストンの人物 佐賀県立鳥栖高等学校出身の人物 佐賀県出身のスポーツ選手 1938年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/19 18:05更新
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gondou hiroshi
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