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馬原孝浩の情報 (まはらたかひろ)
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【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

馬原孝浩の情報(まはらたかひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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馬原 孝浩さんについて調べます

■名前・氏名
馬原 孝浩
(読み:まはら たかひろ)
■職業
野球選手
■馬原孝浩の誕生日・生年月日
1981年12月8日 (年齢42歳)
酉年(とり年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
熊本出身

(昭和56年)1981年生まれの人の年齢早見表

馬原孝浩と同じ1981年生まれの有名人・芸能人

馬原孝浩と同じ12月8日生まれの有名人・芸能人

馬原孝浩と同じ出身地熊本県生まれの有名人・芸能人


馬原孝浩と関係のある人

高山郁夫: 同年は馬原孝浩につなぐセットアッパーの整備を課題として掲げ、シーズンに入るとSBMという継投のパターンが確立された。


石森大誠: 同球団のピッチングGMを務める馬原孝浩から指導を受け、フォークを習得した。


リック=ガトームソン: 2008年のシーズン開幕当初は、故障したクローザーの馬原孝浩に代わって起用されたが、ほどなくして先発に固定される。


小山伸一郎: 技術面では踏み出す足の位置を馬原孝浩のフォームを参考に変え、加えて野村克也監督(当時)の助言も参考にしたところ、フォームの修正が以前に比べ簡単になったこと。


榎下陽大: 同リーグでは馬原孝浩(九州共立大学)以来となる30勝投手。


古閑美保: 少年野球でエースと4番を任されていた熊本市立託麻東小学校5年時、熊本市水前寺野球場で行われた市の大会の決勝戦にて、当時熊本市立託麻原小学校6年生だった馬原孝浩(元福岡ソフトバンクホークス、オリックス・バファローズ)からセンターオーバーの本塁打を打ったことがある(試合は5-6で敗れた)。


岩村明憲: 復帰まで1か月半を要したが、復帰直後の6月29日の福岡ソフトバンクホークス戦(Kスタ宮城)において、延長10回裏に馬原孝浩から日本球界復帰後初の適時打となる逆転サヨナラ二塁打を打った。


攝津正: ゲーム終盤で攝津、ブライアン・ファルケンボーグ、馬原孝浩の継投で逃げ切る勝ちパターンが確立し、この勝利の方程式は「SBM」と命名された。


浅尾拓也: オフに、ソフトバンクホークスなどで活躍した馬原孝浩の元で自主トレーニングを行った。


岩嵜翔: 2011年は、開幕ローテーション6枚目に抜擢され4月17日対西武戦で先発し、5回まで1失点と好投、6回に先頭の中村剛也にレフトにソロ本塁打を打たれ、二死一・三塁としたところで4点リードで降板すると、後続が徐々に追いつかれ9回1点リードで馬原孝浩が佐藤友亮に同点のソロ本塁打を打たれまたも初白星とはならなかった。


川島慶三: 4月3日に一旦抹消され、4月14日に再昇格すると、4月15日の対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡 Yahoo! JAPANドーム)で9回から代打として出場し、延長12回同点一死一・三塁の場面で、馬原孝浩にショートゴロを打たされたが、チームが禁止していたヘッドスライディングを敢行してセーフとなる間に三塁走者小笠原道大が生還し、同試合の決勝点を挙げ、これがプロ初打点となった。


岩嵜翔: 右肩手術の馬原孝浩の代理で守護神となっていたブライアン・ファルケンボーグが5月18日に強い右肩の張りを訴えて抹消、され中継ぎの再編が行われたが、岡島秀樹、森福允彦へと繋ぐリリーフが定まらず、6月3日まで3勝6敗と勝ち運に恵まれず先発で3連続ノックアウトされていた岩嵜に白羽の矢が立った。


長野翼: なお、馬原孝浩と結婚した畑野優理子(元TNC)とはアナウンサーとしても同期で、同系列・大学も同じという繋がりから面識があった。


細川亨: 第2戦は8回同点で守備から出場したが馬原孝浩が森野将彦に勝ち越し打を許し敗戦。


藤本敦士: 3度目となるオールスターゲームでは、2戦目で馬原孝浩から8回表に勝ち越し2点タイムリーを放ち、1打数1安打2打点でMVPを獲得した。


大瀬良大地: 進学先にはグラウンドや練習環境が一番よく分かっていたことと、新垣渚や馬原孝浩をプロに送りだした仲里清監督の指導が受けたいという理由で九州共立大学を選ぶ。


神内靖: 6月18日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)では、先発して6回途中まで11個の三振を奪ったが、神内の後を三瀬幸司・吉武真太郎・篠原貴行・藤岡好明・馬原孝浩のリレーで、1試合最多タイ(継投による達成は史上初)となる19奪三振を記録した。


本多雄一: 8月24日にスカイマークスタジアムで行われた対オリックス・バファローズ戦の9回同点二死満塁の場面で守護神・馬原孝浩が塩崎真を詰まらせた打球が二塁本多の前に転がり捕球直前にイレギュラーして自身の股間を通過し、サヨナラ負けを喫した(記録は安打)。


立岡宗一郎: 趣味は釣りで、ホークス時代には同じ趣味の馬原孝浩へ「弟子入り」を志願。


吉良俊則: 同年1月の新人合同自主トレーニングから新人・若手選手を指導したほか、馬原孝浩のストレッチや、金子千尋・西野真弘のリハビリなども担当した。


岩嵜翔: チームが連覇を決めた10月1日の対西武戦では7回を3安打無失点に抑え、6回に福田のセンター前適時打、明石健志の適時三塁打で勝ち越すと、後を継いだブライアン・ファルケンボーグ、馬原孝浩が完封リレーで守り勝利投手になった。


小瀬浩之: 以後、主に9番・左翼手としてスタメンに定着し、8月5日の対福岡ソフトバンクホークス戦で久米勇紀からプロ入り初本塁打を放ち、8月27日の対ソフトバンク戦では馬原孝浩から決勝スクイズを決めた。


佐野太河: 火の国の投手ゼネラルマネジャーの馬原孝浩は「キャッチャーが捕れない球を投げる。


糸井嘉男: 大学選手権では初戦で馬原孝浩(九州共立大)と投げ合うが2回途中7失点で降板し、5回コールド負け。


藤岡好明: シーズン終了後の10月4日に自身のX(旧Twitter)アカウントで「(馬原孝浩)監督と共に退団します」と表明し、一週間後の10月11日に正式に球団より退任・退団が発表された。


三瀬幸司: その後は昇格するも、馬原孝浩が抑えに抜擢されたため、自身は中継ぎとなった。


岩嵜翔: 12月25日、2000万円減となる推定年俸7500万円+出来高払いで契約を更改し、馬原孝浩と専属トレーナー契約を結んだことを発表した。


橋本将: 復帰後は7月24日の対北海道日本ハムファイターズ戦で先発ダルビッシュ有から先制決勝満塁本塁打、9月7日の対福岡ソフトバンクホークス戦では守護神馬原孝浩から同点満塁本塁打を放つなど、徐々に復調していった。


細川亨: 10月1日の対西武戦は9番捕手で先発出場し、岩嵜翔、ブライアン・ファルケンボーグ、馬原孝浩をリードし、9回完封リレーでチームのリーグ連覇に貢献した。


福山龍太郎: 馬原孝浩、今宮健太、甲斐拓也、牧原大成、加治屋蓮、大竹耕太郎らの獲得に携わっている。


馬原孝浩の情報まとめ

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馬原 孝浩(まはら たかひろ)さんの誕生日は1981年12月8日です。熊本出身の野球選手のようです。

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姉妹、テレビ、結婚、病気、母親、引退、趣味に関する情報もありますね。今年の情報もありました。馬原孝浩の現在の年齢は42歳のようです。

馬原孝浩のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

馬原孝浩

馬原 孝浩(まはら たかひろ、1981年12月8日 - )は、熊本県熊本市中央区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、元火の国サラマンダーズ監督、野球指導者、YouTuber。

小学校時代には、熊本市の選抜チームのエースとして同市の姉妹都市であるサンアントニオ市(アメリカ合衆国テキサス州)の選抜チームと試合をした経験がある。熊本市水前寺野球場で行われた県大会の決勝戦にて、当時男子に交じって少年野球をやっていた元プロゴルファーの古閑美保にライトオーバーの本塁打を打たれたことがあり、馬原自身も当時のことを鮮明に覚えていると『ジャンクSPORTS』などで語っていたが、実は打たれていない。ジャンクスポーツスタッフに「ここは打たれたことにしてください」と頼まれコメントした。

九州共立大学では1学年上の新垣渚と共にエースとして活躍。1年の大学選手権では新垣の後を受けて全国デビュー、2年時は準々決勝で完封、4年の同大会は初戦で糸井嘉男(近大)と投げ合い5回コールド完封などベスト4。福岡六大学リーグ通算46試合登板、30勝4敗、防御率1.10。最優秀選手2回、最優秀投手1回、ベストナイン4回受賞する。日米大学野球選手権大会(2002年、2003年)、世界大学野球選手権大会(第1回:2002年イタリアで開催、日本は銅メダル獲得)の代表にも選ばれ、2003年のドラフト自由獲得枠で福岡ダイエーホークスに入団。プロ入り前に、大学は、中退をするつもりであるという趣旨の発言をスポーツ記者にしている。

2004年は新人王有力候補と期待され開幕一軍入りし、開幕4戦目の西武ライオンズ戦で初先発初勝利を挙げたが、その後は体調を崩しわずか3勝。フレッシュオールスターゲームでは敗戦投手になった。

2005年は開幕3戦目で初完投勝利を挙げたが、その後3連敗して二軍落ちした。しかし交流戦からリリーフとして一軍に復帰すると、三瀬幸司の不調により抑えに定着した。42試合に登板してリーグ2位タイの22セーブを記録し、王貞治監督に翌年のクローザーに指名された。

2006年は開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に石井弘寿の故障のため、2次リーグから日本代表に選出された。久保田智之とともに出場機会がなかった。シーズンでは初めて年間通して抑えを務め、51試合で防御率1.65で29セーブの数字を残した。8月23日のオリックス・バファローズ戦では自己最速の156km/hを計測。被本塁打は9月2日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦でホセ・フェルナンデスに打たれた1本のみだった。オフに開催された日米野球の抑え投手部門にファン投票1位で選出され、第2戦、第5戦に登板し計3イニングを無失点。第5戦では4試合で4本塁打していたライアン・ハワードに全球ストレートで勝負し、空振り三振に仕留めた。

2007年は前半から好調で、オールスター以前の自責点は2で防御率0点台の快投を見せた。オールスターゲームでは前年に続き敗戦投手となった。後半疲れからか3敗を喫したが、2年連続の防御率1点台に球団記録となるシーズン38セーブを記録し、初の最多セーブ投手のタイトルを獲得。またその活躍により「2007 ヤナセ・福岡ソフトバンクホークス MVP賞」を受賞。メルセデスベンツA200 TURBO AVANTGARDEが贈られた。ほっともっとフィールド神戸が苦手であるとされ、2007年は5度の登板で3度セーブに失敗。またシーズン14失点のうち7点を同球場で失っている。2007年に元テレビ西日本アナウンサーの畑野優理子と結婚(婚姻届の提出12月3日、挙式12月16日)。両者の間には2009年12月28日に女児、2012年5月9日に男児が誕生している。

2008年は開幕直前に右肩炎症を発症し長期離脱。7月25日に一軍登録され、翌7月26日の対千葉ロッテマリーンズ戦でシーズン初セーブを挙げるとその後もセーブを重ねた。しかし9月7日のロッテ戦では4点リードの9回に登板するも満塁のピンチを招くと橋本将に同点満塁本塁打を打たれ1死を取っただけで降板し、チームも延長12回に勝ち越され敗れた。するとその後のチームも調子を落とした。10月6日の楽天戦で日本人選手では最速となる178試合目での通算100セーブを達成、翌7日の楽天戦は両チーム共にシーズン最終戦でチームにとってもこの年限りで監督を勇退する王貞治が指揮を執る最後の試合となった。両チームの投手陣が1点も与えず馬原は延長11回途中から登板し得点を許さなかった。次の回で打線が得点できず勝ちがなくなり12回も登板するが山崎武司にサヨナラ適時打を打たれて敗れてしまいチームの最下位が決定した上、王監督最後の試合を勝利で飾れず王政権最後の敗戦投手となった。最終的に21試合で2敗11セーブ、防御率2.79の成績しか残せなかった。

2009年は開幕前の3月に開催された第2回WBCの日本代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。同大会では5試合に登板した。シーズンでは5月25日の対東京ヤクルトスワローズ戦でシーズン中での自己最速となる157km/hを計測し、7月21日の対楽天戦では球団新記録となる通算118セーブを達成。リーグ2位となる29セーブを記録した。

2010年7月28日の楽天戦において登板267試合目で日本人最速で通算150セーブを達成した。シーズンでは前年と同数の53に登板し、リーグ2位の32セーブ、防御率1.63、被本塁打は1本に抑えた。

2011年はキャンプの時期から病気母親の看病と並行していたが、母親は癌性髄膜炎の為開幕直前の4月10日に他界した。このため開幕戦に帯同しなかった。帯同後は抑えとして登板するも、4月23日までにセーブ失敗を2度記録するなど登板した全試合で失点を喫した。結局、5試合で1勝1敗(1勝はセーブがつく場面で登板して追いつかれ、その裏にサヨナラ勝ちしたためについたもの)、防御率13.50と不振を極め、1セーブも挙げられないまま4月24日に二軍降格となった。二軍での再調整を経て5月23日に一軍登録されると、25日の対読売ジャイアンツ戦で1点リードの最終回に登板し、3者凡退で抑えシーズン初セーブを記録した。しかし7月18日の登板後に右肩の違和感を訴えて、翌日に右肩関節の大円筋付着部の筋挫傷と判明して登録抹消。出場予定だったオールスター戦も辞退した。9月11日に1軍復帰した。クライマックスシリーズ・日本シリーズでも抑えの役割として登板するも、日本シリーズ第1戦では小池正晃に本塁打、第2戦では森野将彦に適時打を浴び2試合連続で延長戦で勝ち越され、敗戦投手となった。その後第5戦と第6戦の登板では無失点に抑えたが、第7戦はセーブ機会で9回を迎えたが、登板することはなかった。しかし、チームは8年ぶりに日本一に輝いた。

2012年2月28日に右肩を手術し、復帰予定は6ヶ月後となる見込みとされたが、結局この年は1度もブルペンにも立つ事ができず、一・二軍共に登板なしに終わった。

2013年1月12日、寺原隼人のFA移籍に伴う人的補償で、オリックスに移籍する事がソフトバンク、オリックス両球団から発表された。球団フロントは馬原が右肩の故障明けで年俸が1億3500万と高額だったことや、同年FA権を取得することもあり、28人のプロテクト枠から除外していた。ソフトバンクで監督代理を務めたこともある新任の森脇浩司監督は迷わず馬原を選択。寺原のソフトバンク復帰を最も喜んでいたため皮肉な結果となったが、寺原には「全然気にしなくていい」と伝えた。

2013年はクローザー候補として期待されながら、3月5日にヤクルトとのオープン戦で右腕の脱力感を訴えて降板。神戸市内の病院で精密検査を受けた結果、右鎖骨下の「腕神経叢の炎症」と診断されたため、シーズンの大半を患部の治療に費やした。シーズンの終盤には一軍へ復帰。9月28日の日本ハム戦で自身711日ぶりの一軍戦登板を果たすと、1イニングを無失点に抑えた。しかし長期離脱が響き一軍では3試合の登板に留まった。

2014年はシーズンを通じてセットアッパーに起用された。自身のキャリアでは初めてのポジションながら、8回を担う佐藤達也へ繋ぐ役目を任されたため、公式戦では7回に登板することが多かった。その結果、一軍では自己最多の55試合に登板。33ホールドポイントを記録するなど、救援陣の屋台骨を支えるとともに、チームのシーズン2位とクライマックスシリーズへの進出に貢献した。

2015年も前年に続いて開幕からセットアッパーで起用された。しかし、一軍の救援陣を担う投手(佐藤やクローザーの平野佳寿など)が相次いで戦列を離れた4月上旬からは、移籍後初めてクローザーを任された。4月20日の対埼玉西武ライオンズ戦(ほっともっとフィールド神戸)では自身4年振りのセーブ、翌21日の対ロッテ戦(QVCマリンフィールド)ではこの年唯一の勝利を記録。その一方で、登板した9試合の通算防御率が7.56に達したり、複数の試合で救援に失敗したりするなど投球内容に精彩を欠いた。5月2日に出場選手登録を抹消された後は、ウエスタン・リーグ公式戦での登板中に左膝を痛めたことから、一軍への復帰を果たせなかった。さらに9月には、翌年の契約に関して、日本プロフェッショナル野球協約(野球協約)上の減額制限を超える大幅な減俸を球団から提示。馬原がこの提示に同意しないまま、アメリカ球界への挑戦を視野に球団側へ自由契約を申し入れたため、球団では10月1日に馬原の退団を発表した。12月2日付で、日本野球機構(NPB)から自由契約選手として公示。しかし、「自分にとってのベストパフォーマンスができなくなった」という理由で、14日に現役引退を表明した。

福岡での生活を再開するとともに、「体のケアについてもう一度、一から勉強したい」との希望から、コーチや球団スタッフや九州朝日放送の野球解説者としてのオファーを辞退し、柔道整復師・鍼灸師を目指して北九州の小倉にある九州医療スポーツ専門学校へ入学。2019年3月には柔道整復師と鍼灸師の国家試験に合格した。この間、2016年、古巣である福岡ソフトバンクホークスの福岡ソフトバンクホークスJr.チームの監督に就任したが、翌2017年は学業との両立が困難になったため1シーズンで監督を新垣渚に譲り退任した。

2018年からはTVQ九州等のゲスト解説者としてソフトバンク戦の中継にスポット出演している。

トレーナーとしての活動の傍ら、地元でのソフトボール等に参加している。トレーナーとして「肩に関しては特に自信がある」という馬原の元には、中堅やベテラン選手が来ることも多く、岩嵜翔や嘉弥真新也も担当し、2021年のオフに初めて訪れた岩貞祐太も左肩がひどい状態だったが、馬原のケアで復活。岩貞は「他のトレーナーと比にならないというか唯一無二。全く体の調子が違うし、受けたらみんなびびる」とそのすごさを明かし、馬原は自身のことを「再生工場」と表現し、「困った時の最終手段になれれば」と話し、2024年は岩貞、伊藤将司の自主トレで指導している。

2020年10月17日、2021年より熊本ゴールデンラークスを改組して発足する独立リーグ球団「火の国サラマンダーズ」の「ピッチングGM」に就任することが発表された。GM(ゼネラルマネージャー)という肩書だが、リーグ公式サイトではコーチ扱いとなっている。

2021年シーズン終了後の10月8日、細川亨の後任として監督(GM補佐兼任)に就任することが発表された。就任初年度となる2022年にリーグ優勝(チームとしては連覇)を達成した。チームとして初めて出場したグランドチャンピオンシップは2試合に連勝して、地元開催のシリーズで初優勝を達成した。2023年もリーグ優勝とグランドチャンピオンシップ優勝をそれぞれ達成した。シーズン終了後の10月4日、今シーズン限りでの監督退任が発表された。

退任から1年が経過した2024年10月8日、火の国のゼネラルマネージャーに就任予定(就任日未定)であることが球団から発表された。

最速はWBCで記録した158km/h レギュラーシーズンでの最速は157km/hで2010年には両リーグの日本人投手トップの平均球速150.2km/hをマークした速球と、落差の大きなフォーク(スプリットと言われることもある)、カットボールを武器とする。変化球は他にもカーブや2種類のスライダーも投球割合の数パーセントを占める。先発時代にはチェンジアップも用いていた。

趣味は釣り、買い物。またキャンプでは本を数冊持参するなど読書家でもある。

国立療養所菊池恵楓園(国立ハンセン病療養所、熊本県合志市)を入団以来毎年訪問し、交流を続けている。入団壮行会の激励金の一部を同園に寄付し、園内グラウンドでトレーニングをした。

ダイエー・ソフトバンク時代のチームメイトで数少ない同学年の川﨑宗則とは、「まーくん」「ムネ」と呼ぶ間柄で、独身時代は寮の部屋を行き来したり、運転の得意でない川﨑の代わりに車庫入れを手伝わされていた。

寺原のFA移籍の人的補償によるオリックス移籍を知らせる電話が掛かって来たのは、奇しくもその寺原本人や他のホークスのチームメイトたちとバーベキューをしている最中だった。戸惑いながらも前向きに受け止めた馬原に対し、寺原の方が強いショックを受けていたという。

各年度の太字はリーグ最高

ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

最多セーブ投手:1回 (2007年)

JA全農Go・Go賞:3回 (救援賞:2005年6月、2006年6月、2009年6月)

ヤナセ・福岡ソフトバンクホークスMVP賞:1回 (2007年)

熊本県スポーツ優秀大賞特別賞 (2006年)

福岡県 栄誉賞:1回 (2006年)

福岡市スポーツ栄誉賞:2回 (2006年、2009年)

初登板・初先発・初勝利:2004年3月30日、対西武ライオンズ2回戦(福岡ドーム)、8回2失点

初奪三振:同上、2回表に後藤武敏から空振り三振

初完投:2005年4月3日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(千葉マリンスタジアム)、8回5失点(自責点3)で敗戦投手

初セーブ:2005年6月4日、対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)、8回裏1死に2番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点

初ホールド:2005年6月5日、対読売ジャイアンツ6回戦(東京ドーム)、7回裏1死に3番手で救援登板、1回2/3を無失点

100セーブ:2008年10月6日、対東北楽天ゴールデンイーグルス23回戦(クリネックススタジアム宮城)、9回裏に2番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上22人目(178試合目での達成は栗林良吏と並び日本人最速タイ)

150セーブ:2010年7月28日、対東北楽天ゴールデンイーグルス15回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、9回表に5番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上9人目

初安打・初打点:2005年6月8日、対広島東洋カープ5回戦(広島市民球場)、9回表にマイク・ロマノから右越適時二塁打

オールスターゲーム出場:3回 (2006年、2007年、2010年)

14 (2004年 - 2012年)

20 (2013年 - 2015年)

82 (2021年 - 2023年

「We Will Rock You」- Queen

「HORSESHOES AND HANDGRENADES」- Green Day (2014年 - 2015年)

2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表

2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表

^ “元ホークス・馬原孝浩さんとリモート野球トーク!! #1 - YouTube”. www.youtube.com. 2020年8月13日閲覧。

^ 週刊ベースボール増刊 大学野球各季リーグ戦展望号 <ベースボールマガジン社

^ 全体ではマーク・クルーンの250試合に次ぐ歴代2位。

^ 秋山ホークス今こそひとつ 馬原のために勝つ 12日セパ開幕西日本新聞 2011年4月12日。

^ “小池が決勝弾!中日 延長戦制し逆転先勝 - スポニチ Sponichi Annex 野球”. スポニチ Sponichi Annex. 2022年2月23日閲覧。

^ “史上初屈辱 馬原連敗スタート/日本S - プロ野球ニュース”. nikkansports.com. 2022年2月23日閲覧。

^ “秋山鷹にオレ流の揺さぶり/日本シリーズ2011プレーバック|【西日本スポーツ】”. www.nishinippon.co.jp. 2022年2月23日閲覧。

^ 福岡ソフトバンクホークス『週刊ベースボール』2012年3月19日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20443-3/19, 36頁

^ 移籍についてのお知らせソフトバンク球団公式サイト

^ 馬原孝浩選手 獲得のお知らせオリックス球団公式サイト

^ 『Sports Graphic Number』 2013年2月7日号

^ “オリ佐藤達腰痛で抹消 リフレッシュの狙いも”. 日刊スポーツ. (2015年4月15日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1461887.html 2015年10月2日閲覧。 

^ “オリ今季初3連勝 バリントン退場、中島負傷負けじ”. 日刊スポーツ. (2015年4月20日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1464249.html 2015年10月2日閲覧。 

^ “オリ・マエストリが4年目初セーブ「知らなかった」”. 日刊スポーツ. (2015年4月22日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1465255.html 2015年10月2日閲覧。 

^ “オリックス 馬原が登録外れる「メンタルも含めて一回リフレッシュ」”. スポーツニッポン. (2015年5月2日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/05/02/kiji/K20150502010279770.html 2015年10月2日閲覧。 

^ “馬原、今季限りで退団へ…減額制限超の条件提示受け決断”. スポーツニッポン. (2015年9月23日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/09/23/kiji/K20150923011188090.html 2015年10月2日閲覧。 

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^ “オリックス馬原引退 納得パフォーマンスできない…”. 日刊スポーツ. (2015年12月14日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1579299.html 2015年12月14日閲覧。 

^ “【野球】なぜ元ソフトバンク守護神の馬原氏はトレーナーの道を選んだのか 3年間夜間学校に通学、三つの国家資格取得 阪神・岩貞ら指導”. デイリースポーツ. 2024年1月25日閲覧。

^ 選手の体ケアで“再登板” 元ホークス・クローザーの馬原さん 資格取得目指し猛勉強中 - 毎日新聞、2016年8月29日。

^ 九州医療スポーツ専門学校twitter2016年3月25日閲覧

^ スポニチアネックス2016年9月15日閲覧

^ 元ソフトB馬原氏、医療系の国家試験に合格 柔整、はり、きゅう師西日本スポーツ(2019年3月27日配信)

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^ “通算182セーブの馬原孝浩氏、熊本プロ球団でコーチに 異例の役職「ピッチングGM」”. 西日本スポーツ. (2020年10月17日). https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/655143/ 2020年10月17日閲覧。 

^ “準備運動からケアまで「全部、僕が見ています」元鷹の守護神・馬原孝浩氏、独立Lで新たな指導者像”. 西日本スポーツ. (2021年2月23日). https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/697121/ 2021年3月8日閲覧。 

^ 新監督就任のお知らせ - 火の国サラマンダーズ(2021年10月8日)2021年10月8日閲覧。

^ “元ソフトバンク馬原監督が独立リーグV 柔道整復師資格持つ異色指揮官が誇った勝ち方”. 西日本スポーツ. (2022年9月16日). https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/988481/ 2022年9月16日閲覧。 

^ “熊本・火の国、初の独立リーグ日本一 グランドチャンピオンシップで優勝”. 西日本スポーツ. (2022年10月1日). https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/995480/ 2022年10月1日閲覧。 

^ “火の国サラマンダーズ3連覇 独立プロ野球・九州アジアリーグ グランドチャンピオンシップ進出”. 熊本日日新聞. (2023年9月8日). https://kumanichi.com/articles/1166013#:~:text=%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E3%83%97%E3%83%AD%E9%87%8E%E7%90%83%E3%81%AE%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%A8,%E3%81%AE%E5%84%AA%E5%8B%9D%E3%82%92%E6%B1%BA%E3%82%81%E3%81%9F%E3%80%82 2023年9月9日閲覧。 

^ “野球・独立リーグ日本一決定戦 熊本のサラマンダーズ2連覇 埼玉に6―1”. 熊本日日新聞. (2023年10月1日). https://kumanichi.com/articles/1188407 2023年10月4日閲覧。 

^ 馬原孝浩監督 退任について - 火の国サラマンダーズ(2023年10月4日)2023年10月4日閲覧。

^ 馬原孝浩ゼネラルマネージャー就任について - 火の国サラマンダーズ(2024年10月8日)2024年10月8日閲覧。

^ “ソフトB馬原 復活手応え160キロだ”. 日刊スポーツ. (2012年12月10日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20121210-1058015.html 2020年5月5日閲覧。 

^ 『2011プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2011年、184頁頁。ISBN 978-4-930942-98-2。 

^ 週刊ベースボール 2010年6月14日号、ベースボール・マガジン社、雑誌20442-6/14、19頁。

^ 川﨑&馬原トークショー「ALL THAT'S HAWKS」

^ “人的補償を告げられた瞬間。馬原孝浩は一瞬戸惑い、寺原隼人は絶句した(2/4)”. Webスポルティーバ (集英社). (2021年1月6日). https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2021/01/06/post_1/amp_2.php 2021年1月6日閲覧。 

^ “熊本県が日本代表2人表彰/松中と馬原”. SHIKOKU NEWS (四国新聞社). (2006年3月27日). https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20060327000422 2017年9月8日閲覧。 

^ “大関魁皇関に対する県民栄誉賞贈呈について” (PDF). 福岡県新社会推進部県民文化スポーツ課. 2017年9月8日閲覧。

^ “福岡市スポーツ栄誉賞”. 福岡市 健康づくり・スポーツサイト. 福岡市. 2017年9月8日閲覧。

熊本県出身の人物一覧

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九州共立大学の人物一覧

福岡ソフトバンクホークスの選手一覧

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SBM

個人年度別成績 馬原孝浩 - NPB.jp 日本野球機構

選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube

馬原孝浩公式サイト2019年9月21日閲覧

馬原孝浩 - YouTubeチャンネル

細川亨 2021

馬原孝浩 2022 - 2023

ボビー・ローズ 2024 - 2024.2.15

【代行】荒西祐大 2024.2.15 -

1974 佐藤道郎

1975 村田兆治

1976 佐藤道郎

1977 江夏豊

1978 山口高志

1979 金城基泰

1980 金城基泰

1981 江夏豊

1982 江夏豊

1983 森繁和

1984 山沖之彦

1985 石本貴昭

1986 石本貴昭

1987 牛島和彦

1988 吉井理人

1989 井上祐二

1990 鹿取義隆

1991 武田一浩

1992 赤堀元之

1993 赤堀元之

1994 赤堀元之

1995 平井正史

1996 赤堀元之, 成本年秀

1997 赤堀元之

1998 大塚晶文

1999 B.ウォーレン

2000 R.ペドラザ

2001 R.ペドラザ

2002 豊田清

2003 豊田清

2004 三瀬幸司, 横山道哉

2005 小林雅英

2006 MICHEAL

2007 馬原孝浩

2008 加藤大輔

2009 武田久

2010 B.シコースキー

2011 武田久

2012 武田久

2013 益田直也

2014 平野佳寿

2015 D.サファテ

2016 D.サファテ

2017 D.サファテ

2018 森唯斗

2019 松井裕樹

2020 増田達至

2021 益田直也

2022 松井裕樹

2023 松井裕樹

2024 則本昂大

山中正竹

高橋昭雄

荒井信久

岩井美樹

11 多田野数人

14 土居龍太郎

15 加藤大輔

16 久保裕也

17 長田秀一郎

18 木佐貫洋

19 馬原孝浩

21 和田毅

10 小山良男

22 大野隆治

1 鳥谷敬

2 中道大輔

3 後藤武敏

4 松田宣浩

5 村田修一

6 岩舘学

7 田中浩康

8 鞘師智也

9 工藤隆人

20 河野友軌

23 竹原直隆

24 平石洋介

中村壽博

山路哲生

仲里清

中野泰造

11 谷崎大悟

12 反頭一臣

14 片山純一

15 宮川兼二郎

16 池田裕行

17 竹林俊行

18 馬原孝浩

19 吉川輝昭

3 川本良平

22 堂上隼人

29 中東直己

1 西口翔悟

2 脇谷亮太

4 足立和也

7 田中浩康

8 鳥谷敬

9 松田宣浩

10 高島佑介

24 青木宣親

25 林直樹

26 中村公治

27 小沢龍馬

83 原辰徳

72 伊東勤(総合)

71 山田久志(投手)

92 与田剛(投手)

81 篠塚和典(打撃)

63 高代延博(内野守備走塁)

73 緒方耕一(外野守備走塁)

11 ダルビッシュ有

14 馬原孝浩

15 田中将大

16 涌井秀章

18 松坂大輔

19 岩田稔

20 岩隈久志

22 藤川球児

26 内海哲也

28 小松聖

31 渡辺俊介

39 山口鉄也

47 杉内俊哉

2 城島健司

10 阿部慎之助

29 石原慶幸

5 栗原健太(追加招集)

6 中島裕之

7 片岡易之

8 岩村明憲

9 小笠原道大

25 村田修一(途中離脱)

52 川﨑宗則

1 福留孝介

23 青木宣親

24 内川聖一

35 亀井義行

41 稲葉篤紀

51 イチロー

89 王貞治

86 鹿取義隆(投手)

84 武田一浩(投手)

87 大島康徳(打撃)

85 辻発彦(内野守備走塁)

88 弘田澄男(外野守備走塁)

11 清水直行

12 藤田宗一

15 久保田智之

18 松坂大輔

19 上原浩治

20 薮田安彦

21 和田毅

24 藤川球児

31 渡辺俊介

40 大塚晶則

41 小林宏之

47 杉内俊哉

61 石井弘寿(途中離脱)

61 馬原孝浩(追加招集)

22 里崎智也

27 谷繁元信

59 相川亮二

1 岩村明憲

2 小笠原道大

3 松中信彦

7 西岡剛

8 今江敏晃

10 宮本慎也

25 新井貴浩

52 川﨑宗則

5 和田一浩

6 多村仁

9 金城龍彦

17 福留孝介

23 青木宣親

51 イチロー

自由獲得枠:馬原孝浩

2巡目:城所龍磨

4巡目:明石健志

5巡目:榎本敏孝

6巡目:金子圭輔

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8巡目:竹岡和宏

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日本の野球選手

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2024/11/21 17:32更新

mahara takahiro


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