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大矢明彦の情報 (おおやあきひこ)
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【12月4日】今日誕生日の芸能人・有名人

大矢明彦の情報(おおやあきひこ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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大矢 明彦さんについて調べます

■名前・氏名
大矢 明彦
(読み:おおや あきひこ)
■職業
野球選手
■大矢明彦の誕生日・生年月日
1947年12月20日 (年齢76歳)
亥年(いのしし年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和22年)1947年生まれの人の年齢早見表

大矢明彦と同じ1947年生まれの有名人・芸能人

大矢明彦と同じ12月20日生まれの有名人・芸能人

大矢明彦と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


大矢明彦と関係のある人

奥薗満: 当時のヤクルト捕手陣には大矢明彦、八重樫幸雄らがおり、1980年までの11年間、ブルペン捕手としてチームを支え続けたが、一軍公式戦に出場する事なく引退。


伊東勤: また元ヤクルト捕手の大矢明彦は、「いかにも森祇晶さんに育てられた捕手だよなぁと感じます。


八重樫幸雄: チームが大型捕手として期待された八重樫を内外野にコンバートしようとした理由は、同期入団(ドラフト7位)で大学卒の大矢明彦の存在と、正捕手不在というチーム事情があったためであった。


谷繁元信: 近藤昭仁が監督、大矢明彦がバッテリーコーチに就任し、谷繁は「僕を育てるために大矢さんが招かれたようなものだったと思います」と述べている。


赤坂光昭: 加藤俊夫、大矢明彦の壁を破れず、一軍でマスクを被ることはなかった。


小山昭晴: 2007年に横浜コーチ時代の同僚だった大矢明彦が横浜の監督に復帰した際、背番号は親友だった小山を偲んで、小山が横浜コーチ時代に背負っていた85番を着用した。


井上洋一: 初安打:1970年7月9日 対読売ジャイアンツ15回戦(札幌円山球場)9回表に大矢明彦の代打で出場、高橋一三から


小山田健一: ここでも大矢明彦という不動の正捕手がいたため出場機会に恵まれなかった。


袴田英利: また、これについて大矢明彦は、日米野球で村田からノーサインでの捕球を求められて、「袴田はよくこの球を捕れるなと頭の下がる思いだった」と評している。


高橋寛: 1年目の1977年から一軍に入り、2年目の1978年には7試合にマスクを被るが、大矢明彦・八重樫幸雄といった捕手陣の壁を破ることはできず、なかなか結果を残せないまま1981年以降は出場機会もなくなり、ブルペン捕手となって1984年限りで選手登録も外れる。


細山田武史: ドラフト時の横浜監督・大矢明彦の著書・『大矢明彦的「捕手」論』を愛読書として配球を学び大学のリーグ戦で生かし、横浜の指名挨拶を受けた際に「大矢監督の分身として頑張りたい」と述べた。


久代義明: 1969年には加藤俊夫に次ぐ控え捕手となり、1970年には加藤の不祥事による欠場もあって、大矢明彦と正捕手を争った。


植木一智: 同年の全日本大学野球選手権大会は準決勝に進むが、野村収、大矢明彦のバッテリーを擁する駒大に敗れた。


齊藤明雄: 2007年より大矢明彦の横浜監督再任に伴い、一軍投手チーフコーチとして復帰する。


石渡茂: 高校の1年上に大矢明彦、荒川(出沢)尭がいた。


中出謙二: ヤクルトの片岡宏雄スカウトが大矢明彦に続く捕手を獲得するため、新日鉄堺グラウンドへ中出の視察に赴いたことがあったが、現役時代捕手でもあった片岡は「こんなレベルじゃプロでは通用せえへんな」と、即決で中出の獲得を断念。


進藤達哉: 1996年、新監督の大矢明彦の内野コンバート案によって、3年連続で三塁手としてゴールデングラブ賞を受賞していた石井琢朗が遊撃手に、ロバート・ローズが二塁手から三塁手に、そして進藤が二塁手にコンバートされた。


田淵幸一: 漫画の中ではタブチの良きパートナーとしてヤクルトの安田猛(実生活では東京六大学以来の好敵手である)や大矢明彦、また当時ヤクルトの監督で後に西武の監督に就任する広岡達朗もキャラクターとして登場、1979年には映画にもなった。


村越稔: レギュラー捕手に加藤俊夫、大矢明彦がおり、一軍では出場機会に恵まれなかった。


野村弘樹: シーズン中盤まで3割近くをキープしていたシーズンもあり、前述にある1996年4月23日の対阪神戦では、0対2で負けていた7回の一、三塁の場面で打席が回り、野村は代打が出されるものだと思っていたが、大矢明彦監督からは「野村、変わりがいないんだ」と言われ、そのまま打席に入り思い切ってバットを振ったところ一人で勝利を呼び込む逆転スリーランとなった。


吉村裕基: 2007年は、新監督大矢明彦の意向により、外野手から一塁手にコンバートされ、一塁手で137試合に先発出場、他ポジションにはつかなかった。


弘田澄男: 横浜時代には監督大矢明彦の下でチームの躍進に貢献し、谷繁元信は「弘田さん(当時外野守備走塁コーチ)に外野守備の練習めっちゃさせられたでしょう。


秋元宏作: 1996年シーズンに大矢明彦一軍バッテリーコーチが監督に昇格すると谷繁が正捕手に固定され、出場機会が減少。


武上四郎: 同年10月7日の中日戦(中日)で若生和也から初めて満塁本塁打を放ち、同年には岡嶋博治コーチの引率で松岡弘・藤原真・安木祥二・大矢明彦ら4名と共にエンゼルスのアリゾナ教育リーグ(メサ)に参加。


中井美穂: 「四死球(ししきゅう)」を「よんしきゅう」と読むなど野球の知識に乏しい状態での抜擢であり、当初は大矢明彦、平松政次、谷沢健一ら解説者にサポートされていたが、徐々に成長して評価を高めた。


君波隆祥: しかし大矢明彦、八重樫幸雄ら捕手陣の壁は厚く、あまり活躍の場はなかった。


世良賢治: 1975年にイースタン本塁打王を獲得するも、一軍には大矢明彦、八重樫幸雄がおり壁が厚く、1979年に現役引退。


大杉勝男: 『プロ野球ニュース』でも訃報が伝えられ、大洋コーチ就任時にキャスターの中井美穂へ宛てたビデオメッセージがプレイバックされると、中井と大矢明彦(ヤクルト時代のチームメイトであった)がVTR明けに憚らず涙した。


山下大輔: 1996年に監督に就任した大矢明彦と内野手のコンバートを巡り意見の相違があり、1997年は二軍ヘッドコーチを務めた。


古沢憲司: 3日後の4月5日のヤクルト戦(神宮)では「時間切れ引き分けまであと1分」という土壇場で大矢明彦にサヨナラ本塁打を打たれた。


大矢明彦の情報まとめ

もしもしロボ

大矢 明彦(おおや あきひこ)さんの誕生日は1947年12月20日です。東京出身の野球選手のようです。

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卒業、事故、引退、テレビ、現在に関する情報もありますね。大矢明彦の現在の年齢は76歳のようです。

大矢明彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

大矢 明彦(おおや あきひこ、1947年12月20日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。

セ・リーグ初の捕手部門のダイヤモンドグラブ賞を受賞している。

二女の大矢陽子は、2004年から2005年に横浜ベイスターズ2代目オフィシャル・リポーターを務めていた。

歯科技工士の父が率いるチームで野球を始め、中等部から進んだ早実高では2年次の1964年、前年春の選抜で準決勝進出を果たした織田和男、新藤克己の両投手とバッテリーを組み、夏の甲子園東京都予選に出場。優勝候補と目され決勝に進出するが、修徳高のエース成田文男に抑えられ敗退。3年次の1965年には夏の都予選準々決勝では萩原康弘一塁手、原田治明外野手のいた荏原高に延長15回サヨナラ負け、甲子園には届かなかった。この予選の4回戦では、投手として都立大附高からノーヒットノーランを記録している。高校の1年上に織田、新藤の他、一塁手の内田圭一、同期に遊撃手の荒川(出沢)尭がいる。

投手として臨んだ早大野球部のセレクションは通過できず、高校卒業後は1966年に駒澤大学へ進学。すぐに捕手へ戻ると、東都大学野球リーグでは、柔軟な体と強いリストを利した打撃で1年次の同年秋季リーグからマスクを被る。1年上のエース野村収とバッテリーを組み、3年次の1968年春季リーグに優勝を経験。同年の全日本大学野球選手権大会では決勝で田淵幸一らのいた法大に敗れ準優勝にとどまる。4年次の1969年には、エース佐藤道郎を擁する日大に春秋季連続優勝を許し、いずれも2位と後退した。リーグ通算94試合出場、326打数84安打、打率.258、12本塁打、53打点を記録した。ベストナイン4回(捕手3回、一塁手1回)受賞。大学同期に同じくヤクルト入りした内田順三外野手がいる。

1969年のドラフトでヤクルトアトムズから7位で指名され、大学卒業後の1970年に入団。同期入団の1位指名は高卒で同じ捕手の八重樫幸雄であり、当時のスカウト部長も「プロで通用するか不安だったが、勝負強い打撃が魅力」と語ったように、捕手として以上に打者として期待されてのプロ入りであった。1年目の同年には当時の正捕手加藤俊夫が交通事故を引き起こし、球団から出場停止処分を受けたこともあり、5月末からレギュラーとしてマスクを被る。最終的には93試合に出場し、打率は.204に留まったが強肩で評価を高めた。投手がウエストしなくても矢のような送球で盗塁を刺しまくり、投手陣は「走られても大矢なら安心」と打者に神経を集中できるようになった。逆に柴田勲らセ・リーグの俊足選手達は、「大矢のときは走っても無駄」と思うようになる。実際に柴田が45盗塁で4度目の盗塁王となった1972年、ヤクルト戦では5チームのうち最少の4回しか成功しておらず、盗塁成功率.400であった。阪神戦では最多の14回、広島戦では最高の盗塁成功率.857であり、大矢の存在の大きさが分かる形となった。早実入学時はむしろ弱肩で悩んでいたが、それでも必死の努力でフォームの精度を上げ、さらには投手兼任であったこともあり、打撃投手を買って出ながら肩を鍛えた。

1971年には初の規定打席(23位、打率.231)に到達し、オールスターゲームでもファン投票で初出場を果たす。2年目に就任した三原脩監督に目をかけられ配球術を学び、試合前の練習中には外野のフェンスに沿って手を組みながら歩く三原の後ろをついていったが、話の大半はリードのことであった。三原の話に熱が入りすぎて、大矢は打撃練習ができない日がしょっちゅうあった。同年に完全にレギュラーを獲得。

1972年には第1回ダイヤモンドグラブを受賞。右腕の松岡弘、左腕の安田猛ら左右両輪と同年齢であったこともあり、投手陣からも絶大な信頼を集めた。ベテランの石戸四六は「キャッチングがうまい。いい音で捕ってくれる」、石岡康三は「グイグイ強気で引っ張ってくれる」と評価し、的確な捕球、投手の長所を引き出す頭脳的で巧みなリード、冷静な判断力や高い守備率も魅力であった。

その後はオールスター6度出場(1972年, 1974年 - 1975年, 1978年 - 1980年)、5度のダイヤモンドグラブ賞(1975年 - 1978年, 1980年)、2度のベストナイン(1978年, 1980年)という球界を代表する捕手になった。またリーグトップの盗塁阻止率5度、11年間(1970年 - 1980年)で10度の盗塁阻止率4割を記録するなど強肩として知られる。

1978年には前年に痛めた右手甲の骨折が完治しないままシーズンに入ったが118試合に出場し、打率.268という好成績を残してベストナインに初選出された。辛口で知られた広岡達朗監督も、「大矢の魅力は、すべてに合格点をつけられるところ。ベストナインは当たり前でしょう」と言い切った。試合前に湯で患部を温めながらも出場を続け、正捕手として球団史上初のリーグ優勝に貢献し、4月5日の阪神戦(神宮)では安田の代打で古沢憲司からサヨナラ本塁打を打っている。阪急との日本シリーズでも全7戦に先発出場し24打数6安打4打点1本塁打を記録、投手陣を好リードしチームを日本一に導く。10月18日の第4戦(西宮球場)では松岡弘とのバッテリーで福本豊の盗塁を刺した。10月22日の第7戦(後楽園)では5回裏二死ながら二塁に大矢をおいて、デーブ・ヒルトンが打席に入った。ヒルトンはニ遊間に高いバウンドのゴロを放ち、ボビー・マルカーノがこれを掴んで一塁に転送するが、セーフの判定、この判定に不服の加藤英司が抗議する間に大矢が隙を突いて本塁を陥れて1点を勝ち越した。その後試合は大杉勝男の本塁打を巡って1時間19分の抗議が行われた後にヤクルトが日本一に輝いた。ベテランになっても手を抜かず、真面目で練習熱心であり、基本練習に手抜きはなかった。

1980年には打率.283(16位)の好成績を残し、打率だけでなく自己最多の50打点と勝負強さも発揮。ヤクルトは前年の最下位から2位に躍進し、2年ぶり2度目のベストナイン選出も果たす。

1981年に故障して膝に水が溜まるようになってからは攻守両面で大きく成績を落とすが、同年7月15日の中日戦(神宮)では小松辰雄から通算1000安打を放つ。

1983年には八重樫に正捕手の座を明け渡した。

1984年からはコーチを兼任。医者から「これ以上やったら50歳で歩けなくなりますよ」と言われた。

1985年に38歳で現役を引退

引退後は日本テレビ系列の解説者に内定していたが、松園尚巳オーナーの鶴の一声で、フジテレビ・ニッポン放送野球解説者(1986年 - 1992年)として活動。その傍らでフジテレビ系『ものまね王座決定戦』の審査員も長く務め、現役時代を知らなかった、もしくは野球に興味を持っていなかったお茶の間の視聴者にも大矢の名前と顔が広く知られた。

1991年オフには日本ハムファイターズから監督の要請を受けるが、交渉が難航し就任に至らなかった。

1993年から1995年まで近藤昭仁監督率いる横浜ベイスターズ一軍バッテリーコーチを務め、谷繁元信を徹底的に鍛え上げて一流の捕手へと育てた。

1996年、前年度チーム16年ぶりの勝ち越しを決めながらも退任した近藤の後任として監督に昇格。1年目は春先は好調も、最下位であった阪神に1ゲーム差と迫られ、同一リーグ全球団負け越しを喫する5位と、完全最下位寸前の成績に終わる。

1997年にはマシンガン打線を擁し、8月には脅異の20勝6敗の快進撃で、首位ヤクルトに2.5ゲーム差まで迫るが、9月以降失速しヤクルトと11ゲーム差にまで離されるも、シーズン2位の成績を残す。しかし同年シーズン終盤、小山昭吉バッテリーコーチ、野手チーフコーチの弘田澄男の解任を示唆されたことで球団と対立し、監督を辞任した。

辞任後はフジテレビ・ニッポン放送野球解説者(1998年 - 2006年)・サンケイスポーツ野球評論家(1998年 - 2000年)を務める。1998年オフには野村克也のヤクルト監督退任時に後任候補として名が挙がっていたが「教え子たちと戦うことは辛い」として辞退。プロ野球キャンプで沖縄にお世話になった恩返しとして、硬式野球チーム「SOLA沖縄(現・大矢ベースボールクラブ)」で総監督を務め、沖縄の中学生への野球指導も始める。教え子には山川穂高、大城卓三らがいる。

2007年、低迷していたチームの切り札として10年ぶりに横浜の監督に復帰。1年目はシーズン4位の成績を残す。

2008年は優勝した巨人に36.5ゲーム差、5位ヤクルトに19ゲーム差も離されるなど開幕から最下位から抜け出せないままシーズンを終了。

2009年も開幕からチームは6連敗をするなど、37試合を終えた時点で13勝24敗と最下位に低迷。同年5月18日をもって無期限休養に入り、シーズン終了後、正式に退任した。

2010年からは再びフジテレビ・ニッポン放送野球解説者に復帰している。また、「サントリー ザ・プレミアム・モルツ ドリームマッチ」でモルツ球団に相対するチーム「ドリームヒーローズ」のゼネラルマネージャーを務めている。

それまでの「太め、鈍足」という印象のあった捕手像とはそぐわないスマートな身体・甘いマスクの持ち主で、「鉄砲肩の殺し屋」と称された球界一とも言われる強肩と勝負強い打撃を武器に、長きにわたり正捕手として活躍。球審の特徴や癖を把握してゲームに活かすのが上手く、松岡、安田などヤクルトの投手が活躍した陰には、大矢の功績が大きいと言われる。

第1期では三塁手として3年連続でゴールデングラブ賞を獲得していた石井琢朗を遊撃手に、遊撃手だった進藤達哉を二塁手に、二塁手だったロバート・ローズを三塁手へと入れ替える、(一塁手の駒田徳広以外の)内野総コンバート策を打ち出したり、当時手薄だった先発陣を増強するために、リーグを代表する中継ぎエースであった盛田幸希を先発投手に転向させ、先発・中継ぎ・抑えと便利屋的な役割を担っていた五十嵐英樹をセットアッパーに固定した。石井は遊撃手としてのチーム歴代最多出場記録を残す遊撃手に成長したものの、進藤は遊撃手とは異なる二塁手の逆スローの動きから腰を故障をして早々に戦線を離脱。ローズも三塁でエラーを多発したため5月末にはレギュラー不在の二塁手に戻り、復帰した進藤は空いた三塁に入って、実質石井と進藤の入れ替えという形になった。また、五十嵐のセットアッパー転向は成功したものの、盛田の先発転向は成功しなかった。

1996年は、前年に先発ローテーション投手に2桁勝利投手が1人もいなかったという状況から、先発投手陣に完投を求め、完投数はリーグ2位の25を記録した。特にエース格の斎藤隆には延長戦を1人で投げさせるなど11完投をさせている。しかし完投こそ増えたものの失点はリーグワーストの660点を記録し、チーム防御率も同じくリーズワーストの4.67と、前年度の4.37よりさらに悪化した。

また第1期は、コーチ時代からマンツーマンで指導していた、それまで半レギュラー扱いであった谷繁元信を積極的に起用し、リーグを代表する捕手に育て上げている。

1997年は、大矢の施したチーム改革が浸透してシーズン最終盤までヤクルトと優勝争いを繰り広げた。8月に20勝6敗の驚異的ペースで勝ち星を積み上げて首位ヤクルトとゲーム差3.5まで追いすがるが、9月2日の直接対決で石井一久にノーヒットノーランを喫し、翌日も先発した田畑一也を3回途中で降板させる野村克也監督の非情采配を前に力尽きた。最終的にリーグ2位の成績を残しながらも解任され、シーズン最終戦後、大矢は選手たちに胴上げされた。

第1期監督時代にコーチだったヘッド兼打撃コーチに弘田、投手コーチに齊藤明雄を招聘した。前年の2006年から外野のレギュラーを務めていた吉村裕基を一塁手へ、牛島和彦監督時代に「クアトロK」と呼ばれていた中継ぎ投手陣の加藤武治と川村丈夫を先発へ、中継ぎ左腕不足の事情から那須野巧を先発から中継ぎへ、2008年のシーズン途中には吉見祐治を先発と中継ぎを掛け持ちさせ、同じくシーズン途中から先発の寺原隼人を、マーク・クルーンの移籍によって手薄になっていた抑えへ転向させるなど、第1期同様積極的なコンバート策を打っている。2007年の那須野はほぼ年間を通して左の中継ぎとして活躍したが、加藤と川村はローテーションを守れず、失敗に終わっている。また、吉村の一塁コンバートにより、前年2006年の不調から一転して開幕から復調したベテラン一塁手・佐伯貴弘は年間を通じて外野手として出場することになった。

また2008年、2009年は先発投手陣が弱かったため、リリーフに頼らざるをえない状況であった。ワンポイント継投が多く、一試合に多数の投手を起用することがしばしばあった。

投手の起用法については「ベテランに敗戦処理をさせても意味はない(プライドを傷つけられて腐るだけ)」「若い、経験の少ない投手なら敗戦処理でも『投げさせてもらえる』とプラスに作用させられる」という持論を持っている。

正捕手には2007年、2008年に相川亮二を起用した。2008年オフに相川がFA移籍したため阪神からFAで野口寿浩を獲得して2009年に臨んだ。が、運悪く野口がキャンプ中に右肩の腱を断裂してしまい、ルーキーの細山田武史に期待を掛け、積極的に起用していたが、大矢自身はシーズン途中で休養に追い込まれた。

結果として1年目は4位で終われたものの、2年目・3年目ともに90敗・勝率3割台で、首位とのゲーム差が2年目36.5、3年目42.5と大きく差をつけられての最下位となった。

各年度の太字はリーグ最高

各年度の太字はリーグ最高

太字年はダイヤモンドグラブ賞の受賞

ベストナイン:2回(1978年、1980年)

ダイヤモンドグラブ賞:6回(1972年、1975年 - 1978年、1980年)※1972年は捕手部門でのセ・リーグ史上初の受賞、セ・リーグ捕手部門を4年連続は歴代最長タイ(他に古田敦也)

月間MVP:1回(1980年8月)

初出場:1970年4月22日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、7回裏に捕手として出場

初先発出場:1970年5月31日、対中日ドラゴンズ9回戦(中日スタヂアム)、8番・捕手として先発出場

初安打:同上、4回表に若生智男から中堅へ二塁打

初打点:1970年5月31日、対中日ドラゴンズ10回戦(中日スタヂアム)、6回表に水谷寿伸から2点適時打

初本塁打:1970年6月4日、対広島東洋カープ6回戦(明治神宮野球場)、4回裏に大羽進から左越2ラン

1000試合出場:1978年8月6日、対広島東洋カープ17回戦(藤崎台県営野球場)、7番・捕手として先発出場 ※史上202人目

1000安打:1981年7月15日、対中日ドラゴンズ14回戦(明治神宮野球場)、2回裏に小松辰雄から右前安打 ※史上120人目

1500試合出場:1984年7月27日、対横浜大洋ホエールズ14回戦(明治神宮野球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上79人目

オールスターゲーム出場:7回(1971年、1972年、1974年、1975年、1978年 - 1980年)

32(1970年)

27(1971年 - 1985年)

75(1993年 - 1995年)

81(1996年 - 1997年)

85(2007年 - 2009年)

報道・情報番組

バラエティ番組・その他

プロ野球中継(フジテレビ系列)

ニッポン放送ショウアップナイター(ニッポン放送):1986年 - 1992年、1998年 - 2006年、2010年 -

SWALLOWS BASEBALL L!VE(フジテレビONE):2005年 - 2006年、2010年 -

ものまね王座決定戦(フジテレビ):審査員として出演

ドリフのクリスマスプレゼント'82(フジテレビ):ゲスト(1982年12月23日放送。平松政次(横浜大洋、当時)とともに出演)

ほか

大矢明彦『プロ野球ニュースおもしろデータ』フジテレビ出版、1987年5月。ISBN 4893531409。 NCID BA56824229。 

大矢明彦『捕手の目で見るとプロ野球はこんなに面白い』リム出版、1991年6月。ISBN 4871201333。 NCID BA32751903。 

大矢明彦「敗軍の将,兵を語る 大矢明彦氏(横浜ベイスターズ前監督)--積極野球に悔いはない来年も監督続けたかったが…」『日経ビジネス』第915号、日経BP社、1997年11月10日、109-112頁、ISSN 00290491、NAID 40002806535。 

大矢明彦『大矢明彦的「捕手」論』二見書房、2002年4月。ISBN 4576020684。 NCID BA57666043。 

大矢明彦(2007年)「捕手編」DISC1 『プロ野球の練習法から 新しい「理論」と「実践」を指導 : sports video T&H 』 〈Miracle series. T&HスポーツDVDシリーズ〉ティアンドエイチ株式会社NCID BA76358399。全国書誌番号:21697552。

    矢島裕紀彦『大矢明彦 ベイスターズの真実』小学館〈小学館文庫〉、1998年。ISBN 4094161333。 

    ^ 前年にも権藤博をヘッドコーチ格で招聘しょうへいしたのに伴い、当時ヘッドコーチだった弘田の解任を打診されたがその際もこれを頑として拒み、その意志が強いことを示すために契約更改の日に頭を丸めて現れた。結局弘田の解任は回避されたが、権藤がバッテリーチーフコーチ、弘田が野手チーフコーチとヘッド格のコーチが2人置かれる事態となった(矢島裕紀彦 1998, pp. )。

    ^ 深刻な先発投手不足とオープン戦では好投していたので、盛田は翌1997年にも開幕投手を任せられている。

    ^ 完投数リーグ1位は優勝した巨人の30。

    ^ 翌年からチーム事情から先発に戻ったが、先発としては結果を残せなかった。

    ^ 吉村はその翌年には佐伯と入れ替わる形で外野手に戻っている。

    ^ 第1期時代の先発投手だった野村弘樹が引退、斎藤、川村のリリーフ転向以降、エースの三浦大輔、年によって先発とリリーフを行き来する吉見以外の新たな先発投手が育たず、第2期1年目の2007年は寺原、土肥義弘、工藤公康の移籍先発投手陣の活躍もあり4位に入るも、2008年も寺原のリリーフ転向と土肥、工藤の不調などによって先発陣が不足した。

    ^ インターネット上の掲示板サイト、SNS系サイトでは、マシンガン打線をもじって「マシンガン継投」と揶揄やゆされるほどであった。

    ^ 大矢退任後も先発陣の弱体化が続いたため、後任の尾花高夫も頻繁に投手交代を行っており、尾花は2011年に1シーズンの投手登板のべ人数664人の新記録を作っている。

    ^ 2度目の横浜監督就任時の背番号85は第1期横浜監督時代にバッテリーコーチを務め、前年に白血病で死去した小山昭晴の背番号を選んだ。

    ^ “三井ゴールデングラブ賞 歴代受賞選手”. 2021年2月17日閲覧。

    ^ 第四話 【超エリート】早稲田で過ごした学生時代 YouTubeデーブ大久保チャンネル

    ^ 毎日新聞社 編 編『選抜高等学校野球大会60年史』毎日新聞社、1989年、頁。 

    ^ “大矢明彦 “現代型捕手”のパイオニアだった燕の司令塔/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE (2018年11月22日). 2021年10月6日閲覧。

    ^ “強肩・大矢明彦の殺しのテクニック「弱肩を努力で克服」/週べ回顧1972年編”. 週刊ベースボールONLINE (2021年2月16日). 2021年10月6日閲覧。

    ^ “大矢明彦、八重樫幸雄&古田敦也「初優勝から低迷、そして“ID野球”へ。ヤクルト司令塔の系譜」/プロ野球20世紀の男たち”. 週刊ベースボールONLINE (2019年11月22日). 2021年10月6日閲覧。

    ^ “サヨナラ本塁打”. 球団アーカイブ. 東京ヤクルトスワローズ. 2017年8月11日閲覧。

    ^ 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』ベースボール・マガジン社、1992年、442-423頁。ISBN 4583030339。 

    ^ 「横浜での恩師・大矢明彦氏が語る中日・谷繁の“修業時代”」『日刊ゲンダイ』日刊現代、2015年7月29日。2017年8月11日閲覧。

    ^ 『週刊ポスト』8月11日号、小学館、2017年、19頁。 

    ^ 「【復刻】日本ハム次期監督、土橋正幸氏」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2013年8月26日。2017年8月11日閲覧。

    ^ 谷繁元信 (2017年7月23日). “元中日・谷繁が語る、「本当の結果」を出す方法”. 東洋経済ONLINE. 東洋経済新報社. p. 3. 2017年8月11日閲覧。

    ^ 木村元彦 (2020年2月25日). “大矢明彦が佐々木&谷繁バッテリー誕生秘話を告白「シゲを使っていいか」”. web Sportiva. 集英社. 2020年11月17日閲覧。

    ^ “西武・山川を長距離砲に育てた恩師の言葉「絶対に小さい打撃をするな」 本家しのぐ“おかわりの影武者”秘話”. zakzak (2017年8月16日). 2022年5月10日閲覧。

    ^ “巨人とヤクルトにあった“捕手の差” 大矢氏は大城の成長ぶりを評価”. BASEBALL KING (2021年6月28日). 2022年5月10日閲覧。

    ^ “大矢監督が休養。後任の監督代行にSR田代監督が就任”. 横浜ベイスターズ (2009年5月18日). 2009年5月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月11日閲覧。

    ^ “サントリードリームマッチ2017”. サントリー. 2018年3月27日閲覧。

    ^ “強肩キャッチャー・大矢明彦と里崎智也の捕手の価値観”. 高嶋ひでたけと里崎智也 サタデーバッテリートーク. ニッポン放送 (2018年10月10日). 2020年11月17日閲覧。

    ^ “大矢明彦 プロフィール”. システムブレーン. 2020年11月17日閲覧。

    ^ 「【ノムラの記憶】1997年ヤクルトこの一戦(下)ノムさんが名場面を語る」『サンケイスポーツ』2014年3月15日。2020年11月17日閲覧。

    ^ “万年Bクラスだったベイスターズの意識改革を成し遂げた監督の「変える力」”. デイリー新潮. 新潮社 (2019年8月16日). 2020年11月17日閲覧。

    ^ 「野口寿浩氏が今も後悔 大矢監督の休養は「ボクのせい」」『日刊ゲンダイ』2018年11月27日。2020年11月17日閲覧。

    東京都出身の人物一覧

    駒澤大学の人物一覧

    東京ヤクルトスワローズの選手一覧

    個人年度別成績 大矢明彦 - NPB.jp 日本野球機構

    大矢明彦公式サイト

    ISNI

    VIAF

    日本

    渡辺大陸 1950

    中島治康 1951

    有馬義一 1951

    小西得郎 1952 - 1953

    永沢武夫 1954

    藤井勇 1955

    迫畑正巳 1956 - 1958

    森茂雄 1959

    三原脩 1960 - 1967

    別当薫 1968 - 1972

    青田昇 1973

    宮崎剛 1974

    秋山登 1975 - 1976

    別当薫 1977 - 1979

    土井淳 1980 - 1981

    関根潤三 1982 - 1984

    近藤貞雄 1985 - 1986

    古葉竹識 1987 - 1989

    須藤豊 1990 - 1992

    江尻亮 1992

    近藤昭仁 1993 - 1995

    大矢明彦 1996 - 1997

    権藤博 1998 - 2000

    森祇晶 2001 - 2002

    山下大輔 2003 - 2004

    牛島和彦 2005 - 2006

    大矢明彦 2007 - 2009

    尾花髙夫 2010 - 2011

    中畑清 2012 - 2015

    アレックス・ラミレス 2016 - 2020

    三浦大輔 2021 - 現在

     投  新浦寿夫

     捕  大矢明彦

     一  王貞治

     二  D.ヒルトン

     三  掛布雅之

     遊  高橋慶彦

     外  山本浩二 / 若松勉 / C.マニエル

     投  江川卓

     捕  大矢明彦

     一  谷沢健一

     二  基満男

     三  衣笠祥雄

     遊  高橋慶彦

     外  山本浩二 / 若松勉 / 杉浦亨

    1972 大矢明彦

    1973 田淵幸一

    1974 田淵幸一

    1975 大矢明彦

    1976 大矢明彦

    1977 大矢明彦

    1978 大矢明彦

    1979 若菜嘉晴

    1980 大矢明彦

    1981 山倉和博

    1982 中尾孝義

    1983 山倉和博

    1984 達川光男

    1985 木戸克彦

    1986 達川光男

    1987 山倉和博

    1988 達川光男

    1989 中尾孝義

    1990 古田敦也

    1991 古田敦也

    1992 古田敦也

    1993 古田敦也

    1994 西山秀二

    1995 古田敦也

    1996 西山秀二

    1997 古田敦也

    1998 谷繁元信

    1999 古田敦也

    2000 古田敦也

    2001 古田敦也

    2002 阿部慎之助

    2003 矢野輝弘

    2004 古田敦也

    2005 矢野輝弘

    2006 谷繁元信

    2007 谷繁元信

    2008 阿部慎之助

    2009 谷繁元信

    2010 城島健司

    2011 谷繁元信

    2012 谷繁元信

    2013 阿部慎之助

    2014 阿部慎之助

    2015 中村悠平

    2016 石原慶幸

    2017 小林誠司

    2018 梅野隆太郎

    2019 梅野隆太郎

    2020 梅野隆太郎

    2021 中村悠平

    2022 中村悠平

    2023 坂本誠志郎

    2024 山本祐大

    1位:八重樫幸雄

    2位:西井哲夫

    3位:長井繁夫

    4位:佐々木辰夫(入団拒否)

    5位:井原慎一朗

    6位:外山義明

    7位:大矢明彦

    8位:内田順三

    9位:生田啓一(入団拒否)

    10位:松村憲章

    11位:内田睦夫(入団拒否)

    12位:山根政明(入団拒否)

    13位:一の関秀則

    14位:佐藤広美(入団拒否)

    日本の野球選手

    東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手

    NPBオールスターゲーム選出選手

    日本の野球監督

    横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の監督

    野球解説者

    駒澤大学硬式野球部の選手

    早稲田実業学校出身の野球選手

    東京都出身のスポーツ選手

    東京都区部出身の人物

    1947年生

    存命人物

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ooya akihiko


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