岩村明憲の情報(いわむらあきのり) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
岩村 明憲さんについて調べます
■名前・氏名 |
岩村明憲と関係のある人
星野仙一: メジャーリーグ経験者の岩村明憲や松井稼頭央を獲得。 城石憲之: 2000年、2001年と土橋、宮本、岩村明憲が元気だったため出番が激減した。 今宮健太: 三塁手・松田宣浩との同一チームの三遊間での5年連続のゴールデングラブ受賞は、2000年から2002年まで3年連続の遊撃手・宮本慎也、三塁手・岩村明憲(ヤクルトスワローズ)を凌ぎ、歴代最長記録を更新している。 松井稼頭央: 岩村明憲に次ぐ日本人内野手歴代2位に浮上した。 加藤康介: NPB他球団への移籍には至らなかったが、独立リーグであるベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)で福島ホープスの選手兼任監督を務める岩村明憲からの誘いを受けて、12月18日に同球団へ入団することが発表された。 坪井ミサト: BCリーグ・福島ホープス/岩村明憲選手引退式 (2017年9月10日) 橋本将: 高校の1学年上に岩村敬士、1学年下に宮出隆自、2学年下に岩村明憲がいた。 今江敏晃: そのWBCでチームメイトだった岩村明憲がメジャーリーグに移籍する際、アメリカの公式サイトにて写真が岩村ではなく今江だった、という事件が起きた。 梶本勇介: 2004年は前年オフに岩村明憲から誘われてともに自主トレを行った。 松下圭太: 地元では岩村明憲以来の逸材と評判だった。 若松勉: 12月3日には若松の野球殿堂入りを祝うパーティーが行われ、加藤良三コミッショナー、王貞治、長嶋茂雄、金田正一、中西太、古田敦也、岩村明憲、五十嵐亮太、青木宣親ら約1,100人が出席した。 佐々木主浩: 前半戦は好調を維持していたが、8月4日の中日ドラゴンズ戦、7日のヤクルト戦と連続して救援に失敗すると翌8日のヤクルト戦では土橋勝征、岩村明憲、古田敦也に3連続本塁打を打たれて逆転負けを喫する。 武田久: 同年秋は四国大会に進むが、1回戦で岩村明憲のいた宇和島東高に敗退し春の選抜出場を逸する形となった。 クリス=コグラン: マーリンズ時代の2009年5月24日に、タンパベイ・レイズ戦の8回に一塁走者だったコグランは、投ゴロで二塁ベースカバーに入った岩村明憲の一塁送球を妨害しようとタックルのようなスライディングを行い、左膝の前十字靱帯断裂と同内側側副靱帯及び左足首の三角靱帯損傷で全治8カ月の大ケガを負わせた。 高木啓充: 宇和島東出身でヤクルトに入団したのは、宮出隆自、岩村明憲に続き3人目。 馬場敏史: ヤクルトでは二塁手も務めたが、岩村明憲など若手内野手の台頭もあって出場機会が減り、2000年に現役を引退。 高須洋介: 2011年、新加入で正三塁手として期待された岩村明憲の極度の不振や二塁手の内村賢介の成長により、シーズン途中から三塁手として起用されることになった。 飯原誉士: 2007年は外野手として登録されていたが、岩村明憲のメジャー移籍で空いた三塁手を宮出隆自、畠山和洋らと争った。 田口壮: 何苦楚はオリックス時代に指導を受けた中西太から授けられ座右の銘としている言葉であり、同じく中西の指導を受けた岩村明憲も座右の銘としている。 鳥海貴樹: 松山放送局勤務時は、地元スポーツ関係の実況(愛媛FC、愛媛マンダリンパイレーツ、米大リーグ岩村明憲情報など(岩村は愛媛県出身であり、連日ローカルニュースなどで岩村情報を提供))を担当した。 小牧雄一: 1998年、プロ2年目の岩村明憲と9月までファーム本塁打王争いを演じた。 宮出隆自: 2007年は宮出の高校の後輩でもある岩村明憲のメジャー挑戦で三塁手が空席になったため、外野手から三塁手へのコンバートが予定された。 河原隆一: 3者連続3球三振:2001年5月1日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、5回裏に岩村明憲・土橋勝征・藤井秀悟から ※史上12人目(セ・リーグ8人目) 青木宣親: 岩村明憲の退団後から球団より背番号「1」への変更を打診され続けていたが、ヤクルトの背番号1番はこれまで若松勉、池山隆寛、岩村明憲といった生え抜きスターが背負ってきた名誉ある背番号であるため、青木が時期尚早と固辞し続けていた。 矢野和哉: 岩村明憲や宮出隆自など、後に打線の中核を担う選手を担当。 塩川達也: シーズン終了後、岩村明憲の加入に伴い、背番号を6に変更。 宮出隆自: 愛媛県立宇和島東高等学校ではエースとして、後にヤクルトでチームメイトとなる岩村明憲とバッテリーを組んだ。 村上宗隆: 8月20日の対中日17回戦(バンテリンドーム ナゴヤ)では3回表にバックスクリーンへの43号ソロ本塁打を打ったのに続き、7回表には右翼席中段への44号2点本塁打(この本塁打については後述)を打ち、球団の日本選手最多本塁打記録(2004年に岩村明憲が記録)に並んだ。 村上宗隆: 上述の通り、村上は本塁打や打点に関する数々の高卒2年目以内、未成年での記録を塗り替え、最終的にチーム唯一となる全143試合に出場し、36本塁打、96打点(どちらもリーグ3位)を記録した一方、打率は規定打席到達者としてリーグ最低となる.231、三振数に至っては2004年に岩村明憲が記録した173を上回る184を記録し、セ・リーグ記録および日本人選手最多記録を更新した。 中村紀洋: 2019年12月3日、稲葉篤紀・岩村明憲・金子誠(いずれも2014年限りで現役引退)とともに、野球殿堂の「プレーヤー表彰」候補者(現役引退から5年以上が経過した元選手が対象)としてノミネートされている。 |
岩村明憲の情報まとめ
岩村 明憲(いわむら あきのり)さんの誕生日は1979年2月9日です。愛媛出身の野球選手のようです。
現在、母親、引退、テレビ、結婚、兄弟に関する情報もありますね。今年の情報もありました。岩村明憲の現在の年齢は45歳のようです。
岩村明憲のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 岩村 明憲(いわむら あきのり、1979年2月9日 - )は、愛媛県宇和島市出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)、監督、野球解説者。現在はベースボール・チャレンジ・リーグの福島レッドホープスで総監督を務めるほか、2015年11月1日より同球団の球団代表に就任し、2018年11月21日からは球団運営会社の社長も務める。 兄の岩村敬士も元プロ野球選手で、近鉄バファローズに所属していた。 中学時代は二塁手。宇和島東高1年生時、捕手にコンバートされる。1995年には全日本高校選抜の4番を務めた。三年生時の1996年6月に右腕を骨折、急遽一塁手にコンバートされ愛媛大会を迎える。愛媛大会では準決勝で松山商業に敗れた。 同年の1996年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから2位指名を受けて、契約金8000万円、年俸600万円(金額は推定)で合意して入団。背番号は48に決まった。 1997年(1年目)は一軍出場なしに終わったが、二軍で打率.316、10本塁打、38打点を記録。 1998年5月19日の対横浜ベイスターズ戦において7番・三塁手として先発出場し、プロ入り初の一軍出場を果たした。 1999年は池山隆寛と併用で三塁を守り83試合に出場し、規定打席には届かなかったが、打率.294、11本塁打を記録した。 2000年は監督の若松勉が衰えが目立ってきた池山を説得し、岩村を三塁手のレギュラーに抜擢し、130試合に出場。自身初の規定打席に到達し、同時にゴールデングラブ賞も初受賞。打率.278(リーグ18位)、18本塁打(リーグ14位)、66打点(リーグ12位)、13盗塁(リーグ7位)を記録。シーズン9三塁打はリーグ最多だった。 2001年は背番号を48から1に変更し、大きく活躍が期待されたこの年は前年を上回る136試合に出場。打率.287(リーグ18位)、18本塁打(リーグ17位)、81打点(リーグ11位)、15盗塁(リーグ8位)を記録。また、自身初のオールスターゲーム出場を果たしリーグ優勝に貢献。日本シリーズでは優秀選手賞に選ばれ、日本一にも貢献した。 2002年は新ストライクゾーンに対応するため、キャンプではバットのヘッドを立てて高めの球に力負けしないためのスイング、大根斬りの練習を行った。その結果、全140試合フル出場を果たし、打率はリーグ4位、そして自身初の3割台となる.320、本塁打はリーグ10位となる23本塁打、OPSはリーグ4位の.921を記録。ベストナインに初選出されるなど大きく飛躍したシーズンとなった。 2003年は開幕を一軍で迎えたものの、開幕戦で右手首を故障し戦線離脱。出場機会が激減、シーズンを通して60試合の出場に留まった。規定打席には届かず、打率も.263と前年を下回ったが、僅か258打席、232打数で12本塁打を記録した。怪我から復帰後は三塁には西武から移籍してきた鈴木健が好調だったこともあり、しばらくは中堅手として起用された。 2004年はロベルト・ペタジーニが1999年に記録したチーム史上タイ記録に並ぶ44本塁打、103打点(いずれもリーグ3位)と好成績を残した。OPSも自己最高の.966を記録したが、リーグ4位の.921を記録した2002年はストライクゾーン改正もあり打低年、2004年は打高年だったこともありリーグ9位、同様に打率もちょうど3割を記録したもののリーグ19位と順位はそれほど伸びなかった。また、日本プロ野球歴代5位となるシーズン173三振を喫し、従来の日本人新記録とセ・リーグ記録を大幅に上回るなど、不名誉な記録も残した。同年に行われた日米野球では、チーム打率が.221に沈む中岩村は打率.440、長打率.517を記録するなど好成績を収め、打棒をふるった。 2005年8月26日に母親が他界。この日、横浜戦(神宮)を控えていた岩村は当時の監督の若松勉から帰郷するよう勧められたが、「プロとして目の前の試合を放棄するわけにはいきません」と出場を志願。左腕に喪章を付け、「3番・三塁手」で先発出場。2本塁打を含む3安打4打点の大活躍を見せ、チームの勝利に大きく貢献した。最終的に、この年は144試合に出場。三振数は前年に続いてリーグ最多だったが、打率.319(リーグ6位)、30本塁打(リーグ8位)、102打点(リーグ6位)、OPS.943(リーグ6位)を記録した。 2006年はリーグ全体がやや打低化したのに対して打率.311(リーグ5位)、32本塁打(リーグ5位)、OPSも.933(リーグ4位)と前年とほぼ同程度の数値を記録し、これで3年連続3割30本塁打を達成。RCWINに至っては自己最高の数値を記録し、4年ぶりにベストナインに選出された。シーズン終了後にはポスティング・システムを行使し、タンパベイ・デビルレイズが455万ドルで交渉権を獲得。アラン・ニーロを代理人とした。 3年総額770万ドル(4年目は年俸485万ドルの球団オプション)で契約を結んだ。 2007年、当初は守備位置が決まらず一塁手用や外野手用のグラブも持参してスプリングトレーニングに臨むが、三塁手として起用される。開幕当初は6番で起用され、9試合連続安打のスタートを切り、打率.339・出塁率.470などと好調だったが、4月24日に右脇腹を痛め故障者リストに登録された。復帰後は主に1番打者として起用され、本塁打は日本時代に比べて激減したが、チームバッティングに徹する姿勢を貫いて若い選手に意識改革をもたらしたと評された。シーズン終盤には、エバン・ロンゴリアが翌シーズンから三塁を守るチーム方針から二塁手へのコンバートを告げられ、オフには土橋勝征から二塁守備の指導を受けた。 2008年はスプリングトレーニングでは二塁守備での塁上の接触プレーなどに苦戦したが失策はなく、打撃でも19試合の出場で打率.340、2本塁打、出塁率.421、1盗塁の成績を残す。4月は打率.210、1本塁打、出塁率.300と低調だったが、5月3日のボストン・レッドソックス戦では日本人左打者では初となるグリーンモンスター越えの左本塁打を打ち、同月下旬には5試合連続のマルチ安打を記録するなど復調し打率.333、2本塁打、出塁率.371を記録。6月3日のレッドソックス戦ではMLB通算4本目の初回先頭打者本塁打を記録。6月5日のレッドソックス戦ではレイズ先発のジェームズ・シールズのココ・クリスプへの死球から始まった乱闘に「グラウンドでは野球をするもの。でも味方がどうこうされるのも黙ってられない。止めなければならなかった」と参加し、3試合の出場停止処分を受けた。24日のフロリダ・マーリンズ戦でNPB/MLB通算200号本塁打を達成。8月30日のボルチモア・オリオールズ戦でメジャー移籍後初のシーズン150安打に到達。8月に7連敗を喫したが、監督のジョー・マドンに緊急ミーティングを開くよう直訴し、中堅手のB.J.アップトンには守備を教えたりするなどして若手の多いチームを引っ張り、9月20日のミネソタ・ツインズ戦の勝利でチームは球団史上初のポストシーズン進出が決定し、26日に初の地区優勝も決定する。この年のタンパ一帯では、スランプに陥っていたB.J.アップトンがゲン直しに岩村のソフトモヒカンを真似たことをきっかけに、モヒカンヘアーの大ブームが巻き起こった。 ポストシーズンではシカゴ・ホワイトソックスとのディビジョンシリーズ第2戦の5回、カール・クロフォードが「今日のアキのホームランは球団史上最高の一打だと思う」と語る逆転2点本塁打を打ち勝利。最終戦までもつれ込んだレッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦まで7試合連続安打を記録し、第4戦ではレギュラーシーズン中は封印していたグラブトスでの併殺を見せるなど攻守に活躍し、チームはワールドシリーズに進出。しかしフィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは第5戦で敗退した。 2009年はB.J.アップトンを1番打者とするチーム方針から開幕直後は9番で起用される5月24日のフロリダ・マーリンズ戦まで打率.310、本塁打なし、出塁率.377と例年以上の好調を見せていたが、その試合の8回に二塁の守備についた際、一塁走者クリス・コグランの激しいスライディングを受けて左膝を負傷し途中退場。精密検査の結果、左膝前十字靱帯断裂と診断された。故障当初はシーズン中の復帰は絶望視されていたが、6月22日に手術を受けた際に部分断裂であることが判明。8月29日のデトロイト・タイガース戦で復帰し、翌日の試合では1号本塁打を打ち、「今季はホームラン0かなと思っていたんですけど、打ててよかったです」とコメントした。9月にはチームが11連敗を喫しポストシーズン出場を逃した。 2009年11月3日、ジェシー・チャベスとのトレードでピッツバーグ・パイレーツへ移籍、パイレーツが翌年の契約オプションを行使した。オフには四国八十八箇所巡りを敢行した。 2010年は開幕から打撃不振に悩まされ、4月21日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で左中間への大飛球が凡打に終わると「この球場じゃなければ入っている」、5月10日のシンシナティ・レッズ戦でも同様に左中間の大飛球が凡打に終わると「他の球場なら本塁打」というコメントを残すなど弱気な発言が目立ち、5月には日本人選手ワースト記録となる40打席連続無安打を記録。打率は2割を割り込み、ペドロ・アルバレスのメジャー昇格に伴い6月16日にDFAとなり、6月22日に傘下のAAA級インディアナポリスへ降格。インディアナポリスでは50試合の出場で打率.264、3本塁打、出塁率.404の成績を残すが、マイナーリーグのレギュラーシーズン終了後の9月6日に解雇される。 2010年9月13日、ケビン・クーズマノフの故障で選手の補強を急いでいたオークランド・アスレチックスとメジャー契約を結び、同日の試合に「7番・三塁手」として先発出場。しかし10試合で打率.129、出塁率.250を喫し、10月4日に解雇された。 2010年11月16日に東北楽天ゴールデンイーグルスと年俸1億5千万円の2年契約を結ぶ。5シーズンぶりの日本球界復帰となり、17日には仙台市内の球団事務所で入団会見を行った。背番号はヤクルト、レイズ時代と同じ1に決まった。 2011年はこのシーズンから同じく日本球界に復帰した松井稼頭央とともに主力として期待されたが、開幕から打率.169、OPS.421、失策6と攻守に精彩を欠き、5月14日に出場選手登録を抹消。復帰まで1か月半を要したが、復帰直後の6月29日の福岡ソフトバンクホークス戦(Kスタ宮城)において、延長10回裏に馬原孝浩から日本球界復帰後初の適時打となる逆転サヨナラ二塁打を打った。しかし、その後も調子が上向くことはなく、内村賢介が二塁手のスタメンに固定された影響で、それまで正二塁手だった高須洋介が三塁手に定着。押しだされるようにスタメンの座を失い、守備代走要員となった。9月16日の埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)の代打で二ゴロ併殺崩れの間に出塁し、ホーム突入時に銀仁朗と交錯して肋骨を骨折。結局出場77試合で打率.183、本塁打なし、OPS.475という成績でそのままシーズンを終えた。 2012年は開幕から二軍暮らしとなり、6月8日にようやく一軍登録される。7月7日の西武戦(西武ドーム)で2006年10月10日以来、日本球界で6年(2097日)ぶりの本塁打を打ったものの、シーズンを通しては前年同様の不振を極め、8月5日に再度二軍落ち。二軍では39試合の出場で打率.298、1本塁打、OPS.799を記録するが、その後も一軍復帰を果たすことができなかった。結局前年を下回る26試合の出場で打率が2割を超える程度の成績に終わり、10月7日に球団から戦力外通告を受けた。 2012年12月11日に東京ヤクルトスワローズと契約。7シーズンぶりに古巣復帰を果たした。背番号はプロ入り当初に着用していた48に決まった。 2013年2月23日の楽天戦とのオープン戦の後には「(楽天が自分を)手放して痛かったなと思ってほしい」とコメントした。開幕一軍入りを果たし、4月7日の横浜DeNAベイスターズ戦において、2回裏に三浦大輔から古巣復帰後初となるソロ本塁打を打ち、2006年10月10日以来となる神宮球場での本塁打を記録した。しかし、シーズンを通して75試合の出場に留まり、打率.246、3本塁打と往年の力を発揮することはできなかった。 2014年は2年連続で開幕一軍に登録。4月6日の阪神タイガース戦(神宮)3回裏に代打で起用されると、シーズン1号となる3点本塁打を打った。「7番・一塁手」としてスタメンに起用された6月14日の北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)では、2回表の第1打席から4打席連続で二塁打を打ったことによって、NPBタイ記録(史上11人目、4打席連続では7人目)の1試合4二塁打を達成した。しかし、前年よりさらに少ない39試合の出場にとどまり、10月1日に球団から戦力外通告を受ける。11月27日、福島ホープスの選手兼任監督に就任することが報道により明らかとなった。 2015年は選手としては10試合の出場に留まったが、打率は5割を超えた。監督としては前期・最下位に沈むも、後期は新規参入1年目での地区半期優勝を果たした(リーグでは群馬ダイヤモンドペガサスに次いで2例目)。新潟との地区チャンピオンシップシリーズでは1勝2敗でリーグチャンピオンシップシリーズ進出はならなかった。11月1日、福島の球団代表に就任した。2016年4月のインタビューで「俺以外のヤツには、みんなNPBを目指せ、と言ってある。俺はもうNPBはない。俺は今、福島県のために野球をやっている」と語っており、現役選手としてのNPB復帰の可能性を否定した。 2016年も選手兼任監督に留任したが、選手としての出場は3試合にとどまり、4打数無安打3四球1打点の成績だった。監督としては前後期ともに2位ながら、年間勝率2位となったことから、前後期を連覇した群馬と対戦する形で、2年連続して地区チャンピオンシップへの出場を果たした。地区チャンピオンシップは初戦で敗退し(福島は3勝0敗が勝ち上がり条件)、前年に続いてリーグチャンピオンシップに駒を進めることができなかった。一方、東北放送の野球解説者も務めた。 2017年は開幕直後の4月10日に記者会見を開き、今シーズン限りで現役を引退することを発表した。9月10日の対武蔵ヒートベアーズ戦(郡山総合運動場開成山野球場、後期最終戦)が引退試合とされ、1番・指名打者で先発出場した岩村は、中西太も見守る中、4打数2安打を記録。試合は引き分けだったが、3年連続での地区チャンピオンシップ出場を決めた。試合後のセレモニーではゆかりある関係者からのビデオメッセージの上映後、「175センチという体で、怪我とよく向き合いながら21年よくやったと思う。監督が選手最後の試合というプレッシャーの掛かる試合で、プレーオフを決めた選手全員を誇りに思います。そして、それを後押ししたのがファンの皆さん。ありがとうございます」と挨拶した。地区チャンピオンシップについては「さすがにもういいでしょ」と出場しない意向を示した。前年に続いて前後期優勝の群馬との対戦となった地区チャンピオンシップは、初戦に勝利したが第2戦に0-1で惜敗し、今回もリーグチャンピオンシップへの出場はならなかった。 2018年8月4日、かつて所属したタンパベイ・レイズの本拠地で試合前の始球式を務めた(捕手役は2008年のワールドシリーズ当時遊撃手だったジェイソン・バートレット)。このシーズン、福島は前期・後期ともに2位(前期は優勝マジックを点灯させたものの、群馬に逆転を許した)となり、4年連続で地区チャンピオンシップに進んだが、今回も群馬の前に1引き分けで敗退となった。 福島はシーズン終了後に経営難が報じられ、11月21日に記者会見を開いて自らが代表となる新運営会社の設立と、チーム名の「福島レッドホープス」への変更を発表した。 2019年3月22日には、オークランド・アスレチックスのOBを代表して、MLB開幕カード第2戦(東京ドームのアスレチックス対シアトル・マリナーズ戦)の始球式に藪恵壹とのバッテリー(藪の捕手役)で登場。日本テレビ系列で放送された地上波向けの試合中継でも、副音声で解説を担当した。ちなみに、マリナーズの「9番・右翼手」としてスタメンに起用されたイチローは、この試合の終了後に現役引退を発表している。 このシーズン、福島は前期4位・後期5位の結果に終わり、福島の監督就任後、初めてポストシーズンに進めなかった。 2020年、新型コロナウイルス感染拡大の影響でリーグ戦は3地区・6ブロック制となり、福島は中地区グループCから地区チャンピオンシップ(本年はトーナメント制)に進んだが、地区チャンピオンシップでは信濃に敗退してリーグチャンピオンシップ出場はならなかった。 10月26日のNPBドラフト会議では古長拓がオリックス・バファローズから育成ドラフト6巡目で指名を受け、チーム創設以来初の指名者となった。 2021年8月28日、体調不良により監督を休養すると発表された(総合コーチの星野おさむが代行)。このシーズンは低迷して最下位に終わり、岩村はシーズン終盤に「翌年優勝できなければ監督を退く」と発言したと報じられた。復帰に関する明確な発表はなされなかったが、シーズン終了後に星野は退団しており、事実上岩村が監督に復帰した形になっている。 2022年もチームは最下位に低迷し、9月4日のホーム最終戦終了後に「8年間やってきて一番悔しかったです。もう一度チャンスをいただいて、優勝した信濃・2位争いをしている群馬・新潟と肩を並べて堂々と試合ができるチーム作りをしていきたい」と述べ、前記の「優勝できなければ辞任」という発言を撤回して留任する意向を示した。 2023年は3年連続最下位は免れたが、Bクラスの3位だった。岩村は9月2日のホーム最終戦後「一つ順位は上がったが、強い組織作りができていなかった」と述べるとともに、来シーズンも留任する意向を示した。 2024年シーズン中の8月12日に会見を開き、今シーズン限りで監督を退任することを発表した。会見の時点でシーズン成績はリーグ7チーム中6位で、岩村は「ここ数年プレーオフにも出られず、県民の方々に見せたい野球がお見せできない苦しさ、選手たちの大事なところを伸ばすことができなかった。退任とは言いますが、代表取締役(の立場)からすれば、成績から解任かなという気持ちもあります」と述べた。来シーズンはチーム総監督兼球団代表取締役会長として引き続きチーム運営には関与する予定。8月31日のホーム最終戦後にセレモニーが開かれて挨拶に立ち、最後には選手から胴上げされた。 2006年シーズン開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。ラウンド2までの全試合に先発出場し毎試合安打を記録する活躍を見せるが、故障で準決勝以降は欠場した。 2009年シーズン開幕前の3月に開催された第2回WBCの日本代表に選出された。同大会では主に9番・二塁手として出場し、内野のリーダーとしてチームを引っ張った。1次ラウンドは無安打に終わるが、2次ラウンドの初戦キューバ戦で2安打すると復調し、準決勝のアメリカ合衆国戦では4回裏、日本4点目となる適時三塁打を打つ。決勝の韓国戦では、10回表に左前安打で一・三塁と繋ぎ、イチローの決勝点となる2点適時打を呼び込み、日本代表チームで最後のホームを踏んだ(決勝点となったホームを踏んだのは内川聖一)。全9試合で、打率.286、出塁率.417、1盗塁、7得点。得点7はイチローとともにチーム最多だった。 メジャー挑戦前は三振は多いが甘いボールを逃さない積極的な打撃スタイルだったが、レイズ移籍後は主に1番打者としてバットコントロールに重点を置いた逆方向にライナーをはじき返すバッティングに徹し、2007年にはチームのルーキーとして歴代最高の出塁率.359を記録し、2008年には投手に2930球を投げさせ(両リーグ3位タイ)、左打者ながら左投手に強く、メジャー通算では対右投手打率.259に対し、左投手には打率.287を残した。 メジャーリーグ時代はヤクルト時代に比べると上記の理由や本拠地の広さもあり本塁打数が減少したが、パークファクター補正の入る打撃指標のOPS+、wRC+のキャリアハイはそれぞれ105、107を記録している。これは日本人内野手としては歴代2位の数値である。 三塁守備では2007年にリーグ1位の守備率.975を記録し、DRS-7、UZR1.3を記録。2008年には二塁にコンバートされたが、リーグ3位のダブルプレー達成数104、リーグ4位の守備率.990、リーグ3位のDRS3、同3位のUZR2.8を記録する活躍でチームの守備力向上の象徴となり、ジェイソン・バートレットとの二遊間はイワーレットと呼ばれた。メジャー通算では二塁手としてDRS-5、UZR-10.0、三塁手としてDRS-11、UZR-1.8を残した。 ヤクルト時代は一塁到達4.2秒台と俊足で、2000年、2001年と2年連続で2桁盗塁を記録。メジャー移籍後1年目も2桁盗塁を記録し、2009年のWBCでは一塁到達3.98秒を計時する全力疾走を見せる。 ヤクルト時代の2005年に1歳年上の元OLの女性と結婚。12月12日にはニッポン放送「岩村明憲のオールナイトニッポン」でラジオ出演した。デビルレイズ(当時)移籍後の2007年7月に第1子(長男)誕生。 赤色を好んでいることから2003年あたりからリストバンド、バッティンググローブ、ファイテン社のRAKUWAネック、練習用Tシャツなどが殆ど赤になった。バットも薄赤色と橙色の中間色や濃い赤色(えんじ色)も使用していたが、2005年からは使用できるバットの色に規制が設けられたため(メジャーリーグの規定に倣い自然色・こげ茶・赤褐色・黒の4色に制限)、黒バットに戻してプレーすることとなった。 中西太を師匠的存在とし、中西の座右の銘である「何苦楚」をブログのタイトルに引用している他、「(カージナルスに移籍した当初)くさらずにやってきた、あの姿勢は見習わなければならない。野球選手の原点」と同じく中西を師匠的存在としている田口壮にも尊敬を抱いている。 レイズの選手夫人たちに漢字の“勝利”の文字が背中に書かれたパーカーを着るように提案したことがあり、「彼の存在、プレー、人間性、そのすべてが、ある意味、レイズの心臓となっている」とも評されていた。 ニックネームは「ガンちゃん」。アメリカでは「アキ (Aki)」と呼ばれていた。 小惑星67853 Iwamuraは岩村の名前にちなんで命名された。 各年度の太字はリーグ最高 各年度の太字はリーグ最高 NPB時代の太字年はゴールデングラブ賞受賞
ベストナイン:2回(三塁手部門:2002年、2006年) ゴールデングラブ賞:6回(三塁手部門:2000年 - 2002年、2004年 - 2006年) ※セ・リーグ三塁手部門を6度は歴代最多タイ(他に掛布雅之) 月間MVP:1回(2004年8月) 優秀JCB・MEP賞:4回(2000年、2002年、2004年、2006年) 日本シリーズ優秀選手賞:1回(2001年) オールスターゲーム優秀選手賞:1回(2006年第1戦) 初出場・初先発出場:1998年5月19日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)、7番・三塁手で先発出場 初打席:同上、2回表に三浦大輔の前に三振 初安打:1999年4月3日、対横浜ベイスターズ2回戦(横浜スタジアム)、7回表に伊藤智仁の代打で出場、斎藤隆から二塁内野安打 初盗塁:同上、7回表に二盗(投手:斎藤隆、捕手:谷繁元信) 初打点:1999年5月15日、対広島東洋カープ5回戦(長崎ビッグNスタジアム)、4回裏に黒田博樹から右翼線へ2点適時二塁打 初本塁打:1999年5月22日、対中日ドラゴンズ8回戦(ナゴヤドーム)、4回表に武田一浩から右越同点ソロ 100本塁打:2004年6月17日、対阪神タイガース13回戦(大阪ドーム)、1回表に藪恵壹から右越先制決勝2ラン ※史上235人目 150本塁打:2005年8月31日、対読売ジャイアンツ16回戦(大阪ドーム)、5回表にバート・ミアディッチから右中間へソロ ※史上138人目 1000安打:2006年7月17日、対広島東洋カープ10回戦(明治神宮野球場)、7回裏に佐竹健太から右前安打 ※史上242人目 1000試合出場:2011年5月10日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城)、7番・三塁手で先発出場 ※史上441人目 オールスターゲーム出場:4回(2001年、2004年、2005年、2006年) シーズン173三振(2004年) ※当時のセ・リーグ最多記録 1試合4打席連続二塁打:2014年6月14日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(札幌ドーム) ※日本プロ野球タイ記録で史上7人目(1試合4二塁打の記録は同様に日本プロ野球タイ記録で史上11人目) 48(1997年 - 2000年、2013年 - 2014年) 1(2001年 - 2009年、2010年途中 - 同年終了、2011年 - 2012年、2015年 - ) 3(2010年 - 同年途中)
2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 run for money 逃走中(2011年1月16日、フジテレビ) 最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦(2000年1月1日、2001年1月1日、2002年1月1日、TBS) アメリカ・メジャーリーグ中継(NHK BS1 福島レッドホープスに移籍した2015年以後、同チームの試合に支障をきたさない範囲で解説担当) ^ シーズン三振記録は1位から4位まではラルフ・ブライアント、従前の日本人最多記録は1997年清原和博(西武)の152、またセ・リーグ記録は同年の桧山進次郎(阪神)の150であった。なお2019年にチームの後輩である村上宗隆が日本歴代4位となるシーズン184三振を喫し、岩村の持つ日本人記録およびセ・リーグ記録を更新、岩村の記録は歴代6位となった。 ^ OPS+、wRC+の1位は2008年の松井稼頭央である(OPS+が107、wRC+が109)が、その年は怪我等の影響で規定打席には僅かに未到達であり、規定打席到達者では2007年の岩村が1位である。 ^ 朝日新聞、1996年12月4日付朝刊 (29面) ^ プロ野球レジェンドが語るあの日、あのとき、産経新聞出版、P294、2015年 ^ 「岩村 新ゾーンも大根斬りで」『スポーツ報知』2002年2月1日。2002年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月28日閲覧。 ^ 三振 【シーズン記録】 2014年4月19日閲覧。 ^ イオン オールスターシリーズ2004 日米野球 チーム・個人成績(NPBオールスターチーム) 2014年1月8日閲覧。 ^ 「<07MLB>岩村 右わき腹を痛めて故障者リスト入り」『フランス通信社』2007年4月25日。2018年10月8日閲覧。 ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2010』廣済堂出版、2010年、396頁。ISBN 978-4-331-51439-9。 ^ 岩村、永ちゃんパワーで200安打だ日刊スポーツ、2008年2月12日。 ^ 岩村日本人左初グリーンモンスター越え弾日刊スポーツ、2008年5月5日。 ^ 「岩村 レッドソックス戦で先頭打者本塁打」『フランス通信社』2008年6月4日。2018年10月8日閲覧。 ^ 「Akinori Iwamura Career Home Runs」『Baseball-Reference.com』(英語)。2018年10月8日閲覧。 ^ 岩村参戦!首位攻防大乱闘殴り合い日刊スポーツ、2008年6月7日。 ^ 岩村3試合出場停止処分、異議申し立ても日刊スポーツ、2008年6月8日。 ^ 岩村3安打2打点、日米通算200号弾も日刊スポーツ、2008年6月26日。 ^ 岩村3安打3得点、初のシーズン150安打日刊スポーツ、2008年9月1日。 ^ 「MLB2008 日本人メジャーリーガーの群像 『どん底チームを変えろ!〜岩村明憲 2年目の輝き〜』NHK BS1 2008年12月25日放送 ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2009』廣済堂出版、2009年、40頁。ISBN 978-4-331-51370-5。 ^ 岩村のレイズが初のプレーオフ進出日刊スポーツ、2008年9月22日。 ^ レイズ歓喜初Vも岩村ホテル直帰で祝えず日刊スポーツ、2008年9月28日。 ^ レイズ岩村、来季もモヒカンだぁ!日刊スポーツ、2008年11月8日。 ^ 岩村「球団史上最高の一打」でレイズ王手日刊スポーツ、2008年10月5日。 ^ 岩村自画自賛グラブトス併殺/プレーオフ日刊スポーツ、2008年10月16日。 ^ 岩村「まだ終わりじゃない」/プレーオフ日刊スポーツ、2008年10月21日。 ^ 岩村「胸張って帰る」/Wシリーズ日刊スポーツ、2008年10月31日。 ^ レイズ岩村、激闘一夜明け夢舞台語る日刊スポーツ、2008年11月1日。 ^ 岩村、今季は「9番」で開幕日刊スポーツ、2009年4月5日。 ^ 岩村左ひざじん帯断裂全治8カ月今季絶望日刊スポーツ、2009年5月27日。 ^ 岩村レイズと契約延長熱望、GMも前向き日刊スポーツ、2009年5月31日。 ^ 岩村に「奇跡」靱帯部分断裂で9月復帰も日刊スポーツ、2009年6月24日。 ^ 岩村復帰戦1安打「泣きそうになった」日刊スポーツ、2009年8月31日。 ^ 岩村が復帰2戦目で1号「ホッとした」日刊スポーツ、2009年9月1日。 ^ 岩村パイレーツ移籍、またも再建請負人日刊スポーツ、2009年11月5日。 ^ パ軍岩村が四国八十八カ所巡りへ日刊スポーツ、2009年11月30日。 ^ 岩村がお遍路さん「大変さ分かった」日刊スポーツ、2009年12月15日。 ^ 「【MLB】無安打の岩村、球場の構造にボヤキ」『MSN産経ニュース』産経新聞、2010年4月22日。2010年4月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月28日閲覧。 ^ 「岩村、無安打も「不振の原因が分かった」 (1/2ページ)」『SANSPO.COM』サンケイスポーツ、2010年5月11日。2010年6月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月28日閲覧。 ^ 岩村41打席ぶり安打「心でガッツポーズ」日刊スポーツ、2010年5月25日。 ^ 岩村日本復帰も「マイナー今の僕に無駄」日刊スポーツ、2010年8月28日。 ^ 岩村解雇「これが今の現実」日刊スポーツ、2010年9月8日。 ^ 岩村ブログで「ビックリ」アスレチックス日刊スポーツ、2010年9月14日。 ^ 「アスレチックス 岩村解雇を正式発表」『Sponichi Annex』スポーツニッポン、2010年10月5日。2010年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月28日閲覧。 ^ 「楽天、岩村と正式契約 17日に入団会見」『日刊スポーツ』日刊スポーツ、2010年11月16日。2012年11月11日閲覧。 ^ 「岩村楽天入団会見「監督胴上げを」」『日刊スポーツ』日刊スポーツ、2010年11月18日。2012年11月11日閲覧。 ^ 「不振の岩村が二軍落ち…星野監督「まだ若い」と減量指令」『Sponichi Annex』スポーツニッポン、2011年5月14日。2012年11月11日閲覧。 ^ 「不振に苦しみ…復帰後初先発の岩村“値千金”逆転サヨナラ打」『Sponichi Annex』スポーツニッポン、2011年6月29日。2012年11月11日閲覧。 ^ 「岩村、日本復帰1号弾! 楽天は西武に2連勝」『SANSPO.COM』サンケイスポーツ、2012年7月7日。2012年7月7日閲覧。 ^ 「来季の選手契約に関して」『東北楽天ゴールデンイーグルス』2012年10月7日。2012年11月11日閲覧。 ^ 「岩村選手がスワローズへ復帰!」『東京ヤクルトスワローズ公式サイト』2012年12月11日。2012年12月11日閲覧。 ^ 「岩村 古巣・楽天戦で三塁打「手放して痛かったなと思ってほしい」」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン、2013年2月23日。2013年3月29日閲覧。 ^ 「岩村「ただいま!」復帰弾が口火!ヤクルト3連発」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン、2013年4月8日。2013年10月29日閲覧。 ^ 「ヤクルト岩村“20歳”つば九郎に送る代打弾」『日刊スポーツ』日刊スポーツ、2014年4月26日。2014年6月18日閲覧。 ^ 「ヤクルト岩村プロ野球タイ4二塁打」『日刊スポーツ』日刊スポーツ、2014年6月15日。2013年10月29日閲覧。 ^ 来季の契約についてヤクルト球団公式サイト2014年10月1日配信 ^ 「元燕・岩村、来季BCリーグ「福島ホープス」の選手兼任監督へ」『サンケイスポーツ』2014年11月27日。2021年4月4日閲覧。 ^ 2016年個人打撃成績一覧 - ベースボール・チャレンジ・リーグ ^ 2016年ルートインBCリーグプレーオフ - ベースボール・チャレンジ・リーグ ^ 「元メジャー岩村明憲が現役引退発表会見「思い出に残る試合ができれば」」『Full-Count』2017年4月10日。2017年4月11日閲覧。 ^ 「岩村明憲、引退試合で2安打&PO進出「自分は本当に幸せな男だと思います」」『Full-Count』2017年9月10日。2017年9月10日閲覧。 ^ 「岩村明憲が引退、来季は監督専任で第2の岩村育てる」『日刊スポーツ』2017年9月10日。2017年9月19日閲覧。 ^ 「福島ホープス終戦 3年連続地区CSで涙」『福島民友新聞』2017年9月19日。2017年9月19日閲覧。 ^ 「岩村明憲氏がレイズで始球式 本拠地ファンから歓声に「本当にうれしかった」」『Full-Count』2018年8月5日。2018年10月8日閲覧。 ^ 「Akinori Iwamura throws out ceremonial first pitch at Rays ’08 A.L. 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直弟子・岩村明憲が語る名将秘話」『Full-Count』2016年12月19日。2022年4月27日閲覧。 ^ 「(67853) Iwamura = 2000 WO9」『MPC』。2021年9月12日閲覧。 ^ 岩村 明憲スコアテーブル ^ 2005年度 ヤクルトスワローズ 個人守備成績日本野球機構 ^ EPAN 愛媛県出身の人物一覧 兄弟スポーツ選手一覧 東京ヤクルトスワローズの選手一覧 日本出身のメジャーリーグベースボール選手一覧 東北楽天ゴールデンイーグルスの選手一覧 福島レッドホープスの選手一覧 個人年度別成績 岩村明憲 - NPB.jp 日本野球機構 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register) 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE AKI PROJECT オフィシャルサイト - ウェイバックマシン(2017年6月29日アーカイブ分)(岩村によるチャリティイベントのサイト) 岩村 明憲 Aki Iwamura (aki.iwamura) - Facebook 岩村明憲オフィシャルブログ「AKI 何苦楚魂」 - Ameba Blog(2012年12月12日以降更新停止) 表 話 編 歴 1 岩村明憲(総監督) 77 沖泰司 11 福井優也(選手兼任) 61 若松駿太(選手兼任) 11 福井優也(コーチ兼任) 14 鎌田大輝 17 石川颯 19 小林路春 25 藤田涼太郎 26 阿部優太 29 星野隆成 37 椎野華蓮 43 吉崎篤 46 平原裕士 47 佐藤悠津樹 53 滝田陽光 56 エレラ 61 若松駿太(コーチ兼任) 44 菅原正悟 3 佐藤太紀 4 幸田風揮 6 重田魁士 12 加賀谷千太 23 キム・ヒョンウ 34 松堂秩己 48 藁谷怜桜 50 山田大和 66 片山博視 5 佐藤優悟 9 ジョム・バルデラマ 15 若松悠平 23 田中時織 33 保科圭伸 35 松久颯 52 平山爽太郎 55 三沢大成 表 話 編 歴 岩村明憲 2015 - (2025 - 総監督) 星野おさむ 2021.8.28 - 9.16(代行) 沖泰司 2025 - 表 話 編 歴 1950 藤村富美男 1951 藤村富美男 1952 藤村富美男 1953 与儀眞助 1954 宇野光雄 1955 児玉利一 1956 児玉利一 1957 三宅秀史 1958 長嶋茂雄 1959 長嶋茂雄 1960 長嶋茂雄 1961 長嶋茂雄 1962 長嶋茂雄 1963 長嶋茂雄 1964 長嶋茂雄 1965 長嶋茂雄 1966 長嶋茂雄 1967 長嶋茂雄 1968 長嶋茂雄 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 長嶋茂雄 1972 長嶋茂雄 1973 長嶋茂雄 1974 長嶋茂雄 1975 衣笠祥雄 1976 掛布雅之 1977 掛布雅之 1978 掛布雅之 1979 掛布雅之 1980 衣笠祥雄 1981 掛布雅之 1982 掛布雅之 1983 原辰徳 1984 衣笠祥雄 1985 掛布雅之 1986 レオン 1987 原辰徳 1988 原辰徳 1989 落合博満 1990 バンスロー 1991 山崎隆造 1992 J.ハウエル 1993 江藤智 1994 江藤智 1995 江藤智 1996 江藤智 1997 L.ゴメス 1998 江藤智 1999 L.ゴメス 2000 江藤智 2001 江藤智 2002 岩村明憲 2003 鈴木健 2004 立浪和義 2005 今岡誠 2006 岩村明憲 2007 小笠原道大 2008 村田修一 2009 小笠原道大 2010 森野将彦 2011 宮本慎也 2012 村田修一 2013 村田修一 2014 H.ルナ 2015 川端慎吾 2016 村田修一 2017 宮﨑敏郎 2018 宮﨑敏郎 2019 高橋周平 2020 岡本和真 2021 村上宗隆 2022 村上宗隆 2023 宮﨑敏郎 表 話 編 歴 1972 長嶋茂雄 1973 長嶋茂雄, C.ボイヤー 1974 C.ボイヤー 1975 島谷金二 1976 高田繁 1977 高田繁 1978 掛布雅之 1979 掛布雅之 1980 衣笠祥雄 1981 掛布雅之 1982 掛布雅之 1983 掛布雅之 1984 衣笠祥雄 1985 掛布雅之 1986 衣笠祥雄 1987 原辰徳 1988 原辰徳 1989 W.ロードン 1990 岡崎郁 1991 角富士夫 1992 T.オマリー 1993 石井琢朗 1994 石井琢朗 1995 石井琢朗 1996 江藤智 1997 進藤達哉 1998 進藤達哉 1999 進藤達哉 2000 岩村明憲 2001 岩村明憲 2002 岩村明憲 2003 立浪和義 2004 岩村明憲 2005 岩村明憲 2006 岩村明憲 2007 中村紀洋 2008 中村紀洋 2009 宮本慎也 2010 宮本慎也 2011 宮本慎也 2012 宮本慎也 2013 村田修一 2014 村田修一 2015 川端慎吾 2016 村田修一 2017 鳥谷敬 2018 宮﨑敏郎 2019 高橋周平 2020 高橋周平 2021 岡本和真 2022 岡本和真 2023 宮﨑敏郎 表 話 編 歴 1957 豊田泰光 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 近藤和彦 1961 塩原明 1962 岩下光一 1963 王貞治 1964 K.ハドリ 1965 林俊彦 1966 長嶋茂雄 1967 D.スペンサー 1968 柴田勲 1969 足立光宏 1970 黒江透修 1971 黒江透修 1972 長嶋茂雄 1973 高田繁 1974 山崎裕之 1975 中沢伸二, 外木場義郎 1976 B.ウイリアムス 1977 福本豊 1978 若松勉 1979 水谷実雄 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ 表 話 編 歴 尾藤公 1 下窪陽介 2 高野修平 3 髙塚信幸 4 椎葉厚生 5 宗政徳道 6 吉川昌宏 7 山本省吾 8 林川大希 9 竹沢貞治 10 梅山和希 11 小原慶治 12 阿部真宏 13 岡田淳平 14 宮城卓 15 岩村明憲 16 喜多隆志 17 義積司 18 末定英紀 表 話 編 歴 大田垣耕造 林裕幸 野村収 長崎慶一 杉浦正則 藤田太陽 原田洋 愛敬尚史 森憲久 鈴木学 黒田博樹 前田和之 的場直樹 鈴木輝彦 高根澤力 工藤賢二 阿部真宏 沖原佳典 平馬淳 岩村明憲 玉野宏昌 鷹野史寿 梶山義彦 斉藤宜之 濱中治 川口憲史 表 話 編 歴 89 王貞治 86 鹿取義隆(投手) 84 武田一浩(投手) 87 大島康徳(打撃) 85 辻発彦(内野守備走塁) 88 弘田澄男(外野守備走塁) 11 清水直行 12 藤田宗一 15 久保田智之 18 松坂大輔 19 上原浩治 20 薮田安彦 21 和田毅 24 藤川球児 31 渡辺俊介 40 大塚晶則 41 小林宏之 47 杉内俊哉 61 石井弘寿(途中離脱) 61 馬原孝浩(追加招集) 22 里崎智也 27 谷繁元信 59 相川亮二 1 岩村明憲 2 小笠原道大 3 松中信彦 7 西岡剛 8 今江敏晃 10 宮本慎也 25 新井貴浩 52 川﨑宗則 5 和田一浩 6 多村仁 9 金城龍彦 17 福留孝介 23 青木宣親 51 イチロー 表 話 編 歴 83 原辰徳 72 伊東勤(総合) 71 山田久志(投手) 92 与田剛(投手) 81 篠塚和典(打撃) 63 高代延博(内野守備走塁) 73 緒方耕一(外野守備走塁) 11 ダルビッシュ有 14 馬原孝浩 15 田中将大 16 涌井秀章 18 松坂大輔 19 岩田稔 20 岩隈久志 22 藤川球児 26 内海哲也 28 小松聖 31 渡辺俊介 39 山口鉄也 47 杉内俊哉 2 城島健司 10 阿部慎之助 29 石原慶幸 5 栗原健太(追加招集) 6 中島裕之 7 片岡易之 8 岩村明憲 9 小笠原道大 25 村田修一(途中離脱) 52 川﨑宗則 1 福留孝介 23 青木宣親 24 内川聖一 35 亀井義行 41 稲葉篤紀 51 イチロー 表 話 編 歴 1位:伊藤彰 2位:岩村明憲 3位:山﨑貴弘 4位:小野公誠 5位:副島孔太 日本の野球選手 在アメリカ合衆国日本人の野球選手 愛媛県立宇和島東高等学校出身の野球選手 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 タンパベイ・デビルレイズの選手 タンパベイ・レイズの選手 ピッツバーグ・パイレーツの選手 オークランド・アスレチックスの選手 東北楽天ゴールデンイーグルスの選手 福島レッドホープス及びその前身球団の選手 MLBの日本人選手 NPBオールスターゲーム選出選手 野球日本代表選手 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表選手 2006 ワールド・ベースボール・クラシック選手 2009 ワールド・ベースボール・クラシック選手 ワールド・ベースボール・クラシック優勝選手 日本の野球監督 選手兼任監督 プロ野球チームの経営者 愛媛県出身のスポーツ選手 1979年生 存命人物 Pages using the JsonConfig extension ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 ウィキデータにあるAmeba Blog ID
2024/11/11 10:45更新
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iwamura akinori
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