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東尾修の情報 (ひがしおおさむ)
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【12月4日】今日誕生日の芸能人・有名人

東尾修の情報(ひがしおおさむ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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東尾 修さんについて調べます

■名前・氏名
東尾 修
(読み:ひがしお おさむ)
■職業
野球選手
■東尾修の誕生日・生年月日
1950年5月18日 (年齢74歳)
寅年(とら年)、牡牛座(おうし座)
■出身地・都道府県
和歌山出身

(昭和25年)1950年生まれの人の年齢早見表

東尾修と同じ1950年生まれの有名人・芸能人

東尾修と同じ5月18日生まれの有名人・芸能人

東尾修と同じ出身地和歌山県生まれの有名人・芸能人


東尾修と関係のある人

渡辺久信: 1988年、1990年も最多勝を獲得するなど、東尾修・工藤公康・郭泰源・松沼博久らとともに西武黄金時代の柱としてチームを支えた。


小宮山悟: 同シーズン、小宮山は8勝15敗と前年同様負け数が二桁に達してしまい、パ・リーグでは1972年から1973年東尾修以来となる2年連続リーグ最多敗戦投手となった(この年以降パ・リーグでは連続最多敗戦投手は2017年現在現れていない)。


渡辺智男: なお、背番号は同年で引退した東尾修の21を受け継いでいる。


デニス=サファテ: リリーフ登板のみとしては1982年の東尾修以来35年ぶり、外国籍投手としては1964年のジョー・スタンカ以来53年ぶりとなる日本シリーズMVPを受賞した。


豊田清: 1995年は監督に東尾修が就任。


ロベルト=マルカーノ: 1000本安打:1982年7月2日、対西武ライオンズ後期1回戦(西武ライオンズ球場)、5回表に東尾修から左中間二塁打 ※史上123人目


梶本隆夫: 1966年にはシーズン15連敗という不名誉な記録をマークした結果、200勝以上を記録した投手としては史上初の先に200敗を記録した投手となった(後に東尾修も記録)。


辻発彦: 近鉄バファローズとの最終戦前日に東尾修監督と浦田直治本部長から監督室に呼ばれ、本人の意思を全く確認せずに二軍守備走塁コーチ就任を打診された経緯もあり、現役続行を希望して自由契約となった。


ジム=ラフィーバー: 5月30日の太平洋戦(川崎)で東尾修・安木祥二からパ・リーグ初の1試合左右両打席本塁打を達成。


山下律夫: 春先からまだ本調子でない時に東尾修の代わりにエース格で使われ、ここで滅多打ちされた。


村田勝喜: 監督が東尾修に交代した後は、ダイエー時代のようにのびのびやらせたが、それでも調子が戻らなかった。


楠城徹: ^ 我が道、野球人 東尾修のスポニチ連載コラム


松坂大輔: 続いてプロ入り時の監督・東尾修が登場し、花束を受け取った。


楠城徹: 当初は二軍であったが、疲労性の肘痛で二軍落ちしていたエース東尾修と出会う。


奈良原浩: トレードにより出場機会が増えるため奈良原にとってメリットもあるだろう、という判断もあったと東尾修は語っており、奈良原も西武を恨む気持ちはなかったという。


大石友好: この開幕戦では、開幕投手の東尾修が好投するも打撃の援護がないまま延長10回裏に1-2のサヨナラ負けを喫したが、大石が試合終了までマスクをかぶり続けた。


岡部明一: 初打席:同上、8回裏に東尾修から四球


広岡達朗: 特に西武時代の教え子からは、田淵幸一・東尾修・石毛宏典・伊東勤・渡辺久信・秋山幸二・工藤公康・大久保博元・田辺徳雄・辻発彦の10人の一軍監督を輩出、うち6人が優勝監督となっている。


江藤慎一: 個性重視は個人成績に表れ、東尾修が最多勝、移籍組の土井が本塁打王、白が首位打者を獲得。


西清孝: 東尾修の「トンビ」、北別府学(広島で同僚だった)の「ペイ」「ペー」と同じく、姓に方角の漢字が入っていることから麻雀の風牌が由来となっている。


松井稼頭央: 試合後には西武時代の監督である東尾修より、日本プロ野球名球会のブレザーを授与された。


ナルシソ=エルビラ: 試合前、西武の東尾修監督は、それまで2度の対戦で4回6失点で防御率13.50とエルビラをカモにしていた余裕から、森進一の曲とかけて「冬のリビエラならぬ夏のエルビラだよ」と報道陣の前でエルビラをからかう発言をしていた。


山下和彦: 初本塁打:1986年4月23日、対西武ライオンズ1回戦(藤井寺球場)、6回裏に東尾修から左越2ラン


河村英文: 西鉄にコーチとして復帰した1972年、当時人材不足のためほぼ毎試合登板していた東尾修と同年入団の加藤初、後に近鉄へ移籍する柳田豊を指導。


松坂大輔: ちなみにこのシーズンの松坂は「強打者との勝負」を楽しんでおり、チームが勝つための投球は考えず、監督だった東尾修からも指摘されることが多かったという。


早川和夫: 初本塁打:1987年6月5日、対西武ライオンズ10回戦(後楽園球場)、1回裏に東尾修から


米山哲夫: 初出場:1971年5月20日、対近鉄バファローズ4回戦(平和台野球場)、5回裏に東尾修の代打で出場


福永栄助: 選手寮では東尾修と同室だった。


大島康徳: 第5戦では杉本正から5回に先制本塁打、最終第6戦では東尾修に三振を喫し最後の打者になっている。


竹下潤: 1995年シーズンには東尾修が監督に就任すると先発・中継ぎ・抑えと色々な場面で起用され、29試合に登板。


東尾修の情報まとめ

もしもしロボ

東尾 修(ひがしお おさむ)さんの誕生日は1950年5月18日です。和歌山出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

結婚、事件、引退、テレビ、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。東尾修の現在の年齢は74歳のようです。

東尾修のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

東尾 修(ひがしお おさむ、1950年5月18日 - )は、和歌山県有田郡吉備町(現:有田川町)出身の元プロ野球選手(投手)、監督、野球解説者。タレント。日本プロ野球名球会理事を務める。

1968年に西鉄ライオンズに入団し、以降は太平洋・クラウン・西武と球団名が変わってもライオンズ一筋でプレーした。

1995年から2001年までは西武ライオンズの監督を務めた。通算165与死球はNPB記録。

長女はプロゴルファーの東尾理子。理子と結婚したタレント・俳優の石田純一は娘婿にあたり、従姉に歌手の青山和子がいる。

京都の平安高校に合格し、すでに下宿先の手配など京都での生活準備が進んでいたが、その評判を聞いた和歌山県立箕島高等学校野球部監督の尾藤公が直々に口説き、一転して同校に入学した。箕島高ではエースで4番として活躍し、1967年の秋季近畿大会では1回戦で東山高、準々決勝で甲賀高をそれぞれノーヒットノーランで抑え、注目を集める。決勝では因縁のある平安高の池田信夫と投げ合うが敗退し、準優勝にとどまったが、1968年春の選抜への出場を決めた。箕島高は甲子園初出場であった。

甲子園では準決勝まで進み、この大会に優勝した大宮工と対戦した。試合は1、2回に3点を先制するが、その後は相手エース吉沢敏雄に抑えられ、8回に逆転されて3-5で敗退。同年夏の甲子園県予選では2回戦で星林高に敗れた。尾藤は後に甲子園で4回優勝(春3回、夏1回)という実績を残したが、「この年(1968年)のチームが最強であり、優勝できなかったのは自分自身の経験不足のため」と語っている。

1968年のドラフト会議で西鉄ライオンズから1位指名を受けた。ドラフト前には他の球団から何らかの接触があり、中には1位指名をほのめかした球団もあったというが、西鉄からの指名は事前に何の接触も無い唐突なものだったため、東尾の両親は「東京や大阪のチームならともかく、離れ小島みたいな(当時の本拠地の)九州のチームに息子を入れるわけにはいかない」として西鉄への入団に猛反対し、指名を拒否して大学へ進学することを勧めた。東尾自身も西鉄の一方的な指名に腹を立て、一時は法政大学への進学がほぼ決まり、以前にも慶應義塾大学のセレクションを受けていたことがあり、この時は打者として受け、もし慶應に入学していたら野手に転向していたと話している。しかし、「西鉄もプロのチーム。そのプロが1位指名してくれた」と思い直し、両親を説得して西鉄に入団した。東尾は後に、「1位指名だったからこそ入団した。西鉄は1位指名によって僕のプライドを守ってくれた。1位指名でなければ西鉄に入団しなかった」と語っているが、自身の著書『ケンカ投法』では「2位でも入っていたし、3位でも入っていたかもしれない」と語っている。契約金1000万円、年俸180万円。

プロ入り当初は周囲のレベルの高さについていけず、1年目の夏には「このままではいつまでたってもプロでは通用しない」と考えるほどだったという。二軍でも打ち込まれて自信を無くし、首脳陣に野手転向を申し出たこともある。だが、1969年に「黒い霧事件」が発生し、エースの池永正明ら主力投手が軒並み永久追放されて投手不足に陥ったことから、一軍の投手として起用されることになり、投手コーチだった河村英文にシュートを習い、加藤初と共に連日350球から400球という投げ込みを課せられた。東尾は黒い霧事件により自分にチャンスが巡って来ると感じ、内心喜んだと言い、後に「自分の野球人生における最大のチャンス到来、ターニングポイントだった」と語っている。

黒い霧事件の余波を受けての戦力低下、観客動員数の激減などで西鉄は1972年オフに球団を手放し、福岡野球が運営する太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズとチーム名が変わるなど不安定な経営状態となったが、東尾はこの低迷時代をエースとして支えた。1975年には23勝15敗で最多勝(開幕時点で高卒7年目24歳の阪急ブレーブスの即戦力新人山口高志と並ぶ4完封)となり、1977年オフには巨人から東尾の獲得申し出があったが、球団は「東尾の放出は球団の死を意味し、それは我々が経営の当事者である限りありえない」との声明を発表した。

球団は1978年オフに親会社が福岡野球から国土計画に代わり、1979年から西武ライオンズとして埼玉県所沢市に移転した。前年から引き続き指揮を執った根本陸夫監督は、編成の要職も兼任し、トレードなどにより選手を大幅に入れ替え、西鉄時代からの生き残りは東尾と大田卓司の2人だけになった。東尾と大田は、共に西鉄が西武になるまでの全てのライオンズ球団に所属した選手である。

1982年、球団管理部長専任となった根本の後任監督に広岡達朗が就任した。広岡はチームプレーを重視した守りの野球を展開し、東尾の一塁ベースカバーが遅れたと感じた広岡は、東尾を先発ローテーションから外す姿勢を打ち出した。翌1983年には東尾の投球に関して、広岡が試合後に「八百長をやっているのではないか」とコメントしたことがスポーツ紙に報じられたことから、東尾が激怒したこともあった。

広岡率いる西武は、1982年、1983年と2年連続リーグ優勝・日本一を達成し、1985年にもリーグ優勝した。東尾はこれら3度の日本シリーズでは全てリリーフに回り、1982年には日本シリーズMVPに輝き、胴上げ投手にもなっている(中日戦、大島康徳から三振)。投手が救援登板のみでMVPを獲得したのは日本シリーズ史上初で、2017年の日本シリーズでデニス・サファテ(ソフトバンク)がMVPを獲得するまでは唯一の記録だった。1983年には2度目の最多勝、最優秀防御率、ベストナイン、パ・リーグMVPなど数々のタイトルを獲得している。

1984年には通算200勝を達成した。1985年はタイトルこそ獲得出来なかったが17勝3敗の好成績で、21勝を挙げた佐藤義則(阪急)を差し置いてベストナインに選ばれた。

1986年、6月13日の近鉄戦(西武球場)で、6回一死にリチャード・デービスに投じたインコースのシュートが、踏み込んだ近鉄のデービスの左肘に当たり、これに激高したデービスがマウンドの東尾に駆け寄り右ストレートを放ち、その後蹴りや4、5発のパンチを浴びせるなどの乱闘事件となった。デービスはこの時「コントロールのいい投手が、ああいうところに投げるのは故意としか考えられない。狙って当てたんだ」と怒鳴り散らしている。デービスは退場となり、東尾は「ここで降りたら恰好悪い」として続投し完投勝利している。なお、デービスはこれにより10日間の出場停止、罰金10万円の処分を受けている。日本ハムの監督だった高田繁は「今回だけは東尾に同情しない、今までやりたい放題だった」と述べている。一方で、阪急監督の上田利治も「ウチだってやられたらいくで」とコメントしたが、これに東尾は「頭に来た」としており、「当時の阪急は乱数表を使って死球のサインがあったし、そんなチームの監督が何を言うか」と後に述べている。直後の阪急戦では内角を攻めることを一切せず外角一本で完投勝利を収めている。

1986年の日本シリーズ(広島との対戦)では、史上初めて8戦目までもつれた。東尾は第1戦に先発し、9回裏一死まで0点に抑えながら小早川毅彦、山本浩二に連続本塁打を打たれて同点とされ引き分けたが、西武は3連敗し広島に王手をかけられ、東尾は続く5戦目でも9回を投げ、自責点0のまま降板した。後を受けた工藤公康がサヨナラヒットを打って西武はやっと1勝目を挙げ、東尾に勝ち星は付かなかったものの、この1勝がきっかけでシリーズ逆転劇へと繋がった。8戦目は東尾が先発登板するが、投手の金石昭人に2点本塁打を打たれて3回で降板。試合後、東尾は「もう握力がなくなっていた」と語っている。西武はこの後逆転し日本一となるが、当時36歳の東尾はこのシリーズで0勝ながら3試合、21イニングを投げている。

12月29日に球団と契約更改交渉を行い、前年より900万円アップの年俸1億円でサインした。ロッテから中日へトレードで移籍した落合博満が年俸1億3000万円でサインしており、落合に次いで日本人選手として2番目、投手として初の1億円プレーヤーとなった。

1987年は工藤と最終登板まで繰り広げられた熾烈な最優秀防御率争いもあり、15勝9敗、防御率2.59(リーグニ位)の成績を挙げ、チームの2年連続日本一に貢献し、1983年以来自身2度目のパ・リーグMVPに選出される。12月12日、球団との契約更改交渉に臨んだが、球団が提示した年俸1億1000万円を保留。更改後に会見し、「あれだけやってこれだけかとショックですよ」と不満を見せたが、一方で「大きな数字なので、単に僕の年俸というより、球界、チーム全体に影響がある。僕自身妥当な妥当な金額がよくわからない。一度周囲の反響を聞いてみたい」とも述べた。

ところが14日、この年のシーズン中に麻雀賭博に加わった件で、警察から事情聴取を受けていたことが明らかになる。東尾は午後、球団事務所にて記者会見し、「私の未熟さ、軽率さが引き起こしたこと。OB、チームメイトの事を思うと言葉がありません」「事の重大さに深く反省している。いろんな方に大変迷惑をかけた。球団には包み隠さずお話しした。どんな処分も甘んじて受ける」と謝罪した。15日、西武球団の坂井保之代表が東尾を事情聴取した大崎警察署、東京地検を訪問し説明を受け、東尾がこの件で直接暴力団との関わりがなかったとの認識を示した。21日、球団は東尾に対し6か月の謹慎処分、減俸2500万円の処分を課したと発表。オープン戦、公式戦の出場は禁じるが、合同自主トレ、キャンプの参加は認めた。

1988年6月に謹慎から復帰し、近鉄戦で完封勝ちを収めるなど、健在ぶりをアピールするも、ローテーションから主軸から外されてしまった。同年は6勝を挙げ通算251勝を達成した。中日との日本シリーズ第1戦(ナゴヤ球場)で、4−1で迎えた8回無死一・二塁、中日の打者・彦野利勝の場面で先発の渡辺久信をリリーフした。東尾は当然、最後まで投げ切るつもりでマウンドに上がった。しかし、森祇晶監督の言葉は「この1人を抑えてくれ」だった。次打者には左打者の立浪和義がおり、ブルペンでも左投手が準備していた。森からすれば、単純に勝つための最善手として、1人を確実に抑えてほしいとの思いから出た言葉だったが、東尾の受け止め方は違い、彦野を初球、内角シュートで三ゴロ併殺、二死三塁となって、立浪は3球三振に仕留め、わずか4球でピンチを切り抜けた。9回も投げ切ったが、森の言葉は東尾の心に強く残り、その日の夜、知人に引退の意思を口にした。9回表には上原晃から犠牲フライを打ち打点を挙げている。第5戦も登板し、3年連続日本一に貢献。

同年オフの11月1日、チーム名が南海ホークスから変わったばかりの福岡ダイエーホークスとの間で山内孝徳との交換トレードが内定との一報が出る(これが実現すれば、在籍チームがクラウンライターライオンズだった1978年以来10年ぶりの「福岡Uターン」とも報じられた)。しかし当時の堤義明オーナーが「MVPも獲った功労者、東尾以上の要員でなければトレードはあり得ない、金銭トレードも認めない」と発言(これが事実上の引退勧告とも報じられる)。そして当時のダイエー・中内㓛オーナーも東尾獲りに自ら出馬、更には大洋が獲得を表明し、巨人も獲得に前向きと騒ぎになる中で、東尾自身は「西武で燃え尽きたい」といったことを発言、最後には自ら引退の結論を出して11月22日に会見を開き、同年限りで引退した。

引退後はテレビ朝日、文化放送、日刊スポーツの野球解説者・野球評論家を務めた。

1994年日本シリーズ終了後森が退団、石毛宏典が引退勧告からの監督就任要請を固辞し、FAでダイエーに移籍した為、東尾は球団からの要請を受け1995年に西武の監督に就任した。内野守備走塁コーチを務めていた伊原春樹との話し合いでは「森さんの時と同じように、ゴチャゴチャしたところは伊原さんがやってください。」と言われ、走塁、守備における作戦は伊原に任せることにした。バッテリーコーチに大石友好、二軍投手コーチに加藤初を招聘した。大石は中日の1軍バッテリーコーチに決まっていた11月の秋季キャンプも参加していたが、東尾は大石に「中日をやめて、西武に帰って来い』って。」と言い、大石が『もう来年が決まっているからいけないです』と言ったら、『まだ契約はしていないんだろ』ってね」と言われ、12月に球団同士の話し合いで西武のコーチに就任した。また、ドラフトでは西口文也、高木浩之、小関竜也などを獲得し、メジャーリーグに復帰していたオレステス・デストラーデを西武に復帰させ、現役メジャーリーガーのダリン・ジャクソンを獲得するなどの補強を行った監督スタートだったが、優勝のオリックスに15連敗を含む5勝21敗と大きく負け越し、1年目は3位に終わった。

翌1996年には清原和博復活の為、清原の恩師である土井正博を一軍打撃コーチに復帰させ、広島から河田雄祐、中日から清水雅治と前原博之をトレードで獲得し、ドラフトでも髙木大成・大友進・原井和也を獲得して戦力を整えて2年ぶりの優勝を目指したが、この年も3位に終わった。

同年シーズンは、レギュラー捕手の伊東勤は92試合の出場にとどまり、「東尾修さんが監督になった95年のドラフトで西武は1位で髙木大成を指名した。私が劣っているところは何もないと思っていたが、96年のシーズンに入るとよく先発から外された。コーチからは何の説明もない。こちらから聞くといつもお前を推してるんだけどと言われた。また怒りに火が付いた」と当時を振り返っている。

1997年、一軍ヘッドコーチに元大洋監督の須藤豊を招聘し、巨人にFA移籍した清原の後釜としてドミンゴ・マルティネスを、ドラフトで森慎二、和田一浩、玉野宏昌などを獲得した。清原の後任として4番に起用した鈴木健を主軸に、松井稼頭央や大友・髙木大成をはじめとする新鋭が台頭し、また潮崎哲也、杉山賢人、佐々木誠らベテラン、移籍加入したデニー友利などの活躍や、伊東も前年の屈辱をバネに奮起した結果、3年ぶりにリーグ制覇を成し遂げた。日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗れた。

7月10日の近鉄戦、9回表無死一・二塁の西武攻撃の場面で、奈良原浩が牽制でタッチアウトになり、そのジャッジに怒った奈良原は丹波幸一塁審に対して胸を突いたため退場となった。東尾が抗議し、丹波塁審が抗議を受けなかったことから、東尾が丹波の胸を突き退場を宣告されたことで、丹波を蹴るなどの暴力行為を行い、パ・リーグ関係者が仲裁に入る騒動になった。翌日に3試合の出場停止、罰金10万円の処分を受けた。丹波塁審は左下腿挫傷と診断され、出場停止期間中の監督代行は、須藤一軍ヘッドコーチが務めた。

1998年は日本ハムからトレードで西崎幸広を、またオリックスからFAで中嶋聡を獲得するなど戦力を補強し、前年の1997年まで森繁和1名体制だった一軍投手コーチを森・杉本正の2名体制にしたが、6月15日の時点でチーム防御率4.26と低迷し、同日二軍投手コーチの加藤初が一軍投手コーチに昇格し、森を二軍投手コーチに降格させた。この年大混戦となったパ・リーグの中で、リーグ2連覇を果たした。日本シリーズでは下馬評は西武が有利と予想されたが、横浜に2勝4敗で敗れ2年連続日本シリーズ敗退となった。

同年オフ、守備・走塁面に大きな難があったものの、2年連続で30本塁打を記録するなどチームの主砲として活躍していたマルティネスを「日本シリーズで勝つチームを目指すため」として解雇した。これは1997年と1998年の日本シリーズにおいて、DH制のないセ・リーグ本拠地では、守備に難があったマルティネスを起用できないことが影響して、いずれも日本一を逃していたためである。しかし、翌1999年に入団したアーキー・シアンフロッコ、グレッグ・ブロッサーらは全く打てず、結果的にリーグ優勝を逃した。また、4番として起用していた鈴木健も、後続の打者が打てないこともあってマルティネス退団以降は成績が下降し、2000年以降は4番を外れるケースが増えた。

1999年は、黄金ルーキーとして入団した松坂大輔の活躍でダイエーと優勝争いを繰り広げ、9月中一度は0.5ゲーム差まで迫るも、追い越すまでには至らず、マルティネス退団により低下した攻撃力もあって結局2位に終わり、リーグ3連覇は成らなかった。翌2000年もダイエーとの優勝争いに敗れて2位に終わり、2001年も近鉄、ダイエーとの優勝争いに敗れ、同年限りで監督を勇退した。

西武ライオンズ監督勇退後はテレビ朝日(2010年まで)、文化放送、スポーツニッポンの野球解説者に復帰。また、2006年9月から2009年8月までバスケットボールプロリーグ・bjリーグの東京アパッチで球団社長を務めた。

2010年、野球殿堂入りした。

2012年10月10日に野球日本代表の投手総合コーチに就任したことが発表された。11月13日に背番号が「78」となったことが発表された。

2016年からは文化放送と並行して、福岡放送の解説者を務める。

2019年、女子硬式野球クラブチーム「和歌山Regina」の名誉顧問に就任した。

ロッテの木樽正明、成田文男らの投球フォームを参考に切れ味鋭いシュートやスライダーを軸にした内外角の横の揺さぶりと、打者の内角を突く強気の投球スタイルを確立した。与死球数が多く、通算165個という日本記録を持っている(右打者に132個当てており、これは82%の割合である)。死球を与えても全く動じないふてぶてしい性格から「ケンカ投法」の異名も取った。

東尾はこの攻撃的なスタイルについて、得意とするスライダーとシュートを最大限に活かすため、試行錯誤の末に編み出したとし、「僕だって本当はストレートで、格好良く真っ向勝負をしたかった。しかしプロで生き残るためには、ああいうスタイルでなければいけなかった」と語っている。西鉄のエースだった池永正明を目標としており、師匠だとも話している。東尾は右打者にはぶつけるが左打者にはぶつけないというプライドがあったため、栗橋茂にぶつけた際には謝ったという。

全力で投じるストレートがプロでは二軍ですら通用しないことに愕然とし、「このままでは来年にはクビになると思い、秋のキャンプで変化球主体のスタイルの習得に取り組んだ」という。「高校時代は速球投手なんて呼ばれていたが、全盛期でも142、3キロくらいしか出ていない。通用しないことに早いうちに気付くことが出来て幸運だった」とも述懐している。

与死球が非常に多いことで知られたが、現役時代から本人は一貫して「故意に当てたことは1回も無い」と述べている。ただし「例外的なケース」と前置きを置いて、チームプレーの上での報復死球は与えたことがあると認めたことがある。チームメイトだった山本隆造がルーキーだった1978年のある試合で、山本が2本ヒットを打った後に死球を受けた時に「俺が仕返ししてやる」と思ってやったということをその例として挙げているが、当てる時は次の打者がデータ的に打力が無いとした時のみであると話している。

他方で先述の選手時代の「味方がボールをぶつけられたら、こっちもやり返す」と述べていたことからもわかるように他のチームからの死球には厳しく、自身が監督時には、内藤尚行が清原和博に死球を与えた翌日には、報復死球であったとしてロッテの尾花コーチを呼んで「いいかげんにしろ、承知せんぞ」と詰め寄り、内藤からの謝罪を無視した。

福本豊とは相性が悪く、特に球速の遅い変化球から多くの盗塁を許していた。当の福本に東尾の癖を直接教えてもらい一時は克服したが、またすぐに別の癖を福本に見抜かれた。福本は東尾の癖を「本塁へ早く投げたい気持ちが左肩に出ていた」と表現していた。

西鉄時代はチーム事情により、実力の伴わない若手時代から主戦投手としてシーズンを通して登板したため負けが多く、1年目である1969年から4年連続で負け越しており、実働20年の現役生活のうち9シーズンで負け越し、半分以上の14シーズンで2桁敗戦を喫した。リーグ最多敗戦投手となったシーズンが5回ある(最も多く負けたのは1972年の25敗。)。また、通算200勝より先に通算200敗を達成しており(梶本隆夫に次いで史上2人目。)、200勝を達成した1984年のシーズン終了時点で通算201勝215敗と大きく負け越していた(ちなみに150勝した時点では170敗しており負け越し20)。しかし、翌1985年に17勝3敗という好成績で14の負け越しを一気に帳消し、その後の3シーズンを33勝29敗と勝ち越しで終えた結果、引退時には通算251勝247敗と無事勝ち越しを記録することとなり、現在200勝投手で通算成績が負け越しているのは梶本のみである。

東尾は2018年現在、シーズン300イニング登板・20敗戦を記録した最後の投手でもある。

西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブライオンズ)に、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に、1979年に西武(西武ライオンズ)に球団名を変更

1995年から1996年までは130試合制

1997年から2000年までは135試合制

2001年から2003年までは140試合制

通算成績は1997年の出場停止の3試合を含めない

最多勝利:2回(1975年、1983年)

最優秀防御率:1回(1983年)

最多奪三振:1回(1975年) ※当時連盟表彰なし、パシフィック・リーグでは1989年より表彰

最優秀選手:2回(1983年、1987年)

ベストナイン:2回(1983年、1985年)

ゴールデングラブ賞:5回(1983年 - 1987年)※5年連続受賞は投手パ・リーグ最長記録

野球殿堂競技者表彰(2010年)

日本シリーズMVP:1回(1982年)

月間MVP:2回(1980年8月、1982年4月)

報知プロスポーツ大賞:1回(1983年)

ベスト・ファーザー賞 in 関西「ベスト・ファーザー オブ ザ ブライド」(2010年)

イクメン オブ ザ イヤー2014 イクジイスポーツ部門(2014年)

初登板:1969年4月13日、対近鉄バファローズ3回戦(平和台球場)、8回表に3番手で救援登板、1回1失点

初先発登板:1969年8月15日、対南海ホークス15回戦(平和台球場)、6回0/3を2失点

初奪三振:同上、3回表に西岡三四郎から

初勝利・初先発勝利:1970年5月16日、対東映フライヤーズ8回戦(平和台球場)、7回1/3を2失点

初完投勝利:1970年5月24日、対阪急ブレーブス8回戦(小倉球場)、9回1失点(自責点0)

初完封勝利:1972年4月22日、対阪急ブレーブス2回戦(阪急西宮球場)

初セーブ:1975年5月10日、対近鉄バファローズ前期5回戦(平和台球場)、8回表に2番手で救援登板・完了、2回無失点

初本塁打:1971年10月2日、対阪急ブレーブス22回戦(阪急西宮球場)、戸田善紀から

100勝:1977年7月20日、対阪急ブレーブス後期2回戦(阪急西宮球場)、6回裏一死に3番手で救援登板・完了、3回2/3を無失点 ※史上70人目

1000奪三振:1978年8月24日、対日本ハムファイターズ後期8回戦(後楽園球場)、8回裏に大宮龍男から ※史上55人目

150勝:1980年10月3日 対日本ハムファイターズ後期13回戦(後楽園球場)、9回完封勝利 ※史上33人目

500試合登板:1982年4月24日、対阪急ブレーブス前期5回戦(阪急西宮球場)、先発登板で6回3失点 ※史上46人目

200勝:1984年9月15日、対南海ホークス25回戦(西武ライオンズ球場)、9回完封勝利 ※史上20人目

600試合登板:1985年6月12日、対近鉄バファローズ7回戦(西武ライオンズ球場)、先発登板で7回2失点で勝利投手 ※史上23人目

1500奪三振:1985年8月6日、対近鉄バファローズ13回戦(西武ライオンズ球場)、1回表に羽田耕一から ※史上29人目

250勝:1988年9月4日、対南海ホークス18回戦(西武ライオンズ球場)、9回3失点完投勝利 ※史上10人目

4000投球回:1988年 ※史上8人目、2022年終了時点最後の達成者

通算165与死球 ※NPB記録

シーズン25敗:1972年 ※パ・リーグ記録

オールスターゲーム出場:10回(1972年、1973年、1975年、1976年、1978年、1982年、1984年 - 1987年)

21(1969年 - 1988年)

78(1995年 - 2001年)

スーパーベースボール(テレビ朝日系列、『野球の殿堂・ゴールデンナイター』時の解説者としてのキャッチコピーは「ズバリ解説」)

文化放送ライオンズナイター

文化放送ホームランナイター

J SPORTS STADIUM

東尾修・理子のおうちにおいでよ

プロ野球まるごと中継 熱闘!BS11ナイター(2009年)

白元 ミセスロイド(2010年)娘・理子、石田純一と共演。

ガリバーインターナショナル(2010年)娘・理子と共演。

東尾修監修・プロ野球スタジアム'91 :1991年8月9日発売。徳間書店インターメディアより販売。ゲームボーイ用ソフト。

東尾修監修・プロ野球スタジアム'92 :1992年7月17日発売。徳間書店インターメディアより販売。ゲームボーイ用ソフト。

東尾修監修・スーパープロ野球スタジアム :1993年9月30日発売。徳間書店インターメディアより販売。スーパーファミコン用ソフト。

プロ野球ウラ読み勝負―こんな見方もあるぞ!(1989年8月、全国朝日放送) ISBN 4881311336

私の真実―わが悔いなき野球人生(1989年11月、ベースボール・マガジン社) ISBN 4583028040

ケンカ投法(2010年11月、ベースボール・マガジン社) ISBN 9784583103150

岡邦行『江川になれなかった男たち』(三一書房、1983年)

^ 1975年オフにも同様の申し出があったが反対され、当時チームで球速の速かった加藤初投手を獲得した。ベースボールマガジン社『プロ野球トレード図鑑1936-2001』より

^ オリックス戦以外の成績は62勝36敗6分で、西武との直接対決を除いたオリックスの61勝42敗1分を上回っていた。

^ ちなみに、1998年のマルティネスは1人で30本塁打を打っていたが、1999年の外国人野手4人は合計で25本塁打であった。

^ なお東尾を指導した河村も、現役時代には内角攻めを得意としていた。

^ これは2016年現在のパリーグ記録である。

^ ダイエーは2001年、既に外国人投手枠が埋まっていたのにもかかわらず、西武対策として左投手のクリス・ヘイニーを獲得した。

^ 文化放送「くにまるジャパン」のワンコーナー「おきらく野村係長」には、これに因んだ『ヒガシオ・オサムさん』というキャラクターが存在する(「オヨヨ、オヨヨヨヨ」としか喋っていないが、高橋将市アナにはその意味が通じているというキャラ)。

^ 当時のテレビ朝日は専属解説者にキャッチフレーズを付けることが慣例になっており、ほかにも「ノムさんのクール解説」、「四郎のホット解説」、「若松のジャスト解説」、「大下のワイド解説」「ミスター三冠王・オレ流解説」などがあった。

^ 日本野球機構 |歴代最高記録 与死球 【通算記録】

^ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2003年2月17日、153頁。 

^ 「私の真実―わが悔いなき野球人生」p.29 - 33

^ 『江川になれなかった男たち』p.115-116

^ 野村克也さんについてどう思いますか?と東尾さんに聞いてみたら…… - YouTube

^ 黒い霧事件と東尾修 -元・名物番記者が語るプロ野球ちょっと裏話-

^ 東尾修(野球解説者)<後編>「運命のように切り開かれた大投手への道」

^ 「あの時、君は若かった」ルーキー秘話『Sports Graphic Number』2011年3月24日号、文藝春秋、2011年、雑誌26854・3・24、51頁。

^ 『江川になれなかった男たち』p.116-117

^ “No.19 首脳陣に反発 選手が団結”. 野球人 東尾修のスポニチ連載コラム 我が道. RS INTERNATIONAL. 2013年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月20日閲覧。

^ “No.20 今でも許せない八百長よばわり”. 野球人 東尾修のスポニチ連載コラム 我が道. RS INTERNATIONAL. 2013年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月20日閲覧。

^ “デービス激怒!死球受け東尾に右ストレート 与死球王は意地の完投勝利”. デイリースポーツ online (2017年6月20日). 2022年10月16日閲覧。

^ “【6月13日】1986年(昭61) 気短デービス 東尾修の死球に激高!「狙って当てた!」”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2012年6月13日). オリジナルの2013年6月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130609090241/http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1206/kiji/K20120613003458010.html 

^ “No.23 デービス事件~死球が多い理由”. 野球人 東尾修のスポニチ連載コラム 我が道. RS INTERNATIONAL. 2013年6月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月20日閲覧。

^ 読売新聞1986年12月30日16面「東尾"1億"の春」読売新聞縮刷版1986年12月p1135

^ 読売新聞1987年12月13日17面「東尾、1億1000万保留 『球界のため妥当な金額を』」読売新聞縮刷版1988年12月p579

^ 読売新聞1987年12月14日夕刊15面「東尾投手がとばく 書類送検」読売新聞縮刷版1988年12月p647

^ 読売新聞1987年12月15日17面「東尾、処分待ち謹慎 西武『事実関係確認して』」読売新聞縮刷版1987年12月p665

^ 読売新聞1987年12月15日27面「通ったのは22回 とばくの東尾投手」読売新聞縮刷版1987年12月p675

^ 読売新聞1987年12月15日17面「『どんな処分も受ける』東尾会見」読売新聞縮刷版1987年12月p665

^ 読売新聞1987年12月16日17面「『暴力団と接触なし』東尾 西武、調査の末"判断"」読売新聞縮刷版1987年12月p713

^ 読売新聞1987年12月22日17面「東尾"セーフ!"キャンプ・自主トレOK 西武『マージャンとばく』温情処分 年明けにも山ごもりへ」読売新聞縮刷版1987年12月p957

^ プロ野球最期の言葉、村瀬秀信著、イースト・プレス、2010年、P233

^ 日ハム稲葉引退 東尾修「優勝争いの裏で戦力外選手の見極めを行っている」ときどきビーンボール - 週刊朝日

^ “「わかっていたのに」投げた変化球 高卒1年目で流した涙…35年後も悔やむ痛恨被弾”. Full-Count (2023年9月14日). 2023年10月7日閲覧。

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^ 東尾氏 盟友・加藤初氏を悼む…忘れられない「鉄仮面」雄姿・スポーツニッポン

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^ 【近鉄黄金伝説】第三弾 Part3 栗橋茂×佐野慈紀 頭部死球5回!? 栗橋茂伝説続編!

^ 私の真実―わが悔いなき野球人生「初先発にたどりつくまでの日々」の章(p.44 -47)、「ケンカ投法」p.15 - 18

^ 東尾氏と「デッドボール対談」の清原氏 一番痛かった死球は「ダルビッシュ」

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^ 私の真実―わが悔いなき野球人生「天才・福本豊との“数ミリの勝負”」の章

^ 【一番近くで見た 西武ライオンズ40年】鋼の精神力!東尾修、若手に慕われた「男っぷり」と「飲みっぷり」

^ 東尾修伝説を中尾ミエが暴露 銀座でハシゴ酒「何軒回ったか」から六本木…翌日登板

^ “東尾修【前編】栄光にあっても波風が立ち続ける右腕の宿命/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE (ベースボール・マガジン社). (2018年8月30日). https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180830-11 2021年11月18日閲覧。 

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^ “イクメン オブ ザイヤー 2014”. フロンティアインターナショナル. 2017年9月6日閲覧。

埼玉西武ライオンズの選手一覧

個人年度別成績 東尾修 - NPB.jp 日本野球機構

選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

野球殿堂

60 ヴィクトル・スタルヒン

62 池田豊

63 中島治康

64 若林忠志

65 川上哲治、鶴岡一人

69 苅田久徳

70 天知俊一、二出川延明

72 石本秀一

74 藤本定義、藤村富美男

76 中上英雄

77 水原茂、西沢道夫

78 松木謙治郎、浜崎真二

79 別所毅彦

80 大下弘、小鶴誠

81 飯田徳治、岩本義行

83 三原脩

85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳

88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一

89 島秀之助、野村克也、野口二郎

90 真田重蔵、張本勲

91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎

92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男

93 稲尾和久、村山実

94 王貞治、与那嶺要

95 杉浦忠、石井藤吉郎

96 藤田元司、衣笠祥雄

97 大杉勝男

99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄

00 米田哲也

01 根本陸夫、小山正明

02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎

03 上田利治、関根潤三

04 仰木彬

05 村田兆治、森祇晶

06 門田博光、高木守道、山田久志

07 梶本隆夫

08 山本浩二、堀内恒夫

09 若松勉

10 東尾修

11 落合博満

12 北別府学、津田恒実

13 大野豊

14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩

15 古田敦也

16 斎藤雅樹、工藤公康

17 伊東勤

18 松井秀喜、金本知憲

19 立浪和義

22 髙津臣吾、山本昌

23 アレックス・ラミレス

24 谷繁元信、黒田博樹

09 青田昇

10 江藤慎一

11 皆川睦雄

13 外木場義郎

16 榎本喜八

17 星野仙一、平松政次

18 原辰徳

19 権藤博

20 田淵幸一

23 ランディ・バース

59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿

60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎

62 市岡忠男

64 宮原清

65 井上登、宮武三郎、景浦將

66 守山恒太郎

67 腰本寿

68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三

69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧

70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚

71 小西得郎、水野利八

72 中野武二、太田茂

73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三

74 野田誠三

76 小泉信三

77 森茂雄、西村幸生

78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎

79 平沼亮三、谷口五郎

80 千葉茂

81 佐伯達夫、小川正太郎

82 鈴木龍二、外岡茂十郎

83 内村祐之

84 桐原眞二

85 田中勝雄、山内以九士

86 中河美芳、松方正雄

87 藤田信男、山下実

88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一

89 池田恒雄、伊達正男

90 佐伯勇

91 中澤良夫

92 吉田正男

94 廣岡知男

95 呉昌征、村上實

96 牧野直隆、保坂誠

97 山本英一郎

98 中尾碩志、井口新次郎

99 吉國一郎

00 福島慎太郎

01 武田孟、長谷川良平

02 中澤不二雄、生原昭宏

03 松田耕平

04 秋山登

05 志村正順

06 川島廣守、豊田泰光

07 松永怜一

08 嶋清一

09 大社義規、君島一郎

10 古田昌幸

12 長船騏郎、大本修

13 福嶋一雄

14 相田暢一

15 林和男、村山龍平

16 松本瀧藏、山中正竹

17 郷司裕、鈴木美嶺

18 瀧正男

19 脇村春夫

20 前田祐吉、石井連藏

21 川島勝司、佐山和夫

22 松前重義

23 古関裕而

24 谷村友一

02 フランク・オドール、正岡子規

03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄

宮崎要 1950

三原脩 1951 - 1959

川崎徳次 1960 - 1961

中西太 1962 - 1969

稲尾和久 1970 - 1974

江藤慎一 1975

(レオ・ドローチャー 1976当初)

鬼頭政一 1976 - 1977

根本陸夫 1978 - 1981

広岡達朗 1982 - 1985

森祇晶 1986 - 1994

東尾修 1995 - 2001

伊原春樹 2002 - 2003

伊東勤 2004 - 2007

渡辺久信 2008 - 2013

伊原春樹 2014

田邊徳雄 2015 - 2016

辻発彦 2017 - 2022

松井稼頭央 2023 - 2024

西口文也 2025 - 現在

88 山本浩二

78 東尾修(投手総合)

99 梨田昌孝(野手総合)

92 与田剛(投手)

81 立浪和義(打撃)

63 高代延博(内野守備・走塁)

73 緒方耕一(外野守備・走塁)

75 橋上秀樹(戦略)

11 涌井秀章

14 能見篤史

15 澤村拓一

16 今村猛

17 田中将大

18 杉内俊哉

20 前田健太

21 森福允彦

26 内海哲也

28 大隣憲司

35 牧田和久

47 山口鉄也

50 攝津正

2 相川亮二

10 阿部慎之助

27 炭谷銀仁朗

1 鳥谷敬

3 井端弘和

5 松田宣浩

6 坂本勇人

7 松井稼頭央

41 稲葉篤紀

46 本多雄一

9 糸井嘉男

13 中田翔

24 内川聖一

34 長野久義

61 角中勝也

金田正一

稲尾和久

小山正明

米田哲也

梶本隆夫

皆川睦雄

村山実

鈴木啓示

堀内恒夫

山田久志

江夏豊

平松政次

東尾修

村田兆治

北別府学

佐々木主浩

高津臣吾

工藤公康

野茂英雄

山本昌広

岩瀬仁紀

黒田博樹

上原浩治

藤川球児

平野佳寿

山内一弘

榎本喜八

野村克也

長嶋茂雄

広瀬叔功

張本勲

王貞治

江藤慎一

土井正博

高木守道

松原誠

柴田勲

大杉勝男

藤田平

衣笠祥雄

福本豊

山崎裕之

山本浩二

有藤通世

若松勉

谷沢健一

加藤秀司

門田博光

大島康徳

新井宏昌

秋山幸二

駒田徳広

立浪和義

鈴木一朗(イチロー)

清原和博

古田敦也

野村謙二郎

石井琢朗

松井秀喜

田中幸雄

前田智徳

金本知憲

松井稼頭央

小笠原道大

稲葉篤紀

宮本慎也

小久保裕紀

アレックス・ラミレス

中村紀洋

谷繁元信

井口資仁

和田一浩

新井貴浩

福留孝介

荒木雅博

青木宣親

阿部慎之助

鳥谷敬

内川聖一

福浦和也

坂本勇人

栗山巧

大島洋平

1950 湯浅禎夫

1951 山本一人

1952 山本一人

1953 山本一人

1954 三原脩

1955 山本一人

1956 三原脩

1957 三原脩

1958 三原脩

1959 鶴岡一人

1960 西本幸雄

1961 鶴岡一人

1962 水原茂

1963 中西太

1964 鶴岡一人

1965 鶴岡一人

1966 鶴岡一人

1967 西本幸雄

1968 西本幸雄

1969 西本幸雄

1970 濃人渉

1971 西本幸雄

1972 西本幸雄

1973 野村克也

1974 金田正一

1975 上田利治

1976 上田利治

1977 上田利治

1978 上田利治

1979 西本幸雄

1980 西本幸雄

1981 大沢啓二

1982 広岡達朗

1983 広岡達朗

1984 上田利治

1985 広岡達朗

1986 森祇晶

1987 森祇晶

1988 森祇晶

1989 仰木彬

1990 森祇晶

1991 森祇晶

1992 森祇晶

1993 森祇晶

1994 森祇晶

1995 仰木彬

1996 仰木彬

1997 東尾修

1998 東尾修

1999 王貞治

2000 王貞治

2001 梨田昌孝

2002 伊原春樹

2003 王貞治

2004 伊東勤

2005 ボビー・バレンタイン

2006 トレイ・ヒルマン

2007 トレイ・ヒルマン

2008 渡辺久信

2009 梨田昌孝

2010 秋山幸二

2011 秋山幸二

2012 栗山英樹

2013 星野仙一

2014 秋山幸二

2015 工藤公康

2016 栗山英樹

2017 工藤公康

2018 辻発彦

2019 辻発彦

2020 工藤公康

2021 中嶋聡

2022 中嶋聡

2023 中嶋聡

2024 小久保裕紀

1950 別当薫

1951 南村不可止

1952 別所毅彦

1953 川上哲治

1954 杉下茂

1955 別所毅彦

1956 豊田泰光

1957 大下弘

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 近藤昭仁

1961 宮本敏雄

1962 土橋正幸, 種茂雅之

1963 長嶋茂雄

1964 J.スタンカ

1965 長嶋茂雄

1966 柴田勲

1967 森昌彦

1968 高田繁

1969 長嶋茂雄

1970 長嶋茂雄

1971 末次民夫

1972 堀内恒夫

1973 堀内恒夫

1974 弘田澄男

1975 山口高志

1976 福本豊

1977 山田久志

1978 大杉勝男

1979 高橋慶彦

1980 J.ライトル

1981 西本聖

1982 東尾修

1983 大田卓司

1984 長嶋清幸

1985 R.バース

1986 工藤公康

1987 工藤公康

1988 石毛宏典

1989 駒田徳広

1990 O.デストラーデ

1991 秋山幸二

1992 石井丈裕

1993 川崎憲次郎

1994 槙原寛己

1995 T.オマリー

1996 T.ニール

1997 古田敦也

1998 鈴木尚典

1999 秋山幸二

2000 松井秀喜

2001 古田敦也

2002 二岡智宏

2003 杉内俊哉

2004 石井貴

2005 今江敏晃

2006 稲葉篤紀

2007 中村紀洋

2008 岸孝之

2009 阿部慎之助

2010 今江敏晃

2011 小久保裕紀

2012 内海哲也

2013 美馬学

2014 内川聖一

2015 李大浩

2016 B.レアード

2017 D.サファテ

2018 甲斐拓也

2019 Y.グラシアル

2020 栗原陵矢

2021 中村悠平

2022 杉本裕太郎

2023 近本光司

2024 桑原将志

1950 別当薫

1951 山本一人

1952 柚木進

1953 岡本伊三美

1954 大下弘

1955 飯田徳治

1956 中西太

1957 稲尾和久

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 山内和弘

1961 野村克也

1962 張本勲

1963 野村克也

1964 J.スタンカ

1965 野村克也

1966 野村克也

1967 足立光宏

1968 米田哲也

1969 長池徳二

1970 木樽正明

1971 長池徳二

1972 福本豊

1973 野村克也

1974 金田留広

1975 加藤秀司

1976 山田久志

1977 山田久志

1978 山田久志

1979 C.マニエル

1980 木田勇

1981 江夏豊

1982 落合博満

1983 東尾修

1984 ブーマー

1985 落合博満

1986 石毛宏典

1987 東尾修

1988 門田博光

1989 R.ブライアント

1990 野茂英雄

1991 郭泰源

1992 石井丈裕

1993 工藤公康

1994 イチロー

1995 イチロー

1996 イチロー

1997 西口文也

1998 松井稼頭央

1999 工藤公康

2000 松中信彦

2001 T.ローズ

2002 A.カブレラ

2003 城島健司

2004 松中信彦

2005 杉内俊哉

2006 小笠原道大

2007 ダルビッシュ有

2008 岩隈久志

2009 ダルビッシュ有

2010 和田毅

2011 内川聖一

2012 吉川光夫

2013 田中将大

2014 金子千尋

2015 柳田悠岐

2016 大谷翔平

2017 D.サファテ

2018 山川穂高

2019 森友哉

2020 柳田悠岐

2021 山本由伸

2022 山本由伸

2023 山本由伸

2024 近藤健介

1950 荒巻淳

1951 柚木進

1952 柚木進

1953 川崎徳次

1954 宅和本司

1955 中川隆

1956 稲尾和久

1957 稲尾和久

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 小野正一

1961 稲尾和久

1962 久保田治

1963 久保征弘

1964 妻島芳郎

1965 三浦清弘

1966 稲尾和久

1967 足立光宏

1968 皆川睦男

1969 木樽正明

1970 佐藤道郎

1971 山田久志

1972 清俊彦

1973 米田哲也

1974 佐藤道郎

1975 村田兆治

1976 村田兆治

1977 山田久志

1978 鈴木啓示

1979 山口哲治

1980 木田勇

1981 岡部憲章

1982 高橋里志

1983 東尾修

1984 今井雄太郎

1985 工藤公康

1986 佐藤義則

1987 工藤公康

1988 河野博文

1989 村田兆治

1990 野茂英雄

1991 渡辺智男

1992 赤堀元之

1993 工藤公康

1994 新谷博

1995 伊良部秀輝

1996 伊良部秀輝

1997 小宮山悟

1998 金村暁

1999 工藤公康

2000 戎信行

2001 N.ミンチー

2002 金田政彦

2003 斉藤和巳, 松坂大輔

2004 松坂大輔

2005 杉内俊哉

2006 斉藤和巳

2007 成瀬善久

2008 岩隈久志

2009 ダルビッシュ有

2010 ダルビッシュ有

2011 田中将大

2012 吉川光夫

2013 田中将大

2014 金子千尋

2015 大谷翔平

2016 石川歩

2017 菊池雄星

2018 岸孝之

2019 山本由伸

2020 千賀滉大

2021 山本由伸

2022 山本由伸

2023 山本由伸

2024 L.モイネロ

1950 米川泰夫

1951 阿部八郎

1952 柚木進

1953 米川泰夫

1954 宅和本司

1955 河村久文

1956 梶本隆夫

1957 梶本隆夫

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 杉浦忠

1961 稲尾和久

1962 米田哲也

1963 稲尾和久

1964 尾崎行雄

1965 尾崎行雄

1966 田中勉

1967 鈴木啓示

1968 鈴木啓示

1969 鈴木啓示

1970 鈴木啓示

1971 鈴木啓示

1972 鈴木啓示

1973 成田文男

1974 鈴木啓示

1975 東尾修

1976 村田兆治

1977 村田兆治

1978 鈴木啓示

1979 村田兆治

1980 木田勇

1981 村田兆治

1982 松沼博久

1983 山沖之彦

1984 佐藤義則

1985 佐藤義則

1986 渡辺久信

1987 阿波野秀幸

1988 小川博

1989 阿波野秀幸

1990 野茂英雄

1991 野茂英雄

1992 野茂英雄

1993 野茂英雄

1994 伊良部秀輝

1995 伊良部秀輝

1996 工藤公康

1997 西口文也

1998 西口文也

1999 工藤公康

2000 松坂大輔

2001 松坂大輔

2002 J.パウエル

2003 松坂大輔

2004 新垣渚

2005 松坂大輔

2006 斉藤和巳

2007 ダルビッシュ有

2008 杉内俊哉

2009 杉内俊哉

2010 ダルビッシュ有

2011 ダルビッシュ有

2012 田中将大

2013 金子千尋

2014 則本昂大

2015 則本昂大

2016 則本昂大

2017 則本昂大

2018 則本昂大

2019 千賀滉大

2020 千賀滉大, 山本由伸

2021 山本由伸

2022 山本由伸

2023 山本由伸

2024 今井達也

1950 荒巻淳

1951 江藤正

1952 野口正明

1953 川崎徳次

1954 宅和本司, 田中文雄

1955 宅和本司

1956 三浦方義

1957 稲尾和久

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 小野正一

1961 稲尾和久

1962 久保征弘

1963 稲尾和久

1964 小山正明

1965 尾崎行雄

1966 米田哲也

1967 池永正明

1968 皆川睦男

1969 鈴木啓示

1970 成田文男

1971 木樽正明

1972 山田久志, 金田留広

1973 成田文男

1974 金田留広

1975 東尾修

1976 山田久志

1977 鈴木啓示

1978 鈴木啓示

1979 山田久志

1980 木田勇

1981 今井雄太郎, 村田兆治

1982 工藤幹夫

1983 東尾修, 山内和宏

1984 今井雄太郎

1985 佐藤義則

1986 渡辺久信

1987 山沖之彦

1988 渡辺久信, 西崎幸広, 松浦宏明

1989 阿波野秀幸

1990 渡辺久信, 野茂英雄

1991 野茂英雄

1992 野茂英雄

1993 野田浩司, 野茂英雄

1994 伊良部秀輝

1995 K.グロス

1996 K.グロス

1997 西口文也, 小池秀郎

1998 西口文也, 武田一浩, 黒木知宏

1999 松坂大輔

2000 松坂大輔

2001 松坂大輔

2002 J.パウエル

2003 斉藤和巳

2004 岩隈久志

2005 杉内俊哉

2006 斉藤和巳

2007 涌井秀章

2008 岩隈久志

2009 涌井秀章

2010 和田毅, 金子千尋

2011 D.ホールトン, 田中将大

2012 攝津正

2013 田中将大

2014 金子千尋

2015 大谷翔平, 涌井秀章

2016 和田毅

2017 東浜巨, 菊池雄星

2018 多和田真三郎

2019 有原航平

2020 千賀滉大, 石川柊太, 涌井秀章

2021 山本由伸

2022 山本由伸

2023 山本由伸

2024 有原航平, 伊藤大海

1950 荒巻淳

1951 江藤正

1952 柚木進

1953 川崎徳次

1954 西村貞朗

1955 中村大成

1956 梶本隆夫

1957 稲尾和久

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 小野正一

1961 稲尾和久

1962 稲尾和久

1963 稲尾和久

1964 J.スタンカ

1965 尾崎行雄

1966 田中勉

1967 足立光宏

1968 皆川睦男

1969 鈴木啓示

1970 木樽正明

1971 山田久志

1972 山田久志

1973 成田文男

1974 金田留広

1975 鈴木啓示

1976 山田久志

1977 山田久志

1978 鈴木啓示

1979 山田久志

1980 木田勇

1981 村田兆治

1982 工藤幹夫

1983 東尾修

1984 今井雄太郎

1985 東尾修

1986 渡辺久信

1987 工藤公康

1988 西崎幸広

1989 阿波野秀幸

1990 野茂英雄

1991 郭泰源

1992 石井丈裕

1993 工藤公康

1994 伊良部秀輝

1995 伊良部秀輝

1996 E.ヒルマン

1997 西口文也

1998 西口文也

1999 松坂大輔

2000 松坂大輔

2001 松坂大輔

2002 J.パウエル

2003 斉藤和巳

2004 岩隈久志

2005 杉内俊哉

2006 斉藤和巳

2007 ダルビッシュ有

2008 岩隈久志

2009 ダルビッシュ有

2010 和田毅

2011 田中将大

2012 吉川光夫

2013 田中将大

2014 金子千尋

2015 大谷翔平

2016 大谷翔平

2017 菊池雄星

2018 菊池雄星

2019 千賀滉大

2020 千賀滉大

2021 山本由伸

2022 山本由伸

2023 山本由伸

2024 有原航平

 投  東尾修

 捕  香川伸行

 一  落合博満

 二  大石大二郎

 三  スティーブ.O

 遊  石毛宏典

 外  島田誠 / テリー.W / 簑田浩二

 指  門田博光

 投  東尾修

 捕  伊東勤

 一  R.デービス

 二  西村徳文

 三  落合博満

 遊  石毛宏典

 外  金森永時 / 熊野輝光 / 横田真之

 指  L.リー

1972 足立光宏

1973 成田文男

1974 足立光宏

1975 足立光宏

1976 足立光宏

1977 山田久志

1978 山田久志

1979 山田久志

1980 木田勇

1981 山田久志

1982 山田久志

1983 東尾修

1984 東尾修

1985 東尾修

1986 東尾修

1987 東尾修

1988 西崎幸広

1989 阿波野秀幸

1990 渡辺久信

1991 郭泰源

1992 郭泰源

1993 野田浩司

1994 工藤公康

1995 工藤公康

1996 西崎幸広

1997 西口文也

1998 西口文也

1999 松坂大輔

2000 松坂大輔

2001 松坂大輔

2002 西口文也

2003 松坂大輔

2004 松坂大輔

2005 松坂大輔

2006 松坂大輔

2007 ダルビッシュ有

2008 ダルビッシュ有

2009 涌井秀章

2010 涌井秀章

2011 田中将大

2012 田中将大

2013 田中将大

2014 金子千尋

2015 涌井秀章

2016 涌井秀章

2017 菊池雄星

2018 岸孝之

2019 千賀滉大

2020 千賀滉大

2021 山本由伸

2022 山本由伸

2023 山本由伸

2024 L.モイネロ

 投  東尾修

 捕  梨田昌崇

 一  片平晋作

 二  大石大二郎

 三  古屋英夫

 遊  石毛宏典

 外  福本豊 / 簑田浩二 / 島田誠

 投  東尾修

 捕  藤田浩雅

 一  山本功児

 二  大石大二郎

 三  松永浩美

 遊  弓岡敬二郎

 外  高沢秀昭 / 簑田浩二 / 島田誠

 投  東尾修

 捕  伊東勤

 一  山本功児

 二  西村徳文

 三  古屋英夫

 遊  石毛宏典

 外  金森永時 / 簑田浩二 / 島田誠

 投  東尾修

 捕  伊東勤

 一  ブーマー.W

 二  辻発彦

 三  古屋英夫

 遊  石毛宏典

 外  山本和範 / 西岡良洋 / 山森雅文

 投  東尾修

 捕  伊東勤

 一  ブーマー.W

 二  白井一幸

 三  石毛宏典

 遊  弓岡敬二郎

 外  高沢秀昭 / 秋山幸二 / 島田誠 / 新井宏昌

1950 若林忠志

1951 江藤正

1952 大神武俊

1953 大神武俊

1954 西村貞朗

1955 柚木進

1956 川崎徳次

1957 稲尾和久

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 中西勝己

1961 J.スタンカ

1962 土橋正幸

1963 稲尾和久

1964 J.スタンカ

1965 杉浦忠

1966 渡辺泰輔

1967 米田哲也

1968 石井茂雄

1969 石井茂雄

1970 木樽正明

1971 足立光宏

1972 山田久志

1973 江本孟紀

1974 金田留広

1975 足立光宏

1976 山田久志

1977 山田久志

1978 山田久志

1979 井本隆

1980 井本隆

1981 高橋一三

1982 松沼博久

1983 松沼博久

1984 山田久志

1985 松沼博久

1986 東尾修

1987 東尾修

1988 渡辺久信

1989 阿波野秀幸

1990 渡辺久信

1991 工藤公康

1992 渡辺久信

1993 工藤公康

1994 渡辺久信

1995 佐藤義則

1996 星野伸之

1997 西口文也

1998 西口文也

1999 工藤公康

2000 若田部健一

2001 J.パウエル

2002 松坂大輔

2003 斉藤和巳

2004 石井貴

2005 清水直行

2006 ダルビッシュ有

2007 ダルビッシュ有

2008 涌井秀章

2009 武田勝

2010 成瀬善久

2011 和田毅

2012 吉川光夫

2013 則本昂大

2014 J.スタンリッジ

2015 武田翔太

2016 大谷翔平

2017 千賀滉大

2018 千賀滉大

2019 千賀滉大

2020 千賀滉大

2021 山本由伸

2022 山本由伸

2023 山本由伸

2024 有原航平

1950 木下勇

1951 武末悉昌

1952 川崎徳次

1953 川崎徳次

1954 太田正男

1955 長坂衛

1956 河村久文

1957 島原幸雄

1958 河村久文

1959 島原幸雄

1960 稲尾和久

1961 稲尾和久

1962 稲尾和久

1963 稲尾和久

1964 田中勉

1965 田中勉

1966 田中勉

1967 田中勉

1968 池永正明

1969 与田順欣

1970 池永正明

1971 高橋明

1972 高橋明

1973 加藤初

1974 三浦清弘

1975 東尾修

1976 東尾修

1977 東尾修

1978 山下律夫

1979 東尾修

1980 東尾修

1981 東尾修

1982 森繁和

1983 高橋直樹

1984 東尾修

1985 東尾修

1986 東尾修

1987 東尾修

1988 工藤公康

1989 工藤公康

1990 渡辺久信

1991 渡辺久信

1992 工藤公康

1993 渡辺久信

1994 郭泰源

1995 郭泰源

1996 新谷博

1997 西口文也

1998 西口文也

1999 西口文也

2000 松坂大輔

2001 松坂大輔

2002 松坂大輔

2003 松坂大輔

2004 松坂大輔

2005 松坂大輔

2006 西口文也

2007 西口文也

2008 涌井秀章

2009 涌井秀章

2010 涌井秀章

2011 涌井秀章

2012 涌井秀章

2013 岸孝之

2014 岸孝之

2015 牧田和久

2016 菊池雄星

2017 菊池雄星

2018 菊池雄星

2019 多和田真三郎

2020 Z.ニール

2021 髙橋光成

2022 髙橋光成

2023 髙橋光成

2024 今井達也

76 山田久志

77 山田久志

78 鈴木啓示

79 C.マニエル

80 木田勇

81 江夏豊

82 落合博満

83 東尾修

84 ブーマー

85 落合博満

86 落合博満

87 工藤公康

88 門田博光

89 阿波野秀幸

90 野茂英雄

91 秋山幸二

92 石井丈裕

93 辻発彦

94 イチロー

95 イチロー

96 イチロー

97 松井稼頭央

98 イチロー

99 松坂大輔

00 中村紀洋

01 T.ローズ

02 松井稼頭央

03 城島健司

04 松中信彦

05 渡辺俊介

06 ダルビッシュ有

07 山﨑武司

08 岩隈久志

09 鉄平

10 T-岡田

11 内川聖一

12 吉川光夫

13 田中将大

14 大谷翔平

15 柳田悠岐

16 大谷翔平

17 D.サファテ

18 山川穂高

19 森友哉

20-21 中止

1位:東尾修

2位:乗替寿好

3位:宇佐美和雄

4位:阿部良男

5位:春日一平

6位:稲津憲司

7位:水本信雄(入団拒否)

8位:川野雄一

9位:大田卓司

10位:石井吉左衛門(入団拒否)

11位:秋葉敬三

12位:西村俊二(入団拒否)

13位:瀬戸和則(入団拒否)

14位:高橋明

15位:片岡旭(入団拒否)

16位:西村昌幸(入団拒否)

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野球選手の画像提供依頼

東尾修

日本の野球選手

和歌山県立箕島高等学校出身の野球選手

埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手

最多勝利 (NPB)

最優秀防御率 (NPB)

最多奪三振 (NPB)

最優秀選手 (NPB)

NPBオールスターゲーム選出選手

名球会

日本の野球監督

野球解説者

埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の監督

日本の野球殿堂表彰者

Bjリーグのコーチ、ゼネラルマネージャー

東京アパッチ

日本のタレント

和歌山県出身のスポーツ選手

1950年生

存命人物

野球に関する記事

プロジェクト人物伝項目

2024/12/02 12:01更新

higashio osamu


東尾修と同じ誕生日5月18日生まれ、同じ和歌山出身の人

南方 熊楠(みなかた くまぐす)
1867年5月18日生まれの有名人 和歌山出身

南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者・生物学者・民俗学者。 生物学者としては粘菌の研究で知られてい…

春日 伸介(かすが しんすけ)
1984年5月18日生まれの有名人 和歌山出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 春日 伸介(かすが しんすけ、1984年5月18日 - )は、和歌山県田辺市出身の元プロ野球選手(内野手)。 和歌山県立田辺高等学校…

高関優(たかせき ゆう)
1981年5月18日生まれの有名人 和歌山出身

高関 優(たかせき ゆう、1981年5月18日 - )は、吉本新喜劇に所属する日本の舞台芸人である。 和歌山県和歌山市出身でよしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。 2013年、吉本新喜劇の第…


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東尾修と近い名前の人

東丘 いずひ(ひがしおか いずひ)
1949年2月17日生まれの有名人 長野出身

東丘 いずひ(ひがしおか いずひ、1949年2月17日 - 2019年5月1日)は、日本の女優。本名は、太田 千恵子。 長野県安曇野市出身。駒澤大学卒業後、文学座付属研究所第15期生、文学座サヴァー…

東尾 理子(ひがしお りこ)
1975年11月18日生まれの有名人 福岡出身

東尾 理子(ひがしお りこ、1975年〈昭和50年〉11月18日 - )は、日本のコメンテーター、女性プロゴルファー、タレントである。本名:石田 理子(いしだ りこ)、旧姓:東尾。 父は元プロ野球選…


東大路 ムツキ(ひがしおおじ むつき)
6月6日生まれの有名人 京都出身

東大路 ムツキ(ひがしおおじ むつき、6月6日 - )は日本の漫画家、イラストレーター。京都府京都市出身。 明治~大正時代、文豪、オカルト、都市伝説好き。 真の仲間になれなかったお姫様は、辺境でス…

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