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駒田徳広の情報 (こまだのりひろ)
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【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

駒田徳広の情報(こまだのりひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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駒田 徳広さんについて調べます

■名前・氏名
駒田 徳広
(読み:こまだ のりひろ)
■職業
野球選手
■駒田徳広の誕生日・生年月日
1962年9月14日 (年齢62歳)
寅年(とら年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
奈良出身

(昭和37年)1962年生まれの人の年齢早見表

駒田徳広と同じ1962年生まれの有名人・芸能人

駒田徳広と同じ9月14日生まれの有名人・芸能人

駒田徳広と同じ出身地奈良県生まれの有名人・芸能人


駒田徳広と関係のある人

石井大智: 白根はこれに応えるべく、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスが実施した独自トライアウトに石井を参加させ、高知監督の駒田徳広から内々定を得た。


中畑清: その間に三塁手は一塁手から岡崎郁が、また一塁手も外野手から駒田徳広が定着したこともあり、定位置を失った中畑はベンチを温めており、シーズン終盤に引退を表明した。


進藤達哉: 石井、ローズ、駒田徳広らとともに、当時12球団でも随一の守備力と呼ばれた横浜内野陣の三塁手として、好守でチーム38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。


槙原寛己: キャンプから若手の成長株として評価され、一軍に初昇格して活躍した同期生の吉村禎章、1歳年上の駒田徳広らとともに背番号にちなんで50番トリオと呼ばれた。


宮部和裕: デビュー時から、横浜ベイスターズの駒田徳広の2000本安打を担当。


内藤雄太: 同じ左打者であった打撃コーチの駒田徳広に重点的に指導され、新人王有資格者で最多の5本塁打を放つなど、ブレイクの一年となった。


深江真登: 駒田徳広監督も、「打席での粘りやボールの見極め方、練習に取り組む姿勢」を評価し、地元紙では他の選手に影響を与えたと評された。


矢野謙次: 代打逆転満塁本塁打は巨人では1987年に原が記録して以来、球団史上5人目(他には樋笠一夫、広野功、駒田徳広


川端一彰: チームが38年ぶりの優勝を果たした1998年は、駒田徳広・ロバート・ローズ・進藤達哉・石井琢朗といった鉄壁の内野陣がある中で、万永貴司とともに貴重な内野の控えとして優勝に貢献した。


四条稔: 駒田徳広、吉村禎章、岡崎郁ら左打者のレギュラー陣に食い込もうと大森剛や福王昭仁と競争を繰り広げた。


松本匡史: シーズン後半には、台頭してきた駒田徳広が右翼手で先発出場し、右翼手の吉村禎章が左翼に回り、先発出場機会が激減していった。


岡崎郁: 打撃面でも、親友の駒田徳広とのコンビで6番、7番打者を任されると、「第2のクリーンナップ」として他球団から恐れられるまでに成長。


加藤翔平: この試合では猛打賞も達成しているが、デビュー戦で初打席本塁打を含む猛打賞を記録したのは駒田徳広、稲葉篤紀以来、史上3人目であった。


吉田豊彦: 2019年10月1日、駒田徳広の後任として、2020年シーズンより監督に就任することが発表された。


伊藤菊雄: スカウト時代には村瀬広基、河埜和正、淡口憲治、小林繁、西本聖、駒田徳広、吉村禎章、村田真一、川相昌弘、斎藤雅樹、水野雄仁、桑田真澄、橋本清らの獲得に携わった。


田尾安志: 田尾の要請で就任したのはヘッドコーチの山下大輔と打撃コーチの駒田徳広の2人である。


星野仙一: 杉本は吉村禎章、駒田徳広に本塁打を打たれ、西本聖に完封勝利をくらい、0対6で敗戦。


新井潔: 試合終盤に駒田徳広の代走、そのまま一塁の守備に就くことも多かった。


近藤昭仁: 同年は石井・畠山をレギュラーに抜擢し、オフにはFAとなった駒田徳広の獲得を進め、生え抜きでベテランの高木豊・屋鋪要・山崎賢一・市川和正・大門和彦・松本豊を大量解雇した。


達川光男: 現役時代、印象に残っている選手として前述の宇野勝の他に駒田徳広、長嶋一茂を挙げている。


梅田尚通: NPBの一軍公式戦で、初安打を満塁本塁打で記録した選手は、1983年の駒田徳広(読売ジャイアンツ)以来2人目。


山本功児: 一塁手として歴代最多となる10度のゴールデングラブ賞を受賞した駒田徳広は、「私の一塁手としての師匠は山本功児さん。


屋鋪要: この大量解雇は横浜がFAで駒田徳広を獲得するためと言われ、当時はわだかまりも噂されたが、駒田とは引退後に番組共演し、野球教室も一緒にする仲である。


マニー=ラミレス: シーズン終了後の10月の時点で高知球団社長の梶田宙は「今のところ交渉はしていない」とし、監督の駒田徳広も「まずは本人が現役を続けるかが先」と述べていた。


立浪和義: ただ、名球会会員の中で、清原和博、前田智徳、駒田徳広、宮本慎也、谷繁元信同様、盗塁王を含む打撃タイトルを獲っておらず、年間最多二塁打もない。


松原誠: 1989年から岡崎郁と駒田徳広を本格的に担当するようになり、松原は「岡崎は一番の修正ポイントは前(右)の脇にあった。


イチロー: 満塁本塁打率も高く、NPB時代の14.7本に1本の割合(118本中8本)は通算満塁本塁打が7本以上の選手の中では日本プロ野球歴代1位であり、駒田徳広と並ぶ6年連続満塁本塁打の日本プロ野球記録も持っている。


近藤真一: 初奪三振:同上、1回表に駒田徳広から


広橋公寿: シーズン途中からは、一軍打撃コーチから二軍打撃コーチへ降格した駒田徳広に代わって、一軍打撃コーチを務めた。


中根仁: 2000年は佐伯に加え田中一徳ともポジションを争うようになったが、正一塁手の駒田徳広の不振で佐伯が一塁手に回った事もあり、7月以降は5番・右翼手に定着した。


駒田徳広の情報まとめ

もしもしロボ

駒田 徳広(こまだ のりひろ)さんの誕生日は1962年9月14日です。奈良出身の野球選手のようです。

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現在、家族、引退、テレビ、ドラマ、結婚、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。駒田徳広の現在の年齢は62歳のようです。

駒田徳広のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

駒田 徳広(こまだ のりひろ、1962年9月14日 - )は、奈良県磯城郡三宅町出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、左投左打)、野球指導者、野球解説者、タレント、俳優。

現役時代は読売ジャイアンツ(巨人)と横浜ベイスターズで通算20年間プレーした。NPB史上初の初打席満塁本塁打デビューを飾るなど満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を持った。また、一塁手としては史上最多となる10度のゴールデングラブ賞を受賞した。

子供のころから高校野球を見ていて、野球に対する憧れが強かった。小学生時代から身体能力と運動神経がよく、野球の他に水泳などで県の大会で上位の成績を残していた。中学に入り本格的に野球を始める。生来の左利きだが、1年生までは右打ちで、コーチの指示で2年生になってから左打ちに転向。中学生時代は長身ながらも非力で、2番打者などで三遊間をゴロで抜けるヒットをよく打っていたというが、桜井商業高校時代は体格もよくなり、エースで4番打者として活躍。1978年夏の甲子園県予選では2年上の東利夫とバッテリーを組み準決勝に進むが、郡山高に惜敗。1979年の秋季奈良大会でも準決勝に進出するが、智弁学園に敗退。敗者復活2位決定戦でも高田商に敗れ近畿大会には進めなかった。

翌1980年、春季奈良大会決勝で強豪天理高と対戦。川本和宏と投げ合い、無死満塁で敬遠されたという逸話を残すが、乱打戦の末敗退。またイニングの先頭打者で敬遠されたこともあった。同年夏の県予選でも敗れ、甲子園には出場できなかった。高校通算で43本塁打、打率.490を記録。高校では駒田の打撃練習の前に、打球の行方に注意を促す校内放送が流れるほど飛距離が凄かったという。地元のマスコミからは「奈良のマニエル」と呼ばれていた。担当スカウト伊藤菊雄。

1980年のドラフト会議で、読売ジャイアンツ(巨人)から2位で投手として指名され入団。ドラフト同期には原辰徳らがいる。

入団後、新人合同自主トレーニングの期間だけ投手としての練習をしたが、駒田自身投手としての能力に限界を感じていたため、最初は投手をやらせようとしていた監督の藤田元司に野手への転向を直訴。認められ、1年目の春季キャンプより(選手登録は投手ながら)野手扱いとなった。

プロ入り1年目の1981年、および2年目の1982年は一軍に昇格することはなく、二軍(イースタン・リーグ)での出場のみにとどまっていたが、3年目の1983年4月10日、開幕2戦目の対横浜大洋ホエールズ戦(後楽園球場)で、試合前の練習で怪我をした一塁のレギュラー、中畑清に代わり7番・一塁手で先発出場し、初回、二軍で得意としていたプロ初先発の右田一彦から、日本プロ野球史上初となるプロ初打席での満塁本塁打を右翼席に放った。藤田は当初ベテランの山本功児の起用も考えていたが、当時助監督だった王貞治の進言で駒田の先発が決まったと言われる。

この年、規定打席不足ながら12本塁打を放った背番号50の駒田、12勝を挙げる活躍で新人王を獲得した背番号54の槙原寛己、同じく規定打席不足ながら打率.326を記録した背番号55の吉村禎章の3人はセ・リーグ優勝の原動力となり、巨人期待の若手として注目され、彼らの背番号にちなみ50番トリオと呼ばれた。この時期駒田は、かつて巨人に在籍したゲーリー・トマソンをもじって「コマソン」ともあだ名されていた。一方で、この年の日本シリーズにも出場するなどの功績を残している。

1984年、巨人の監督に就任した王貞治から期待され、一本足打法の習得を薦められる。首都圏で試合のある日は毎日のように王の師匠である荒川博の自宅へ通い、王がしたように合気道を習い、真剣を振るなど夜中まで練習をして一本足打法の習得を試みたが、結果を残せなかった。当時打撃についてあまりにも考え悩みぬいている姿から、チームメイトからは銅像の『考える人』に由来する「ロダン」というあだ名を付けられていたという。

1985年の序盤には一本足打法をやめるも結果を残せないでいた。王から期待されて習得に挑んだ一本足打法を断念した駒田は王の思いを無下にしてしまう無念さから、自身の耳に入る前に『報知新聞』の記事で駒田の決意を知った王が本人に事情を聞くために合宿所にやってくることになった際に合宿上の4階から飛び降りて自殺しようとも考えたが、合宿場に着いた王は何も詮索しなかった。その後王に対する負い目は大成した後も消えなかった。

1986年後半に、当時二軍の打撃コーチだった松原誠の指導により、本塁打を狙うためにボールを上から叩くよう指導されていたそれまでの打撃フォームをやめ、グリップを下げてレベルスイングにすることで、自身にあった打撃スタイルを確立する。外野と一塁を兼任しながらレギュラーメンバーの故障離脱の合間をぬうように出番を増やす。

1987年、開幕戦の中日ドラゴンズ戦で杉本正から本塁打を放ち、シーズン後半にレギュラーの松本匡史から外野のポジションを奪取。

1988年、背番号を10に変更する。残り10試合を残して打率.287だったが、閉幕まで24打数14安打、打率.583で一気に打率を上げ、最終戦で初めての規定打席にも到達し、セ・リーグ打率ランキングの4位に入った。この年は初の4番スタメンも経験している。足は速くなかったが、チーム事情から1987年後半から1988年前半にかけては、1番打者として起用されることが多かった。

1989年、藤田元司が監督に就任し、シーズン序盤に三塁手・中畑清が故障し、それに伴う一塁手・岡崎郁の三塁コンバートにより、空いた一塁に定着。この年も、シーズン最後(残り15試合)で47打数21安打(.447)で打率を.284から.303に一気に上げて2年連続3割を達成した。また、初めて一塁手部門でゴールデングラブ賞を受賞。この頃より「恐怖の7番バッター」と呼ばれるようになる。日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)で、近鉄バファローズ先発の加藤哲郎から先制本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周中に三塁ベース付近で「バ〜カ!!!」と叫んだと言われている。巨人は第3戦(東京ドーム)で加藤、村田辰美、吉井理人の継投の前に完封されたが、勝利投手となった加藤が試合後「シーズン中の方が相手が強かったからしんどかった」という旨の発言をした経緯もあり、この「バ〜カ!!!」発言は一般に「加藤の暴言に対する罵倒」と認識されている。このシリーズは、7試合までの日本シリーズ史上最高打率.522、1本塁打、5打点という成績を残し、最優秀選手に選出された。

1990年、7番打者ながら22本塁打83打点と、チーム最多の本塁打と打点を記録し、チームのセ・リーグ2連覇に貢献する。ファン投票で選出され、オールスターゲームに初出場。西武との日本シリーズでは14打数2安打に終わり、チームも4連敗で敗退した。

1991年は3番打者として多く出場し、チーム最高打率であり生涯自己最高でもある打率.314を残すなど、主軸としての地位を不動のものとした。1991年8月19日の対中日戦(東京ドーム)で、上原晃から生涯唯一のサヨナラ本塁打を放っている。

1992年、アキレス腱痛の原辰徳が一塁にコンバートされたことに伴い、右翼手に転向。守備範囲は狭かったものの9補殺を記録するなど強肩で貢献した。この年打撃コーチに就任した中西太の指導が合い、前半戦は本塁打を量産したが、打点数もほぼ同数を記録し続けるなど勝負弱さが目立ち、シーズンを通しても得点圏打率は.231と低迷した。最終的には自己最多の27本塁打を記録。前半戦は不調の原に代わり4番打者として29試合に出場。4月21日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)で1試合3本塁打を記録している。8月17日のヤクルト戦(神宮球場)で高野光から本塁打を放ち、これが巨人軍通算6000本塁打となった。シーズンオフには原、斎藤雅樹と共に日本人としては巨人軍初の年俸1億円プレイヤーとなる。

1993年、長嶋茂雄が監督に就任し、原の三塁への再転向により再び一塁手に戻るも、股関節痛などから開幕から打撃不振に陥る。5月22日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)でスタメン落ちし、1990年9月11日から続けてきた307試合連続フルイニング出場記録が途切れ、同時にこの試合では途中出場もなく1989年5月27日から続けてきた450連続試合出場記録も途切れる。この年、打撃に対する意見の相違などによる、打撃コーチの中畑清との確執がマスコミで度々報じられる。監督の長嶋茂雄とも、駒田が自身の処遇について尋ねるためコンタクトを取ろうと試みても、無視をされるなど秋風が吹いた。駒田は「長嶋茂雄さんというスーパースターが監督になったときは嬉しかったが、打撃論とか打撃について遠征の時に聞きたかったが、聞くことはできなかった。」と回顧している。

首脳陣との意思疎通がうまくいかなくなっていたことに加え、同年シーズンオフ、同じ一塁手の中日・落合博満がFA宣言して巨人へ入団することが濃厚となり、合わせて自身のトレードが囁かれていたこともあって出場機会を奪われることに危機感を持った駒田は同様にFA宣言する。関東の球団を希望する駒田と、かつて巨人のヘッドコーチであった横浜ベイスターズ監督の近藤昭仁による、駒田獲得の希望がマッチし、横浜へ移籍。横浜球団は駒田移籍の直後、1980年代の看板選手であった6選手(高木豊、屋鋪要、大門和彦、山崎賢一、市川和正、松本豊)を突如として解雇したが、解雇された選手の年俸が駒田の獲得資金に充てられたのでは、と一部マスコミから揶揄・批判されたこともある。駒田は「僕はね、未だにOBとしても一歩引いているところがあるんです。それはあの時の生え抜き選手たちを大量解雇して、僕を獲ったっていう経緯がありましたからね」と述べている。2024年現在、巨人生え抜きで国内他球団にFA移籍した唯一の選手である。同じくFA権を行使した槙原寛己とは対照的に球団からの慰留はなく、駒田は恩師である藤田前監督の勧めもあって結果的に横浜移籍を選んだが、阪神、ダイエー、ロッテ、西武からも獲得の打診が寄せられていたと後年明かしている。

1994年、ベテランが大量に解雇され、チームが若返ったことに伴い、32歳を迎えるシーズンながらチーム最年長選手となる。シーズン開幕当初は3番打者を任され、序盤こそ本塁打を連発し好調だったが、徐々に成績が低下。中盤からは主に6番打者として出場するようになった。リーグ最多二塁打を記録した一方、併殺打もセ・リーグ記録となる29を数えた。

1995年、オールスターゲーム前までフル出場しながら、本塁打はわずかに2本。年間を通じても6本であった。このころよりパワー不足を補うため、大きく足を上げる打法を時々試すようになる。打撃用ヘルメットを被って守備をし、コンタクトレンズが目にあわないため黄色のゴーグルをかけていた。

1996年、5月、6月と好調で、移籍後初の3割達成を期待されたがその後失速。最終戦で3安打を放つも、あと1安打足りず打率.299に終わる。8月22日の対巨人戦(東京ドーム)で河野博文から満塁本塁打を放ち、セ・リーグ全球団から満塁本塁打の記録達成。8月末頃よりバットを寝かせる打撃フォームに改造し、閉幕までの1か月少々の間に5本塁打を記録するなど本塁打が出るようになる。前年本塁打数がわずか6本で衰えもささやかれていたが2年ぶりに2桁に乗せた。

1997年、4番打者のグレン・ブラッグスの退団により打順が繰り上がり、主に5番打者として出場。前年からの打撃改造が奏功し5年ぶりに打率3割を達成。打点も86と35歳にして自己最多の成績を残した。

1998年、当時新しく選手会長に就任した石井琢朗が、外様の駒田が経験などをスムーズに発言しやすいようにと要請し、キャプテンに就任。マシンガン打線の5番打者としてチームの日本一に貢献。前半戦では不振のロバート・ローズに代わり20試合で4番打者を務めたり、9月の初旬まで打点数ランキングの2位につけ打点王争いに絡むなど活躍したが、終盤には応援団に応援ボイコットをされるほどの深刻な打撃不振に陥る。結局打率.281で本塁打は9本に終わったが、前の打者の出塁率の高さと、2本の満塁本塁打を含む自身の満塁での強さ(満塁時の打率5割、打点31)などから81打点を挙げ、生涯唯一のベストナインを獲得する。西武ライオンズとの日本シリーズでは第4戦までわずか2安打とシーズン終盤の不調をひきずっていたが、第5戦(西武ドーム)で満塁での適時打を含む4安打5打点と大活躍をして調子を取り戻すと、日本一を決めた第6戦(横浜スタジアム)では、スコア0-0の8回裏、西口文也から決勝2点適時二塁打を放ちシリーズ優秀選手に選出された。シーズンオフ、野球教室で正座をした際に半月板を損傷し、手術を受ける。

1999年、打率.291の好成績を残すものの、ローズを始めとする打撃陣が皆絶好調であったため横浜のチーム打率.294を下回ってしまった。5月18日から6月17日まで25試合連続安打を記録。また、7月17日の対中日戦(ナゴヤドーム)で、巨人時代の1993年10月21日より続けていた連続試合出場記録が739試合で途切れる。12年連続100安打以上を達成。

2000年、リーグ最年長野手となる。2000安打まで残り73本で迎えたシーズンだったが、プレッシャーの為か開幕から精彩を欠き、打撃不振に陥る。家族も球場で観戦していた6月18日(父の日)の対広島東洋カープ戦で6回に代打を送られた際に憤激し、バットとヘルメットを投げつけてベンチ裏に下がり、山下大輔ヘッドコーチの許可を得て試合中に帰宅した。しかし、球場を去る際、取材陣に対し「(監督の権藤博と)野球観が違う」とコメントしたことで首脳陣批判と受け取られ、球団からペナルティとして罰金30万円と二軍降格を命じられた。この時、駒田は通算2000安打を目前としており、1か月の登録抹消期間を経て、9月6日の中日戦で野口茂樹から2000安打を達成、名球会に入会した。権藤は「引退してから駒田は分かってくれたんです。権藤さんが監督でなかったら2000安打は達成できなかったって。あのときは二軍に落とすしかなかったんですよ。上においても暴れるから。その代わり、10日間、二軍で何やってもいい。試合に出てもいいし、休んでもいい。その代わり、10日後、一軍に戻ってきたら5番を打たせる。」と言ってそのとおりにしました。今では駒田と会うと、笑って話をしますよ。」と述べている。達成直後に球団から引退勧告をされるも「2000本を打つためにやっていたと思われるのは嫌だった」という気持ちもあって拒否をし、9月22日に戦力外通告を受ける。結果として現役最終試合となった10月10日の対ヤクルト戦(横浜スタジアム)は4番打者として出場し、第1打席で前田浩継から適時打を放ち交代。現役続行を希望していたため退団セレモニーなどは行われなかった。

その後移籍先を探し続けたが、結局他球団からの正式な誘いはなく、翌2001年の1月18日に現役引退を表明。現役通算安打2006本は2021年現在、現役引退した名球会員の中では千葉ロッテマリーンズの福浦和也(通算2000本)に次ぐ少ない記録である。

2001年からニッポン放送の野球解説者を務める。この年の秋から始まったプロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスの4番打者として活躍。

2002年からテレビ東京の解説も兼任。

2005年、この年誕生した新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスの新監督に就任した田尾安志の要請で楽天一軍打撃コーチに就任。しかし、成績不振のため4月30日に二軍打撃コーチへ降格となり、シーズン終了後に解任された。

2006年からは再び野球評論家としてテレビ東京を中心に、tvk、東北放送、テレビ北海道、STVラジオにも出演。

2006年の読売ジャイアンツ春季キャンプにて、李承燁の臨時一塁守備コーチを務める。

2009年に当時スタメンに極端に少なかった左打者の育成を託され、横浜の一軍打撃コーチに就任。リーグ最下位となるチーム打率.239という打撃成績の責任を取り、シーズン終了後に退団した。

2010年からtvk、文化放送、スカイ・A sports+(主に楽天戦。2012年からJ SPORTSに移行)の野球解説者を務める。また、2010年に社団法人化した日本プロ野球名球会においては、監事を務めていた。同年の第17回IBAFインターコンチネンタルカップでは監督の岡崎郁からの指名で、日本代表の打撃コーチを務める。

2011年からTBSニュースバードの野球解説者も兼任。

2012年の千葉ロッテマリーンズ春季キャンプにて、大松尚逸の臨時一塁守備コーチを務める。また、2012年9月1日から常磐大学硬式野球部の臨時コーチを務め、同年10月22日にチームは3季ぶりに関甲新学生野球連盟一部リーグへの昇格を決めた。同年11月に行われたマスターズ甲子園2012に奈良情報商業高校・桜井商業高校OBの一員として出場、選手宣誓も行った。

2016年、総監督の江本孟紀からの要請で、独立リーグ・四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス監督に就任。前期は最下位だったが、後期は13期ぶりに勝率5割を越え、3位(2位の香川オリーブガイナーズと同勝率、直接対決の成績により順位決定)に浮上させ、4期ぶりに最下位を脱した。初年度終了後、チームを率いた感想を「選手を指導してみて歯がゆい部分もあり、正直『このまま指導しても無理かな』という気持ちもあった。でも、後期は一歩引いて見ていると、楽しくなった」と述べている。2017年、前期は超大物の元メジャー・リーガー、マニー・ラミレスの加入などもあり、序盤から首位を快走するも後半に失速し、2位に終わる。後期早々にラミレスは帰国。チームは3位に終わるも、年間を通じた勝率は2位となり、勝率5割を超えたのも7年ぶりであった。翌2018年前期は2位、後期は3位。シーズン終了後に留任が発表された。2019年前期は徳島インディゴソックスと首位を争い、最終日まで優勝の可能性があったが、2位に終わる。2019年7月12日、今シーズン限りでの高知監督退任を発表した。優勝を達成できなかったこと、NPBに選手を送り込めなかったことをその理由として挙げ、後任監督の選任を考慮してシーズン途中で発表したと述べている。後期は就任直後以来の4位(最下位)だった。9月10日のホーム最終戦後にはグラウンドでファンや選手と記念撮影をした。

高知の監督時代には、高知市帯屋町で「KOMA'S HOUSE」というバーを手伝っていた。このバーは、駒田の監督退任に伴い、2019年10月25日で閉店した。

2020年からは再びテレビ東京(BSテレ東)・tvk・TBSチャンネルの野球解説者、タレントとして復帰した。

2021年11月13日、巨人の三軍監督に就任することが明らかとなった。FA権を行使して退団した1993年以来29年ぶりの巨人復帰となる。

2022年7月26日および27日に行なわれるマイナビオールスターゲーム2022にて、セ・リーグのコーチとして出場予定だった原辰徳監督が新型コロナウイルス感染のため辞退したことから、駒田がコーチとして出場することが発表された。

2023年のオフシーズンには11月から12月にかけて台湾で開催されるアジア・ウィンター・リーグにDeNA、中日、楽天、西武の若手選手が集結したチーム「NPB WHITE」の監督として派遣された。

この選手の選手としての特徴に関する文献や情報源が必要です。 出典を明記するためにご協力をお願いします。 (2012年7月)

打撃面

満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を誇った。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は歴代5位の13本を記録し、満塁本塁打を打った試合はすべて勝利している。満塁本塁打の率で見れば、実に本塁打約15本に対して満塁本塁打1本という群を抜いている成績である。13本中、横浜在籍時に8本を記録しており、横浜時代(横浜時代の通算本塁打は63本)に限れば本塁打約8本に1本が満塁弾であった。また1994年から1999年まで6年連続で満塁本塁打を放っており、これはイチロー(NPB通算118本)と並び日本記録である。満塁時の通算打率.332(220打数73安打)、打点200。 読売ジャイアンツの第52代4番打者である。1988年 - 1992年にかけて、通算34試合と多くはないものの、133打数50安打14打点、7本塁打で打率.376という成績を残している。横浜ベイスターズでも、1998年 - 2000年にかけて22試合に4番で出場し、85打数29安打19打点、3本塁打で打率.341の成績を残している。 一軍デビュー当時は長距離砲として首脳陣から期待されていたが、極度の打撃不振に陥り、フォームの改善を重ねた結果、長打力を犠牲にして、ミート力を重視した打撃スタイルを確立して成績が安定し、レギュラーを獲得することができた。そして、基本的には単打でも良いからと、とにかくヒットを打って次の打者に繋げるそのスタイルは、横浜移籍後顕著となる。そのためか横浜移籍の1994年以後7年間で、本塁打数は13本が最多であり、2桁を記録したのも3回である。巨人時代より、打者の中でも背筋力など筋力全般が特に優れていたとされ、長距離砲が少なかった第2次藤田元司政権時代、試合前の練習時に長距離砲顔負けなほどライトスタンドに叩き込む駒田を見て監督の藤田も、「なぜ試合になると本塁打が少ないのだろう」と、記者達と共に訝しがっていたという。現に引退後も長打力そのものは衰えておらず、引退から9年も経った横浜のコーチ時代も、試合前のフリーバッティングでサク越えを連発し、若手選手を唖然とさせたという。 また、左打者としては日本プロ野球歴代1位の通算229併殺打(右打者を含めた総合では11位タイ)とシーズン29併殺打(1994年)を記録している。駒田は走者が一塁で打席に入った際、広く開いた一・二塁間をゴロで抜ける安打を打って、走者を一・三塁にすることをひとつの理想としていたというが、そのためか打ち損じのセカンドゴロが非常に多かった。また横浜移籍後は確実性を求め、バットを振り切らずに当てるだけの打撃をすることが多くなり、結果として打ち損じの内野ゴロを量産した。駒田自身は、体の大きい選手は、年齢を重ね下半身の力が衰えてくると上半身がかぶさるように打つようになってしまうため、内野ゴロが増えてしまうと分析している。 駒田自身は「単純な投打の力量が勝負を分けるわけではない」と思っており、「状況や敵バッテリーの性格から配球を読み取り、相手を上回るような自由な発想も必要」と語っている。

守備面

手首が柔らかくグラブ捌きが巧みで、一塁手として内野手からのショートバウンド、ハーフバウンド送球の捕球処理が非常に上手かった。浮足立つことなく、体をあまり動かさずに手首のハンドリングだけでこともなげにショートバウンド送球を捕球する姿が特徴的だった。また身長も高いため、内野手は思い切った送球ができ、巨人・横浜の内野守備力の向上に貢献した。バント処理にも定評があり、果敢なダッシュで相手打者にプレッシャーをかけ、下手投げの鋭い送球で二塁で走者を刺すこともしばしばあった。

人物

引退後はテレビ・ラジオでの野球解説の他に俳優業をこなしたり、多くのバラエティ番組や旅番組に出演している。夫人とともにテレビ出演することも多い。長女は日本プロ麻雀連盟所属のプロ雀士、駒田真子。 オールド・カーと1970 - 1980年代のアイドル歌謡のファン(特にお気に入りは沢田聖子の「今日に乾杯!」)であり、そのことをテーマにしてしばしばメディアに登場している。『'84ヤング・ジャイアンツ―歌の球宴』では「冬のリヴィエラ」のカヴァー・ソングを披露している。また、引退後、横浜・関内のベイスターズ通りに歌謡喫茶を出店していたこともある。フジテレビ系列で2015年6月10日に放送された『村上信五とスポーツの神様たち』に満塁の神様として出演した際、伊藤美奈子の『誘魚灯』をお気に入りの歌として紹介し、誘魚灯をBGMに駒田の生涯満塁本塁打全13本の映像が流された。前記の通り、高知監督時代の2018年3月からバー「KOMA’S HOUSE」を開店。売り上げはチームの運営資金に充ててもいる。 石井琢朗との対談の中で、「俺は大雑把(中略)俺は気が小さいから大雑把にしなきゃいけなかった」と自身の性格について語っている。 「「自分で辞めようと思わない限り、引退は来ない」と思っていた。だから特に引退とか引き際なんてことは考えたこともなかった。だって野球はレジャーだから。投手はスポーツだけど、打者はレジャー。スポーツだったら、週に6試合なんてできない。ボーリング、ゴルフ、そして野球なら週に何回でも試合ができる。そんなものに引退があるなんて、考えてもみなかった。」「成績が落ちてきた時は、「工夫が足りないんだ」と思っていた。ゴルフで言えば、「なんでこのショートホールでOBを打っちゃったんだろう」みたいな感覚。」と述べている。

詳細情報

年度別打撃成績

年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁死 犠打 犠飛 四球 敬遠 死球 三振 併殺打 打率 出塁率 長打率 OPS
1983 巨人 86 199 182 27 52 5 2 12 97 47 2 1 3 0 13 0 1 31 5 .286 .337 .533 .870
1984 79 91 84 11 20 3 1 2 31 11 1 0 0 0 7 0 0 21 3 .238 .297 .369 .666
1985 92 172 151 13 38 7 1 3 56 20 1 1 2 2 15 3 2 24 4 .252 .324 .371 .694
1986 64 120 101 13 26 6 0 3 41 18 1 0 3 1 15 1 0 21 2 .257 .350 .406 .756
1987 113 371 331 50 95 7 1 15 149 40 1 1 8 2 29 3 1 55 6 .287 .344 .450 .795
1988 116 404 365 45 112 22 2 11 171 40 0 4 6 1 32 4 0 43 11 .307 .362 .468 .830
1989 126 458 413 47 125 31 3 11 195 56 10 6 3 0 40 10 2 60 10 .303 .367 .472 .839
1990 130 528 470 70 135 27 3 22 234 83 7 3 0 5 51 6 2 70 11 .287 .356 .498 .854
1991 130 558 510 66 160 23 2 19 244 66 5 2 0 2 44 7 2 78 16 .314 .369 .478 .848
1992 130 556 505 73 155 25 1 27 263 64 1 4 0 2 47 7 2 70 10 .307 .367 .521 .888
1993 122 482 437 35 109 18 0 7 148 39 1 2 2 4 39 1 0 89 18 .249 .308 .339 .647
1994 横浜 130 558 525 60 149 33 2 13 225 68 0 1 0 3 28 3 2 95 29 .284 .321 .429 .749
1995 130 539 499 45 144 29 4 6 199 66 0 1 0 2 37 1 1 78 20 .289 .338 .399 .736
1996 130 534 485 57 145 22 1 10 199 63 1 3 1 2 45 6 1 78 18 .299 .358 .410 .769
1997 135 558 507 57 156 31 2 12 227 86 2 3 0 6 45 4 0 73 20 .308 .360 .448 .808
1998 136 586 551 63 155 25 1 9 209 81 0 2 0 8 27 1 0 86 21 .281 .311 .379 .690
1999 129 558 519 53 151 29 1 9 209 71 0 1 0 6 31 0 2 84 14 .291 .330 .403 .732
2000 85 326 306 25 79 14 0 4 105 34 2 0 0 1 18 2 1 57 11 .258 .301 .343 .644
通算:18年 2063 7598 6941 810 2006 357 27 195 3002 953 35 35 28 47 563 59 19 1113 229 .289 .342 .433 .774
    各年度の太字はリーグ最高

    太字年はゴールデングラブ賞受賞年

    ベストナイン:1回(一塁手部門:1998年)

    ゴールデングラブ賞:10回(一塁手部門:1989年 - 1991年、1993年 - 1999年)※受賞回数歴代4位タイ・一塁手部門歴代最多、一塁手部門を7年連続は王貞治に次ぐ歴代2位タイ(他に中畑清)

    日本シリーズMVP:1回(1989年)

    日本シリーズ優秀選手賞:1回(1998年)

    オールスターゲームMVP:1回(1992年・第3戦)

    月間MVP:1回(野手部門:1990年4月)

    最優秀JCB・MEP賞:1回(1992年)

    優秀JCB・MEP賞:2回(1995年、1997年)

    JA全農Go・Go賞:1回(最多二・三塁打賞、1994年8月)

    ヤナセ・ジャイアンツMVP賞:1回(1992年)

    初出場・初先発出場:1983年4月10日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(後楽園球場)、7番・一塁手で先発出場

    初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、1回裏に右田一彦から右越満塁本塁打 ※初打席初本塁打は史上16人目、満塁本塁打は史上初、プロ初安打が満塁本塁打は史上3人目

    100本塁打:1992年4月14日、対広島東洋カープ2回戦(東京ドーム)、7回裏に秋村謙宏から右中間へソロ ※史上168人目

    1000試合出場:1992年7月1日、対阪神タイガース17回戦(東京ドーム)、5番・右翼手で先発出場 ※史上303人目(佐藤兼伊知と同日達成)

    1000安打:1993年8月29日、対広島東洋カープ18回戦(東京ドーム)、12回裏に望月秀通から左前安打 ※史上170人目

    150本塁打:1995年9月7日、対読売ジャイアンツ24回戦(横浜スタジアム)、4回裏に木田優夫から2点本塁打 ※史上102人目

    1500試合出場:1996年6月8日、対阪神タイガース10回戦(札幌市円山球場)、6番・一塁手で先発出場 ※史上116人目

    1500安打:1997年5月6日、対広島東洋カープ4回戦(広島市民球場)、2回表に加藤伸一から中前安打 ※史上71人目

    300二塁打:1998年7月5日、対ヤクルトスワローズ11回戦(藤崎台県営野球場)、6回表に石井一久から右翼へ2点適時二塁打 ※史上20人目

    1000三振:1999年5月27日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、2回表に石井一久から ※史上24人目

    2000試合出場:2000年4月30日、対広島東洋カープ6回戦(横浜スタジアム)、5番・一塁手で先発出場 ※史上31人目

    350二塁打:2000年6月15日、対読売ジャイアンツ12回戦(東京ドーム)、2回表に桑田真澄から左翼線二塁打 ※史上20人目

    2000安打:2000年9月6日、対中日ドラゴンズ22回戦(ナゴヤドーム)、3回表に野口茂樹から左翼線二塁打 ※史上29人目

    3000塁打:2000年9月17日、対読売ジャイアンツ27回戦(東京ドーム)、4回表に上原浩治から中前安打 ※史上35人目

    25試合連続安打(1999年5月18日 - 6月17日)

    シーズン29併殺打(1994年)※セ・リーグ記録、NPB左打者記録

    通算229併殺打:NPB左打者記録

    プロ野球通算55000号本塁打:1987年9月7日、対横浜大洋ホエールズ24回戦(横浜スタジアム)、5回表に欠端光則から2点本塁打

    プロ野球通算70000号本塁打:1997年9月9日、対読売ジャイアンツ23回戦(東京ドーム)、4回表にバルビーノ・ガルベスから右中間へソロ

    代打の代打で満塁本塁打:1989年4月16日、対広島東洋カープ戦 ※NPB史上4人目

    オールスターゲーム出場:6回(1990年、1991年、1992年、1995年、1997年、1998年)

    50(1981年 - 1987年、2016年 - 2019年)

    10(1988年 - 2000年)

    75(2005年)

    73(2009年)

    70(2022年 - )

    tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE(tvkのプロ野球中継)

    文化放送ホームランナイター

    文化放送ライオンズナイター

    スカイ・Aスタジアム LIVE RAKUTEN わしづかみ

    断然 パ・リーグ主義!!

    TwellV プロ野球中継

    「がんばろう東北」東北楽天ゴールデンイーグルス野球中継

    侍プロ野球(TBSニュースバード制作の横浜DeNA主催試合、2011年 - )

    STVアタックナイター(STVラジオ)(2006年 - 2008年、2011年 - )

    ニッポン放送ショウアップナイター(ニッポン放送)(2001年 - 2004年)

    全力闘球(テレビ東京系列のプロ野球中継)(2002年 - 2004年、2006年 - 2008年)

    激生!スポーツTODAY(テレビ東京)

    スポーツ魂(テレビ東京)

    メガスポ!(テレビ東京)

    サンデーモーニング(TBS)

    TBC Exciting Ballpark 〜がんばれ! EAGLES〜(TBCテレビのプロ野球中継)(2008年)

    TBCイーグルスナイター(TBCラジオのプロ野球中継)

    TVhファイターズ中継

    これからはパ・リーグだ!(2011年、TOKYO MX) 解説担当

    FNSドキュメンタリー大賞 吠えろ闘犬球団 満塁男と最後に挑む(2016年11月8日、高知さんさんテレビ制作、フジテレビ

    ミスター・ルーキー(2002年、東宝) 武藤秀吾 役

    エクレール・お菓子放浪記(2011年5月21日公開) 重田 役

    NHKドラマ8 「バッテリー」(2008年、NHK) 稲村満男 役

    Lドラ・サギ師リリ子(2009年、テレビ東京) 近藤部長 役

    警視庁捜査一課9係 season8 第6話(2013年、テレビ朝日) 焼き鳥屋主人 役

    激辛ドM男子(2015年、テレビ東京) 中学生アイドルのマネージャー 役

    富士フイルム

    オロナミンCドリンク

    駒田徳広のミュージックブルペン(2012年 - )

    オヤジ歌謡ショーひょうたんから駒田!(2012年 - )

    熱血コマスポ(2015年 - )

    駒田徳広 満塁ナイト(2013年 - 、文化放送発NRNネット)※プロ野球ナイター中継の無い土曜日に「SET UP!!スペシャル」第1部として不定期放送

    『プロ野球の練習法から―新しい「理論」と「実践」を指導―』打撃編 (2003年) ティアンドエイチ株式会社

    『プロ野球場外乱闘!』(角川oneテーマ21:2001年7月) ISBN 978-4047040434

    『問いただす“間違いだらけ”の打撃指導』(ベースボール・マガジン社:2011年6月) ISBN 978-4583103686

    『DVDで“勝つ!野球”バッティング最強のコツ60 (コツがわかる本!)』(メイツ出版:2013年11月) ISBN 978-4780413106

    ^ 本名の読みは「とくひろ」だが、入団時に「のりひろ」と呼称され、そのままうやむやになって本人も使い分けているという(『FLASH』2012年3月20日号での本人のインタビューより)。ただし、最初の結婚までの間は「とくひろ」と名乗っていた。

    ^ 同じ試合の次の打席も満塁で迎え、満塁本塁打を放つ。しかし投手・駒田が藤本博史に満塁本塁打を打たれてチームは8-13で敗退している。

    ^ メジャーリーグでは2010年現在5人達成しているが、日本プロ野球では1995年、福岡ダイエーホークスのケビン・ミッチェルと駒田の2人だけであり、日本出身者では駒田のみである。

    ^ 駒田は「ナイター後、シャワーも浴びず荒川さんのもとに通う日が続きました。練習が終わるのは午前1時ごろでした。息を止めて何十回と素振りをする。日本刀でつるした新聞紙の短冊を切る。オフは朝から合気道の稽古。様々な練習をしました。年末年始も休みはなかった」と、当時の練習の厳しさを語っている(2012年12月2日、朝日新聞・奈良版、朝刊)。

    ^ 巨人時代の4番打者としての通算成績は、34試合、打率.376、7本塁打、14打点(1988年 - 1992年)。

    ^ しかし駒田本人は、実際には加藤の発言そのものに怒っていたわけではなく、場外本塁打だと思っていたことと、この一打で勝利を確信したことなどから興奮の余り「こぉんの!! バ〜カヤロ〜!!!」と叫んだが、「『バ〜カ』ってところだけ強烈に口を大きく開けて言ったもんだから。それがテレビで写っちゃって」と後年回想している。また「加藤本人にも多分聞こえてなかったと思います。聞こえてたのは金村義明くらいでしょう」とも述べている(『プロ野球乱闘読本』オークラ出版 2008年4月より要約)。

    ^ また、駒田はこの「バ〜カ!!!」発言以降、人格が変わるとの風評が立ち、相手チームからの内角の厳しいボールがめっきり減った気がするとも述べている(2006年12月20日付東京スポーツ、駒田が連載していたコラム『俺の話を聞け!』より)。

    ^ 駒田は後年、「中畑さんは猛ノックでチームを立て直すという考え方。<中略>中畑さんとは頻繁に衝突しました。考え方が決定的に違ったのです」と述べている(2012年12月04日、朝日新聞・奈良版、朝刊)。

    ^ FA移籍を選択した背景には、恩師の藤田元司のアドバイスがあったと言われる(『プロ野球「トレード&FA」大全』洋泉社編集部)。なお、中日ドラゴンズ、千葉ロッテマリーンズも駒田獲得に名乗りを上げている。

    ^ 駒田は12月9日に横浜市内のホテルで入団会見を行い、その席上で「大変やりがいを感じる。(横浜に)骨をうずめるつもりで頑張る。(横浜は)球場が街の真ん中にあって格好いいね」、「打率3割、本塁打30本ぐらいの結果を出しチームに貢献したい」と抱負を語っている。

    ^ 駒田の巨人軍史における位置づけについて。『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。1989年の日本シリーズMVP受賞が掲載され、簡単な経歴も添えられている。なお、同書では、槙原、吉村はいずれも単独でのエピソードが紹介されている。

    ^ 駒田の推定年俸1億2000万円と巨人への獲得保障金(駒田の前年度年俸の1.5倍の額)の合計額は約3億円であり、高木(推定年俸9840万円)、屋鋪(推定年俸4800万円)、大門(推定年俸2700万円)、山崎(推定年俸2700万円)、松本(推定年俸2040万円)、市川(推定年俸1900万円)、の年俸の合計額は約2億4000万円である。しかし、横浜球団は駒田獲得と大量解雇の関係を明確に否定している。駒田獲得資金の総額については、スポーツニッポンは総額3億6千万超、コストカット額は前述の6選手と引退する斉藤明夫(推定年俸7240万円)、その他戦力外になった5選手の年俸を加えて3億8000万円としている。

    ^ 巨人からFAで国内の他球団に移籍したのは駒田以外では小久保裕紀、サブロー、鶴岡一成、小笠原道大がいるが、全て移籍選手である(小久保、サブロー、鶴岡は前所属球団に復帰)。海外移籍では松井秀喜、上原浩治、高橋尚成がいる。

    ^ プロ入り18年目での初受賞は当時、遅咲きの新記録。

    ^ 横浜時代のみでは738試合であり、2012年現在、連続試合出場の横浜球団記録。

    ^ 1990年代の10年間、日本プロ野球において野村謙二郎に次いで2番目に安打を放っている(1459本)。

    ^ 事件の背景には、右投手(ネイサン・ミンチー)に対し(当日2打席2三振ではあったものの)左打者の自分を下げて右打者(中根仁)を代打に送ったことと、当時チームは最下位であったにも関わらずバントやミーティングをしないなど、攻撃面では特別な工夫をしない権藤博の監督采配に対する鬱積した不満もあったと言われる。

    ^ 就任時、「技術的なものは(年長で打撃チーフコーチ格の)杉村さんがいるのだから、自分の仕事は少ないと思う。選手とのコミュニケーションを大事にして、強かった頃の1番、2番コンビを復活させたい」と語っている。

    ^ 全満塁本塁打の内訳。第1号:1983年4月10日(後楽園)大洋・右田から。第2号:1984年5月2日(後楽園)代打で大洋・遠藤から。第3号:1988年4月23日(東京ドーム)大洋・岡本から。第4号:1989年4月16日(東京ドーム)代打で広島・紀藤から。第5号:1989年5月3日(東京ドーム)阪神・遠山から。第6号:1994年4月21日(神宮)ヤクルト・宮本から。第7号:1995年9月22日(横浜)広島・小林敦から。第8号:1996年5月4日(ナゴヤ)中日・中山から。第9号:1996年8月22日(東京ドーム)巨人・河野から。第10号:1997年7月16日(東京ドーム)巨人・趙から。第11号:1998年4月18日(横浜)中日・山本昌から。第12号:1998年5月10日(下関)広島・小林幹から。第13号:1999年8月19日(横浜)阪神・湯舟から。

    ^ 巨人時代の守備走塁コーチだった江藤省三は、『駒田はプロ入り当初から誰に教わるでもなくグラブ捌きがグニャグニャしすぎるくらい柔らかく、みんなが驚いたことを覚えている』と語っている。また、駒田は体は大きいが俊敏で当時は足も速く、元々器用だった選手がそのまま体が大きくなったのでは、と分析し、長身も含め一塁手としては理想的だったと語っている(2000年2月21日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社)。子供のころからショートバウンドボールの捕球は上手かったというが、プロ入り後はルーキーイヤーに同僚だったタコ足捕球の名一塁手・松原誠や、同じく一塁守備の上手かった山本功児に捕球のコツを教わったり、レギュラー一塁手の中畑清とショートバウンド送球を投げ合って捕球練習をしたという。

    ^ 立浪和義は、自身の現役時代に守備の上手かった一塁手として駒田を挙げ、「適当に捕っている感じだが、球がグラブにちゃんと収まっている感じがすごい」という表現で、ショートバウンド送球の捕球技術を評価している(立浪和義著『攻撃的守備の極意 ポジション別の鉄則&打撃にも生きるヒント』廣済堂出版)。

    ^ 松原誠は、駒田との対談の中で、駒田はバント処理の際、(現役選手の中で)「一番前に出」て相手打者にプレッシャーをかけている一塁手だと評価している(1999年12月20日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社より)。

    ^ 巨人を模したと思われる球団「東京ガリバーズ」の4番打者として出演し、甲子園球場で撮影された本塁打を打つシーンでは、実際に左中間スタンドに飛球を叩き込んでいる。

    ^ 「【8月19日】1999年(平11) 満塁男・駒田徳広の新記録は最後のグランドスラム」スポーツニッポン。2010年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月22日閲覧。

    ^ 【5月2日】1984年(昭59) 満塁男・駒田徳広 2年連続1号はグランドスラム スポーツニッポン

    ^ 「巨人3軍監督に「満塁男」駒田徳広氏 杉内俊哉投手コーチ/陣容一覧」日刊スポーツ、2021年11月15日。2022年8月3日閲覧。

    ^ 「満塁男」駒田徳広さん「挫折が人生変えた」…入試で落ちた天理にアンダースローで快投

    ^ 2012年11月17日、朝日新聞・奈良版、朝刊

    ^ 2012年11月19日、朝日新聞・奈良版、朝刊

    ^ 『問いただす“間違いだらけ”の打撃指導』(ベースボール・マガジン社:2011年6月)

    ^ 「[虎四ミーティング]駒田徳広(プロ野球解説者)<前編>「“無死満塁で敬遠”伝説の真相」(2/5)」現代ビジネス Sportsプレミア、2013年2月8日。2014年8月10日閲覧。

    ^ 週刊読売 1980年12月号

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    ^ 駒田徳広(横浜) 2000年9…:今昔「安打製造機」 2000安打 写真特集:時事ドットコム

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    サイン -Sign-|タレント一覧

    83 阿部慎之助

    76 二岡智宏(ヘッド兼打撃チーフ)

    75 橋上秀樹(作戦戦略)

    74 村田善則(総合)

    79 亀井善行(打撃)

    86 古城茂幸(内野守備)

    92 松本哲也(外野守備兼走塁)

    81 杉内俊哉(投手チーフ)

    77 内海哲也(投手)

    88 實松一成(バッテリー)

    73 桑田真澄(監督)

    78 川相昌弘(野手総合)

    80 矢野謙次(打撃チーフ)

    87 橋本到(打撃)

    71 山口鉄也(投手チーフ)

    72 大竹寛(投手)

    85 脇谷亮太(内野守備)

    82 鈴木尚広(外野守備兼走塁)

    89 加藤健(バッテリー)

    70 駒田徳広(監督)

    103 金城龍彦(野手総合)

    100 三澤興一(投手チーフ)

    107 野上亮磨(投手)

    105 吉川大幾(内野守備兼走塁)

    107 立岡宗一郎(外野守備兼走塁)

    102 市川友也(バッテリー)

    84 久保康生(投手)

    110 ウィーラー(打撃)

    15 大勢

    17 西舘勇陽

    18 菅野智之

    19 山﨑伊織

    20 戸郷翔征

    26 今村信貴

    28 高橋礼

    29 グリフィン

    30 近藤大亮

    31 赤星優志

    32 鈴木康平

    33 ケラー

    36 馬場皐輔

    41 中川皓太

    45 畠世周

    46 又木鉄平

    47 森田駿哉

    48 田中千晴

    49 バルドナード

    52 伊藤優輔

    53 高梨雄平

    54 直江大輔

    56 石田隼都

    57 髙橋優貴

    58 船迫大雅

    62 横川凱

    63 泉圭輔

    64 大江竜聖

    65 メンデス

    66 平内龍太

    68 代木大和

    90 山田龍聖

    91 堀田賢慎

    93 松井颯

    96 菊地大稀

    97 井上温大

    99 京本眞

    22 小林誠司

    24 大城卓三

    27 岸田行倫

    37 郡拓也

    67 山瀬慎之助

    94 喜多隆介

    00 湯浅大

    0 増田大輝

    2 吉川尚輝

    5 門脇誠

    6 坂本勇人

    25 岡本和真

    35 泉口友汰

    39 モンテス

    40 中山礼都

    55 秋広優人

    60 菊田拡和

    61 増田陸

    95 中田歩夢

    98 ウレーニャ

    7 長野久義

    8 丸佳浩

    12 萩尾匡也

    13 梶谷隆幸

    23 立岡宗一郎

    38 岡田悠希

    42 ヘルナンデス

    43 重信慎之介

    44 佐々木俊輔

    50 オコエ瑠偉

    51 浅野翔吾

    59 若林楽人

    012 三浦克也

    016 千葉隆広

    018 木下幹也

    019 園田純規

    020 戸田懐生

    023 田村朋輝

    026 吉村優聖歩

    028 富田龍

    034 森本哲星

    035 ルシアーノ

    041 黃錦豪

    047 鴨打瑛二

    063 花田侑樹

    006 坂本勇人

    010 大津綾也

    022 亀田啓太

    004 村山源

    005 田上優弥

    007 宇都宮葵星

    008 相澤白虎

    027 北村流音

    003 鈴木大和

    009 笹原操希

    013 ティマ

    031 三塚琉生

    033 平山功太

    037 フルプ

    044 大城元

    051 舟越秀虎

    藤城和明 2005 - 2007

    定岡智秋 2008 - 2013

    弘田澄男 2014 - 2015

    駒田徳広 2016 - 2019

    吉田豊彦 2020 - 2023

    定岡智秋 2024 -

    金田正一

    稲尾和久

    小山正明

    米田哲也

    梶本隆夫

    皆川睦雄

    村山実

    鈴木啓示

    堀内恒夫

    山田久志

    江夏豊

    平松政次

    東尾修

    村田兆治

    北別府学

    佐々木主浩

    高津臣吾

    工藤公康

    野茂英雄

    山本昌広

    岩瀬仁紀

    黒田博樹

    上原浩治

    藤川球児

    平野佳寿

    山内一弘

    榎本喜八

    野村克也

    長嶋茂雄

    広瀬叔功

    張本勲

    王貞治

    江藤慎一

    土井正博

    高木守道

    松原誠

    柴田勲

    大杉勝男

    藤田平

    衣笠祥雄

    福本豊

    山崎裕之

    山本浩二

    有藤通世

    若松勉

    谷沢健一

    加藤秀司

    門田博光

    大島康徳

    新井宏昌

    秋山幸二

    駒田徳広

    立浪和義

    鈴木一朗(イチロー)

    清原和博

    古田敦也

    野村謙二郎

    石井琢朗

    松井秀喜

    田中幸雄

    前田智徳

    金本知憲

    松井稼頭央

    小笠原道大

    稲葉篤紀

    宮本慎也

    小久保裕紀

    アレックス・ラミレス

    中村紀洋

    谷繁元信

    井口資仁

    和田一浩

    新井貴浩

    福留孝介

    荒木雅博

    青木宣親

    阿部慎之助

    鳥谷敬

    内川聖一

    福浦和也

    坂本勇人

    栗山巧

    大島洋平

    1950 別当薫

    1951 南村不可止

    1952 別所毅彦

    1953 川上哲治

    1954 杉下茂

    1955 別所毅彦

    1956 豊田泰光

    1957 大下弘

    1958 稲尾和久

    1959 杉浦忠

    1960 近藤昭仁

    1961 宮本敏雄

    1962 土橋正幸, 種茂雅之

    1963 長嶋茂雄

    1964 J.スタンカ

    1965 長嶋茂雄

    1966 柴田勲

    1967 森昌彦

    1968 高田繁

    1969 長嶋茂雄

    1970 長嶋茂雄

    1971 末次民夫

    1972 堀内恒夫

    1973 堀内恒夫

    1974 弘田澄男

    1975 山口高志

    1976 福本豊

    1977 山田久志

    1978 大杉勝男

    1979 高橋慶彦

    1980 J.ライトル

    1981 西本聖

    1982 東尾修

    1983 大田卓司

    1984 長嶋清幸

    1985 R.バース

    1986 工藤公康

    1987 工藤公康

    1988 石毛宏典

    1989 駒田徳広

    1990 O.デストラーデ

    1991 秋山幸二

    1992 石井丈裕

    1993 川崎憲次郎

    1994 槙原寛己

    1995 T.オマリー

    1996 T.ニール

    1997 古田敦也

    1998 鈴木尚典

    1999 秋山幸二

    2000 松井秀喜

    2001 古田敦也

    2002 二岡智宏

    2003 杉内俊哉

    2004 石井貴

    2005 今江敏晃

    2006 稲葉篤紀

    2007 中村紀洋

    2008 岸孝之

    2009 阿部慎之助

    2010 今江敏晃

    2011 小久保裕紀

    2012 内海哲也

    2013 美馬学

    2014 内川聖一

    2015 李大浩

    2016 B.レアード

    2017 D.サファテ

    2018 甲斐拓也

    2019 Y.グラシアル

    2020 栗原陵矢

    2021 中村悠平

    2022 杉本裕太郎

    2023 近本光司

    2024 桑原将志

    1957 豊田泰光

    1958 中西太

    1959 杉山光平

    1960 近藤和彦

    1961 塩原明

    1962 岩下光一

    1963 王貞治

    1964 K.ハドリ

    1965 林俊彦

    1966 長嶋茂雄

    1967 D.スペンサー

    1968 柴田勲

    1969 足立光宏

    1970 黒江透修

    1971 黒江透修

    1972 長嶋茂雄

    1973 高田繁

    1974 山崎裕之

    1975 中沢伸二, 外木場義郎

    1976 B.ウイリアムス

    1977 福本豊

    1978 若松勉

    1979 水谷実雄

    1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰

    1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正

    1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義

    1983 田淵幸一, テリー, 中畑清

    1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊

    1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二

    1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実

    1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己

    1988 清原和博, 森山良二, 郭源治

    1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸

    1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤

    1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎

    1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也

    1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也

    1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦

    1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾

    1996 大島公一, 鈴木平, イチロー

    1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛

    1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広

    1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司

    2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成

    2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満

    2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之

    2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎

    2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信

    2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁

    2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲

    2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博

    2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広

    2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一

    2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平

    2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩

    2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー

    2013 田中将大, 銀次, 内海哲也

    2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太

    2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太

    2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔

    2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大

    2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃

    2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩

    2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐

    2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎

    2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆

    2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸

    2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ

    1951 川上哲治, 野口明, 林義一

    1952 飯島滋弥

    1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男

    1954 中西太, 山内和弘

    1955 山内和弘, 西沢道夫

    1956 森下正夫, 吉田義男

    1957 大下弘, 宮本敏雄

    1958 宮本敏雄, 中西太

    1959 山内和弘, 中利夫

    1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲

    1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎

    1962 ブルーム, 張本勲

    1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅

    1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ

    1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一

    1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識

    1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男

    1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司

    1969 土井正博, 船田和英

    1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎

    1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司

    1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩

    1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之

    1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲

    1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博

    1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司

    1977 若松勉, 野村克也, 王貞治

    1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之

    1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二

    1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊

    1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博

    1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之

    1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満

    1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓

    1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美

    1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章

    1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博

    1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三

    1989 村田兆治, 彦野利勝

    1990 R.ブライアント, 清原和博

    1991 古田敦也, 広沢克己

    1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広

    1993 清原和博, T.オマリー

    1994 秋山幸二, G.ブラッグス

    1995 落合博満, 松井秀喜

    1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲

    1997 松井稼頭央, 清原和博

    1998 川上憲伸, 松井秀喜

    1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志

    2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博

    2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋

    2002 G.アリアス, 的山哲也

    2003 高橋由伸, 金本知憲

    2004 松坂大輔, SHINJO

    2005 金城龍彦, 前田智徳

    2006 青木宣親, 藤本敦士

    2007 A.ラミレス, 阿部慎之助

    2008 山﨑武司, 荒木雅博

    2009 青木宣親, 松中信彦

    2010 阿部慎之助, 片岡易之

    2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀

    2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼

    2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一

    2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐

    2015 藤浪晋太郎, 會澤翼

    2016 筒香嘉智, 大谷翔平

    2017 内川聖一, A.デスパイネ

    2018 森友哉, 源田壮亮

    2019 森友哉, 近本光司

    2020 (中止)

    2021 菊池涼介, 島内宏明

    2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐

    2023 柳田悠岐, 万波中正

    2024 牧秀悟,佐藤都志也

    1950 西沢道夫

    1951 川上哲治

    1952 西沢道夫

    1953 川上哲治

    1954 西沢道夫

    1955 川上哲治

    1956 川上哲治

    1957 川上哲治

    1958 川上哲治

    1959 藤本勝巳

    1960 近藤和彦

    1961 藤本勝巳

    1962 王貞治

    1963 王貞治

    1964 王貞治

    1965 王貞治

    1966 王貞治

    1967 王貞治

    1968 王貞治

    1969 王貞治

    1970 王貞治

    1971 王貞治

    1972 王貞治

    1973 王貞治

    1974 王貞治

    1975 王貞治

    1976 王貞治

    1977 王貞治

    1978 王貞治

    1979 王貞治

    1980 谷沢健一

    1981 藤田平

    1982 谷沢健一

    1983 谷沢健一

    1984 谷沢健一

    1985 R.バース

    1986 R.バース

    1987 R.バース

    1988 落合博満

    1989 L.パリッシュ

    1990 落合博満

    1991 落合博満

    1992 J.パチョレック

    1993 広沢克己

    1994 大豊泰昭

    1995 T.オマリー

    1996 L.ロペス

    1997 L.ロペス

    1998 駒田徳広

    1999 R.ペタジーニ

    2000 R.ペタジーニ

    2001 R.ペタジーニ

    2002 R.ペタジーニ

    2003 G.アリアス

    2004 T.ウッズ

    2005 新井貴浩

    2006 T.ウッズ

    2007 T.ウッズ

    2008 内川聖一

    2009 T.ブランコ

    2010 C.ブラゼル

    2011 栗原健太

    2012 T.ブランコ

    2013 T.ブランコ

    2014 M.ゴメス

    2015 畠山和洋

    2016 新井貴浩

    2017 J.ロペス

    2018 D.ビシエド

    2019 D.ビシエド

    2020 村上宗隆

    2021 J.マルテ

    2022 J.オスナ

    2023 大山悠輔

     投  佐々木主浩

     捕  谷繁元信

     一  駒田徳広

     二  R.ローズ

     三  江藤智

     遊  石井琢朗

     外  松井秀喜 / 鈴木尚典 / 前田智徳

    1972 王貞治

    1973 王貞治

    1974 王貞治

    1975 王貞治

    1976 王貞治

    1977 王貞治

    1978 王貞治

    1979 王貞治

    1980 王貞治

    1981 藤田平

    1982 中畑清

    1983 中畑清

    1984 中畑清

    1985 中畑清

    1986 中畑清

    1987 中畑清

    1988 中畑清

    1989 駒田徳広

    1990 駒田徳広

    1991 駒田徳広

    1992 J.パチョレック

    1993 駒田徳広

    1994 駒田徳広

    1995 駒田徳広

    1996 駒田徳広

    1997 駒田徳広

    1998 駒田徳広

    1999 駒田徳広

    2000 R.ペタジーニ

    2001 R.ペタジーニ

    2002 R.ペタジーニ

    2003 G.アリアス

    2004 渡邉博幸

    2005 A.シーツ

    2006 A.シーツ

    2007 A.シーツ

    2008 新井貴浩, 栗原健太

    2009 栗原健太

    2010 (該当者なし)

    2011 栗原健太

    2012 畠山和洋

    2013 J.ロペス

    2014 森野将彦

    2015 畠山和洋

    2016 J.ロペス

    2017 J.ロペス

    2018 J.ロペス

    2019 J.ロペス

    2020 D.ビシエド

    2021 D.ビシエド

    2022 中田翔

    2023 大山悠輔

    2024 岡本和真

     投  西本聖

     捕  中尾孝義

     一  駒田徳広

     二  正田耕三

     三  W.ロードン

     遊  川相昌弘

     外  山崎賢一 / 栗山英樹 / 彦野利勝

     投  斎藤雅樹

     捕  古田敦也

     一  駒田徳広

     二  正田耕三

     三  岡崎郁

     遊  川相昌弘

     外  山崎賢一 / 柳田浩一 / 彦野利勝

     投  桑田真澄

     捕  古田敦也

     一  駒田徳広

     二  正田耕三

     三  角富士夫

     遊  川相昌弘

     外  R.J.レイノルズ / 飯田哲也 / 前田智徳

     投  今中慎二 / 桑田真澄

     捕  古田敦也

     一  駒田徳広

     二  和田豊

     三  石井琢朗

     遊  川相昌弘

     外  新庄剛志 / 飯田哲也 / 前田智徳

     投  桑田真澄

     捕  西山秀二

     一  駒田徳広

     二  和田豊

     三  石井琢朗

     遊  川相昌弘

     外  新庄剛志 / 飯田哲也 / 前田智徳

     投  斎藤雅樹

     捕  古田敦也

     一  駒田徳広

     二  立浪和義

     三  石井琢朗

     遊  野村謙二郎

     外  音重鎮 / 飯田哲也 / 緒方孝市

     投  斎藤雅樹

     捕  西山秀二

     一  駒田徳広

     二  立浪和義

     三  江藤智

     遊  川相昌弘

     外  新庄剛志 / 飯田哲也 / 緒方孝市

     投  桑田真澄

     捕  古田敦也

     一  駒田徳広

     二  立浪和義

     三  進藤達哉

     遊  宮本慎也

     外  新庄剛志 / 飯田哲也 / 緒方孝市

     投  桑田真澄

     捕  谷繁元信

     一  駒田徳広

     二  R.ローズ

     三  進藤達哉

     遊  石井琢朗

     外  新庄剛志 / 高橋由伸 / 緒方孝市

     投  上原浩治

     捕  古田敦也

     一  駒田徳広

     二  仁志敏久

     三  進藤達哉

     遊  宮本慎也

     外  新庄剛志 / 高橋由伸 / 緒方孝市

    1位:原辰徳

    2位:駒田徳広

    3位:小原正行

    4位:瀬戸山満年(入団拒否)

    83 岡崎郁

    79 大西崇之

    81 阿波野秀幸

    82 駒田徳広

    12 岩尾利弘

    13 須永英輝

    16 加賀繁

    17 大場翔太

    18 笠原将生

    19 梶本達哉

    46 植村祐介

    47 赤川克紀

    60 佐藤祥万

    65 清原大貴

    2 中村悠平

    27 市川友也

    46 會澤翼

    4 小窪哲也

    24 美沢将

    36 谷哲也

    37 野原将志

    50 翔太

    55 大田泰示

    56 中川大志

    1 橋本到

    3 枡田慎太郎

    7 中村晃

    10 岩本貴裕

    ISNI

    VIAF

    日本

    駒田徳広

    日本の野球選手

    読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手

    横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手

    NPBオールスターゲーム選出選手

    NPBオールスターゲームMVP

    東北楽天ゴールデンイーグルス関連人物

    高知ファイティングドッグス

    日本の野球監督

    名球会

    野球解説者

    日本の男優

    日本のタレント

    奈良県出身のスポーツ選手

    1962年生

    存命人物

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    外部リンクがリンク切れになっている記事/2017年9月

    外部リンクがリンク切れになっている記事/2017年10月

2024/11/15 18:48更新

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