川崎憲次郎の情報(かわさきけんじろう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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松岡弘: 現役時代の背番号17は、「ヤクルトのエースナンバー」として、松岡の引退後に先発型右腕の川崎憲次郎や川島亮、清水昇(2年目から主に中継ぎ投手として活躍)に引き継がれた(2015年から2018年は、先発型左腕の成瀬善久が着用した)。 高津臣吾: 同年の西武ライオンズとの日本シリーズでは3セーブを挙げる活躍を見せ、第7戦では川崎憲次郎を8回からリリーフし胴上げ投手になった。 落合博満: 中日を代表する投手に代々受け継がれて伝統と化していた“中日のエースナンバーは「20」”という考え方にも否定的で、2004年の川崎憲次郎引退後に入団した中田賢一に20を与えた。 若松勉: 2001年は川崎憲次郎がFAで移籍、ジェイソン・ハッカミーが退団、伊藤智仁・山部太が故障離脱と先発投手陣に深刻な不安を抱えた状態で開幕を迎え、苦戦が予想された。 亀井希生: 2022年7月15日(金曜日、解説:川崎憲次郎)※同年8月14日(日曜日)放送分も担当予定だったが、体調不良で出演をキャンセル。 堀恵子: 夫は元プロ野球選手の川崎憲次郎。 石岡康三: 引退後はヤクルトの一軍投手コーチ補佐(1977年)→二軍投手コーチ(1978年、1980年 - 1985年)→一軍投手コーチ(1979年、1986年 - 1992年)を務め、内藤尚行・川崎憲次郎らを指導して1992年のリーグ優勝に貢献。 竹本孝之: 元プロ野球選手の川崎憲次郎とは親戚にあたる。 古市コータロー: 川崎憲次郎とも対談している。 鮎川義文: 初本塁打:1994年7月24日、対ヤクルトスワローズ16回戦(明治神宮野球場)、4回表に川崎憲次郎から左越ソロ 宇野勝: コーチ時代、2004年の落合監督初優勝の翌日、川崎憲次郎の引退試合で、1回終了後、川崎の胴上げを中日、ヤクルトの両チーム選手がしようとした時、コーチでは宇野のみが飛び出し、しばらくしてから気づいてベンチへ戻っていった。 関根潤三: 主な被害者は内藤尚行、川崎憲次郎の2人。 落合博満: 開幕戦では3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎を開幕投手に起用し、川崎は5失点で降板するも逆転勝ちした。 川越英隆: 2013年まで二軍投手コーチを務め、2014年は一軍投手コーチとしてブルペンを担当していたが、同年の5月3日の西武戦から川崎憲次郎と入れ替わりでベンチ担当になった。 武田航平: 第30回 川崎憲次郎対談インタビュー・前編(2021年6月号) 迫田穆成: しかし、さらに6年後の1988年第70回夏選手権では前述した川本幸生が監督として同校を率い、川崎憲次郎らを擁する津久見、前田幸長・山之内健一を擁する福岡第一等を破って夏6回目の全国制覇に導いている。 尾花高夫: チーム防御率3.69になり、前年7勝の川崎憲次郎が17勝と飛躍した以外は全体的に先発もリリーフも良くなかった。 野村克也: 伊藤は酷使が祟ったのか故障で後半戦を棒に振るが、先発の伊東、西村、この年にカムバック賞を受賞した川崎憲次郎、中継ぎの内藤、8年目でブレイクした山田勉、リリーフエースとして定着した高津らの働きもあり、チームはそのままリーグ優勝。 吉田博之: 1991年6月11日のヤクルト戦(神宮)で川崎憲次郎から移籍後初本塁打を放つが、この一発が現役最後となった。 高木晃次: この年はエース格の石井一久・伊藤智仁・川崎憲次郎らの不調もありそこから一気に先発ローテ入りして大車輪の活躍を続け、結果的にジェイソン・ハッカミーに続き3完封を含め9勝(8敗)のチームの日本人投手最高の成績を残してセ・リーグ投手防御率ベスト10の8傑に入り、規定投球回数にも初めて到達すると言う充実の一年を過ごした。 宮内仁一: 初打点:1990年8月27日、対ヤクルトスワローズ21回戦(阪神甲子園球場)、2回裏に川崎憲次郎から適時二塁打 堀ちえみ: 恵子の夫は元ヤクルトスワローズ・中日ドラゴンズ投手の川崎憲次郎で、川崎とは義理の親戚関係にあたる。 小川泰弘: OBの真中満をして、かつての真中の同僚である川崎憲次郎を彷彿せしめる「ジャイアンツ・キラー」ぶりを発揮し、同年のクライマックスシリーズでの活躍を期待させた。 星野仙一: 2001年は巨人キラーとして名を馳せた川崎憲次郎を獲得して臨んだが、その川崎がオープン戦で早々離脱するなどチームは総崩れ、4年ぶりにBクラスに転落。 西嶋賢司: 佐伯豊南高時代は安藤信二(当時・青野姓)とバッテリーを組み、3年次の夏に4番打者として大分県大会で決勝に進出するが、エース・川崎憲次郎擁する津久見高に敗れ準優勝に終わった。 井川慶: なお同年にはオールスターゲームのファン投票でセ・リーグの先発投手部門にて2位得票ながら選出されたが、これは1位得票の中日・川崎憲次郎が故障により出場を辞退したことによるものである。 阿部和成: 2013年以降は、当時一軍のブルペンコーチを務めていた川崎憲次郎直伝のシュートも、勝負球に用いていた。 吉元伸二: 3年春は九州大会準々決勝で津久見高の川崎憲次郎に完封勝ち。 武田航平: 第31回 川崎憲次郎対談インタビュー・後編(2021年7月号) 秋山拓巳: セントラル・リーグの高卒新人投手による完封勝利は1989年の川崎憲次郎以来21年ぶりで、無四球完封勝利は1988年の野村弘樹以来22年ぶり7人目の快挙だった。 |
川崎憲次郎の情報まとめ
川崎 憲次郎(かわさき けんじろう)さんの誕生日は1971年1月8日です。大分出身の野球選手のようです。
引退、結婚、テレビ、家族に関する情報もありますね。今年の情報もありました。川崎憲次郎の現在の年齢は53歳のようです。
川崎憲次郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 川崎 憲次郎(かわさき けんじろう、1971年1月8日 - )は、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、野球指導者。妻は堀恵子。長女はモデルの川崎琴之。 1988年度のドラフト会議でセントラル・リーグ(セ・リーグ)のヤクルトスワローズから1位指名を受けて入団し、1989年 - 2000年はヤクルトで、2001年 - 2004年は同じセ・リーグの中日ドラゴンズでプレーした。ヤクルト時代は主力投手として活躍し、通算12年間(実働11年間)で234試合に登板して88勝を挙げたが、うち対読売ジャイアンツ(巨人)戦で挙げた勝利数が29に上っていたことから「巨人キラー」と呼ばれた。1998年にはシーズン17勝を挙げてセ・リーグの最多勝投手になり、沢村栄治賞も獲得している。2000年オフにフリーエージェント (FA) で中日に移籍してからも活躍を期待されたが、中日時代は怪我に悩まされて1勝もできず、2004年限りで現役を引退した。 佐伯市立鶴岡小学校・佐伯市立佐伯城南中学校出身。大分県立津久見高等学校3年時の1988年の甲子園大会、第60回選抜高等学校野球大会及び第70回全国高等学校野球選手権大会に春夏連続出場した。特に第70回大会では「今大会NO.1右腕』の称号を提げ3回戦で『今大会NO.1左腕』の篠田淳を要する大垣商に投げ勝つも準々決勝で優勝する広島商と対戦し、0ー5で敗れるものの、春夏連続でベスト8に進出する。同期のチームメイトに佐藤裕幸がいた。 1988年度のドラフト会議で読売ジャイアンツ(巨人)とヤクルトスワローズが1位指名で競合し、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得。後に契約金6000万円・年俸480万円(金額は推定)で合意。背番号は松岡弘の引退後に欠番となっていた17を与えられた。 1989年(1年目)は13試合に先発し、巨人戦での初完封勝利を含む4勝を挙げた。 1990年には先発ローテーションに定着して26試合に先発登板し、投球回202.1、12勝13敗、防御率4.05、奪三振154の成績を残した。また同年は15完投、4完封を記録した。9月8日の対巨人戦(東京ドーム)では、吉村禎章に巨人の優勝を決めるサヨナラ本塁打を浴びた。 1991年は25試合に先発登板して191.2投球回を記録、14勝9敗、防御率2.91、奪三振148の成績を残し、チームにとって11年ぶりとなるAクラス入りに貢献した。同年挙げた14勝は西村龍次(15勝)に次ぐチーム2位で、前年から2年連続となる15完投(3完封)を記録した。 1992年、チームは14年ぶりのセ・リーグ優勝を果たしたものの、自身は故障でシーズン一軍未登板に終わる。 1993年、先発ローテーションに復帰して10勝9敗、防御率3.48、奪三振108の成績でカムバック賞を受賞、西武ライオンズとの日本シリーズでは2勝を挙げシリーズMVPに選出された。 1994年、自身初の開幕投手に抜擢され見事勝利投手になったが、年間通しては不振の投球が目立ち、8月頭に怪我で二軍(イースタン・リーグ)に降格するとそのまま一軍復帰することができないままシーズンを終えてしまった。 1995年に可愛かずみとの交際が発覚する。 その後は故障によって成績が下降したが、1997年にシュートを覚えて復活。以降周囲から「シュート馬鹿」「シュートしかストライクが入らない」と評される程のシュート特化の投手として名を馳せた。シーズンオフの11月にキャンペーンガール・女優の堀恵子と結婚。 1998年は28試合に先発登板して投球回204.1、17勝10敗、防御率3.04、94奪三振の成績を挙げ、セ・リーグの最多勝投手を獲得した。また9完投、3完封、2無四球はいずれもリーグ最多だった。同年オフには沢村賞を贈呈されたが、シーズン奪三振が100未満の投手が沢村賞に選出された事例はNPB史上唯一である。 1999年は24試合に先発登板して7勝11敗、防御率3.85、奪三振79という成績だった。 ヤクルト最終年の2000年は一軍で20試合に登板して8勝10敗、防御率3.55の成績で、対巨人戦では5勝2敗・防御率1.84(投球回数63回2/3)だった。同シーズン終了後にフリーエージェント(FA)権の行使を宣言した当初、川崎本人が考えていた選択肢は「ヤクルト残留」「かねてから憧れていたMLB挑戦」の2択だったが、川崎は宣言後のヤクルト球団の対応に不満を抱き、次第にその心情は移籍に傾いて行った。一方で星野仙一が監督を務めていた中日ドラゴンズはFA宣言と同時に獲得に名乗りを上げ、MLBのボストン・レッドソックスも川崎獲得の意向を示した。 最終的には星野ら中日球団幹部の熱心な呼びかけによりFA宣言から約1週間後には「国内移籍するなら中日にしよう」という意思が強くなり、約1か月後にMLB移籍を断念した段階で中日へ移籍する意思を最終的に固め、12月17日に移籍を表明。契約内容は年俸2億円の4年契約(3年間総額6億円+4年目は本人に選択権あり)だった。同シーズンの中日はリーグ2位ではあったが巨人戦で9勝18敗と大きく負け越しており、同年までに対巨人戦で(当時現役選手としては最多の)通算29勝を挙げていた川崎の「巨人キラー」っぷりを買っての補強で、背番号も杉下茂・権藤博・星野・小松辰雄・宣銅烈らエース級投手たちが背負ってきたエースナンバーである20を引き継いだ。 川崎は中日移籍表明直後(2000年12月20日)に日本プロ野球選手会(JPBPA)を通じて「ヤクルトがMLB・中日から提示された条件を比較・検討して最終的に提示した条件が仮に最初から出ていればFA宣言せず残留していたかもしれない。ヤクルトとの交渉に当たっては最終的に球団社長から謝罪の言葉を受けており、現時点では既にわだかまりはない」とのコメントを掲載している。 中日では星野仙一監督以下首脳陣やファンから大きな期待を掛けられ、本人も「星野監督が望むように『ジャイアンツ・キラー』として(中日の本拠地)ナゴヤドームのマウンドに立ちたい」と抱負を述べていた。2001年の公式ファンブックでも「Vの使者」「川崎が巨人戦であと6勝すれば星野監督の巨人戦通算勝利数(35勝)に並ぶが、それが今年達成されれば中日の(1999年以来)2年ぶりの優勝もより近くなる」と紹介されていたが、同年3月14日のオープン戦・大阪近鉄バファローズ戦で右上腕三頭筋の違和感を訴えて途中降板し、同月23日には長期離脱が発覚する。同年は二軍(ウエスタン・リーグ)でわずか1試合(2イニング)を投げただけで終わり、中日は川崎の離脱に加えて先発投手として計算していた武田一浩・川上憲伸や新外国人(ティム・アンローやオジー・ティモンズ)の不調などから5位に低迷し、星野はシーズン閉幕を待たず9月25日に辞任を表明した。 監督が山田久志に交代した2002年も二軍で3試合に登板したのみ(0勝2敗・防御率9.00)で、2003年は二軍ウ・リーグで13試合に登板し4勝4敗(防御率5.58)の成績を挙げたが、同年まで3年連続で一軍登板なしに終わった。 原因不明の右肩故障に悩まされつつも治療のため全国を歩き整体・鍼・耳ツボなどの治療を試みたほか、右肩のお祓いも受けたが症状は改善せず、2003年にはオールスターゲーム(球宴)のファン投票で「川崎祭」と呼ばれるインターネット上の嫌がらせ騒動に巻き込まれた。これを受け、川崎は同年6月23日に選手会公式ホームページに「多少のケガをおしてプレーしている選手に申し訳ない気持ちでいっぱい。今の状況で出場することはできない。1票1票を自分への叱咤激励だと思って、1日でも早く一軍で投げられるように頑張る」と声明文を掲載し、球宴への出場も辞退した。2003年12月16日には事前の契約条項により年俸25%減(5000万円減)となる年俸1億5000万円で契約を更改したが、その際には「年俸ゼロ円でいいから何とか恩返しがしたい」とつぶやいていた。 2004年1月3日、この年から中日の監督に就任した落合博満は川崎に電話し、4月2日の開幕投手を告げる。川崎は「すべてを賭けるつもりで」この突然の打診を引き受け、痛み止めの座薬・飲み薬を併用して1,274日ぶりの一軍マウンドに臨んだが、開幕戦は初回こそ0点に抑えたものの、その後打ち込まれて1回1/3を5失点で降板したが、チームは逆転勝利したため敗戦投手は免れた。4月30日の対横浜ベイスターズ戦で再び先発するも、1死もとれずに5失点で降板し敗戦。結局、その1敗が中日移籍後の最初で最後の成績となった。2011年に監督を退任した落合は退任会見で監督時代一番印象に残った試合について3年間登板のなかった川崎を開幕投手に指名した一戦を挙げた。同年のウ・リーグにおける成績は、11登板、投球回は48回1/3イニング、防御率3.54、4勝2敗、勝率.667、186打数、43被安打(被本塁打5)、21失点(自責点19)、与四球10、22奪三振だった。最後に挙げた勝利(4勝目)は、6回を投げて22打数3被安打無失点に抑えた8月27日の対阪神タイガース後期7回戦(阪神鳴尾浜球場)だった。 チームの優勝が決まった翌日の10月2日に落合から戦力外通告を受けて現役引退を決意。「引退するなら、明日投げろ」との落合の計らいで、翌10月3日の対ヤクルト戦が引退試合として行われた。先発投手として登板した川崎は、古巣ヤクルトの主力(古田敦也・宮本慎也・岩村明憲)から三者三振を奪い、花道を飾った。試合後、中日・ヤクルト両ナインから胴上げされた。 テレビ東京(2009年まで)、ニッポン放送(2011年まで)、J SPORTS、フジテレビONE(2010年にゲスト解説として出演)の野球解説者となった。 2005年オフに東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任した野村克也から投手コーチ就任を打診されたが、川崎は解説者として少し外側から野球を見たいなという気持ちがあって断ったという。また、テレビ愛知のゲスト解説者として、テレビ愛知 ドラゴンズ戦中継 もっと!LIVE2011で解説を務めることもある。 2013年からは千葉ロッテマリーンズの一軍ブルペンコーチに就任する。就任にあたって登録名を異体字の「川﨑憲次郎」としている。9月4日から体調不良で休養した齊藤明雄に替わりにベンチ担当となり、斉藤が復帰後もベンチを担当した。 2014年、10月5日に球団から来季の契約を結ばないことが発表された。 2015年からはJ SPORTS解説者。 2015年以降、地元・佐伯でケーブルテレビの釣り番組に出演して地元をPR活動していた。それらの近況も含め、2018年2月3日のテレビ東京系『追跡LIVE! Sports ウォッチャー』の密着取材特集で紹介された。 2018年3月7日、四国アイランドリーグplus・香川オリーブガイナーズの投手コーチに就任することが発表された。「主に公式戦に合わせてチームに合流し、指導する」と報じられた。12月12日に今季の契約期間満了をもって退団することが発表された。 2021年3月27日、地元・佐伯市の佐伯中央病院スタジアムでおこなわれた九州アジアリーグ初の公式戦で、始球式に登板した。 歌手・俳優の竹本孝之とは親戚にあたる。 各年度の太字はリーグ最高。 最多勝利:1回(1998年) 沢村栄治賞:1回(1998年) 優秀JCB・MEP賞:1回 (1998年) カムバック賞(1993年) 日本シリーズMVP:1回 (1993年) 初登板:1989年5月9日、対阪神タイガース3回戦(明治神宮野球場)、5回表1死に3番手として救援登板、2回2/3を無失点 初奪三振:同上、5回表に和田豊から 初先発:1989年5月23日、対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)、5回0/3を7失点(自責点5)で敗戦投手 初完投:1989年8月13日、対広島東洋カープ18回戦(広島市民球場)、8回3失点(雨天コールド) 初セーブ:1989年8月17日、対阪神タイガース20回戦(グリーンスタジアム神戸)、6回裏に2番手として救援登板・完了、4回無失点 ※18歳7ヶ月での記録は史上最年少 初勝利:1989年9月2日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、7回1失点 初完投勝利・初完封勝利:1989年9月24日、対読売ジャイアンツ24回戦(明治神宮野球場) 1000投球回:1998年7月14日、対阪神タイガース13回戦(明治神宮野球場)、1回表2死目に桧山進次郎を一塁ゴロ併殺で達成 ※史上277人目 開幕投手:2回 (1994年、2004年) オールスターゲーム出場:4回 (1990年、1991年、1998年、2000年) 17 (1989年 - 2000年) 20 (2001年 - 2004年) 84 (2013年 - 2014年) 81 (2018年) 川崎 憲次郎 (かわさき けんじろう、1989年 - 2004年、2018年) 川﨑 憲次郎 (かわさき けんじろう、2013年 - 2014年) 『野村「ID」野球と落合「オレ流」野球』(KKロングセラーズ:2012年12月) ISBN 978-4-845-42266-1 『小・中学生のための最強エース育成バイブル』(ベースボール・マガジン社、2008年9月、ISBN 9784583615554) 『少年野球上達パーフェクトマニュアル』(元木大介共監修、ベースボール・マガジン社、2010年5月、ISBN 9784583102603) 『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』(美山和也・加藤慶・田口元義共著、宝島SUGOI文庫、2012年5月、ISBN 9784796697262) テレビ愛知 ドラゴンズ戦中継 もっと!LIVE2011(テレビ愛知) 野球好きニュース(J SPORTS、2010年 - 2012年) ニッポン放送ショウアップナイター(2005年 - 2011年) 全力闘球(テレビ東京、2005年 - 2009年) メガスポ!(テレビ東京) neo sports(テレビ東京) SWALLOWS BASEBALL L!VE(フジテレビONE。2010年6月6日、9月9日にゲスト解説として出演) 競馬場の達人(グリーンチャンネル、2015年5月10日) 川崎漁業組合(ケーブルテレビ佐伯、GAORA) 追跡LIVE! Sports ウォッチャー(テレビ東京、2018年2月3日)「Human Watcher」 爆報! THE フライデー(TBS、2018年2月16日) ^ 川崎は、1989年に吉村が大怪我から復帰した初打席にも投球し、内野ゴロに打ち取っている。 ^ レッドソックス以外にもクリーブランド・インディアンス、フィラデルフィア・フィリーズ、シカゴ・カブス、コロラド・ロッキーズが獲得に名乗りを上げていたが、特にレッドソックスは最終的な提示条件で2年契約・最低保障金5億円と熱心に勧誘しており、川崎本人も「『アメリカに行くならここ(レッドソックス)にしよう』と思った。家族もMLB挑戦を全面的にサポートする準備をしてくれていたが、自分を含め家族全員の幸せを考えて『日本残留の方がベターだ』と考え断念した」と述べている。 ^ 入団当初は3年契約と発表されていたが、実質的には4年目の契約について川崎にオプション契約の選択権がある契約だった。なお出来高の権利は2003年オフの契約更改で本人が放棄している。 ^ 1997年 - 1999年の中日は巨人戦で3年連続で勝ち越しを記録していたが、2000年は本拠地ナゴヤドームで2勝12敗と大幅に負け越した。 ^ 1999年オフにそれまで背番号20を着用していた宣が引退しており、2000年シーズンは1年間空き番号となっていた。 ^ その条件は若松勉監督やコーチ・選手全員が球団に「川崎残留」を強く要望した結果出されたものだった。なお一部では「川崎側が3年12億円契約を要求した」と報道されたが、本人は「そこまで無謀な条件は望んでいなかった」と否定している。 ^ 2001年5月12日にナゴヤ球場で開かれた対サーパス神戸(オリックス・ブルーウェーブの二軍)6回戦にて先発登板したが、2回を投げ7打数2被安打で2番手投手・中里篤史に交代し降板した。 ^ 同年6月25日に開催されたウ・リーグの対近鉄前期8回戦(藤井寺球場)で、シーズン初先発登板し、5回1失点(打者18人に66球を投げ、被安打2)で移籍後初勝利を挙げている。 ^ 後に落合は「投手コーチに話をせずに(川崎を)開幕投手を決めたのは、あの一度きりだ」と語っている。落合は川崎の開幕起用理由について「補強なしの全選手横一線のチームに刺激を与えることと、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめること」と後に語っている。 ^ 関東地方の試合を中心として不定期出演だが、年に1度だけ、ナゴヤドーム主催試合で行われる「ゆかたデー」開催日に担当する事が多い(川崎自身も浴衣姿で解説を務めたことがある)。 ^ 基本的にセ・パ問わず裏送り中継での出演が中心で、本番を担当するのは年に数試合と非常に少なかった。2011年のシーズンは裏送り・予備のみで本番カードの出演はなかった。中日OBであることから、東海ラジオ ガッツナイターの裏送り制作時は解説者として出演することが多く、テレビ愛知のゲスト解説者でもあることから、テレビ愛知が関東の試合などを中継した翌日などに出演することもある。 ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、170ページ ^ "元ヤクルト川崎憲次郎氏の素顔 娘のモデル・琴之が明かす溺愛ぶり「同級生6人との食事に父も」". ENCOUNT. 株式会社Creative2. 22 August 2024. 2024年8月22日閲覧。 ^ 中日ドラゴンズ 2001, p. 18. ^ 中日ドラゴンズ 2001, p. 20. ^ Company, The Asahi Shimbun. “好投手と投げ合う津久見・川崎、スーパープレーが救った - 投票!甲子園ベストゲーム47 | 高校野球(甲子園):バーチャル高校野球 | スポーツブル (スポブル)”. バーチャル高校野球. 2021年9月11日閲覧。 ^ 『朝日新聞』1988年12月4日付朝刊 (14版、27面) ^ 焼肉は1回10万円以上。川崎憲次郎が明かす「プロ野球とお金」の話 ^ 『朝日新聞』1993年11月2日付朝刊 (14版、25面) ^ 「早世のマドンナたち② 可愛かずみ(3)」『アサ芸+』、徳間書店、2012年7月9日、2013年6月28日閲覧。 ^ 打者も恐れる攻めの変化球・シュート 最高の使い手は?【フルタの方程式AWARDS】 フルタの方程式【古田敦也 公式チャンネル】2022/01/25 (YouTube、2022年3月19日閲覧) ^ ホームラン 2001, p. 47. ^ 川崎憲次郎 (2000年12月20日). “中日ドラゴンズへFA移籍した川崎憲次郎投手から~ファンの皆さんへ”. 日本プロ野球選手会 公式ホームページ. 日本プロ野球選手会. 2003年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月2日閲覧。 ^ 『朝日新聞』2000年12月3日付朝刊 (14版、19面) ^ ベースボール・マガジン社 2001, p. 37. ^ 島田明「川崎、「捨て身ではい上がる!!」 25%減の1億5000万円でサイン、出来高放棄」『中日スポーツ』中日新聞社、2003年12月17日。オリジナルの2004年12月10日時点におけるアーカイブ。2020年2月4日閲覧。 ^ 青山卓司「川崎、「どんな条件でも判」 勝負の4年目 「投げられるだけで幸せ」」『中日スポーツ』中日新聞社、2003年11月28日。オリジナルの2004年12月9日時点におけるアーカイブ。2020年2月4日閲覧。 ^ 桃園書房 2006, p. 81. ^ ベースボール・マガジン社 2001, pp. 40–41. ^ ベースボール・マガジン社 2001, p. 743. ^ 手塚宣武 編『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2002』 第26巻第3号(通算264号)、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2002年3月号増刊〉、2002年3月31日、97頁。 ^ ベースボール・マガジン社 2001, pp. 16–17. ^ 手塚宣武 編『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2003』 第27巻第3号(通算270号)、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2003年3月号増刊〉、2003年3月29日、65頁。 ^ 『中日新聞』2003年6月26日朝刊第12版第一スポーツ面「川崎が今季初先発 5回1失点、白星 ウエスタン・リーグ」(中日新聞社) - 『中日新聞』縮刷版 2003年(平成15年)6月号1167頁。 ^ 手塚宣武 編『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2004』 第28巻第3号(通算278号)、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2004年3月号増刊〉、2004年3月29日、49頁。 ^ 月刊ドラゴンズ & 2004-11, p. 13. ^ 「日めくりプロ野球 2012年6月 【6月17日】2003年 球宴中間発表 登板なしの川崎憲次郎 ファン投票1位のナゾ」『スポーツニッポン』スポーツニッポン新聞社、2012年6月17日(原著2003年6月17日)。オリジナルの2020年3月2日時点におけるアーカイブ。2020年3月2日閲覧。 ^ 川崎憲次郎 (2003年6月23日). “中日ドラゴンズ川崎憲次郎選手から~オールスターのファン投票について”. 日本プロ野球選手会 公式ホームページ. 日本プロ野球選手会. 2003年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月2日閲覧。 ^ 『中日新聞』2003年7月2日夕刊第10版第二社会面10頁「川崎やはり球宴辞退 ファン投票1位、自分への激励 『実績ある選手の出る場所』」(中日新聞社) ^ 月刊ドラゴンズ & 2004-11, pp. 13–14. ^ 森繁和著、参謀―落合監督を支えた右腕の「見守る力」講談社、2012年、P54-P55,P58 ^ ““悔幕”川崎「入れ込みすぎた」 1274日ぶり1軍登板”. 中日スポーツ (2004年4月3日). 2004年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月11日閲覧。 ^ 月刊ドラゴンズ & 2004-11, p. 14. ^ “落合劇場、開幕白星スタート ビックリ 川崎先発、5点差大逆転”. 中日スポーツ (2004年4月3日). 2005年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月11日閲覧。 ^ “川崎まだ投げさせる 1死も取れずKOそれでも 落合監督”. 中日スポーツ (2004年5月1日). 2004年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月11日閲覧。 ^ “落合博満、野村克也、原辰徳 まさかの奇策も…名将たちは“初の開幕戦”でどんな采配を見せたのか”. デイリー新潮 (2022年3月13日). 2022年4月11日閲覧。 ^ 『ベースボール・レコード・ブック2005』ベースボール・マガジン社、2004年12月25日第1版第1刷発行、765頁。ISBN 978-4583038339。 ^ 『ベースボール・レコード・ブック2005』ベースボール・マガジン社、2004年12月25日第1版第1刷発行、777頁。ISBN 978-4583038339。 ^ 川崎憲次郎が今も忘れない落合監督の「オレの仕事は選手のクビを切ること」発言と引退試合で流してくれた涙 Sportiva(水道博)、2022年9月26日、同日閲覧 ^ [虎四ミーティング]川崎憲次郎(プロ野球解説者)<後編>「“怖さ”の松井と“嫌らしさ”の川相」 - 2012年3月23日 ^ 川崎憲次郎氏 一軍ブルペンコーチ就任のお知らせ - 2012年10月31日 ^ コーチとの来季契約についてロッテ球団公式サイト2014年10月5日配信 ^ SPORTS ウォッチャー プロ野球キャンプ 中畑清が舞台裏潜入取材!(他) 2018/02/03(土)23:00放送 テレビ東京 TVでた蔵 ^ 香川OG 新コーチ就任のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2018年3月7日) ^ “香川OG 投手コーチに川崎氏(元ヤクルト)元広島、天野氏(高松市出身)も”. 四国新聞. (2018年3月8日). https://www.shikoku-np.co.jp/sports/iblj/20180308000146 2018年3月9日閲覧。 ^ 香川OG 川崎憲次郎投手コーチ退団のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2018年12月12日) ^ “大分B-リングス ホーム開幕戦飾れず”. テレビ大分. (2021年3月27日). https://www.tostv.jp/news/7812.html 2021年3月28日閲覧。 ^ saiki.tvの投稿(1587879841332484) - Facebook 『中日ドラゴンズ 2001ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、2001年3月9日、64頁。ISBN 978-4806204251。 手塚宣武 編『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2001』 第25巻第2号(通算258号)、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2001年3月号増刊〉、2001年3月31日、47頁。 ベースボール・マガジン社編集 編『ベースボール・レコード・ブック 2002』(第1版第1刷発行)ベースボール・マガジン社(発行人:池田哲雄)〈日本プロ野球記録年鑑〉、2001年12月25日、16-17,37,40-41,743頁。ISBN 978-4583036779。 文・寺西雅広(著)、三輪侑弘(編)「古巣相手ラストマウンド 川崎万感」『月刊ドラゴンズ』通巻第259号2004年11月号、中日新聞社、2004年11月1日、12-15頁。 佐々木だんきち「実録・川崎憲次郎物語~ドラゴンズ風雲編~」『中日力-なぜ中日は強いのか!?』45号、桃園書房〈TOEN MOOK〉、2006年10月15日、80-84頁。ISBN 978-4807842698。 大分県出身の人物一覧 東京ヤクルトスワローズの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 川崎祭 個人年度別成績 川崎憲次郎 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube 川崎憲次郎 (@kenjiroh17) - X(旧Twitter) 川崎憲次郎 (@kenjirohkawasaki) - Instagram 表 話 編 歴 1947 別所昭 1948 中尾碩志 1949 藤本英雄 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 杉下茂 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 金田正一 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 小山正明 1963 伊藤芳明 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実, 堀内恒夫 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 星野仙一 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 小林繁 1978 松岡弘 1979 小林繁 1981 西本聖 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990 野茂英雄 1991 佐々岡真司 1992 石井丈裕 1993 今中慎二 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 西口文也 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2001 松坂大輔 2002 上原浩治 2003 井川慶, 斉藤和巳 2004 川上憲伸 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010 前田健太 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 前田健太 2016 K.ジョンソン 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2020 大野雄大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 南村不可止 1952 別所毅彦 1953 川上哲治 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 近藤昭仁 1961 宮本敏雄 1962 土橋正幸, 種茂雅之 1963 長嶋茂雄 1964 J.スタンカ 1965 長嶋茂雄 1966 柴田勲 1967 森昌彦 1968 高田繁 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 弘田澄男 1975 山口高志 1976 福本豊 1977 山田久志 1978 大杉勝男 1979 高橋慶彦 1980 J.ライトル 1981 西本聖 1982 東尾修 1983 大田卓司 1984 長嶋清幸 1985 R.バース 1986 工藤公康 1987 工藤公康 1988 石毛宏典 1989 駒田徳広 1990 O.デストラーデ 1991 秋山幸二 1992 石井丈裕 1993 川崎憲次郎 1994 槙原寛己 1995 T.オマリー 1996 T.ニール 1997 古田敦也 1998 鈴木尚典 1999 秋山幸二 2000 松井秀喜 2001 古田敦也 2002 二岡智宏 2003 杉内俊哉 2004 石井貴 2005 今江敏晃 2006 稲葉篤紀 2007 中村紀洋 2008 岸孝之 2009 阿部慎之助 2010 今江敏晃 2011 小久保裕紀 2012 内海哲也 2013 美馬学 2014 内川聖一 2015 李大浩 2016 B.レアード 2017 D.サファテ 2018 甲斐拓也 2019 Y.グラシアル 2020 栗原陵矢 2021 中村悠平 2022 杉本裕太郎 2023 近本光司 2024 桑原将志 表 話 編 歴 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 大友工, 長谷川良平 1956 別所毅彦 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 藤田元司 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 権藤博 1963 金田正一 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1971 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 江夏豊 1974 松本幸行, 金城基泰 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 高橋里志 1978 野村収 1979 小林繁 1980 江川卓 1981 江川卓 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1984 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 小松辰雄 1988 小野和幸, 伊東昭光 1989 斎藤雅樹, 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 斎藤雅樹 1993 今中慎二, 山本昌広, 野村弘樹 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹, B.ガルベス 1997 山本昌 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2000 M.バンチ 2001 藤井秀悟 2002 上原浩治, K.ホッジス 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 下柳剛, 黒田博樹 2006 川上憲伸 2007 S.グライシンガー 2008 S.グライシンガー 2009 吉見一起, 館山昌平 2010 前田健太 2011 吉見一起, 内海哲也 2012 内海哲也 2013 小川泰弘 2014 R.メッセンジャー, 山井大介 2015 前田健太 2016 野村祐輔 2017 菅野智之 2018 大瀬良大地, 菅野智之 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 青柳晃洋, 九里亜蓮 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1974 石岡康三 1975 安仁屋宗八 1976 船田和英 1977 浅野啓司 1978 野村収 1979 三村敏之 1980 谷沢健一 1981 藤田平 1984 鈴木孝政 1986 津田恒実 1987 杉浦享, 新浦壽夫 1988 有田修三 1989 西本聖, 中尾孝義 1990 吉村禎章, 遠藤一彦 1992 伊東昭光 1993 川崎憲次郎 1994 彦野利勝 1996 加藤伸一 1997 伊藤智仁 1998 斎藤隆 1999 遠山奬志 2000 種田仁 2001 成本年秀 2002 前田智徳 2003 平井正史, 鈴木健 2004 小久保裕紀 2008 平野恵一 2012 大竹寛 2015 館山昌平 2017 岩瀬仁紀 2018 松坂大輔 表 話 編 歴 1936春夏 牧野潔 1936秋 加藤智男 1937春 森井茂 1937秋 森井茂 1938春 松尾幸造 1938秋 森井茂 1939 松尾幸造 1940 村松幸雄 1941 森井茂 1942 河村章 1943 松尾幸造 1944 森井茂 1946 森井茂 1947 松尾幸造 1948 服部受弘 1949 服部受弘 1950 清水秀雄 1951 近藤貞雄 1952 大島信雄 1953 杉下茂 1954 石川克彦 1955 石川克彦 1956 杉下茂 1957 伊奈努 1958 中山俊丈 1959 伊奈努 1960 伊奈努 1961 板東英二 1962 柿本実 1963 河村保彦 1964 河村保彦 1965 柿本実 1966 山中巽 1967 小川健太郎 1968 小川健太郎 1969 小川健太郎 1970 小川健太郎 1971 伊藤久敏 1972 水谷寿伸 1973 稲葉光雄 1974 星野仙一 1975 松本幸行 1976 星野仙一 1977 松本幸行 1978 星野仙一 1979 星野仙一 1980 藤沢公也 1981 三沢淳 1982 小松辰雄 1983 小松辰雄 1984 鈴木孝政 1985 小松辰雄 1986 郭源治 1987 杉本正 1988 小松辰雄 1989 小野和幸 1990 西本聖 1991 小松辰雄 1992 郭源治 1993 今中慎二 1994 今中慎二 1995 今中慎二 1996 今中慎二 1997 山本昌 1998 山本昌 1999 川上憲伸 2000 野口茂樹 2001 山本昌 2002 山本昌 2003 川上憲伸 2004 川崎憲次郎 2005 川上憲伸 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 川上憲伸 2009 浅尾拓也 2010 吉見一起 2011 M.ネルソン 2012 吉見一起 2013 吉見一起 2014 川上憲伸 2015 山井大介 2016 大野雄大 2017 大野雄大 2018 小笠原慎之介 2019 笠原祥太郎 2020 大野雄大 2021 福谷浩司 2022 大野雄大 2023 小笠原慎之介 2024 柳裕也 表 話 編 歴 1950 成田敬二 1951 田原基稔 1952 金田正一 1953 宮地惟友 1954 金田正一 1955 金田正一 1956 金田正一 1957 田所善治郎 1958 金田正一 1959 金田正一 1960 金田正一 1961 北川芳男 1962 金田正一 1963 金田正一 1964 金田正一 1965 村田元一 1966 渋谷誠司 1967 村田元一 1968 石戸四六 1969 河村保彦 1970 石岡康三 1971 松岡弘 1972 松岡弘 1973 松岡弘 1974 松岡弘 1975 松岡弘 1976 松岡弘 1977 松岡弘 1978 安田猛 1979 松岡弘 1980 鈴木康二朗 1981 松岡弘 1982 鈴木康二朗 1983 尾花高夫 1984 高野光 1985 梶間健一 1986 荒木大輔 1987 荒木大輔 1988 尾花高夫 1989 尾花高夫 1990 内藤尚行 1991 内藤尚行 1992 西村龍次 1993 西村龍次 1994 川崎憲次郎 1995 岡林洋一 1996 T.ブロス 1997 T.ブロス 1998 石井一久 1999 石井一久 2000 石井一久 2001 石井一久 2002 藤井秀悟 2003 K.ホッジス 2004 J.ベバリン 2005 石川雅規 2006 石川雅規 2007 石井一久 2008 石川雅規 2009 石川雅規 2010 石川雅規 2011 石川雅規 2012 石川雅規 2013 館山昌平 2014 小川泰弘 2015 小川泰弘 2016 小川泰弘 2017 石川雅規 2018 D.ブキャナン 2019 小川泰弘 2020 石川雅規 2021 小川泰弘 2022 小川泰弘 2023 小川泰弘 2024 サイスニード 表 話 編 歴 1位:川崎憲次郎 2位:岡幸俊 3位:笘篠賢治 4位:幸田正広 5位:関根毅 6位:天野武文 VIAF 日本 議論が行われているページ 日本の野球選手 大分県立津久見高等学校出身の野球選手 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 最多勝利 (NPB) カムバック賞 (NPB) 沢村栄治賞 NPBオールスターゲーム選出選手 野球解説者 日本の野球指導者 千葉ロッテマリーンズ関連人物 香川オリーブガイナーズ 大分県出身のスポーツ選手 1971年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/17 18:56更新
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