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張本勲の情報 (はりもといさお)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

張本勲の情報(はりもといさお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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張本 勲さんについて調べます

■名前・氏名
張本 勲
(読み:はりもと いさお)
■職業
野球選手
■張本勲の誕生日・生年月日
1940年6月19日 (年齢83歳)
辰年(たつ年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
広島出身

(昭和15年)1940年生まれの人の年齢早見表

張本勲と同じ1940年生まれの有名人・芸能人

張本勲と同じ6月19日生まれの有名人・芸能人

張本勲と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


張本勲と関係のある人

佐藤元彦: リリーフに立った佐藤政夫も続く張本勲・大杉勝男に本塁打を浴び、5者連続本塁打の日本記録を献上することとなった。


若松勉: 1976年は張本勲、谷沢健一と激しい首位打者争いを繰り広げ、終盤に失速したものの打率はリーグ3位の.344を記録した。


安藤順三: ^ 張本勲コラム「プロに入って最初に憧れ、男として惚れた大先輩。それが土橋の“兄ちゃん”だった」【張本勲の喝!!】


嶋重宣: それでも最終的に189安打を放ち、1976年の張本勲(182安打)を抜いて左投左打選手の最多安打のNPB記録を更新した。


中田翔: 5月13日の対中日戦でプロ入り初の犠打を決め、通算1521試合で6245打席目での初犠打は、張本勲の1858試合で7669打席目に次ぐ歴代最遅2位となった。


岩本義行: 張本勲の話ではヒビの入った頭蓋骨のレントゲン写真を見せてもらった事があるという。


後藤駿太: NPBの高卒新人外野手では、1959年の張本勲(東映フライヤーズ)以来52年ぶりの快挙であった。


山口高志: 1980年5月28日のロッテオリオンズ戦(川崎球場)では、張本勲に通算3000本安打となる本塁打を浴びる。


岩本義行: 大内隆雄 (2014年3月7日). “レジェンドたちに聞け! 第1回 張本勲「あの頃はロマンがありました」”.


阿部慎之助: これで入団1年目から18年連続での2桁本塁打となり、清原和博、張本勲に次ぎ歴代3位となった。


カールトン半田: 張本勲がヘッドコーチ兼任となった1973年後期の担当は不明)を務めた。


三原脩: この間にも積極的にチームの体質改善を図り、張本勲・大杉勝男・白仁天・大下剛史・高橋直樹などの東映時代の主力を次々に放出した。


岩隈久志: ケガをしてシーズンを棒に振った経験から、無理をしないことを信条としているため、大敗している場面でもないのに球数100球未満で降板する場面がたびたびあり、楽天時代の監督の野村克也や『サンデーモーニング』に出演している張本勲などに、チームのエースとしての姿勢に反する行動と批判されたことがある。


近藤健介: また、この本塁打を放った時点の年齢が20歳9か月であり、「パ・リーグの公式戦で満塁本塁打を放った最年少選手」の球団記録(従来の記録は1961年の張本勲〈21歳1か月。


山本一義: 広島市立翠町中学校では同郷で2学年下の張本勲と知り合いになり、対戦経験(投手・山本相手に張本が三振)があるほか、山本が張本に広島商業入学を誘ったこともあった。


杉浦忠: 張本勲は、「パ・リーグの投手のトップ3は、稲尾、杉浦、そして、土橋正幸」、「すごいのは杉浦さんのカーブ。


イチロー: 1998年は打率.358、181安打でシーズンを終え、張本勲の4年連続を抜いて日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成、5年連続・通算5回目となる最多安打も記録した(連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。


大沢啓二: しかしサンデーモーニングの中で張本勲に「始球式なのに着物で出てくることはないでしょ」と言う理由で「喝」を与えられた。


長嶋茂雄: 日本ハムファイターズから、「安打製造機」と呼ばれた張本勲を高橋一三・富田勝との交換で獲得。


山本浩二: 7月26日の対中日戦(ナゴヤ球場)では杉本正から本塁打を放ち、通算500本塁打を達成し、同年には通算200盗塁も達成している(両記録を持つのは張本勲、山本、衣笠の3人のみ)。


高津臣吾: その後、張本勲らを輩出した広島市立段原中学校へ進学するが、当時の野球部は活動が盛んではなく、高校は自宅に近い広島工業高等学校へ進学する。


岩本義行: この記録は1976年に張本勲に抜かれるまでセ・リーグ記録だった。


高代延博: シーズン2本の満塁本塁打は吉田勝豊、大杉勝男、張本勲に次ぎチーム4人目の記録となった。


安藤順三: ^ 張本勲コラム「短期決戦の行方は監督の眼力と采配、言葉の力が左右する」【張本勲の喝!!】


大下剛史: 身長171cm、体重56kgという細身な体型ながら、張本勲・大杉勝男・白仁天らと共に「暴れん坊軍団」と呼ばれたチームの主軸として活躍したが、大下はそんな「暴れん坊軍団」と呼ばれる個性派達の大雑把な野球を嫌っていた。


王貞治: しかし、記録への挑戦をモチベーションとして、さらに張本勲の加入による「OH砲」の形成とジョンソンの復調で攻撃の負担が軽減され、翌1976年は再び打棒が爆発。


種茂雅之: シリーズ後は水原茂監督、土橋、張本勲と共に22日放送のフジテレビ『スター千一夜』に出演。


定岡正二: その背景には、巨人時代の先輩選手で1982年から解説者契約を結んでいた張本勲が、日本プロ野球公式戦における通算最多安打(3085安打)を樹立していた現役時代の実績を楯に、「(公式戦通算51勝で自分より若い)定岡へ自分と同じ『解説者』を名乗らせるのはなぜか?」と異議を唱えたことによる影響が関係者から指摘されている。


水原茂: 張本勲は「やっぱり全然違うなと思いましたね。


グレン=ミケンズ: 張本勲の二塁ゴロで吉田を二塁で封殺する間に毒島が生還。


張本勲の情報まとめ

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張本 勲(はりもと いさお)さんの誕生日は1940年6月19日です。広島出身の野球選手のようです。

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経歴、選手としての特徴などについてまとめました。現在、母親、父親、事件、趣味、卒業、テレビ、引退に関する情報もありますね。張本勲の現在の年齢は83歳のようです。

張本勲のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

張本 勲(はりもと いさお、1940年6月19日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(外野手)、野球解説者・野球評論家。

韓国野球委員会(KBO)コミッショナー特別補佐官。大韓民国籍。在日韓国人二世であり、本名は張 勲(チャン・フン、ハングル:장훈)。

NPB唯一の通算3000安打達成者で、通算安打のNPB記録保持者(3085本)。またNPB唯一の500本塁打300盗塁達成者。さらに史上最多の16度のシーズン打率3割、史上最長の9年連続打率3割のNPB記録保持者。NPBで最多タイ記録となる首位打者を7回獲得。パ・リーグ最多記録となる最高出塁数(現在の最高出塁率)を9回獲得している。猛打賞の最多記録者でもある。

愛称は「ハリさん(漢字表記で張さん)」、「ハリ」、「ハリやん」、「ハリー」。血液型はO型。

経歴

生い立ち

両親は韓国慶尚南道昌寧郡大合面出身。本貫は仁同張氏。1939年、母親は40歳前に身重のまま、兄と2人の姉を連れて当時日本領だった朝鮮から海を越えて内地に渡り、広島で勲を生んだ。当時の広島は大日本陸海軍とも重要拠点を置く軍都で、太平洋戦争への道を突入していく日本で生きる朝鮮人家庭は虐待され、差別され、張本一家も六畳一間のトタン屋根のバラックで身を潜めるようにして生きた。4歳の冬、サツマイモを焼くために、土手でとんどを囲んでいた際に、急にバックしてきたトラックを避けようとしたところバランスを崩してしまい、とんどに右半身から飛び込む形になり、右手の親指から中指以外の自由を失う大火傷を負う。

1945年8月6日、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の南区段原)で被爆。比治山の影となっていた段原は直接の熱線が届かなかったが、爆風に見舞われ家は倒壊した。張本は赤い閃光を見た直後に意識を失い、意識が戻った後に記憶しているのは、張本をかばって覆いかぶさり、ガラスの破片で出血していた母の血の赤い色だった。その直後に避難場所で経験した人肉の焼ける強烈な臭い、叫声を上げながら猿猴川に飛び込み亡くなっていく人々、夜通し続く呻き声を、今でも忘れることはないという。学徒勤労動員で比治山の西側にいた、当時12歳だった長女の点子は、大火傷を負い数日後に死亡した。点子の最後を看取った張本によれば、担架で運ばれた点子は全身にやけどをしていた。「『熱いよう、熱いよう。』母の懐でうめく点子にブドウを一房もぎ、口元で搾ってあげた。『ありがとう。』消えそうな声が最期だった」と語っている。

終戦後、父親が朝鮮半島に戻り、生活基盤を整えてから一家も呼び寄せることになっていたが、父親が帰国後、太刀魚の骨が食道を突き破って急死し、またヤミ船が下関沖で転覆した事件を受けて、母親が子供3人の身を案じて帰国を諦めることになった。母親は広島駅前の闇市で牛や豚の臓物を仕入れて自宅で大工や工員相手にホルモン焼き屋を始めた。客の目当てはヤミ酒だった。

子供の時から体が大きく、ガキ大将としていつも大勢の子分を連れて歩いた。広島市立比治山小学校5年のときに町内の野球チーム(同世代のチームではなく、社会人が趣味で集まっていたチーム)に誘われたのをきっかけに野球を始める。当初は右投げ左打ちだったが、右手の怪我の影響で変化球を投げづらかった(鷲掴みにしか出来ない)ことから、サウスポーに転向。利き手を変える大改造を行なった。

水泳が一番得意だったが、進学した段原中学校には水泳部がなく、仕方なく野球部に入部。段原中時代の2年生のときにレギュラーになり、エースで4番打者として広島県大会で優勝した。中学時代はケンカに明け暮れ、韓国人の子供として虐げられた怨念をケンカで晴らしているうちにそれは壮絶なものになり、相手も高校生を通りこして、ヤクザのアンちゃんたちになり、姉を騙したヤクザを半殺しにしたこともあったという。レンガで顔を殴られたり、ジャックナイフで腹を刺されたこともあり「段原のハリ」と恐れられる少年になっていた。後に『仁義なき戦い』のモデルになった広島、呉のヤクザたちにも憧れ、実際に交流もあったことから「あのまま広島にいたらヤクザになっていたと思う」とも話している。その悪の道から勲を救ったのが野球だった。

この頃、広島カープの当時の本拠地・広島総合球場の場外の木によじのぼり、よく試合の無料見物をしていたという。その折に覗き見た読売ジャイアンツの宿舎の食事風景が、その後の張本の人生を大きく変えることとなった。戦後の物資不足や飢餓をまだ引きずる時代に、選手たちは分厚い肉を食べ、桐箱に入った贈答品として当時は珍重されることも多かった生卵を3つも4つも茶碗に放り込んでいたのである。以来、張本のプロ野球選手への憧れは増大し、「トタン屋根の長屋から抜け出すにはこれしかない」、「母親に広い家をプレゼントする」、「美味しい食べ物を腹一杯食べる」という夢を胸に来る日も来る日も自宅近くの猿猴川土手に吊るした古タイヤに向かってバットを振り続け、野球へと打ち込んでいった。

高校時代

甲子園出場を夢に、地元の強豪・広島商業、広陵高校への入学を希望したが、中学時代の素行不良が理由で叶わず、野球では全く無名の松本商業高校(現・瀬戸内高校)定時制に進学。入学後1か月ケンカしなかったら普通科に転入させるという約束での入学であった。昼間は学生食堂で働き、夜は学業に勤しんだため、野球をする時間が全く取れず、甲子園出場の夢を叶えられそうにないことを悟る。松本商業の野球部監督が「いっそ広島から出したらどうだ。あの子は化けるよ」と兄にアドバイスし、自身も理髪店で「常勝!平安、浪商」と書かれた雑誌を見て、まず京都の平安高校に問い合わせたが、途中からは無理と断られる。その後に大阪の浪華商業高校(浪商高等学校を経て現・大体大浪商)野球部に梁川郁雄と一緒に売り込みに行き、同校に転校した。タクシー運転手の兄が月給2万3,000円から約半分の月1万円を仕送りしてくれた。甲子園出場の夢を果たすことが何よりの恩返しと信じ、ひたすら野球に打ち込む。

浪商では1年の終わり頃に4番になるが、張本が入部する前の部内の暴力事件で1年間の対外試合禁止処分(1年の秋から2年の秋)を受け、この際に恩師である中島春雄も監督の座を退くことになった。甲子園出場のチャンスは3年の春と夏の2回だけになった。

広島のみならず、「大阪でも一番喧嘩が強い」と名を轟かせ、他校のワルから決闘を申し込まれたが、野球で忙しく相手をする暇はなかった。

1957年、2年の初夏に中島春雄の戦友であり、度々同校を訪ねていた当時読売ジャイアンツ監督の水原茂に、高校を中退して左投手としての入団を勧誘される。張本もその気でいたが、高校だけは卒業して欲しいという兄の意向により、誘いを断る。その直後、オーバーワークにより肩を故障。投手としての未来図を描いていた張本は挫折するも、中島の説得によりその後は打者に専念するようになる。同年は秋季近畿大会で対外試合に初出場、県予選から13試合で打率5割6分、本塁打11本という驚異的な成績を残した。大会では準決勝に進み、海南高の宗邦夫に完封を喫するが、翌1958年春の選抜への出場を決める。ところが一般生徒が恐喝事件を起こし、出場辞退を余儀なくされた。高校同期にエースの池上栄一郎(法大)、捕手の岡本凱孝がいた。

3年時の1958年夏の甲子園府予選は決勝で寝屋川高に辛勝、念願の甲子園出場を果たす。しかし大会直前に部室内での暴力事件が発覚。張本含む数人の休部処分により、チームの甲子園出場は認められた。張本曰くこの件に関しては全くの濡れ衣であるという(事件が起きた際、そもそも部室にいなかった)。張本は当時の野球部長の韓国人嫌いに端を発した差別としている。また、前監督の中島が退任した後も引き続き中島に教えを乞いに行くことがあり、後任の竹内監督との関係も良くなかったと回想している。

事件によって甲子園の夢を絶たれ、自殺も考えるほどのショックを受けたが、野球部の同級生で同じく休部処分を受けた山本集が親身になって張本の相談に乗り、張本は話を聞いてもらっている内に涙が出てきて母校のグラウンドで夜通し走っていたという。

この年、在日韓国人高校生で構成する日韓親善高校野球の選手に選抜されて渡韓し、生まれて初めて「祖国の土」を踏む。主軸打者として韓国各地を転戦、選抜チームも14勝1敗と圧勝した。張本のバッティングは祖国の野球ファンも驚かせ、韓国メディアも大きく報道した。その一方で観衆からパンチョッパリと侮蔑表現で呼ばれ、アウェーであることも実感したという。ここで甲子園出場が叶わず萎えかけていた気持ちを奮い起こした。後年、張本はこのときのことを「甲子園に出場出来なかった事は凄く悲しく悔しかった。でも一時的に日本を離れ、試合を重ねる内に野球に集中できた。それが良かったんです。生きる気力が湧いてきて、心機一転した上で日本に戻り、一からやり直す事が出来たんです」と語っている。後に日本のプロ野球を代表する強打者となる張本は、母国訪問での活躍によって祖国でも有名になり、韓国の野球少年にとって憧れの存在となる。

プロ野球選手時代

地元の広島カープに行きたいという気持ちもあったが、最終的には中日ドラゴンズと東映フライヤーズの一騎討ちになり、交渉事を任していた兄も「スカウト部長が立派な人だし、ここに預かってもらえば大丈夫なのでは」として中日を推していたが、東京への憧れもあり、1959年に東映フライヤーズに入団。当時の東映は同郷の先輩である岩本義行を始め、母校である浪商の先輩を多数抱えており、岩本が監督を務めていたことも入団の決め手の一つになった。契約金は200万であった(中日は600万を提示していた)。当時の大卒初任給の平均額は1万3800円。張本の家や部屋には、まだテレビがなくセ・リーグの方が人気があるとは知らなかったため、「わかっていたら中日に入団していたと思う」と話している。なお、この入団と前後して東映の社長で球団オーナーの大川博は当時プロ野球の規約で「外国人選手は2人まで」となっていた問題の改正に取り組み、「生まれた時に日本の国籍を持っていた選手」は外国人選手に含めないと改正させている。契約金200万で母親のために広島に念願の一軒家を建てた。若いころ、仲のいい王貞治をこの家に招いたこともある。

松木謙治郎打撃コーチの「打率も残せて、ホームランも打て、盗塁もできる完璧な打者を目指せ」(つまり長距離砲としてよりも、打率を残せる中距離打者として育てる方針とした)という指導のもと、猛練習に励んだ。松木の回想によると(後述の怪我により)右手をほとんど使えず、ほぼ左手のみのバッティングで、高めの直球しか打てないバッターだったため、右手の強化や打撃フォームや立ち位置の細かい修正(この際にレベルスイングになった)に臨んだ。今では常識となっている野球ネットへのヒッティング練習を導入。また高校時代は投手としての練習しかしていなかったため、野手としての練習は苛烈を極めた。当初は張本の長身と風貌から一塁手として育てる予定だったが、打撃練習の際に怪我のことを初めて知り、即日外野手に回したという。こういった経緯から、張本は松木のことを「大恩人」だとしている。

大川博オーナーの意向もあって一軍に抜擢され、高卒の新人外野手ながら開幕戦のスタメンに名を連ねた。デビュー戦は阪急戦で、米田哲也の剛速球に全くついていけず三振、直後の守備でバンザイをして即交代させられた。翌日の阪急戦で第1打席で秋本祐作から二塁打を打ち初ヒット、第2打席で石井茂雄から初本塁打を放つ。6月23日からは4番を打つ。入団1年目からレギュラーに定着し、高卒新人で2桁本塁打の13本塁打を放つなど活躍して新人王を獲得した。

2年目には打率3割を記録し、3年目の1961年には打率.336で21歳にして首位打者となった。

4年目の1962年は本塁打、打点ともに野村克也に次ぐリーグ2位を記録。同年は21敬遠で当時のパ・リーグ記録に並んだ。広島で行われたオールスターゲーム第2戦では親族一同を招待し大活躍、MVPに輝き、故郷に錦を飾った。チームのリーグ初優勝に貢献し、リーグMVPと、同年から新設された最高出塁率を獲得した。同年の阪神タイガースとの日本シリーズでは全7試合に4番打者として出場。第6戦で太田紘一から2点本塁打を放つなど26打数12安打と活躍し、チーム日本一の原動力としてシリーズ技能賞を獲得した。

1963年には自己最高となる33本塁打・41盗塁を記録、同年の22敬遠は野村克也に抜かれるまで5年間パ・リーグ記録だった。1967年から1970年にかけては4年連続首位打者を獲得した。

1970年、打率.383、本塁打34本、打点100という自己最高の成績を残す。このうち打率は大下弘が持っていたシーズン最高打率(.3831)を3毛更新するもので、1986年にランディ・バースが更新するまで16年間日本記録であった。

1972年8月19日の西鉄ライオンズ戦で、東尾修から史上7人目となる2000本安打を達成。同年の猛打賞22回は与那嶺要に20年ぶりに並び、1996年にイチローに更新されるまで日本記録だった。1974年には通算7回目となる首位打者に輝いた。首位打者7度はイチローと並ぶ日本記録である。「安打製造機」の異名を取り、南海ホークスの野村克也らと共に1960年代から1970年代のパ・リーグで活躍した。

日拓ホームフライヤーズとなった1973年の後期からは、選手兼任でコーチ(ヘッド兼打撃コーチ)を務めた。コーチになった理由は後期から監督になった土橋正幸に「おまえは兼任でヘッドコーチをやれ。選手をまとめろ。2、3年でバトンタッチするから」と言われたためであった。しかし球団は翌1974年に日本ハムに身売り、土橋は退団した。この頃から毎年、ストーブリーグを賑わせた。1974年には大洋とトレード話がほぼまとまり、本人にもこの年10月23日に三原脩球団社長から移籍を通告される。しかしこの年のオフに大洋監督に就任した秋山登が、大洋球団が期待の新人(山下大輔)を売り出すために、主力遊撃手(米田慶三郎)をトレード要員にしたことに「とんでもない」と強い難色を示したことでわずか2日後の10月25日に御破算となる。当時の大洋の外野陣は江尻亮、長崎慶一、中塚政幸とすべて張本と同じ左打者であり、その上癖のある張本が加われば秋山監督が苦労する、という当時の大洋の中部謙吉オーナーの気持ちもあってのことだった。次いでこの25日中に三原は巨人の川上哲治監督に直接張本獲得を申し入れていたが、結局10月28日には日本ハム残留を発表する。なお1974年には2022年でも球団記録である9打数連続安打を記録している。

次いで1975年の前期リーグ終了後には、ロッテが“祖国の英雄“として張本獲得に乗り出す。この頃、在日同胞の繋がりで東声会会長・町井久之との交友関係が深くなっていたことから、近鉄、ヤクルト監督時代に「黒い霧事件」への対応に追われていた日本ハムの三原脩球団社長が「張本は球界のガンだ」と発言するなど、張本を無理やり放出しようとしていた。そのため、三原社長と娘婿である中西太監督との間の感情はこじれにこじれた。日本ハム製品が韓国でよく売れていたため、大社義規オーナーとしても“韓国の英雄”である張本の気持ちを無下にはできず、新任の大沢啓二監督も日本ハムから出たい張本の気持ちを変えることはできなかった。

前年のオフに大杉勝男・白仁天らが移籍し、張本はこの時について「日本ハムに身売りになって、三原さんが社長になって、娘婿の中西さんが監督になって、土橋さんも球団から去って。チームもバラバラ。みんなチームからいなくなって。自分もチームから出ないと行けないと思った」と述べている。張本が「もし不要なら出してほしい」と直訴すると、三原に「希望する球団に行かせよう」と言われ、強さへの憧れからファンでもあった巨人を挙げた。また、張本は当時阪神タイガース監督の吉田義男に誘われて一時は阪神行きを決意し、家まで用意していたという。しかし突然巨人からも誘われ、しかも決定項として扱われていたため、慌てて吉田に連絡を取ると、吉田は憎まれ口ひとつ言わず「ええ話やないか。巨人に行けよ」と了承した。現在でも吉田とは「あの時、ウチ(阪神)へ来とったら面白かったなあ」という話になるという。

1975年オフには日韓親善野球に参加する「日本プロ選抜チーム」の監督を務め、10月23日に同行するロッテと共に韓国へ出発した。翌24日の試合では3本塁打を含む12安打を放ち、韓国アマ選抜を7-2で下した。

1975年シーズン終了後、長嶋茂雄監督が「王の前に大砲が欲しい」と希望し、東日貿易の久保正雄社長の仲介により、11月25日に高橋一三・富田勝との交換トレードで巨人へ移籍。憧れであった巨人に入団したことで発奮し、オフやキャンプで徹底した走り込みを敢行した。

1976年は自己最高の安打数を更新し、同年6月10日の阪神戦で、当時史上2人目となる2500本安打を達成。翌1977年と続けて高打率を残して2年連続でリーグ2位の打率を記録。1976年においては、首位打者を獲得した谷沢健一との打率差がわずか1毛(厳密には6糸)で、歴代で最も1位と2位との差が小さい記録である。親友の王貞治と組んだOH砲は、第一期長嶋茂雄監督時代の2度のリーグ優勝に貢献した。この1977年9月3日のヤクルト戦、王が756号の本塁打世界新記録を達成したその試合の8回裏において、張本も自らも同シーズン22号本塁打を打ち、通算1500打点を達成、記念試合に花を添えた。

1978年には日本記録となる通算16回目のシーズン打率3割を記録。同年7月24日、日本プロ野球名球会が設立され、規定(昭和生まれ、通算2000本安打記録)を満たす張本も入会している。翌1979年は左目の疾患で夏場に40試合ほど欠場、77試合の出場に終わり、打率.263、8本塁打と低迷して戦力構想からも外れた。

1980年1月5日、オーナーの重光武雄の強い誘いと3000安打を達成したかった張本の意向もあり、ロッテオリオンズに移籍。同年5月28日、地元川崎球場での阪急ブレーブスとの対戦において、山口高志投手から日本プロ野球史上初となる通算3000本安打を本塁打で達成。この快挙を記念したメモリアルプレートが同球場に展示された。9月28日には川崎球場でのダブルヘッダーの第1試合、近鉄との対戦において、日本プロ野球史上3人目となる通算500号本塁打を達成した。

1981年に現役引退。現役最後の安打は森繁和から打っている。背番号はプロ1年目から引退まで一貫して10を着用した。そのままロッテの監督に昇格の話もあったが、実現はしなかった。

通算打率は歴代3位(4000打数以上)であり、7000打数以上では歴代1位である。通算打撃部門の全ての上位に名を連ねていることから、日本プロ野球史上屈指の強打者との誉れが高い。通算安打は3085本で日本記録である。自身も通算最多安打を記録していることを誇りに思っており、「イチローがたとえ日米通算4000本安打を記録しても、日本記録保持者は私ですから」とコメントしているが、その理由として、「メジャーリーグの野球は日本の野球よりもシーズンの試合数が多いから、イチローの通算安打は参考記録にしかならない」ことを挙げている。なお、張本はイチロー自体を認めていないわけではなく、イチローが記録を更新する際などは度々アメリカまで行って祝福している。

引退

引退発表した1981年オフ、ロッテから監督要請を受けるが、山内一弘を更迭しての要請であったため、辞退し、1982年より東京放送(TBSテレビ・TBSラジオ)野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を務める。1983年オフに辞任した山本一義の後任とした再度ロッテから監督要請を受けるが、ベンチ裏から野球を勉強したい理由で再度固辞する、この時、辞退するなら代わりの候補者を出すようフロントから言われ、土橋正幸と稲尾和久を推薦する(土橋はヤクルトスワローズに入閣することが決まっていたため、稲尾の監督就任となった。)。1984年オフには日本ハムから、1989年オフには三度ロッテから監督要請を受けるが、日本ハムは固辞し、ロッテは金田正一が『張本にやらせるなら、俺にやらせろ』とフロントに嘆願したため、金田に決定した。また、2000年頃よりTBSテレビの『サンデーモーニング』のスポーツコーナー『週刊 御意見番』に大沢啓二(2010年10月死去)と共にコメンテーター(御意見番)としてレギュラー出演。2006年まではテレビ・ラジオの中継にも出演していたが、2007年以降は「週刊 御意見番」への出演に絞る。中継から外れて以降も、各出版社が発売している一部プロ野球名鑑に掲載される解説者・評論家名鑑では、引き続きTBS解説者として掲載されている(2012年からは一部名鑑でフリー解説者として扱われている)ほか、『サンデーモーニング』公式サイト内同コーナー情報ページでは「TBS野球解説者」と明記されている。

1990年、野球殿堂入り。

2001年にスタートしたプロ野球マスターズリーグでは、東京ドリームスに選手兼任コーチとして所属し、試合にも出場している。中々ヒットが打てなかったが、2005年に5年越しの初安打を放った。もっとも本人は「(投手の)星野伸之(元オリックス)が手加減してくれた」とコメントしている。

臨時コーチを何度も務めている。中日の沖縄秋季キャンプの臨時コーチを務めた1992年には、一旦挫折しかけた大豊泰昭の一本足打法を完成させるきっかけを作っている。1993年春季キャンプで監督の長嶋茂雄の要請で巨人臨時打撃コーチを務め、松井秀喜に「すり足打法」を指導したが、松井は頑として張本のすり足打法を受け入れず、自分のスタイルを貫き通し、張本は打撃コーチの中畑清に「全く聞かない」と嘆いていた。自身の著書で、監督の打診を受けたことがあったものの「入り込んでしまうからやめた方がいい」と母親に猛反対されたので断ったと記している。ロッテのゼネラル・マネージャーだった時期の広岡達朗から、ボビー・バレンタイン監督の下でのヘッド兼打撃コーチの打診を受けたことがあったが、張本がトップ(監督)でやりたいと言って断っている。週刊文春の連載「阿川佐和子のこの人に会いたい」に登場した際(2015年10月1日号)は、球団は言えないが3球団から監督の要請があったことを明かしている。また週刊ベースボールでの連載『張本勲の喝!!』(2021年12月27日号)では、以下のようにロッテと日本ハムから計4回監督就任要請があったことを明かしている。

1982年に発足した韓国プロ野球統括団体である、KBOのコミッショナー特別補佐官を2005年まで務めた。2007年、民間人に与えられる韓国最高の勲章である国民勲章第1等の「無窮花章」が授与された。韓国プロ野球創設の際の組織作り・人材派遣などの支援等、日韓のスポーツ界並びに在日韓国人社会の発展に貢献した功績によるものだった。「無窮花章」は日本の勲一等にあたる。日本のスポーツ選手として、韓国の勲章を受けた唯一の人物となる。

韓国の野球発展にも多大な功績を残し、1982年から始まった韓国プロ野球は、李容一初代事務総長、李虎憲同次長、張本の3人で立ち上げたものという。張本は「わたしにとって日本プロ野球は『育ての親』、逆に韓国プロ野球にとってわたしは『生みの親』になる」と語っている。

2021年11月28日放送の『サンデーモーニング』のスポーツコーナー『ご意見番』で、同コーナーを年内で卒業すると発表した。張本本人は老後をゆっくり過ごしたいという趣旨の説明を行い、23年間夏休みも取れないほど働き続けたとアピールした。また、今後ゲスト出演の形では活動を続ける意向を示した。

選手としての特徴

打撃

バットを高く構えて捕手寄りに倒して始動し、水平に振り抜く独特の打法から、右へ左へと自在にボールを打ち分けた。このため上記の「安打製造機」のほか、「広角打法」、「スプレー打法」、「扇打法」という代名詞でも知られた。ただし、本塁打の打球方向は8割近くがライト方向であり、長打を狙う際は引っ張り打ちだった。

元パ・リーグ事務局長の村田繁は張本について、「広角打法の最高峰を極めた打撃王であると認定していい」と評している。通算RCWIN傑出度では王貞治に次ぐ歴代2位の数値を記録するなど、打撃面においては歴代屈指の成績を残した。猛打賞も歴代1位の251回を記録している。

東映入団1年目から20年連続シーズン100安打以上を放っており、打率3割以上を16回記録した。走塁面においては、1963年に41盗塁(広瀬叔功の45に次ぐ2位)したのを筆頭に、通算で319盗塁を記録している。通算500本塁打以上かつ通算300盗塁以上を記録しているのは張本のみである。

現役時代は多くのシーズンで首位打者以外のタイトル争いにも絡み、毎年打撃部門で上位に位置していたが、本塁打王と打点王のタイトルは1度も獲得できなかった。通算1676打点は、打点王のタイトルを獲得していない選手の中では史上最多である。また、1500打点を2368試合目で迎えたが、これは2012年に金本知憲が2501試合目で1500打点をとるまでは一番遅い試合数での達成記録だった。

打席に立っている際、一塁走者が盗塁すると激怒した。一塁に走者がいる場合、一塁手が一塁に張り付いた状態になるため一・二塁間が広くなり、安打が出る確率が高くなるからだと落合博満は述べている。

現役時代に打撃のコツについて教えを乞いに行ったことがある。その相手は当時近鉄に在籍していたジャック・ブルームで、張本はブルームの外角打ちの上手さに感心し、外角打ちのコツを聞きに行った。それに対してブルームは、「外角を打つにはまず内角打ちが上手くなければいけない。それは、外角に的を絞っているときに内角にストレートが来ると絶対に手が出ないからだ。相手投手は、こっちが内角打ちが上手いと、内角に投げるのを嫌がって外角に投げてくる。そこを狙い打つのだ」と回答。その後、張本は首位打者の常連となっている。

また、張本はブルームからセーフティーバントのコツも教わった。それは「バックスイングをしてバントなんてしないように見せろ」というものだった。これにより、張本自身の述懐によると21回試みたセーフティーバントのうち20回を成功させたという。1970年に当時のシーズン最高打率記録を樹立した際にも、最後の打席でセーフティーバントを決めている。しかし当時のマスコミから「本塁打も打てる打者がなぜバントで打率を稼ごうとするのか」という批判を受けて、多用はしなかった。そのことについて張本は、2003年のインタビューで「なぜこれ(セーフティーバント)を多用して4割打たなかったのかなぁと後悔してるんです」と述べている。なお、張本はこの時点では犠打を記録したことは一度もないなど、バントで打率を稼ぐということは全くしておらず、この批評は完全な風評被害であった。張本自身も「本塁打を打てる打者はセーフティバントしなくてもいい」と考えており、2021年にメジャーで本塁打王争いをしていた大谷翔平がセーフティバントをしたことに苦言を呈した。

バントの上手さについては王貞治からも認められており、2003年のキャンプでは川﨑宗則にセーフティーバントの指導をした。川崎は後年に「張本さんといえば『豪打』のイメージでしたが、あれでセーフティーバントの確率がぐっと上がった。僕のヒットの何本も、張本さんのおかげで打てたようなものです」と語っている。

打撃のコツについては、後年、バッターボックスでの構えについて「雨の日の立ち小便」(リラックスしながら腰を落とす)のように構えるとよい、と語ったこともある。現役時代、天才または運と呼ばれたことに対して、「ある日突然バッティングの才能が目覚めるなんてことは絶対ない。半狂乱になってバットを振って振って振りまくった人だけに打撃の極意というものは見えるんです」と語っている。キャンプなどでも張本は布団の横にバットを置いていて、夜もたびたび起き上がって素振りをしていたという。山崎正之は張本とキャンプで相部屋になった際に、張本が毎夜寝ている自分の数十センチ上で素振りを繰り返すため、寝るに寝られず睡眠不足になり、「あれほど不気味な風の音を聞いたことはない」と振り返っている。

張本自身は、本人曰く「張本シフト」として外野2人、内野5人の右寄りのシフトを敷かれていたことがあり、これは「王シフトよりも前だ」として(当時は人気の無かったパ・リーグだったので話題にならなかったとしている)、「これをセ・リーグのスコアラーが見て王シフトのヒントにしたのではないか」と述べている。

守備

主に打撃への負担が比較的少ない左翼を守った。打撃や走塁においては傑出した成績を残した張本だったが、守備は得意ではなく、とりわけ守備力が低下した巨人時代にはファンから「守っても安打製造機(=稚拙な守備により相手の安打を量産させている)」と揶揄されるほどお粗末なプレーが目立った。幼少時のヤケドの影響と高校時代の左肩の故障という二重苦により、現役中は一貫して思うような守備ができなかったという。右手を完全に開くことができなかったため、特注のグラブで守備を行っていた。

このようなハンディがありながらも、守備率を示すRF(刺殺+補殺+失策)÷試合数の数値では、1964〜1967年(24歳〜27歳時)に4年連続で2点以上(これは平均以上の数値であり、2.5を越えれば一流と言われる)を記録し、1959年(19歳時)の1.41から大幅に上昇させている。また1966年には土井正博に次ぐリーグ2位の11補殺を記録している。

ただし、1975年にパ・リーグで導入されたDH制のため1年間守備が免除された後、巨人に移籍し左翼の守備に返り咲いた翌年の1976年以降は、守備力の衰えが顕著になる。例えば1966年(26歳時)には、外野部門(100試合以上出場)でRFが2.08(3位)、刺殺数233(4位)、補殺11(2位)、エラー1(2位)と高い数値を記録していたにもかかわらず、巨人に移籍した1976年(36歳時)にはRFが1.37(12位)、刺殺数167(9位)、補殺4(8位)、エラー7(13位)と、数値が大幅に下落している。

阪神との1962年の日本シリーズ第7戦(1点リードから同点に追い付かれた)では、10回裏にベンチに下げられ、その後の12回裏に日本一決定の瞬間を迎えるという経験をしている。巨人時代には、レフトにライナーやゴロが飛ぶと、遊撃手の河埜和正がカバーに入ることが多かった。リードして迎えた試合終盤には、守備固めの二宮至と交代させられることが何度もあった。長嶋監督に失策の理由を聞かれた時には、「あれは空中イレギュラーです」と答えていたという。

2024/06/14 04:07更新

harimoto isao


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