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中畑清の情報 (なかはたきよし)
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【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

中畑清の情報(なかはたきよし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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中畑 清さんについて調べます

■名前・氏名
中畑 清
(読み:なかはた きよし)
■職業
野球選手
■中畑清の誕生日・生年月日
1954年1月6日 (年齢70歳)
午年(うま年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
福島出身

(昭和29年)1954年生まれの人の年齢早見表

中畑清と同じ1954年生まれの有名人・芸能人

中畑清と同じ1月6日生まれの有名人・芸能人

中畑清と同じ出身地福島県生まれの有名人・芸能人


中畑清と関係のある人

岡崎郁: 入団当初は内野陣に河埜和正、篠塚利夫、中畑清、などが揃っていたため、一軍公式戦への出場機会に恵まれなかった。


篠塚和典: しかし5月には三塁手の中畑清が故障、原が三塁に回り、篠塚が二塁手のレギュラーに復帰。


長田秀一郎: 因みに長田はロジンバッグが使えず(松ヤニアレルギーの為)、更に球審の予備球を入れる袋に蓋が付いていなかったこともあり、中畑清監督は「(防水用の)袋があるのに球場に用意していなかったみたい。


浅見源司郎: 1983年の日本シリーズ巨人対西武第3戦(9回裏2死からの4連打(篠塚利夫、原、レジー・スミス、中畑清)で逆転サヨナラ勝ち)。


二宮至: 駒大は太田誠監督が全国の名門高校を行脚して集めた二宮、中畑清、平田薫の「太田一期生」、「駒澤三羽ガラス」の活躍を機に強豪の仲間入りを果たした。


藤田元司: 就任後、マンネリ化したチームを活性化させる方策として原辰徳を三塁から左翼へコンバートし、空いた三塁には中畑清を一塁から三塁へコンバートした(中畑の故障離脱により、岡崎郁が三塁に定着)。


佐藤洋: 初出場:1987年4月14日、対ヤクルトスワローズ1回戦(明治神宮野球場)、8回裏に中畑清に代わり三塁手として出場


中島浩人: 平田の大学時代の同僚で一塁手の中畑清が簡単なファールフライを落球し、そこから打ち込まれた。


吉沢俊幸: 同年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で中畑清らのいた駒大を降し優勝。


山崎武司: 同年に中日の本拠地・ナゴヤ球場で開催されたオールスターゲーム第2戦ではブルペン捕手を務めたがこの時には初めて巨人のスター選手たち(中畑清ら)を目にして感動するとともに「俺もこの人たちに負けないように頑張ろう」と決意した。


岡田忠雄: 東都大学野球リーグの駒澤大学で活躍した中畑清より指名順位が上だった(中畑は3位)ことで、中畑がショックを受けて怒ったと伝わる。


金城基泰: 引退後にうどん屋を開業した際、中畑清に開店祝いの花輪を贈呈されており、今でもその恩を忘れていないという。


山内孝徳: 更に巨人・中畑清とトレードの話が持ち上がるが、それを拒否して福岡移転が決まっているホークス残留を選んだ。


稲村亜美: 日本女子ソフトボールリーグ公式戦 ビックカメラ高崎BEE QUEEN vs Honda Reverta(2016年4月17日、QVCマリンフィールド)- 投手:中畑清


原香緒里: 燃える男 中畑清の1・2・3絶好調(チバテレ) - アシスタントMC(2016年から)


筒香嘉智: 2014年は前年オフにオリックス・バファローズを自由契約になった三塁手のアーロム・バルディリスを獲得したことから、中畑清監督の意向により左翼にコンバートされた。


金城龍彦: なお、監督の中畑清は金城を来年の戦力とも考えていたようで、引退勧告は中畑への事前の相談をせずにフロントが行ったものであったと伝えられている。


土井正三: 中畑清の代名詞「絶好調」の生みの親となったが、長嶋の監督解任に伴い1980年10月24日に退団。


増田美香: “【#熱烈LIVE 放送告知🔥】 🆚 #広島東洋カープ 📺18時15 分~(サブch 18時00分~) 🎤解説 #中畑清 さん 🎤実況 #根岸佑輔 アナ 🎤リポート #増田美香 アナ ついにtvk解説に「絶好調男」中畑清さんが初登場! 監督時代のお話もたっぷりうかがいます!”.


張本勲: 1993年春季キャンプで監督の長嶋茂雄の要請で巨人臨時打撃コーチを務め、松井秀喜に「すり足打法」を指導したが、松井は頑として張本のすり足打法を受け入れず、自分のスタイルを貫き通し、張本は打撃コーチの中畑清に「全く聞かない」と嘆いていた。


高木豊: チームの組閣はフロント主導であったが、中畑清がDeNA監督時代に招聘した唯一のコーチが高木である。


堂上剛裕: 2回裏に中畑清の代走から出場すると、3回裏の初打席でホークスOBの若田部健一から満塁本塁打を放つなど、6打点を挙げる活躍でチームの勝利に貢献した。


栗橋茂: この1989年日本シリーズ対巨人第7戦試合終了後に駒大後輩で同じく引退表明していた大学後輩である中畑清と抱き合って別れを惜しんだ。


トーマス玲奈: 燃える男 中畑清 1・2・3 絶好調(2019年4月20日 - 、千葉テレビ)]


アーロム=バルディリス: DeNAへの移籍後には、ライオンの殺虫剤シリーズ「バルサン」の語感や効能にちなんで、一軍監督の中畑清などから「バルさん」と呼ばれている。


筒香嘉智: 2012年から2015年までの4年間、監督として筒香を指導していた中畑清は「1年目に練習を見たが凄い選手が入ってきた」「俺は巨人のコーチ時代松井秀喜を指導していたが似たものを持っている」と期待を寄せており、2014年以降は4番打者として起用し続けた。


山本雅夫: 生前は巨人時代の同僚中畑清が主催するプロ野球28会に所属しており、カラオケは中畑に劣らない実力であったという。


宮﨑敏郎: このプレーで一軍初失策を記録すると、一軍監督・中畑清から「野球の世界にないボーンヘッド」と酷評され、出場選手登録からわずか2日で登録を抹消される。


中畑恵里: プロ野球の巨人で活躍した中畑清は親戚にあたる。


藤田元司: 2012年から2015年まで横浜DeNAベイスターズの監督を務めた中畑清も、選手や裏方にも気を配りながらチームをまとめていった藤田の姿を見て、「自分もこういう監督になりたい」と監督を志すようになったという。


中畑清の情報まとめ

もしもしロボ

中畑 清(なかはた きよし)さんの誕生日は1954年1月6日です。福島出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴、監督としてなどについてまとめました。引退、卒業、父親、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。中畑清の現在の年齢は70歳のようです。

中畑清のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

中畑 清(なかはた きよし、1954年1月6日 - )は、福島県西白河郡矢吹町出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、野球解説者・野球評論家、タレント。

愛称は絶好調男、大将、燃える男、ヤッターマン。

1980年代の読売ジャイアンツの中心打者として活躍し、労働組合日本プロ野球選手会初代会長を務めた。

引退後は巨人の一軍打撃コーチを務めた後、2004年にアテネオリンピック野球日本代表の監督を務め、銅メダルに導いた。その後2012年より横浜DeNAベイスターズ初代監督(大洋ホエールズからの通算では第29代)に就任し、2015年シーズン終了まで在任した。

安積商業高校で三塁手、遊撃手、捕手を務める。1971年春季東北大会県予選準決勝に進むが、福島商に延長11回敗退。

卒業後は駒澤大学に進学。東都大学野球リーグでは5度の優勝を経験した。1973年秋季リーグでは栗橋茂とともに打線の中心となり優勝、最高殊勲選手に選出された。直後の第4回明治神宮野球大会では、決勝で同志社大の田尾安志を打ち崩し、初優勝を飾る。その後は山本泰之、水谷啓昭、森繁和の強力投手陣を擁し、1974年春季リーグでも優勝に貢献。1975年は春秋季連続優勝、全日本大学野球選手権大会でも、決勝で齊藤明雄を擁する大阪商大を破り優勝している。同年の第6回明治神宮野球大会は決勝で明大の丸山清光(朝日新聞)に抑えられ準優勝。また1973年、1975年の日米大学野球選手権日本代表に選出されている。直射日光を避けるための偏光サングラスと一本足打法で注目を集めた。リーグ通算82試合出場、300打数92安打、打率.307、10本塁打、51打点。ベストナイン4度受賞。

「駒澤三羽ガラス(駒大トリオ)」と呼ばれた平田薫、二宮至と共に、1975年のプロ野球ドラフト会議の目玉としてマスコミに注目され、巨人からの1位指名が有力視されており、駒澤大学の合宿所に報道陣が殺到したが、銚子商業の篠塚利夫が1位指名された。報道陣が帰って行くのを見て中畑は別室で将棋をしていたが、3位指名されたと聞き慌てて戻った。「高卒の人間(篠塚)が先に指名された」とがっかりし、内定していた北海道拓殖銀行への就職に傾きかけたが、憧れていた長嶋茂雄(当時の巨人監督)の存在や父親の助言、ドラフト1位と同じ条件を提示されたことなどが後押しとなり、内定を辞退してプロ入りを決意した。「(プロから指名されなかった)平田と二宮も一緒なら入団する」と球団に申し入れ、巨人もこれを受け入れたため、2人はドラフト外で巨人に入団している。

入団当時の巨人は、王貞治、張本勲、土井正三、高田繁らが現役で活躍しており、選手層が厚かったため、入団後3年間は一軍での出番に恵まれなかった。守備固め要員とはいえ2年目に一軍100試合出場を果たした二宮を横目に二軍中心の下積み生活が続く。

1978年に開催された日米野球第1戦のシンシナティ・レッズ対巨人戦で、高田に代わって途中出場しマリオ・ソトから2点本塁打を放った。レッズ監督のスパーキー・アンダーソンは、長嶋に「あの三塁手(中畑)はハッスルしてファイティング・スピリットに溢れているのがいい。バッティングは荒削りだけど、ぜひ使うべきだ」と進言した。

1979年より一軍に定着した。同年は三塁手の高田が怪我で離脱した際に先発で起用され、高田の復帰後もレギュラーを守った。規定打席には届かなかったが、打率.294を記録。新人王有資格者だったが、シーズン終盤に骨折したこともあり、新人王は逃した(中日の藤沢公也が受賞)。同年オフに「地獄の伊東キャンプ」に参加した。

1980年は初めて規定打席(23位、打率.268)に到達、22本塁打を放つ。同年秋には長嶋が監督を辞任し、王も現役引退した。入れ替わるように、大学野球のスター選手で中畑と同じ三塁手の原辰徳がドラフト1位で入団したが、新監督の藤田元司ら首脳陣は、原を二塁手にコンバートさせることで対応した。

1981年シーズンは、5月4日対阪神戦(後楽園)4回裏に一塁走者であった中畑が併殺崩しのスライディングを掛けたところ、二塁手岡田彰布と衝突して左肩鎖関節靭帯を損傷してしまい、3週間の戦線離脱を余儀なくされた。中畑の離脱中に原が三塁手にコンバートされ、二塁手には元々守備には定評のあった篠塚が入り、打率.357を記録した。王の後任の一塁手には、大洋から移籍の松原誠や山本功児が入ったが打撃不振が続き、5月27日対大洋戦で中畑が戦線復帰して一塁手に収まる。結果的に中畑の故障離脱で巨人内野陣が再編成される形になった。同年は規定打席に到達したシーズンでは自己最高の打率.322(リーグ7位)、16本塁打、66打点の好成績を挙げ、リーグ優勝の原動力となった。日本ハムとの日本シリーズでは、打線の中軸として24打数6安打2打点1本塁打を記録、1973年のV9以来の日本一奪回に貢献する。

1983年、打撃コーチの末次利光が、最終戦で3割前後の選手の打率を1打席ごとに電卓で計算し、3割に乗ったところで交代させたため、打率は3割ジャストであった。この点を指摘された中畑は「3割だけは契約更改の席での印象が変わるので勘弁してほしい。その代わり、もし自分がタイトル争いをしたら絶対休まない」と返答した(実際に中畑は駒澤大学時代に最終戦まで出場して首位打者を逃した経験があった。プロでは1987年に篠塚、正田耕三、落合博満らと一時首位打者争いをしたが、結局タイトルは獲得できなかった)。日本シリーズでは西武ライオンズに3勝4敗と敗れたもの、第3戦で森繁和からサヨナラ安打、第6戦で杉本正から一時は逆転となる適時三塁打を放ち3打点を記録し、優秀選手賞に選ばれた。

監督が藤田から王に交代した1984年は、オールスターゲームで第2戦、第3戦にまたがる2打席連続本塁打を放った。公式戦では、不振の原に代わりシーズン途中に4番を任され、自己最多の31本塁打を記録した。

1985年、王監督を「ワン公」と呼び批判した取材オフレコテープの存在が問題となる。中畑は電話で謝罪し、王から「何も聞かなかったことにする」と許されている。王政権下では長嶋第一次政権に若手だった選手が主力を担っており、そのことによる派閥争いが度々雑誌、新聞媒体で記事にされた。また11月5日には日本プロ野球選手会が労働組合としての認可を受けたことに伴い労組としての初代会長へ就任した。

1987年は途中怪我で戦線離脱するが、首位打者を狙える高打率を残していたため、復帰後規定打席に達するまでは打席数を稼ぐために1番打者として起用された。結果、最後の5試合にノーヒットで打率を下げ、首位打者は逃すがリーグ6位の打率.321を残す。一方本塁打は初めて一桁に終わり、打点も一軍定着後としてはワーストに終わる。しかし西武との日本シリーズでは第1戦で東尾修から2点本塁打を放ち気を吐く。1988年も打率.295(7位)と好調を維持した。

1989年、監督復帰した藤田により三塁手への再コンバート(原は左翼手へ)が試みられたが、シーズン序盤に甲子園での試合中、牽制球で一塁に帰塁した際に指を痛め、長期戦線を離脱した。その間に三塁手は一塁手から岡崎郁が、また一塁手も外野手から駒田徳広が定着したこともあり、定位置を失った中畑はベンチを温めており、シーズン終盤に引退を表明した。リーグ優勝を決めた大洋戦(横浜スタジアム)では、二塁打を放った際に球場に起こったウェーブについて、「自分が日本の球場で最初に起こしたもの」と発言している(実際には、この前日の試合で既にウェーブが起こっており、この試合でも8回表で中畑の2打者前の中尾孝義の打席でウェーブが起こっている)。チームのシーズン最終戦となった10月13日のヤクルト戦で途中出場し、宮本賢治から本塁打を打ったほか、現役最後の試合となった近鉄との日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)では、吉井理人から本塁打(この後、もう1打席回ったが、最終打席は三塁フライに終わった)を放ち、有終の美を飾った。

現役時代サヨナラ本塁打を3本放っているが、すべて中日戦である(1982年4月22日 三沢淳から、1983年5月8日 牛島和彦から、1986年8月7日 杉本正から)。

自身が現役時代のベストゲームは巨人通算6000勝となった、1982年4月22日の中日戦(平和台)での三沢淳から打ったサヨナラ3点本塁打を挙げている。

引退後は日本テレビ・ラジオ日本野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を経て、1992年10月31日に翌シーズンより巨人の監督に復帰した長嶋の下で一軍打撃コーチに就任することが発表された。

しかし、前年好調だった打撃陣が一転して1993年はチーム打率が12球団最下位に終わり、巨人史上初めてチーム得点も最下位、駒田の横浜へのFA移籍にあたって中畑との確執がその原因としてマスコミから挙げられていた。

一方、大物ルーキーとして入団した松井秀喜を、東京ドームから松井の住むよみうりランド隣接の若手選手寮の道中に自宅が位置したこともあり、試合後自宅に立ち寄らせて夫人の手料理を食べさせ、連日のように自宅の打撃練習室で指導した。2020年7月20日号の週刊ベースボールのインタビューでは「若い時、特に結果が出ている時、自分のスタイルを貫き通したい。自分の打撃を崩してまで、違う打ち方にする選手なんて誰もいません。松井もそれと同じでした。自分に分かっていたので、余計なことは言いませんでした」と述べている。中畑は松井から信頼を得ており、後年中畑がDeNAの監督になった際、松井はDeNAの1日打撃コーチを務めた。

翌1994年は一塁ベースコーチとして、ムードメーカーの役割に徹した。同年は中畑と同学年の落合博満が移籍加入したが、中畑は落合について「しっかり4番の仕事をしました。それはそれまでの巨人の4番とは違いました。長嶋さんを男にするという落合の言葉もありますが、一方巨人軍からの考え、長嶋さんの考えもある。1994年当時の巨人はしっかりとした4番がいなかった。落合は4番として、1シーズン目で優勝して、日本一になった。当時の打撃コーチとして本当に感謝しています」と述べている。同年にチームはリーグ優勝・日本一になったが、チーム得点はリーグ4位に終わり、シーズン終了後の11月8日に退団し、再び日本テレビ、ラジオ日本、スポーツニッポン野球解説者・評論家として活動。日本テレビでは、スポーツニュースのキャスターも務めた。

2004年、アテネオリンピック野球日本代表ヘッド兼打撃コーチを務めたが、監督の長嶋茂雄が病床に伏してからは監督代行としてチームの指揮を執った。大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋の監督登録が認められなかったため、監督経験がなかった中畑を監督として登録したが、準決勝でオーストラリアに敗退し、銅メダル止まりに終わった。対戦するまでオーストラリアを「やりやすい相手」と見ていたが、オーストラリア代表捕手で元中日のデーブ・ニルソン(ディンゴ)に、日本での経験を生かして研究されつくしていたことを、敗戦後に知ったと後のインタビューで明かしている。さらに、中畑は五輪現地で対戦相手国の代表チームの試合の視察には行かず、観光に行ったり他の五輪競技の試合を観戦していたことが後に報じられている。

2010年5月9日には、たちあがれ日本が同年7月に執行の第22回参議院議員通常選挙の立候補者として擁立する方針であると報じられ、5月11日にたちあがれ日本の代表である平沼赳夫、共同代表の与謝野馨が同席する中、正式に出馬表明記者会見を行った。7月11日の投開票の結果、111,597票を獲得し同党内で2位になるも同党が比例区で1議席(片山虎之助)しか獲得できなかったため落選した。

翌年の8月末に離党したが、後に「結果的に受からなくてよかった」と発言している。その真意を問われ「(議員になっていれば)震災の後に自由に支援に故郷を訪れることができなかっただろうから」と述べている。

2011年12月9日、横浜ベイスターズから名称を改めた横浜DeNAベイスターズの初代監督に就任し、同日記者会見を行った。57歳(開幕時は58歳)にして自身初の監督就任となり、過去に一軍監督経験のない完全な「新人監督」としては1997年オフに前身である横浜ベイスターズの監督へ就任した権藤博(当時59歳)に次いで当時NPB史上2番目の年長記録であった。

就任のきっかけを作ったのは12月5日にDeNAのゼネラルマネージャーに就任したばかりだった巨人時代の先輩・高田繁で、工藤公康との監督就任打診の交渉が難航していた頃、高田はふと中畑のことが頭に浮かび、自宅の柿の木になっていた甘柿を10個切るとママチャリのカゴに入れ、普段着のジーパン姿のまま自転車で中畑家を訪問。「工藤の条件が厳しくて、もしそれが破談になったら監督をやってみる気はあるか? でも、保険なんだけどな」と中畑に柿を渡しながら告げると、翌日には電話で「監督をお願いするから」と決定事項であることを知らされ、就任会見を開くことが決まった。中畑は後に「今考えれば、あの柿10個が契約金だった」と語っており、加えて「高田さんはママチャリで来たけど、監督就任の依頼ともなると近所だとしてもハイヤーで来るよね(笑)」と述べている。

就任会見の中での自身の発言を元にした「熱いぜ! 横浜DeNA」が正式にチームのシーズンスローガンとなったが、監督初年度の2012年は開幕から低迷が続き、この年優勝した巨人には4勝17敗3分けと大きく負け越した上に、巨人戦のビジターゲームでは1勝もできずに終わるなど前年度よりさらに勝率を下げ、最下位に終わった。12月5日には夫人を子宮頸癌で亡くした。

2013年は中日からエンジェルベルト・ソト、ホルヘ・ソーサ、トニ・ブランコの外国人3人を獲得するなど、大型補強を敢行してシーズンに臨んだ。ブランコはここ2年苦しんだ故障から脱却して本塁打を量産し、ソーサもセットアッパーとして奮闘。山口俊が不調になるとソーサを抑えに配置転換した。だがまたしても巨人戦で大きく負け越すなど低調な戦いが続き、9月24日の阪神戦に敗れチームのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅した。試合後に監督辞任を示唆するコメントを出したが、10月3日に翌年の続投が決定。最終的にはヤクルトが最下位となり、6年ぶりに最下位を脱出し5位でシーズンを終えた。またこの年は中日・阪神・ヤクルトの3球団に勝ち越している。

2014年は打線強化としてオリックスからアーロム・バルディリスを獲得するなど補強したが、チームは前年同様の低調な戦いが目立った上、ブランコやソーサの故障に加え13試合に出場時点で10打点と活躍していた中村紀洋を「チーム方針に従わない言動があった」として懲罰降格させるなど、主力選手の離脱が響いた。9月2日の阪神戦での退場処分後、これまでの審判員への度重なる暴力行為が問題視され労組審判支部から球団へ抗議文が送られたことで、山下大輔GM補佐から説明を受けた。結局2年連続の5位に終わったが、この年セ・リーグ3連覇を達成した巨人には2005年以来9年ぶりに勝ち越した。

2015年も監督を続投。球団史上同一監督が連続して4シーズン以上指揮を執るのは1968 - 1972年の別当薫以来43年ぶりとなり、1978年の横浜移転後では監督15人目(大矢明彦が2期務めたため16代目)にして初となった(球団名がベイスターズになってからでも初)。この年は序盤から好調で、交流戦を3勝14敗1分けと大きく負け越すも1998年以来17年ぶりに前半戦を首位で折り返した。しかし後半戦で大失速を起こし、3年ぶりにセ・リーグ最下位へ転落。前半戦を首位で折り返しながら最終順位で最下位となるのは前後期制時代のパ・リーグを除けば2リーグ分裂後プロ野球史上初の屈辱であった。

中畑はこの成績不振の責任を取り監督を辞任する意向を固め、10月2日に南場智子オーナーに対し正式に辞意を伝えた。中畑は首位ターンを決めた前半戦終了時に球団から翌年の続投要請を受け回答を保留しており、9月30日に球団社長の池田純とGMの高田を交えた会談のなかで翌年のコーチ人事(大久保博元の招聘)を巡って意見が折り合わず、「俺が辞めるしかない。自分だけが残るわけにはいかない」と辞任を決意したという。

監督在任中は4年連続Bクラス、通算負け越し80と成績としては振るわなかったものの、筒香嘉智や梶谷隆幸、山﨑康晃といった若手を積極的に起用しチームの主力選手へ育てるなど、いわゆる「暗黒時代」から抜け出すDeNAの礎を作った。

2016年以降は、日本テレビ野球解説者・スポーツニッポン野球評論家・タレントに復帰しており、TBSテレビテレビ東京の野球中継にもゲスト解説者として出演している。2023年5月17日にはtvkにもゲスト解説者として出演。2016年12月4日、巨人OB会副会長に就任した。2019年からラジオ日本野球解説者に復帰。同年12月7日、巨人OB会会長に就任。世界少年野球推進財団で評議員も務める。

選手としての特徴

1979年、監督の長嶋茂雄から「調子はどうだ?」と尋ねられた中畑は「まあまあです」と返事をしたところ、それを聞いていた一軍守備走塁コーチの土井正三から「まあまあなんて言う奴を監督が起用するか? 絶好調と答えろ!」と叱られた。それ以来、中畑は何を聞かれても「絶好調!」と答えるようになり、「絶好調」「絶好調男」が中畑の代名詞となった。

一塁手として1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。ただ、中畑を三塁手から一塁手へコンバートした藤田元司は「中畑はサード向き、原はファースト向きの性格でありながら、原をサードに、中畑をファーストにしたのは最大の失敗だった」と後年語っている。

監督として

DeNA監督就任当時、開幕前から「守れない選手は使わない」をチーム方針として、守備を重視したチーム作りを徹底して行うことを表明していた。また機動力を使うことも明言し、盗塁やエンドラン、スクイズなどを積極的に行っている。この機動力を使った野球は就任1年目の頃は「せこいぜ野球」と呼称されていた。就任2年目あたりから送りバントも多用するようになり、2014年にはリーグ最多犠打を記録している。またオーダーを固定することは少なく、好不調で選手や打順を入れ替えることが多かった。

投手陣は基本的に投手コーチにほぼ一任しているが、小刻みな継投を好みシーズンののべ登板数の日本記録を作った前任監督の尾花高夫とは異なり、先発投手はイニングを引っ張る傾向が強い。特に三浦大輔にはかなりの信頼を置いており、2012年はリーグ最多の6完投をさせている。

試合後の監督インタビューは、勝った試合はもちろん、敗れた試合でも全試合で行った。またチーム勝利時のヒーローインタビューは、チームメンバー全員がベンチで聞く方針を浸透させた。野球は集団スポーツであることから「全員の気持ちが一つにならないとそのチームは機能しない」というポリシーを持っており、成績が振るわない選手や見込みがない選手に対しては見限ったり、チームの和を乱す行為を嫌っているなどのシビアな側面も持っている。その方針は巨人一軍打撃コーチ時代から貫いており、打撃指導や采配における駒田との確執にも現れていたが、DeNA監督時代は特に顕著であった。

前述の通りDeNA監督時代は自身の元気さをマスコミの前でアピールする一方、選手の怠慢行動や采配批判とも取れる言動に対して厳しく対処した。特に監督2年目以降は顕著だった。

2013年4月9日の広島東洋カープ戦(横浜)で、3回表二死満塁の場面で大竹寛が放ったゴロを処理した遊撃手の石川雄洋は、封殺を狙って二塁へ送球した。しかし、二塁手の梶谷隆幸はベースカバーに入らず一塁方向へ走っていたため、石川は慌てて一塁への送球に切り替えたが、内野安打になったばかりか、2人の走者の本塁生還を許した。このプレーが原因で梶谷を二軍へ降格させた。

2013年序盤、主将の石川は打撃不振もあったが、円陣の輪に入らなかったり、首脳陣との話し合いでの態度の悪さが目立ったことで二軍に降格させた。

2014年、宮崎遠征のため羽田空港から出発する際、抑え投手を務めていたホルヘ・ソーサが足を引きずりながら現れたことで激怒し、ソーサの帯同を認めず一軍登録を抹消した。

中村紀洋を2度、懲罰降格させた。1度目は2012年8月15日の阪神タイガース戦で、中村の打席で内村賢介が盗塁したが、中村はこの盗塁について内村に叱責したことが、内村の盗塁をグリーンライトとしている首脳陣批判とみなし、中村の登録を抹消した。2度目は2014年5月6日の巨人戦で、中村がコーチに「場面によっては走者を動かさず打席に集中させてほしい」と相談したことを采配批判とみなし、登録を抹消した。中畑は中村を登録抹消する際「チーム方針に従わない言動があった」と表現し、抹消以降中村を一軍に昇格させず、中村は戦力外通告を受けた。球界での貢献度が高い中村に対し、DeNA球団は引退試合・引退セレモニーを提案したが、現役続行を希望したためこれを固辞した。

筒香嘉智、山﨑康晃など、育てると決めた選手は結果が出ずとも使い続けた。岡田彰布は「戦える、勝てるチームの土台を作ったのは高く評価するべきだろう」、江本孟紀は「筒香と心中すると言って育てたのは評価する。弱点の投手陣に目を向けても井納と心中するとでも言っておけば良かったのに」と述べている。

中畑が監督を辞任した翌年2016年は、後任監督のアレックス・ラミレスによって、球団10年ぶりのAクラスとなる3位に入り、クライマックスシリーズに初進出し、2017年は日本シリーズまで進出した。

2024/06/14 11:18更新

nakahata kiyoshi


中畑清と同じ誕生日1月6日生まれ、同じ福島出身の人

根本 泰彦(ねもと やすひこ)
1958年1月6日生まれの有名人 福島出身

根本 泰彦(ねもと やすひこ、1958年1月6日 - )は、日本の俳優、声優、演出家。福島県出身。テアトル・エコー所属。 昔は「人前に出ることは本当に勘弁してください」という性格だったが、テレビの…

門田 ゆたか(かどた ゆたか)
1907年1月6日生まれの有名人 福島出身

門田 ゆたか(かどた ゆたか、1907年(明治40年)1月6日-1975年(昭和50年)6月25日)は昭和期の作詞家。本名門田 穣。 福島県信夫郡福島町(現・福島市)出身。早稲田大学文学部仏蘭西文…

亀山 正邦(かめやま まさくに)
1924年1月6日生まれの有名人 福島出身

1月6日生まれwiki情報なし(2024/06/18 05:31時点)

高橋 まこと(たかはし まこと)
1954年1月6日生まれの有名人 福島出身

高橋 まこと(たかはし まこと、1954年1月6日 - )は、日本の音楽家。本名、高橋 信(読み方同じ)。福島県福島市出身。福島県立福島高等学校出身。 日本のロックバンド、BOØWYのドラマーとして…


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中畑 義愛(なかはた よしちか)
1910年8月15日生まれの有名人 奈良出身

中畑 義愛(なかはた よしちか、1910年(明治43年)8月15日 - 1991年(平成3年)7月14日)は日本の実業家。元電通代表取締役社長、元日本広告業協会会長。奈良県吉野郡十津川村出身。 1…

仲畑 貴志(なかはた たかし)
1947年8月20日生まれの有名人 京都出身

仲畑 貴志(なかはた たかし、1947年8月20日 - )は、日本のコピーライター。事業構想大学院大学教授。京都府京都市生まれ、京都市立洛陽工業高等学校機械科卒業。東京コピーライターズクラブ会長。仲畑…

中畑 恵里(なかはた えり)
1988年9月15日生まれの有名人 神奈川出身

中畑 恵里(なかはた えり、1988年9月15日 - )は神奈川県出身の女子バスケットボール選手である。ポジションはガード。 プロ野球の巨人で活躍した中畑清は親戚にあたる。 横浜市戸塚区出身。横…

中畑 道子(なかはた みちこ)
1921年7月17日生まれの有名人 京都出身

中畑 道子(なかはた みちこ、1921年7月17日 - 1972年10月16日)は、日本の女優。京都府出身。 1921(大正10)年7月17日生まれ。京都出身。京都女学校卒。 夫は『チコタン』の…

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