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落合 博満さんについて調べます
■名前・氏名 |
落合博満と関係のある人
福本豊: 1985年は、37歳にしてキャリア最高となる95四球を選び、これは落合博満に次いでリーグ2位であった。 谷繁元信: 落合博満が監督時代に「一番いなくなったら困る選手」と言い切るほど、捕手としての信頼を得ている。 松中信彦: 一塁手で3回、指名打者で1回同賞を受賞しており、異なる3ポジションでの受賞は真弓明信、落合博満以来3人目。 タイロン=ウッズ: そのため球団内部で「新外国人選手獲得よりウッズと再契約するほうがいい」という意見が噴出し、落合博満監督も「(ウッズは)戦力として必要かと言われれば必要だろう」との見解を示した。 秋山幸二: 落合博満にも「本当のホームランバッターは田淵幸一さんと秋山だけ」と言わしめた。 中村公治: 2004年、就任したばかりの監督の落合博満からルーキーながら「右の4番候補」として期待され、6月中旬に一軍昇格。 松井秀喜: また、残した数字は松井より高いイチローや落合博満がマスコミ嫌いで通したのに対して、松井は常にどのマスコミにも分け隔てなく対応していることも高く評価しており、「人格的にも素晴らしい」「将来は監督になれる器だ」と絶賛している。 桑田茂: 1986年12月、落合博満との世紀のトレードの一員として牛島和彦・上川誠二・平沼定晴と共にロッテオリオンズに移籍。 前田智徳: 落合博満は、1999年のインタビューで「今の日本球界に、俺は2人の天才打者がいると思っている。 江本孟紀: 同時期に三冠王を獲得した落合博満に対しても例外ではなく、落合が中日ドラゴンズの監督に就任後も公然と落合の手腕や態度を否定する発言を繰り返している。 真弓明信: 3ポジションでのベストナイン受賞は落合博満に続き史上2人目であった)。 ランディ=バース: 1987年には落合博満がトレードで中日ドラゴンズに移籍し「三冠王対決」と騒がれたが、両者とも成績を落として無冠に終わる。 高畠導宏: 在任中は落合博満に対して、落合の性格を踏まえた上で「グリップの高さを10cmほど高くしたらどうだ」とアドバイス。 ラルフ=ブライアント: また、シーズン2度の1試合3本塁打は1950年の川上哲治、1971年の江藤愼一、1979年のレオン・リー、1985年の落合博満と並ぶタイ記録だった。 小山良男: 中日に指名されたきっかけは、監督の落合博満が著書に掲載する写真の撮影のためJR東日本を訪れた際に監督の目に留まったからだという。 前田章宏: ブルペン捕手としてチームに留まる予定であったが、ゼネラルマネージャーに落合博満が、監督に谷繁元信がそれぞれ就任すると、一転して2軍バッテリーコーチへの就任を打診され、10月22日、コーチに就任することが球団から発表された。 野村亮介: 山﨑康晃らがドラフト1位の有力候補として挙がる中、野村を高く評価したGMの落合博満(詳細後述)が監督の谷繁元信に獲得を提言し、話し合いの結果ドラゴンズが1位指名をすることになった。 広野功: ロッテコーチ1期目に指導した落合博満は中日に移籍した1年目の1987年、江藤慎一と広野には心を許し、報道陣シャットアウトの打撃練習場に入れていた。 嘉㔟敏弘: 初登板の日本ハムファイターズ戦で現役晩年の落合博満に本塁打を打たれたが、落合は「野手から打っても全然うれしくないよ」とコメントした。 山崎武司: 同年のシーズンオフには一塁手のレギュラーだった落合博満がフリーエージェント(FA)で巨人へ移籍したほか、大豊泰昭が左翼手から一塁手に転向したことで外野手のレギュラーに空きができた。 秋山幸二: 1986年、監督が広岡達朗から森祇晶に交代し、開幕を5番で迎えるが、新外国人のジョージ・ブコビッチの不振により4番を任され、41本塁打、115打点(打点王の落合博満に1点差)を記録。 遠藤政隆: この年は新監督に落合博満が就任し、チームも5年ぶりにリーグ優勝したが、自身は全く力になれなかった。 鈴木平: 第2戦で9回2死、走者1塁の場面で登板し落合博満を三塁ゴロに打ち取ると、第3戦、第5戦は計3イニングをパーフェクトに抑え、1勝3セーブと勝ち試合全てでセーブポイントを挙げ、日本一に貢献した。 原辰徳: 同年オフ、中日の主砲・落合博満がFAを宣言し巨人に移籍。 小林和公: 審判団は誤りを認め、中日の監督の落合博満に「2番・永川、9番・松本」とすることを認めるよう説得したが、落合が納得せず試合が24分間中断した。 中村紀洋: 同じ右打者でスラッガーの落合博満に憧れていた。 トニ=ブランコ: なお、2011年まで中日ドラゴンズの監督だった落合博満はスポーツ番組等にて「2012年には荒木雅博を二塁手に戻す予定で、井端弘和を三塁手、森野将彦を一塁手、ブランコは他球団に持ってかれてもいいよというところまで全て段取りはつけてあった」と告白している。 久本祐一: 久本は入団記者会見で、妻が広島県の出身であることや、中日時代の一軍監督だった落合博満が「カープは強くなる」と語っていたことを入団の理由に挙げた。 宇津木妙子: 2006年の沖縄キャンプでは2月22日に訪れ、宇津木自らが中日の野手に約2時間、約1000本の速射ノックを浴びせ、中日の選手達はそれぞれ井端弘和が「(自分達の)落合博満監督よりきつい、本当にいやらしい」、立浪和義が「(一緒に受けた)あの子(三科真澄)はタフですよ」、柳田殖生が「左右に振られてばっかり、(それまでのキャンプ中で)今日が一番きつかった」などと異口同音に驚いたが、宇津木自身は「前は3時間ぐらい打ったけど、年で体力が落ちてきて、きょうは全部で1000本ぐらいかな。 ダヤン=ビシエド: 背番号は落合博満が監督時代に着けていた66。 |
落合博満の情報まとめ
落合 博満(おちあい ひろみつ)さんの誕生日は1953年12月9日です。秋田出身の野球選手のようです。
兄弟、卒業、映画、現在、脱退、父親、引退、テレビ、事件、家族、結婚、離婚、再婚に関する情報もありますね。今年の情報もありました。落合博満の現在の年齢は70歳のようです。
落合博満のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 【公式】落合博満のオレ流チャンネル 落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年〈昭和28年〉12月9日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督、野球解説者、タレント。 秋田県南秋田郡潟西村(現・男鹿市)出身。血液型はO型。 選手時代は1979年から1998年にかけてロッテオリオンズ・中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツ(巨人)・日本ハムファイターズの計4球団に在籍した。ロッテ時代には史上4人目かつNPB史上唯一の3度の三冠王を達成し、NPB史上最高の右打者の1人とされる。また20世紀最後・昭和最後・右打者最後の三冠王達成者でもある。 2004年から2011年まで中日の監督を務め、全ての年でAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝・1度の日本シリーズ優勝を達成している。2013年シーズンオフから2017年1月までは中日のゼネラルマネージャーを務めた。 男3人、女4人の7人兄弟の末っ子として秋田県に生まれる。実家は和菓子屋で、幼少期より新聞で丸めたボールを棒で打つ野球に似た遊びをしていた。兄の影響で琴浜村立鵜木小学校4年生の時に地元の野球チームに入部する。憧れの選手は長嶋茂雄であった。小学校での学業成績は、図工を除いて常に上位に入っていた。琴浜村立潟西中学校では1年生から4番でエースだったが、大会ではいつも1、2回戦で敗退する弱小チームだった。しかし3年生の地区大会では決勝進出を果たし、準優勝に終わったものの、この試合で落合は90メートルを超える本塁打を打った。 1969年、県内の幾多の野球名門校から入学の勧誘を受け、それこそ「野球で県内のどの高校にも行けた」レベルであった。だが卒業後は就職と決めていたことと、「選手をあまりいじらない」と聞いたことから、秋田県立秋田工業高等学校建築科に進学。野球部へ入部すると即座にレギュラーに抜擢され4番となったが、入部3か月で右肩を壊して投手を断念し、外野手へ転向した。その後、もともと練習嫌いだったことや上級生から毎日のように殴られるという体育会系の風習に嫌気が差し、練習にはほとんど顔を出さなくなっていった。地元の横の繋がりからなる仲間意識の中で育った落合にとってこの上下関係は耐えがたいものであった。 しかしチーム一の実力選手であったため、大会の直前にはチームへ呼び戻されていた。こうした「練習さぼり⇔大会前の復帰」という「入退部」を8回繰り返した。学校への通学にも嫌気が差してほとんど通わず、所謂「不登校」であった。その代わり秋田市南通の映画館へ、年に100本は映画を鑑賞するほど通いつめた。このため出席日数が足りず、高校3年間は毎年留年寸前だった。昼間から学生服姿で映画館に入り浸っていたため、他の観客からは不審視されていたという。 不登校の間も全く練習しなかったわけではなく、当時木製であった電柱をバットで叩く、山の中で素振りをするなどの自主トレーニングをしていた。叩くことで電柱に穴が開いて電気が消えることも多かったため、近所から頻繁に苦情を受けていた。 高校卒業後は就職と決めていたが、3年生の10月に高校の先輩に勧められ東洋大学野球部のセレクションに参加し、そこで特大の本塁打を放ったことが評価されて合格。スポーツ推薦で東洋大学への進学が決定することになった。いきなり背番号を与えられてポジションも内野手に決定し、高校卒業前の2月には合宿入りした。また、約20名の1年生の中から選抜された4名のメンバーに入って、野球部の松山キャンプにも参加した。ところが、その練習中に左大腿部の肉離れと足首の捻挫という怪我を負い、毎日の通院を余儀なくされる。 そして、大学入学後も高校時代に続いて野球部の古い体質に直面する。先輩を立てるという風習や、学年が上というだけで先輩が後輩に威張り散らすことに対して「自分から自発的に野球をする意識が持てず、雑用を押し付けられて野球を嫌々やらされるだけ」と嫌気が差した。こうして入部後すぐに野球部を退部し、大学も中退した。監督からは「復帰は2年生になってからでもいいから」と強い慰留を受けたが、それを振り切っての中退であった。 大学中退後は秋田県に戻り、実兄が支配人をするボウリング場でアルバイトをして生計を立てていた。これをきっかけにボウリングに熱中し、プロボウラーを志した。しかしプロテスト受験の際に兄の車を運転中、初心者運転標識を貼り忘れたため警察に捕まり、罰金を支払ったことで受験料が払えなくなり受験できず、これも挫折してしまう。 落合のボウリングの腕前は、日本初の女子プロボウラーである須田開代子のもとに、飛び切りうまい若者がいるとの噂が届くほどだったという。その傍らで地元の草野球チームに参加してプレーし、野球への熱意が再び高まるようになる。20歳を目前にして、高校時代の恩師である野球部部長を訪ねて就職を相談したところ、社会人野球・東芝府中のセレクションの受験を勧められ、合格した。 1974年1月、東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社。同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加入し、日中はトランジスタラジオの基板を組み立て、夕方から野球の練習をするという生活を送っていた。入社2年目の1975年に4番に定着し、翌1976年に正社員となる。この年、東芝府中は創部23年目で初の都市対抗出場を果たす。1回戦ではデュプロを下し初勝利を挙げ、2回戦では日本通運から補強された村上之宏が先発するが、愛媛相互銀行に完封を喫し敗退した。翌年以降も、都市対抗に日本通運・電電東京の補強選手として3年連続で出場し、1978年には森繁和らとともに第25回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出。在籍5年間の公式戦で通算70本塁打を記録した。 1977年のドラフト会議では、直前に阪神タイガースのスカウト・田丸仁から指名の可能性を伝えられたものの、実現しなかった。翌1978年のドラフト会議にてロッテ・オリオンズから3位指名を受け、契約金2700万円、年俸360万円の条件で入団。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった。 1979年、プロ入り当時の監督・山内一弘はレベルスイングの本尊といえる人物であり、アッパースイングだった落合のバッティングフォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったという。チームメイトのベテラン捕手・土肥健二の、手首を使ってボールをはじき返す「神主打法」のフォームを真似し、我流のフォーム改造を狙った。土肥や得津高宏、加藤秀司などの先輩選手を参考に、自身のバッティングを作り上げていった。 1980年は、3月の大洋とのオープン戦で左足首を故障し前半戦を棒に振る。5試合連続本塁打のイースタン・リーグ新記録を認められて、後半戦より一軍に昇格。井上洋一に代わり二塁手のレギュラーに定着し、54試合にスタメン出場した。シーズン終盤には三塁手に回り、同年は15本塁打を放つ。近鉄バファローズとのプレーオフにも出場した。 1981年は開幕から先発として起用され、6月末には4番に起用された。オールスターゲームに初出場し、シーズンでも初めて規定打席に到達し、打率.326で首位打者のタイトルを獲得した。有藤通世、レオン・リー・レロン・リー兄弟らとクリーンナップを形成し、日本ハムとのプレーオフでは第4戦で本塁打を放った。オフには年俸1600万円で契約更改した。 1982年は年間通して打撃好調で、最終的に28歳で三冠王を獲得したが、これは当時のNPB史上最年少記録であった。チームがBクラスながら、最優秀選手にも選ばれた。シーズンオフには年俸5400万円+タイトル料600万円で契約更改した。また、落合は現役を通して一塁手を務めていることが多かったが、この年は主に二塁手として起用されていた。 1983年は正一塁手だったレオン・リーがトレードで放出され、落合は一塁手に定着。打率.332を残し、3年連続首位打者を獲得したが、球団は史上初の最下位に終わった。 1984年は契約更改が越年し、キャンプイン前々日の1984年1月30日に年俸5940万円(前年から10%アップ)+タイトル料700万円で合意した。この年から監督に稲尾和久が就任し、野手陣の守備位置がコンバートされた。巨人から移籍の山本功児が一塁手に、有藤道世が三塁手から右翼手に回り、その後継として三塁手に起用される。 1985年、打率.367、52本塁打、146打点の成績で2度目の三冠王を獲得した。打率.367は当時の右打者歴代最高打率、52本塁打は当時のパ・リーグ記録、146打点は現在もパ・リーグ記録である。またこの年は日本記録となる得点圏打率.492(122打数60安打、16本塁打、98打点)もマークするなど記録ずくめの1年だった。またシーズン52本塁打は、2022年に村上宗隆が53本塁打を記録するまで、1963年に記録した野村克也と並び長らく日本人選手の最多タイ記録であった。同年は118得点で福本豊の、77長打で山内一弘の、出塁率.4806で大下弘の、長打率.7630でマニエルの持っていたパ・リーグ記録をそれぞれ更新した。 1986年、シーズン終盤までブーマー・ウェルズや秋山幸二らとタイトル争いを繰り広げ、最終的に2年連続で自身3度目の三冠王を獲得した(打率.360、50本塁打、116打点)。ロッテの順位が4位に決まり、残り8試合は消化試合となっていた時点で50本塁打を放っていたが、ブーマーが打率.355と迫っていたことによる打率維持と若手に実戦経験を積ませるために、稲尾の判断でその後はあまり打席に立たずにシーズンを終了した。これについて自伝では「翌年でも日本記録の55本塁打を狙えると思ったから」としている。2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治(1973年 - 1974年)、ランディ・バース(1985年 - 1986年)、落合の3選手のみで、通算3度獲得は落合のみである。また2年連続50本塁打はプロ野球史上初、出塁率.487は2023年終了時点でもでパ・リーグ記録となっている。10月8日の西武戦で小林晋三塁塁審の胸を2、3回突き自身初の退場処分となった。また、ロッテの日本人選手による本塁打王獲得はこの年の落合が最後となっている。 シーズン終了後の10月24日、監督の稲尾和久は球団の「新しい人にバトンタッチしたい」との方針から「3年契約の切れるこの年限りとし、契約延長は行わない」と通告を受け、解任される。落合はこれに強い不満を持ち、11月4日に福岡市内で行われたファンクラブ主催の「落合選手を励ます会」にて、「稲尾さんがいないのなら、自分がロッテにいる理由はない」と発言した。毎日新聞が11月5日付で落合のこの発言を報じると、落合は同日、平和台球場での日米親善野球の試合前、報道陣に対し発言の内容を認め「稲尾さんの処遇に関しては本当に腹を立てている」と述べ、球団に対し不信感をあらわにした。 これ以後、スポーツ新聞が連日にわたり「落合トレード」と書き立て、落合もマスコミに対しフロント批判の言動を繰り返すなど、大きな騒動に発展した。12月12日、球団社長の松井静郎が落合を球団事務所に呼んで話し合い、落合は「これまで新聞などを通じた発言には誤解もあっただろう。ナマの声を聞いてもらった」、松井も「これまで落合と球団フロントの間に誤解に基づくものや、連絡が不十分なものあった。そのひとつひとつを代表を読んで確認しあった。直接話し合って、意見の一致を見た」とそれぞれ語り、落合と球団は一旦和解した。 しかし、12月23日に牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との交換トレードで、中日への移籍が決定した。落合のトレードは前年(1985年)オフにも移籍交渉を行っていた巨人が早い段階から動いており、同球団オーナーの正力亨も「巨人は待っています」と発言していたが、1986年オフに中日の監督に就任した星野仙一が「(落合を)巨人に取られたら10年は優勝出来ない」と球団に強く働きかけたため、この大型トレードが実現した。そして12月26日に移籍先の中日で契約更改に臨み、1億3千万円(推定)でサインし日本人選手初の1億円プレーヤーとなった。 後に落合は自身のYouTubeチャンネルで、ロッテ時代にメジャーに挑戦する構想があったと明かしている。メジャー移籍へ動いた時期について「日本で3冠王獲ってからじゃないかな」と話しており、ボビー・マルカーノに頼んでウィンターリーグに出場できるようパイプを作ってもらったが、そのパイプを作ってもらった後に球団に話を持ち掛けると、球団に「行くんであれば、日本の籍を抜かなきゃいけない」などの言い訳をされて実現しなかった。本人はもしメジャーに挑戦していれば失敗していただろうと断言している。 1987年は、篠塚利夫や正田耕三らと首位打者争いを繰り広げ、最終的に首位と2厘差の打率.331を記録した。 1988年は、32本塁打、95打点(共にリーグ2位)、勝利打点19、出塁率と長打率共にリーグ1位を記録するなどチームの優勝に貢献したが、打率は.293とレギュラー定着以降初めて3割を割った。6月1日から8月2日まで打順は不振で3番に降格、4番はゲーリー・レーシッチだった。西武との日本シリーズでは西武の投手陣に打点0に抑えられ、1勝4敗で敗退した。 1989年は打率.321、40本塁打、116打点の成績を残して打点王を獲得。両リーグ打点王は史上初だった。ラリー・パリッシュと最後まで熾烈な本塁打王争いを繰り広げたが、最終的に2本差でパリッシュにタイトルを奪われた。8月12日の巨人戦(ナゴヤ球場)では、9回一死までノーヒットノーランを続けていた斎藤雅樹から、逆転サヨナラ3点本塁打を放っている。6月11日の浜松での対広島戦では、7回裏無死一・二塁の場面で通算4個目、現役で最後となる犠打を決めている。オフの契約更改後の記者会見で「165(いちろくご)」と、年俸1億6500万円で更改したことを公言している。 1990年シーズンは、前年に引き続きパリッシュとの本塁打王争いを繰り広げた。5月8日展阪神戦では、史上最速となる1257試合目で通算350本塁打に達すると、パリッシュが8月に28本塁打を放ったところで阪神を退団したため、結果的に落合が追い抜いて34本塁打、102打点で二冠を獲得した(両リーグ本塁打王は史上初だった)。最高出塁率も獲得し、セ・リーグ移籍後初となるタイトル三冠を手中にした。この年のオールスターゲーム第2戦(平和台球場)では、鳴り物入りでプロ入りし、快進撃を続けていた近鉄の野茂英雄が投じた高めのストレートを狙い打ち、本塁打を放った。 1991年2月、契約更改で合意できず日本人選手として初めて年俸調停を申請した。落合の希望額は2億7000万円で、球団提示額は2億2000万円だったが、調停の結果、3月8日に2億2000万円で合意した。同年は前半戦に肉離れを起こし、打撃三部門のトップに立った時点で1か月間戦線を離脱した。打率.340、37本塁打、91打点で本塁打王を獲得したが、打率は古田敦也に3毛差(古田.3398、落合.3395)、打点は広沢克己に8打点差で及ばず、いずれもリーグ2位に終わった。古田のいるヤクルトとの最終戦では勝負を避けられ、1試合6四球の日本記録を樹立。オフに年俸3億円で契約更改した。 1992年、プロ野球選手会を脱退。同年に同姓の落合英二が入団したため、巨人移籍までの2年間は基本的にスコアボード表記は、英二を「落合英」、博満は「落合」と表記された。しかし、一時期の東京ドームで博満が「落合博」となっていたことがある他、読売新聞など一部の活字メディアでは、博満に「落合博」を使用していた。同年は22本塁打、71打点の成績で1984年以来の獲得タイトルなしに終わり、球団12年ぶり・自身2度目の最下位に終わった。 1993年5月7日の横浜戦で、史上初の両リーグ200本塁打を達成。中日時代は5度サヨナラ打を放っている。同年オフ、導入されたフリーエージェント(FA)行使について、球団に愛着があるため、当初は行使せず残留するつもりでいた。しかし、夫人が長男を公立小学校へ入学させるため、東京への移住を考えたことから、一転FA宣言。巨人とダイエーが獲得に動くも、ダイエー監督の根本陸夫が長嶋茂雄が動くならと獲得を断念した為、巨人に移籍した。契約は2年で年俸は球界最高の4億500万円だった。 12月で40歳と高齢すぎたため、新しい同僚の誰からも歓迎されず、味方のはずの球界OB達からは猛烈な批判が巻き起こり、落合が表紙を飾る『週刊ベースボール』1993年12月20日号では、「40歳の四番打者に期待する巨人そのものに最も大きな病巣がある!!」という記事が掲載された。山崎裕之から「今年の落合の成績を見てもわかるように、とても4億円の値打ちのあるような選手じゃない」と評されたのを始めとして、特集記事で散々に酷評された。妻・信子の父親は巨人ファンで、生前実家に挨拶へ来た落合に対して、「駄目だ、駄目だ、巨人じゃなきゃ」と娘へのプロポーズを一度は断るほどだったという。長嶋監督、渡邉恒雄以外のフロント・首脳陣は猛反対であるにも拘らず2人は落合の巨人入りを強行させた。だが却って、ほとんど誰からも歓迎されない移籍により、居心地の良い名古屋で甘やかされて消えかかっていた落合の反骨心に火が付いたという。 落合が在籍した1994年 - 1996年の3年間、長嶋茂雄率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に4番として貢献した。 1994年は左脇腹や左手手首に死球を受けて不調に苦しみながら、10月2日対ヤクルト戦で山田勉から決勝本塁打、10.8決戦で今中慎二から先制本塁打を放って優勝に貢献した。しかし、同試合3回裏守備中に左内転筋を傷め、日本シリーズでは第3試合に指名打者として出場したのみである。また5月11日のヤクルト戦においては自らも乱闘に参加している。なお、1994年が現役時代での唯一の日本一となり、監督時代にも含めてこの年が落合唯一の完全制覇であった。 1995年は開幕から首位打者争いを繰り広げ、夏場にかけ好調を維持。8月31日には一時打率.332まで上昇させ、最終的には打率.311(リーグ4位)、17本塁打、65打点を記録した。同年4月15日の対阪神タイガース戦で6回裏、久保康生から本塁打を放ち通算2000安打を達成したが、名球会入りを辞退している。当時、落合は「任意の団体だから入る自由もあれば、辞退する自由もある。名球会を目指して野球をやってきたわけではない。ゴールはまだ先」とスポーツニッポン本紙の取材に話していた。入会資格を満たしながら辞退した初のケースであり、球界では大きな波紋が広がった。辞退については当時からOBとの確執などを含めて色々な憶測も呼んだが、名球会が任意団体であったこと、現役選手としてオフはしっかりと休養にあてたかったこと、名球会に入らない名選手も多く存在しており「色分けする必要もない」と当時考えていたことを後に自身のYouTubeチャンネルで明かした。また、入会辞退は長嶋の許可を得てのことであった。41歳4か月での通算2000安打達成は、新井宏昌の40歳2か月を抜き当時の史上最年長記録となった(その後、2012年5月に宮本慎也が41歳5か月で更新)。この年のオールスター戦でMVPも獲得した。 1996年、史上7人目の通算500本塁打、史上7人目の通算1500打点を達成。8月31日の中日戦で野口茂樹から死球を受け、左手首を骨折し戦線離脱した。以降の試合は棒に振ったが、オリックスとの日本シリーズで復帰し、第1戦で3安打を放った。シーズンでは6月末に一時打点トップに躍り出るなど打率.301、21本塁打、86打点の好成績を残した。巨人で43歳になるシーズンに4番を務めた選手は落合以降出ておらず、現在も球団最年長記録である。打撃成績においても、43歳での打率3割達成、OPS9割越えも史上最年長記録である。 同年オフ、清原和博が自身と同じ一塁手として巨人に入団したことから、球団に自由契約を申し出た。退団会見は落合と信子夫人のほか、渡辺恒雄オーナー、長嶋茂雄監督同席のもとで行われる異例なものであった。落合は「(幼少期からのファンで敬愛する)長嶋監督が、(自分と清原のどちらを起用するか)悩む姿を見たくなかった」とコメントしている。
引退後">引退後中日監督時代中日GM時代選手としての特徴打撃守備逸話家族">家族人物稲尾和久との関係野球
落合はゆるい球を自由に打ち返せれば調整はOKとしているが、ナゴヤ球場での打撃練習中のこと、審判が目慣らしのため近づいてきた。「10本打って何本スタンドに入ると思う?」と聞くと、ゆるい球は全力で打っても飛ばないため、審判は「精々4、5本だろう」と答えた。落合は「8本だ」と言い打ち始めると、打球はきれいな弧を描き、スタンドに吸い込まれていく。結果的に2本がフェンス前に落ち、スタンドインしたのは8本であった。その審判は「信じられない光景であった」と述べている。 打撃投手に体の正面にボールを投げさせて全球バットの芯で打ち返した、トスバッティングで投手の胸にライナーで打ち返した等、練習段階からパ・リーグ審判員山崎夏生が驚くほどのバットコントロールであった。 ロッテ時代は長さ35インチのバットを使っていた。南海の門田博光は「オレでも34インチ半が精一杯やったのに……。あの長さのバットを扱うのはすごい技術が必要なんです」と振り返っている。 読売ジャイアンツ時代には、バットのグリップの太さが0.2 mm違っても気付いた 入団当初は三塁手だったが、一軍に定着するため、2年目からはチームに手薄だった二塁手に転向し、初めて三冠王を獲得した年のポジションも二塁手だった。その翌年は一塁手に転向したが、三塁手であった有藤通世の外野手転向により三塁手に戻り、その後は守備の負担を考慮して再度一塁手に転向した。二塁手だった時期もあるため、2000年に日本野球機構などが行った「センチュリーベストナイン(20世紀ベストナイン)」投票で落合は二塁手としてノミネートされ、選出された。ベストナインは一塁手で4回、二塁手で2回、三塁手で4回選ばれている。 どの守備位置もそつなくこなしたが、内野に飛べば必ず守備機会が生じ、バント処理を真っ先に行わなくてはならず、一・二塁間に打球が飛べば右利きの自身はバックハンドキャッチを余儀なくされるなど様々な内野守備の要素が複雑に絡み合うことから、一番難しいのは一塁手、一番楽なのは三塁手と断じている。 主流となっているユニフォームのズボンの裾を下まで下ろす着こなしは、中日時代の落合がチームメイトの宇野勝と共に始めたのが最初とされる。内野守備のクロスプレーで足をスパイクされるのを防ぐため、ソックスの上に毛製の足首のサポーターとストッキングを着用し、血流が悪化しないようにそれまでズボンの裾に付いていたゴムをなくし、下まで下ろすようにした。同様の理由でソックスやストッキングは独自規格のものをメーカーに特注していたという。また、落合はロッテ時代に当時打撃コーチだった広野功の薦めで、木製バットの含水率を厳密に管理できるバットケース(富士シリシア化学製)の使用を始めた。これは球界におけるバットの含水率管理の先駆けである。 前田智徳の打撃を評価しており、打撃指導の時は「広島の前田を参考にしろ」と言うことが多い。また、リトルリーグの指導をする時も「プロの真似をするなら広島の前田の真似をしなさい」と言う。自身の真似については「真似るとスランプに陥る可能性があるので絶対にやめなさい」と述べている。落合自身の打撃法について「俺と同じ打撃が出来るのは石嶺和彦だけ」と語っており、特に石嶺の内角打ちを高く評価していた。落合は中日の監督に就任すると同時に石嶺を中日の打撃コーチに迎え、石嶺は落合が監督在任した8年間、一貫して打撃コーチとしてチームを支えた。 清原和博に対しても賛否両論な考えを持っており、「高校の頃が一番上手かったが、プロに入ってから下手になった」と酷評した上で「だからこそ、高校のままでやっていたら成功した。」と評価もしていた。 外国人選手の立場や存在感も尊重しており、「彼らがいなければ日本球界は成り立たない」と公言している。 中日監督辞任後には2013年の第3回WBCの日本代表監督への就任を期待する声もあったが、落合自身は2012年1月13日に紀伊國屋ホールで開かれた著書『采配』(ダイヤモンド社)刊行記念の講演で「(WBCの監督は)絶対やりません。何でそんな命縮めるようなことわざわざしなくちゃいけないのか。短期決戦が下手なんでしょうね。私がやったら絶対に負けますからね」と発言して否定し、結局は山本浩二が監督に就任した。 同年シーズン中、親会社が新聞社なのにも関わらず、記者団のインタビューで「当分俺からは野球の話はない。マスコミを使って選手にメッセージを伝えるのはやめた。新聞を読んでない選手もいるから」と親会社を軽視する発言を行った。これが原因で中日新聞上でコラム『読む野球』を書かされることとなった。 2011年、監督退任後の『報道ステーション』での長嶋一茂との対談で、統一球の影響については「全く関係ない」「言い訳」と発言し「選手が『統一球は飛ばない』という言葉に逃げた。現に打てなくなった奴はみんなボール球を振っている。それでは打てないのは当然だ」と述べた。 2022年4月11日に投稿した公式YouTubeチャンネルの動画で、野球界のレベルが落ちていると感じている部分を明かした。「昔はアメリカも24球団だからね。今みたいに30球団じゃなく、24球団で、エースピッチャーが3人くらいいて、中4日で回す。そういう層の厚さがある時代。今みたいに30球団で、そんな昔よりもレベルは落ちてはいるとは思う。日本の野球もレベルは落ちているとは思う」と持論を展開。その理由について「それは考えなくなったということなんだろうと思う。そして隠れて練習をすることをしなくなった」と語った。これに対して時系列は前後するがダルビッシュ有は2019年6月9日公開の『REAL SPORTS』のインタビューで、スポーツの成績は後の時代の選手の方が高いに決まっているので過去のある時代の選手とそれより後の時代の選手の成績を比較すること自体に意味が無いという趣旨の話をしており「(上の年代の人たちが)現代の選手を過去の自分と比べて、過去の自分を上に置いていたら、プロ野球界は、絶対に前に進んでいかない」と過去の美化について一刀両断している。 2023年10月3日に公開した公式YouTubeチャンネルの動画で、走り込みについて語った。現在は現場のことは分からないと断りを入れつつ、長距離の走り込みは絶対に必要と断言。特に投手はランニングの量で成績が決まると主張し、昨今の走り込み否定論を快く思わない立場を示した。 1978年7月にオランダで開催されたハーレムベースボールウィークの第11回大会に出場した落合は、キューバの豪速球投手・ブラウディリオ・ビネンから死球を受け、それ以来、キューバの選手に対してはあまり良いイメージを持っていなかったという。しかし1995年にキューバの選手が日本を訪問したおりにオマール・リナレスの手形を落合博満野球記念館に貰えないかという話になり、リナレスはこれを快諾。アントニオ・パチェコやビクトル・メサと共に車で世田谷にある落合邸を訪問した。 リナレスが訪問した際、信子夫人と福嗣に歓迎されたが、落合は東京ドームの試合で留守だった。時間制限があったために落合に会えず、短時間で落合邸に別れを告げた。ところが、ホテルに戻ると信子夫人から連絡を受けた落合が駆けつけてきてくれていた。パチェコの誕生日祝いもあり、信子夫人と福嗣も後から合流してお祝いの会は大盛況で進んでいった。2人は野球談義で意気投合し、最後に落合はリナレスに「47歳までプレーする」と約束してみんなと別れた。 翌1996年5月に再びキューバの選手が日本を訪問したおり、落合は再び彼らの宿舎を訪れ、リナレスとパチェコに自分のバットをそれぞれ1本ずつプレゼントした。亡命直前のローランド・アローホの誕生日も祝った。後日、リナレスの母校のピナール・デル・リオ大学で開かれた「リナレス展」の会場の真ん中に落合のバットが飾られていた。そこには「これは日本で三冠王を3度も獲ったオチアイという偉大な選手のバットです」と見学しに来ていた人に自ら説明するリナレスの姿があった。後に2004年の一年間という短い期間ではあるものの、中日で落合は監督、リナレスは一塁手のレギュラーという間柄でリーグ優勝を達成した。 背番号に対してのこだわりが強く、落合博満記念館は背番号6にちなんで六角形のデザインとなっている。2010年以降は眼鏡をかけるようになったが、フレームの淵の部分には漢字で「六」と入っている。巨人移籍時には6を既に篠塚和典が使用していたため、6に0をくっつけた60を使用した(篠塚が引退した翌1995年からは6に変更)。1994年は巨人の球団創設60周年であり、尚且つ落合が同年開幕時に四番に立った場合巨人の「第60代四番打者」になるために選んだとも言われている。また仮に篠塚が6を譲った場合、篠塚への同情論と落合への更なる批判が集まるおそれがあり、これを避けたかったためともされている。また、中日監督就任後は、6を二つ重ねた66を背番号としている。 中日監督就任後も背番号のこだわりを随所に見せており、谷繁元信の当時の背番号7を「捕手の番号らしくない」と森昌彦・大矢明彦・伊東勤・古田敦也など歴代の名捕手が背負ってきた背番号である27に変更させている。また、背番号16だった森野将彦を就任直後に8、2006年からは31に変更させた。森野は2010年から2013年まで30、2014年以降は7を使用。2009年には、現役を引退しファンから永久欠番の署名活動があった立浪和義の背番号3を森野に与えようとしたが本人が辞退している。なお背番号3は1年間欠番となった後、2011年からは新入団の吉川大幾、吉川が退団した2015年以降は高橋周平が引き継いでいる。 中日を代表する投手に代々受け継がれて伝統と化していた“中日のエースナンバーは「20」”という考え方にも否定的で、2004年の川崎憲次郎引退後に入団した中田賢一に20を与えた。「オレの中では18がエース番号。だれかがあれ(20)をつけないと番号が足りない」と説明している。 中里篤史や佐藤充など、後がない選手には1年だけ猶予を与えるが、支配下の選手の中で一番下という意味で背番号を70に変更させる。結局、中里と佐藤は結果が出せず1年後に戦力外通告された。また、この2人以前にも70をつけていた鳥谷部健一(2006年)、三澤興一(2007年)は移籍して1年で解雇されている。ただし、2011年に加入したエンジェルベルト・ソトは例外で、入団当初から70をつけていた。GMとして中日復帰後は70をつけていたダニエル・カブレラの背番号を99に変更させ、谷哲也の背番号を70に変更させた。 中日新聞の読む野球のコーナーで「背番号00は意味がない」という理由で2011年から欠番とすることになったが、GM復帰後の2014年から2016年まではアンダーソン・エルナンデスが使用した。2007年から2012年まで在籍していた金剛弘樹がつけていた背番号0についても「背番号ではない」とコメントしている。 プロ入り後に、トヨタ・クラウン(110系・セダンタイプ)を購入。護身用の為に大がかりな改造を施した。実際にトヨタの工場で新車の内装がすべてはがされ、衝撃を受けても大けがをしないようにロールバーや補強材が至るところに埋め込まれ、車内はかなり狭くなり、車両重量が約3t近くに増量、燃費も相当悪くなったという。約10年近く乗った後、親戚に譲る。 現在は2台所有。1台は、ダッジ・デイトナ。1985年に2度目の三冠王を獲得し、セ・リーグで三冠王を獲得した阪神タイガースのランディ・バースと共に麻布自動車からMVP受賞の副賞として両者に贈られたもの。 もう一台は、80年代後半に夫人からのプレゼントとして贈られたアストン・マーティン・V8(通称『ボンドカー』)で、 2台共、補修、車検を繰り返しながら現役走行しており、アストン・マーティン以降新車の購入、所有はしていない。 息子の福嗣の影響もあり、ガンダムシリーズ好きである。自身のYouTubeにゲストとして機動戦士ガンダム 水星の魔女エグゼクティブプロデューサーの小形尚弘を招いた際には核心を突いた質問を連発し、小形が回答に窮する場面も見られた。 ガンプラにもこだわりがあり、最も好きなモビルスーツは、『新機動戦記ガンダムW』に登場するウイングガンダムゼロ(EW版)。 2008年1月には静岡県にあるバンダイホビーセンターを訪れ、『機動戦士ガンダム00』に登場するガンダムエクシアの中日ドラゴンズカラー版をプレゼントされた。 石ノ森章太郎の漫画およびアニメ『ミラクルジャイアンツ童夢くん』に実名で中日の選手として登場した。声優は沢木郁也が担当した。劇中の主人公でジャイアンツの新城童夢の投げる魔球「童夢スペシャル1号・スノーミラージュボール」を初めて打破するなど、実在の選手としては最大のライバルとして童夢に対峙する。他に童夢の魔球と対決するのは架空の人物が主である。アニメのサブタイトルにも「落合、魔球打倒宣言」(第8話)、「対決!落合対童夢」(第9話)などと題される。信子夫人も劇中に登場した。しかし、当の落合本人はこのアニメを見たことが無いと、当人のYouTube「落合博満のオレ流チャンネル」にて視聴者からのこの質問に答えている。 無類の映画好きとしても知られる。 本人曰く「高校時代は野球部より映画館にいる時の方が多かった」。そしてオフの日は自宅で映画を観ることが多く、福嗣と一緒に日本語吹き替え版の「ターミネーター」などを観ていたことが、後に福嗣が声優になるきっかけともなっている。 中学時代の定期試験は英語の答案用紙を白紙で提出し、高校入試でも英語は白紙だった。監督時代は「ここは日本だから、日本語を話せ」と外国人選手に日本語を使うように求めていたが、落合が英語が分からないと言えば外国人選手の方も自然と日本語で対応した。 2022年5月のスポーツニッポンの取材で、世の中で理解に苦しむことを問われると「なんでも横文字にしてしまうというのは、横文字の嫌いな人間には、ちょっと、分からない部分がある」と即答。「英語の頭文字だけとって、くっつけたりね。それがあたかもすべての人に通用するような形でしゃべっているというのは。まあ、それを理解しない俺が悪いのかもわからないけども、理解不能。なんでもかんでも英語にしてくれるなよ、ちゃんとした日本語があるのに」と話していた。 2006年9月20日の横浜スタジアム、対横浜戦において、監督室に置いてあった現金37万円や免許証などが入ったセカンドバッグを紛失した。警察が正式に捜査し関係者の指紋を取るなどしたものの、バッグは見つからず犯人も不明なままであった。コーチの長嶋清幸によると、同じロッカーを使っていた森繁和のバッグには現金150万円が入っていたものの、手つかずだったという。 監督としての実績は中日ドラゴンズで監督を務めた8年間のみだが、監督在任期間中は全ての年でAクラス入りを果たし、リーグ優勝4度(うち2010年と2011年にセ・リーグ連覇)、日本一1回の実績を残した。 野手出身で実質コーチ経験が無い落合が、監督として実績を残せたのには幾つかの要因があった。 2004年監督就任1年目の春季キャンプ初日から紅白戦を実施。また、キャンプ中はペナントレースでの日程を考慮して、移動日にあたる月曜日をオフにした6勤1休制のキャンプを実施した。 監督在任期間中は、広いナゴヤドームを利用して投手力を武器にペナントシーズンを戦った。 投手起用に関しては自身が野手だったことから、厚い信頼を置くヘッドコーチの森繁和に任せて一切口出ししなかった。これについて落合は「(下手に口を出すと)大抵それで失敗する」と発言している。攻撃面ではサインはほとんどなく、基本は選手のやりたいようにやらせていたという。甘い球や狙い球ならどんどん打っていけという考え方で、選手には「狙いがあるなら、全員が初球打ちで3球でチェンジになっても構わない」とも話していた。 ペナントシーズン消化も緻密で、ホームゲームでは広いナゴヤドームを利用して数少ないチャンスをものにして投手力で逃げ切り、下位チームとの対戦では慢心による取りこぼしを避けるために采配や選手起用には慎重に気を配っていた。 山本昌は引退後、名球会の公式YouTubeチャンネルの動画で落合を「予言者」と評しており、2003年の日本シリーズ前に「両チームがホームで全勝して、ダイエーが勝つ」と予想して当てる、2004年に補強を凍結して優勝する公約を達成するなど、洞察力に定評があったとしている。 監督就任1年目は、開幕戦から数試合は勝ち試合のゲームセット時にベンチで喜びを露にしていたが、徐々に試合中は無表情となり一切感情を出さなかった。2011年11月の監督退任後には「イニング毎に必ずベンチ立つでしょ? 裏行って、表情変えているから。監督室帰って、例えばお茶飲んだり、水飲んだり、一人でボソボソ文句いいながら、『あの馬鹿野郎、あんなところで、あの球打ちやがって』とか独り言を言ったり。そこで頭切り替えて、ベンチ行って座っていると。この繰り返しですよ」と語り、努めてそうしていたことを明かしている。その意図は「選手はベンチを見てる。怒ってる姿を見せたら、あいつら体動かなくなるから」と語る。また、「それでなくても、そういう野球を中日はずっとやってきたわけでしょ。過去の政権で。戦う人間はこっちじゃないよ。お前ら何しでかしたって別に怒りゃせんから。そのかわり、勝ち負けの責任は俺がとる。個人の成績良い悪いは、お前らが責任とれよ。そこはフォローしないぞ。だから、グラウンド行って戦ってきなさいって」とも話し、過去に中日を監督していた星野仙一の有り様を踏まえた考えだったことを仄めかした。 2006年度ドラフト会議では田中将大の指名を回避して堂上直倫を指名し、最終的に指名した堂上の入団が実現。田中を指名しなかった理由については後に「本心を言うと……あれは本社命令」と回答している。 2007年11月13日、中日球団からは初となる、正力松太郎賞を選考委員会の満場一致で受賞した。その際、座長であった川上哲治は「強い信念と、選手の上手い育て方。自分の野球観を持って強いチームを作った。立派な功績」とコメントした。岡田彰布は落合と2008年オフに会話した折、これからはウッズ・和田など他球団の強力な主軸をマネーゲームで取る野球ではなく、選手を育成して勝利するという強い執念を感じたという。 2010年は打率、得点でリーグ5位、2011年には両部門でリーグ最下位の成績ながら、球団史上初の連覇を達成した。2011年5月7日、11敗目を喫した際に「あと50回負けられる」という旨の発言をし、結果その年の中日の61敗目がちょうどそのシーズンの優勝ラインとなった。 FA権に対しては、落合自身も現役時代に行使した経験があったこともあり、「FAは選手が勝ち取った権利」だと容認的なスタンスを取っている。監督在任期間中は野口茂樹、福留孝介、川上憲伸、中村紀洋と4人の選手がFA権を行使して移籍していった一方で、埼玉西武ライオンズから和田一浩をFAで獲得した。 一方で、マスコミに対しては、試合後のコメントも他の監督に比べ短く、落合の試合後のコメントを毎回掲載する東京中日スポーツの「オレ流語録」コーナー掲載のコメントはほとんど一行のみである。現役時代にチーム事情を敵にばらす記者がいることを知り、自分のチーム事情が漏れるのを警戒しているからであるとされている。 上記の事情から、マスコミや球団内からは「ファンサービスが足りない」と批判を受けていた。こうした批判に対し、落合は「勝てばファンはついてくる」と口にしている。 2011年シーズンをもって監督を退任したが、これに関しては、落合に勝たれては困ると思っていた球団幹部が存在し、さらに同年9月の巨人戦で負けた際、その幹部にガッツポーズをされたことを明かしている。実際に、2011年の連覇達成時には、当時のオーナーだった白井文吾と握手を交わしたのに対して、その球団幹部とは握手を交わさずにベンチを去っている。翌2012年のファンクラブ会報誌(1月臨時号)には「高木守道新監督のファンサービスぶりはすでに前任者をはるかに凌駕している」「前任の監督は『勝てばファンはついてくる』といい、勝つこと以外でのファンサービスには熱心ではなかった」などといった露骨な落合批判の文が掲載された。 指導者としてはプロスポーツ選手を育てるために大切な要素を「心技体」の順番ではなく「体技心」の順番と定めている。体力があれば技術が身に付くし、技術があれば、心が動じずに平常心で戦えるという理屈である。 落合が監督を退任してから中日は優勝することがなく低迷が続いているため、もう一度中日の監督復帰を問われることがあったが、「(後ろ盾だった)白井文吾オーナーが退任したため、もうないだろう。低迷期間中に白井オーナーが『勝つのは簡単だ(落合起用を示唆)。でも、それは皆さん(現球団関係者たち)が許さないんだろう?』という発言を耳にした。だから中日の監督復帰は、(関係者との確執から)まずないだろう」と否定している。 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高 ※1 順位の太字は日本シリーズ優勝、チーム成績の太字はリーグ1位(最優秀)、下線はリーグ最下位 ※2 2001年から2004年までは140試合制(2004年は選手会ストライキのため2試合が行われなかった) ※3 2005年から2006年までは146試合制 ※4 2007年から144試合制 ※5 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差 首位打者:5回(1981年 - 1983年、1985年、1986年)※右打者のパ・リーグ記録。3年連続は長嶋茂雄・パウエルと並ぶ右打者最長タイ、パ・リーグ歴代3位 本塁打王:5回(1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)※両リーグ本塁打王は史上初 打点王:5回(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)※両リーグ打点王は史上唯一 最高出塁率:7回(1982年、1985年 - 1988年、1990年、1991年)※受賞7回は歴代2位、右打者歴代1位。パ・リーグで3回(1986年まで)、セ・リーグで4回(1987年以降)はそれぞれのリーグの右打者最多 最多安打:1回(1982年)※当時連盟表彰なし 最多勝利打点:5回(1982年、1985年、1988年、1989年、1993年)※受賞5回は史上最多、1989年と1993年は特別賞 最優秀選手:2回(1982年、1985年)※優勝チーム以外から2度以上の選出は王貞治(1964年、1974年)に続いて2人目 ベストナイン:10回(二塁手部門:1981年、1982年 一塁手部門:1983年、1988年、1990年、1991年 三塁手部門:1984年 - 1986年、1989年) ※複数部門に跨がっての10度受賞は歴代最多、複数部門に跨がって6年連続も歴代最長 野球殿堂競技者表彰(2011年) 月間MVP:6回(1985年9月、1986年5月、1988年8月 野手部門:1989年8月、1990年5月、1991年8月) 優秀JCB・MEP賞:1回(1990年) オールスターゲームMVP:2回(1983年第3戦、1995年第1戦) 日本プロスポーツ大賞
40周年特別賞 京楽杯(2007年) 報知プロスポーツ大賞:3回(1982年、1985年、1986年) 都民文化栄誉賞(1985年) 秋田県県民栄誉章(1987年) IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(1991年) 新語・流行語大賞 新語部門銅賞(1993年、「FA(フリーエージェント)」) よい夫婦の日 ナイス・カップル(1995年、妻:落合信子) 正力松太郎賞:1回(2007年)※監督として表彰 最優秀監督賞(セ・リーグ連盟特別表彰:2011年) 三冠王:3回(1982年、1985年、1986年)※史上4人目、3回の三冠王は史上唯一。1982年は日本人最速となる入団4年目での達成 両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本) 2年連続シーズン50本塁打以上(1985年 - 1986年) シーズン得点圏打率:.492(1985年) シーズン出塁率:.487(1986年)※NPB公式での日本記録。ただし、出塁数を採用していた時代のセ・リーグの記録に遡ると1974年王貞治の.534が日本記録となる。 シーズン打率.360以上:2回(1985年、1986年)※日本タイ記録、右打者では史上唯一 1試合6四球(1991年10月13日) シーズン打点:146(1985年)※三冠王の最多打点記録 シーズン長打率:.763(1985年) 初出場:1979年5月29日、対南海ホークス前期8回戦(川崎球場)、7回裏に新井昌則の代打として出場 初先発出場:1979年5月30日、対南海ホークス前期9回戦(川崎球場)、7番・三塁手として先発出場 初安打・初打点:同上、6回裏に森口益光から 初本塁打:1979年5月31日、対南海ホークス前期11回戦(川崎球場)、3回裏に山内新一から3ラン 100本塁打:1983年8月31日、対阪急ブレーブス20回戦(阪急西宮球場)、9回表に山沖之彦から左越先制3ラン ※史上127人目 150本塁打:1985年5月5日、対南海ホークス4回戦(川崎球場)、5回裏に大久保学から ※史上75人目 200本塁打:1986年5月31日、対阪急ブレーブス8回戦(川崎球場)、2回裏に今井雄太郎から中越先制ソロ ※史上48人目 250本塁打:1987年5月19日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に西本聖から中越2ラン ※史上27人目 1000安打:1987年6月2日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(ナゴヤ球場)、7回裏に高橋一彦から左越ソロ ※史上148人目 1000試合出場:1988年5月14日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、4番・三塁手として先発出場 ※史上276人目 300本塁打:1988年10月2日、対阪神タイガース23回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に仲田幸司から右越決勝ソロ ※史上19人目 350本塁打:1990年5月8日、対阪神タイガース3回戦(浜松球場)、3回裏に嶋尾慶一から左越先制3ラン ※史上14人目(歴代2位の1257試合で到達:当時史上最速、後にアレックス・カブレラが更新) 1000打点:1990年6月12日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、9回表に高木宣宏から右越3ラン ※史上21人目(歴代最速の1284試合で到達) 1500安打:1990年9月5日、対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)、9回表に桑田真澄から左越3ラン ※史上59人目 3000塁打:1991年6月30日、対読売ジャイアンツ10回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に香田勲男からソロ ※史上30人目 400本塁打:1991年8月30日、対広島東洋カープ15回戦(広島市民球場)、4回表に金石昭人から中越ソロ ※史上11人目 1000得点:1992年4月26日、対阪神タイガース5回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に中込伸からソロ本塁打を放ち達成 ※史上24人目 1500試合出場:1992年5月4日、対広島東洋カープ3回戦(ナゴヤ球場)、4番・一塁手として先発出場 ※史上101人目 3500塁打:1993年8月15日、対読売ジャイアンツ18回戦(東京ドーム)、8回表に橋本清から単打 ※史上18人目 450本塁打:1993年8月18日、対ヤクルトスワローズ18回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に川崎憲次郎から先制決勝2ラン 300二塁打:1994年4月16日、対ヤクルトスワローズ2回戦(東京ドーム)、7回裏に内藤尚行から ※史上31人目 2000安打:1995年4月15日、対阪神タイガース2回戦(東京ドーム)、6回裏に久保康生から左越ソロ ※史上27人目 1000三振:1995年10月8日、対広島東洋カープ27回戦(東京ドーム)、2回裏に紀藤真琴から ※史上21人目 4000塁打:1996年5月18日、対ヤクルトスワローズ7回戦(東京ドーム)、2回裏にテリー・ブロスからソロ本塁打を放ち達成 ※史上11人目 2000試合出場:1996年5月29日、対ヤクルトスワローズ10回戦(東京ドーム)、4番・一塁手として先発出場 ※史上29人目 500本塁打:1996年7月3日、対ヤクルトスワローズ15回戦(明治神宮野球場)、6回表にテリー・ブロスから逆転2ラン ※史上7人目 1500打点:1996年8月27日、対広島東洋カープ21回戦(広島市民球場)、8回表に白武佳久から右前決勝適時打 ※史上7人目 オールスターゲーム出場:15回(1981年、1982年、1983年、1984年、1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年、1991年、1993年、1995年、1996年、1997年) ※1992年も選出されるも出場辞退 オールスターゲーム通算打率:.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ オールスターゲーム通算本塁打:11本 ※歴代4位 オールスターゲーム通算打点:27 ※歴代3位タイ シーズン得点:118(1985年)※右打者のパ・リーグ記録 シーズン塁打:351(1985年)※右打者のパ・リーグ記録 シーズン打率3割以上:11回(1981年 - 1987年、1989年、1991年、1995年、1996年)※歴代5位タイ、右打者歴代1位タイ。1996年は43歳になる年での達成で史上最年長記録。 シーズン50本塁打以上:2回(1985年、1986年)※歴代2位タイ、2年連続は史上初(他はアレックス・カブレラが達成) シーズン30本塁打以上:9回(1981年、1982年、1984年 - 1986年、1988年 - 1991年)※歴代3位タイ 17年連続シーズン100安打以上(1981年 - 1997年)※歴代4位タイ 両リーグ1000安打以上(パ:1096本、セ:1275本)※史上2人目 5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 14日) 通算打率:.3108(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代最高打率、5000打数以上では右打者最高打率。 通算出塁率:.422(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位 通算長打率:.564(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代1位 通算四球:1475(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位 シーズン打率:.367(1985年)※右打者歴代3位 シーズン本塁打:52(1985年)※右打者の日本人歴代最多タイ記録、パ・リーグ日本人最多タイ記録 首位打者、本塁打王、打点王全て5回以上獲得:他に王貞治のみ 首位打者、最高出塁率、最高長打率の同時獲得:3回(1982年、1985年、1986年)※王(5回)に次ぐ歴代2位タイ(他に長嶋茂雄) 両リーグで最多得点を記録:史上唯一 両リーグで最多長打:(パ:1982、1985年、セ:1988、1989年)※他に張本勲のみ 両リーグで最多塁打:(パ:1982、1985年、セ:1989年)※他に張本のみ リーグ最多長打:4回 ※王に次ぐ歴代2位タイ リーグ最多四球:8年連続9回 ※パ・リーグで3年連続は最長タイ。セ・リーグで5年連続6回、合わせて8年連続9回は全て王に次ぐ歴代2位。
最高長打率:5回 ※王に次ぐ歴代2位タイ
6(1979年 - 1993年、1995年 - 1996年) 60(1994年) 3(1997年 - 1998年) 66(2004年 - 2011年) 『なんと言われようとオレ流さ』(講談社、1986年4月、ISBN 4062026295) 『勝負の方程式』(小学館、1994年6月、ISBN 4093871213) 『激闘と挑戦:巨人軍・落合博満が闘った奇蹟の136試合』(鈴木洋史共著、小学館、1995年6月、ISBN 4093871574) 『不敗人生:43歳からの挑戦』(鈴木洋史共著、小学館、1997年2月、ISBN 4093872120) 『野球人』(ベースボール・マガジン社、1998年12月、ISBN 4583035691) 『プロフェッショナル』(ベースボール・マガジン社、1999年12月、ISBN 4583036213) 『落合にきけ!』(朝日新聞社、2000年3月、ISBN 402257478X) 『コーチング:言葉と信念の魔術』(ダイヤモンド社、2001年9月、ISBN 4478720215) 『落合博満の超野球学(1):バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社、2003年5月、ISBN 458303749X) 『落合博満の超野球学(2):続・バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社、2004年3月、ISBN 4583037910) 『采配』(ダイヤモンド社、2011年11月、ISBN 4478016267) 『戦士の休息』(岩波書店、2013年8月、ISBN 9784000259125) 『落合博満 バッティングの理屈:三冠王が考え抜いた「野球の基本」』(ダイヤモンド社、2015年7月、ISBN 9784478061916) 『落合博満アドバイス 指導者に明かす野球の本質』(ダイヤモンド社、2017年7月、ISBN 4478103089) 『決断=実行』(ダイヤモンド社、2018年11月、ISBN 4478106150) 『戦士の食卓』(岩波書店、2021年4月、ISBN 9784000614641) ※ 『奇跡を呼ぶ男落合博満物語』(綾野まさる著、小学館、1999年4月、ISBN 4092900953) 『落合戦記:日本一タフで優しい指揮官の独創的「采配&人心掌握術」』(横尾弘一著、ダイヤモンド社 2004年11月 ISBN 4478960917) 『落合博満変人の研究』(ねじめ正一著、新潮社、2008年4月、ISBN 9784103722069) 『なぜ日本人は落合博満が嫌いか?』(テリー伊藤著、角川oneテーマ21、2010年5月、ISBN 9784047102439) 『原辰徳と落合博満の監督力』(張本勲著、青志社、2011年1月、ISBN 9784905042105) 『プロ野球にとって正義とは何か:落合解任と「プロの流儀」VS.「会社の論理」』(手束仁著、イースト・プレス、2012年3月、ISBN 978-4781607597)
『野村「ID」野球と落合「オレ流」野球』(川崎憲次郎著、KKロングセラーズ、2012年12月、ISBN 978-4-845-42266-1) 『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(鈴木忠平著、文藝春秋社、2021年9月、ISBN 978-4163914411)
月曜ワイド劇場「サンデー兆治の妻」(1986年4月7日、テレビ朝日) 加トちゃんケンちゃんおめでとうテレビ'87・THE DETECTIVE STORY(ゲスト出演)(1987年1月3日、TBS) スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会(1993年12月31日、日本テレビ) 桃太郎侍(1994年3月31日、テレビ朝日。長男と一緒に出演) プロ野球中継(解説)
KBCジャンボナイター(KBCラジオ。テレビ朝日専属時代にゲスト解説として出演) 東海ラジオ ガッツナイター(東海ラジオ。2002年・2003年) 東海テレビ制作・放送分(2002年6月11日、中日対阪神戦) 侍プロ野球(TBS系列。2012年4月19日、CBCテレビ制作の中日対巨人戦に出演) NHKプロ野球(2012年5月19日、NHK総合テレビで放送の巨人対ソフトバンク交流戦に出演) J SPORTS STADIUM(2012年のセントラル・リーグ クライマックスシリーズ ファーストステージ 中日対ヤクルト第1戦) すぽると!(フジテレビ。2002年の日本シリーズ試合解説を全試合担当) 最強チームはこうして生まれた!~落合監督が語る 日本一への道~(NHK BS1、2007年12月。聞き手は梨田昌孝、与田剛) サンデースポーツ(NHK総合テレビ。2012年から不定期でプロ野球解説として出演 2022年4月度の改編からは週替わりのレギュラーコメンテーターとして出場) めざせ!会社の星(NHK Eテレ。2013年7月10日、7月17日他) 戦え!スポーツ内閣(毎日放送テレビ、2018年5月23日 以降定期的に出演) クローズアップ現代+ 大谷翔平 驚異の進化の舞台裏(NHK総合テレビ、2021年6月15日、解説) JA淡路日の出スポーツスペシャル ~MBSべ―スボールパーク番外編~落合博満×掛布雅之 THE・野球談議(2021年12月29日、MBSラジオ) アートネイチャー「若露」(育毛剤。1983年) ロッテ 「木の葉」(スナック菓子。1983年) ロッテ電子工業「ホカロン」(1982年。有藤道世と共演) ミズノ「ワールドウィン・ベースボールグッズ」(1987年。ランディ・バースと共演) 東海旅客鉄道「3月13日ダイヤ改正」(1988年。一家で出演(※ラジオCMは夫人の信子と共演したCMがある)) 愛知県警察「チャイルドシート着用率」(2004年) 中部電力 富士通「FMV」(2005年。木村拓哉と共演) 2007年愛知県知事選挙CM(2007年。戸田恵梨香と共演) 「サムライ街道/そんなふたりのラブソング」(1986年)「そんなふたりの…」は夫人の信子とデュエット。5万5000枚を売り上げた。 「男のララバイ」(1987年) 「めぐり逢い」(1989年12月22日) 「恋の広小路」(1990年12月12日)中村美律子とデュエット 「落涙」(1991年12月24日) 「縁歌酒」(1992年9月21日)多岐川舞子とデュエット 「息子へ」(1993年1月8日) 「夜明川」(1994年1月15日) 「涙 渇くまで」(1996年2月21日)林るり子とデュエット 「抱かれて乾杯」(1997年3月20日)若山かずさとデュエット 「霧の別れ」(1998年3月21日)若山かずさとデュエット 「サムライ街道/男のララバイ」(2004年2月11日) 「旅路のひと」 『オレ流クラシック』(落合博満選曲・監修、キングレコード、2005年11月23日、KICC-556) 『落合博満ゴールデン★ベスト』(EMIミュージックジャパン、2011年11月23日、TOCT-11284) 『あぶさん』(水島新司作) 『ストッパー毒島』(ハロルド作石作) 『ドカベン プロ野球編』(水島新司作) 『ミラクルジャイアンツ童夢くん』(漫画・アニメ、石ノ森章太郎原作) - 声・沢木郁也 『落合博満のオレ流転生』(原作:宮川サトシ、漫画:川) ^ 城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた。 ^ このことが落合が「オレ流」と呼ばれる所以である。 ^ 2022年にヤクルトの村上宗隆が22歳で三冠王を獲得し、40年ぶりに記録を更新した。 ^ 長打は1998年にクラークが、得点は2000年に小笠原道大が更新 ^ 外国人選手を含めたロッテ所属選手の本塁打王は、2023年にグレゴリー・ポランコが落合以来37年ぶりに獲得している。 ^ 2011年にアレックス・カブレラに更新されるまで最速記録だった。 ^ 監督時代の2007年の中日は2位からの日本一であったため。 ^ 2012年4月15日のテレビ解説については、スポニチでも古巣の試合初観戦という表現を交えながら報じている(どこの放送局であるのかは明記せず)。 ^ 野村克也との対談では「奴ら(新聞記者)は野球なんてぜんぜん知らない。無視したっていい」と発言し野村から「そんなこといわずに、記者たちに野球を教えてやるという気持ちでマスコミ対応もしっかりやれよ」とたしなめられている。 ^ 前者は「16は野手の番号ではない」という落合の考え、後者は入団当初に背番号8を希望した新人時代の平田良介の希望と、森野が掛布雅之に憧れていたことから。 ^ 当時は1回入場料を払えば、その日はずっと映画を見ることができた。それゆえ、入り浸ることは可能だった。 ^ 「不敗人生」との語句は、この年に入団した日本ハム選手別応援歌での落合向けの歌詞にも採用された。 ^ 2013年 ^ 参考:TBSチャンネルでの放送告知ページ、放送の模様をつづったネットニュース記事・スポーツライターのブログ ^ 参考:『週刊ポスト』2012年11月2日号掲載記事、『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑』でも、2012年の中日対ヤクルトクライマックスシリーズ中継で森繁和と解説を務めたことが記されている(第何戦・どこの局であるのかは明記せず) ^ 個人年度別成績 - 落合博満 日本野球機構 2021年4月9日閲覧。 ^ 『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P157 ^ 「蛭間豊章記者の「Baseball inside」 メジャー挑戦者はO型、B型ばかり(第454回)」『ブログ報知』2009年2月11日。2021年1月21日閲覧。 ^ 落合博満『なんと言われようとオレ流さ』講談社、1986年、p54 ^ 落合、1986年、p55 ^ 落合、1986年、p57 ^ 「高校は不登校、大学は中退…それでもプロに落合博満さん」『朝日新聞デジタル』2017年12月31日。2022年5月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月19日閲覧。 ^ 落合、1986年、p58 ^ 落合、1986年、p61 ^ 落合、1986年、p60 ^ 落合、1986年、p63 ^ 落合、1986年、p64 ^ 落合、1986年、p66 ^ 『プロ野球三国志』159頁 ^ 落合、1986年、p67 ^ 落合、1986年、p68 ^ 落合、1986年、p70 ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年 ^ 落合、1986年、p71 ^ 落合、1986年、p72 ^ 落合、1986年、p74 ^ 「落合博満氏 阪神入りあった?「期待していた」幻のドラフト指名を明かす」『デイリースポーツ online』2018年12月15日。2022年6月8日閲覧。 ^ 岡邦行『プロ野球 これがドラフトだ!』、1989年11月30日、三一書房、ISBN 4380892492 ^ 落合、1986年、p90 ^ 「落合博満氏 藤浪に苦言「もうちょっと野球を勉強した方がいい」」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2018年12月15日。2022年11月8日閲覧。 ^ 落合、1986年、p92 ^ 落合、1986年、p77 ^ 「落合博満「努力とか大嫌いさ、あんなの」「1600万円しかもらってませんから」 ロッテ時代の強烈な《三冠王語録》の真意」『Number Web』2021年11月8日。2022年12月19日閲覧。 ^ 「【ヤクルト】村上宗隆が史上最年少22歳で3冠王に…令和初 最終戦で日本選手最多の56号も出た」『スポーツ報知』2022年10月3日。2022年10月3日閲覧。 ^ 「ヤクルト・村上宗隆 世界の王、イチローも超える“連続MVP”への期待」『デイリースポーツ』2022年7月25日。2022年10月2日閲覧。 ^ 【12月16日】1982年(昭57) 落合博満、不文律破った!一気に237・5%増で判子ポン! ^ 「【野球】DeNA・牧には、オレ流・落合以来の二塁手・三冠王に挑戦してほしい」『デイリースポーツ online』2022年5月30日。2022年6月8日閲覧。 ^ スポーツニッポン_1984年1月31日 ^ 「筒香 シーズン得点圏打率4割なるか イチらと並ぶ最年少タイ23歳」『スポーツニッポン』2014年7月29日。2014年7月29日閲覧。 ^ 「落合博満のホームラン論その1「全打席でバックスクリーンだけを狙っていた」」『Yahoo!ニュース』2020年6月1日。2021年10月15日閲覧。 ^ 朝日新聞1986年10月16日19面 ^ 「ヤクルト・村上“落合超え”なるか 夢の出塁率5割も「今の状況なら」評論家の視点」『デイリースポーツ』2022年8月29日。2022年9月16日閲覧。 ^ 久保田龍雄「放棄試合も辞さず…中日・落合監督、「退場シーン」も“オレ流”だった!〈dot.〉」『AERA dot.』2018年9月23日。2022年12月19日閲覧。 ^ 毎日新聞1986年11月5日19面「『来年はどこにいるか…』落合、球団に不満 励ます会で過激発言」毎日新聞縮刷版1986年11月p137 ^ 毎日新聞1986年11月6日19面「落合帰京後に真意をただす 過激発言でロッテ」毎日新聞縮刷版1986年11月p173 ^ 「落合博満、秋山幸二、糸井嘉男…世紀の“大型トレード”はこうして成立した!」『新潮デイリー』2021年11月17日。2022年8月17日閲覧。 ^ 毎日新聞1986年12月13日17面「落合と球団 一応の和解 昼食はさみ4時間半会談」毎日新聞縮刷版1986年12月p457 ^ 毎日新聞1986年12月24日17面「落合急転ロッテ入り」毎日新聞縮刷版1986年12月p803 ^ 「「稲尾さんがいないロッテにいる意味がない」と落合博満 ロッテの衝撃トレード史【プロ野球はみだし録】」『週刊ベースボールONLINE』2022年12月13日。2022年12月23日閲覧。 ^ 毎日新聞1986年12月26日夕刊11面「落合OK 1億3000万円」毎日新聞縮刷版1986年12月 p893 ^ 「落合博満氏、メジャー移籍へ動いたロッテ時代の秘話明かす 「成功したか」の問いに落合氏の答えは」『スポニチ Sponichi Annex』2022年4月11日。2022年12月19日閲覧。 ^ 「年度別成績 1987年 セントラル・リーグ」『NPB.jp 日本野球機構』。2018年7月30日閲覧。 ^ 【落合博満という男】ウーやんが見た天才打者の素顔とは!?, YouTube, https://www.youtube.com/watch?v=6wAf_n-u-V4 2021年7月9日閲覧。 ^ 「批判の集まる中日・落合GM 思い返せば、落合“選手”の契約更改といえば…」『BASEBALL KING』2014年12月10日。2022年12月19日閲覧。 ^ 「カブレラ最速350号!落合の記録を88試合更新」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2011年5月14日。2018年1月25日閲覧。 ^ 「日本人選手で初めての年俸調停。落合博満、その真の目的とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1990~91年】 | 野球コラム」『週刊ベースボールONLINE』2020年10月25日。2022年12月19日閲覧。 ^ 「年度別成績 1991年 セントラル・リーグ」『NPB.jp 日本野球機構』。2018年7月30日閲覧。 ^ 「気がつけば40年(31)1992年 西伊豆の落合道場に電撃入門したのは長嶋一茂だった」『スポニチ Sponichi Annex』2020年11月10日。2022年12月19日閲覧。 ^ 「「平成ナゴヤ球場の逆転劇」ドラゴンズ・サヨナラ男列伝!」『ドラの巻【昇竜復活へ!CBC中日ドラゴンズ情報】』2019年3月7日。2022年12月19日閲覧。 ^ 「【今日は何の日?】落合博満がFAで巨人に入団」『web Sportiva』2011年12月21日。2012年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年2月2日閲覧。 ^ 「「(落合さんの年俸)どうかと思う」原辰徳がまさかの苦言…落合博満“4億円超”に不満だった巨人ナイン「落合vs原」1994年オフの言い争い」『Number Web』2024年2月18日。2024年2月18日閲覧。 ^ 『日本プロ野球トレード大鑑1936-2001』(ベースボール・マガジン社、2001年2月20日発行) ^ 球界OBが猛批判「残念ですね」「落合に3億円の値打ちない」張本勲もバッサリ…落合博満40歳のFA移籍、じつは巨人関係者もみんな“冷たかった”(1/3ページ) Number Web 2023/09/24 11:04 (2023年9月27日閲覧) ^ 球界OBが猛批判「残念ですね」「落合に3億円の値打ちない」張本勲もバッサリ…落合博満40歳のFA移籍、じつは巨人関係者もみんな“冷たかった”(2/3ページ) Number Web 2023/09/24 11:04 (2023年9月27日閲覧) ^ 球界OBが猛批判「残念ですね」「落合に3億円の値打ちない」張本勲もバッサリ…落合博満40歳のFA移籍、じつは巨人関係者もみんな“冷たかった”(3/3ページ) Number Web 2023/09/24 11:04 (2023年9月27日閲覧) ^ 賢柳「1994年の落合博満 ガッツポーズをしない男がガッツポーズをした瞬間」『文春オンライン』2021年7月15日。2022年12月19日閲覧。 ^ 今夜解禁!アスリート運命の一日 スポーツ名勝負の舞台裏 ^ 【ボクの思い出STADIUM】ナゴヤ球場 ^ 「常に一触即発! 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落合博満『なんと言われようとオレ流さ』講談社、1986年 古矢徹著『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑 ただいま放送席内の音声のみでお送りしています』(2013年7月1日、メタモル出版発行。コード:ISBN 978-4-89595-8448) 落合『采配』ダイヤモンド社、2017年11月17日。ISBN 9784478016268。 有本義明『プロ野球三国志』毎日新聞社、1992年 秋田県出身の人物一覧 東洋大学の人物一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 落合博満野球記念館 プロ野球28会 マグマ大使 ジャイアント落合 - 甥にあたる格闘家。 牧田知丈 - テレビバラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』の企画「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」で落合のモノマネを行い、名が知れ渡った製薬会社勤務の男性。 峰竜太 - 俳優・タレント。現役時代から落合と交流がある。自身もドラゴンズファンであることから、優勝時のビールかけに参加したり、自身が司会を務めるドラゴンズHOTスタジオでは民放在名テレビ局で唯一、毎年キャンプ前に峰と落合のインタビューを放送している。 ねじめ正一、テリー伊藤 - 両者とも落合に関する著書を出している。 白井文吾 - 中日新聞社代表取締役会長・中日ドラゴンズオーナー。公私ともに親交があり、落合を中日ドラゴンズ監督に招聘した人物として知られる。 個人年度別成績 落合博満 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 野球殿堂 落合博満 落合博満記念館(南紀くろしお商工会 より) 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE 落合博満のオレ流チャンネル (@ochiaioreryu) - X(旧Twitter) 【公式】落合博満のオレ流チャンネル - YouTubeチャンネル 表 話 編 歴 池田豊 1936 桝嘉一 1937 根本行都 1938 - 1939 小西得郎 1939 - 1941 本田親喜 1941 - 1942 桝嘉一 1943 三宅大輔 1944 竹内愛一 1946 杉浦清 1946 - 1948 天知俊一 1949 - 1951 坪内道典 1952 - 1953 天知俊一 1954 野口明 1955 - 1956 天知俊一 1957 - 1958 杉下茂 1959 - 1960 濃人貴実 1961 - 1962 杉浦清 1963 - 1964 西沢道夫 1964 - 1967 杉下茂 1968 水原茂 1969 - 1971 与那嶺要 1972 - 1977 中利夫 1978 - 1980 近藤貞雄 1981 - 1983 山内一弘 1984 - 1986 星野仙一 1987 - 1991 高木守道 1992 - 1995 星野仙一 1996 - 2001 山田久志 2002 - 2003 落合博満 2004 - 2011 髙木守道 2012 - 2013 谷繁元信 2014 - 2016 森繁和 2017 - 2018 与田剛 2019 - 2021 立浪和義 2022 - 2024 井上一樹 2025 - 現在 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 1977 王貞治 1978 広岡達朗 1979 西本幸雄 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 広岡達朗 1983 田淵幸一 1984 衣笠祥雄 1985 吉田義男 1986 森祇晶 1987 工藤公康 1988 門田博光 1989 藤田元司 1990 森祇晶 1991 秋山幸二 1992 石井丈裕 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄, イチロー 1995 イチロー 1996 仰木彬 1997 古田敦也 1998 佐々木主浩 1999 王貞治 2000 松井秀喜 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 王貞治, 星野仙一 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 王貞治 2007 落合博満 2008 渡辺久信 2009 原辰徳 2010 西村徳文 2011 秋山幸二 2012 原辰徳, 阿部慎之助 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 デニス・サファテ 2018 工藤公康 2019 工藤公康 2020 工藤公康 2021 高津臣吾 2022 中嶋聡 2023 岡田彰布 2024 三浦大輔 2004 イチロー 2013 田中将大 2021 稲葉篤紀, 大谷翔平 2022 村上宗隆 2023 栗山英樹, 大谷翔平 2024 大谷翔平 表 話 編 歴 1968 西城正三 1969 読売ジャイアンツ 1970 大鵬幸喜 1971 長嶋茂雄 1972 松本勝明 1973 沢村忠 1974 王貞治 1975 広島東洋カープ 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 ヤクルトスワローズ 1979 具志堅用高 1980 具志堅用高 1981 中野浩一 1982 落合博満 1983 広岡達朗 1984 衣笠祥雄 1985 ランディ・バース 1986 落合博満 1987 岡本綾子 1988 千代の富士貢 1989 千代の富士貢 1990 野茂英雄 1991 辰吉丈一郎 1992 貴花田光司 1993 三浦知良 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 尾崎将司 1997 中田英寿 1998 佐々木主浩 1999 松坂大輔 2000 松井秀喜 2001 イチロー 2002 FIFAワールドカップ日本代表 2003 松井秀喜 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 2007 浦和レッドダイヤモンズ 2008 石川遼 2009 石川遼 2010 白鵬翔 2011 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表 2012 阿部慎之助 2013 田中将大 2014 錦織圭 2015 ラグビー日本代表 2016 大谷翔平 2017 福岡ソフトバンクホークス 2018 大谷翔平 2022 井上尚弥 2023 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 表 話 編 歴 1950 小西得郎 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 水原円裕 1957 水原円裕 1958 水原円裕 1959 水原円裕 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 藤本定義 1963 川上哲治 1964 藤本定義 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 与那嶺要 1975 古葉竹識 1976 長嶋茂雄 1977 長嶋茂雄 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 近藤貞雄 1983 藤田元司 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 阿南準郎 1987 王貞治 1988 星野仙一 1989 藤田元司 1990 藤田元司 1991 山本浩二 1992 野村克也 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 長嶋茂雄 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 星野仙一 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 星野仙一 2004 落合博満 2005 岡田彰布 2006 落合博満 2007 原辰徳 2008 原辰徳 2009 原辰徳 2010 落合博満 2011 落合博満 2012 原辰徳 2013 原辰徳 2014 原辰徳 2015 真中満 2016 緒方孝市 2017 緒方孝市 2018 緒方孝市 2019 原辰徳 2020 原辰徳 2021 高津臣吾 2022 髙津臣吾 2023 岡田彰布 2024 阿部慎之助 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 水原茂 1963 川上哲治 1964 鶴岡一人 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 藤田元司 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 仰木彬 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 王貞治 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 落合博満 2008 渡辺久信 2009 原辰徳 2010 西村徳文 2011 秋山幸二 2012 原辰徳 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 工藤公康 2019 工藤公康 2020 工藤公康 2021 高津臣吾 2022 中嶋聡 2023 岡田彰布 2024 三浦大輔 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 表 話 編 歴 1938秋 中島治康 1973 王貞治 1974 王貞治 1985 R.バース 1986 R.バース 2022 村上宗隆 1965 野村克也 1982 落合博満 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 落合博満 2004 松中信彦 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 山本一人 1952 柚木進 1953 岡本伊三美 1954 大下弘 1955 飯田徳治 1956 中西太 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 山内和弘 1961 野村克也 1962 張本勲 1963 野村克也 1964 J.スタンカ 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 足立光宏 1968 米田哲也 1969 長池徳二 1970 木樽正明 1971 長池徳二 1972 福本豊 1973 野村克也 1974 金田留広 1975 加藤秀司 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 C.マニエル 1980 木田勇 1981 江夏豊 1982 落合博満 1983 東尾修 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 石毛宏典 1987 東尾修 1988 門田博光 1989 R.ブライアント 1990 野茂英雄 1991 郭泰源 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 西口文也 1998 松井稼頭央 1999 工藤公康 2000 松中信彦 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 城島健司 2004 松中信彦 2005 杉内俊哉 2006 小笠原道大 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 和田毅 2011 内川聖一 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 柳田悠岐 2016 大谷翔平 2017 D.サファテ 2018 山川穂高 2019 森友哉 2020 柳田悠岐 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 大下弘 1951 大下弘 1952 飯島滋弥 1953 岡本伊三美 1954 L.レインズ 1955 中西太 1956 豊田泰光 1957 山内和弘 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 榎本喜八 1961 張本勲 1962 ブルーム 1963 ブルーム 1964 広瀬叔功 1965 野村克也 1966 榎本喜八 1967 張本勲 1968 張本勲 1969 永淵洋三, 張本勲 1970 張本勲 1971 江藤慎一 1972 張本勲 1973 加藤秀司 1974 張本勲 1975 白仁天 1976 吉岡悟 1977 有藤道世 1978 佐々木恭介 1979 加藤英司 1980 L.リー 1981 落合博満 1982 落合博満 1983 落合博満 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 新井宏昌 1988 高沢秀昭 1989 ブーマー 1990 西村徳文 1991 平井光親 1992 佐々木誠 1993 辻発彦 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 イチロー 1998 イチロー 1999 イチロー 2000 イチロー 2001 福浦和也 2002 小笠原道大 2003 小笠原道大 2004 松中信彦 2005 和田一浩 2006 松中信彦 2007 稲葉篤紀 2008 リック 2009 鉄平 2010 西岡剛 2011 内川聖一 2012 角中勝也 2013 長谷川勇也 2014 糸井嘉男 2015 柳田悠岐 2016 角中勝也 2017 秋山翔吾 2018 柳田悠岐 2019 森友哉 2020 吉田正尚 2021 吉田正尚 2022 松本剛 2023 頓宮裕真 2024 近藤健介 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 大下弘 1952 深見安博 1953 中西太 1954 中西太 1955 中西太 1956 中西太 1957 野村克也 1958 中西太 1959 山内和弘 1960 山内和弘 1961 野村克也, 中田昌宏 1962 野村克也 1963 野村克也 1964 野村克也 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 野村克也 1968 野村克也 1969 長池徳二 1970 大杉勝男 1971 大杉勝男 1972 長池徳二 1973 長池徳二 1974 C.ジョーンズ 1975 土井正博 1976 C.ジョーンズ 1977 L.リー 1978 B.ミッチェル 1979 C.マニエル 1980 C.マニエル 1981 T.ソレイタ, 門田博光 1982 落合博満 1983 門田博光 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 秋山幸二 1988 門田博光 1989 R.ブライアント 1990 O.デストラーデ 1991 O.デストラーデ 1992 O.デストラーデ 1993 R.ブライアント 1994 R.ブライアント 1995 小久保裕紀 1996 T.ニール 1997 N.ウィルソン 1998 N.ウィルソン 1999 T.ローズ 2000 中村紀洋 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 T.ローズ 2004 松中信彦, F.セギノール 2005 松中信彦 2006 小笠原道大 2007 山﨑武司 2008 中村剛也 2009 中村剛也 2010 T-岡田 2011 中村剛也 2012 中村剛也 2013 M.アブレイユ 2014 E.メヒア, 中村剛也 2015 中村剛也 2016 B.レアード 2017 A.デスパイネ 2018 山川穂高 2019 山川穂高 2020 浅村栄斗 2021 杉本裕太郎 2022 山川穂高 2023 G.ポランコ, 近藤健介, 浅村栄斗 2024 山川穂高 表 話 編 歴 1950 小鶴誠 1951 青田昇 1952 杉山悟 1953 藤村富美男 1954 青田昇 1955 町田行彦 1956 青田昇 1957 青田昇, 佐藤孝夫 1958 長嶋茂雄 1959 桑田武, 森徹 1960 藤本勝巳 1961 長嶋茂雄 1962 王貞治 1963 王貞治 1964 王貞治 1965 王貞治 1966 王貞治 1967 王貞治 1968 王貞治 1969 王貞治 1970 王貞治 1971 王貞治 1972 王貞治 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 田淵幸一 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 山本浩二 1979 掛布雅之 1980 山本浩二 1981 山本浩二 1982 掛布雅之 1983 山本浩二, 大島康徳 1984 宇野勝, 掛布雅之 1985 R.バース 1986 R.バース 1987 ランス 1988 C.ポンセ 1989 L.パリッシュ 1990 落合博満 1991 落合博満 1992 J.ハウエル 1993 江藤智 1994 大豊泰昭 1995 江藤智 1996 山崎武司 1997 D.ホージー 1998 松井秀喜 1999 R.ペタジーニ 2000 松井秀喜 2001 R.ペタジーニ 2002 松井秀喜 2003 A.ラミレス, T.ウッズ 2004 T.ローズ, T.ウッズ 2005 新井貴浩 2006 T.ウッズ 2007 村田修一 2008 村田修一 2009 T.ブランコ 2010 A.ラミレス 2011 W.バレンティン 2012 W.バレンティン 2013 W.バレンティン 2014 B.エルドレッド 2015 山田哲人 2016 筒香嘉智 2017 A.ゲレーロ 2018 N.ソト 2019 N.ソト 2020 岡本和真 2021 村上宗隆, 岡本和真 2022 村上宗隆 2023 岡本和真 2024 村上宗隆 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 飯田徳治 1952 飯田徳治 1953 中西太 1954 山内和弘 1955 山内和弘 1956 中西太 1957 中西太 1958 葛城隆雄 1959 葛城隆雄 1960 山内和弘 1961 山内和弘 1962 野村克也 1963 野村克也 1964 野村克也 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 野村克也 1968 G.アルトマン 1969 長池徳二 1970 大杉勝男 1971 門田博光 1972 野村克也, 大杉勝男 1973 長池徳二 1974 長池徳二 1975 加藤秀司 1976 加藤秀司 1977 L.リー 1978 B.マルカーノ 1979 加藤英司 1980 C.マニエル 1981 T.ソレイタ 1982 落合博満 1983 水谷実雄 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 ブーマー 1988 門田博光 1989 ブーマー 1990 O.デストラーデ, 石嶺和彦 1991 O.デストラーデ, J.トレーバー 1992 ブーマー 1993 R.ブライアント 1994 石井浩郎 1995 イチロー, 初芝清, 田中幸雄 1996 T.ニール 1997 小久保裕紀 1998 N.ウィルソン 1999 T.ローズ 2000 中村紀洋 2001 中村紀洋 2002 T.ローズ 2003 松中信彦 2004 松中信彦 2005 松中信彦 2006 小笠原道大, A.カブレラ 2007 山﨑武司 2008 T.ローズ 2009 中村剛也 2010 小谷野栄一 2011 中村剛也 2012 李大浩 2013 浅村栄斗 2014 中田翔 2015 中村剛也 2016 中田翔 2017 A.デスパイネ 2018 浅村栄斗 2019 中村剛也 2020 中田翔 2021 島内宏明 2022 山川穂高 2023 近藤健介 2024 山川穂高 表 話 編 歴 1950 小鶴誠 1951 青田昇 1952 西沢道夫 1953 藤村富美男 1954 杉山悟, 渡辺博之 1955 川上哲治 1956 宮本敏雄 1957 宮本敏雄 1958 長嶋茂雄 1959 森徹 1960 藤本勝巳 1961 桑田武 1962 王貞治 1963 長嶋茂雄 1964 王貞治 1965 王貞治 1966 王貞治 1967 王貞治 1968 長嶋茂雄 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 王貞治 1972 王貞治 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 王貞治 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 王貞治 1979 山本浩二 1980 山本浩二 1981 山本浩二 1982 掛布雅之 1983 原辰徳 1984 衣笠祥雄 1985 R.バース 1986 R.バース 1987 C.ポンセ 1988 C.ポンセ 1989 落合博満 1990 落合博満 1991 広沢克己 1992 L.シーツ 1993 広沢克己, R.ローズ 1994 大豊泰昭 1995 江藤智 1996 L.ロペス 1997 L.ロペス 1998 松井秀喜 1999 R.ローズ 2000 松井秀喜 2001 R.ペタジーニ 2002 松井秀喜 2003 A.ラミレス 2004 金本知憲 2005 今岡誠 2006 T.ウッズ 2007 A.ラミレス 2008 A.ラミレス 2009 T.ブランコ 2010 A.ラミレス 2011 新井貴浩 2012 阿部慎之助 2013 T.ブランコ 2014 M.ゴメス 2015 畠山和洋 2016 筒香嘉智 2017 J.ロペス 2018 W.バレンティン 2019 N.ソト 2020 岡本和真 2021 岡本和真 2022 村上宗隆 2023 牧秀悟 2024 村上宗隆 表 話 編 歴 1962 張本勲 1963 ブルーム 1964 張本勲 1965 D.スペンサー 1966 榎本喜八 1967 張本勲 1968 張本勲 1969 張本勲 1970 張本勲 1971 江藤慎一 1972 張本勲 1973 張本勲 1974 張本勲 1975 小川亨 1976 加藤秀司 1977 加藤秀司 1978 佐々木恭介 1979 加藤英司 1980 栗橋茂 1981 門田博光 1982 落合博満 1983 スティーブ 1984 スティーブ 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 門田博光 1988 門田博光 1989 松永浩美 1990 清原和博 1991 白井一幸 1992 清原和博 1993 辻発彦 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 鈴木健 1998 片岡篤史 1999 イチロー 2000 イチロー 2001 中村紀洋 2002 A.カブレラ 2003 小笠原道大 2004 松中信彦 2005 松中信彦 2006 松中信彦 2007 T.ローズ 2008 中島裕之 2009 中島裕之 2010 A.カブレラ 2011 糸井嘉男 2012 糸井嘉男 2013 E.ヘルマン 2014 糸井嘉男 2015 柳田悠岐 2016 柳田悠岐 2017 柳田悠岐 2018 柳田悠岐 2019 近藤健介 2020 近藤健介 2021 吉田正尚 2022 吉田正尚 2023 近藤健介 2024 近藤健介 表 話 編 歴 1967 王貞治 1968 王貞治 1969 王貞治 1970 王貞治 1971 王貞治 1972 王貞治 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 王貞治 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 王貞治 1979 山本浩二 1980 山本浩二 1981 掛布雅之 1982 田尾安志, 掛布雅之 1983 山本浩二 1984 谷沢健一 1985 R.バース 1986 R.バース 1987 落合博満 1988 落合博満 1989 W.クロマティ 1990 落合博満 1991 落合博満 1992 T.オマリー 1993 T.オマリー 1994 T.オマリー 1995 T.オマリー 1996 江藤智 1997 R.ローズ 1998 松井秀喜 1999 R.ペタジーニ 2000 松井秀喜 2001 R.ペタジーニ 2002 松井秀喜 2003 福留孝介 2004 G.ラロッカ 2005 福留孝介 2006 福留孝介 2007 青木宣親 2008 内川聖一 2009 青木宣親 2010 和田一浩 2011 鳥谷敬 2012 阿部慎之助 2013 W.バレンティン 2014 W.バレンティン 2015 山田哲人 2016 坂本勇人 2017 田中広輔 2018 丸佳浩 2019 鈴木誠也 2020 村上宗隆 2021 鈴木誠也 2022 村上宗隆 2023 大山悠輔 2024 D.サンタナ 表 話 編 歴 1981 T.ソレイタ 1982 落合博満 1983 スティーブ 1984 ブーマー 1985 秋山幸二, 落合博満, R.デービス, 古屋英夫 1986 P.パットナム 1987 秋山幸二 1988 清原和博 表 話 編 歴 1981 佐野仙好 1982 原辰徳 1983 原辰徳 1984 W.クロマティ 1985 R.バース 1986 W.クロマティ 1987 小早川毅彦 1988 落合博満 1989 落合博満 1990 広沢克己 1991 J.パチョレック 1992 広沢克己, J.パチョレック 1993 落合博満 1994 R.ローズ 1995 T.オマリー 1996 T.オマリー 1997 鈴木尚典 1998 山崎武司 1999 R.ペタジーニ 2000 鈴木尚典, 江藤智 1981年から1988年まではNPB打撃タイトル1989年から2000年まではセ・リーグ特別賞2000年限りで廃止 表 話 編 歴 投 村田兆治 捕 梨田昌崇 一 柏原純一 二 落合博満 三 有藤道世 遊 石毛宏典 外 福本豊 / 島田誠 / テリー.W 指 門田博光 表 話 編 歴 投 工藤幹夫 捕 中沢伸二 一 柏原純一 二 落合博満 三 スティーブ.O 遊 石毛宏典 外 福本豊 / 新井宏昌 / 栗橋茂 指 T.ソレイタ 表 話 編 歴 投 東尾修 捕 香川伸行 一 落合博満 二 大石大二郎 三 スティーブ.O 遊 石毛宏典 外 島田誠 / テリー.W / 簑田浩二 指 門田博光 表 話 編 歴 投 今井雄太郎 捕 藤田浩雅 一 ブーマー.W 二 大石大二郎 三 落合博満 遊 弓岡敬二郎 外 簑田浩二 / 高沢秀昭 / T.クルーズ 指 L.リー 表 話 編 歴 投 東尾修 捕 伊東勤 一 R.デービス 二 西村徳文 三 落合博満 遊 石毛宏典 外 金森永時 / 熊野輝光 / 横田真之 指 L.リー 表 話 編 歴 投 渡辺久信 捕 伊東勤 一 ブーマー.W 二 辻発彦 三 落合博満 遊 石毛宏典 外 横田真之 / 秋山幸二 / 新井宏昌 指 石嶺和彦 表 話 編 歴 投 小野和幸 捕 達川光男 一 落合博満 二 正田耕三 三 原辰徳 遊 池山隆寛 外 広沢克己 / C.ポンセ / J.パチョレック 表 話 編 歴 投 斎藤雅樹 捕 中尾孝義 一 L.パリッシュ 二 正田耕三 三 落合博満 遊 池山隆寛 外 W.クロマティ / 彦野利勝 / 山崎賢一 表 話 編 歴 投 斎藤雅樹 捕 村田真一 一 落合博満 二 高木豊 三 バンスロー 遊 池山隆寛 外 J・パチョレック / 広沢克己 / 原辰徳 表 話 編 歴 投 佐々岡真司 捕 古田敦也 一 落合博満 二 高木豊 三 山崎隆造 遊 野村謙二郎 外 R.J.レイノルズ / 広沢克己 / 原辰徳 表 話 編 歴 76 山田久志 77 山田久志 78 鈴木啓示 79 C.マニエル 80 木田勇 81 江夏豊 82 落合博満 83 東尾修 84 ブーマー 85 落合博満 86 落合博満 87 工藤公康 88 門田博光 89 阿波野秀幸 90 野茂英雄 91 秋山幸二 92 石井丈裕 93 辻発彦 94 イチロー 95 イチロー 96 イチロー 97 松井稼頭央 98 イチロー 99 松坂大輔 00 中村紀洋 01 T.ローズ 02 松井稼頭央 03 城島健司 04 松中信彦 05 渡辺俊介 06 ダルビッシュ有 07 山﨑武司 08 岩隈久志 09 鉄平 10 T-岡田 11 内川聖一 12 吉川光夫 13 田中将大 14 大谷翔平 15 柳田悠岐 16 大谷翔平 17 D.サファテ 18 山川穂高 19 森友哉 20-21 中止 表 話 編 歴 1位:福間納 2位:菊地恭一(入団拒否) 3位:落合博満 4位:武藤信二(入団拒否) VIAF 日本 CiNii Books CiNii Research MusicBrainz 野球選手の画像提供依頼 落合博満 日本の野球選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 首位打者 (NPB) 本塁打王 (NPB) 打点王 (NPB) 最優秀選手 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 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