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谷繁元信の情報 (たにしげもとのぶ)
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【11月24日】今日誕生日の芸能人・有名人

谷繁元信の情報(たにしげもとのぶ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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谷繁 元信さんについて調べます

■名前・氏名
谷繁 元信
(読み:たにしげ もとのぶ)
■職業
野球選手
■谷繁元信の誕生日・生年月日
1970年12月21日 (年齢53歳)
戌年(いぬ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
広島出身

(昭和45年)1970年生まれの人の年齢早見表

谷繁元信と同じ1970年生まれの有名人・芸能人

谷繁元信と同じ12月21日生まれの有名人・芸能人

谷繁元信と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


谷繁元信と関係のある人

早川和夫: 2016年は谷繁元信監督の休養後に一軍守備コーチに転じ、攻撃時は一塁ベースコーチも担当。


佐々岡真司: 初奪三振:同上、3回裏に谷繁元信から


伊藤敦規: しかし同年は横浜の谷繁元信(8打数)・波留敏夫(4打数)をいずれも無安打に抑えたほか、中日ドラゴンズ戦では防御率1.35と好成績を残している。


古池拓一: 新人の年に横浜戦で谷繁元信に死球を与えると、ベンチからグレン・ブラッグスが激昂して飛び出す。


佐々木主浩: オフにはシーズン終了報告で任天堂の本社を訪れ、メジャー移籍を目指していた谷繁元信の獲得を進言したが、入団には至らなかった。


宮川一彦: 初出場:1991年4月6日、対阪神タイガース1回戦(横浜スタジアム)、8回裏に谷繁元信の代打として出場


前田章宏: ブルペン捕手としてチームに留まる予定であったが、ゼネラルマネージャーに落合博満が、監督に谷繁元信がそれぞれ就任すると、一転して2軍バッテリーコーチへの就任を打診され、10月22日、コーチに就任することが球団から発表された。


大矢明彦: 1993年から1995年まで近藤昭仁監督率いる横浜ベイスターズ一軍バッテリーコーチを務め、谷繁元信を徹底的に鍛え上げて一流の捕手へと育てた。


阿部慎之助: 9月29日の横浜戦では谷繁元信が打ち立てた、セ・リーグ記録の連続守備機会無失策1708を抜く、新記録の1709を達成した。


川上憲伸: しかし、バッテリーを組んだ谷繁元信はこの好投によって得た日本ハム打線の傾向を活かし、第2戦以降に先発陣がおおむね好投した結果、チームは53年ぶりの日本一を達成。


髙津臣吾: 選手別で見ると立浪和義(中日ドラゴンズ)・谷繁元信(横浜ベイスターズ)は3打数0被安打、進藤達哉(横浜)は4打数0被安打、江藤智(広島)は被打率.143(7打数1被安打)と抑え込んだ一方、金本知憲(広島)は.429(7打数3被安打)、和田豊(阪神タイガース)は2年連続被打率4割以上となる.500(7打数3被安打)、松井秀喜は.667(3打数2被安打)、レオ・ゴメス(中日)は.750(4打数3被安打)とそれぞれ苦手にしていた。


福嶋久晃: 1989年には1年目の谷繁元信を指導し、怪我をしないことを第一に基礎的な体力作りをさせたが、古葉と共に同年退任。


門前真佐人: 1951年8月23日の対名古屋戦で1試合最多盗塁阻止(捕手補殺)5のプロ野球記録(過去3人、笹本信二1977年4月24日の対ロッテ戦、谷繁元信1991年8月27日の対広島戦)。


立浪和義: ただ、名球会会員の中で、清原和博、前田智徳、駒田徳広、宮本慎也、谷繁元信同様、盗塁王を含む打撃タイトルを獲っておらず、年間最多二塁打もない。


伊藤和雄: 初奪三振:同上、3回裏に谷繁元信から空振り三振


森岡良介: 初本塁打:2007年4月22日、対東京ヤクルトスワローズ6回戦(明治神宮野球場)、8回表に谷繁元信の代打で出場、館山昌平から右越ソロ


山口鉄也: 西村健太朗の後を受け7回1死から登板し、2/3を無失点だったものの谷繁元信に適時打を打たれ西村の出したランナーを返した。


村田修一: なお、この応援歌は球団名が「横浜大洋ホエールズ」だった1989年に「谷繁元信選手のテーマ」(作詞:平タケル、作曲:杉本正毅、編曲:除村正人)として制作されたものである。


鈴木孝政: 名古屋市内のホテルで行われたOB会の壇上で「できれば8月の子供たちの夏休みの期間に首位と5ゲーム以内にいてほしい」と谷繁元信監督に要望した上で、「最下位覚悟で優勝を目指せ、ということ。


吉見一起: さらに、谷繁元信と共に、自身初の最優秀バッテリー賞も受賞した。


ゲーブ=キャプラー: 初盗塁:2005年4月9日、対中日ドラゴンズ2回戦(東京ドーム)、4回裏に二盗(投手:山井大介、捕手:谷繁元信


木下拓哉: この年はチームは6年ぶりの最下位で終わったものの自身初の規定打席到達を果たし、中日の捕手が規定打席に到達するのは2012年の谷繁元信以来10年ぶりとなった。


多村仁志: 2015年11月10日に草薙球場で開催された12球団合同トライアウトに参加しなかったが、2015年12月末に、横浜時代のチームメイトの谷繁元信が一軍監督を務める中日ドラゴンズの関係者が多村に接触。


里崎智也: 遠投120メートルと地肩は強く、送球はシュート回転することが多いものの、谷繁元信の下半身の動きを手本として上達したという。


森繁和: なお、2014年シーズンから2015年シーズンまでは監督の谷繁元信が選手兼任だったため、谷繁が選手として出場した場合は森が監督代行を務めていた。


嶋重宣: 初盗塁:1999年9月10日、対横浜ベイスターズ21回戦(横浜スタジアム)、2回表に二盗(投手:川村丈夫、捕手:谷繁元信


福嶋久晃: ^ 谷繁元信「谷繁流キャッチャー思考 (当たり前の積み重ねが確固たる自信を生む)」日本文芸社、2017年6月15日発売、ISBN 4537214953、p16。


福留孝介: 44歳での4安打は2015年5月4日の阪神戦で記録した谷繁元信以来2人目となった。


落合博満: 川上、タイロン・ウッズ、中村紀洋がチームを去り、谷繁元信がケガで離脱したこともあり、7月には首位巨人に1.5ゲーム差まで迫ったが失速し、最終的に首位と12ゲーム差をつけられた。


辻恭彦: 捕手で実働22年は、中嶋聡の29年、谷繁元信の27年、野村克也の26年、八重樫幸雄の23年に次ぐ記録である。


谷繁元信の情報まとめ

もしもしロボ

谷繁 元信(たにしげ もとのぶ)さんの誕生日は1970年12月21日です。広島出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

引退、テレビ、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。谷繁元信の現在の年齢は53歳のようです。

谷繁元信のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

谷繁ベースボールチャンネル

谷繁 元信(たにしげ もとのぶ、1970年12月21日 - )は、広島県比婆郡東城町(現:庄原市)川西出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)・監督、野球解説者、日本プロ野球名球会理事。27年連続本塁打および捕手としての試合出場のギネス世界記録保持者。

2014年シーズンより中日ドラゴンズ選手兼任監督、2016年シーズンは専任監督を務めた。

通算3021試合出場は日本プロ野球 (NPB)記録。

東城町立東城小学校・町立東城中学校出身。野球好きの父の影響で小学校2年生時に地元の少年野球チーム「東城ストロングボーイズ」に入り野球を始める。子どもの頃は巨人ファンで、原辰徳に憧れていたという。

小学6年時に既に広島県内の野球関係者に谷繁の名は知れ渡っていたが、東城中学校の軟式野球部を経て、事情により高校は島根県江津市の江の川高等学校(現:石見智翠館高等学校)に進学する(後述)。投手として入部するも練習試合でよく打たれ、1か月後には監督に捕手転向を命じられる。捕手転向の時期については、2021年5月に古田敦也の公式YouTubeチャンネルで「1年の夏」とも答えている。

全国高等学校野球選手権大会に2度出場。特に、3年生だった1988年夏には島根大会で、5試合全ての試合で計7本塁打を放ち、第70回全国選手権でもベスト8に進出。高校通算で42本塁打を放ち、強打の捕手として江藤智とともに「東の江藤、西の谷繁」と呼ばれた。

1988年度ドラフト会議にて横浜大洋ホエールズから1位指名を受け、契約金5800万円、年俸480万円(金額は推定)の契約で入団。大洋は期待を込めて、チームの看板選手で、前年のシーズン限りで現役を引退した山下大輔が着けていた背番号1を与えた。地元の広島東洋カープからも熱心に誘われていたが、カープの1位指名は野村謙二郎であった。

プロ1年目の1989年に下関球場で行われたオープン戦で巨人・斎藤雅樹から本塁打を放つなど結果を残すと監督の古葉竹識に抜擢ばってきされ、高卒1年目にもかかわらず、開幕一軍入りを果たした。公式戦初打席で初安打を放つと1年目から一軍にフル帯同し、出場80試合、打率.175、3本塁打、10打点という成績を残す。谷繁は「高校から入った僕はまだ子供でしたから、ケガをしないように甘やかされていました。僕はまだ古葉さんの戦力構想の中には入っていなかったのでしょう」と述べている。

1990年シーズンには、須藤豊が監督に就任すると西武ライオンズから移籍してきた秋元宏作と併用されるようになり、前年のシーズンまで正捕手だった市川和正は第3捕手へと追いやられた。このプロ2年目に高浦美佐緒一軍バッテリーコーチに体罰を受けたことに憤慨し、引退を申し出たが、須藤監督になだめられて思い留まった。

1992年シーズンは、シーズン中に休養した須藤に代わり、ヘッドコーチから監督代行に昇格した江尻亮は秋元をメインで起用した。全く打っていなかった谷繁がプロ野球という世界に心底向き合って取り組まなければいけないと思い始めたのはこの時期からだという。

1993年シーズンには「捕手だと『1』の数字が防具に隠れて見えない」という理由から背番号を8へ変更。近藤昭仁が監督、大矢明彦がバッテリーコーチに就任し、谷繁は「僕を育てるために大矢さんが招かれたようなものだったと思います」と述べている。首脳陣の中にはキャッチャーとしての谷繁を見切りをつけて他のポジションへのコンバートという構想もあったが、キャッチャーとしての谷繁を推したのが大矢であった。谷繁は「前任コーチ(佐野元国)からは基礎を叩き込まれていたが、大矢からはさらに1段階上のレベルの心構え、技術を教わり、キャッチャーとは、何か。から始まって配球。キャッチング、スローイング、ブロッキングに至るまで。いま振り返れば、93年に横浜大洋ホエールズが横浜ベイスターズに変わって、谷繁を一人前にして要を作ろうという方針が球団としてあったと思っています。当時は、きついという思いしかなかったですが、指導者とのいい出会いに恵まれました」と回顧している。それでもしばらくは秋元との併用が続き、先発出場していた試合でも抑え投手の佐々木主浩が登板すると「佐々木のフォークボールが取れない」「暴投時に谷繁は手で捕りに行くが、秋元は身体で止めに行く」との理由から秋元に交代させられていた。また肩は強かったものの、リード面での評価もあまり高くはなかった。

1996年シーズンからは重点的に起用されるようになり、それに伴い、打撃も成長。初めて打率3割も記録した。盗塁阻止率.416で初めてリーグ1位となる。

1997年シーズンは初めて2桁本塁打を記録。リード面でも成長し、投手陣の成績が良くなるなど、捕手としての評価が急上昇する。シーズンオフにはFA権を取得し、「一度は優勝を経験したいから」とFA権を行使する意向を表明。当時正捕手が不在だった巨人が水面下で調査を進め、長嶋茂雄監督が直接極秘交渉にあたったことで移籍の噂なども囁かれた。しかし、同年10月25日には横浜球団幹部との会談で、FA宣言した上で残留する意向を伝える。本人は残留の理由として、同年の日本シリーズを観戦していて、横浜以外の球団で日本シリーズに出場している自分の姿がイメージできなかったためだと語っている。同年11月6日、推定平均年俸1億円(前年比3400万円増額)+再契約金1億円の4年契約(球団史上初の複数年契約)を結んだ。

1998年シーズンは、権藤博が監督に就任。開幕から本塁打を打ち続け、前田智徳、松井秀喜に次ぐ、リーグ3位の速さで2桁本塁打に到達した(最終的には14本塁打)。攻守の要としてチーム38年ぶりのリーグ優勝・日本一に大きく貢献し、自身初のベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞するなど、リーグを代表する捕手に成長した。また佐々木主浩と共に最優秀バッテリー賞も受賞。この年が谷繁の唯一の完全制覇であった。

1999年シーズンもマシンガン打線の8番打者として高打率を残す。

2001年シーズンは、読売ジャイアンツOBでV9の名捕手だった森祇晶が監督に就任。初めてシーズン20本塁打を打ち、盗塁阻止率.543はリーグ1位を記録した。しかし、森は谷繁の守備に関して「あのリードはねえよな」「あのリードでよく正捕手が務まったな」など苦言を嫌味のように言い放ち、それを谷繁本人に直接言うのではなくベンチでコーチらにそれを陰口のように話していたために谷繁は森への不信感を強めた。これがきっかけでシーズンオフにメジャーリーグへの移籍を目指し、FA宣言を行う。FA資格取得(同年8月26日付)は2度目で、トニー・アタナシオと代理人契約を結び「年俸が下がってでもメジャーに行きたい気持ちがある」と強い決意で渡米。12月5日にはシアトル・マリナーズとサンディエゴ・パドレス、アナハイム・エンゼルスの関係者らの前でワークアウトを行い、MLB数球団から条件提示を受けたが、良い条件が得られなかったためメジャー挑戦を断念。

メジャー移籍を断念し、横浜残留もささやかれたが、前述の様にこの年から横浜の監督として指揮を取っていた森祇晶との確執があったこともあり、同月24日、中日ドラゴンズへ入団する意思を伝える。同月27日、中日と契約金を含む総額10億円の4年契約を締結し、背番号は7と発表された。横浜は中日からのFA補償として金銭を選択したが、当時中日の正捕手であった中村武志が出場機会を求めてトレードを志願し、翌28日付で金銭トレードで横浜へ移籍することが発表された。結果的に正捕手同士の「交換トレード」という形になった。

2002年シーズンは、打率こそ規定打席到達者最下位の打率.215と低迷したが、チャンスでは勝負強さを発揮し、ともに自己最多となる24本塁打、78打点を記録する。盗塁阻止率は.483で2年連続でリーグ1位。

2003年シーズンは、前年から打率を5分近く上げ打率.264を記録したが、ケガによる離脱や野口茂樹が先発の際には柳沢裕一にマスクを譲ることが多かったこともあり、8年ぶりに規定打席を逃した。その影響もあってか、3年ぶりに20本塁打に届かなかった(18本塁打)。それでもチームの正捕手として存在感を示し、長打力も発揮した。

この2002年-2003年に監督だった山田久志は谷繁のことを信頼しており、谷繁は「凄いやりやすかった」「山田さんの時代は優勝はありませんでしたが、3位と2位。にもかかわらず、2年目の8月に突然解任された。何が起こったのか理解できませんでした」と述べている。

2004年シーズンは落合博満が監督に就任。「正捕手のエースナンバーは森昌彦に代表される27、もしくは田淵幸一に代表される22」という落合の持論により、背番号を7から27へ変更。落合は「大きな戦力補強はせず個々の実力を10 - 15%上げれば勝てる」と言い、谷繁は「最下位のチームを預かっていたらそういうわけにはいきませんが、前年のドラゴンズは2位。そこで選手のレベルを10、15%上げれば、おのずと優勝にたどり着くという当然の話をしただけだと思います。メディアがマジックにように報じられていますが、我々からすると『前の年2位ですけど?』という感じです。ピッチャーは川上憲伸、岩瀬仁紀、野手では立浪和義さん、アライバ(荒木雅博、井端弘和)に福留孝介、僕などメンバーが揃っていたことだと思います」「落合さんがすごいと思ったのは、1年間の戦略がブレなかった。現状の戦力で、どう戦えば一番勝つ確率が高くなるかという信念が常にありました」と述べている。同年は不動の正捕手として攻守ともにチームを牽引し、リーグ優勝に貢献。移籍後初のシーズン100安打を打った。盗塁阻止率.378はリーグ1位。川上憲伸と共に2度目となる最優秀バッテリー賞を受賞した。西武ライオンズとの日本シリーズ第3戦で長田秀一郎から逆転満塁本塁打を放つ活躍を見せるも、チームは3勝4敗で日本一を逃した。

2005年シーズンは、打率.234と規定打席到達者最下位に終わった。

2006年シーズンは、開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。同大会では2次リーグのアメリカ合衆国戦では先発マスクを被った。シーズンでは7月26日の対阪神タイガース戦で捕手としては史上4人目となる通算2000試合出場を達成。しかし打率、安打数、塁打数、盗塁数で、規定打席到達者中リーグ最下位を記録する。8年ぶりのゴールデングラブ賞、2年ぶりに川上と共に最優秀バッテリー賞を受賞した。チームはリーグ優勝を果たしたが、北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズは、1勝4敗で敗れる。

2007年シーズンは、8月8日の対広島東洋カープ戦でプロ野球47人目となる通算300二塁打達成。8月10日の対巨人戦で、更新中だった捕手の連続守備機会無失策のプロ野球記録が1708で止まった。打撃面では打率、得点、安打数、三塁打、塁打数、盗塁数で、規定打席到達者中リーグ最下位を記録したが、守備面では前年に続きゴールデングラブ賞を受賞。同僚の川上も2年連続で同賞を受賞しており、同一チームの同一バッテリーによる2年連続受賞はセ・リーグ初となった。盗塁阻止率.404はリーグ1位。この年で打率最下位は3年連続となり、連続最下位では日本記録である。また、谷繁は現役通算で5度の打率最下位の日本記録を作っている。チームはシーズン2位に終わるがクライマックスシリーズに勝利。北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズを4勝1敗で制し、53年ぶり2度目の日本一に大きく貢献した。

2008年シーズンは、6月に右脇腹痛で登録を抹消され、移籍後初めて二軍戦に出場するなど不本意なシーズンとなった。また2004年に痛めた腰の状態も悪く、この頃には毎日常に足がしびれている状態であったという。この年のシーズンオフには腰椎の椎間狭窄症の治療のため、腰の骨の一部を削る手術を受ける。翌2009年シーズンの夏ごろまでは手術の痛みが残り、思うように動けなかったという。

2009年シーズンは、開幕直後に右ふくらはぎのけがで約1か月間欠場する。7月5日の阪神タイガース戦で捕手として野村克也に次ぎ、歴代2位となる通算2328試合出場を達成。9月1日に通算200号本塁打と200犠打を達成(両方を達成したのは史上3人目)した。9月にプロ野球史上初の4度目のFA権を取得。プロ入り21年目で自身初となる守備率10割(無失策)を達成し、ゴールデングラブ賞を受賞した。

2010年シーズンは、7月28日に捕手としては野村克也以来で、プロ野球史上8人目となる2500試合出場達成。休養や小さなケガでの欠場はあったもののシーズンを通して一軍登録を抹消されず、チームの4年ぶりのリーグ優勝に貢献した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズは2勝4敗1分けで敗れた。

2011年シーズンは、6月4日の対西武戦の5回の守備の際、高山久とのクロスプレーで左膝内側側副靭帯を損傷し、約2か月間一軍登録を抹消される。谷繁不在の間、チームは15勝21敗1分けと大きく負け越したが、谷繁はその間リハビリと上半身のトレーニングに懸命に取り組み、7月29日に一軍へ復帰した後は打率.301、打点23と打撃面でも活躍した。不振の和田一浩に代わり、シーズン後半からは5番打者を任され、9月末には球団記録にあと1つに迫る10試合連続打点を記録するなど、ペナントレース終盤の逆転優勝劇に大きく貢献した。しかしポストシーズンでは一転し、打撃不振に陥り、CSでは全試合に先発出場するも無安打に終わる。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでも全試合に先発出場したが無安打は続き、11月20日の第7戦5回の第2打席で三振を喫し、1989年の大石大二郎(近鉄バファローズ)の21打数連続無安打のシリーズワースト記録を更新、22打数連続無安打を記録。無安打記録は最終的には23打数まで伸ばし、CSファイナルステージ第1戦の第1打席からは43打席連続無安打を喫したことになった。日本シリーズは3勝4敗でと負け越し、2年連続で日本一を逃した。この年は2年ぶりとなるゴールデングラブ賞と、5年ぶりとなる最優秀バッテリー賞を吉見一起と共に受賞した。なお、8月25日の東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)で、プロ23年目、通算2594試合目にしてプロ入り初めて一塁手として先発出場した。一塁手に限らず公式戦で捕手以外の守備に就いたのも初めてである。

2012年シーズンは、高木守道が監督に就任。4月25日の東京ヤクルトスワローズ戦で24年連続となる本塁打を放ったが、これは「入団1年目」からの連続シーズン本塁打のプロ野球新記録となった。7月26日の阪神タイガース戦で本塁打を放ち、通算3000塁打を達成。打率は.228(リーグワースト2位)だったものの、5年ぶりに規定打席に到達するなど、シーズンを通して活躍を見せた。盗塁阻止率は.361。チームはリーグ2位。CSファイナルステージでは第1戦の第4打席で適時二塁打を放ち、前年から続いたポストシーズン無安打記録は60打席で止まった。

2013年シーズンは、開幕から打撃が好調で、5月6日の東京ヤクルトスワローズ戦で押本健彦から右前安打を打ち、通算2803試合目で史上44人目の通算2000安打を達成。プロ25年目、9693打席目での達成は史上最遅であり、42歳での到達も宮本慎也の41歳5か月を抜き、最年長記録となった。また2000安打達成者のうち2014年終了時点で、生涯打率が.250に達しない唯一の選手である。捕手としては野村克也、古田敦也に次ぎ、史上3人目の達成となった。5月12日の広島東洋カープ戦で中日での通算1000安打を達成。「2球団で1000安打達成」は大杉勝男、金本知憲に次ぎ、史上3人目である。しかしその後は打撃不振に陥り、守備でも盗塁阻止率が自己最低の.174を記録するなど、不本意なシーズンに終わった。6月28日のDeNA戦では山井大介のノーヒットノーランをアシストし、谷繁がノーヒットノーラン試合でマスクをかぶったのは2002年8月1日川上憲伸、2006年9月16日山本昌に次いで3度目。6月30日には通算出場試合数が2832試合となり、王貞治を抜き、歴代2位となった。

2013年10月9日、GMとして復帰した落合博満の推薦により、2014年シーズンより選手兼任監督としてチームの指揮を執ることが球団より発表された。NPBでは古田敦也(ヤクルト)以来7年ぶり、チームとしては野口明以来59年ぶりとなる選手兼任監督となった。波留敏夫をコーチに招聘した。コーチ陣は森繁和、達川光男、辻発彦、長嶋清幸など8割方年上で谷繁は「僕が一人で全て見られるわけではないので、当時の落合博満GMはそういう経験豊富な人を置いた方がチームが上手く動くのではないかという考えだったと思います。」と述べている。

2014年シーズンは、7月22日の対横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)で2回無死一・二塁の場面で久保康友から本塁打を放ち、野村克也の記録を更新するNPB新記録の新人から26年連続本塁打。また選手兼任監督の本塁打は同じく1977年の野村以来37年ぶりとなった。8月27日、対横浜DeNAベイスターズ戦(ナゴヤドーム)で捕手として2922試合目の公式戦出場を達成し、これも野村の持っていた記録を34年ぶりに更新した。同年は監督としてチームをBクラスから脱出させることができず4位の成績。選手としてもオールスターゲーム出場は果たしたもののシーズンの打撃では1割台に終わり、1995年以来の100試合未満の出場に終わった。

2015年シーズンは、肩書きが監督兼選手に変更となる。3月27日の開幕戦には先発マスクを松井雅人に譲り、2014年まで続いていた開幕戦での先発マスクが21年連続で途切れた。4月30日の対巨人戦(東京ドーム)で先発出場し、野村克也以来史上2人目の通算3000試合出場を達成した(本人は実感がなかったらしい)。5月2日のDeNA戦では9回からマスクをかぶったが、本塁上のクロスプレーでセーフと判定されたことを巡り、山路哲生球審に触れて抗議し、退場が宣告された。退場処分を受けたのはプロ27年目、出場3001試合目で初めて。翌5月3日に日本プロフェッショナル野球組織の熊﨑勝彦コミッショナーから厳重注意と制裁金20万円の処分が科されたが、翌々日の5月4日の阪神甲子園球場で行われた阪神タイガース7回戦でシーズン初の安打・得点を記録すると、ランディ・メッセンジャーから3点本塁打も記録し、汚名返上を果たし、これで安打・本塁打ともに27年連続となり、自身の持つプロ野球記録を更新した。27年連続本塁打記録は前述の野村やリッキー・ヘンダーソンを上回る世界記録であり、2022年に『プロ野球選手による本塁打最多連続シーズン数』としてギネス世界記録の認定を受けた。後半戦、チームは最下位と思わしくない状況であったが、7月25日の東京ヤクルトスワローズ戦(明治野球場)で7回から捕手として途中交代出場。この出場により野村克也が持つ通算試合出場数の3017試合に肩を並べ、迎えた7月28日の本拠地ナゴヤドームでの阪神タイガースとの試合で「8番・捕手」で先発出場し、通算3018試合出場を達成。野村の記録を塗り替え前人未到の記録を達成した。

9月13日時点では腰痛の影響と、後半戦は自身の出場を控え、杉山翔大・桂依央利といった若手捕手を積極的に起用し続けてきたことの影響で出場試合数は27試合に留まり、同日にはサンケイスポーツより、9月15日には中日新聞、日刊スポーツより同年限りで現役を引退し、今後は監督に専念すると報じられた。そして9月21日、同日の巨人戦終了後にナゴヤドームで記者会見し「とうとうこの時が来たなという思いと、やっと来たなという思い。その両方がある」と心境を語り、正式に現役を引退することを表明した。なお監督としての任期(4年契約)が2年残っていたため、2016年度からは監督専任の形でチームに残る。順位は5位に終わり、中日で監督就任から2年連続Bクラスは1969年、1970年の水原茂以来45年ぶり。

9月24日、選手として本拠地・ナゴヤドームでの最終戦となる阪神戦に臨み、試合終了後には同じく同年のシーズン限りで現役を引退する和田一浩の胴上げが行われた。谷繁自身も胴上げを促され、いったんはシーズンの低迷などのためか固辞したものの、最終的には和田の後押しなどから根負けし、和田と同じ5回の胴上げを受けた。

9月26日には横浜スタジアムで行われた古巣・横浜DeNAベイスターズ戦(引退試合)に臨み、「8番・捕手」で先発出場し、2回表二死一・二塁で現役最終打席を迎え、カウント2-2から井納翔一の直球を打つが、遊撃手・倉本寿彦の正面に転がるゴロに打ち取られた。打席終了後にベンチ前に戻ると1998年の優勝・日本一の喜びを分かち合った横浜DeNAベイスターズ・三浦大輔や両親・3人の息子たちに出迎えられた。試合終了後、古巣の計らいもあり、ビジターゲームでは異例となる場内一周を行った後、スタンドから「谷繁コール」が湧き起こる中、谷繁と同じく同年のシーズン限りでの現役引退を表明していた和田・小笠原道大らも含め、ホームベース付近に両軍の選手たちが集合し、背番号と同じ27年間の現役生活に別れを告げる谷繁を5回胴上げした。

なお、引退試合翌日の27日には自らの出場選手登録を抹消し、28日に赤田龍一郎を登録していたが、山本昌の引退登板となった10月7日のシーズン最終戦の広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島=本来の日程が雨天順延)において赤田を抹消し、自らを再度登録している(出場はなかった)。12月2日付で、日本野球機構(NPB)から自由契約選手として公示された。

2016年シーズンからは監督専任となったが、チームの成績不振は改善されず、最下位であるなど、その責任をとらされる形で一軍守備コーチの佐伯貴弘と共に8月9日に休養(事実上の解任)が発表され、当日の対東京ヤクルトスワローズ戦からヘッドコーチの森繁和が監督代行となった。公式戦全試合終了後、森は翌年のシーズンから正式に監督に就任。

2017年からはフジテレビテレビ神奈川・メ〜テレ・日本テレビ・CBCテレビなど(以上本数契約)ニッポン放送・東海ラジオ(以上レギュラー出演)の野球解説者、日刊スポーツの野球評論家として活動している。

2018年8月10日の第100回全国高等学校野球選手権記念大会では、第1試合開始前に甲子園レジェンド始球式へ参加し、ボールは外角低目にストライクが決まった直後、スタンドの歓声に応えていた。2018年12月1日、ホエールズ ベイスターズOB会の副会長に就任した。

2024年1月18日、プレイヤー部門で野球殿堂入り。広島県出身者の殿堂入りは谷繁で17人目で、東京都の23人に次ぐ全国2位。

入団当初は物覚えが悪く、須藤豊から付けられたあだ名は「ミスター・パンパース」(おむつをした赤子の意)であった。谷繁自身も当初は苦心していたことは認めており、例を挙げてチームの大先輩である遠藤一彦をリードする際に要求された複雑な「足し算サイン」に試合中に頭が混乱してしまい、タイムをかけてしまったこともあった。一方で権藤博は「野村克也さんや巨人のV9を支えた森昌彦さんといった捕手本流タイプ。頭の回転が速く、記憶力が抜群。おまけに肩も負けん気も強い。まさに捕手をするために生まれてきたような男だと感じた」と絶賛している。引退後には、1試合で130球投球を捕球していればそのすべての配球を覚えていたと語っている。

本人曰く「捕手として、体も小さく、手足も短い」ため、ケガをしないようにまたパワーをつけるため、徹底して体を鍛えたといい、危機感を持った4年目あたりから、週5日欠かさず全身ウエイトトレーニングをしていたという。駒田徳広によると、ロバート・ローズの影響で、ローズと共にずっとウエイトトレーニングをしており「それで谷繁は長く現役をやれた」と述べている。

人は「的」があった方が投げやすいという理由で、キャッチャーミットを投球動作から捕球まで、ずっと投手に向けたまま構え続けるのが特徴。ミットを下げることがあっても、投手の目がホーム方向から離れるタイミングで下げている。これについて本人も、「ピッチャーに、的(目標)と、(それに対して実際に)どこに投げたか(結果)を見せてやりたかった」と述べている。

現役時代に使用したミットはハタケヤマ製品一筋で、谷繁のミットは独自の探究により作り上げた特殊なミットとして知られる。そのため、他の選手や野球人が谷繁のミットに興味を示すものの、上手く扱えない。逆に谷繁は他の(一般的な)ミットを扱えないという。谷繁のミットは全体的に一回り小さく、ボールが遊ばないように間口(ウェブ)を絞ってあり、さらに多少外れて捕球してもボールが自然とポケットに入ってくるよう、ポケットが深い(通常、捕手は総じて逆で、間口を広くしポケットの浅い大きめのミットを好む)。谷繁は「僕のミットは、ボールが入ってくる力でミットが閉まる。だから(キャッチングの際に)ミットを動かさずに済む(握らずに済む)」と述べている。捕球して投げる際もボールを取り出すのが難しい構造で、谷繁はボールを握らず「ポンッ」とミットから出す技術があった。

落合博満が監督時代に「一番いなくなったら困る選手」と言い切るほど、捕手としての信頼を得ている。実際に2011年(142試合を消化した時点)は谷繁が先発マスクを被った81試合は勝率6割台、そうでない61試合は勝率4割台と、約2割の差があった。また、落合は監督退任会見で、谷繁の名前を挙げて「よい指導者になれる」と褒め称えた。佐々木主浩も、谷繁が捕手の時は三塁に走者がいてもフォークの比率を下げずに済んだと、キャッチングの上手い捕手として信頼している旨を語った。

岩瀬仁紀は「中村武志さんは投手をかばってくれる捕手だったんですけど、繁さんは投手を叱る捕手」と違いを説明しており、ピンチの時になればなるほど痛打されるリスクを覚悟して思い切る谷繁の配球に理解を示すのにも時間がかかったという。

里崎智也は、谷繁の捕球技術の高さを示す一例として、前述のミットの面を常に投手に見せたまましている点を挙げ「僕がナマで見た中で一番上手い」と絶賛している。中日のコーチを務めた田村藤夫は、谷繁のキャッチングを「高度・特殊・難しい」としながらも、そこを目標として選手に指導しているという。山本昌は「バッテリーを組んだ勝ち星順でいえば、中村武志、谷繁元信、矢野輝弘」と前置きをした上で、リード面に関しては「3人の中で最も長けていると思う。なおかつ、度胸満点。いわゆる『ばくち』を一番打てる捕手と言ってもいい」と評価した。古田敦也はテレビ番組で共演した際に谷繁が捕球の際に小さく、間口の小さいミットを使いこなし、更に捕球の際には「つかむ」という動作を一切挟まない谷繁の技術に「考えられない」と驚いていた。

岩瀬仁紀は「内角スライダーの捕り方が凄く上手かった」「角度ひとつで判定が変わる生命線だった」と名球会公式YouTubeチャンネルで語っている。 谷繁とのバッテリーで二度の最優秀バッテリー賞に輝いた川上憲伸は、自身のYouTubeチャンネルなどで度々、「繁さんがカットボール(の使い方)を作った」「投げてる自分からしたら、左バッターへの外のカットボールはボール。それを動かさないキャッチングで審判にストライクだと思わせていた。あれは左バッターは打てない」と述べている。それに対して谷繁は、「俺は(ストライクゾーンに)入ってると思う」「ちょっとだけベースをかすってるんだよ」と返した。

元プロ野球審判員の佐々木昌信は、2021年3月2日放送の『石橋、薪を焚べる』(フジテレビ)の中で、「僕らもう、世界一の捕手って呼んでましたけど。当時プロ野球の審判員、多分ほぼ全員一致じゃないかなっていう。よく話すんですけど…」と、谷繁の名前を挙げ、「キャッチングが芸術もので、もう断トツ」「1位があったら(2位まで)しばらくいないというぐらいの1位」と証言した。その理由について「とにかく誤魔化さない」「投手の球をそのままちゃんときっちり捕る」「(ボールをストライクとコールすると)彼だけは『佐々木さん、ちょっと広いよ、今の』と正直に言ってきた」といい、「正直で、損得や自分の都合で野球をやっていなかった印象」「だから彼には絶対嘘をつけない」と、立場を超えた尊敬を口にした。

打撃面では、2桁本塁打を記録したことが8度あり、ここ一番での勝負強さもあったものの、通算打率は.240と確実性を欠いている(通算2000安打達成者では最下位)。事実、規定打席に到達した選手の中での打率最下位も複数回経験(前述)している。なおシーズン打率3割は、1996年に1度だけ記録している。佐々木主浩も「打撃はあれですけど…」と打撃型捕手でないことをはっきり指摘している。

盗塁阻止率は1996年、2001年、2002年、2004年、2007年でリーグトップ、2009年は守備率10割(無失策)を記録している。

監督時代について「言い訳にはしたくありませんが、監督というのはつくづくタイミングが大事だと思います。どんなにいい監督であっても、選手がいなければ勝てない。野村克也さんもあれだけ名将と言われていながら阪神では成績が残せなかった。勝つための選手がいなかったということです。ただ、どんな戦力でもあろうと目標としなければならないのは優勝、日本一です。そこはブレてはいけません。僕も2014年から監督をさせてもらいましたが、歳月がたってみて、もっといろんな方法があったのではないか、もう少しこうやっておけば良かったのではないかなど、反省はあります。その反省を生かしてリベンジする機会は、指導者としてもう一度、グラウンドに立って結果を残すしかないのですが、それはこちらがいくら思っていても相手がいることなので。しかるべきタイミングが来た時の為に準備をしておけばいいだけあって、そのタイミングを巡ってこない可能性もあります。それはそれで人生です。」と述べている。

本人は、捕手を続けていくうちに捕手仕様の性格に自然になっていくという意味で、捕手向けの性格というものは存在しないという持論を持つ。

以前と異なり、2022年シーズン時点では1試合をトータルして考えて投げる投手がいなくなり、打者2巡を基準に投球を組み立てている投手が増加したと指摘している。1巡目の攻めと2巡目の打線の攻めの違いを意識させれば、打者2巡は投げられるとしている一方で、打者3巡目以降を考える必要がなくなるため捕手が考えなくなると憂慮している。また、自身達の現役時代と異なり、大事な場面で抑えられるように「撒き餌」として打たれても良い場面で打たせることが少なくなったと、古田敦也と共に述べている。

複数捕手制に関しては、エースと呼べる捕手がチームに現れることは理想だとしつつも、無理に1人で捕手を賄う必要はないとしている。

愛称は「シゲ」、「ハマの司令塔(横浜時代)」。

男性的な重低音の美声である一方で、子どものように非常に無邪気で屈託のない笑い方をする。この笑顔はプロ野球ファンから、名前をもじってしばしば「たのしげ」(楽しげ)と呼ばれる。反面、相手打者に打たれた時などには露骨にうなだれた姿を見せることでも知られた。これについて本人は「あれは良くないんです。出さないようにとは思うけど、入り込んでしまうタイプなので」と反省の弁を述べている。

前述の声や風貌、大洋・横浜・中日の当時のチームカラー、野球における自他へのストイックさ、(特に低迷時の)監督経験などから、寡黙で愛想がないというイメージを持たれがちだが、先輩チームメイトだった高木豊は、「人が良いのに人が悪そうに振る舞うところが吾る」「本当はそんなんじゃない。天真爛漫で人懐っこい」と述べている。さらに高木によると「負けず嫌いで、執着心があり、コツコツと非常に努力家」であるという。努力について本人は「苦にならなかった」と述べている。負けず嫌いについては、本人のほか数々のチームメイトの証言がある。若手時代にワンバウンドを体で止めず佐々木主浩とバッテリーを拒まれていた時代も、あえて見せつけるように投手陣が練習するスペースでワンバウンドを体で止める練習を続け、その努力が認められ佐々木とバッテリーを組めるようになった。

広島県立広島工業高等学校に進学する予定で、同校の野球部監督からは「試験だけ受けてくれれば大丈夫」と言われていたが、その言葉を真に受けて受験勉強に真剣に取り組まなかったせいか不合格となり、やむなく県外の江の川高校に進学した。

1989年に「鍛えたそのパワー」の歌い出しで始まる個人応援歌「谷繁元信選手のテーマ」(作詞:平タケル、作曲:杉本正毅、編曲:除村正人)が制作されたが、この曲は後に村田修一の横浜ベイスターズ在籍時に使用された後、2021年に横浜DeNAベイスターズに入団した牧秀悟の個人応援歌として使用されている。なお、谷繁自身の応援歌は1993年に球団名が「横浜ベイスターズ」に改称されたことに伴い、2代目に新調され、1999年には3代目の応援歌が制作されている。

所属した球団で最初に着けた一桁の背番号(大洋=1、中日=7)を、いずれも後に就任した監督から「捕手のイメージに合わない」という理由で変更されている。大洋→横浜では、1992年秋の「横浜ベイスターズ」への球団名変更直後の秋季練習では「ベイスターズの背番号1」のユニフォームを着用していたが、現役時代に同じ1番を着け、二塁手だった近藤監督の「背番号1は内野手の番号」という持論により1番は進藤達哉(36番から変更)に与えられ、名手辻恭彦が着けるなど大洋→横浜では捕手のイメージがあった背番号8が谷繁に与えられた。この変更には、「1」だと捕手のプロテクターに隠れて見づらいという理由もあったという。谷繁の横浜退団後、8番は一時欠番となり、捕手の相川亮二がレギュラーを獲得するまで使用されなかった。相川の移籍後は筒香嘉智・多村仁志・神里和毅ら、野手が続けて着用している。中日での背番号7も「捕手のプロテクターで背番号が隠れてしまったり、割れて見えてしまうことが縁起がよいものではない」という落合監督(当時)の持論により変更され、以後は川相昌弘・森野将彦・根尾昂など内野手・外野手を中心に着用されている。

サザンオールスターズの大ファンで、ナゴヤドームでの登場曲も中日入団後しばらくはサザンの「HOTEL PACIFIC」を使用している(2009年・2010年は偶数打席のみ。奇数打席はFabolousの「Everything, Everyday, Everywhere」)。2011年以降は、名古屋を拠点に活動し、自身とも親交が深いラッパーAK-69の楽曲を登場曲に採用している。また、2014年に選手兼任監督に就任した際、チームスローガンをAK-69の楽曲にちなんだ「Start it Again 強竜再燃」にしている。

谷繁は現役時代は同じ捕手として古田敦也に対して強いライバル意識を持っており「ヤクルト戦では負けたくない」という想いで常にプレーに臨み、試合の中で古田に何とか捕手としての自分を意識させたいという考えも胸の内に秘めていたという。一方で現役を振り返って総括しても「ほぼ勝てなかった」「スーパーマン」と語るなどプレイヤーとしての古田に尊敬の念も同時に持ち合わせていた。

大矢明彦がバッテリーコーチを務めていた頃、とにかく読書するように勧められ、それが自分の言葉で話すこと、投手を操縦するための言葉選びに役立った。因みに現役時代によく読んだジャンルは歴史、メンタル系。

水島新司が死去した際に「『ドカベン』は大好きで読んでいたけど、実は自分のキャッチャー像として山田太郎はあまり好きじゃなかった。(中略)動けるタイプが理想で、いわば反面教師にしていた。そういう思いが、自分を成長させてくれた部分はある」とコメントを残している。

2009年に実家に隣接する元喫茶店を改装して「谷繁元信 球歴館」が開設されたが、2023年11月に閉館し、収蔵品は東城町内の学校や企業に寄贈されることになった。

2023年に『捕手としてのプロ野球最多出場記録』としてギネス世界記録の認定を受けた。

各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

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この節の加筆が望まれています。
年度 球団 捕手 一塁
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 捕逸 守備率 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1989 大洋横浜 75 296 38 5 3 5 .985 50 32 18 .360 -
1990 73 344 33 2 1 2 .995 42 25 17 .405 -
1991 79 416 41 4 6 8 .991 53 31 22 .415 -
1992 69 356 32 2 3 2 .995 37 26 11 .297 -
1993 109 667 64 3 14 3 .996 46 30 16 .348 -
1994 127 809 64 6 12 4 .993 76 46 30 .395 -
1995 92 390 40 2 6 1 .995 51 32 19 .373 -
1996 125 858 83 10 15 4 .989 101 59 42 .416 -
1997 128 1003 74 5 10 7 .995 70 47 23 .329 -
1998 133 899 93 5 18 4 .995 92 55 37 .402 -
1999 122 806 82 4 8 5 .996 95 58 37 .389 -
2000 122 871 79 3 15 2 .997 79 52 27 .342 -
2001 137 828 109 3 20 3 .997 81 37 44 .543 -
2002 中日 129 971 73 6 25 7 .994 58 30 28 .483 -
2003 110 770 42 2 6 7 .998 48 33 15 .313 -
2004 120 887 49 2 14 9 .998 45 28 17 .378 -
2005 140 1014 65 2 14 6 .998 55 31 24 .436 -
2006 138 1006 79 1 10 3 .999 57 34 23 .404 -
2007 133 908 58 3 12 9 .997 57 34 23 .404 -
2008 113 737 51 3 10 3 .996 64 43 21 .328 -
2009 114 689 64 0 11 7 1.000 53 36 17 .321 -
2010 109 639 61 6 8 4 .992 63 40 23 .365 -
2011 100 524 48 1 9 1 .998 37 27 10 .270 1 5 0 0 1 1.000
2012 131 736 75 1 12 5 .999 72 46 26 .361 -
2013 122 681 65 1 9 5 .999 86 71 15 .174 -
2014 87 504 50 1 8 2 .998 66 50 16 .242 -
2015 26 101 13 0 3 1 1.000 13 8 5 .385 -
通算 2963 18710 1625 83 282 119 .996 1647 1041 606 .368 1 5 0 0 1 1.000
    各年度の太字はリーグ最高 赤太字はNPBにおける歴代最高

    太字年はゴールデングラブ賞受賞

    ※通算成績は、2016年インフルエンザで欠場した4月22日1試合(勝利)と休養した8月9日以降の成績は含まない

    ベストナイン:1回(1998年)

    ゴールデングラブ賞:6回(1998年、2006年、2007年、2009年、2011年、2012年)

    最優秀バッテリー賞:4回

      1998年 投手:佐々木主浩

      2004年 投手:川上憲伸

      2006年 投手:川上憲伸

      2011年 投手:吉見一起

      JA全農Go・Go賞:1回(最多盗塁阻止賞:2012年7月)

      日本シリーズ優秀選手賞:1回(2004年)

      セ・リーグ連盟特別表彰:2回(特別賞:2014年、功労賞:2015年)

      コミッショナー特別表彰:1回(特別賞:2015年)

      庄原市ふるさと功労賞(2008年)

      庄原市市民栄誉賞(2014年)

      初出場:1989年4月11日、対広島東洋カープ1回戦(横浜スタジアム)、8回裏に岡本透の代打で出場

      初打席・初安打:同上、8回裏に川口和久から左前安打

      初先発出場:1989年5月18日、対ヤクルトスワローズ8回戦(横浜スタジアム)、7番・捕手で先発出場

      初打点:1989年5月21日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場)、5回表に池田親興から適時三塁打

      初本塁打:1989年5月27日、対ヤクルトスワローズ9回戦(柏崎市佐藤池野球場)、5回表に尾花高夫からソロ

      初盗塁:1990年4月7日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤ球場)、11回表に二盗(投手:与田剛、捕手:中村武志)

      1000試合出場:1998年8月25日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、「8番・捕手」で先発出場 ※史上347人目(飯田哲也と同日達成)

      100本塁打:2001年10月3日、対広島東洋カープ27回戦(広島市民球場)、2回表に高橋建から右越2ラン ※史上217人目

      1000安打:2001年10月9日、対中日ドラゴンズ27回戦(横浜スタジアム)、3回裏に朝倉健太から中前安打 ※史上208人目

      1500試合出場:2002年8月1日、対読売ジャイアンツ20回戦(東京ドーム)、「8番・捕手」で先発出場 ※史上137人目

      1000三振:2003年8月6日、対広島東洋カープ19回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に高橋建から ※史上34人目

      150本塁打:2004年5月18日、対広島東洋カープ7回戦(広島市民球場)、5回表に高橋建から左越2ラン ※史上136人目

      2000試合出場:2006年7月26日、対阪神タイガース9回戦(ナゴヤドーム)、「7番・捕手」で先発出場 ※史上36人目

      1500安打:2006年10月9日、対東京ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場)、4回表に石川雅規から右中間適時二塁打 ※史上90人目

      300二塁打:2007年8月8日、対広島東洋カープ14回戦(ナゴヤドーム)、4回裏に宮崎充登から右翼フェンス直撃適時二塁打 ※史上47人目

      1500三振:2009年8月14日、対東京ヤクルトスワローズ16回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に村中恭兵から ※史上7人目

      200本塁打:2009年9月1日、対広島東洋カープ19回戦(浜松球場)、3回裏に今井啓介から左越ソロ ※史上94人目

      200犠打:同上、7回裏に青木勇人から ※史上29人目(200本塁打と200犠打を両方達成したのは高木守道・石毛宏典以来、史上3人目)

      2500試合出場:2010年7月28日、対読売ジャイアンツ14回戦(東京ドーム)、「7番・捕手」で先発出場 ※史上9人目

      100死球:同上、11回表に山口鉄也から ※史上15人目

      350二塁打:2011年9月19日、対読売ジャイアンツ19回戦(東京ドーム)、5回表に野間口貴彦から左翼線適時二塁打 ※史上32人目

      1000四球:2012年4月10日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、6回表に小野淳平から ※史上13人目

      3000塁打:2012年7月26日、対阪神タイガース14回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に福原忍から左越2ラン ※史上50人目

      2000安打:2013年5月6日、対東京ヤクルトスワローズ7回戦(明治神宮野球場)、6回表に押本健彦から右前安打 ※史上44人目

      1000打点:2013年6月13日、対埼玉西武ライオンズ4回戦(西武ドーム)、9回表にデニス・サファテから中前同点適時打 ※史上40人目

      10000打席:2013年9月23日、対横浜DeNAベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)、9回表の第4打席で達成 ※史上9人目

      250犠打:2014年10月1日、対横浜DeNAベイスターズ23回戦(ナゴヤドーム)、2回裏にギジェルモ・モスコーソから投前犠打 ※史上18人目

      3000試合出場:2015年4月30日、対読売ジャイアンツ6回戦(東京ドーム)、「8番・捕手」で先発出場 ※史上2人目

      守備機会連続無失策:1708、2006年4月4日 - 2007年8月10日 ※セ・リーグ歴代2位

      連続シーズン安打:27年、1989年 - 2015年 ※NPB記録

      連続シーズン本塁打:27年、1989年 - 2015年 ※NPB記録、ギネス世界記録認定

      中日球団最年長本塁打:44歳4か月13日、2015年5月4日 ※NPB記録は岩本義行の45歳5か月7日

      セ・リーグ最年長猛打賞:44歳4か月13日、2015年5月4日 ※NPB記録は落合博満の44歳5か月、1998年5月16日

      通算試合出場:3021試合 ※NPB記録

      捕手としての試合出場:2963試合 ※NPB記録、ギネス世界記録認定

      シーズン打率3年連続最下位(2005年 - 2007年)※NPB記録

      規定打席に達しての打率最下位を5度記録(1994年、2002年、2005年 - 2007年)※NPB最多記録

      2000安打達成者による年間最高安打最低記録:126安打(1999年)

      通算三振:1838 ※歴代3位、セ・リーグ記録。リーグ最多三振を記録していない選手の中では歴代最多

      通算四球:1133 ※歴代10位、リーグ最多四球を記録していない選手の中では歴代最多

      通算死球:114 ※歴代15位タイ、リーグ最多死球を記録していない選手の中では歴代最多

      オールスターゲーム出場:12回(1993年、1997年、1998年、1999年、2000年、2001年、2002年、2005年、2007年、2012年、2013年、2014年)

      最年長安打:43歳6か月、2014年第1戦(西武ドーム)

      1(1989年 - 1992年)

      8(1993年 - 2001年)

      7(2002年 - 2003年)

      27(2004年 - 2016年)

      「Move It Like This」Baha Men(2002年)

      「Who Let The Dogs Out」Baha Men(2002年)

      「Perfect Love (Remix)」Lutricia McNeal(2002年、奇数打席)

      「You Showed Me (Club Mix)」Lutricia McNeal(2002年、偶数打席)

      「Without Me」Eminem(2003年)

      「In Da Club」50Cent(2003年、奇数打席)

      「Wanksta」50Cent(2003年、偶数打席)

      「Right Thurr」Chingy(2004年)

      「My Band」D12(2004年、奇数打席)

      「Dirt Off Your Shoulder」Jay-Z(2004年 - 2005年、偶数打席)

      「Dip It Low」Christina Milian(2004年、奇数打席)

      「Thugs Get Lonely Too feat. Nate Dogg」2Pac(2005年、奇数打席)

      「For That」50Cent(2005年、奇数打席)

      「If I Can't」50Cent(2005年、偶数打席)

      「Let The Record Skip」Bizarre(2005年)

      「Heard 'Em Say feat. Adam Levine」Kanye West(2006年、奇数打席)

      「Shake That feat. Nate Dogg」Eminem(2006年、偶数打席)

      「There It Go (The Whistle Song)」Juelz Santana(2006年)

      「Seize The Day」RYO the SKYWALKER(2006年)

      「2 Of Amerikaz Most Wanted feat. Snoop Doggy Dogg」2Pac(2006年日本シリーズ)

      「Smack That feat. Eminem」Akon(2007年)

      「Money Maker feat. Pharrell」Ludacris(2007年)

      「Hips Don't Lie feat. Wyclef Jean」Shakira(2007年~2008年)

      「Low feat. T-Pain」Flo Rida(2008年)

      「エロティカ・セブン」サザンオールスターズ(2008年、奇数打席)

      「マンピーのG★SPOT」サザンオールスターズ(2008年、偶数打席)

      「Everything, Everyday, Everywhere feat. Keri Hilson」Fabolous(2009年 - 2010年、奇数打席)

      「HOTEL PACIFIC」サザンオールスターズ(2009年 - 2011年、偶数打席、2011年は全打席)

      「Lookin' In My Eyez」AK-69(2011年、奇数打席)

      「Still... feat. AK-69」AI(2011年、偶数打席)

      「SWAG IN DA BAG」AK-69(2012年 - 2014年、2013年 - 2014年は偶数打席)

      「START IT AGAIN」AK-69(2013年、奇数打席)

      「THE INDEPENDENT KING」AK-69(2014年、奇数打席)

      「The Throne」AK-69(2015年、奇数打席)

      「ICU」AK-69(2015年、偶数打席)

      2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表

      ニッポン放送ショウアップナイター(2017年 - 、ニッポン放送) - 解説者

      We☆ベイスターズ(2018年4月 - 2019年3月、テレビ神奈川) - MC

      レジェンドの目撃者 〜最多出場の司令塔 谷繁元信〜(2023年11月12日、NHKBS)

      『谷繁流 キャッチャー思考 当たり前の積み重ねが確固たる自信を生む』日本文芸社、2017年7月。ISBN 978-4537214956。https://www.nihonbungeisha.co.jp/book/b329472.html。 

      『勝敗はバッテリーが8割 名捕手が選ぶ投手30人の投球術』幻冬舎、2022年7月。ISBN 978-4344039858。https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344039858/。 

      『谷繁ノート 強打者の打ち取り方』光文社、2023年1月。ISBN 978-4334953591。https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334953591。 

      『プロ野球の名脇役』(二宮清純著、光文社新書、2014年4月、ISBN 9784334037925)

      ^ 2007年の中日は第2位からの日本一であったため。

      ^ 横浜時代は通算1002安打。

      ^ 野口の後、3度目となった天知俊一を挟んで1959年 - 1960年に監督を務めた杉下茂も登録上は選手(投手)兼任だったが、試合には出場せず監督に専念していた。家督辞任後の1961年に大毎オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)に移籍してコーチに就任する予定だったが、永田雅一オーナーの意向により現役に復帰した。

      ^ 「谷繁元信選手のテーマ」 - 作詞:平タケル、作曲:杉本正毅、編曲:除村正人。歌詞は横浜DeNAベイスターズの公式ホームページに掲載されている牧秀悟の個人応援歌と同一。収録アルバムは以下の通り。

        『'89 横浜大洋ホエールズ選手別応援歌』日本コロムビア、1989年4月8日発売(EAN 4988001274735、ASIN B000UUWYAY、国立国会図書館書誌ID:000008914476、CA-3355) - #31(歌と演奏:杉本正毅&ベイサイド・ホームランズ)

        『'90 横浜大洋ホエールズ選手別応援歌』日本コロムビア、1990年4月7日発売(EAN 4988001410539、ASIN B000UVIYUC、国立国会図書館書誌ID:000009003515、COCA-6131) - #19(歌と演奏:杉本正毅とベイサイド・ホームランズ)

        『'91 横浜大洋ホエールズ選手別応援歌』日本コロムビア、1991年4月6日発売(EAN 4988001083375、ASIN B000UVJK1E、COCA-7459) - #19(歌と演奏:杉本正毅とベイサイド・ホームランズ)

        『'92 横浜大洋ホエールズ選手別応援歌』日本コロムビア、1992年4月8日発売(EAN 4988001232872、ASIN B00005MRCK、国立国会図書館書誌ID:000008930147、COCA-9905) - #21(歌と演奏:杉本正毅とベイサイド・ホームランズ)

        ^ 「谷繁元信のテーマ」 - 作詞:井辺清、作曲:松本俊行、編曲:岡本洋。収録アルバムは以下の通り。

          『横浜ベイスターズ '93選手別応援歌』ポニーキャニオン、1993年3月19日発売(EAN 4988013460737、ASIN B000UV9NNO、PCCH-00022) - #13(歌・演奏:ザ・ベイスターズ)ブックレット7頁に歌詞掲載。

          『横浜ベイスターズ '94選手別応援歌』ポニーキャニオン、1994年3月18日発売(EAN 4988013528031、ASIN B00005MYGX、PCCH-00032) - #15(歌・演奏:ザ・ベイスターズ)

          『横浜ベイスターズ '95選手別応援歌』ポニーキャニオン、1995年4月5日発売(EAN 4988013586031、ASIN B00005FR1G、PCCH-00053) - #20(歌・演奏:ザ・ベイスターズ)

          『横浜ベイスターズ '96選手別応援歌』ポニーキャニオン、1996年4月3日発売(EAN 4988013731936、ASIN B00005FR1I、PCCH-00061) - #25(歌・演奏:ザ・ベイスターズ)ブックレット14頁に歌詞掲載。

          『横浜ベイスターズ '97選手別応援歌』ポニーキャニオン、1997年4月9日発売(EAN 4988013781436、ASIN B00005FR1L、PCCH-00066) - #22(歌・演奏:ザ・ベイスターズ)

          『横浜ベイスターズ '98選手別応援歌』ポニーキャニオン、1998年4月1日発売(EAN 4988013528031、ASIN B00005MYGX、PCCH-00075) - #22(歌・演奏:ザ・ベイスターズ)ブックレット13頁に歌詞掲載。

          ^ 「谷繁元信のテーマ」 - 作詞:松浦新二、作曲・編曲:菊池圭長。収録アルバムは以下の通り。

            『横浜ベイスターズ '99選手別応援歌』ポニーキャニオン、1999年3月17日発売(EAN 4988013460737、ASIN B000UV9NNO、PCCH-00082) - #20(歌・演奏:ザ・ベイスターズ)「谷繁元信のテーマ〈新バージョン〉」。ブックレット12頁に歌詞掲載。

            『横浜ベイスターズ選手別応援歌 2000』ポニーキャニオン、2000年3月29日発売(EAN 4988013889439、ASIN B00005FR20、PCCH-00084) - #11(歌・演奏:ザ・ベイスターズ)

            『横浜ベイスターズ選手別応援歌 2001』ポニーキャニオン、2001年3月14日発売(EAN 4988013200807、ASIN B00005HVHD、PCCH-00086) - #15(歌・演奏:ザ・ベイスターズ)

            ^ この時8番は鴻野淳基(内野手・翌年49番に変更)が着用し、進藤はまだ36番を着用していた。その他石井琢朗(66→0→5)、畠山準(49→25)など翌年以降背番号を変更した選手も旧背番号のユニフォームを着用していた。

            ^ 近藤の監督就任同時に、近藤の後に1番を着用した山下大輔(現役時代は内野手)もコーチとして復帰していた。

            ^ 背番号が隠れないホルダーネック型ベルトのプロテクターも存在したが、主流ではなかった。

            ^ 根尾は2022年交流戦終了後から投手登録に変更し、以後投手に専念した後も、2024年まで引き続き7を着用したが、「心機一転を兼ね、投手らしい番号を」との井上一樹監督の提案により2025年から背番号を変更する予定である。

            ^ 「谷繁元信さんに市民栄誉賞授与 (PDF)」『広報しょうばら2014年4月号(NO.109)』庄原市。2017年12月4日閲覧。桝井聡「谷繁兼任監督 礎を築いたのは故郷の自然と父の情熱」『日刊スポーツ』2015年7月29日。2024年1月18日閲覧。「谷繁元信さん1歳時のプラスチックバットも…歩みたどる「球歴館」閉館 庄原市東城」中国新聞、2023年11月18日。2023年11月18日閲覧。Welcome to Tojo 東城ってこ–んなとこ (PDF) 広島県立東城高等学校×東城町商工会 2019年3月 p.5

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            ^ 箭内桃子「番長絶賛のDeNAドラ2位・牧がリーグ2冠 打率・431&13打点」『サンスポ』産業経済新聞社、2021年4月9日。2021年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月26日閲覧。応援歌には、現役時代に2度の本塁打王を獲得した村田修一(現巨人野手総合コーチ)の曲が継承された。

            ^ 安藤宏太「【DeNA】牧秀悟、「男・村田修一」越えへ 新人4月最多7本塁打更新まであと2発」『スポーツ報知』報知新聞社、2021年4月27日。2021年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月26日閲覧。村田の横浜時代の応援歌を引き継いだ牧が、

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            ^ 〜最多出場の司令塔 谷繁元信〜 レジェンドの目撃者

            広島県出身の人物一覧

            横浜DeNAベイスターズの選手一覧

            中日ドラゴンズの選手一覧

            マシンガン打線

            個人年度別成績 谷繁元信 - NPB.jp 日本野球機構

            選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube、MLB

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            谷繁元信 (@m_tanishige) - X(旧Twitter)

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            池田豊 1936

            桝嘉一 1937

            根本行都 1938 - 1939

            小西得郎 1939 - 1941

            本田親喜 1941 - 1942

            桝嘉一 1943

            三宅大輔 1944

            竹内愛一 1946

            杉浦清 1946 - 1948

            天知俊一 1949 - 1951

            坪内道典 1952 - 1953

            天知俊一 1954

            野口明 1955 - 1956

            天知俊一 1957 - 1958

            杉下茂 1959 - 1960

            濃人貴実 1961 - 1962

            杉浦清 1963 - 1964

            西沢道夫 1964 - 1967

            杉下茂 1968

            水原茂 1969 - 1971

            与那嶺要 1972 - 1977

            中利夫 1978 - 1980

            近藤貞雄 1981 - 1983

            山内一弘 1984 - 1986

            星野仙一 1987 - 1991

            高木守道 1992 - 1995

            星野仙一 1996 - 2001

            山田久志 2002 - 2003

            落合博満 2004 - 2011

            髙木守道 2012 - 2013

            谷繁元信 2014 - 2016

            森繁和 2017 - 2018

            与田剛 2019 - 2021

            立浪和義 2022 - 2024

            井上一樹 2025 - 現在

            60 ヴィクトル・スタルヒン

            62 池田豊

            63 中島治康

            64 若林忠志

            65 川上哲治、鶴岡一人

            69 苅田久徳

            70 天知俊一、二出川延明

            72 石本秀一

            74 藤本定義、藤村富美男

            76 中上英雄

            77 水原茂、西沢道夫

            78 松木謙治郎、浜崎真二

            79 別所毅彦

            80 大下弘、小鶴誠

            81 飯田徳治、岩本義行

            83 三原脩

            85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳

            88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一

            89 島秀之助、野村克也、野口二郎

            90 真田重蔵、張本勲

            91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎

            92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男

            93 稲尾和久、村山実

            94 王貞治、与那嶺要

            95 杉浦忠、石井藤吉郎

            96 藤田元司、衣笠祥雄

            97 大杉勝男

            99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄

            00 米田哲也

            01 根本陸夫、小山正明

            02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎

            03 上田利治、関根潤三

            04 仰木彬

            05 村田兆治、森祇晶

            06 門田博光、高木守道、山田久志

            07 梶本隆夫

            08 山本浩二、堀内恒夫

            09 若松勉

            10 東尾修

            11 落合博満

            12 北別府学、津田恒実

            13 大野豊

            14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩

            15 古田敦也

            16 斎藤雅樹、工藤公康

            17 伊東勤

            18 松井秀喜、金本知憲

            19 立浪和義

            22 髙津臣吾、山本昌

            23 アレックス・ラミレス

            24 谷繁元信、黒田博樹

            09 青田昇

            10 江藤慎一

            11 皆川睦雄

            13 外木場義郎

            16 榎本喜八

            17 星野仙一、平松政次

            18 原辰徳

            19 権藤博

            20 田淵幸一

            23 ランディ・バース

            59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿

            60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎

            62 市岡忠男

            64 宮原清

            65 井上登、宮武三郎、景浦將

            66 守山恒太郎

            67 腰本寿

            68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三

            69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧

            70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚

            71 小西得郎、水野利八

            72 中野武二、太田茂

            73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三

            74 野田誠三

            76 小泉信三

            77 森茂雄、西村幸生

            78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎

            79 平沼亮三、谷口五郎

            80 千葉茂

            81 佐伯達夫、小川正太郎

            82 鈴木龍二、外岡茂十郎

            83 内村祐之

            84 桐原眞二

            85 田中勝雄、山内以九士

            86 中河美芳、松方正雄

            87 藤田信男、山下実

            88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一

            89 池田恒雄、伊達正男

            90 佐伯勇

            91 中澤良夫

            92 吉田正男

            94 廣岡知男

            95 呉昌征、村上實

            96 牧野直隆、保坂誠

            97 山本英一郎

            98 中尾碩志、井口新次郎

            99 吉國一郎

            00 福島慎太郎

            01 武田孟、長谷川良平

            02 中澤不二雄、生原昭宏

            03 松田耕平

            04 秋山登

            05 志村正順

            06 川島廣守、豊田泰光

            07 松永怜一

            08 嶋清一

            09 大社義規、君島一郎

            10 古田昌幸

            12 長船騏郎、大本修

            13 福嶋一雄

            14 相田暢一

            15 林和男、村山龍平

            16 松本瀧藏、山中正竹

            17 郷司裕、鈴木美嶺

            18 瀧正男

            19 脇村春夫

            20 前田祐吉、石井連藏

            21 川島勝司、佐山和夫

            22 松前重義

            23 古関裕而

            24 谷村友一

            02 フランク・オドール、正岡子規

            03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄

            金田正一

            稲尾和久

            小山正明

            米田哲也

            梶本隆夫

            皆川睦雄

            村山実

            鈴木啓示

            堀内恒夫

            山田久志

            江夏豊

            平松政次

            東尾修

            村田兆治

            北別府学

            佐々木主浩

            高津臣吾

            工藤公康

            野茂英雄

            山本昌広

            岩瀬仁紀

            黒田博樹

            上原浩治

            藤川球児

            平野佳寿

            山内一弘

            榎本喜八

            野村克也

            長嶋茂雄

            広瀬叔功

            張本勲

            王貞治

            江藤慎一

            土井正博

            高木守道

            松原誠

            柴田勲

            大杉勝男

            藤田平

            衣笠祥雄

            福本豊

            山崎裕之

            山本浩二

            有藤通世

            若松勉

            谷沢健一

            加藤秀司

            門田博光

            大島康徳

            新井宏昌

            秋山幸二

            駒田徳広

            立浪和義

            鈴木一朗(イチロー)

            清原和博

            古田敦也

            野村謙二郎

            石井琢朗

            松井秀喜

            田中幸雄

            前田智徳

            金本知憲

            松井稼頭央

            小笠原道大

            稲葉篤紀

            宮本慎也

            小久保裕紀

            アレックス・ラミレス

            中村紀洋

            谷繁元信

            井口資仁

            和田一浩

            新井貴浩

            福留孝介

            荒木雅博

            青木宣親

            阿部慎之助

            鳥谷敬

            内川聖一

            福浦和也

            坂本勇人

            栗山巧

            大島洋平

            1957 豊田泰光

            1958 中西太

            1959 杉山光平

            1960 近藤和彦

            1961 塩原明

            1962 岩下光一

            1963 王貞治

            1964 K.ハドリ

            1965 林俊彦

            1966 長嶋茂雄

            1967 D.スペンサー

            1968 柴田勲

            1969 足立光宏

            1970 黒江透修

            1971 黒江透修

            1972 長嶋茂雄

            1973 高田繁

            1974 山崎裕之

            1975 中沢伸二, 外木場義郎

            1976 B.ウイリアムス

            1977 福本豊

            1978 若松勉

            1979 水谷実雄

            1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰

            1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正

            1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義

            1983 田淵幸一, テリー, 中畑清

            1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊

            1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二

            1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実

            1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己

            1988 清原和博, 森山良二, 郭源治

            1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸

            1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤

            1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎

            1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也

            1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也

            1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦

            1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾

            1996 大島公一, 鈴木平, イチロー

            1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛

            1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広

            1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司

            2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成

            2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満

            2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之

            2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎

            2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信

            2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁

            2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲

            2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博

            2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広

            2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一

            2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平

            2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩

            2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー

            2013 田中将大, 銀次, 内海哲也

            2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太

            2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太

            2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔

            2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大

            2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃

            2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩

            2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐

            2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎

            2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆

            2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸

            2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ

            1950 荒川昇治

            1951 野口明

            1952 野口明

            1953 広田順

            1954 広田順

            1955 広田順

            1956 藤尾茂

            1957 藤尾茂

            1958 藤尾茂

            1959 藤尾茂

            1960 土井淳

            1961 森昌彦

            1962 森昌彦

            1963 森昌彦

            1964 森昌彦

            1965 森昌彦

            1966 森昌彦

            1967 森昌彦

            1968 森昌彦

            1969 木俣達彦

            1970 木俣達彦

            1971 木俣達彦

            1972 田淵幸一

            1973 田淵幸一

            1974 田淵幸一

            1975 田淵幸一

            1976 田淵幸一

            1977 木俣達彦

            1978 大矢明彦

            1979 木俣達彦

            1980 大矢明彦

            1981 山倉和博

            1982 中尾孝義

            1983 山倉和博

            1984 達川光男

            1985 八重樫幸雄

            1986 達川光男

            1987 山倉和博

            1988 達川光男

            1989 中尾孝義

            1990 村田真一

            1991 古田敦也

            1992 古田敦也

            1993 古田敦也

            1994 西山秀二

            1995 古田敦也

            1996 西山秀二

            1997 古田敦也

            1998 谷繁元信

            1999 古田敦也

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            1972 大矢明彦

            1973 田淵幸一

            1974 田淵幸一

            1975 大矢明彦

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            1977 大矢明彦

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            1979 若菜嘉晴

            1980 大矢明彦

            1981 山倉和博

            1982 中尾孝義

            1983 山倉和博

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            1988 達川光男

            1989 中尾孝義

            1990 古田敦也

            1991 古田敦也

            1992 古田敦也

            1993 古田敦也

            1994 西山秀二

            1995 古田敦也

            1996 西山秀二

            1997 古田敦也

            1998 谷繁元信

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            2000 古田敦也

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            2023 坂本誠志郎

            1991 西村龍次 - 古田敦也

            1992 岡林洋一 - 古田敦也

            1993 山本昌広 - 中村武志

            1994 桑田真澄 - 村田真一

            1995 T.ブロス - 古田敦也

            1996 斎藤雅樹 - 村田真一

            1997 田畑一也 - 古田敦也

            1998 佐々木主浩 - 谷繁元信

            1999 野口茂樹 - 中村武志

            2000 五十嵐亮太 - 古田敦也

            2001 藤井秀悟 - 古田敦也

            2002 上原浩治 - 阿部慎之助

            2003 井川慶 - 矢野輝弘

            2004 川上憲伸 - 谷繁元信

            2005 藤川球児 - 矢野輝弘

            2006 川上憲伸 - 谷繁元信

            2007 高橋尚成 - 阿部慎之助

            2008 S.グライシンガー - 阿部慎之助

            2009 D.ゴンザレス - 阿部慎之助

            2010 前田健太 - 石原慶幸

            2011 吉見一起 - 谷繁元信

            2012 内海哲也 - 阿部慎之助

            2013 前田健太 - 石原慶幸

            2014 菅野智之 - 阿部慎之助

            2015 石川雅規 - 中村悠平

            2016 野村祐輔 - 石原慶幸

            2017 菅野智之 - 小林誠司

            2018 大瀬良大地 - 會澤翼

            2019 山口俊 - 小林誠司

            2020 大野雄大 - 木下拓哉

            2021 柳裕也 - 木下拓哉

            2022 青柳晃洋 - 梅野隆太郎

            2023 東克樹 - 山本祐大

            3 長嶋茂雄

            33 中畑清

            32 大野豊

            31 高木豊

            11 木佐貫洋

            13 岩瀬仁紀

            15 黒田博樹

            16 安藤優也

            18 松坂大輔

            19 上原浩治

            21 和田毅

            30 小林雅英

            61 石井弘寿

            8 谷繁元信

            9 城島健司

            2 小笠原道大

            6 宮本慎也

            7 松井稼頭央

            17 二岡智宏

            48 井端弘和

            1 福留孝介

            5 和田一浩

            10 谷佳知

            23 木村拓也

            24 高橋由伸

            89 王貞治

            86 鹿取義隆(投手)

            84 武田一浩(投手)

            87 大島康徳(打撃)

            85 辻発彦(内野守備走塁)

            88 弘田澄男(外野守備走塁)

            11 清水直行

            12 藤田宗一

            15 久保田智之

            18 松坂大輔

            19 上原浩治

            20 薮田安彦

            21 和田毅

            24 藤川球児

            31 渡辺俊介

            40 大塚晶則

            41 小林宏之

            47 杉内俊哉

            61 石井弘寿(途中離脱)

            61 馬原孝浩(追加招集)

            22 里崎智也

            27 谷繁元信

            59 相川亮二

            1 岩村明憲

            2 小笠原道大

            3 松中信彦

            7 西岡剛

            8 今江敏晃

            10 宮本慎也

            25 新井貴浩

            52 川﨑宗則

            5 和田一浩

            6 多村仁

            9 金城龍彦

            17 福留孝介

            23 青木宣親

            51 イチロー

            1位:谷繁元信

            2位:宮里太

            3位:井上純

            4位:堀江賢治

            5位:石田文樹

            6位:佐野貴英

            VIAF

            日本

            CiNii Books

            CiNii Research

            谷繁元信

            日本の野球選手

            石見智翠館高等学校出身の野球選手

            横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手

            中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手

            NPBオールスターゲーム選出選手

            名球会

            日本の野球殿堂表彰者

            野球日本代表選手

            ワールド・ベースボール・クラシック日本代表選手

            2006 ワールド・ベースボール・クラシック選手

            ワールド・ベースボール・クラシック優勝選手

            日本の野球監督

            選手兼任監督

            中日ドラゴンズ及びその前身球団の監督

            スポーツに関する日本のギネス世界記録保持者

            日本の男性YouTuber

            元NPB選手のYouTuber

            野球解説者

            広島県出身のスポーツ選手

            1970年生

            存命人物

            Pages using the JsonConfig extension

            外部リンクがリンク切れになっている記事/2020年12月

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            プロジェクト人物伝項目

2024/11/10 05:44更新

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