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高田繁の情報 (たかだしげる)
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【4月2日】今日誕生日の芸能人・有名人

高田繁の情報(たかだしげる) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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高田 繁さんについて調べます

■名前・氏名
高田 繁
(読み:たかだ しげる)
■職業
野球選手
■高田繁の誕生日・生年月日
1945年7月24日 (年齢79歳)
酉年(とり年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
大阪出身

(昭和20年)1945年生まれの人の年齢早見表

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高田繁と関係のある人

田代富雄: このため、高田繁を左翼手から三塁手にコンバートしたが、前例がなかったため不安視され、一発のある三塁手の補強を望んでいた巨人が田代のトレードを大洋に打診したものの、クリート・ボイヤーヘッドコーチが「田代は近い将来、クリーンアップを打てる。


福田昌久: 柴田勲は3m35cm、高田繁は3m5cmといった具合であったが、帽子の庇を利用し、視線と庇の角度で測定していた。


川島慶三: 3月28日の読売ジャイアンツとの開幕戦(明治神宮野球場)で1番・三塁手で先発出場し、2回第2打席で適時打を打ち、移籍後初安打・初打点さらに初得点を記録、4回には移籍後初盗塁も記録し、監督の高田繁のヤクルトでの初勝利にも貢献した。


村上雅則: 日本ハムコーチ時代には松浦宏明を一軍に送り出したことを大沢に評価され、1987年オフに一軍投手コーチへの配置転換の話が出たが、高田繁監督が村上の一軍コーチ加入を拒否。


デーブ=ジョンソン: 翌1976年には高田繁が三塁手にコンバートされ、本来の守備位置である二塁手に戻る。


浅野啓司: その後はシニアリーグで中学生を指導しつつ、60歳以上の還暦野球でプレーをしていたところ、巨人時代のチームメイトの高田繁GM、バッテリーを組んだ吉田孝司GM補佐から「ウチの投手担当コーチは全員30-40歳代で若い。


田中久寿男: 1968年になると、高田繁の入団や末次民夫の台頭により出場機会が激減し、同年オフに柳田俊郎との交換トレードで西鉄へ復帰。


荒川博: 特に王へ「一本足打法」を指導したことで知られ、王以外には土井正三・黒江透修・高田繁らを育成し、巨人の第3次黄金時代を支えた。


川島慶三: ヤクルトへ移籍する際に、2007年まで日本ハムのゼネラルマネージャー(GM)を務めていたヤクルト元監督高田繁は川島を高く評価しており「出血覚悟で藤井の名前を出したら乗ってきた」と語っていた。


坪井新三郎: 浪商高では高田繁と同期であった。


中畑清: 入団当時の巨人は、王貞治、張本勲、土井正三、高田繁らが現役で活躍しており、選手層が厚かったため、入団後3年間は一軍での出番に恵まれなかった。


原田治明: しかし高田繁、柴田勲、末次民夫のレギュラー陣には割って入れず、その後は主に代打として出場する。


西沢正次: この時の試合は、1回裏に柴田勲の先頭打者本塁打などで2点を先制され、2回裏にも新浦と高田繁の適時打で2点を追加され巨人ペースの展開になる。


村山実: 1973年3月21日に行われた巨人戦(オープン戦、甲子園)で引退試合が行われ、7回に登板してから高田繁・末次利光・王貞治からフォークボールで三振を奪い、有終の美を飾る。


工藤公康: 工藤はこの時鹿取義隆と達川光男の入閣を要求したが、高田繁GMにより却下されている。


デーブ=ジョンソン: 張本勲の移籍により塀際の魔術師と呼ばれた左翼手から三塁手にコンバートされた高田繁も「併殺場面の三塁ゴロは捕ったら二塁ベースあたりに投げれば悪送球でもOK、デービーが簡単に一塁に転送してゲッツーが成立した。


藤沢哲也: 柴田勲、高田繁に連続本塁打を喫するが、この年三冠王の王貞治から三振を奪った。


萩原康弘: 当時の巨人は高田繁、柴田勲、末次民夫が不動の外野陣を構成していたが、1971年シーズン前半には末次に代わり右翼手として起用される。


高倉照幸: 6月末には新人の高田繁が左翼手に定着し、レギュラーを外れる。


原辰徳: 背番号については前年限りで監督を退任した長嶋茂雄が「できることなら(永久欠番になっている)僕の3を譲りたい」と言うほどの惚れこみようだったが、高田繁の引退に伴い空いた8となった。


月亭八方: まずはプロ野球選手を目指そうと浪商高校に進学するものの、周りのレベルの高さから夢を断念(2学年上には主将の高田繁がいる)。


栗山英樹: 2007年には、栗山の古巣であるヤクルトの選手兼任監督・古田敦也の引退により監督候補の一人として挙がったが、実現しなかった(最終的に高田繁が就任)


富田勝: シーズン後半にジョンソンが故障して欠場した間は三塁手として起用されるが結果を残ず、それまでレフトを守っていた高田繁にサードのレギュラーを奪われた。


外木場義郎: 高橋慶彦によると、外木場のカーブの切れは凄まじく、高田繁(巨人)が面食らって尻もちをついたことがあるという。


戸田善紀: 同年の夏は大阪大会準決勝で浪商のエース高田繁に投げ勝つが、決勝では和田徹のいた明星高に敗れる。


新庄剛志: なおその決意はあらかじめ専属広報の荒井修光へのみ明かしており、試合中の発表直前に荒井の判断でGMの高田繁など一部の関係者へのみ伝えられていた。


中畑清: 就任のきっかけを作ったのは12月5日にDeNAのゼネラルマネージャーに就任したばかりだった巨人時代の先輩・高田繁で、工藤公康との監督就任打診の交渉が難航していた頃、高田はふと中畑のことが頭に浮かび、自宅の柿の木になっていた甘柿を10個切るとママチャリのカゴに入れ、普段着のジーパン姿のまま自転車で中畑家を訪問。


アダム=リグス: また、直後に古傷の右太ももの痛みを訴えたことに監督の高田繁は「(二軍に)落ちてすぐ痛いとか言っているし、やる気が感じられない」と激怒し、即刻戦力構想外となり7月11日にウェイバー公示、7月17日に自由契約公示され、シーズン途中で退団した。


倉本寿彦: しかし、高木豊は遊撃手としての守備に厳しい評価を下し、ゼネラルマネージャーだった高田繁からは守備範囲が狭いことを指摘されていた。


三浦大輔: 三浦はこの試合後に高田繁GMへ現役引退を申し入れ、球団側も引退を了承した。


高田繁の情報まとめ

もしもしロボ

高田 繁(たかだ しげる)さんの誕生日は1945年7月24日です。大阪出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

現在、病気、卒業、兄弟、父親、母親、引退、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。高田繁の現在の年齢は79歳のようです。

高田繁のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

高田 繁(たかだ しげる、1945年7月24日 - )は、大阪府大阪市住吉区(現・住之江区)出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ・監督。横浜DeNAベイスターズのゼネラルマネージャーを経て、現在はディー・エヌ・エーのフェロー。

セ・リーグ初の外野手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。

大阪市立加賀屋中学校時代は成績優秀であったため、当初は大阪府立岸和田高校への進学を希望していたが、野球をしたいがために途中で志望を変更。最終的には1961年に浪商高校へ入学し、1年次の同年は2年生エース・尾崎行雄を擁して夏の甲子園に出場。準決勝では甲子園で二度敗れている法政二高と対戦し、尾崎と法政二高のエース柴田勲との投げ合いとなり、延長11回の熱戦の末4-2で勝利。決勝では和歌山県立桐蔭高校に苦戦するが1-0で降し優勝を飾る。高田は1年生で唯一のベンチ入りメンバーとなっていた。ベンチ入りできる最後の背番号「14」をもらっていたが、当時の左翼手は、後に薮田安彦の父となる薮田明がレギュラーであった。ところが甲子園で病気になって、2回戦から高田が出場することになった。この時のチームメートには、いずれも3年生の大塚弥寿男、住友平、大熊忠義が揃っていた。尾崎を擁し3番打者・右翼手として同年の秋季近畿大会府予選に出場。決勝で中塚政幸のいたPL学園高校を破るが、直後の11月6日に尾崎は高校を中退しプロ入り、エースを失った浪商は近畿大会1回戦で滋賀県立甲賀高校に敗れた。その後は竹内啓監督から「お前が投げろ」と尾崎の後継に指名され、2年次の1962年から投手に回り、夏は大阪大会準々決勝で溜池敏隆のいた興国商業高校に敗退。3年次の1963年夏は大阪大会準決勝に進出するが、PL学園高校の戸田善紀と投げ合い2-3で惜敗、甲子園には届かなかった。

子供の頃から南海ホークスファンであった高田は、高校在学中鶴岡一人監督から「内野手として採るから来て欲しい」と誘われるが、高校卒業後の1964年に明治大学へ進学。高田が明大に進んだのは、大学でプレーするならどうしても明治神宮野球場で、東京六大学野球リーグでやりたかったからであり、明大に決めたのは、2学年上の住友が熱心に誘ってくれたのがきっかけであった。高田は6人兄弟の下から2番目で、父親は普通のサラリーマンであったため、経済的にも苦しく、「(授業料の免除がある)関西の大学へ行ったらどうだ」と言われていた。金がかかるのは分かっていたが、「頼むから明治に行かせてくれ」と頭を下げ、最終的には母親父親を説得してくれた。

入学するまで、島岡吉郎監督のことは全く知らず、野球部に入部。1年次の1964年春、練習試合でミスをした4年生が鬼の形相の島岡に怒られ、直立不動になって殴られているところを目撃。入部して、初めて島岡の恐ろしさを実感させられたが、在学中は大学球界を代表する中堅手として活躍。東京六大学野球リーグでは優勝こそなかったものの、1年次の同年秋季リーグから7季連続ベストナインを受賞し、7度のベストナインは現在も六大学記録である。春に首位打者を獲得した2年次の1965年にマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会(東京六大学選抜チームが日本代表)、主将となった4年次の1967年に東京で開催された第7回アジア野球選手権大会に連続出場、いずれも日本の優勝に貢献した。リーグ通算102試合に出場し、打率.331(384打数127安打)、5本塁打、29打点、48盗塁を記録。通算127安打は2015年に明大の後輩で左打者の髙山俊が更新するまで東京六大学記録であったが、右打者では現在も歴代最多である。尚、自身の子息も明大野球部出身で社会人まで内野手としてプレーした。

大学進学後も南海が第一志望であったが、1967年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。背番号は「8」。当時巨人はV9のうちの3連覇中でレギュラーも盤石と言われていたことから本人は、周りは喜んでいたが自分はそれでは試合に出られない(出る機会が少なそう)と思ったことから「俺は(巨人には)一番行きたくなかった」と話していたことがある。1年目の1968年は開幕2戦目から1番打者・中堅手として起用され、6月末には高倉照幸に代わり左翼手に定着。規定打席には届かなかったが、打率.301、23盗塁を記録して新人王を獲得。同年の阪急との日本シリーズでは、全6試合に1番打者として出場、26打数10安打と活躍しシリーズMVPを受賞する。2年目の1969年にはリーグ4位の打率.294で、初のベストナイン(外野手)に選出された。1971年には38盗塁を記録し、柴田勲を抑え初の盗塁王となる。1973年の南海との日本シリーズでは第3戦で3安打、第4戦で3四球を選ぶなど活躍、シリーズ優秀選手賞を獲得した。俊足・強肩・強打と走攻守の三拍子揃った外野手として、V9時代の巨人を支えるが、1975年は打撃の低迷に苦しみ、淡口憲治の台頭もあってシーズン後半には出場機会が減る。

同年オフには日本ハムファイターズから張本勲が移籍入団。張本が左翼手を希望したこともあり、長嶋茂雄監督に三塁手へのコンバートを通告される。これによって長嶋の後継三塁手として前年に獲得したデービー・ジョンソンの守備負担を軽減するため、本来の守備位置である二塁手に回す構想も実現する。高田が日本プロ野球で初めて外野手から内野手(一塁手を除く)に守備をコンバートされた選手と言われることもあるが、実際には丸山完二、苑田聡彦、上垣内誠等の例がある。三塁手となって愛用していた青色のグラブは「高田モデル」として野球少年の人気を博した。

正月返上の猛特訓で三塁守備をものにし、1976年開幕から三塁手として定着。内野手にコンバートされた1年目にもかかわらず、打率.305(10位)の好成績(規定打席以上としては生涯唯一の3割)を残し、ダイヤモンドグラブ賞を外野手に続いて獲得した。外野手・内野手両方での受賞経験は史上初だった。後に西村徳文も内野手→外野手で受賞するが、外野手→内野手の順での受賞は2012年に稲葉篤紀が一塁手として受賞するまで唯一の存在であった。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、最終第7戦で足立光宏から本塁打を放つ。翌1977年の阪急ブレーブスとの日本シリーズは全5試合とも安打を記録し、20打数6安打の好成績を残した。

1979年までレギュラーを守るが、1980年には中畑清に定位置を譲り、主に左翼手として出場。自身初のリーグ最多犠打を記録する。同年10月に長嶋の監督解任があり、高田も守備の衰えを感じたという理由(打撃成績も前年から大きく落としていた)で、35歳の若さで現役引退を決める。引退セレモニーは同年オフの巨人ファン感謝デーにて王貞治と共に行った。

引退後はNHK野球解説者(1981年 - 1984年)を経て、1985年から1988年まで日本ハムファイターズ監督を務めた。初年度は総得点が総失点を上回った歴代のチームの中では史上最低の勝率(.449)を記録し、1985年・1986年と2年連続5位、1987年から1988年は2年連続3位でAクラスを確保した。勝率は負け越している。1981年優勝メンバーが下り坂を迎え過渡期にあったチームを若手へシフトチェンジ。高代慎也に代わって高卒2年目の田中幸雄を遊撃手に抜擢し、白井一幸は2年目に二塁手の定位置をつかみ、田村藤夫を正捕手に抜擢し、松浦宏明をリリーフ起用し、1987年はルーキーの西崎幸広を先発ローテーションに入れて投手の軸に据えた。1988年は西崎、松浦が15勝で最多勝利、途中から抑えに回った河野博文が最優秀防御率を獲得した。田中は「当時は大胆な若返りを図って、チームを変えようという時期だったからシーズン25個もエラーしたのに我慢して使ってもらえたんですね。高田さんが監督でなければおそらく今の私はなかった。」と述べている。二軍投手コーチであった村上雅則は、松浦を一軍に送り出したことを大沢啓二球団常務に評価され1987年オフに一軍投手コーチへの配置転換の話が出たが、高田が村上の一軍コーチ加入を拒否したため、二軍コーチで留任することになった。一軍投手コーチは、阪神へ移籍した大石清の後任として嘗ての同僚で中日ドラゴンズのスカウトであった高橋良昌を招聘。補強では大学の後輩である星野仙一が監督となった中日と田中富生、大宮龍男 - 大島康徳、曽田康二の交換トレードのほか、やはり大学の後輩で退部騒動の渦中にあった武田一浩をドラフト1位指名するなどの動きを見せた。

退任後は再びNHK野球解説者(1989年 - 1991年)を務め、1992年には古巣・巨人にヘッドコーチとして復帰したが、藤田元司監督の退任に伴い1年で退団。この頃、子女がプロ野球ニュースのリポーターを務めていた。その後は日本テレビ「劇空間プロ野球」・ラジオ日本「ジャイアンツナイター」野球解説者(1993年 - 1995年)を経て、再び巨人に復帰。一軍外野守備・走塁コーチ(1996年 - 1997年)→二軍監督(1998年 - 2001年)を務め、1996年のメークドラマに貢献。その後はラジオ日本野球解説者(2002年 - 2004年)を務めた。

2005年から2007年にかけて、北海道日本ハムファイターズゼネラルマネージャーを務めた。

2006年にチームは日本シリーズを制し、アジアシリーズでも優勝。アジア一を経験した日本初のGMとなり、2007年も日本ハム初のパ・リーグ連覇を達成している。編成権を握るチーム統括部などと積極的に会議を繰り返し、現場経験者としての貴重なアドバイスを送り、就任初年度はチーム遠征にも同行した。こうしたフロント改革の成果として、日本ハム優勝の一つの力となった、藤井純一社長と島田利正チーム統括本部長が運用の「選手評価システム」が挙げられる。2005年・2006年のドラフトで獲得したルーキー投手(武田勝、吉川光夫、木下達生ら)の活躍も話題になっている。投手であった糸井嘉男を野手に転向させたのも高田といわれている。

日本ハムGM職初仕事となったダルビッシュ有の入団交渉に際しては、ダルビッシュの母が現役時代の高田の熱烈なファンであったため、指名の挨拶の斬込み役として交渉をスムーズにしたといわれる。MLBを目指してFA宣言した稲葉篤紀を、アメリカ球界からのオファー切れを待つ姿勢を見せて招聘したときも、交渉役を務めている。

2008年より、東京ヤクルトスワローズ監督に就任。背番号は現役時代の番号を重ね合わせた88。

2007年 - 2008年シーズンオフに神宮球場が拡張工事されたことで、3億と高年俸に加え守備に難のある主砲アレックス・ラミレスを放出。高田率いるヤクルトは機動力を重視し、スモールベースボールを掲げた(球場の特性や主軸の流出からスモールボールに切り替えるパターンは、日本ハムのパターンと似ている)。かつてGMだった日本ハムから川島慶三、押本健彦、橋本義隆、萩原淳が移籍。韓国からは林昌勇、ダニエル・リオスをそれぞれ獲得するなど積極的な補強・選手の入れ替えを行った。また俊足の福地寿樹、巨人を戦力外通告された斉藤宜之を獲得した。

2008年シーズンは福地がリードオフマンとして活躍。またチーム事情で三塁手だった飯原誉士が本職の左翼手に収まり躍進。空いた三塁にはチームリーダーで名手の宮本慎也がコンバートされ、遊撃には宮本の後継者として期待する川島慶三が積極的に試用された。一塁には中盤以降ファームの主砲畠山和洋が起用され結果を残した。福地が42盗塁を記録、盗塁王を獲得したのをはじめ、青木宣親、飯原誉士、川島慶三などの選手が積極的に盗塁することでチーム盗塁数が12球団最多の148を記録。投手陣は前年の勝ち頭セス・グライシンガーが退団、巨人へ移籍。獲得した外国人選手も林昌勇を除き活躍しなかったが、前年壊滅状態だった投手スタッフが積極的なメンバー入れ替え、村中恭兵、押本健彦、松岡健一など若手の台頭で整備されたことでチーム防御率も3点台に回復、最下位を脱出し5位となったが、中継ぎ左腕不在に泣いた。この盗塁、ヒットエンドラン、バントなどを積極的に多用し、終盤まで中日ドラゴンズ・広島東洋カープとクライマックスシリーズ進出争いをしていたが、終盤に大型連敗したことで最終的に5位となった。

2009年も積極的に補強に乗り出し、12球団合同トライアウトで中日ドラゴンズから森岡良介、福岡ソフトバンクホークスから吉本亮、オリックス・バファローズから田中祐貴を獲得し、また球団史上初のFA補強選手として横浜から相川亮二を獲得、外国人も韓国から補強ポイントだった左腕の李惠踐、おなじく左腕のリッキー・バレット、野手では長打力強化のためにジェイミー・デントナを獲得、さらに開幕直前に楽天から一場靖弘を宮出隆自とのトレードで獲得した。シーズンではチームを3年ぶりのAクラス入りへ導いた。

2010年は開幕当初は3カード連続勝ち越しと上々のスタートを見せたが、4月中旬以降になり急激に失速。連勝すら挙げられなくなる。5月にセ・パ交流戦が始まってからは全く勝てなくなり、球団に進退伺いを出す事態となる。6連敗となった5月20日、球団から慰留を受け一度は辞任を思い留まるものの、その後も2連敗。5月23日にはテコ入れとして、打撃アドバイザーに伊勢孝夫を招聘。5月26日には一部メディアで「辞任」と報じられる。本人は一旦は否定したものの、同日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(明治神宮野球場)でも敗れ、9連敗となる。試合後、改めて辞任を申し出て了承された。ここまで13勝32敗1分の借金19で、リーグ最下位。特に4月24日以降は、2勝20敗と大きく負け越した。後任には、ヘッドコーチの小川淳司がシーズン終了まで監督代行を務めることとなった。連敗に業を煮やした少年ファンから「高田、やめちまえ」と罵声を浴びたことが、最終的に辞任に踏み切らせたという。

退任後の2011年にはテレビ北海道「TVhファイターズ中継」・GAORA「プロ野球中継」野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を務めていた。

2011年12月5日、横浜DeNAベイスターズがゼネラルマネージャー(GM)を新設したのに伴い、その初代GMに正式に就任。なお同日の就任会見の席で、監督就任を要請していた工藤公康の起用断念を発表した。この工藤との交渉で難航していた頃、高田はふと中畑清のことが頭に浮かび、自宅の柿の木になっていた甘柿を切ってママチャリのカゴに入れ、普段着のジーパン姿のまま自転車で中畑家を訪れると、『工藤の条件が厳しくて、もし破談になったら監督をやってみる気はあるか?でも、保険なんだけどな』と中畑に柿を渡しながら告げると、返事もまともに聞いていないのに翌日に中畑DeNA初代監督就任決定と出した。中畑は後に「今考えれば、あの甘柿が契約金だった」と語っている。

スカウト陣を駆使して三嶋一輝・三上朋也・山﨑康晃・関根大気等をドラフトで獲得するかたわら、それまでチームの中心選手だった金城龍彦らベテランを放出し若手重視の編成を行った。

2015年10月、最下位となった責任をとり中畑が監督を辞任したため、2011年12月 - 2013年10月にベイスターズに選手として所属していたアレックス・ラミレスを一軍監督に抜擢した。

高浦美佐緒(2012年 - 2014年二軍バッテリーコーチ)は「高田さんがGMになってやりやすくなった。若い選手を使うようになった。竹田(光訓…ファームディレクター・GM補佐)が厳しい目で選手を見極めそれを高田さんに推薦し一軍に上げて監督に使うように促してくれる。一軍は実績のある選手を使いたがる傾向がありますが、今は違います。高田さんから『怒鳴る指導はやめてくれ』と言われています。選手がやりやすい環境を作ってくれています」と語っている 。

2018年10月11日、球団からGM退任が発表された。25日に行われたドラフト会議では、1位指名がオリックス・ソフトバンク・広島と競合した小園海斗の抽選でくじ引きの場に立ったが外し、球団は上茶谷大河を獲得した。退任後はディー・エヌ・エーのフェローに就任し、経営陣へのアドバイスなどを行う活動に従事する。

DeNAの球団自体には所属していないため、学生野球資格回復研修を経て、2019年2月5日に同資格の回復が認定された。

大学時代から両拳を離してバットを握る独特のスタイル。そのためバットのヘッドが返ることでレフト線への強烈な打球がしばしばファウルになり、「高田ファウル」と名付けられるほどの極端な引っ張りが特徴で、当時の打撃コーチだった荒川博は打球の方向を修正するためにかなり苦心したが、結局直らなかったという。荒川は高田について「言われたことは何でも『ハイ!』と素直に聞いてくれたが、試合になると結局元に戻っていた。もしかしたら守備に比べたら、あまりまじめに取り組んでいなかったんじゃないかな」と述懐している。また荒川は「もし矯正できていれば、コンスタントに年間30本塁打できる選手になれた」とも語っている。

打席ではファウルを連発し、よく粘ることで相手ピッチャーの投球数を稼がせるのが常套手段であった。

1番を打つ柴田勲が赤い手袋をトレードマークにしており、高田は青色の手袋を愛用するようになった。

上述のとおり、大学時代は強肩俊足の中堅手として高く評価されていたが、巨人では柴田勲が不動のレギュラーとして存在しており、左翼手への転向を余儀なくされた。そのような経緯にもかかわらず、高田はプロ野球史上でも屈指の名左翼手の呼び声が高い。中でも外野フェンスに当たった打球がどのようにはね返るかを正確に先読みし、本来なら二塁打となる当たりを単打にとどめてしまうというプレー(“高田ヒット”と称された)を得意としたことから「壁際の魔術師」と呼ばれた。どの球場においても三塁線を抜いた打球が左翼フェンスのどこに当たり、どの角度で跳ね返るかを把握していた。そしてゴロを捕球した際、今度は二塁ベースがどこにあるか把握できており、目をつぶっても送球できたという。

また、クッションボールの正確な処理もさることながら高田自身は「クッションに入れないことを第一に考えた」と語っており、打者のスイングから打球の方向を見極め、常に打球への最短距離を走るように努めたという。その守備範囲の広さ、打球への反応の速さは長嶋茂雄に「オレの後ろにもう一人三塁手がいたようなもの」と言わしめた。ある試合で、田淵幸一の打ち返した打球が長嶋がファウルだと思うほどのライン際で、長嶋が「ファウルだファウルだ」とアピールする中、高田がこの打球を素早く処理し田淵を二塁アウトにし、長嶋が一転して「やっぱりフェア、アウトアウト」とアピールし直したこともあるという。このプレーは田淵も覚えており、「いくら僕が足が遅いといったって、あれは完全な二塁打コース。あれで高田さんに逆らうのはやめよう(一塁にとどまろう)と思った」と語っている。

高田を内野手に転向させたのは長嶋茂雄だが、その長嶋自身が「高田の魅力は内野手より外野手でしょう」と語っている。

1980年に引退した際、「イメージと捕球位置との間、20cmぐらいの誤差が出るようになりました。プロとしては失格ですよ」と述べている。

当時の巨人はV9時代であり、レギュラーもほとんどが固定している中で、高田は厳しい競争を勝ち抜いてレギュラーを勝ち取った。その一方で選手からの信望も厚かったという。当時監督の川上哲治は、高田について「実にスマートな生き方をした選手。自分勝手に気ままにやりながら誰からも憎まれも嫌われもせず、逆に良く好かれていた。努力も相当したんだろうけど、彼には努力の跡はまるで感じられず、ただ良い選手だったという事だけが強く残っている」と語っている。

各年度の太字はリーグ最高

盗塁王:1回(1971年)

新人王(1968年)

ベストナイン:4回(外野手部門:1969年 - 1972年)

ダイヤモンドグラブ賞:6回(外野手部門:1972年 - 1975年、三塁手部門:1976年、1977年) ※外野手・内野手の双方での受賞は史上初、外野手→内野手の順での受賞も初の事例。1972年は山本浩二、柴田勲と共に外野手部門でのセ・リーグ史上初の受賞、複数部門に跨がって6年連続は歴代最長

日本シリーズMVP:1回(1968年) ※新人選手の受賞は1960年の近藤昭仁に続く2人目

日本シリーズ技能賞:1回(1969年)

日本シリーズ優秀選手賞:1回(1973年)

初出場:1968年4月6日、対大洋ホエールズ1回戦(後楽園球場)、7回表に高倉照幸に代わり左翼手で出場

初打席・初安打:同上、8回裏に平松政次から

初先発出場:1968年4月7日、対大洋ホエールズ2回戦(後楽園球場)、1番・左翼手で先発出場

初打点:1968年5月4日、対中日ドラゴンズ4回戦(後楽園球場)、7回裏に山中巽から2点適時打

初本塁打:1968年5月14日、対大洋ホエールズ3回戦(川崎球場)、9回表に佐々木吉朗からソロ

1000試合出場:1976年4月16日、対広島東洋カープ4回戦(広島市民球場)、6番・三塁手で先発出場 ※史上185人目

100本塁打:1976年6月25日、対中日ドラゴンズ11回戦(後楽園球場)、7回裏に金井正幸から左越2ラン ※史上88人目

1000安打:1976年9月2日、対大洋ホエールズ23回戦(後楽園球場)、3回裏に根本隆から中前安打 ※史上97人目

1500試合出場:1980年9月2日、対阪神タイガース19回戦(阪神甲子園球場)、1回表に偵察要員・定岡正二の代打で出場 ※史上63人目

1試合6安打:1974年5月10日、対中日ドラゴンズ5回戦(中日スタヂアム) ※史上7人目、2リーグ制後最多タイ

オールスターゲーム出場:8回(1968年 - 1973年、1975年、1976年)

8(1968年 - 1980年)

80(1985年 - 1988年)

72(1992年)

78(1996年 - 2001年)

88(2008年 - 2010年)

※上記はいずれも公式試合の記録

NHKプロ野球(1981年~1984年、1989年~1991年)

Dramatic Game 1844(日本テレビ系列) - 同系列プロ野球中継の現行タイトル。(1993年~1995年)

ラジオ日本ジャイアンツナイター(RFラジオ日本)(2002年~2004年)

GAORAプロ野球中継(日本ハム戦)(2011年~)

TVhファイターズ中継(テレビ北海道)

サンデーモーニング(TBS系列)- 2010年10月24日の「御意見番スポーツ」コーナーに、同月逝去した大沢啓二の代役として出演。ヤクルト監督退任後、初めてメディアに登場した。

巨人の星

新巨人の星

侍ジャイアンツ

野球狂の詩 - 実名で登場し、主人公の水原勇気と対決した。

それゆけ!レッドビッキーズ 第53話「優勝旗はぼくらのものだ」(1981年、ABC) - 本人役

^ 巨人でこの背番号は、高田から続く3人が連続して新人王を獲得している。ちなみに2人目は、高田が現役引退した翌1981年入団の原辰徳で、3人目は原が引退した翌1996年入団の仁志敏久である。余談だが、この背番号から新人王が出た年に巨人はリーグ優勝を達成している(高田と原の時は日本一も達成)。

^ 張本の入団で高田は球団にトレードを志願した。しかし長嶋に慰留され、加えて守備位置変更を要請された。

^ シーズン終了後に正式に監督に就任、2014年まで指揮を執った。

^ 認定者一覧では「髙田繁」名義になっている。

^ 1985年から1996年までは公式試合130試合制、2007年から2014年までは144試合制

^ 開幕から5月26日まで

^ 辞任した5月26日時点では最下位。最終的には4位

^ 高田繁GM 退任のお知らせ 横浜DeNAベイスターズ、2018年10月11日掲載

^ “三井ゴールデングラブ賞 歴代受賞選手”. 2021年2月17日閲覧。

^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年

^ 【私の失敗(4)】高田繁、浪商エースで甲子園立てず…投手断念

^ 【私の失敗(5)】高田繁、御大・島岡監督のおそろしさに「こんなはずでは…」

^ 『明治大学野球部 - 「人間力野球」の軌跡』(ベースボール・マガジン社)P19。 ISBN 978-4583621197

^ 小学館『サライ』2010年10月号

^ “「巨人は一番、行きたくなかった」“V9戦士”高田繁(78)が語る22歳の新人時代「夏は昼から炎天下の後楽園で…」「(二軍降格は)土井さんが悪い」”. Number Web. 文藝春秋 (2024年5月15日). 2024年5月17日閲覧。

^ 高田繁、長嶋監督に呼び出され…トレード覚悟

^ 【11月15日】1975年(昭50) サード・高田繁デビュー 長嶋監督「去年までのサードよりうまい」

^ ファイターズ50年史(B.B.MOOK1651)、ファイターズ「指揮官列伝」、ベースボール・マガジン社、2024年、99頁

^ ファイターズ50年史、76頁

^ ファイターズ50年史、田中幸雄「ミスター・ファイターズの回想、83頁

^ スポーツニッポン2016年7月30日付連載記事「我が道」より、村上談

^ “糸井、涙の引退 超人は最後まで超人打 「甲子園、ありがとう」19年の現役生活に幕”. デイリースポーツ online (2022年9月22日). 2022年10月26日閲覧。

^ ヤクルト・高田監督が成績不振を理由に辞任 - サンケイスポーツ 2010年5月26日

^ 「やめちまえ」少年ファンの声に戦意喪失 ヤクルト・高田監督 - 朝日新聞 2010年5月26日

^ 高田繁、朝の4時過ぎまで眠れなかった監督時代 - サンスポ 2015年4月23日

^ “高田GM就任を発表…横浜DeNA”. スポーツ報知. (2011年12月5日). https://web.archive.org/web/20111207111142/http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20111205-OHT1T00172.htm 

^ “横浜が工藤氏の監督起用断念”. 毎日新聞. (2011年12月5日). http://mainichi.jp/enta/sports/news/20111205k0000e050179000c.html?inb=fs 

^ 『【ありがとう!中畑清!】#5 横浜DeNAにいた4年間は楽しかった!珍監督就任秘話から横浜への思いを赤裸々に語ります』デーブ大久保チャンネル、2020年7月16日。YouTubeより。

^ 『プロ野球ロワイヤル』配信直前記念!プロデューサー馬場保仁氏 × 横浜DeNAベイスターズGM高田繁氏インタビュー【前編】

^ 野球太郎 No.025 2017ドラフト総決算&2018大展望号 (廣済堂ベストムック 375)、廣済堂出版、52頁

^ “学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者”. 公益財団法人日本学生野球協会. 2022年9月29日閲覧。

^ どれだけ分かる? ミスター、ムース、ハンカチ王子…球界を彩った"ニックネーム"の歴史 | Full-Count

^ “【野球】契約更改で不満ぶつけ一喝された過去「バカ野郎、じゃあ3割、30本打て」 V9戦士高田繁さんが再認識した川上野球での役割/デイリースポーツ online”. デイリースポーツ online (2025年2月7日). 2025年2月7日閲覧。

^ 文春Numberビデオ「巧守好走列伝」

^ “【中日】大島洋平、1試合6安打!セ・リーグタイ記録!球団史上初の快挙 なおドラゴンズは…”. スポーツ報知. (2022年8月3日). https://hochi.news/articles/20220803-OHT1T51259.html?page=1 2022年8月4日閲覧。 

大阪府出身の人物一覧

明治大学の人物一覧

読売ジャイアンツの選手一覧

朝刊 (グレープの曲)(1975年 作詞:さだまさし) - 歌詞に「また巨人が負けたってさって 高田の背番号も知らないくせに」と出てくる。

個人年度別成績 高田繁 - NPB.jp 日本野球機構

選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

西垣徳雄 1950 - 1953

藤田宗一 1954 - 1955

宇野光雄 1956 - 1960

砂押邦信 1961 - 1962

浜崎真二 1963

林義一 1964 - 1965

砂押邦信 1965

飯田徳治 1966 - 1967

別所毅彦 1968 - 1970

三原脩 1971 - 1973

荒川博 1974 - 1976

広岡達朗 1976 - 1979

武上四郎 1980 - 1984

土橋正幸 1984 - 1986

関根潤三 1987 - 1989

野村克也 1990 - 1998

若松勉 1999 - 2005

古田敦也 2006 - 2007

高田繁 2008 - 2010

小川淳司 2011 - 2014

真中満 2015 - 2017

小川淳司 2018 - 2019

髙津臣吾 2020 - 現在

横沢三郎 1946

苅田久徳 1947 - 1948

井野川利春 1949

安藤忍 1950 - 1951

井野川利春 1952 - 1954

保井浩一 1955

岩本義行 1956 - 1960

水原茂 1961 - 1967

大下弘 1968

松木謙治郎 1969 - 1970

田宮謙次郎 1970 - 1973

土橋正幸 1973

中西太 1974 - 1975

大沢啓二 1976 - 1983

植村義信 1984

大沢啓二 1984

高田繁 1985 - 1988

近藤貞雄 1989 - 1991

土橋正幸 1992

大沢啓二 1993 - 1994

上田利治 1995 - 1999

大島康徳 2000 - 2002

トレイ・ヒルマン 2003 - 2007

梨田昌孝 2008 - 2011

栗山英樹 2012 - 2021

BIGBOSS・新庄剛志 2022 - 現在

1950 別当薫

1951 南村不可止

1952 別所毅彦

1953 川上哲治

1954 杉下茂

1955 別所毅彦

1956 豊田泰光

1957 大下弘

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 近藤昭仁

1961 宮本敏雄

1962 土橋正幸, 種茂雅之

1963 長嶋茂雄

1964 J.スタンカ

1965 長嶋茂雄

1966 柴田勲

1967 森昌彦

1968 高田繁

1969 長嶋茂雄

1970 長嶋茂雄

1971 末次民夫

1972 堀内恒夫

1973 堀内恒夫

1974 弘田澄男

1975 山口高志

1976 福本豊

1977 山田久志

1978 大杉勝男

1979 高橋慶彦

1980 J.ライトル

1981 西本聖

1982 東尾修

1983 大田卓司

1984 長嶋清幸

1985 R.バース

1986 工藤公康

1987 工藤公康

1988 石毛宏典

1989 駒田徳広

1990 O.デストラーデ

1991 秋山幸二

1992 石井丈裕

1993 川崎憲次郎

1994 槙原寛己

1995 T.オマリー

1996 T.ニール

1997 古田敦也

1998 鈴木尚典

1999 秋山幸二

2000 松井秀喜

2001 古田敦也

2002 二岡智宏

2003 杉内俊哉

2004 石井貴

2005 今江敏晃

2006 稲葉篤紀

2007 中村紀洋

2008 岸孝之

2009 阿部慎之助

2010 今江敏晃

2011 小久保裕紀

2012 内海哲也

2013 美馬学

2014 内川聖一

2015 李大浩

2016 B.レアード

2017 D.サファテ

2018 甲斐拓也

2019 Y.グラシアル

2020 栗原陵矢

2021 中村悠平

2022 杉本裕太郎

2023 近本光司

2024 桑原将志

1953 与那嶺要

1954 本多逸郎

1955 木塚忠助

1956 関口清治

1957 和田博実

1958 川上哲治

1959 岡本伊三美

1960 鈴木武

1961 中村稔

1962 張本勲

1963 広岡達朗

1964 小池兼司

1965 王貞治

1966 王貞治

1967 高倉照幸

1968 王貞治

1969 高田繁

1970 王貞治

1971 王貞治

1972 末次民夫

1973 王貞治

1974 有藤通世

1975 福本豊

1976 B.マルカーノ

1977 大熊忠義

1978 D.ヒルトン

1979 三村敏之

1957 豊田泰光

1958 中西太

1959 杉山光平

1960 近藤和彦

1961 塩原明

1962 岩下光一

1963 王貞治

1964 K.ハドリ

1965 林俊彦

1966 長嶋茂雄

1967 D.スペンサー

1968 柴田勲

1969 足立光宏

1970 黒江透修

1971 黒江透修

1972 長嶋茂雄

1973 高田繁

1974 山崎裕之

1975 中沢伸二, 外木場義郎

1976 B.ウイリアムス

1977 福本豊

1978 若松勉

1979 水谷実雄

1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰

1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正

1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義

1983 田淵幸一, テリー, 中畑清

1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊

1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二

1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実

1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己

1988 清原和博, 森山良二, 郭源治

1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸

1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤

1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎

1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也

1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也

1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦

1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾

1996 大島公一, 鈴木平, イチロー

1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛

1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広

1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司

2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成

2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満

2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之

2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎

2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信

2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁

2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲

2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博

2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広

2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一

2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平

2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩

2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー

2013 田中将大, 銀次, 内海哲也

2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太

2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太

2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔

2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大

2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃

2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩

2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐

2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎

2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆

2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸

2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ

1950 金山次郎

1951 土屋五郎

1952 金山次郎

1953 金山次郎

1954 吉田義男

1955 本多逸郎

1956 吉田義男

1957 飯田徳治

1958 岡嶋博治

1959 岡嶋博治

1960 中利夫

1961 近藤和彦

1962 河野旭輝

1963 高木守道

1964 古葉竹識

1965 高木守道

1966 柴田勲

1967 柴田勲

1968 古葉竹識

1969 柴田勲

1970 東条文博

1971 高田繁

1972 柴田勲

1973 高木守道

1974 中塚政幸

1975 大下剛史

1976 衣笠祥雄

1977 柴田勲

1978 柴田勲

1979 高橋慶彦

1980 高橋慶彦

1981 青木実

1982 松本匡史

1983 松本匡史

1984 高木豊

1985 高橋慶彦

1986 屋鋪要, 平野謙

1987 屋鋪要

1988 屋鋪要

1989 正田耕三

1990 緒方耕一, 野村謙二郎

1991 野村謙二郎

1992 飯田哲也

1993 緒方耕一, 石井琢朗

1994 野村謙二郎

1995 緒方孝市

1996 緒方孝市

1997 緒方孝市

1998 石井琢朗

1999 石井琢朗

2000 石井琢朗

2001 赤星憲広

2002 赤星憲広

2003 赤星憲広

2004 赤星憲広

2005 赤星憲広

2006 青木宣親

2007 荒木雅博

2008 福地寿樹

2009 福地寿樹

2010 梵英心

2011 藤村大介

2012 大島洋平

2013 丸佳浩

2014 梶谷隆幸

2015 山田哲人

2016 山田哲人

2017 田中広輔

2018 山田哲人

2019 近本光司

2020 近本光司

2021 中野拓夢

2022 近本光司

2023 近本光司

2024 近本光司

1950 大島信雄

1951 松田清

1952 佐藤孝夫

1953 権藤正利

1954 広岡達朗

1955 西村一孔

1956 秋山登

1957 藤田元司

1958 長嶋茂雄

1959 桑田武

1960 堀本律雄

1961 権藤博

1962 城之内邦雄

1964 高橋重行

1966 堀内恒夫

1967 武上四郎

1968 高田繁

1969 田淵幸一

1970 谷沢健一

1971 関本四十四

1972 安田猛

1974 藤波行雄

1976 田尾安志

1977 斉藤明雄

1978 角三男

1979 藤沢公也

1980 岡田彰布

1981 原辰徳

1982 津田恒美

1983 槙原寛己

1984 小早川毅彦

1985 川端順

1986 長冨浩志

1987 荒井幸雄

1988 立浪和義

1989 笘篠賢治

1990 与田剛

1991 森田幸一

1992 久慈照嘉

1993 伊藤智仁

1994 藪恵市

1995 山内泰幸

1996 仁志敏久

1997 澤﨑俊和

1998 川上憲伸

1999 上原浩治

2000 金城龍彦

2001 赤星憲広

2002 石川雅規

2003 木佐貫洋

2004 川島亮

2005 青木宣親

2006 梵英心

2007 上園啓史

2008 山口鉄也

2009 松本哲也

2010 長野久義

2011 澤村拓一

2012 野村祐輔

2013 小川泰弘

2014 大瀬良大地

2015 山﨑康晃

2016 髙山俊

2017 京田陽太

2018 東克樹

2019 村上宗隆

2020 森下暢仁

2021 栗林良吏

2022 大勢

2023 村上頌樹

2024 船迫大雅

 投  高橋一三

 捕  木俣達彦

 一  王貞治

 二  土井正三

 三  長嶋茂雄

 遊  藤田平

 外  高田繁 / D.ロバーツ / 山本一義

 投  平松政次

 捕  木俣達彦

 一  王貞治

 二  安藤統夫

 三  長嶋茂雄

 遊  藤田平

 外  高田繁 / 江尻亮 / 中暁生

 投  平松政次

 捕  木俣達彦

 一  王貞治

 二  国貞泰汎

 三  長嶋茂雄

 遊  藤田平

 外  柴田勲 / 高田繁 / 水谷実雄

 投  堀内恒夫

 捕  田淵幸一

 一  王貞治

 二  J.シピン

 三  長嶋茂雄

 遊  三村敏之

 外  柴田勲 / 高田繁 / 若松勉

1972 長嶋茂雄

1973 長嶋茂雄, C.ボイヤー

1974 C.ボイヤー

1975 島谷金二

1976 高田繁

1977 高田繁

1978 掛布雅之

1979 掛布雅之

1980 衣笠祥雄

1981 掛布雅之

1982 掛布雅之

1983 掛布雅之

1984 衣笠祥雄

1985 掛布雅之

1986 衣笠祥雄

1987 原辰徳

1988 原辰徳

1989 W.ロードン

1990 岡崎郁

1991 角富士夫

1992 T.オマリー

1993 石井琢朗

1994 石井琢朗

1995 石井琢朗

1996 江藤智

1997 進藤達哉

1998 進藤達哉

1999 進藤達哉

2000 岩村明憲

2001 岩村明憲

2002 岩村明憲

2003 立浪和義

2004 岩村明憲

2005 岩村明憲

2006 岩村明憲

2007 中村紀洋

2008 中村紀洋

2009 宮本慎也

2010 宮本慎也

2011 宮本慎也

2012 宮本慎也

2013 村田修一

2014 村田修一

2015 川端慎吾

2016 村田修一

2017 鳥谷敬

2018 宮﨑敏郎

2019 高橋周平

2020 高橋周平

2021 岡本和真

2022 岡本和真

2023 宮﨑敏郎

2024 坂本勇人

1972 柴田勲, 高田繁, 山本浩司

1973 柴田勲, 高田繁, 山本浩司

1974 柴田勲, 高田繁, 山本浩司

1975 高田繁, 山本浩二, ローン

1976 池辺巌, 柴田勲, 山本浩二

1977 柴田勲, 山本浩二, 若松勉

1978 J.ライトル, 山本浩二, 若松勉

1979 J.ライトル, J.スコット, 山本浩二

1980 J.ライトル, J.スコット, 山本浩二

1981 J.ライトル, 松本匡史, 山本浩二

1982 北村照文, 平野謙, 松本匡史

1983 北村照文, 長嶋清幸, 松本匡史

1984 長嶋清幸, 屋鋪要, 山崎隆造

1985 平野謙, 屋鋪要, 山崎隆造

1986 平野謙, 屋鋪要, 長嶋清幸

1987 長嶋清幸, 屋鋪要, 山崎隆造

1988 彦野利勝, 屋鋪要, 山崎隆造

1989 栗山英樹, 彦野利勝, 山崎賢一

1990 彦野利勝, 柳田浩一, 山崎賢一

1991 飯田哲也, 前田智徳, R.J.レイノルズ

1992 飯田哲也, 亀山努, 前田智徳

1993 飯田哲也, 新庄剛志, 前田智徳

1994 飯田哲也, 新庄剛志, 前田智徳

1995 飯田哲也, 緒方孝市, 音重鎮

1996 飯田哲也, 緒方孝市, 新庄剛志

1997 飯田哲也, 緒方孝市, 新庄剛志

1998 緒方孝市, 新庄剛志, 高橋由伸

1999 緒方孝市, 新庄剛志, 高橋由伸

2000 新庄剛志, 高橋由伸, 松井秀喜

2001 赤星憲広, 高橋由伸, 松井秀喜

2002 高橋由伸, 福留孝介, 松井秀喜

2003 赤星憲広, 高橋由伸, 福留孝介

2004 赤星憲広, アレックス, 英智

2005 赤星憲広, 金城龍彦, 福留孝介

2006 青木宣親, 赤星憲広, 福留孝介

2007 青木宣親, 高橋由伸, 金城龍彦

2008 青木宣親, 赤星憲広, 鈴木尚広

2009 青木宣親, 松本哲也, 亀井義行

2010 青木宣親, 廣瀬純, 赤松真人

2011 長野久義, 青木宣親, 大島洋平

2012 大島洋平, 長野久義, 荒波翔

2013 長野久義, 丸佳浩, 荒波翔

2014 丸佳浩, 大島洋平, 大和

2015 福留孝介, 丸佳浩, 大島洋平

2016 丸佳浩, 大島洋平, 鈴木誠也

2017 丸佳浩, 桑原将志, 鈴木誠也

2018 丸佳浩, 大島洋平, 平田良介

2019 丸佳浩, 鈴木誠也, 大島洋平

2020 鈴木誠也, 大島洋平, 青木宣親

2021 鈴木誠也, 近本光司, 大島洋平

2022 塩見泰隆, 岡林勇希, 近本光司

2023 近本光司, 岡林勇希, 桑原将志

2024 秋山翔吾, 岡林勇希, 近本光司

1位:高田繁

2位:山内新一

3位:大隅正人

4位:山田直政

5位:板東順司

6位:菅田秀高(入団拒否)

7位:沢田止男(入団拒否)

8位:小田芳男

9位:小平誠司

10位:関本四十四

11位:依田優一(入団拒否)

12位:飯尾尊雄

13位:中室幹雄

14位:三平孝広

15位:佐藤清三郎(入団拒否)

日本の野球選手

野球日本代表選手

大阪体育大学浪商高等学校出身の野球選手

明治大学野球部の選手

読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手

セントラル・リーグ最優秀新人 (NPB)

盗塁王 (NPB)

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横浜DeNAベイスターズ関連人物

日本の野球監督

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21世紀日本の実業家

大阪府出身のスポーツ選手

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2025/03/31 03:03更新

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