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佐伯貴弘の情報 (さえきたかひろ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

佐伯貴弘の情報(さえきたかひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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佐伯 貴弘さんについて調べます

■名前・氏名
佐伯 貴弘
(読み:さえき たかひろ)
■職業
野球選手
■佐伯貴弘の誕生日・生年月日
1970年4月18日 (年齢54歳)
戌年(いぬ年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
大阪出身

(昭和45年)1970年生まれの人の年齢早見表

佐伯貴弘と同じ1970年生まれの有名人・芸能人

佐伯貴弘と同じ4月18日生まれの有名人・芸能人

佐伯貴弘と同じ出身地大阪府生まれの有名人・芸能人


佐伯貴弘と関係のある人

亀澤恭平: オフの秋季キャンプでは二軍監督の佐伯貴弘と相談し、バッティングフォームを大きく変更し、当て逃げからしっかり振り抜く形とした。


森中聖雄: 2000年5月25日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(福岡ドーム)では0対0で迎えた9回裏の二死一・二塁のピンチで3番手投手として登板し高橋由伸を初球で一塁ゴロに打ち取ると、延長10回表に佐伯貴弘が岡島秀樹から左前に適時打を放ち、10回裏に登板した抑え・福盛和男がリードを守りきったことで同シーズン初勝利を「1球勝利投手」(当時プロ野球史上10人目)の記録で飾った。


藪恵壹: 1000奪三振:2004年8月11日、対横浜ベイスターズ16回戦(札幌ドーム)、5回裏に佐伯貴弘から ※史上112人目


野口茂樹: その次の登板となった8月21日の対横浜戦(横浜スタジアム)でも、3回にタイロン・ウッズからソロ本塁打を浴びると、続く4回には佐伯貴弘に3点本塁打を被弾、直後にはウッズに2本目のソロ本塁打を浴びるなどして3イニングで7失点KOされ、投手コーチの森繁和から「使ったオレが悪い」と酷評された。


田中一徳: 初出場:2000年4月1日、対阪神タイガース2回戦(横浜スタジアム)、9回表に佐伯貴弘に代わり右翼手で出場


小池正晃: 大矢明彦新監督の下、前年まで内野手の佐伯貴弘や内川が外野手に転向するという激しいポジション争いの中、打撃でアピールすることが出来ず、レギュラー定着には至らなかった。


谷繁元信: 2016年シーズンからは監督専任となったが、チームの成績不振は改善されず、最下位であるなど、その責任をとらされる形で一軍守備コーチの佐伯貴弘と共に8月9日に休養(事実上の解任)が発表され、当日の対東京ヤクルトスワローズ戦からヘッドコーチの森繁和が監督代行となった。


槙原寛己: 1点を失い、なおも走者一塁のピンチも佐伯貴弘をライトフライに打ち取りチェンジかと思われたがボークが宣告され打ち直しになってしまう。


吉村裕基: 2008年は、強肩を生かすため昨秋から再び外野守備に取り組み、同年は佐伯貴弘とポジションを入れ替える形で右翼手のみで出場した。


堂上剛裕: 実際にはジョエル・グスマンと佐伯貴弘の加入などによって、前年に続いて主に代打で起用されたが、7月1日の対巨人戦(東京ドーム)では9回表二死満塁の場面で代打で登場。


鈴木尚典: レフトのポジションは佐伯貴弘に奪われ、同じく外野手の横浜高校の後輩の多村仁の台頭でその存在感が薄れた。


平田良介: この「酒ネタ」は、その後のヒーローインタビューで、中日の他の選手(佐伯貴弘、小田幸平、小池正晃)にも使われた。


前田幸長: 1イニング4奪三振:2005年4月6日、対横浜ベイスターズ2回戦(横浜スタジアム)、6回裏に佐伯貴弘(振り逃げ)・多村仁・ケビン・ウィット・村田修一から ※史上11人目(12度目)


古木克明: しかし、多村仁、佐伯貴弘、金城龍彦が揃って3割に到達し、外野のレギュラーが固定されていたため、主に代打や多村仁あるいはタイロン・ウッズの欠場時として出場。


内藤雄太: ある日の試合前、内藤に「今日打ってくるからな」と声をかけてきた佐伯貴弘がフェンス直撃のタイムリーツーベースを放って以来、ベイスターズと佐伯のファンになったというエピソードがある。


谷佳知: 2年生時に一学年上の宮地克彦とともに第71回全国高等学校野球選手権大会に出場し、1番右翼手として本塁打を放つなどチームのベスト4進出に貢献した(また、2学年先輩に佐伯貴弘がおり、佐伯とは大学でもチームメイトとなった)。


波留敏夫: 鈴木尚典、佐伯貴弘らとのし烈な外野のレギュラー争いに勝つことができず、規定打席未達に終わる。


大矢明彦: また、吉村の一塁コンバートにより、前年2006年の不調から一転して開幕から復調したベテラン一塁手・佐伯貴弘は年間を通じて外野手として出場することになった。


浅尾拓也: その時この年から中日に加入した佐伯貴弘から5月13日の阪神戦(甲子園)で3連打されて1点を失った試合後に「俺が対戦していた時のタクはガムシャラに腕を振っていた。


中根仁: 1998年はキャンプから中堅手と右翼手のレギュラーの座を佐伯貴弘、ホセ・マラベ、井上純と4人で争い、それぞれがオープン戦でも好調を維持していた。


伊良部秀輝: 高校では1学年後輩に佐伯貴弘、2学年後輩に宮地克彦がおり、佐伯とは寮で同部屋だった。


鈴木孝政: そのため、シーズン終了後のフェニックスリーグでは、渡邉博幸が監督代行を務めた(後任の二軍監督は佐伯貴弘)。


石原慶幸: 9月7日の対横浜戦において、10回裏2死満塁打者佐伯貴弘の4球目に、31年ぶりとなるサヨナラ打撃妨害を犯した。


ダン=ミセリ: 4月5日の横浜ベイスターズ戦、同点の12回裏で登板し、先頭の金城龍彦に二塁打を打たれ、佐伯貴弘の敬遠後に代打ケビン・ウィットは三振するが、続く多村仁にフェンス直撃のサヨナラ安打を打たれ、敗戦投手となる。


音重鎮: 広島市民球場の外野フェンスをよじ登って横浜・佐伯貴弘の本塁打性の飛球を好捕。


中根仁: 現役時代から周りから愛される兄貴分的な存在で、横浜で左右のライバル関係でもあった佐伯貴弘は、負けて落ち込んだ時にチームの士気を下げないように、自分を抑えて常に周りに気を使いチームメイトを和ませてくれる存在だったと語る。


デニー友利: このせいか、1学年下の潮崎哲也や、2学年下の盛田幸妃・野村弘樹、3学年下の谷繁元信、佐伯貴弘からも「デニー」と敬称抜きで呼ばれることがある。


進藤達哉: そして10月8日の対阪神タイガース最終戦(27回戦:阪神甲子園球場)では、2対3(1点ビハインド)で迎えた8回表に二死満塁で打席に立ち、フルカウントから相手投手・伊藤敦規が投げた外角寄りの直球を右翼前へ流し打ち、三塁走者のローズと二塁走者の佐伯貴弘が生還したことにより、勝ち越し適時打となる。


畠山準: しかし、同じ外野手の鈴木尚典、波留敏夫、佐伯貴弘ら若手の台頭もあり、この年より出場機会を徐々に減らす。


弘田澄男: 」、佐伯貴弘は「僕が1年目に二軍に行ったときに付きっきりでやってくれたのは竹之内さんです。


佐伯貴弘の情報まとめ

もしもしロボ

佐伯 貴弘(さえき たかひろ)さんの誕生日は1970年4月18日です。大阪出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴、人物・エピソードなどについてまとめました。卒業、テレビ、引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。佐伯貴弘の現在の年齢は54歳のようです。

佐伯貴弘のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

佐伯 貴弘(さえき たかひろ、1970年4月18日 - )は、大阪府大阪市東成区出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、左投左打)・二軍監督・コーチ。業務提携先はTCP-ARTIST。

小学2年生のときに同級生の誘いで野球を始める。その年に父を亡くし、家計を支えるために働き詰めだった母と祖母の姿を見て、この人たちのために自分はプロ野球選手になろうと決心する。子どもの頃から背が高く一学年上のチームでプレーし、投手で4番打者だった。中学時代はボーイズリーグの大阪東ジャガーズに所属。尽誠学園高校時代は2年時に第69回全国高等学校野球選手権大会に「6番・左翼手」で出場し(本来ポジションは一塁か投手だったが先輩に譲り左翼を守った)2試合で2安打を記録した。また、高校の1学年先輩に伊良部秀輝(元ロッテほか)、1学年後輩に宮地克彦(元ソフトバンクほか)、(尽誠・大商大通じて)2学年後輩に谷佳知(元オリックスほか)がおり、伊良部とは寮で同部屋だった。高校卒業後は大阪商業大学へ進学。関西六大学リーグで通算95試合出場し、330打数104安打、打率.315、12本塁打、57打点を記録。1991年に春季と秋季の二季連続でリーグ戦の三冠王になった。同年は日米大学野球選手権大会の日本代表にも選出された。最優秀選手1回、ベストナイン4回受賞。通算12本塁打、1季4本塁打、3試合連続本塁打(2度)はいずれも新制関西六大学リーグ記録である。投手としても対龍谷大学戦で完封勝利を挙げるなど2勝している。

1992年度プロ野球ドラフト会議にて横浜ベイスターズが2位指名で交渉権を獲得し、契約金7000万円、年俸720万円(金額はいずれも推定)で契約を合意し、入団。横浜はこの年のオフに「横浜大洋ホエールズ」から改称したため、「ベイスターズ」としての初のドラフト指名選手の一人となった。そのため、ドラフト会議当日にベイスターズから指名がかかった事を告げられた際には思わず「どこやそれ!」と言ってしまった。

1993年5月23日の対広島東洋カープ戦に代打で初出場。

1994年は107試合に出場し、プロ入り初の2桁本塁打を記録。

1995年にオールスターゲームにファン投票で初選出される。成績が伴わないことから辞退を考えていたものの、当時巨人に在籍していた落合博満に「お前を純粋に見たいと思って入れた人もいる。出ろ」と言われて出場を決意した。

1996年は開幕スタメン左翼手を勝ち取り、チームの快進撃とも相まって、斎藤隆と共に4月の月間MVPに選出される。5月には月間41安打を記録し、ジム・パチョレックが持つ球団の月間安打記録に並ぶ。前半戦は打率ランキングの上位に顔を出し、グレン・ブラッグスがスタメンから外れた時は右翼手として出場し、オールスターゲームにも2年連続で出場。後半戦に入り調子を落とすも、プロ入り初の規定打席に到達した。

1997年は前年まで守っていた左翼手のレギュラーをこの年首位打者を獲得した鈴木尚典に明け渡し、右翼手として新外国人ビル・セルビーと併用され、打率.260、4本塁打という平凡な成績に終わる。

1998年は近鉄バファローズから移籍してきた中根仁と左右の併用でマシンガン打線の6番打者として活躍した。38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献した。7月15日の対巨人戦で槙原寛己との打席で右飛に打ち取られたが、槙原の投球が直前にボークと判断されたためアウトが取り消しとなり、その仕切り直しの打席で2点本塁打を放った。この試合は当初7-0で巨人の一方的な展開であったが、この本塁打で12-12の同点となり、その後のサヨナラ勝利を呼び込むきっかけとなった。また、優勝が決まった10月8日の阪神戦では、2-3と1点ビハインドの8回表に二死一塁の場面で四球を選び、その後進藤達哉の2点適時打で逆転。佐伯が決勝のホームを踏んだ。

1999年も好調を維持し、規定打席には届かなかったがプロ入り初の打率3割を記録する。また入団年以来の一塁守備に就く。2000年は正一塁手の駒田徳広の不調により一塁手での出場が増え、1996年以来となる自身2度目の規定打席到達を果たす。

2001年、駒田の退団に伴い、背番号を大学時代にもつけていた10へ変更。3回目のオールスターゲーム出場、140試合フル出場を果たし、初の2桁盗塁と打率ランキングベスト10入りを記録した。

2002年、2003年と故障もあってあまり調子が上がらなかったが、2004年は夏場以降調子を上げていき、最終的にリーグ3位の打率.322を記録するなど自己最高の成績を残した。7月16日の対広島戦でジョン・ベイルから遊撃内野安打で1000本安打達成。9月3日の対ヤクルトスワローズ戦で鎌田祐哉から通算100本塁打を達成。日米野球ではフランシスコ・ロドリゲスから日本人選手では全試合で唯一人本塁打を放った。 しかし、球団からの評価は低く、シーズン終了後にFA権を行使した場合も引き留めないという通告までされたが、翌年から新しく監督就任が決まっていた牛島和彦が引き止め残留した。同年の契約更改ではたくさんの人に来てほしいということから、入場料を安くしてほしいという提案もしている。

2005年はタイロン・ウッズの代替として獲得したケビン・ウィットがインフルエンザで欠場したため、新監督の牛島から開幕から4番打者に指名される。結果的に全試合4番として出場を果たし、自己最多の88打点を記録し、4番の責任を果たしたが球団からの評価は低く契約更改でも四番打者としては本塁打が少ないと現状維持を提示されたがそれを保留。最終的には微増の提示を勝ち取り、オフには長打力を意識したフォーム改造に着手するがコレが翌年の大不振 に繋がってしまった。

2006年も引き続き開幕から4番を任されるが打率が2割前後に低迷。それでも4番での起用が続き「4番・佐伯」とコールされると、対戦相手のファンから拍手が起こってしまった。4月28日の対広島戦では決勝点となる逆転3ランを放ちお立ち台に立ったが、それまでの打撃不振から涙を流す一幕もあった。6月になってからは成長を見せていた村田修一に4番の座を明け渡した。9月7日の対広島戦では延長10回・二死満塁の場面で佐伯に打順が回ってくるが、カウント2ボール1ストライクからファウルを打った際に捕手の石原慶幸のミットが佐伯のバットに当たったため、打撃妨害となり1975年の池辺巌以来31年ぶりとなる「サヨナラ打撃妨害」で勝利するという珍事があった。この年は故障や不調の影響で86試合の出場に留まり、打率も2割台前半と低迷し、5本塁打に終わった。契約更改でも半額以下の6000万円での提示を受けたがこれにサインした。

2007年に初心に返るという意味合いを兼ね、背番号を入団時の26へ変更。一塁は吉村裕基が固定されたため、開幕はベンチからのスタートになった。しかし他の選手の不振もあり3年ぶりに外野で先発起用されると好調な打撃を見せ5番打者に定着し、125試合に出場し、2年ぶりの規定打席に到達し、2桁本塁打、3年ぶりの打率3割を達成した。年俸も一億円台に返り咲いた。

2008年は開幕戦から「5番・一塁手」で出場するが不振に陥り、好調の内川聖一にポジションを明け渡した。代打での打率は.304を記録し、中盤からは代打の切り札的存在として活躍。90試合で2本塁打に終わったが、意表を突くバント安打も幾度か成功させるなど代打要員として新たな境地を築いた1年だった。しかし、球団からの評価は厳しく、オフには70%ダウンの年俸3000万で更改。会見では「税金のこともあるし、これからは缶コーヒー1本買うのにも気をつけなくてはいけない」と冗談を発した。

2009年はダン・ジョンソンが一塁で起用されていたため、前年に続いて主に代打の切り札として使われていたが、ジョンソンの不振により交流戦以降は一塁で出ることが多くなった。7月15日には3年ぶりの盗塁をホームスチールで飾り、横浜の2年ぶりの4連勝を演出した。8月9日の対中日戦では中田賢一から通算150本塁打を達成。規定打席には届かなかったが、「5番・一塁手」のレギュラーに復帰し、2年ぶりの100試合出場・2桁本塁打を記録した。

2010年はチームの世代交代の波に飲まれ、開幕前からチャンスを与えられず二軍で過ごす時間が多かった。結局、10試合の出場にとどまり、9月10日には球団側から戦力外通告を受けた。それまでの歯に衣を着せぬ発言で球団フロントとの対立は頂点に達しており、球団幹部はこの日の会談で、佐伯をコーチとして残す考えもないことと、解説者など外部での経験を積んでも将来的に横浜のユニホームを着られる保証はないことなど、球団からの事実上の永久追放を通告した。

2010年11月14日に韓国球団からコーチ兼任で契約の打診はあったが、それを断り、15日に中日ドラゴンズに移籍した。

2011年は開幕から代打で起用されるも1か月以上も無安打だった。5月20日の対西武戦で移籍後初のスタメン出場を果たし、逆転2点適時打を含む4安打を打ちチームの逆転勝利に貢献した。41歳としての4安打は球団史上初の記録であった。また、この年には当時の球団の三塁打及び本塁打の最年長記録を更新した(後に、山崎武司がこの記録を更新)。しかし、64試合の出場で打率.202、1本塁打、6打点に終わるなどシーズンを通しての活躍はできず、11月11日に前年に続き、二度目の戦力外通告を受けた。その後もソフトバンクとの日本シリーズ終了まではチームに帯同した。12月2日に自由契約公示された。

中日を自由契約となった後はプロ・アマ含めいずれのチームとの契約はなかったものの、テレビ番組に出演した際に「引退ではない」と語るなど、現役続行の道を模索して浪人生活を続けていた。

中日退団から1年近く経った2012年10月にロッテから入団テストのオファーを受け、11月の秋季キャンプにおいてテストを受けたものの、不合格に終わる。その後、21日の12球団合同トライアウト(鎌ケ谷・ファイターズ鎌ケ谷スタジアム)にも参加したが、どの球団からも獲得のオファーがなく、2013年2月3日に現役引退を表明。引退にあたり、「結果には後悔ばかりだが、結果を残すためにやってきたことに後悔はない」とのコメントを残している。

2014年から中日へ復帰すると、現役時代の同僚だった監督・谷繁元信の下で、中日二軍監督兼打撃コーチを務めた。

2015年には二軍監督へ専念した。

2016年に一軍守備コーチを務めたが、最下位に低迷し、8月9日付で谷繁と共に休養。事実上の解任のため、シーズン終了後に退団。なお、本人曰く「谷繁をいつか優勝させたい」との理由から、退団後も谷繁を「監督」と呼んでいる。

2017年以降はTBSチャンネル、テレビ神奈川、DAZNの野球解説者を務めている。

前述の退団以降ベイスターズとは絶縁状態だったが親会社がDeNAに変わった影響もあってか、2023年6月4日に横浜スタジアムで開催されたイベント「BACK TO THE 1998 BAYSTARS 〜TALK SHOW〜」において優勝時メンバーの1人として登場した。

選手としての特徴

勝負強い打撃で「マシンガン打線」の一角を担い、1998年の横浜ベイスターズの日本一に貢献した中距離打者。その後も4番を任されるなど長きにわたりチームを支えた。

左投げであるため守備位置は一塁と外野。本来は一塁手だったが、若手時代は一塁に駒田徳広がいた事や外国人選手の事情によって外野に回される事が多かった。プロ入り当時は長距離打者として期待されていたが、守備位置が被りやすい外国人選手には長打では勝てないと考え、中距離打者にモデルチェンジした。

自分の打撃の基礎を築き上げてくれた指導者に、長池徳士、弘田澄男、竹之内雅史の名前を挙げている。

人物・エピソード

横浜に入団後、巨人に同期入団した松井秀喜の向こうを張って、自ら松井の愛称「ゴジラ」から由来する「メカゴジラ」という愛称を名づけ、ヘルメットに"MECHA"と書かれたシールを貼り付けていた。しかし、ファンにはあまり浸透しなかった(チームメイトからは「メカ」と呼ばれている)。

練習の虫であり、毎朝6時には球場入りし、トレーニングを欠かさなかった。ベテラン選手になっても、試合では誰よりも率先して声を出し、二軍では打席を終えた後輩のバットを拾いに行っていた。

横浜時代はチームマスコットのブラックホッシーや阪神タイガースのマスコットであるトラッキーにプロレス技の"ジャイアントスイング"をかけるパフォーマンスを行ってファンを沸かせた。

現役時代は横浜市の社会福祉協議会を通じて、母子支援施設や一人親家庭にシーズンシートを寄付し横浜スタジアムに招待していた。佐伯自身も幼い頃に父を亡くし、一人親家庭で育っている。

横浜スタジアムで試合前の練習中にファンの少年から「今日打ってよ」と声をかけられ、佐伯はその少年に「(今日)打つから見ておけ」と言い、その日試合で代打出場。有言実行となるフェンス直撃の適時二塁打を放って少年を喜ばせた。なお、その少年は後にプロ入りし、チームメイトになる内藤雄太であった。

子どもの頃から大の鉄道ファン(撮り鉄)で、中でも近鉄電車が大好きだった。また、プロ野球は近鉄バファローズの大ファンで、その他にも子どものころは阪神タイガースと、野球を始めるきっかけをくれた友人がファンだった広島東洋カープを応援していた。

指揮者の西本智実とは小学校の同級生で、佐伯が生徒会長で西本が副会長を務めていた。

お笑い芸人の山崎まさやとは親交があり、お互いを「山ちゃん」、「メカちゃん」と呼び合う仲である。またその縁で、山崎が司会を務めるTV番組「今夜もドル箱」にゲスト出演することもあった。山崎は佐伯を「野球に対して、いつも真面目でストイック。空気を大事にしていてやるときはやる。ふざける時はふざける。けじめのある人」とブログで語っている。

これまでに2001年、2010年と二度の車上荒らしに遭い、愛車のタイヤとホイールを盗まれた経験がある。2001年の車上荒らしは、4月13日の巨人戦で清原和博相手に隠し球を仕掛け、「卑怯な手でやりたくなかったが、どうしても勝ちたかった」と言い訳した3日後の出来事だったため、「怒ったファンが報復したのでは」という声も挙がった。

2024/06/15 03:20更新

saeki takahiro


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佐伯 直哉(さえき なおや)
1977年12月18日生まれの有名人 東京出身

佐伯 直哉(さえき なおや、1977年12月18日 - )は、東京都多摩市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー(ボランチ)。 小学校3年生でサッカーを始める。中学入…

佐伯 美愛(さえき みお)
1987年2月16日生まれの有名人 東京出身

佐伯 美愛(さえき みお、1987年2月16日 - )は、日本のグラビアアイドル・歌手。 DVD「eternal one〜永遠のものごと〜」でアイドルデビュー。同パッケージに同梱されたシングル「e…

佐伯 泰英(さえき やすひで)
1942年2月14日生まれの有名人 福岡出身

佐伯 泰英(さえき やすひで、1942年2月14日 - )は、日本の小説家、写真家。福岡県北九州市八幡西区生まれ。日本大学藝術学部映画学科卒。 実家は新聞販売店で、折尾駅構内で新聞販売などを行なっ…

佐伯 洋史(さえき ひろし)
6月3日生まれの有名人 宮崎出身

佐伯 洋史(さえき ひろし、6月3日 - )は、日本の男性声優。以前はオフィスCHKに所属していた。宮崎県出身。 太字はメインキャラクター。 仙界伝 封神演義(王魔) デジモンフロンティア(キャ…

佐伯 卯四郎(さえき うしろう)
1891年2月1日生まれの有名人 愛知出身

佐伯 卯四郎(さえき うしろう、1891年2月1日 - 1972年1月12日)は、日本の実業家・政治家。日本陶器社長や、中部経済連合会会長、参議院議員等を務めた。 1912年東京高等商業学校(現一…

佐伯 順子(さえき じゅんこ)
1961年2月14日生まれの有名人 東京出身

佐伯 順子(さえき じゅんこ、1961年2月14日 - )は、日本の比較文化学者。同志社大学教授。学位は、博士(学術)(東京大学・1992年)(学位論文「近代化の中の男と女 -『色』と『愛』の比較文化…

佐伯 亮(さえき まこと)
1938年2月24日生まれの有名人 東京出身

佐伯 亮(さえき りょう、1979年4月20日 - )は社会人野球の選手(ポジションは捕手)である。Honda所属。173cm、68kg。背番号23。右投げ右打ち。 広陵高等学校から東都大学野球の…

佐伯 桃子(さえき ももこ)
1978年2月27日生まれの有名人 東京出身

ホリプロによるプロフィール 佐伯 桃子(さえき ももこ、1978年2月27日 - )は、東京都出身のアナウンサー。ホリプロ所属。高校時代から芸能活動。 東京生まれ。身長154cm。高校時代からホ…

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佐伯貴弘
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