もしもし情報局 > 1968年 > 11月7日 > 野球選手

山崎武司の情報 (やまさきたけし)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月23日】今日誕生日の芸能人・有名人

山崎武司の情報(やまさきたけし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

山崎 武司さんについて調べます

■名前・氏名
山崎 武司
(読み:やまさき たけし)
■職業
野球選手
■山崎武司の誕生日・生年月日
1968年11月7日 (年齢56歳)
申年(さる年)、蠍座(さそり座)
■出身地・都道府県
愛知出身

(昭和43年)1968年生まれの人の年齢早見表

山崎武司と同じ1968年生まれの有名人・芸能人

山崎武司と同じ11月7日生まれの有名人・芸能人

山崎武司と同じ出身地愛知県生まれの有名人・芸能人


山崎武司と関係のある人

遠藤政隆: また、6月11日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦においてもリック・ショート、山崎武司に対して死球を与え、警告試合になっている。


岩瀬仁紀: シーズン終了後の10月31日に山崎武司、川上憲伸、山本昌とともに球団首脳と個別に面談。


大豊泰昭: 最終的に巨人の松井秀喜と同じ38本塁打を放つも、チームメイトで同じく下位打線でチームを引っ張った山崎武司に1本及ばず、松井とともに本塁打王を逃した。


高橋三千丈: コーチ3年目の1987年には山崎武司・荒川哲男を引き連れてドジャース傘下への野球留学に同行し、現地では部屋を借りて3人で生活したが、山崎も荒川も試合に出してもらえなかった。


愛甲猛: 1996年は主に外野手として起用されるが、1997年からは大豊泰昭、山崎武司の控え一塁手として、また代打の切り札としても活躍した。


礒部公一: また、主将の座を山崎武司に譲った。


バルビーノ=ガルベス: 同年5月1日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)において、5回裏にガルベスの投球が山崎武司の頭付近を通過、これに山崎が激怒しマウンドへ詰め寄り、ガルベスのパンチに対してヘッドロックをかけて応戦、その後両軍総出の大乱闘に発展した。


アロンゾ=パウエル: 同年の中日はダネル・コールズが29本塁打、山崎武司が39本塁打(本塁打王)、大豊泰昭が38本塁打を記録し、パウエルも彼らとともに「強竜打線」の一員を担ったが、最終的には巨人との優勝争いに敗れ、5ゲーム差のリーグ2位でシーズンを終えた。


河野亮: 同年、古巣ダイエーとの日本シリーズでは山崎武司が骨折し出場不可能になったため「中日の秘密兵器」と一部スポーツ紙が取り上げたこともあったが、出番がないまま同年11月に鈴木平(ヤクルト時代に同僚だった)との交換トレードで岸川登俊と共にオリックス・ブルーウェーブへ移籍。


高代延博: 高い評価の一方で悪評も絶えず、山崎武司は著書の中で高代について「上司に媚びる・監督に媚を売る・権力にものを言わせる・選手目線で対話できない指導者」と記し、山崎は高代との確執でスタメンを外れることが多くなったという。


タイロン=ウッズ: 佐々木は同年10月23日からウッズの獲得に向けて調査する目的で訪韓し、翌24日から開幕した斗山対サムスンの韓国シリーズを観戦したが、当時ウッズは一塁手以外の守備位置に就いておらず、当時中日の一塁手にはゴメスや山崎武司・大豊泰昭がいた。


江尻慎太郎: 10月21日第1戦では2点ビハインドから山崎武司に走者一掃二塁打を打たれ点差を広げてしまったがチームは逆転勝利した。


池山隆寛: 2006年からはヤクルト時代の恩師である野村克也監督の下で東北楽天ゴールデンイーグルス一軍打撃コーチを務め、2009年に退任するまでに首位打者2人(2008年のリック・ショート、2009年の鉄平)、本塁打王1人(2007年の山崎武司)を輩出した。


佐伯貴弘: また、この年には当時の球団の三塁打及び本塁打の最年長記録を更新した(後に、山崎武司がこの記録を更新)。


宇部銀次: 一軍では9月から不振に陥った山崎武司に代わり一塁手としてスタメンで出場する機会が増加。


タイロン=ウッズ: 開幕当初は不振も、自己最多の47本塁打を放ち、2年ぶりの本塁打王と初の打点王を獲得し、リーグ優勝に大きく貢献(球団としては、本塁打王は1996年の山崎武司、打点王は1994年の大豊泰昭以来で、両タイトルとも本拠地がナゴヤドームに移転後初)。


レオ=ゴメス: この本数は同年のセ・リーグの外国人選手としては最多で、リーグ全体でも本塁打王を獲得した松井(34本)や、広島の江藤智(28本)、そしてチームメイトである山崎武司(27本)に次ぐ4位であった。


森野将彦: シーズン中は山崎武司の打撃不振やブランコの離脱により4番を任せられることもあった。


星野仙一: オフには4番としてチームを牽引してきた山崎武司に星野自ら戦力外通告を行い退団させた。


松久保新吾: 愛工大名電高では1学年上の山崎武司とクリーンアップを打つ。


石井一久: 2000年3月31日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で、3年連続の開幕投手を務め、関川浩一・立浪和義・福留孝介・レオ・ゴメス・デーブ・ニルソン・山崎武司から6者連続奪三振を記録して勝利投手となる。


落合英二: 1996年、山崎武司にもバットを差し出したところ、その年に山崎は本塁打王になった。


西崎幸広: ドラフト会議の際は、系列の愛工大名電高校で山崎武司(中日2位指名)と同席し、指名を待っていた。


中山裕章: 同年6月6日には広島東洋カープ戦(広島市民球場)で8回裏(1点ビハインド)に中継ぎで登板すると、9回表に山崎武司の同点二塁打が飛び出し、延長10回表まで2イニングを投げた。


長谷部裕: また、近藤と長谷部と同い年で同じく名古屋市の愛工大名電高校から中日に同期入団した捕手には山崎武司がいる。


福留孝介: この一打により、山崎武司が保持していたセ・リーグ史上最年長二塁打の記録を45歳1か月に更新した。


正田耕三: 1989年は広島の最終戦を残して先に日程を終えたヤクルトスワローズの笘篠賢治が32盗塁でセントラル・リーグ最多盗塁だったが、4差で追う正田が対中日ドラゴンズ戦でプロ野球タイ記録となる1試合6盗塁(そのうち5つは当時捕手だった山崎武司から)を決めて34盗塁とし、同年の盗塁王となった。


田中俊幸: 1996年 中日・音重鎮、大豊泰昭、山崎武司の3連発(中日-巨人戦)で球審。


ダイアモンド☆ユカイ:  山崎武司選手テーマ曲「BABEなタケシ」ドアラテーマ曲「ドアラのマーチ」2曲収録


渡辺直人: 11日には、山崎武司が「出すべき選手ではなかった」と渡辺のトレードに疑問を投げかけ、前述の契約更改の様子を聞いたコーチの田淵幸一も「渡辺だけは出すべきじゃなかった」とコメントしたと報じられた。


山崎武司の情報まとめ

もしもしロボ

山崎 武司(やまさき たけし)さんの誕生日は1968年11月7日です。愛知出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

引退、父親、事件、テレビ、現在、家族、母親、趣味、離婚、卒業に関する情報もありますね。今年の情報もありました。山崎武司の現在の年齢は56歳のようです。

山崎武司のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

山﨑武司チャンネル

愛称は「ジャイアン」。

現役時代は主に中日ドラゴンズ、東北楽天ゴールデンイーグルスで通算27年間にわたり活躍。通算403本塁打を記録した強打者であると共に、本塁打王に2回(1996年、2007年)、打点王に1回(2007年)輝いており、史上3人目のセ・パ両リーグでの本塁打王の達成者。野球選手現役引退後の2014年以降は野球解説者として活動しているほか、カーレーサーとして四輪車レースにも参戦している。

幼少期から中日ドラゴンズの本拠地・ナゴヤ球場へ野球観戦に行っていたが、周囲のほとんどが中日ファンであった一方で山﨑自身は読売ジャイアンツ(巨人)のファンだった。これは九州出身である父親の影響に加え、山﨑自身も「他人と同じなのが嫌」という性格や「(当時巨人が強かったことから)強いチームへの憧れ」が要因だった。

知多市立佐布里小学校の4年の時に外野手として野球を始め、主に左翼手を守る。知多市立八幡中学校に入学すると同時に捕手になる。

愛知県名古屋市の愛知工業大学名電高等学校へ進学する。 愛工大名電高校では2年から捕手のレギュラーに定着し、2年の時の夏は愛知大会の決勝戦で東邦高等学校に敗れた。高校2年の秋には中村豪監督の下で先輩などからの推薦により新主将に任命され、3年の時の夏までは主将を務める。3年間で全国大会に出場した経験はなかったものの、通算56本塁打を放つ。

1986年度ドラフト会議を前に「指名確実」と高い評価を得ていたが、山﨑自身は巨人への入団を切望していた一方で「中日・南海ホークス・広島東洋カープには絶対に行きたくない」と考えていた。これは高校を通じて巨人から指名の確約を得ていたことに加え、「地元の中日に入団すると知り合いも多く、思う存分にプレーできないから。南海・広島は全国的に人気のある球団とは思わないから」という理由だった。そのため、ドラフト前に何度も挨拶に来た中日のスカウトには「(指名されても)行くつもりはない」と伝えていたが結局、中日が2位指名で交渉権を獲得し、契約金4000万円・年俸400万円(金額は推定)で入団(実際の契約金は4300万円と本人談)。背番号は「22」。

入団直後は先輩たちから「若年寄」と呼ばれ、豊田誠佑らから「生意気だ」とよく怒られていたが、エースの小松辰雄らからは可愛がられていた。プロ1年目の1987年は春季キャンプで憧れていた落合博満と相部屋になったが、後に落合について自著で「落合さんだけは『後輩をかわいがる』という感覚が全くなく、誰であっても寄せ付けないオーラを発し続けていた。バッターとしては目標にしてもよいが、人間性は真似したくない」と述べている。同年は一軍出場はなく、アメリカ合衆国へ野球留学。MLBロサンゼルス・ドジャース傘下のルーキーリーグ球団であるガルフ・コーストリーグ・ドジャースで三塁手としてプレーした。帰国後には捕手に戻る。しかし、中日入団後は2学年上の中村武志が正捕手の座を固めていた一方、自身は一軍での出場機会を得られず、捕手として育成されていたことから最大のセールスポイントだった打撃の練習を十分にできず、捕手であることに嫌気が差していた。

1988年も一軍出場はなく、1年間を通して二軍(ウエスタン・リーグ)でプレーした。同年に中日の本拠地・ナゴヤ球場で開催されたオールスターゲーム第2戦ではブルペン捕手を務めたがこの時には初めて巨人のスター選手たち(中畑清ら)を目にして感動するとともに「俺もこの人たちに負けないように頑張ろう」と決意した。

1989年は二軍でウエスタン・リーグで二冠王(本塁打王・打点王)を獲得し、一軍でも20試合に出場した。同年9月7日の対広島東洋カープ戦では9回表に代打として一軍で初出場。9月10日の対ヤクルトスワローズ戦では9回裏に内藤尚行から初安打となる左前安打を放つ。10月15日の対広島戦で捕手として先発出場するが、盗塁王を狙う正田耕三に5盗塁を許す。正田はこの試合で中村武志からも1盗塁を決め、1試合6盗塁の日本プロ野球タイ記録を樹立。この試合後に首脳陣から「捕手失格」の烙印を押される格好となったが、結果的にはかねてから望んでいた野手(外野手)転向が叶うこととなった。

1990年は前年に続き二軍で二冠王を獲得したが、一軍では5試合の出場に終わった。同年秋季のキャンプでは左翼手にコンバートされる。同年12月19日には知多市内の実家近く(名鉄常滑線・新舞子駅付近)にて知人(元力士)が経営するちゃんこ鍋屋を訪れた帰りに近隣の精肉店の火災に遭遇し、ちゃんこ鍋屋店長たちと協力し、精肉店経営者一家(乳幼児含めた子供たち5人)を救出した。この件で地元の消防署から表彰を受け、セントラル・リーグからも特別表彰を受けた。

1991年は5月9日の対横浜大洋ホエールズ戦では田辺学からプロ初本塁打(場外ソロ本塁打)を放つ。しかし同年は26試合に出場したが、打率.140と低調だった。同年からは徐々に一軍での出場機会も増えていったが、しばらくは一軍と二軍を往復する生活で一軍の出場機会に飢えていた。同年オフの秋季キャンプでは、落合から「人命救助だけでなく、自分の身も助けないか!」と言われ、一心不乱に練習に打ち込んでいた。落合やヘッドコーチの徳武定祐は当時、山崎の素質を高く評価しつつも、本人に野球に打ち込む姿勢や若手の台頭による危機感が不足していることを指摘していた。

1992年は監督が星野仙一から高木守道に交代し、高木は山﨑を重宝していたこともあり、前年を上回る40試合に出場し、打撃成績も打率.236、4本塁打と向上。また、8月19日の広島戦では川口和久からサヨナラ本塁打を放った。

1993年は大幅に一軍出場機会が増え、77試合に出場し、打率.270、3本塁打17打点の成績を残した。同年のシーズンオフには一塁手のレギュラーだった落合博満がフリーエージェント(FA)で巨人へ移籍したほか、大豊泰昭が左翼手から一塁手に転向したことで外野手のレギュラーに空きができた。

1994年は彦野利勝が故障から復帰したことなどから出場機会が激減し、1年間を通して目立った活躍は出来なかった。

1995年は開幕前のキャンプではプロボクサー(WBC世界バンタム級チャンピオン)の薬師寺保栄 に師事し、ボクシングの練習を取り入れた。同年はレギュラー外野陣およびロッテから移籍のメル・ホールや主軸の大豊も不調であったことから出場機会が増え、自身初の2桁本塁打となる16本塁打を放った。同年11月末の秋季キャンプ終了時には監督に復帰した星野仙一(1991年以来)から「来年2月の春季キャンプまでに(当時110 kgの)体重を20 kg減量しろ」と命じられ、2か月で体重を88 kgまで減量した(22 kg減)。

1996年は減量が功を奏し、怪我に弱い体質が変わったことに加え、7,8分の力で打つことを覚え、これが同年に本塁打を量産できた要因となった。打順こそ下位だったが、開幕からレフトに固定され、同じく下位に固定された大豊とともに快打を連発した。6月19日の対巨人戦では8回裏に槙原寛己から5番・音重鎮に続いて本塁打を放ち、山﨑の後の大豊も本塁打を放ったため、3者連続本塁打となった。6月は打率.403、13本塁打、33打点を記録し、月間MVPに選ばれる。レギュラーシーズン序盤は打率、本塁打、打点の3部門でトップとなり、オールスターゲームにも監督推薦で出場する。チームメイトの大豊や松井秀喜(巨人)・江藤智(広島)と本塁打王のタイトルを争い、最終的には山﨑(39本塁打)が大豊・松井の両名(ともに38本塁打)を抑え、本塁打王を獲得した。打率はリーグ4位の.322、打点もルイス・ロペスに次ぐ107打点を記録している。また、同年はリーグ最高長打率(.625)もを記録しベストナインに選ばれた。なお、同年5月1日の対巨人戦(ナゴヤ球場)では5回裏に巨人のバルビーノ・ガルベス投手が投げた球速141 km/hの速球が自身の頭部を掠めたことで激怒し、マウンドに詰め寄ってもガルベスが謝罪しなかったどころか応戦してきたことから殴り合いになり、両者とも退場処分を受けたほか、試合が30分以上も中断する大乱闘のきっかけになった。山﨑自身は後に楽天時代にもタフィ・ローズ(2007年)、ジェレミー・パウエル(2008年)と外国人選手を相手に騒動を起こしたが、自著ではそれらの経験を踏まえ外国人選手たちに対し「日本人であること、プロ野球選手として日本でプレーできることを誇りに思っているから日本を冒涜する行為は絶対に許さない。日本のルールを守らない者にプレーする資格はない」「アメリカに『謝ったら負け』という文化が浸透しているにしても、日本でプレーする以上は礼節を重んじ、真剣勝負の中で道を外したら謝罪すべき。日本で成功したければ日本の文化を学ぶべきだ」と述べている。

1997年は中日の本拠地がナゴヤ球場から外野が広いナゴヤドームへ移転し、守備の負担が増えたことなどから打撃成績を大幅に落とす。また、チームもリーグ最下位に終わった。

1998年は昨年オフにトレードで阪神タイガースへ移籍した大豊に代わり、左翼手から一塁手に転向する。8月18日の対ヤクルト戦では2回表にマーク・エーカーから史上198人目となる通算100号本塁打を放つ。27本塁打は松井(34本)、江藤(28本)に次ぐリーグ3位で、チームメイトのレオ・ゴメス(26本)を上回り、チーム最多であった。最多勝利打点の16打点で表彰され、最優秀JCB・MEP賞を受賞する。同年オフには推定年俸9500万円で契約更改したが、最優秀JCB・MEP賞のタイトル料500万円を加味すると1999年度の年俸は実質1億円となった。11月1日のセントラル・リーグ東西対抗戦では3点本塁打を放ち、MVPとなった。

1999年、チームは開幕11連勝を記録し、山崎本人もこの間は打率.343、2本塁打、12打点、4月の得点圏打率は.381と打撃好調だった。同年は主に6番を任され、5月9日の対広島戦(広島市民球場)では球団史上8人目となる3打席連続本塁打を放ち、7打点を挙げた。同月はいずれもチームトップとなる9本塁打・20打点を記録したが、6月以降は打撃不振に陥り、同月は0本塁打・2打点に終わる。7月は打率は低調だったものの得点圏打率は.353と好調で、それぞれチームトップの7本塁打・19打点を記録し復調した。しかし8月は9試合を欠場し、得点圏では7打数0安打、打点はいずれもソロ本塁打による2点のみと再び低迷した。9月にリーグ優勝マジックが再々点灯して以降は7試合で4本塁打と復調したが、同月9日の対阪神戦(甲子園球場)では首の寝違えで欠場したゴメスに代わり、114試合目で同シーズン初となる4番でスタメン出場し、1回に川尻哲郎からチームにとって16試合ぶりとなる初回先制打を記録、3点ビハインドで迎えた8回にはバックスクリーンへ24号2点本塁打を放った。同月11日の対ヤクルト戦(ナゴヤドーム)では4回裏、2ストライク0ボールの場面で相手投手・伊藤智仁が外角低めに投げた球を見送ったところ、球審の西本欣司からストライクの判定を受け、抗議するも判定は変わらず、ベンチからバットや肘当てをグラウンドに投げ入れたことで侮辱行為として退場処分を受けた。同年のリーグ優勝決定前最後のホームゲームとなった9月26日の対阪神戦(ナゴヤドーム)では、2点ビハインドの2対4で迎えた9回裏に福原忍から28号となる逆転サヨナラ3点本塁打を放ち、打った瞬間バンザイでサヨナラ本塁打を確信した。著書で山﨑本人は、この年から内野守備走塁コーチに就任した高代延博と確執があり、高代の進言によりスタメンを外れることが多くなったことについて言及した上で、高代について「監督に媚を売る指導者は必要ない」と批判している。この年の中日はリーグ優勝を争っていたが、この前日には山﨑は先発出場せず、当日も本塁打を放つまでは無安打だった。前日までの起用のされ方に不満を持っていた山﨑は本塁打を放った後、一塁へ走る際にベンチにいた監督の星野仙一に向かって、「おっさんボケ〜!俺を出しとけば、ちゃんと打つんじゃ!」と言い放った。しかし、9月30日に11年ぶりのリーグ優勝を決めた対ヤクルト戦で一塁手の守備の途中、打者走者の真中満と交錯して左手首を骨折し、ビールかけを見守ることしかできず、福岡ダイエーホークスとの日本シリーズにも出場できなかった。同年は4年ぶりに規定打席未到達に終わり、113試合に出場して打率.246、28本塁打・75打点と打撃成績は思わしくなかったが、オフの契約更改ではナゴヤドーム最終戦で放ったサヨナラ3点本塁打が高く評価され、前年比500万円増となる年俸1億円で契約更改した。

2000年はオープン戦でスパイクシューズを忘れたが、当時の監督だった星野には忘れたとは言えないということで、「今年はこれ(スパイクを履かないスタイル)で試合に出る。」ということにした。そのため、この年はスパイクを履かないで打席に立った。7月12日の対阪神戦で7回裏に吉田豊彦から史上114人目となる通算150号本塁打を放つ。オールスターゲームにも監督推薦で出場し、松坂大輔から2点適時打を打つなどの活躍でMVPとなる。この年は上記のスタイルで出場を続けた結果踏ん張りが効かず、前年の手首の骨折もあって流し打ちのスタイルとなり、最終的にはリーグ7位となる打率.311と高打率を記録したが、契約更改では「18本塁打はとても少ない」と指摘された。

2001年は10月6日の対広島戦で史上376人目となる通算1000試合出場を達成。同年はチーム最多の25本塁打を放ったが、契約更改では「打率.238、51打点が最低だ」と指摘される。この評価に納得せずFA宣言し、一時は好条件を提示した横浜ベイスターズへの移籍へ傾くが、シーズン後に新しく監督となった山田久志の慰留もあり、最終的には中日と3年契約を結んで残留した。

2002年はオープン戦から不調で、4月末には二軍へ降格。二軍戦でも不調が続いたが、ゴメスの故障により、7月から一軍復帰。しかし、7月26日の対阪神戦では同点で迎えた9回表一死満塁のチャンスで空振り三振。チームもその裏に蔵本英智のエラーでサヨナラ負けする。試合後、監督の山田は「どこかでブツッと切れてしまう。まるでお通夜みたいなもんだ。それと使った俺が悪いんだけど、チームを奈落の底に突き落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけどな。」と発言する。正確にはこの発言が山﨑を指したものか不明であったが、山﨑は「蔵本じゃない。今日は俺だ。俺が打っていれば、ミスもなかったんだ。」と話した。しかし、先述のように山田の慰留で中日に残留した経緯もあり、後に自身の著書で「山﨑って名指しで言えよ!」と不信感を顕わにしていた。その後はほとんど出場機会がなく、二軍戦にも出場しない時が多かった。結局、同年は26試合の出場に終わり、打率も1割台と不本意なシーズンとなった。レギュラーシーズン終了後には自ら球団社長・西川順之助に「トレードしてほしい」と直訴し、2003年1月上旬に平井正史との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍することが発表された。移籍後の背番号は「5」。

2003年は8月19日のダイエー戦で2回表に倉野信次から史上77人目となる通算200号本塁打を放った。同年は110試合に出場し、低打率に苦しみ規定打席にも到達できなかったが、チームの日本人選手の中では最多の22本塁打を放った。また、8月25日の日本ハム戦の2回裏の打席で投球の判定に対し白井一行球審に侮辱行為をしたとして退場処分を受けた。

2004年は4月27日からの西武ライオンズの3連戦(ナゴヤドーム)で監督の伊原春樹は地元出身選手として先発出場を約束。初戦は4番・指名打者として先発出場して3打数2安打と活躍した。ところが、この試合中に負傷した谷佳知が翌日に3番・指名打者として先発出場する。山﨑は関係者も多数招待していた試合での先発落ちにショックを受け、試合開始前に帰宅。その直前には監督室にバットを放り投げ、ゼネラル・マネージャーの中村勝広に伊原の解任を直訴するなどの行為を行った。これが「職場放棄」などと見なされ、翌日には懲罰的な意味で登録を抹消された。この「ボイコット事件」について山﨑本人は、試合に出られる心理状態ではないという伊原の判断の下、許可があったために帰宅したと述べている。それ以降、一軍と二軍を何度も行き来することになり、9月にはチームを離れ自身の実家に戻った。また、レギュラーシーズン最終戦の前には伊原から和解を求める電話があったが、再びチームに戻ることはなかった。しかし、伊原とは退団後に和解し、雑談や会話をすることもあると自著で語っている。

この年は最終的に62試合の出場に留まり、4本塁打、打率.245と前年から成績を落とし、この時に中日やオリックスで人間関係のトラブルから野球がまともにできず、嫌気が差して球団から戦力外通告も受けたため一度は引退を考えたが、団野村や高校の先輩・工藤公康の説得と長男からの応援により、現役続行を決意。同時期に新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスの監督・田尾安志に評価され入団オファーを受け、山﨑は「野球はもう、結構です」と一度は断ったものの、団の「それだと俺も困るんだよ」との説得や、田尾からも熱烈な誘いも有り承諾した。12月11日、正式に契約。背番号は長女の名前にちなんで「7」を選んでいる。

2005年は3月26日にチーム史上初の公式戦である千葉ロッテマリーンズ開幕戦では5番・指名打者で先発出場。開幕直後に右手に死球を受け、二軍(イースタン・リーグ)で治療に専念するなどレギュラーシーズン当初は活躍できなかったが、この年から始まったセ・パ交流戦より徐々に調子を上げ、5月7日の巨人戦では9回裏に前田幸長から球団史上初の代打本塁打を、6月には4試合連続の5本塁打を放ち、交流戦後には4番・指名打者に定着。7月2日の日本ハム戦では3回裏に江尻慎太郎から史上234人目、通算1000本安打となる左前安打を放つ。プロ入り19年目での達成となった。7月27日の対日本ハム戦の試合前に宮城県仙台市内の小学校を訪問し、子供たちに「本塁打を打つ。」と約束して臨んだこの日の試合で満塁本塁打を放った。当時、右打者のバッティングの基本である「右足重心」という言葉さえも知らなかった状態で、監督の田尾により基本を徹底的に指導された。田尾の指導によるフォームの改造により、118試合に出場して5年ぶりの規定打席到達、チーム最多の25本塁打を記録したが、後年にこのフォーム改造が楽天時代に好成績を残せるようになった要因の一つだと本人は挙げている。田尾は後年「崩れているところがわかっていたので、バッティングを直せる自信があった。思った以上にやってくれた」と振り返っている。同年9月25日まで行われた楽天のホーム最終3連戦(対ロッテ戦)で『河北新報』記者が観客50人からアンケートを取ったところ、同年の楽天のチームMVP(最優秀選手)には山﨑を挙げる意見(9票)が最多だった。

2006年は新しく監督として野村克也が就任し、4番の座は西武から移籍してきたホセ・フェルナンデスに譲る。6月17日の対巨人戦では工藤から2打席連続本塁打、7月29日の対西武戦では涌井秀章から楽天初となる逆転満塁本塁打を放つ。なお、この本塁打はパシフィック・リーグ通算900本目の満塁本塁打である。8月5日には日本プロ野球史上49人目となる通算250本塁打を達成。「開幕からの小さな目標として来たので、達成できて嬉しいですね。」と喜びを語った。しかし、122試合に出場したが打率.241、19本塁打と前年を下回った。

2007年は開幕当初こそ不調が続いたが、前年より野村のアドバイスを積極的に取り入れたことがこの年より効果が表面化し、徐々に調子を上げた。4月1日の対オリックス戦の3回裏には吉井理人からホセ・フェルナンデスとともに満塁本塁打を放った。1イニング2満塁本塁打は史上3度目、パシフィック・リーグでは2度目(2本とも柵越え本塁打はパシフィック・リーグ初)、同一投手から2本は史上初となる。開幕後の1か月間は安打の半分が本塁打という状態で打率は規定打席到達者内で最低ながら本塁打数は1位という時もあった。5月2日の対ソフトバンク戦で先発投手は山﨑が苦手としている和田毅だったが、「どうせ打てないならダラダラ打ってやろう。」と体の力を抜いて(手の遊びを大きくして)打ったところ、和田を相手に2打席連続本塁打という結果に繋がった(加えて、和田の配球の傾向を野村から指摘されたことも本塁打に繋がった)。この力を抜いて打つ打法を山﨑自身は「こんにゃく打法」と呼んでいた。5月17日の対日本ハム戦では自身2度目となる1試合3本塁打、5月27日の対横浜戦では那須野巧から場外本塁打を放ち、両リーグ最速で20号に到達し、5月は打率.342、12本塁打、27打点でチーム初の月間MVPを獲得。自身にとっては中日に在籍していた1996年6月以来10年11か月ぶりで、この期間は史上最長でもある。また、両リーグでの月間MVP受賞は史上13人目である。同月以降はフェルナンデスの不振もあって4番に座ることが多かった。6月14日に史上152人目となる通算1500試合出場を達成。その後もセ・パ交流戦終了時点で27本塁打、レギュラーシーズン55本塁打という日本記録ペースで本塁打を量産した。レギュラーシーズン前半の好調は配球を読むようになったことと構える手の遊びを大きくしたことを本人は挙げている。配球を読むようになったきっかけは野村が試合中にベンチで若い投手と捕手に打者の心理の指示をしているのを傍らで聞き、それを打撃に応用したということである。また、「相手の配球を読んで打て」とのアドバイスも受けた。

指名打者として選出されたオールスターゲームの第1戦の代打出場の活躍の他、第2戦の第1打席での先制2点本塁打、第2打席の二塁打の活躍により、優秀選手賞とガリバー賞に選ばれ、賞品としてポルシェ・カイエンを獲得した。

8月27日にはこの日誕生日だった長女の前で39号と40号本塁打を記録。9月15日には11年ぶりとなる100打点を記録し、最終的に43本、108打点の自己最高記録でタフィ・ローズを上回り、初の打点王と11年振りとなる本塁打王とベストナイン(指名打者部門)に輝いた。21年目での40本塁打、100打点での本塁打王、打点王は史上初。なお、山﨑は一軍の試合に出場していない年が2年あり、実働19年目での40本塁打、本塁打王は王貞治、門田博光に並び、100打点、打点王は王、衣笠祥雄の20年目に次ぐ記録である。なお、両リーグでの本塁打王の獲得は落合、ローズに次ぐ3人目。また、39歳での本塁打王、打点王の獲得は40歳で両タイトルを獲得した門田に次ぐ歴代2位の記録である。また、過去最高クラスの成績を残し、なおかつチーム全体のことをも考えるようになったため、野村再生工場の成功事例の一つともなった。

山崎自身も「“野村再生工場”の中でも一番ハマったという自負はありますね。ヤクルトでの小早川(毅彦)さんなどもいますが、僕こそが一番の傑作だと思っています。タイトルも取っていますしね。だから野村再生工場の長男を自称しているんです」と語っている。

また、野村就任以降の本塁打量産についても「僕は追い込まれると三振したくなくて思い切ったバッティングができなかったのですが、野村監督から『三振、大いに結構。なぜ三振したかが大切。三振もいい当たりも同じアウト。根拠さえあれば思い切って振ればいい。何も考えずに三振してくるのはアカン』と言われた。三振しても次に活かせばいいと考えられるようになり、三振が恐くなくなった」「楽天でホームランを量産できたのは、この言葉をかけられたからなんです」と語っている。

この年、フェラーリ・F512Mを楽天オークションに出展。1450万999円で落札されたが、落札者が直後にオークション会員を退会したため不成立となった。この年のタイトル獲得を記念し、愛車のランボルギーニ・ムルシエラゴがドイツのミニチャンプス社によって特別にミニカー化され、「ミニカーファン」にて抽選販売が行われた。パッケージには楽天のコーポレートカラーのラインとチームロゴと自身のサインのプリントが入った特別仕様である。

2008年は野村監督の指示により、この年から3年間主将とチームリーダーを務める。同年に発生した岩手・宮城内陸地震には復興支援金として、レギュラーシーズンに打った本塁打1本に付き10万円、総額280万円を宮城県栗原市に寄付した。その寄付の感謝の意味を込め、市役所は翌年に栗原市営栗駒球場の愛称を「山﨑武司球場」とした。シーズンでは4月3日の対ロッテ戦で久保康友から史上32人目となる通算300号本塁打を放つ。4月は打率.374、7本塁打、21打点で月間MVPに選ばれる。その後は調子を落としたものの、オールスターゲームには同年より導入された選手間投票の指名打者部門で選ばれる。7月31日の第1戦では9回裏に久保田智之からサヨナラ打を放ち、MVPに選ばれる。なお、両リーグでのオールスターMVPは史上4人目である。最終的に打率.276、26本塁打、80打点で本塁打数はチームトップとなった。

2009年は6月14日の対横浜戦で松家卓弘から本塁打を放ち、史上5人目となる両リーグ150号本塁打を達成。7月8日の対ロッテ戦にも史上102人目の通算1500安打を達成したが、チャンスで打てないことが多かった。しかし、オールスター明けからは大事な場面で打つことが増え、特に8月16日の対ロッテ戦では8回まで6点ビハインドの状況で唐川侑己から史上23人目の通算350号となる3点本塁打を放つと9回裏二死の2点ビハインドの場面ではブライアン・シコースキーから同点2点本塁打を放った。この試合は結局、延長12回裏に小坂誠がサヨナラ打を放ち、6点差をひっくり返す逆転勝利を収めた。この試合以降、チームは29勝16敗という飛躍的な成績を挙げた。最終的に打率こそ.246と低かったものの、39本塁打、107打点と両部門リーグ2位という成績で打線を牽引しベストナインの指名打者部門に2年ぶりに選出、またチーム史上初の2位とクライマックスシリーズ出場に貢献した。40代での本塁打30本到達は王、門田、ローズに次いで4人目。打点は前述の王、衣笠の記録を更新する実働21年目での100打点到達となった。また、41歳を迎える年での100打点到達は門田、ローズ、金本知憲の40歳を超える史上初の記録。また、本塁打は楽天移籍後の150本塁打到達となり、中日時代に記録した本塁打と合わせて史上7人目となる2球団での150本塁打も記録。クライマックスシリーズでは40代以上では初となるポストシーズン2本塁打、7打点を挙げたが、チームは第2ステージで日本ハムに敗れた。

2010年は5月14日の対広島戦でエリック・スタルツから自身初となる代打満塁本塁打を放ち、5月23日の対中日戦では楽天以外の既存11チームと大阪近鉄バファローズからの本塁打を達成した。オールスターゲームでは第1戦で中日時代の元チームメイトの岩瀬仁紀から本塁打を放ちベストプレー賞を獲得。第2戦も東野峻から本塁打を放ち、40代での現役選手としては史上初の2本塁打で存在感を示した。しかし、前半は大不振で、交流戦では12球団トップとなる11本塁打を放って一時は復調したものの、交流戦後に再び不振に陥った。それでも後半に復調し、最終的にチームトップとなる28本塁打93打点を挙げたが、打率が.239と前半の不調が響き、チームも4年ぶりのリーグ最下位に終わった。

2011年は中日時代の恩師である星野仙一が監督に就任。前年のシーズンに加入したランディ・ルイーズの一塁手の守備に不安があることに伴い、守備力重視を掲げる星野の構想から指名打者の山﨑と一塁手のルイーズの役割が入れ替えとなった。3月11日に発生した東日本大震災の被害を受けた被災地球団(本拠地Kスタ宮城も影響を受ける)の4番打者として開幕を迎える。6月11日の中日戦では史上2人目となる40代での100号本塁打を中田賢一から放つも、同試合の最終打席で空振り三振をした際に、右手薬指を剥離骨折して戦線離脱を余儀なくされる。1か月後の7月19日に戦線復帰し、8月18日の西武戦で菊池雄星から史上17人目となる通算400号本塁打を放った。8月31日の対西武戦でも菊池から3点本塁打を放ち、7年連続で2桁本塁打を達成。この年は東日本大震災を経験し、楽天のチームメイトたちと被災地を訪問しながら地元の小学校の子供たちを激励した。そうした過去のボランティア活動などが評価され、2011年度ゴールデンスピリット賞を受賞した。しかし、若返りを図るチーム方針により、戦力外通告を受け、10月10日に退団が発表された。山﨑本人は「まだやれる自信はある。」と発言し、現役続行を希望した。前述の離脱もあり7年ぶりに規定打席に到達できず、102試合の出場で打率こそ.229になったものの、11本塁打、48打点は貧打に喘いだチーム内ではトップ(打点は松井稼頭央とトップタイ)だった。山﨑によると星野から直接「来年の構想に入っていない」と通告された。また、コーチの要請が球団からはあったが、断ったとのこと。星野とぶつかることはなかったが、星野が就任した時から終わりを覚悟していたという。その後、退団を自ら申し出て最後は中日でしたいと考えていたことを後のインタビューで明かしている。

また、恩師である野村克也に去就について相談したところ、「お前は25年やってきた。実績もある。辞める、辞めないの決断は自分でしないといけない選手だ。人に言われて決めちゃいかん。まだやれると思うなら頑張れ」と現役続行を後押ししてもらったことも語っている。

12月8日に中日への移籍が決定。10年ぶりの古巣復帰を果たし、背番号は楽天時代と同じ「7」。また、楽天から中日へ移籍した初の選手となった。年俸3000万円、出来高は最大1億円という契約となった。

2012年は山﨑と同じく中日復帰を果たした監督の高木が第1次高木監督時代と同様に山﨑を積極的に起用した。トニ・ブランコとの競争の中、オープン戦で4本塁打を放つなど結果を出し、3月30日の開幕戦は4番・一塁手で出場した。開幕戦での4番は2010年に金本が記録した41歳11か月を上回る43歳4か月のセントラル・リーグ最年長記録となった。その後も4番・一塁手として出場したものの、4月25日に野本圭と共にインフルエンザB型に感染していたことが判明し、登録を抹消された。7月14日の巨人戦の3回裏、復帰後初の本塁打をデニス・ホールトンから放った。翌日の試合では決勝の適時二塁打を放ち、古巣復帰後初のお立ち台に上がった。しかし、90試合に出場したものの、打率.209、1本塁打、13打点と期待に沿う活躍は出来なかった。シーズン終盤には左手薬指の骨折もあり、一時は引退を考えていたが、チームは翌年も山﨑を戦力の1人として考えていたため、現役続行を決断。12月5日の契約更改では300万円減の2700万円に出来高払いを加えてサインし、現役続行が決定した。

2013年は開幕一軍入りを果たし、主に代打での起用で6試合に出場したが、7打数1安打で打率.143と不振に陥り、4月8日には出場選手登録を抹消された。交流戦開始の5月14日に再登録され、同日の北海道日本ハムファイターズ戦では6回に代打として起用され、同点に追いつく適時三塁打を放った。なお、この三塁打でセントラル・リーグ最年長三塁打を記録し、金本の44歳3か月を抜く、44歳6か月で記録を更新した。試合は中日が勝ち、決勝の犠飛を放ったマット・クラークと共にお立ち台に上がった。5月17日の対楽天戦では9回裏に代打として起用され、青山浩二から自身7度目のサヨナラ打となる2点適時打を放ち、セントラル・リーグ最年長サヨナラ打を記録した。しかし、7月27日に出場登録を抹消されたことを受け、現役引退を決め、同月29日に正式に同年限りでの引退を表明。10月1日の対阪神戦では3番・二塁手として先発出場したが、1回表の打席のみの出場で1回裏の守備から森野将彦に交代したため、二塁手を守ることはなかった。山﨑をここ一番という場面で試合に使っていた監督の高木もこのシーズンをもって退任した。

2014年からはフジテレビ・ニッポン放送・東海テレビ・東海ラジオ・テレビ愛知の野球解説者、FOX SPORTS『BASEBALL CENTER』のアナリスト、夕刊フジの野球評論家を務める。

2014年3月18日に中日より3月21日の対楽天オープン戦(ナゴヤドーム)を「山﨑武司引退試合」とし、一日限定で支配下選手として登録されることが発表、3月20日に支配下選手登録された。中日の選手の引退試合がオープン戦で開かれるのは2010年の立浪和義以来であり、日本プロ野球で引退試合のために選手契約を結ぶのは山﨑が初である。プロ野球の最低年俸は420万円と決まっているため、1日限定の契約金は、それを300日で割った1万4千円だった。背番号は、支配下選手登録上では20とされたが、試合では中日で2002年まで使用した22を球団と登録上22番だった大野雄大の了承を得た上で使用し、4番指名打者で出場。初回一死一・二塁で迎えた打席では、則本昂大から二ゴロ併殺打に終わった。3月24日に再び任意引退公示がなされた。

2017年7月27日、楽天OBによる試合「滝風イオンメディック presents 楽天イーグルスレジェンドマッチ」にレジェンドイーグルスのメンバーとして参加し、4番打者として出場。4回に対戦相手のTFUクラブの木村謙吾から左中間への適時二塁打を放ち、この試合のMVP賞を獲得した。

現役時代から自動車レースにも興味を持っていたことから、アマチュアドライバーとしてProject μとINGINGのサポートを受けてトヨタ主催の「GAZOO Racing 86/BRZ Race」に参戦する方針を2014年初めに明らかにした。参戦に向けてモータースポーツライセンスを新たに取得する必要があることや、プロ野球シーズン中は解説者としての活動を優先することから、同年のシリーズにはスポット扱いで参戦するとした。その後7月26日、富士スピードウェイにて行われた第6戦にて、トヨタ・86でレースデビュー。かつての背番号にちなんだ7番のゼッケンを背負い、決勝Bレースを30位で完走した。その後も同レースのクラブマンシリーズ(アマチュアクラス)へ参戦を続け、2018年開幕戦では3位表彰台を獲得している。

楽天時代には野村就任の話を聞いて、自分とは野球観が合う訳がないと考えていたため、引退後のインタビューで、野球人生の終わりを当初は感じたという。しかし関係が深まるにつれ、やりたくないとまで思っていた野球を再度面白いものだと思わせてくれた恩人として、現役時から現在に至るまで各方面で野村に対する感謝の意を述べている。

「とにかく初めて野村監督とお話させてもらったときには全否定されましたね。うまくやっていけるのかなと、そんな不安で始まったんですけど、日に日にいいお言葉をいただいて、可愛がっていただきました。野村監督じゃなければ2回目のホームラン王は絶対になかった。足を向けて寝られないですね」「年をとってしまうとパワーもスピードも全てにおいて衰える。『最後に使うのは頭だぞ、頭を使え』と再三言われて。(最初は)どうやって(頭を)使っていいか分からなかったんですけど、タイトルを獲ることができた」「一番印象に残っていることは『野球を好きになれ』ということ。『もっともっと野球を好きになりなさい』と言われました」

「実のところ、僕は子供の頃から『野球をやらされている』と思っていたので楽しくはなかった。大嫌いだった。現役を27年間やりましたが、野球が楽しいと思ったのは野村監督との4年間だけです」「僕にとって野村監督はオヤジです。野球以外でもかわいがってもらっていた。ずっとオヤジだと思って引退後も付き合っていました」。

「僕はこういう性格だから『監督を男にしたい』なんて思ったことがなかった。自分のため、家族のために野球をやっていた。でも野村のおやじだけは違った。唯一『胴上げしたい』と思った監督だった」

楽天時代に大きくプレースタイルを変えている。それまでは配球など読まない、ただ来た球を打つタイプの選手であり、最初の監督だった星野が三振を嫌う監督だったので、三振をしてはいけないという恐怖心を常に持っていた。しかし、野村に「三振だろうと、いい当たりだろうと、アウトはアウトだろう。そんなもん、根拠さえあれば思い切って振ってくればいいんだ。それでダメなら次、考えればいいだろ」と言われたことで三振を怖がらなくなり、野球がまた楽しくなったと述べている。また、三振を怖がらなくなったことでスイングから迷いが消え、野村から教えられた「思い切りの良さが一番大事」を実践するために配球データを洗ったり、野村のベンチ内でのぼやきを参考にして投球を読むことや考えることをするようになったという。技術面では、若い頃はボールに向かって行く打ち方をしていたが、後期は呼び込む打ち方をしていた。

2000本安打を達成せず、400本塁打を達成した(日本球界では他に田淵幸一、タフィ・ローズがいる)。

小学校時代からプロまで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた。楽天では2008年から2010年まで主将とチームリーダーを務めるなど、首脳陣からもその素質を認められ、球団も指導者としての期待をかけていた。

中日時代は1年後輩の立浪和義の存在が自分以上にあったため「あの時代には僕よりも期待されていた立浪和義さんがいた。僕はどうしても立浪さんの壁を超えることができなかったのだ」(原文ママ)と振り返っているが、設立間もない楽天移籍後は「自然にトップとなり、かかる期待も大きくなり、期待が大きければ大きいほどやりがいも生まれてきた」と述懐している。なお、落合博満は2012年1月13日に紀伊國屋ホールで開かれた著書『采配』(ダイヤモンド社)刊行記念の講演で「山﨑と立浪は後ろ盾がしっかりしていてそれぞれ強力な派閥を持っており、仲が悪い」と発言したが、山﨑自身は山本昌との対談で「(立浪とは)別に仲が悪いわけではないが、中日の野手ナンバーワンの座には常に立浪がいたから自分はナンバー2, 3に甘んじていた。自分の中では『立浪には絶対に負けたくない』と張り合っていた」と発言している。

自身でも生意気かつ短気で喧嘩っ早い性格と自負しておりロサンゼルス留学の際にはアイク生原に「何故アマチュアの人にプロ野球選手が指導されなければいけないのか」と言い放った。またこのような性格から、死球(寸前含む)で投手や捕手に詰め寄ったり、審判の判定に納得がいかないと激昂する場面も多く見られ、現役時代6度の退場処分を受けている。

このことを受けてアイク生原は山崎の実家に手紙を送り付け、その手紙を読んだ母親から山崎は叱責を受ける。 帰国後も山崎とアイク生原は交流があったものの同じく留学生であった山本昌が大活躍した為、関係は薄かった。 ある時、アイク生原の妻に挨拶をした山崎は「あなた未だ野球を続けていたのね」と言われたという。

中学校時代は野球部だけでなく、相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、3年の時の大会終了後、数日の練習で相撲の愛知大会で優勝、全国大会にも出場して藤島部屋などの多くの部屋からスカウトされた。元前頭筆頭・朝乃若(現:若松親方)は愛知工業大学名電高等学校の1年後輩。元十両2枚目・須佐の湖は小学校と中学校の4年後輩で幼なじみでもある。

2017年6月18日放送の『たけい荘Z〜壮だったのか!スポーツの極意〜』で「テレビ初!ガチンコ相撲対決」という企画に挑み、大相撲の幕内・石浦と簡易土俵で勝負した際には、頭をつけてハズ押し、右上手を引いて投げを打ち、踏ん張った石浦は土俵際で左下手で投げ返し、山﨑を転がした。「強い。まさか頭をつけてくるとは」と石浦は驚き、御嶽海は「どっちが関取かわからない」と称賛。山﨑は「めちゃくちゃうれしい」と関取に投げられて感激していた。

1998年の正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で優勝。1999年にも出場して2年連続優勝するが、対戦相手の片岡篤史が右肩脱臼の重傷を負い、これ以降、プロ野球選手の相撲競技は行われなくなった。

愛称は「ジャイアン」、「キン肉マン」、「タケシ」、「ヤマ」など。風貌と性格、「たけし」という名前から、漫画『ドラえもん』のキャラクターである「ジャイアン」にあやかり、「ジャイアン」とあだ名された。山﨑の氏名は「山﨑武司」、ジャイアンの氏名は「剛田武」である。これは中日と楽天でチームメイトであった中村武志と区別する意味もある。中村は中日時代から監督やファンに「タケシ」と呼ばれていて、山﨑は普通に「山﨑」と呼ばれていた。2011年に山﨑が出した著書にも「リアルジャイアン」の言葉が使われている。楽天時代でその他のコーチたちからも「タケシ」と呼ばれていた。自身曰く、ジャイアン同様音痴でもあると言う。

趣味はミニカー収集で、2011年現在では自宅に約5000台のミニカーがある。ミニカーメーカーの京商と専門誌がタイアップしたドイツツアーにミニカーのコレクターとして特別ゲストとして参加した。自宅のコレクションとインタビューは季刊専門誌『ミニカーファン』に掲載された。ラジコンカーも収集しており、2005年まで山本昌とラジコンカーレース大会『山山杯』を毎年開催していた。自宅にはセグウェイがある。また、趣味のミニカーとラジコンカーは飾ってあるが、野球関係のものは飾らずに箱に入れたままになっている。2008年末に『SPORTS STADIUM』で自宅が紹介された際、その年のオールスターMVPのトロフィーや、2007年二冠王のトロフィーなどを「もらって以来初めて箱から出した。」と語っていた。

愛車はフェラーリ、メルセデス・ベンツ。2011年にはランボルギーニ・アヴェンタドールを「日本輸入第1号車」という条件付で契約し、結果としては第2号車になった。また、「引退したらランボルギーニ・カウンタックを『観賞用』として購入する。」とも公言していた。前述の通りプロ野球引退後はアマチュアのレーシングドライバーとしても活動している。少なくとも、プロ入りしてから30台は車の乗り継ぎをしてきたとのこと。

少年時代から車好きで、プロ入りしてすぐにトヨタ・ソアラを購入。毎年のように車を買い替え、20歳にしてBMWを所持していた。この当時山﨑は二軍暮らしの寮住まいであり、「寮生は車を所持してはいけない」という決まりがあったが、山﨑は実家に車を置いて、たびたび兄に寮まで持って来てもらってはこっそり乗り回していた(その際、チームメイトには兄の車だと偽っていた)。その後、メルセデス・ベンツ・500SLを購入、一度だけ球場まで乗り込んだが、当時メルセデス・ベンツ・560SELを愛用していた小松辰雄に見つかり叱られた。

好物はエビフライ。山﨑がプロデュースして2006年8月5日に発売された「どえりゃー山﨑弁当」には、山﨑の「とにかく大きなエビフライが目立つ豪快な弁当にしたい。」という強い希望に応えて、大きなエビを頭から丸ごと使ったエビフライが入っていた。「間違いなく売り上げは日本一です。」という。2007年8月27日には約18cmの巨大エビフライ入りの「山﨑でらうまカレー」、2008年4月19日には地元の愛知県の名産の手羽先をおつまみとした「テバサキタケシ」をプロデュースし、販売初日には30分で完売した。

酒が全く飲めないが、周囲からは勝手に酒豪扱いされることも多い。楽天時代は仙台・国分町にある知人の店でよく食事をしていたが、そのせいで「国分町のドンペリを全部集めて飲んでた」と噂を立てられたこともあった。食事が楽しみであるが、その反面体調管理にも気を配っている。若い頃は、食事に関しても適当だと認めており、睡眠も雑だったが楽天時代に改めた。

中日時代に児童施設を慰問したことがきっかけで、ボランティア活動を行うようになり、現役時代には毎年シーズンオフになればサンタクロースの扮装で施設慰問をするのが恒例になっている。

中日時代の応援歌はナゴヤ球場時代のもの(『名古屋はええよ!やっとかめ』の替え歌)とナゴヤドーム移転後のものが存在する。ナゴヤドーム時代のものは楽天時代にも使われ、ナゴヤ球場時代のものは中日復帰後に使われている。また、楽天時代の2008年にはチームの応援歌「越えろ!楽天イーグルス(歌:℃-ute)」のプロモーション・ビデオに出演した。

野球では右投げ右打ちであったが、食事の際には箸やスプーンを左手で持つ。ペンは右手。

1999年5月21日からは登録名を戸籍上の表記の「山崎」から「山﨑」へ変更した。但し「﨑」は常用外漢字の為、使用に制限がある一部メディアでは常用漢字の「崎」で表記される。

中日では2001年から2003年にかけて、山﨑賢太(姓の読み方は「やまざき」)がいたため、表記名はそれぞれ「山﨑武」「山﨑賢」となっていた。また、楽天では2006年から2009年にかけて、山崎隆広(姓の読み方は「やまざき」)がいたため、表記名はそれぞれ「山﨑武」、「山崎隆」となっていた。

日本プロ野球において、先発投手が9イニング完全試合状態を継続しながらも、9回終了時に0-0だったためその時点で記録が成立せず延長戦となり、延長10回に登板して安打を許し記録達成を逃した事例は僅か2回だけであるが、山﨑は最初の2005年8月27日、インボイスSEIBUドームにおける西武西口文也の事例においては対戦相手の4番打者として、2例目となった2022年5月6日、バンテリンドームナゴヤにおける中日大野雄大の事例においてはサンテレビジョンの生中継解説者として、いずれも現場に立ち合うという稀有な経験をしている。なお山﨑以外には、2005年の試合において西武の監督だった伊東勤も、2022年の試合においてNHK BS1の解説者として、両現場に立ち合っていた。

各年度の太字はリーグ最高

本塁打王:2回 (1996年、2007年) ※両リーグでの獲得は史上3人目

打点王:1回 (2007年)

最多勝利打点:1回 (1998年) ※特別賞

ベストナイン:3回(外野手部門:1996年 指名打者部門:2007年、2009年)

最優秀JCB・MEP賞:1回(1998年)

優秀JCB・MEP賞:1回(1996年)

月間MVP:3回(打者部門:1996年6月、2007年5月、2008年3・4月)

「ジョージア魂」賞:1回(2010年度第9回)

オールスターゲームMVP:2回(2000年第2戦、2008年第1戦)

オールスターゲーム優秀選手賞:1回(2007年第2戦)

オールスターゲームベストプレー賞:1回(2010年第1戦)

オールスターゲーム ガリバー賞:1回(2007年)

報知プロスポーツ大賞(野球部門パシフィック・リーグ):1回(2007年)

ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」(2008年)

ゴールデンスピリット賞:1回(2011年)

タニタ健康大賞(2011年)

初記録

初出場:1989年9月7日、対広島東洋カープ19回戦(広島市民球場)、9回表に遠田誠治の代打として出場

初打席・初三振:同上の試合で9回表に川端順から三振

初安打:1989年9月10日、対ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤ球場)、9回裏に内藤尚行から左前安打

初打点:1989年9月13日、対横浜大洋ホエールズ24回戦(横浜スタジアム)、8回表に西本聖の代打として出場、松本豊から

初二塁打:1989年9月16日、対広島東洋カープ21回戦(ナゴヤ球場)、5回裏に川口和久から

初先発出場:1989年10月4日、対広島東洋カープ24回戦(広島市民球場)、8番・捕手として出場

初本塁打:1991年5月9日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(横浜スタジアム)、5回表に田辺学から場外ソロ

初盗塁:1995年6月1日、対横浜ベイスターズ10回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に二盗(投手:五十嵐英樹、捕手:秋元宏作)

節目の記録

100本塁打:1998年8月18日、対ヤクルトスワローズ18回戦(神宮球場)、2回表にマーク・エーカーから左越えソロ ※史上198人目

150本塁打:2000年7月12日、対阪神タイガース15回戦(ナゴヤドーム)、7回裏に吉田豊彦から左越えソロ ※史上114人目

1000試合出場:2001年10月6日、対広島東洋カープ28回戦(広島市民球場)、9回裏に一塁手として出場 ※史上376人目

200本塁打:2003年8月19日、対福岡ダイエーホークス22回戦(福岡ドーム)、2回表に倉野信次から左中間へ逆転2ラン ※史上77人目

1000本安打:2005年7月2日、対北海道日本ハムファイターズ6回戦(フルキャストスタジアム宮城)、3回裏に江尻慎太郎から左前安打 ※史上234人目

1000三振:2006年8月1日、対福岡ソフトバンクホークス11回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、3回表に新垣渚から ※史上39人目

250本塁打:2006年8月5日、対オリックス・バファローズ12回戦(フルキャストスタジアム宮城)、1回裏に吉井理人から左越え3ラン ※史上49人目

1500試合出場:2007年6月14日、対中日ドラゴンズ4回戦(フルキャストスタジアム宮城)、4番・指名打者として先発出場 ※史上152人目

300本塁打:2008年4月3日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(クリネックススタジアム宮城)、3回裏に久保康友から左越えソロ ※史上32人目

両リーグ150本塁打:2009年6月14日、対横浜ベイスターズ4回戦(クリネックススタジアム宮城)、7回裏に松家卓弘から左中間へソロ ※史上5人目

1500本安打:2009年7月8日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に荻野忠寛から中越え2ランで本塁打を放ち達成 ※史上102人目

1000打点:2009年8月13日、対福岡ソフトバンクホークス17回戦(クリネックススタジアム宮城)、6回裏に藤岡好明から左前2点適時二塁打 ※史上35人目

350本塁打:2009年8月16日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に唐川侑己から左中間へ3ラン ※史上23人目

300二塁打:2009年9月19日、対千葉ロッテマリーンズ21回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に根本朋久から右中間二塁打 ※史上54人目

3000塁打:2010年4月8日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(札幌ドーム)、6回表にボビー・ケッペルから左越え2ランで本塁打を放ち達成 ※史上46人目

1500三振:2010年7月7日、対千葉ロッテマリーンズ9回戦(クリネックススタジアム宮城)、2回裏に大嶺祐太から ※史上9人目

2000試合出場:2010年9月22日、対北海道日本ハムファイターズ23回戦(札幌ドーム)、4番・指名打者として先発出場 ※史上42人目

40代での100本塁打:2011年6月11日、対中日ドラゴンズ3回戦(クリネックススタジアム宮城)、3回裏に中田賢一から左中間ソロ ※史上2人目

400本塁打:2011年8月18日、対埼玉西武ライオンズ14回戦(西武ドーム)、9回表に菊池雄星から左越えソロ ※史上17人目

350二塁打:2012年7月26日、対東京ヤクルトスワローズ14回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に館山昌平から右前二塁打 ※史上34人目

その他の記録

年齢別最多本塁打:39歳で43本塁打、41歳で39本塁打

シーズン100打点到達の最年長記録:41歳

代打満塁本塁打:2010年5月14日、対広島東洋カープ2回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、6回表にエリック・スタルツから

セントラル・リーグ最年長二塁打:44歳6か月、2013年6月1日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(札幌ドーム)、4回表に大谷翔平から二塁打

セントラル・リーグ最年長三塁打:44歳6か月、2013年5月14日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(ナゴヤドーム)、6回裏に宮西尚生から右前適時三塁打

セントラル・リーグ最年長サヨナラ打:44歳6か月、2013年5月17日、対東北楽天ゴールデンイーグルス1回戦(ナゴヤドーム)、9回裏に青山浩二から左前2点適時打

オールスターゲーム出場:6回(ファン投票:2007年、2011年、選手間投票:2008年、2010年、監督推薦:1996年、2000年)

オールスターゲーム(2010年度)で40代での最多2本塁打

22(1987年 - 2002年、2014年)

5(2003年 - 2004年)

7(2005年 - 2013年)

20(2014年)※引退試合出場のための登録上のもの。引退試合では大野雄大の22をつけて出場した。

山崎 武司(やまさき たけし、1987年 - 1999年5月20日)

山﨑 武司(読み同じ、1999年5月21日 - 2014年)

『野村監督に教わったこと:僕が38歳で二冠王になれた秘密』(講談社、2008年2月、ISBN 4062145332)

    『野村監督に教わったこと:部下は上司で生き変わる』(講談社+α文庫、2010年1月、ISBN 4062813416)

    『奇跡の超弾道:進化を続ける心技体』(ベースボール・マガジン社新書、2010年9月、ISBN 4583102976)

    『今、意味がないと思うことに価値がある』(ベストセラーズ、2010年11月、ISBN 4584132801)

    『リアルジャイアンから悩める君たちへ』(マーブルトロン、2011年5月、ISBN 4879196347)

    『復活力:東北、ありがとう』(あさ出版、2011年12月、ISBN 4860634918)

    『進化』(あさ出版、2013年4月、ISBN 4860635981)※山本昌との共著

    山﨑武司『さらば、プロ野球:ジャイアンの27年』(第1刷発行)宝島社、2014年1月25日。ISBN 978-4800219404。 

    『40代からの退化させない肉体:進化する精神』(講談社+α新書、2014年4月、ISBN 4062728516)

    『証言 ノムさんの人間学 弱者が強者になるために教えられたこと』(宝島社、2020年5月、ISBN 978-4299004833)※古田敦也、宮本慎也、赤星憲広ほかとの共著

    『プロ野球:戦力外通告を受けた男たちの涙』(美山和也・加藤慶・田口元義共著、宝島SUGOI文庫、2012年5月、ISBN 9784796697262)

    「炎の体育会TV」(2014年2月1日、2021年5月15日) - マスクドスラッガーとして出演

    「SAMURAI BASEBALL」(CBCテレビゲスト解説・TBSテレビ副音声ゲスト)

    「ドラHOTプラス」(2014年-、東海テレビ

    「野球道」(2014年-、東海テレビ)※ローカル中継は『DRAGONS LIVE』のタイトルで放送。年度によりフジテレビ主管制作の対読売ジャイアンツ戦全国中継・フジテレビ制作関東ローカルおよびBSフジ向けのパ・リーグ公式戦中継、CS放送向けの「SWALLOWS BASEBALL LIVE」や同系列の仙台放送・テレビ新広島・テレビ西日本制作中継にも出演する場合あり

    テレビ愛知 10チャンベースボール」(2014年-、テレビ愛知)

    「BASEBALL CENTER」(2014年、FOX SPORTS ジャパン)

    大相撲中継(2014年名古屋場所10日目ゲスト解説 NHK総合テレビジョン)

    水曜日のダウンタウン(2014年8月27日、2017年8月2日) - 時速300キロのピッチングマシンに挑戦。2度目は「ホームランバー」の棒を集めて作ったバットで本塁打に挑戦。

    ニノさん(2021年4月3日、日本テレビ)‐異種格闘技衝撃力ダービー

    「黄金鯱伝説グランスピアー 2ndシーズン」(2014年5月10日) - 少年の父親(武)役

    「全力離婚相談」第2話(2015年1月13日、NHK総合テレビ) - 樺島 役

    「八月は夜のバッティングセンターで。」第2話(2021年7月15日、テレビ東京)本人 役

    「ニッポン放送ショウアップナイター」(2014年 - 、ニッポン放送)

    「東海ラジオ ガッツナイター」(2014年 - 、東海ラジオ)

    「ドラヂカラ!!」(2016年9月 - 2019年3月、東海ラジオ、水・木曜担当)

    「山﨑武司 ホームラン魂!」(2022年10月 - 2023年3月、東海ラジオ)

    EMIミュージック・ジャパン「今井美樹ベストアルバム『Premium Ivory -The Best Songs Of All Time-』」(2015年)

    今井美樹「卒業写真」

    ^ 「﨑」の字は機種依存文字(CJK互換漢字)(Unicodeでは、U+FA11)。

    ^ 中学の先輩には伊藤敦規(元阪神ほか)が、後輩には2012年 - 2013年にチームメイトだった浅尾拓也(山﨑より16歳年下)・小山雄輝(元巨人)がいる。山﨑は浅尾の義兄と八幡中時代に野球部でチームメイトだったほか、浅尾を野球教室で指導したこともあった。

    ^ しかしこの時、自身は乗り気でなかったことから「人をまとめる役目はやりたくない。自分の野球ができなくなる」と中村監督に告げたところ、「体罰が当たり前の時代」でありながら滅多に選手を殴らなかった中村から平手打ちを受けた。山﨑はこのことについて「中村監督は『山﨑は型にはめると伸びないタイプだが、組織としての規律を知ってもらいたい』という親心から自分を主将に任命したのだろう。自分も『これはやらないとまずい』と考えて主将を引き受けた」と述べている。

    ^ 巨人のスカウトから「絶対うちが獲るから他の球団とは接触しないでくれ」「うちの1位指名は阿波野秀幸だが、外れ1位か2位で間違いなく君を指名する」と伝えられていたが、巨人は3球団競合の阿波野を抽選で外すと外れ1位で木田優夫、2位で水沢薫を指名し、チーム事情から結局2位までに山﨑を指名することはなかった。

    ^ 山﨑本人は「中日から指名を受けた直後はがっかりしたが、自分の目標はプロ野球選手になることだったし、『最悪でもセ・リーグなら』と考えていたので、やむなく中日入団を決意した。同時に指名する約束を反故にした巨人への闘志が沸き上がり、『巨人相手に活躍して自分の名前を全国に知らしめてやりたい』と決意した」と述べている。

    ^ 山﨑自身は「目上の人間にも媚びない自分を認めてくれたのか、最終的には可愛がってくれる先輩が多かった」と述べている。

    ^ 山﨑は小松について「公私ともに背中を追い続け『いつかこんな選手になりたい』と尊敬の念を強めていた。いつか必ず恩返ししたい」と述べている。

    ^ 指導者としての落合については「監督は選手の個性をうまく引き出せなければいけないが、落合さんにはそのような能力があるとは思えない」と述べている。

    ^ 救出された子供のうち1人は声も出さずにいたが、山﨑が頬を叩くと意識を取り戻した。山﨑はこの件に関して『中日新聞』(中日新聞社)記者の取材に対し「精肉店一家の女性の『子供が中にいる。助けて!』という叫び声を聞き、夢中で裏の戸口を開けて入った。煙がひどく、いったん外に出て深呼吸してから子供を助けた」と振り返っている。

    ^ 山﨑と同期のチームメイトである近藤真一が享栄高等学校時代に薬師寺と同期で、その縁で交友があった。

    ^ 山﨑本人は「同年に初の二けた本塁打を記録したことで『プロでやっていける』と手応えを掴んだ」と述べている。

    ^ 同年8月22日時点で山﨑は33本塁打、大豊と松井はそれぞれ32本塁打、江藤は30本塁打。ただし、江藤は8月29日(当時は打率.314・32本塁打)の対巨人戦(広島市民球場)で打球処理の際にバウンドした球を顔面にぶつけて骨折し、戦線離脱。これにより本塁打王争いからも脱落した。

    ^ 山﨑は「それまでは手で相手を殴ることは『人としてやってはいけない行為』と感じていたから、詰め寄った段階でもガルベスが頭を下げれば何もしないつもりだったが、逆にガルベスがグラブを外して先に左手で自分に殴り掛かってきたことで頭に血が上り応戦した。今でも自分の行為を間違っていたとは思わない」と述べている。

    ^ 巨人の首脳陣はガルベスへの退場処分を不服として選手たちをロッカーに引き上げさせ、審判団に抗議した。巨人の長嶋茂雄監督は放棄試合寸前まで態度を硬化させたが、最終的にはセ・リーグ連盟への提訴を条件に試合再開に応じた。

    ^ 同試合で中日は8回裏終了時点まで2対1とリードしていたが、9回表に抑えの宣銅烈が阪神のマーク・ジョンソンから20号逆転3点本塁打を被弾し、2対4で9回裏の攻撃を迎えていた。

    ^ 結局、中日は日本シリーズでダイエーに1勝4敗で敗退したが、シリーズで活躍したダイエーのエース・工藤公康(愛工大名電高校の先輩)は「山﨑がいない打線だから楽だった」と発言したほか、メディアも中日の敗因として「山﨑不在」を挙げた。

    ^ 山﨑本人は「この時は悲しさよりむしろ『俺を出した中日を見返してやる』という意気込みの方が強かった」と述べている。

    ^ 当初オリックス時代の同僚で、分配ドラフトで加入した辻竜太郎が7に内定していたが、山崎自ら辻を説得した結果、最終的にはオリックス時代と同じ48となった。

    ^ 次点は礒部公一(8票)、3位は岩隈久志と田尾監督(いずれも6票)。

    ^ 2013年2月1日号のFRIDAYには、有名人の車特集として山﨑のことが掲載された。

    ^ 他の出場者は現役の格闘家の「那須川天心」と元サッカー選手「本並健治」。

    ^ 参考外部リンク…本来の表記と異なる変換文字を含む選手一覧 - 日本野球機構オフィシャルサイト(データは2013年3月29日現在)2020年8月22日閲覧。

    ^ 「【中日好き】心優しい“ジャイアン”こと、山崎武司のラストゲームを前に」『J SPORTS』2014年3月19日。2018年3月12日閲覧。

    ^ 前中日・山崎氏がカーレーサー転身(『デイリースポーツ』2014年1月9日付記事)

    ^ ベースボール・マガジン社 2016, p. 69.

    ^ 「山本昌×山崎武司 中日OB対談「ドラゴンズ愛を貫くヤマヤマコンビ」」『週刊ベースボールONLINE』ベースボール・マガジン社、2016年3月17日。2020年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月25日閲覧。

    ^ 『中日ドラゴンズ '97ファンブック』〈中日ドラゴンズファンブック〉、中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)、1997年3月18日、34頁。ISBN 978-4806203360。

    ^ 「中日浅尾うれしい“知多ファイブ”」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2012年12月9日。2020年4月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月24日閲覧。

    ^ 「中日浅尾 山崎と「いっしょにお立ち台」」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2006年11月22日。2020年4月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月24日閲覧。

    ^ 山﨑 2014, p. 188.

    ^ 山﨑 2014, p. 70.

    ^ 山﨑 2014, pp. 70–71.

    ^ 山﨑 2014, p. 71.

    ^ 山﨑 2014, p. 25.

    ^ 「巨人が指名"確約"も…まさかの裏切り 嫌だった中日入り「プロ行きません」」『Full-Count』2024年9月23日。2024年9月23日閲覧。

    ^ 『極上空間』2016年4月9日放送

    ^ 山﨑 2014, p. 27.

    ^ 『朝日新聞』1986年12月7日付朝刊 (14版、18面)

    ^ 【近藤真一】史上初!初登板ノーヒットノーラン!近藤真一フィーバーの裏側「俺絶対真一に追いつけない」【山崎武司】【高橋慶彦】【プロ野球OBに会いに行く】 - YouTube

    ^ 山﨑 2014, p. 126.

    ^ 山﨑 2014, pp. 128–129.

    ^ 山﨑 2014, pp. 126–128.

    ^ 山﨑 2014, pp. 124–126.

    ^ 山﨑 2014, pp. 26–27.

    ^ 山﨑 2014, p. 28.

    ^ 「広島正田耕三の1試合6盗塁のプロ野球記録の陰で」『baseball-story』2018年3月9日。2021年5月22日閲覧。

    ^ 「【正田耕三 連載コラム】捕手・山崎武司を廃業させた89年の5盗塁」『東京スポーツ』2020年6月26日。2021年5月22日閲覧。

    ^ 『中日スポーツ』1991年11月21日第5版3頁「山崎 天性のパンチ 開花か退団か 来季は背水 未完の大器も6年目、ラストチャンス 「コラッ!ヘッドが動くぞ」」(中日新聞社)

    ^ 『中日新聞』1990年12月20日朝刊「猛煙の中 山崎選手(中日)超美技 元力士らと連係子供3人を救出 知多で肉店全焼」(中日新聞社)

    ^ 「平成ナゴヤ球場の逆転劇」ドラゴンズ・サヨナラ男列伝!CBC

    ^ 山﨑 2014, pp. 28–29.

    ^ 「【追悼・星野仙一 鉄拳制裁】山崎武司氏が激白 「体重20キロ落とせ」強制ノルマで本塁打王獲得 教え子の中で「引退しろ」に拒否したのは僕だけ (1/3ページ)」『Zakzak』産業経済新聞社、2018年1月10日。2020年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月25日閲覧。

    ^ 『中日新聞』1996年8月22日夕刊三面3頁「セ本塁打王だれ?山崎<33>、大豊<32>、松井<32>、江藤<30> V争い絡み過熱 競り合いに強い『経験者』」(中日新聞社)

    ^ 『朝日新聞』1996年8月30日東京朝刊第14版第一運動面29頁「江藤(広)が負傷退場」(朝日新聞東京本社)

    ^ 『中日新聞』1996年8月31日朝刊第一運動面37頁「江藤は今季絶望 眼窩底骨折」(中日新聞社)

    ^ 渋谷真「【4紙独断 野球殿堂】乱闘 見ている側も血がたぎる…シナリオなき闘い」『中日スポーツ』(紙面から)、中日新聞社、2017年6月20日。2020年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月25日閲覧。

    ^ 山﨑 2014, pp. 160–161.

    ^ 山﨑 2014, p. 161.

    ^ 山﨑 2014, p. 162.

    ^ 山﨑 2014, p. 159.

    ^ 山﨑 2014, p. 163.

    ^ 『読売新聞』1998年10月13日東京朝刊第14版スポーツ面25頁「セ・本塁打(終了)」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1998年(平成10年)10月号645頁。

    ^ 「山崎 1億円プレーヤーに サヨナラ劇的弾500万円也」『中日スポーツ』中日新聞社、1999年12月29日。2001年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月23日閲覧。

    ^ 「山崎 来季はD党にどんな贈り物を? 江藤はこなかったけど、2人分働く」『中日スポーツ』中日新聞社、1999年12月8日。2001年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月23日閲覧。

    ^ 「山崎 上昇モード 今季初の4番で先制打&追撃弾」『中日スポーツ』中日新聞社、1999年9月12日。2001年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月23日閲覧。

    ^ 「山崎 退場 ストライク判定に激高」『中日スポーツ』中日新聞社、1999年9月12日。2001年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月23日閲覧。

    ^ 『東京新聞』1999年9月27日朝刊第二運動面20頁「セ・リーグ 阪神11連敗 ナゴヤドーム(25回戦中日18勝7敗) 中日5-4阪神」(中日新聞東京本社)

    ^ 山﨑 2014, pp. 78–80.

    ^ マルコポロリ!SPパ・リーグ残酷物語番外編

    ^ 今日の名言:おっさんボケェ!俺を使えば打てるんじゃ!!

    ^ ベースボール・マガジン社 2016, p. 71.

    ^ 『ガンバレ日本プロ野球!?』(J SPORTS)2009 - 2010シーズンに出演した際に発言。その時のダイジェスト動画

    ^ 「年度別成績 2000年 セントラル・リーグ」『NPB.jp 日本野球機構』。2015年9月2日閲覧。

    ^ 山﨑 2014, p. 30.

    ^ 2014年1月21日、22日放送の『ドラ魂KING』の「連続野球私小説」での自身の発言より。

    ^ 山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.123-124

    ^ 美山和也+加藤慶+田口元義『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』 宝島社、2012年、P.15

    ^ 山﨑 2014, p. 32.

    ^ 山﨑 2014, p. 33.

    ^ 美山和也+加藤慶+田口元義『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』 宝島社、2012年、P.17-18

    ^ 山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.127-132

    ^ 美山和也+加藤慶+田口元義『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』 宝島社、2012年、P.18

    ^ 山﨑武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.127-132。なお、伊原とは「子育て論で話が合う部分もある」と言う。

    ^ 山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年

    ^ 広野功『広野功の楽天誕生秘話』。日刊ゲンダイ、2013年11月19日号、33面

    ^ 楽天の7番は違う選手のものだった!?山﨑武司が背番号へのこだわりを語る!【教えて武司さん#006】 - 山﨑武司チャンネル(YouTube)、2021年6月1日配信。

    ^ 「[虎四ミーティング~限界への挑戦記~]山﨑武司(元プロ野球選手)<前編>「逆境を救ってくれた2人の恩師」(スポーツコミュニケーションズ)(1/5)」『現代ビジネス』2014年1月10日。2024年3月12日閲覧。

    ^ 楽天創設時の首脳陣が明かす秘話 「我々3人の一番の失敗」は…

    ^ 『河北新報』2005年9月27日朝刊第16版第二社会面32頁「羽ばたけイーグルス ホーム最終戦 観客50人に聞きました MVPは山崎内野手」(河北新報社)

    ^ 「日本プロ野球界の名将・野村克也によって復活した選手たち」 - CyberOwl(当時の社名はCyberSS。サイバーエージェントの関連会社)運営「Moobie Scoop!」(比較情報.com内のコンテンツ)。2017年6月12日発信、2018年5月24日閲覧。

    ^ 「山崎武司氏 野村克也監督「三振、大いに結構」で本塁打量産」『NEWSポストセブン』2021年1月2日。2021年11月13日閲覧。

    ^ 「山崎武司球場」が誕生 栗駒球場に愛称 栗原市 - 河北新報(Yahoo!ニュースよりアーカイブ。2009年9月29日 11時53分掲載、2015年11月3日閲覧)

    ^ 山崎、鉄平…元中日勢が大活躍 スポーツニッポン2010年5月23日配信

    ^ 【追悼・星野仙一 鉄拳制裁】山崎武司氏が激白 「体重20キロ落とせ」強制ノルマで本塁打王獲得 教え子の中で「引退しろ」に拒否したのは僕だけ

    ^ 山崎、心優しきジャイアン ホームラン基金&被災地支援に力…ゴールデンスピリット賞 スポーツ報知 2011年11月15日閲覧

    ^ 「山崎、涙の退団発表 コーチ打診断り現役続行希望」『中日スポーツ』2011年10月10日。2011年12月8日閲覧。

    ^ 山崎楽天退団で涙の現役宣言 コーチ断る - 日刊スポーツ 2011年10月10日

    ^ 「テリー伊藤対談「山崎武司」(3)星野監督に“引退しろ”と言われたが…」『アサ芸プラス』2014年3月6日。2024年3月12日閲覧。

    ^ 「2度目の戦力外通告「辞めないで!」泣いた息子 引退か現役か…プロ野球選手が決断するとき【山崎武司の場合】(田口元義)」『Number Web』2020年11月28日。2021年11月13日閲覧。

    ^ 「山崎、中日と3000万円+出来高で契約」『デイリースポーツ』2011年12月8日。2011年12月8日閲覧。

    ^ 中日・山崎 今季限りで現役引退「けじめとして決意した。」 スポーツニッポン2013年7月29日配信

    ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2014』P277掲載のプロフィールでは、活動先についてテレビ愛知のみ明記されず。

    ^ FOX SPORTSで 千葉ロッテ・福岡ソフトバンク・オリックスの プロ野球公式戦 主催試合を完全生中継! オープン戦も計35試合放送!(FOX SPORTS ジャパン株式会社) - 『PR TIMES』2014年2月18日13時14分

    ^ 【メッタ斬り 生涯ジャイアン】山崎武司氏が新連載! 田中よ、ダルを見下ろしたれ 1年間ローテ守れば15勝以上は絶対する (1/3ページ) - ZAKZAK 2014年1月30日付

    ^ 山崎武司氏 中日と“1日限りの契約”で21日引退試合 - スポーツニッポン2014年3月18日配信

    ^ 「支配下選手登録 (2014年度シーズン途中・2月以降)」『NPB.jp 日本野球機構』。2014年3月20日閲覧。

    ^ 「山崎選手と選手契約」『中日ドラゴンズ』2014年3月20日。2014年3月20日閲覧。

    ^ 山崎氏「4番・指名打者」でスタメン 初回“最後の打席”は併殺打 スポーツニッポン2014年3月21日配信

    ^ 「任意引退選手(2014年度)」『NPB.jp 日本野球機構』2014年3月24日。2014年3月24日閲覧。

    ^ 「【情報更新】7/27(木)は「滝風イオンメディック presents 楽天イーグルスレジェンドマッチ」を開催!」『東北楽天ゴールデンイーグルス』2017年7月26日。2017年8月31日閲覧。

    ^ 「【Eレジェンドマッチ】MVP獲得!! イーグルス・山崎武選手ヒーローインタビュー 2017/7/27 E-TFU」『パ・リーグTV』2017年7月27日。2017年8月31日閲覧。

    ^ 山崎武司さんレースデビューへ。86/BRZに参戦 - オートスポーツ・2014年1月20日

    ^ 「リザルト/ポイントランキング|GR 86/BRZ Race」『GAZOO Racing』。2014年8月19日閲覧。

    ^ 橋本隆志「【GAZOO Racing 86/BRZ Race 第6戦】ホームラン・キング山崎武司氏の初陣は30位完走」『Response.』2014年7月26日。2014年8月19日閲覧。

    ^ 「6シーズン目の86/BRZが開幕。鈴鹿で織戸学がひさびさの勝利」『autosport web』2018年4月2日。2021年5月22日閲覧。

    ^ 「テリー伊藤対談「山崎武司」(2)野村監督との関係はどうだった?」『アサ芸プラス』2014年3月5日。2021年5月22日閲覧。

    ^ 「山崎武司<スポーツコメンテーター>やんちゃなホームラン王をリーダーに育てた師の存在」『エムール睡眠・生活研究所』2015年2月2日。2024年3月12日閲覧。

    ^ 「山崎武司氏、野村克也さんに感謝 最も印象に残っている言葉は「野球を好きになれ」」『Full-Count』2020年2月11日。2021年11月13日閲覧。

    ^ 「山崎武司氏、野村克也さん悼む「唯一、胴上げしたいと思った監督だった」」『zakzak』2020年2月12日。2021年11月13日閲覧。

    ^ 「[虎四ミーティング~限界への挑戦記~]山﨑武司(元プロ野球選手)<前編>「逆境を救ってくれた2人の恩師」(スポーツコミュニケーションズ)(3/5)」『現代ビジネス』2014年1月10日。2024年3月12日閲覧。

    ^ 「山﨑武司×中村剛也が語る「ホームランアーチストのプライド」」『web Sportiva』2014年1月2日。2021年5月22日閲覧。

    ^ 自著書『リアルジャイアンから悩める君たちへ』より。

    ^ 「落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(3)立浪派と山崎派が対立している」『アサヒ芸能』徳間書店、2012年2月2日。2017年6月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月17日閲覧。

    ^ 「山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(1/5ページ)」『Sportiva』集英社、2015年12月7日。2017年6月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月17日閲覧。

    ^ 「山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(2/5ページ)」『Sportiva』集英社、2015年12月7日。2017年6月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月17日閲覧。

    ^ 「どっちが関取かわからない」元中日・山崎武司氏が石浦と相撲勝負で投げの打ち合い 2017年6月18日18時22分 スポーツ報知

    ^ 「現役レーサーで元ホームラン王の山崎武司が語る「僕が車を好きなワケ」:旬ネタ」『日刊カーセンサー』2015年7月10日。2024年3月12日閲覧。

    ^ 【プロ野球】山﨑武司「一度でいいから日本シリーズの舞台に立ってみたい」 - Sportiva・2012年1月2日

    ^ 自著書『奇跡の超弾道』より

    ^ 「東海ラジオの前野アナウンサーにかき氷食べました?と聞かれてからかき氷が頭から離れず北谷の美味しいかき氷食べに来ちゃいました!!! ドラゴンズも打線が元気を出してきて、明るい兆しが見えてきました! 頑張れ、ドラゴンズ!!! https://t.co/FMbZx59G8o」 / Twitter

    ^ 【龍の背に乗って】8月13日は「左利きの日」 プロの「左」の使い方

    ^ 「2007ガリバーオールスターゲーム 「ガリバー賞」 楽天山﨑武司選手に、お好きな車1台を贈呈」『ガリバーインターナショナル』2007年10月4日。2017年9月11日閲覧。

    ^ 「山崎武司:「ハチナイ」に本人役で出演 気迫のスイング披露 演技は「ヘタクソだと思われるかも」」『MANTANWEB(まんたんウェブ)』2021年7月8日。2021年7月15日閲覧。

    ^ 「今井美樹ベスト盤CMに元アスリート再登場」『ORICON』2015年9月18日。2015年9月18日閲覧。

    池田哲雄 編『中日ドラゴンズ80年史 シリーズ1 1974-1999』ベースボール・マガジン社、2016年3月16日、69頁。ISBN 978-4583624235。 

    愛知県出身の人物一覧

    中日ドラゴンズの選手一覧

    オリックス・バファローズの選手一覧

    東北楽天ゴールデンイーグルスの選手一覧

    日本人のマイナーリーグ選手一覧

    個人年度別成績 山﨑武司 - NPB.jp 日本野球機構

    選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube

    山﨑武司オフィシャルサイト - 山﨑本人によるブログも開設されている。

    山﨑武司 (@tyamasaki7) - X(旧Twitter)

    山本昌&山﨑武司 プロ野球 やまやま話 - YouTubeプレイリスト

    選手情報 - 週刊ベースボールONLINE

    1951 川上哲治, 野口明, 林義一

    1952 飯島滋弥

    1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男

    1954 中西太, 山内和弘

    1955 山内和弘, 西沢道夫

    1956 森下正夫, 吉田義男

    1957 大下弘, 宮本敏雄

    1958 宮本敏雄, 中西太

    1959 山内和弘, 中利夫

    1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲

    1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎

    1962 ブルーム, 張本勲

    1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅

    1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ

    1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一

    1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識

    1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男

    1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司

    1969 土井正博, 船田和英

    1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎

    1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司

    1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩

    1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之

    1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲

    1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博

    1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司

    1977 若松勉, 野村克也, 王貞治

    1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之

    1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二

    1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊

    1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博

    1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之

    1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満

    1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓

    1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美

    1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章

    1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博

    1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三

    1989 村田兆治, 彦野利勝

    1990 R.ブライアント, 清原和博

    1991 古田敦也, 広沢克己

    1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広

    1993 清原和博, T.オマリー

    1994 秋山幸二, G.ブラッグス

    1995 落合博満, 松井秀喜

    1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲

    1997 松井稼頭央, 清原和博

    1998 川上憲伸, 松井秀喜

    1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志

    2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博

    2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋

    2002 G.アリアス, 的山哲也

    2003 高橋由伸, 金本知憲

    2004 松坂大輔, SHINJO

    2005 金城龍彦, 前田智徳

    2006 青木宣親, 藤本敦士

    2007 A.ラミレス, 阿部慎之助

    2008 山﨑武司, 荒木雅博

    2009 青木宣親, 松中信彦

    2010 阿部慎之助, 片岡易之

    2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀

    2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼

    2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一

    2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐

    2015 藤浪晋太郎, 會澤翼

    2016 筒香嘉智, 大谷翔平

    2017 内川聖一, A.デスパイネ

    2018 森友哉, 源田壮亮

    2019 森友哉, 近本光司

    2020 (中止)

    2021 菊池涼介, 島内宏明

    2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐

    2023 柳田悠岐, 万波中正

    2024 牧秀悟,佐藤都志也

    1950 別当薫

    1951 大下弘

    1952 深見安博

    1953 中西太

    1954 中西太

    1955 中西太

    1956 中西太

    1957 野村克也

    1958 中西太

    1959 山内和弘

    1960 山内和弘

    1961 野村克也, 中田昌宏

    1962 野村克也

    1963 野村克也

    1964 野村克也

    1965 野村克也

    1966 野村克也

    1967 野村克也

    1968 野村克也

    1969 長池徳二

    1970 大杉勝男

    1971 大杉勝男

    1972 長池徳二

    1973 長池徳二

    1974 C.ジョーンズ

    1975 土井正博

    1976 C.ジョーンズ

    1977 L.リー

    1978 B.ミッチェル

    1979 C.マニエル

    1980 C.マニエル

    1981 T.ソレイタ, 門田博光

    1982 落合博満

    1983 門田博光

    1984 ブーマー

    1985 落合博満

    1986 落合博満

    1987 秋山幸二

    1988 門田博光

    1989 R.ブライアント

    1990 O.デストラーデ

    1991 O.デストラーデ

    1992 O.デストラーデ

    1993 R.ブライアント

    1994 R.ブライアント

    1995 小久保裕紀

    1996 T.ニール

    1997 N.ウィルソン

    1998 N.ウィルソン

    1999 T.ローズ

    2000 中村紀洋

    2001 T.ローズ

    2002 A.カブレラ

    2003 T.ローズ

    2004 松中信彦, F.セギノール

    2005 松中信彦

    2006 小笠原道大

    2007 山﨑武司

    2008 中村剛也

    2009 中村剛也

    2010 T-岡田

    2011 中村剛也

    2012 中村剛也

    2013 M.アブレイユ

    2014 E.メヒア, 中村剛也

    2015 中村剛也

    2016 B.レアード

    2017 A.デスパイネ

    2018 山川穂高

    2019 山川穂高

    2020 浅村栄斗

    2021 杉本裕太郎

    2022 山川穂高

    2023 G.ポランコ, 近藤健介, 浅村栄斗

    2024 山川穂高

    1950 別当薫

    1951 飯田徳治

    1952 飯田徳治

    1953 中西太

    1954 山内和弘

    1955 山内和弘

    1956 中西太

    1957 中西太

    1958 葛城隆雄

    1959 葛城隆雄

    1960 山内和弘

    1961 山内和弘

    1962 野村克也

    1963 野村克也

    1964 野村克也

    1965 野村克也

    1966 野村克也

    1967 野村克也

    1968 G.アルトマン

    1969 長池徳二

    1970 大杉勝男

    1971 門田博光

    1972 野村克也, 大杉勝男

    1973 長池徳二

    1974 長池徳二

    1975 加藤秀司

    1976 加藤秀司

    1977 L.リー

    1978 B.マルカーノ

    1979 加藤英司

    1980 C.マニエル

    1981 T.ソレイタ

    1982 落合博満

    1983 水谷実雄

    1984 ブーマー

    1985 落合博満

    1986 落合博満

    1987 ブーマー

    1988 門田博光

    1989 ブーマー

    1990 O.デストラーデ, 石嶺和彦

    1991 O.デストラーデ, J.トレーバー

    1992 ブーマー

    1993 R.ブライアント

    1994 石井浩郎

    1995 イチロー, 初芝清, 田中幸雄

    1996 T.ニール

    1997 小久保裕紀

    1998 N.ウィルソン

    1999 T.ローズ

    2000 中村紀洋

    2001 中村紀洋

    2002 T.ローズ

    2003 松中信彦

    2004 松中信彦

    2005 松中信彦

    2006 小笠原道大, A.カブレラ

    2007 山﨑武司

    2008 T.ローズ

    2009 中村剛也

    2010 小谷野栄一

    2011 中村剛也

    2012 李大浩

    2013 浅村栄斗

    2014 中田翔

    2015 中村剛也

    2016 中田翔

    2017 A.デスパイネ

    2018 浅村栄斗

    2019 中村剛也

    2020 中田翔

    2021 島内宏明

    2022 山川穂高

    2023 近藤健介

    2024 山川穂高

    1975 長池徳二

    1976 大田卓司

    1977 高井保弘

    1978 土井正博

    1979 C.マニエル

    1980 C.マニエル

    1981 門田博光

    1982 T.ソレイタ

    1983 門田博光

    1984 L.リー

    1985 L.リー

    1986 石嶺和彦

    1987 石嶺和彦

    1988 門田博光

    1989 門田博光

    1990 O.デストラーデ

    1991 O.デストラーデ

    1992 O.デストラーデ

    1993 R.ブライアント

    1994 R.ブライアント

    1995 T.ニール

    1996 T.ニール

    1997 D.マルティネス

    1998 N.ウィルソン

    1999 P.クラーク

    2000 N.ウィルソン

    2001 F.ボーリック

    2002 和田一浩

    2003 A.カブレラ

    2004 F.セギノール

    2005 松中信彦

    2006 F.セギノール

    2007 山﨑武司

    2008 T.ローズ

    2009 山﨑武司

    2010 福浦和也

    2011 J.フェルナンデス

    2012 W.ペーニャ

    2013 M.アブレイユ

    2014 中村剛也

    2015 李大浩

    2016 大谷翔平

    2017 A.デスパイネ

    2018 近藤健介

    2019 A.デスパイネ

    2020 栗山巧

    2021 近藤健介

    2022 吉田正尚

    2023 G.ポランコ

    1981 佐野仙好

    1982 原辰徳

    1983 原辰徳

    1984 W.クロマティ

    1985 R.バース

    1986 W.クロマティ

    1987 小早川毅彦

    1988 落合博満

    1989 落合博満

    1990 広沢克己

    1991 J.パチョレック

    1992 広沢克己, J.パチョレック

    1993 落合博満

    1994 R.ローズ

    1995 T.オマリー

    1996 T.オマリー

    1997 鈴木尚典

    1998 山崎武司

    1999 R.ペタジーニ

    2000 鈴木尚典, 江藤智

    1981年から1988年まではNPB打撃タイトル1989年から2000年まではセ・リーグ特別賞2000年限りで廃止

    1950 小鶴誠

    1951 青田昇

    1952 杉山悟

    1953 藤村富美男

    1954 青田昇

    1955 町田行彦

    1956 青田昇

    1957 青田昇, 佐藤孝夫

    1958 長嶋茂雄

    1959 桑田武, 森徹

    1960 藤本勝巳

    1961 長嶋茂雄

    1962 王貞治

    1963 王貞治

    1964 王貞治

    1965 王貞治

    1966 王貞治

    1967 王貞治

    1968 王貞治

    1969 王貞治

    1970 王貞治

    1971 王貞治

    1972 王貞治

    1973 王貞治

    1974 王貞治

    1975 田淵幸一

    1976 王貞治

    1977 王貞治

    1978 山本浩二

    1979 掛布雅之

    1980 山本浩二

    1981 山本浩二

    1982 掛布雅之

    1983 山本浩二, 大島康徳

    1984 宇野勝, 掛布雅之

    1985 R.バース

    1986 R.バース

    1987 ランス

    1988 C.ポンセ

    1989 L.パリッシュ

    1990 落合博満

    1991 落合博満

    1992 J.ハウエル

    1993 江藤智

    1994 大豊泰昭

    1995 江藤智

    1996 山崎武司

    1997 D.ホージー

    1998 松井秀喜

    1999 R.ペタジーニ

    2000 松井秀喜

    2001 R.ペタジーニ

    2002 松井秀喜

    2003 A.ラミレス, T.ウッズ

    2004 T.ローズ, T.ウッズ

    2005 新井貴浩

    2006 T.ウッズ

    2007 村田修一

    2008 村田修一

    2009 T.ブランコ

    2010 A.ラミレス

    2011 W.バレンティン

    2012 W.バレンティン

    2013 W.バレンティン

    2014 B.エルドレッド

    2015 山田哲人

    2016 筒香嘉智

    2017 A.ゲレーロ

    2018 N.ソト

    2019 N.ソト

    2020 岡本和真

    2021 村上宗隆, 岡本和真

    2022 村上宗隆

    2023 岡本和真

    2024 村上宗隆

    1950 青田昇, 岩本義行, 小鶴誠

    1951 青田昇, 岩本義行, 金田正泰

    1952 杉山悟, 南村不可止, 与那嶺要

    1953 金田正泰, 南村不可止, 与那嶺要

    1954 杉山悟, 与那嶺要, 渡辺博之

    1955 町田行彦, 与那嶺要, 渡辺博之

    1956 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要

    1957 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要

    1958 田宮謙次郎, 森徹, 与那嶺要

    1959 大和田明, 坂崎一彦, 森徹

    1960 中利夫, 並木輝男, 森徹

    1961 江藤慎一, 近藤和彦, 森永勝治

    1962 近藤和彦, 並木輝男, 森永勝治

    1963 江藤慎一, 近藤和彦, 藤井栄治

    1964 江藤慎一, 近藤和彦, 重松省三

    1965 江藤慎一, 近藤和彦, 中暁生

    1966 江藤慎一, 中暁生, 山本一義

    1967 近藤和彦, 柴田勲, 中暁生

    1968 江藤慎一, D.ロバーツ, 山内一弘

    1969 高田繁, D.ロバーツ, 山本一義

    1970 江尻亮, 高田繁, 中暁生

    1971 柴田勲, 高田繁, 水谷実雄

    1972 柴田勲, 高田繁, 若松勉

    1973 江尻亮, 柴田勲, 若松勉

    1974 G.マーチン, 末次利光, 若松勉

    1975 井上弘昭, 山本浩二, ロジャー

    1976 張本勲, 谷沢健一, 若松勉

    1977 張本勲, 山本浩二, 若松勉

    1978 C.マニエル, 山本浩二, 若松勉

    1979 M.ラインバック, 山本浩二, 若松勉

    1980 杉浦亨, 山本浩二, 若松勉

    1981 J.ライトル, 田尾安志, 山本浩二

    1982 田尾安志, 長崎啓二, 山本浩二

    1983 田尾安志, 松本匡史, 山本浩二

    1984 山崎隆造, 山本浩二, 若松勉

    1985 杉浦享, 真弓明信, 山崎隆造

    1986 W.クロマティ, 山本浩二, 吉村禎章

    1987 W.クロマティ, C.ポンセ, 吉村禎章

    1988 C.ポンセ, J.パチョレック, 広沢克己

    1989 W.クロマティ, 彦野利勝, 山崎賢一

    1990 J.パチョレック, 原辰徳, 広沢克己

    1991 R.J.レイノルズ, 原辰徳, 広沢克己

    1992 飯田哲也, 前田智徳, L.シーツ

    1993 A.パウエル, 新庄剛志, 前田智徳

    1994 A.パウエル, G.ブラッグス, 前田智徳

    1995 A.パウエル, 金本知憲, 松井秀喜

    1996 A.パウエル, 松井秀喜, 山崎武司

    1997 鈴木尚典, D.ホージー, 松井秀喜

    1998 鈴木尚典, 前田智徳, 松井秀喜

    1999 関川浩一, 高橋由伸, 松井秀喜

    2000 金本知憲, 新庄剛志, 松井秀喜

    2001 稲葉篤紀, 金本知憲, 松井秀喜

    2002 清水隆行, 福留孝介, 松井秀喜

    2003 赤星憲広, A.ラミレス, 福留孝介

    2004 金本知憲, 嶋重宣, T.ローズ

    2005 青木宣親, 赤星憲広, 金本知憲

    2006 青木宣親, 金本知憲, 福留孝介

    2007 青木宣親, A.ラミレス, 高橋由伸

    2008 A.ラミレス, 青木宣親, 金本知憲

    2009 A.ラミレス, 青木宣親, 内川聖一

    2010 M.マートン, 青木宣親, 和田一浩

    2011 長野久義, M.マートン, 青木宣親

    2012 長野久義, 大島洋平, W.バレンティン

    2013 W.バレンティン, M.マートン, 長野久義

    2014 M.マートン, 丸佳浩, 雄平

    2015 筒香嘉智, 福留孝介, 平田良介

    2016 鈴木誠也, 筒香嘉智, 丸佳浩

    2017 丸佳浩, 鈴木誠也, 筒香嘉智

    2018 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト

    2019 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト

    2020 佐野恵太, 丸佳浩, 鈴木誠也

    2021 鈴木誠也, 近本光司, 塩見泰隆

    2022 近本光司, 佐野恵太, 岡林勇希

    2023 近本光司, 西川龍馬, 岡林勇希

    1999 松井秀喜

    2000 片岡篤史

    2001 中村紀洋

    2002 飯田哲也

    2003 井上一樹

    2004 赤星憲広

    2005 ボビー・バレンタイン

    2006 和田毅

    2007 三浦大輔

    2008 岩隈久志

    2009 小笠原道大

    2010 ダルビッシュ有

    2011 山﨑武司

    2012 藤川球児

    2013 宮本慎也

    2014 栗山巧

    2015 今江敏晃

    2016 内海哲也

    2017 岩田稔

    2018 井口資仁

    2019 秋山翔吾

    2021 矢野燿大

    2022 吉田正尚

    2023 宮西尚生

    76 山田久志

    77 山田久志

    78 鈴木啓示

    79 C.マニエル

    80 木田勇

    81 江夏豊

    82 落合博満

    83 東尾修

    84 ブーマー

    85 落合博満

    86 落合博満

    87 工藤公康

    88 門田博光

    89 阿波野秀幸

    90 野茂英雄

    91 秋山幸二

    92 石井丈裕

    93 辻発彦

    94 イチロー

    95 イチロー

    96 イチロー

    97 松井稼頭央

    98 イチロー

    99 松坂大輔

    00 中村紀洋

    01 T.ローズ

    02 松井稼頭央

    03 城島健司

    04 松中信彦

    05 渡辺俊介

    06 ダルビッシュ有

    07 山﨑武司

    08 岩隈久志

    09 鉄平

    10 T-岡田

    11 内川聖一

    12 吉川光夫

    13 田中将大

    14 大谷翔平

    15 柳田悠岐

    16 大谷翔平

    17 D.サファテ

    18 山川穂高

    19 森友哉

    20-21 中止

    1位:近藤真一

    2位:山崎武司

    3位:西村秀嗣

    4位:荒川哲男

    5位:長谷部裕

    6位:本村信吾

    VIAF

    日本

    CiNii Books

    CiNii Research

    日本の野球選手

    愛知工業大学名電高等学校出身の野球選手

    中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手

    オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手

    東北楽天ゴールデンイーグルスの選手

    本塁打王 (NPB)

    打点王 (NPB)

    ゴールデンスピリット賞受賞者

    NPBオールスターゲーム選出選手

    NPBオールスターゲームMVP

    野球解説者

    日本のドライバー

    複数のスポーツで活躍した野球選手

    日本のコレクター

    日本の男優

    日本の男性YouTuber

    元NPB選手のYouTuber

    愛知県出身のスポーツ選手

    1968年生

    存命人物

    Pages using the JsonConfig extension

    無効な出典が含まれている記事/2020年

    無効な出典が含まれている記事/2014年

    野球に関する記事

    プロジェクト人物伝項目

    ウィキデータにある日本野球機構選手識別子

    VIAF識別子が指定されている記事

    NDL識別子が指定されている記事

    CINII識別子が指定されている記事

    CRID識別子が指定されている記事

    ISBNマジックリンクを使用しているページ

2024/11/20 23:59更新

yamasaki takeshi


山崎武司と同じ誕生日11月7日生まれ、同じ愛知出身の人

村上 佳菜子(むらかみ かなこ)
1994年11月7日生まれの有名人 愛知出身

村上 佳菜子(むらかみ かなこ、英: Kanako Murakami、1994年11月7日 - )は、日本のプロフィギュアスケーター、タレント、解説者。2000年代後半から2010年代にかけて…

伊藤 小春(いとう こはる)
2002年11月7日生まれの有名人 愛知出身

伊藤 小春(いとう こはる、2002年11月7日 - )は、日本のファッションモデル、アイドル。女性アイドルグループ・原宿駅前パーティーズ「ふわふわ」ffバー、「パーティーズ」メンバー。愛知県出身。ラ…

松岡 錠司(まつおか じょうじ)
1961年11月7日生まれの有名人 愛知出身

松岡 錠司(まつおか じょうじ、1961年11月7日 - )は、日本の映画監督。愛知県一宮市出身。 自主映画『三月』(1981年)、『田舎の法則』(1984年)がPFF(ぴあフィルムフェスティバル)…

野口 兼資(のぐち かねすけ)
1879年11月7日生まれの有名人 愛知出身

野口 兼資(のぐち かねすけ、1879年(明治12年)11月7日 - 1953年(昭和28年)10月4日)は、シテ方宝生流能楽師。本名、野口政吉(のぐち まさきち)。 愛知県名古屋市に生まれる。16…

鈴木 淳雄(すずき あつお)
1945年11月7日生まれの有名人 愛知出身

鈴木 淳雄(すずき あつお、1945年11月7日 - )は、日本の政治家。元愛知県東海市長(5期)。 愛知県知多郡内海町(現:南知多町)出身。愛知県立半田高等学校卒業。1968年(昭和43年)3月、…


高千穂 遥(たかちほ はるか)
1951年11月7日生まれの有名人 愛知出身

高千穂 遙(たかちほ はるか、1951年11月7日 -)は、日本の小説家(SF作家)、脚本家、漫画原作者。男性。自転車通勤・自転車通学コミック「じてつう」原作者としては小田原浩二を名乗る。愛知県名古屋…

倉野 光生(くらの みつお)
1958年11月7日生まれの有名人 愛知出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 倉野 光生(くらの みつお、1958年11月7日 - )は、愛知県名古屋市出身の日本の高校野球指導者。 名古屋電気高等学校(愛知工業…

岩田 さち(いわた さち)
1981年11月7日生まれの有名人 愛知出身

11月7日生まれwiki情報なし(2024/11/21 14:48時点)

十亀 剣(とがめ けん)
1987年11月7日生まれの有名人 愛知出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 十亀 剣(とがめ けん、1987年11月7日 - )は、愛知県豊田市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 小学校4年生の時に愛知…

小島 ミカ(こじま みか)
1981年11月7日生まれの有名人 愛知出身

小島 ミカ(こじま ミカ、1981年11月7日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル、女優。 愛知県名古屋市出身。あいかんぱにぃ所属。 2001年、小島 美香(読みは同じ)の名で、アルテミス…


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


山崎武司と近い名前の人


わた・るぅー(やまさき わたる)
1975年12月31日生まれの有名人 奈良出身

わた・るぅー(1975年12月31日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。男性。奈良県出身。血液型はO型。旧ペンネームは、山崎 渉、やまさきわたる。 スクウェア・エニックス刊行の雑誌『月刊少年…

山﨑 夕貴(やまさき ゆき)
1987年8月4日生まれの有名人 香川出身

山﨑 夕貴(やまさき ゆき、1987年8月4日 - )は、フジテレビアナウンサー。 岡山県倉敷市生まれ。身長162cm。 倉敷市立東陽中学校、岡山県立倉敷天城高等学校、岡山大学経済学部卒業。 …

山﨑 心(やまさき こころ)
2003年2月26日生まれの有名人 大阪出身

山﨑 心(やまさき こころ、2003年〈平成15年〉2月26日 - )は、日本のモデル、タレントYouTuber、TikToker。大阪府出身。Churros所属。ABEMA「恋する♥週末ホームステイ…

山崎 真実(やまさき まみ)
1985年9月20日生まれの有名人 大阪出身

山崎 真実(やまさき まみ、1985年9月20日 - )は、日本のタレント、女優、元グラビアアイドル。 大阪府大阪市出身。カートプロモーション所属。 4歳から新体操を始め、相愛中学校・高等学校(同…

山崎 直子_(女優)(やまざき なおこ)
1972年12月8日生まれの有名人 東京出身

山崎 直子(やまざき なおこ、 (1972-12-08) 1972年12月8日(51歳) - )は、日本の女優・モデル。A-team所属。 東京都出身。玉川大学文学部出身。父は俳優の山﨑努、母は宝塚…


山崎 直子_(宇宙飛行士)(やまざき なおこ)
1970年12月27日生まれの有名人 千葉出身

山崎 直子(やまざき なおこ、旧姓:角野(すみの)、1970年〈昭和45年〉12月27日 - )は、宇宙飛行士。宇宙政策委員会委員(2012年7月 - )、女子美術大学客員教授(2014年4月 - )…

山崎 猛_(俳優)(やまざき たけし)
1944年11月10日生まれの有名人 東京出身

山崎 猛(やまざき たけし、1944年11月10日 - 2008年2月22日)は、日本の俳優。旧名は山崎 洋(やまざき ひろし)。趣味は水泳、テニス。 日本大学芸術学部卒業。 1956年、劇団若草…

山崎 猛_(政治家)(やまざき たけし)
1886年6月15日生まれの有名人 茨城出身

山崎 猛(やまざき たけし、1886年(明治19年)6月15日 - 1957年(昭和32年)12月27日)は、日本の政治家。 衆議院議長(第38代)、運輸大臣、衆議院議員などを務めた。 茨城県水戸…

山崎 正(やまざき ただし)
1944年1月1日生まれの有名人 東京出身

山崎 正(やまざき ただし、1944年1月1日 - 2023年6月25日)は、日本のフリーアナウンサー。元仙台放送・中京テレビ・テレビ朝日アナウンサー。相撲評論家(東京相撲記者クラブ会友)。また、圭三…

山崎 昭夫(やまざき あきお)
1969年9月1日生まれの有名人 長野出身

山崎 昭夫(山﨑 昭夫、やまざき あきお、1969年9月1日 - )は、日本の政治家。長野県長野市議会議員(1期)。信越放送元社員で元アナウンサー。 1994年に早稲田大学社会科学部を卒業後、信越放…


山崎 怜奈(やまざき れな)
1997年5月21日生まれの有名人 東京出身

山崎 怜奈(やまざき れな、1997年〈平成9年〉5月21日 - )は、日本のタレント、ラジオパーソナリティであり、女性アイドルグループ・乃木坂46の元メンバーである。東京都江戸川区出身。マウントケー…

山崎 静代(やまさき しずよ)
1979年2月4日生まれの有名人 大阪出身

山崎 静代(やまさき しずよ、1979年〈昭和54年〉2月4日 - )は、日本の女性お笑いタレント、女優、元ボクサー。お笑いコンビ南海キャンディーズのボケ担当。愛称は「しずちゃん」。相方は「山ちゃん」…

山崎 カナコ(やまさき かなこ)
4月11日生まれの有名人 兵庫出身

山崎 カナコ(やまさき カナコ、4月11日 - )は、日本のリポーター・MC・DJ。 所属事務所はキャラ。 兵庫県出身。嵯峨美術短期大学デザイン学科卒業。 FM守口「プロムナード824」 ならど…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
山崎武司
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

でんぱ組.inc ライムベリー Silent Siren CoverGirls LinQ 乙女新党 ひめキュンフルーツ缶 Prizmmy☆ 愛乙女★DOLL 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「山崎武司」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました