もしもし情報局 > 1935年 > 6月29日 > 野球選手

野村克也の情報 (のむらかつや)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

野村克也の情報(のむらかつや) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

野村 克也さんについて調べます

■名前・氏名
野村 克也
(読み:のむら かつや)
■職業
野球選手
■野村克也の誕生日・生年月日
1935年6月29日 (年齢84歳没)
亥年(いのしし年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
京都出身

(昭和10年)1935年生まれの人の年齢早見表

野村克也と同じ1935年生まれの有名人・芸能人

野村克也と同じ6月29日生まれの有名人・芸能人

野村克也と同じ出身地京都府生まれの有名人・芸能人


野村克也と関係のある人

福嶋久晃: 捕手としての福嶋について、評論家時代の野村克也は「一生懸命やってはいるのだろうが、くるタマだけを捕っている。


渡邉恒樹: 2006年は、監督就任直後の野村克也から「オープン戦で自分からマウンドへ行って投手交代を告げるのは初めて」と言われるほど結果を残せず、二軍スタートとなる。


柴田猛: 当時は野村克也が全盛期であり、柴田は高橋博士・元田昌義と共に野村の控え捕手であったが、野村からの信頼が厚かった。


伊原春樹: ニッポン放送の解説者時代、中継開始前に野村克也の物まねをしたこともある。


愛甲猛: この時、野村克也監督のヤクルトスワローズも獲得に動いていた。


鶴岡一人: 小原の没後、球団上層部は大幅な財政緊縮を図るようになり、野村克也・広瀬叔功ら主力選手との間で年俸闘争が相次いでいた。


山本昌広: なお、この登板で実働27年となり、野村克也・中嶋聡を抜き、歴代記録の単独2位となる(同年中嶋も9月28日にシーズン初出場を果たして2位タイに並ぶ)。


関川浩一: 2006年シーズンは野村克也が監督に就任。


定詰雅彦: 1999年、監督が吉田義男から野村克也に交代すると、起用構想から外れた。


金田正一: なお、重光オーナーは金田の後任候補として前年オフに南海を解雇された野村克也を入団させており、選手兼任監督として就任要請をするも、野村は尊敬していた金田の代わりは恐れ多いと固辞し、退団。


杉本なつみ: 野村克也が阪神タイガースの一軍監督に就任した1999年4月からは、同球団の情報番組『なにぬねノムさん』(土曜11:00 - 11:30)に半年間出演。


檜山進次郎: 1999年は野村克也が監督が就任し、開幕に出遅れたことや不振などもあり、出場試合は95試合に留まり、2000年にはトニー・タラスコらとのレギュラー争いに敗れ代打要員となった。


尾花高夫: (「Sports Graphic Number」 751号(創刊30周年特別編集「プロ野球 人間交差点 2010」野村克也 × 尾花高夫 対談より)


門田博光: 1971年に31本塁打、120打点で打点王になった頃から一発狙いの強振が目立ち始め、見かねた野村克也監督が、王貞治に協力を頼んで「ヒット打ちに行くのが基本。


沖原佳典: 当初は野村克也が命名したF1セブンの一員として知られていた。


辻恭彦: 捕手で実働22年は、中嶋聡の29年、谷繁元信の27年、野村克也の26年、八重樫幸雄の23年に次ぐ記録である。


今井雄太郎: 初先発した1972年5月18日の対南海戦では、2回の二死満塁からトリプルスチール(三塁走者は野村克也)を決められる経験もしている。


梨田昌孝: この年4位になったことで、梨田は監督として全順位を経験した(全順位経験監督には梨田の他に吉田義男、野村克也、長嶋茂雄、王貞治、星野仙一がいる)。


渡辺進: 2000年から2005年までチーフコーチを務め、関根潤三・野村克也・若松勉の3監督に仕え、5度のリーグ優勝と4度の日本一に貢献した。


田中将大: また、4月14日の対千葉ロッテマリーンズ戦で1失点完投、4月22日のロッテ戦で完封、4月29日の対日本ハム戦で野村克也の監督通算1500勝目となる1失点完投と、1993年の小宮山悟、長谷川滋利以来となる開幕から4試合連続完投勝利を記録し、自身初の月間MVPに選出された。


木元邦之: 3年時には関西でTV中継されていた試合を観た当時阪神の野村克也監督がその打撃に注目し、新聞各紙に記事が掲載された。


根本陸夫: さらにロッテを自由契約となった野村克也も獲得。


ジェシー=バーフィールド: その後、当時ヤクルトスワローズ監督の野村克也がその強肩と長打力を高く評価して獲得に動き、12月14日に一旦入団が内定したが、メジャー球団(ヒューストン・アストロズ)との二重契約問題が発生したため12月27日に獲得を断念した。


星野仙一: 前年優勝チームの最下位は史上5度目で、星野は飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁、野村克也に次いで史上6人目の両リーグで最下位の監督となった。


稲尾和久: 野村克也は稲尾について、「大勢ピッチャーがいるなかでも、『アンパイアを自分のペースに巻き込んでいく』というのは、稲尾だけ。


矢野燿大: 阪神での現役時代に星野の前任監督・野村克也から読書を勧められたことをきっかけに、読書の重要性を認識したことから、若手選手にも自主的に考えながら本を読むことを勧めている。


北川博敏: 2000年には野村克也監督の息子・カツノリが加入したこともあり、出場機会に恵まれず7打数無安打に終わった。


大野雄次: ^ セ3球団を渡り歩いた“代打の切り札”大野雄次さんの告白 巨人を出された原因は長嶋一茂、引退を決意して野村克也監督から送られた言葉 デイリー新潮 2024年1月28日


小鶴誠: 51本塁打は1963年に野村克也(52本)に破られるまでは日本プロ野球記録で、1964年に王貞治(55本)に破られるまではセ・リーグ記録であった。


河村英文: また、野村克也のプロ初打席(1954年6月17日)の対戦投手は河村である。


野村克也の情報まとめ

もしもしロボ

野村 克也(のむら かつや)さんの誕生日は1935年6月29日です。京都出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

経歴、選手としての特徴などについてまとめました。引退、結婚、テレビ、卒業、母親、解散、現在に関する情報もありますね。84歳で亡くなられているようです。

野村克也のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

野村 克也(のむら かつや、1935年〈昭和10年〉6月29日 ‐ 2020年〈令和2年〉2月11日)は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家。後妻にタレントの野村沙知代。

プロ野球史における屈指の名打者・名捕手・名監督として知られ、選手と監督の両方で3000試合(いずれも歴代2位)を達成した唯一の人物。当時歴代最多のシーズン52本塁打、戦後初の三冠王をはじめとする数々の記録を打ち立て、実働26年でベストナインを19回獲得(歴代最多)、オールスターゲームに21回出場(歴代最多)。監督としても24年間(うち選手兼任8年)で歴代2位の試合数を重ね、数多の人材と名言を遺した。

NPB戦後初(史上2人目)の三冠王を達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)。本塁打王9回、打点王7回、最優秀選手5回は歴代2位かつパ・リーグ最多記録(歴代1位はいずれも王貞治)。NPB最多記録として、通算打席数、通算打数、通算犠飛数、通算併殺打数、ベストナイン19回がある。オールスターゲーム21回出場も歴代最多。歴代2位の記録は出場試合数(1位は谷繁元信)、通算安打数(1位は張本勲)、通算本塁打数(1位は王貞治)、通算打点数(1位は王貞治)、通算塁打数(1位は王貞治)。

野球選手としての現役生活は1954年から1980年の27年間にわたり、南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレーした。うち1970年から1977年の8年間は南海で選手兼任監督を務め、初年度の1970年は選手として全試合に出場し42本塁打114打点を記録。1972年には7度目の打点王となる。1973年にはパ・リーグ優勝監督となるとともに選手として5度目のシーズンMVPに輝いた。兼任の8年間で放った本塁打は200本に上る。

監督として、3204試合(歴代2位)で1565勝(歴代5位)1563敗(歴代最多)を記録。このうち「平成」(1989年1月8日 - 2019年4月30日)期間の勝利数1053は同時代における最多記録。シーズン優勝5回は歴代9位、日本一3回は歴代6位。

選手引退後は1990年から1998年までヤクルトスワローズ、1999年から2001年まで阪神タイガース、2003年から2005年まで社会人野球のシダックス、2006年から2009年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた。2010年から2012年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督。2010年から亡くなるまでサンケイスポーツの野球評論家。日本体育大学客員教授も務めた。京丹後市名誉市民。

捕手を務めながら通算RCWINでも歴代5位を記録した球史に残る名選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」と自負している。選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献した。

愛称は「ノム」(ノムやん・ノムさん)「ムース」。血液型はB型。「ムース」とはロッキー山脈に生息する「ヘラジカ」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」ことから名づけた。また「和製ベーブ」とも呼ばれた。

生涯で二度結婚しており、2人目の配偶者が野村沙知代(2017年死別)である。沙知代との間に息子・野村克則がいる。前妻との間にも息子が1人いる。継子(沙知代の連れ子)に団野村、ケニー野村がいる。

生前、自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐していた通り、幼少の時から亡くなる直前まで、第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、執筆活動など数え切れないほどの仕事をこなすなど、仕事に対する執着心は非常に強かった。現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代2位の出場数(3017試合)を記録し、8年間にわたって選手兼任監督も務めた。

晩年の所属事務所はエフエンタープライズで、継子の団野村が運営するKDNスポーツジャパンがマネジメント代行を行っていた。

経歴

プロ入り前

1935年6月29日、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)に野村要市・ふみ夫妻の次男として生まれる。父の要市は熊野郡下佐濃村(現:京丹後市)の生まれで、網野に出て食料品店「野要」を営んでいた。

ところが、日中戦争に出征した父・要市が1938年11月26日に武漢の野戦病院で戦病死し、さらに母・ふみが1943年に子宮癌、翌1944年に大腸癌を患ってしまう。母は一命をとりとめたものの、手術費用を支払うために店舗兼住宅を売却したことで「野要」は廃業に追い込まれ、一家はたちまち貧困状態に陥ってしまった。その間、野村は兄・嘉明と共に父方の祖父・安治郎に預けられて下佐濃に居たが、母の退院後に一家は網野に戻って借家住まいを始めた。母は戦中は看護師、戦後は丹後ちりめんの織工として働き、また祖父の安治郎が米を分けてくれたため何とか生きていくことはできたが、傷んだ狭小な借家での苦しい耐乏生活を強いられた。そこで野村は家計を少しでも助けるため、網野に戻った小学3年生の頃から兄と共に新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをした。

そうした生活の中で野村が興味を抱いたのは野球だった。ただし金銭的余裕が全く無かったので、古雑誌をもらって来てはプロ野球の大スターであった赤バットの川上哲治・青バットの大下弘らの写真を見て学び、またバットも買えないため、海水を一升瓶に詰めて持ち帰り素振りをしていたという。中学2年生で野球部に入ると、体が大きかったので捕手に回され、3年生の時には奥丹後地方予選で優勝。京都府大会でも四強に入り、青年団の補強選手にもなった。家の経済事情もあり、野村は中学卒業と同時に室町の呉服店に就職するつもりでいたが、兄から高校進学を勧められる。野村は兄の通う京都府立峰山高等学校の工業化学科に合格したものの、母からは学業成績が優秀な兄を大学へやるから、中学卒業後は働くようにと言われる。しかし、兄が野村を高校へ進学させるために大学進学を断念して就職し、さらに野村が奨学金をもらえるように同校の野球部長をしていた教員の清水義一に頼み込んでくれた事もあり、野村は高校に進学することができた。

峰山高校の体育教師(糸井嘉男の祖父)は高校時代の野村を「あんな運動神経の発達した生徒はちょっとありません。排球をやらせたって、他の生徒とは群を抜いていますよ。あれなら水泳だって、柔道だってこなすでしょうし、角力取りにでもなれるかも知れません」と評している。野村は1年生からレギュラー捕手となったが、峰山高校は甲子園など夢のまた夢という学校で、野村の在学中も3年生の時に京都府予選の3回戦まで進んだのが最高と、とてもプロ野球のスカウトが訪れるような環境ではなかったため、清水は野村のために各球団の監督に手当たり次第に推薦状を送った。その中で南海ホークスの鶴岡一人(当時は山本姓)監督だけが返事をくれ、2年生だった1952年7月24日に西京極球場で行われた府予選1回戦(対花園高校)で、約束通り観戦に来た鶴岡の見守る中、野村は本塁打を放った。試合後に鶴岡は、富永嘉郎スカウトを介して「三年辛抱する気があるなら、毎年秋に入団テストを実施するので、その時に彼を寄越して下さい」と清水に伝えた。

3年生になった野村は、たまたま巨人のテスト生を募集する新聞広告を見つける。野村は巨人の入団テストを受けるつもりでいたが、清水から監督さんが約束通り見に来て下さった南海の入団テストを受けるようにと言われて南海のテストを受験し、9月に一次テスト、11月に二次テストを受け、合格が決定した。遠投のテストは自信が無かったが二軍選手でテストを手伝っていた河知治に「もっと前に行け(前で投げろ)」と言われ合格基準を超える事が出来た。ところが既に就職活動で鐘紡と国鉄(福知山鉄道管理局)から内定を得ていたこともあり、母と兄はプロ入りに反対した。特に兄は筒井敬三、松井淳の両ベテランに加え、小辻英雄ら有望な若手もいて捕手の層が厚い南海では厳しいのではないかと心配したが、野村の決意は固く、清水も「ダメだったら私が責任を持って就職口を用意します」と取りなしたので、最終的には母も兄もプロ入りに同意した。

現役時代

高校卒業後の1954年、南海にテスト生として入団した。背番号は60。同期入団には宅和本司・戸川一郎・皆川睦雄らがいた。

シーズン序盤に松井と並ぶ主戦捕手の筒井が故障離脱したため、野村はテスト生ながら1年目から小辻や外野手兼任の田中一朗と二番手捕手の座を争うチャンスが巡ってきた。当時の南海は、シーズン中は中百舌鳥球場横の合宿所に一軍選手と二軍選手が同居しており、また関西のパリーグ球団は二軍が別行動で遠征することはなく、一軍と帯同するか本拠地に居るかしたので、二軍に好調な選手がいると即日一軍昇格させることが可能だった。まず6月17日の西鉄戦で代打として一軍戦初出場を果たしたが、この時は清水に手紙で「目がくらんでボールが見えませんでしたし、足がぶるぶる震えて立っていられないくらいでした」と書き送ったほどの極度の緊張状態で三振に終わる。以後は守備からの途中出場が主となり、7月13日の近鉄戦ではスタメンでも起用された。その後、西鉄との優勝争いが終わるとまた出場機会を与えられ、10月20日第二試合の大映戦ではスタメンマスクからのフル出場を果たし、中村大成とのバッテリーで完封を収めた。一方で打撃面では9試合(代打1試合、捕手8試合)の出場で11打数無安打に終わった。

野村は入団から半年後に肩を傷めており、シーズン中は痛みをこらえながらプレーしていたが、オフには二塁への送球ができなくなるほど痛みが悪化しため、一塁手へコンバートされた。2年目の1955年は、春先は肩痛の影響でバットを強く振り切れない状態だったが、この年に発足したウエスタン・リーグで打率2位の成績を残した。しかし一軍での試合出場は無く、シーズンオフに球団事務所で職員から「国へ帰って百姓か土方でもやったらどうだ」と口頭で事実上の戦力外通告を受けたが、野村は「無給でも構いませんから残してください」と必死に食い下がり、職員を根負けさせて残留を勝ち取ったという。ただし、南海在籍時の1953年秋に野村の入団テストの試験官を務めた笠原和夫は、高橋ユニオンズに移籍して選手兼任監督になっていたこの1955年オフに、捕手補強のため鶴岡に野村を譲ってほしいと頼んだが「あいつは将来やれるぞ」と言われて断られたので、かわりに筒井を出してもらったと語っており、鶴岡は球団によるこの戦力外通告を承知していなかった可能性がある。

その頃、翌年2月に春季キャンプを兼ねたハワイ遠征を実施するという計画が発表され、その際に二軍選手からブルペンキャッチャー要員を一名連れて行くという話が聞こえてきた。野村は秋季キャンプで必死に練習して二軍首脳陣へ猛アピールし、その甲斐あって二軍からの推薦でハワイ遠征のメンバーに抜擢された。遠征には補助要員としての参加だったが、ハワイ到着後に正捕手の松井が肩の痛みを訴えて出場を控え、上記のように筒井も高橋へ移籍していたため、捕手に戻った野村にも試合出場の機会が回ってきた。すると野村は打撃でも好成績を残し、また肩の故障の回復具合も良く、結局ハワイ遠征ではほとんどの試合で野村がマスクを被ることになった。野村は1963年にこの時の事情を「松井さんや小辻さんにしても、エキシビジョン・ゲームぐらいは、辛い捕手なんかするより、ベンチに坐っていたほうがいい。いくら打っても野村みたいな二軍捕手に負けるはずがない、と思っていたに違いない」と回想している。観光気分が抜けない一軍選手たちが精彩を欠く中で、生き残りに必死な野村のプレーと練習態度は鶴岡ら首脳陣にも好印象を与えていたが、遠征最終日の夜に円子宏と共にハワイに住む戸川の親類の家に招待されて歓待を受けた際に門限を破ってしまい、野村と戸川・円子の三名は鶴岡に「貴様たちはハワイまで何をしに来たのか!」と一喝されて殴られた(他に宅和と島原輝夫も同様の理由で鶴岡に殴られている)。つかみかけた最大のチャンスを自らの不始末で台無しにしたと思った野村はすっかり落ち込んでいたが、翌日の帰路でウェーク島に寄港中に、鶴岡から「こんどのハワイ遠征は何も収穫はなかった。けどな。お前と野母(得見)だけは収穫やった」と語りかけられた。鶴岡は一連の事情について「野村は入団直後に肩を痛めた。ブルペン捕手の傍ら、打撃を生かすため一塁手をやらせていた。温暖なハワイでのキャンプで肩も回復し、このキャンプの成果となった。高橋ユニオンズの誕生にともなう捕手放出、ハワイの温暖さなど、どれ一つ欠けても後の野村はなかっただろう」と述懐している。

こうして迎えた3年目の1956年には背番号が筒井の着けていた19に変わり、開幕戦から一貫して一軍で起用される。野村は捕球・送球の未熟さが目立ち、チーム内にも野村より守備力に優れた松井を起用して欲しいとする意見が多く、野村も「強打者として買われていたから松井さんからレギュラーを奪えたが、自分が打撃に悪影響のある怪我をすれば、すぐに松井さんに代わってしまう」と思っていた。しかし鶴岡は中心打者として育て上げるために辛抱強く野村を使い続け、前半戦は松井との併用だったが、後半戦は主に野村がスタメンマスクを被りそのまま正捕手に定着した。野村と同時に一軍に抜擢された広瀬叔功もやはり守備難に苦しんでいたが「致命的と言われかねない欠点に目を向けるのではなく、私(広瀬)なら足、ノムやんなら打撃という長所に着目して経験を積ませる」鶴岡の方針で、二人ともエラーをするたびに鶴岡から「このバカたれ!」と怒鳴られながらも、スタメンを外されることなく我慢強く起用してもらったと述懐している。その甲斐あってレギュラー獲得1年目で早くもベストナインに選ばれた。

4年目の1957年には山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。杉浦忠、広瀬叔功、皆川睦雄らと共に南海の黄金時代に大きく貢献した。南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。

1960年に中原宏の紹介で西宮で鉄工所を営む家の娘と見合いをし結婚。翌年には長男が誕生する。夫人は野村の体調管理に気を遣い、特に食事面に関しては年間を通じて献立を計画して夏場に胃腸の調子を崩さないように配慮した。甲子園での阪神戦のたびに西宮の野村邸を訪れて親しく付き合っていた王貞治は、1960年代の野村家の様子を「ボクも家庭もつんなら、ノムさんみたいにのんびりしてるこういう家庭がいいね。(ナイターの為に)二時ごろまで寝てて、奥さんが全部ちゃんとやってくれるんだから。野球だけやってればいいんだからね」と語っており、野村自身もまた1965年5月の『週刊ベースボール』の取材に対して「(夫人の)料理は天下一品やもんね。スタミナつけてバリバリ打つように操縦されてるようなもんや」と語り、同年12月に刊行された初の自著の中でも「僕が安心してプレーできるというのも、家庭というバックボーンのお蔭である」と述べていた。また夫人は、捕手兼四番打者としての重責に思い悩む野村に自家と付き合いのある天台宗の高僧・葉上照澄に相談するよう勧め、これにより野村は精神的なスランプの打開に成功し、以後葉上は野村の後援者となった。

こうして私生活の安定を得た野村は、迎えた1961年シーズンに中田昌宏(阪急)と並ぶ29本塁打を放って4年ぶりに本塁打王を獲得。同年に捕手としてはB.ハリス以来24年ぶり2人目、戦後初となるMVPを受賞した。この年から8年連続本塁打王を獲得するなど、以降は打撃タイトルの常連になっていった。1962年、別当薫(毎日)の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打(1950年)を抜く44本を記録。この年からは打点王も6年連続で獲得し、6年連続二冠王となる。1963年には小鶴誠(松竹ロビンス)のプロ野球シーズン記録51本塁打(同上)を破る52本を残し、340塁打・135打点は当時のパ・リーグ記録。52本塁打は翌年に巨人の王貞治が55本を打ったことによりプロ野球記録としては更新されたが、パ・リーグ記録としては2001年に近鉄のタフィ・ローズが55本を打って更新するまで長く残っており、捕手として50本以上打った選手はメジャーリーグを含めても野村だけである。また、1985年にロッテの落合博満も52本塁打を記録したが、これも2022年に56本塁打の村上宗隆(東京ヤクルトスワローズ)に更新されるまで、日本出身の同国籍選手における最多本塁打記録であり落合も最多タイ記録であった。

しかし翌1964年には各球団からの厳しいマークを受けて序盤戦は打率2割を切るまでに低迷する。そのため南海も5月20日の時点で借金を抱えて5位に沈み、メディアからチーム不振の原因として指弾されたが、鶴岡はメディアに対して「ノムが当たらんとウチは何点取れるか見通しが立たん。けどな、チーム不振の原因はノム、ノムと言わんといてや。しばらくそっとしてやってほしいんや。アイツは必ず打つから…」と言い続けて野村を庇った。 夏に入り野村が復調して打ち出すとチームも安定して勝ち始め、阪急を逆転して3年ぶりにリーグ優勝を果たし、日本シリーズでも阪神を破って5年ぶりの日本一を達成した。ところが12月2日の契約更改交渉で、二冠王を維持しチームが日本一になったにもかかわらず本塁打(52本→41本)と打率(.291→.262)の数字が前年度より大きく低下したことを理由に20%の減俸を提示された。あまりのことに激怒した野村は更改を拒否し、最低でも現状維持でなければ納得できないのでトレードに出せと球団側に要求した。野村の失望と怒りは激しく、その日の深夜に葉上照澄へ電話で「馬鹿にしている。野球はやめる」と訴えるほどであったが、29日には減額を受け入れて契約した。当時の野村は小山正明らの内角攻めを苦手にしていたが、このオフに近鉄から移籍してきたジャック・ブルームから春季キャンプで「腕を折りたためばいいんだ」と教わり、スタンスを狭くしてバットを余らせて持つように打撃フォームを改造した。

1965年には初の首位打者を獲得し、1962年から継続中の本塁打・打点の二冠と合わせて戦後初の三冠王に輝く。野村は後に「あの年(1965年)は、(首位打者争いの常連の)榎本喜八と張本勲の調子が良くなくて俺は3割2分で首位打者を獲れた。本当にラッキーだったんだよ」と語っている。ちなみに野村が首位打者を獲得したのはこの1965年のシーズンだけであり、自己最高打率でもあった。捕手の三冠王はメジャーリーグでも前例がなく、鶴岡は「捕手という重労働の中で、ノムは三冠王をものにした。それだけに、ほかの選手がやる以上にりっぱなものです。捕手で三冠をとったのは、もちろん世界で初めてです」と祝辞を述べている。ところが、11月17日にこの年限りで退団する鶴岡に代わる新監督に就任したばかりの蔭山和夫が急死してしまう(南海蔭山新監督急死騒動)。蔭山の訃報が伝わると、選手・コーチらチーム関係者が集まって緊急会議が開かれ、その中で鶴岡に監督へ復帰してもらうべきという意見が出された。選手の一部からは「辞めた人に今さら帰って来てもらうのはどうか」という声も上がったが、野村は「親分が南海にもどってくれんのなら、ワシも野球はやめや」と言い切ってその場をまとめると、チーム最年長の杉山光平と共に鶴岡邸に赴き南海への復帰を懇願した。蔭山の死で激しく気落ちした鶴岡は南海への復帰を躊躇したが、蔭山の密葬が執り行われた19日には野村の説得を聞き入れて復帰を受諾し、20日に催された球団葬で野村は「蔭山さん、親分も帰ってきて下さいました。蔭山さんの遺志を僕たちは立派に継いでいきます。どうか安心してお眠り下さい」と弔辞を述べた。

1968年からはコーチ兼任となる。最初は「苦労していた財産を、月給を10万、20万上げてもらったぐらいで教えられるかい」とコーチ就任に難色を示したが、グラウンドに顔を出して片隅でティーを黙々と続ける高畠導宏に関心を示し、キャンプ中も一日も欠かさずに指導した。ジョージ・アルトマン(東京)と僅か1打点差で打点王を逃し、連続打点王と二冠王が途切れる。同年にはパ・リーグ初の3桁四球となる103四球と38敬遠でリーグ記録を更新したが、オフに母親が逝去。通算三振記録が1位となり、1986年6月14日に衣笠祥雄が更新。また鶴岡がこの年限りで監督を退任した。

1969年、野村はシーズン中に二度の大怪我に見舞われた。一度目は5月29日の対阪急戦での負傷で、この影響により6月4日から26日にかけて、南海は当時のパリーグワースト記録となる15連敗(1引分を含む)を喫した。二度目は7月12日の対近鉄ダブルヘッダー第1試合の守備で、走者の岩木康郎が本塁に突入した際に強く体当たりされて左肩を痛めて負傷退場し、オールスターも出場を辞退した。怪我の影響で最終成績は22本塁打、52打点に終わり、1961年以来守り続けてきた本塁打王は阪急の長池徳二に、さらにはレギュラー獲得以来13年連続で守り続けてきたベストナインの座も阪急の岡村浩二に明け渡した。チームの大黒柱である野村の故障が主因となって、南海は戦後初の最下位に終わり、飯田徳治監督は責任を取ってこの年限りで辞任した。

飯田の辞任にともない、南海は後任監督の選定を余儀なくされることになった。川勝傳オーナーは、最下位に終わった球団を再建するため、この年限りで現役引退するドン・ブレイザー内野手を新監督に据えようとしたが、球団幹部らの猛反対に遭って頓挫し、代わりの候補として名前が挙がっていた西沢道夫や青田昇ら外部の大物のとの交渉も不調に終わったため、南海の取締役会は現役選手の野村を次期監督に推挙した。鶴岡が1960年代前半の時点で「自分の後任は、第一候補は蔭山、第二候補が野村」という構想を周囲に示していたように、野村の監督就任は以前から予期されていたことではあったが、前シーズンこそ酷い怪我に苦しんだとはいえ、まだ選手としての実力は衰えていなかったこの時点での監督就任は時期尚早の感があり、野村自身も「プロ野球の監督は一度は経験したいと思っているが、今はまだ早すぎる」と就任に難色を示していたが、球団後援会の「もうなんといっても、野村は監督を引き受けなきゃいかん。鶴岡さんの次は蔭山さん、その後は野村というのが南海の監督路線だったが、蔭山さんが急死して、飯田さんがいわばピンチヒッターとしてはいってこられただけのこと。野村は引き受けるべきだ」という意見に押され、本社と球団が全面的にバックアップすることを条件に就任要請を受諾し、1969年11月5日に34歳の若さで選手兼任監督に就任した。永井良和は「鶴岡は自らの後任として飯田、そしていずれは野村という構想をもっていたが、その時期が早まった」と述べている。

野村はブレイザーをヘッドコーチに迎え、投手コーチに日通名古屋の監督であった古谷法夫、打撃コーチには日刊スポーツ、TBS専属の野球評論家の沼澤康一郎を招聘した。野村は以前からブレイザーの野球への知識に感銘を受け、共感できる部分が多いと考えており、「ブレイザーがヘッドじゃなきゃ監督は引き受けなかった」と語っている。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「4番打者」「捕手」「監督」の3つの重責をひとりで担うことになった。広瀬叔功は自著で、兼任監督在任時の野村の年俸は選手分と監督分を合算すると税込みで1億円を超えていたと聞いたと述べている。

監督就任1年目の1970年は、補強が成功し、新外国人のジョーンズクラレンス・ジョーンズが開幕からのロッテ3連戦で4発放つなど33本塁打、新人・佐藤道郎を抑えでフル回転させ、何とか投手陣をやり繰りして2位となった。佐藤は新人王獲得。選手としては67年以来公式戦全試合出場を果たした。前年不振だった打撃も復調し、東映の大杉勝男と最後まで本塁打王を争った。ともに42本でそれぞれのシーズン最終戦を迎え、ここで大杉が2本塁打を放ち、44本として野村に2本差をつけた。これに対し野村は打席数を増やすためにそれまで全試合座っていた4番を捨てて1番打者として出場したが、本塁打を記録できず、大杉が初の本塁打王となった。10月18日の西鉄ライオンズ戦で東尾修から史上4人目となる2000本安打を達成。

2年目の1971年は、島本講平が入団して、打者に転向、ブレイザーが連れてきたサッド・ティロットソンも不安定で大誤算、勝率が5割を切って4位で終わり、門田博光が120打点で打点王を獲得。3割31本塁打。桜井輝秀が二塁手のレギュラーに定着。ここで野村は他球団で燻っていた投手たちの獲得を目指すことにした。トレードで東映から江本孟紀、佐野嘉幸を獲得し、高橋博士を放出した。

1972年、トレードで獲得した江本は前年0勝から飛躍して16勝を挙げてチームのエースに成長し、野村の手腕は高く評価された。佐藤が怪我から復帰して11試合連続リリーフ登板の日本記録を作る。一方、チームでは一部選手が野村の指導にはついていけないと首脳陣にこれまでの方針撤回を迫り、クーデターが起こった。それに対して野村は代表して意見を具申してきた三浦清弘に対して、強制的に任意引退の手続きを取るという強硬な手段に打って出た。最終的に三浦は、同じ大分出身の稲尾和久が監督を務める太平洋クラブ・ライオンズへトレードで移籍した。ちなみに野村自身は選手としてトリプルスチールをシーズンで2度記録した活躍もする。この年、5年ぶり7度目の打点王を獲得、史上初の1500打点、550本塁打、16年連続20本塁打を達成。広瀬が550盗塁を達成。

1973年、パ・リーグは前後期制とプレーオフ制度を導入した。前年活躍の江本、西岡三四郎、巨人から移籍の山内新一、松原明夫が先発の仲間入り、佐藤もストッパーとしての役割を果たし、南海は前季にロッテ・オリオンズと優勝争いを繰り広げ、ロッテを制し前期優勝を達成した。しかし後期は、前年まで2年連続優勝していた阪急ブレーブスに対し全敗となる13連敗を記録した。プレーオフでは実力は南海より上と見られていた阪急を3勝2敗で下し、1966年以来7年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、日本シリーズでは巨人に1勝4敗で敗れ、V9を許す結果となった。監督兼任でありながら選手としても.309、28本塁打、96打点の成績を残し、1966年以来5度目となるパ・リーグMVPに選出された。

1974年、野村が開幕直後怪我で欠場するアクシデントに見舞われ、前期は4位、盛り返した後期は2位、佐藤が初代のセーブ王に輝いた。ドラフトでは野村の一声で新井鐘律を2位指名している。

1975年オフには、巨人から水面下で選手兼任ヘッドコーチとして移籍を打診されるが、実現しなかった。この年巨人は球団史上初の最下位に終わり、巨人の球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五(いずれも当時の肩書)が戦力補強とコーチ陣のてこ入れのため野村と極秘に接触して交渉した。当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた野村は快諾したが、監督の長嶋茂雄が同意しなかったため、“巨人・野村克也”は幻に終わった。

1976年は、1月に阪神タイガースとの間でトレードの交渉をまとめ、その結果、江本孟紀、島野育夫、池内豊、長谷川勉ら主力の4選手を放出し、阪神のエースだった江夏豊と望月充の2選手を獲得した。だが江夏は移籍1年目に思うような成績が挙げられなかったことから、江夏をリリーフ専任投手として再生することを決断。江夏はリリーフへの転向を拒んでいたが、野村は「プロ野球に革命を起こそう」と口説き、江夏はその言葉に心を動かされて、1977年6月からリリーフに転向することに同意した。この年19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。江夏は「『革命』と言われなかったらリリーフ転向はOKしなかったと思う」と語っている。投手分業制を提唱し実践していた近藤貞雄の存在や、江夏のこの活躍などがあってリリーフの役割の重要性を球界に認識させ、先発、中継ぎ、抑えというピッチャーの分業を本格的に定着させるきっかけとなった。山内がエースとして踏ん張り20勝、藤田学が11勝で新人王に輝いた、門田、藤原満が好調でチーム147盗塁と新たな面を見せたが前期後期ともに阪急に屈して2位。柏原純一が一塁手のレギュラーに定着。

1977年は広島から金城基泰が松原とのトレードで加入、ゲイル・ホプキンスとも契約した。前期2位、後期3位と優勝争いした。河埜敬幸がレギュラーに定着。9月28日、シーズン終了まで2試合を残して監督を解任された。当時はまだ愛人関係にあった沙知代(当時は伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由である。同僚投手の江本孟紀(のち参院議員)によれば、沙知代は大阪球場に電話をかけてきて「なんであんな選手を使ってるの!」「コーチを出しなさい」などと怒鳴り、選手起用が悪いからバッティング・コーチを電話口に呼び出せと言ったという。選手たちも「えらいこと言うオバハンやな」「公私混同でひっかきまわないでくれや」とうんざりしていたという。1975年オフ、選手会は緊急の会合をもち、「野村監督に忠告しよう」と決議したもののベテランは尻込みし、中堅選手も次々に腰が引けたため、結局最後まで残った江本、西岡三四郎、藤原満の3人が大阪のホテルで野村に直談判した。3人は「監督、プレーイングマネージャーなんですから、公私の区別をきっちりつけて選手が納得できるよう収めてください。」と話し、野村は神妙な面持ちで聞き「やっぱり話の分かる人だな。」と江本らは安心して引きあげた。しかし、江本、西岡は同年オフにトレードで移籍した。新井は「沙知代さんの行動には疑問を抱えていた。チームバスに堂々と乗り込む姿に「何で監督は許しているのか」と感じていた。解任劇も仕方がないことなのかなと思っていた。

野村は球団から監督を解任を通告された後、マスコミの前から姿を消していたが、10月5日に大阪ロイヤルホテルにて記者会見を開いた。会見の冒頭で「私は鶴岡元老にぶっ飛ばされた。スポーツの世界に政治があるとは思わなかった」と切り出し、自分が解任されたのは球団OBの鶴岡一人による介入だと主張した。また「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」についても、沙知代はコーチ会議に出した覚えもないし、それほど常識のない女とも思っていないと発言し、球団が自身を解任した理由には正当性がないと主張した。鶴岡は、野村の主張は事実無根であると南海に対し抗議し、南海も野村に対し発言を撤回するよう訓告文を送付した。野村と南海は大きく対立したが、野村は14日、球団に対し「表現に行き過ぎがあった」と認め、南海も野村の謝罪を「誠意あるもの」であると受け入れ、騒動は一応の決着がついた。

1977年11月、監督の金田正一から誘いを受け、ロッテへの移籍が決定した。南海の選手のうち、野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊がトレードを主張した。南海は他球団と交渉し、江夏は広島への金銭トレード、柏原は日本ハムとのトレードが成立した。江夏は広島への移籍に同意したが、柏原は野村が移籍したロッテへのトレードを訴え、受け入れられない場合は任意引退も辞さないと強硬に主張した。しかし、柏原は翌1978年1月に日本ハムへの移籍を受け入れた。

南海は野村、柏原、江夏ら主力選手の流出によって戦力が大幅に低下し、翌年以降はBクラスに低迷し1988年限りでダイエーに身売りした。

南海退団直後の1977年11月17日、金田正一監督率いるロッテが獲得の意思を示し、選手として移籍。懇意にしていた草柳大蔵からの「生涯一書生」という禅の言葉を教わり、新たに「生涯一捕手」を標榜した。この言葉は流行語となり、今でも野村の代名詞の一つとなっている。金田は野村を戦力としては期待しておらず、野村の豊富な知識と経験、長年にわたって蓄積したデータを丸ごと手に入れることが獲得の目的だったと言われる。また金田は同時に江夏の獲得を望み、実際に野村を介して江夏にロッテ移籍を打診するも、江夏が金田の下でプレーすることを拒み、破談。野村は代替案として柏原獲得を進言するも、金田が拒否し、結局野村単独での移籍となった。

当時ロッテの投手だった村田兆治は「足の遅い私にとっては鈍足の野村さんは憧れの選手」、また村田によると「野村さんは川勝オーナーが金田監督に頼んでロッテへ移籍してきた」と述べている。野村はロッテの一選手として親子ほど歳の違う選手と一緒に練習をしていると、何とも言えない虚しさを感じたという。ところが金田から「若手らにいろいろ教えてやってくれ」と言われアドバイスするとコーチ陣から煙たがられ、金田から「コーチがやりにくいと言っている。悪いが、教えるのはやめてくれ。」と言われた。同年オフ、ロッテのオーナー重光武雄から「監督をやってくれませんか」「ロッテを君に再生してもらうしかないんだ。本当の野球を教えてくれ」と言われ監督就任を要請されるが、金田が誤解すると察し、固辞し、同時に自由契約となる。ロッテは野村への監督要請を打ち切った翌日に山内一弘の監督就任を発表している。

1978年12月1日、根本陸夫監督率いる西武へ移籍。全体の練習スケジュールから1人だけ外れ、バットを握ることもなければ、ブルペンに座ることもなかった。プロ6年目の外野手で、キャンプで同室であった春日昭之介が、野村のノートを目撃している。そこには実験レポートのように箇条書きで何らかの数字がズラッと列挙されていた。その数字は、ほかの選手より3分の1ほど少ないキャッチボール数、ランニング量、受けたノックの数、さらには誰もいないサーキット場で黙々と励んだウエイトトレーニングの回数であった。1979年には、アンダースローからストライクゾーンの高めへ速球を投げ込んで勝負していた新人の松沼博久に「ボールのイメージで投げろ。振ってくれるから」とアドバイス。実際に打者のバットは空を切り、それによって低目へのシンカーも効果を発揮するようになったという。1980年は控えに回ることが多くほとんど目立った活躍はなかったが、オールスターゲームには全パ・西本幸雄監督の推薦により出場。1950年代、1960年代、1970年代、1980年代の4つの年代での出場は史上唯一の記録である。また、選手として22回のオールスター選出は歴代最多で、最多安打・最多二塁打記録も持つ。このうち1957年から1977年まで21年連続でファン投票選出されており、ファン投票選出回数、連続選出回数ともに王貞治と並ぶ歴代最多記録となっている。同年8月1日に前人未到の3,000試合出場を達成。同年11月15日に引退を表明、実働26年、45歳だった。最後の本塁打は7月29日の対阪急戦で放ったもので、このとき45歳1か月、岩本義行の持つ最年長本塁打記録(45歳5か月)に4か月及ばなかった。出場試合数は3017試合まで伸ばし、この記録は2015年に谷繁元信に抜かれるまで35年間、歴代1位だった。

野村が引退を決めたのは現役最後の年である1980年9月28日の阪急戦(ダブルヘッダー)だという。この日、野村は捕手として第1試合にスタメン出場。4-3と西武が1点を追う展開の8回裏、一死満塁で迎えた野村の打席で、根本監督はここまで3打数ノーヒットだった野村に実働26年の選手生活で唯一となる代打(鈴木葉留彦)を送った。犠牲フライくらいはいくらでも打てると思っていた野村は愕然とし、ベンチに下がった後代打策の失敗を祈っていた。結局鈴木はショートゴロ併殺打に倒れ、その瞬間「ざまあみろ」と思ったという。この逸機が響いて西武は試合に敗れた。野村は帰途の車中、自分の気持ちが勝利を目指すチームとは逆の方向に向いてしまったことを悔い、引退を決めたという。なおこの日は、途中出場した第2試合を含めて12盗塁を許していた。

11月15日、記者会見を行い現役引退を正式に表明した。翌16日の引退セレモニーでは西武全選手が一・三塁間に横一列で並び、一人ずつピッチャーマウンド上のマイクで言葉を贈った後キャッチャーズボックスで構える野村に投球し、それを野村が受けるというものだった。南海の高卒新人捕手香川伸行から花束贈呈された。その後の記者会見終了後の野村の肩にはハローキティのカメラを持った当時小学1年生の息子・克則が乗っていた。

なお、打席時に着用したヘルメットは南海時代から引退まで、塗装を塗り替えながら使用し続けた。そのヘルメットは引退後西武球団に保管されていたが、5年後に清原和博に引き継がれる。入団時、自分に合うサイズのヘルメットがなく、たまたま見つけたヘルメットがピッタリと合ったことにより、引退まで使い続けた。

解説者時代

1981年からTBSテレビ・TBSラジオの野球解説者(1982年まで)およびサンケイスポーツの野球評論家を務める。1983年からはテレビ朝日の解説者を務め、プロ野球中継では「ノムさんのクール解説」と呼ばれた。また、1981年から6年余り、週刊朝日で「野村克也の目」を連載した。テレビ朝日解説者時代には、ストライクゾーンを9分割した「ノムラスコープ」による配球の読み、打者・投手心理の解説が評判になる(「次の球は、ここに投げておけば必ずファウルになる」と予想し、その通りの結果になったなど。後年も解説者として出演する際には登場することがある)。これは野球中継では初の試みであった。

また1987年に沙知代がリトルシニアの少年野球チーム・港東みなとひがしムースを立ち上げるとその監督に就任し、プロ球界復帰まで務めた。港東ムースが1990年夏に優勝した際に、式典に出席していた日本リトルシニア協会の副会長だったシダコーポレーション社長・志太勤と親しくなり、以後志太は克則の結婚式の媒酌人を引き受けるなど、野村の終生にわたる後援者となった。

1989年1月、野球殿堂入りする。

1981年オフにロッテから監督要請があったが断り、近鉄でも西本幸雄の後任として候補が挙がったが、内部昇格に切り替えたので、立ち消えとなった。

専任監督時代

1989年10月、野村はヤクルト本社社長の桑原潤の熱烈な要請を受けて、セ・リーグのヤクルトスワローズの監督に就任し、12年ぶりに現場に復帰した。

沙知代の長男であるダンは、1978年から1981年までヤクルトに選手として在籍し、引退後にはマイナーリーグ1Aのサリナス・スパーズのオーナーを務めていて、1989年シーズンには3人の選手(忰田幸也、鈴木康博、幸田正広)がヤクルトからサリナスへ野球留学で派遣されており、ヤクルト球団と野村家の間には以前から太いパイプがあった。7月に財界筋から桑原へ「野村氏がヤクルトなら、監督を引き受けるかもしれない」との情報がもたらされると、桑原は直ちに球団社長兼オーナー代行の相馬和夫に野村との接触を命じた。同年には他にダイエー、ロッテ、大洋の3球団からも野村へ監督就任の要請があったが、ダイエー、ロッテはセ・リーグの監督を希望する野村の意に合わず、大洋は戦力再建に時間がかかる状態であったために拒否した。これに対して、若く素質のある選手が揃っており資金力も豊富で、講演・評論で2億5千万円ほどの年収があるといわれる野村に相応の年俸を用意できるヤクルトへは、ダンを通じて就任に前向きな態度を示した。

本社社長の桑原が野村の招聘活動を進める一方で、球団社長の相馬は8月からこの年限りでの現役引退を表明していた生え抜きの若松勉を監督に就任させる準備を始めており、9月の時点では若松が次期監督就任濃厚と目されていたが、桑原は相馬の動きを押し止めるため球団経営への直接参加に乗り出し、相馬のオーナー代行職を解いて自らがオーナー代行に就任し、10月初旬には野村と会食して、契約金7千万円、年俸8千万円(いずれも推定)という条件を提示し、全面支援を約束して監督就任を正式に要請し、野村もこの要請を受諾した。

就任会見で桑原は「野村監督は、私が中心となって決めました。私がオーナー代行も兼ね、全社をあげてバックアップします」と宣言し、野村も「桑原社長には高く評価してもらったのだと思う」と語った。しかし1995年の開幕直前に、桑原が「おそらく野村監督も今季が最後だろうと思いますので」と発言するなど、桑原との関係が悪化していたこともあり、野村は一転して、桑原ではなく相馬に自分の野球理論を高く評価されたと主張するようになり、さらに桑原と相馬が死去した後には、全く縁もゆかりも無いヤクルトの監督をやるつもりはなく、当初は断ったが「あなたに受けてもらわない困る」と桑原ではなく相馬から頼み込まれたので渋々同意した。と主張するようになった。

コーチ陣は、打撃コーチ(ヘッド格)に南海時代からの参謀である高畠康真が就任した以外は、球団側の用意したヤクルトOBで固められた。また就任直後に高血圧性心疾患の疑いで慶應病院に入院したために、西都での秋季キャンプに参加することができず、こうした健康面での不安から一部では早くも「野村の次の監督」を推測する報道がなされた。

1990年、データを取り入れるという意味の「ID野球」(Import data)を掲げてチームの改革を図る。主砲の池山隆寛や広沢克己らには、三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得し(1993年)、池山もその1990年にキャリアハイの打率.303、97打点(本塁打は31)を記録した。また、ドラフト2位で入団した古田敦也らをレギュラーに抜擢、前年まで正捕手だった秦真司を外野手に、控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。しかし1年目は改革が勝利には結びつかず、開幕からの巨人戦は大里晴信の疑惑の判定もあり、2試合連続のサヨナラ負け、3戦目に初勝利を挙げるものの、その後も連敗を重ね結局5位に終わり、前年の4位を下回った。9月8日の試合では巨人の優勝が決まり、目の前で胴上げを見ることになった。野村の要請でコーチに就任した高畠は一年で辞任、高畠は「野村さんはすっかり変わってしまった。いろいろな事に疑心暗鬼になる人に変わってしまった。かつての野村さんはそんな人じゃなかった。相変わらず夫人の介入もありました」と語ったという。

1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、巨人の極度の不振(1979年以来12年ぶりにBクラスに転落)などもあってAクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得。二塁手から中堅手へ再度コンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁を見せた。高津臣吾に「日本を代表する抑えになれ、潮崎哲也のシンカーを参考にしてシンカーを投げろ」と助言し、その成長を促した。

ID野球に倣い、IDバレー(眞鍋政義監督)やIDサッカー(野村雅之監督)など、他のスポーツでも「ID」を冠したキャッチコピーが使われるようになった。

1992年に混戦を制してセ・リーグ優勝。胴上げ投手はこの年ケガから復活したベテラン伊東昭光だった。この年は前述の選手に加え、投手では西村龍次、岡林洋一、内藤尚行、高野光、野手では荒井幸雄、橋上秀樹、笘篠賢治、ジャック・ハウエルらが活躍。ベテラン選手の渋い活躍もあったほか、9月には故障から4年越しで復帰した荒木大輔の起用もあった。他球団から移籍してきた新浦壽夫、角盈男、金沢次男らは中継ぎ投手として、ヤクルト一筋の杉浦享や八重樫幸雄は代打として働いた。日本シリーズでは最終第7戦までもつれ込む激闘を演じたが、西武に敗れた。

1993年は長嶋一茂を巨人に金銭トレードで放出し、前年のリーグ優勝で自信を深めた古田、広沢、レックス・ハドラー、ハウエル、池山、荒井、飯田、秦のレギュラー陣が安定した活躍を見せた。投手では、新人の伊藤智仁が前半戦で大活躍。伊藤は酷使が祟ったのか故障で後半戦を棒に振るが、先発の伊東、西村、この年にカムバック賞を受賞した川崎憲次郎、中継ぎの内藤、8年目でブレイクした山田勉、リリーフエースとして定着した高津らの働きもあり、チームはそのままリーグ優勝。前年に続いて西武との対戦となった日本シリーズを、再び最終第7戦までもつれ込む激闘の末に制し、遂に日本一に輝いた。この年の12月31日に行われた第44回NHK紅白歌合戦では古田と共に審査員として出演した。

1994年は投手陣や古田など怪我人が相次いだこともあり、5月中旬を境に低迷。ペナントレース最終戦に勝ってようやく最下位だけは免れた。

1995年は、投手の石井一久、山部太、高津、野手の古田、土橋勝征、池山、飯田らのほか、新人の稲葉篤紀、新外国人テリー・ブロス、さらに阪神を自由契約になっていたトーマス・オマリー、前ロッテのヘンスリー・ミューレン、近鉄との間で西村とのトレードで獲得した吉井理人など移籍してきた選手が活躍。前年オフに主砲の広沢(FA制度を利用)とハウエルが揃って巨人に移籍したことによる穴をこれらの選手が十分に埋めた。特にオマリーの活躍は目覚ましく、31本塁打を放ってMVPに輝いた。またオリックスとの対戦となった日本シリーズでも、オマリーの猛打(.529 2本塁打 4打点。シリーズMVP)でオリックスを圧倒。小林宏の奮投により4連勝こそ逃したものの、4勝1敗で日本一になった。同年のドラフトで克則がヤクルトに3位指名され入団。1996年は4強の一角に食い込むも投手陣の総崩れから早々に脱落、終盤にはイニング連続無得点のリーグ記録も更新して4位に終わる。

1997年、投手コーチに尾花高夫を誘う。継投は野村が判断し、その考えを組んで準備させるのが尾花の仕事だった。開幕戦(対巨人)、前年広島を自由契約になり獲得した小早川毅彦がエース斎藤雅樹から3本の本塁打を放ち快勝、ヤクルトはそのまま開幕ダッシュに成功する。1997年5月16日の阪神戦の勝利で監督として三原修、藤本定義、水原茂、別当薫に次いで史上5人目の両リーグ500勝監督になった。8月には横浜との熾烈な首位争いを繰り広げ、最終的には1度も首位を明け渡すことなく、2位横浜に11ゲーム差をつけてリーグ優勝。日本シリーズでも西武を破り3回目の日本一に輝いたが、これが野村にとって生涯最後のリーグ優勝・日本一となった。この年活躍した選手に投手の石井、吉井、田畑一也(ダイエーから獲得)、野手の古田、土橋、池山、宮本慎也、真中満、稲葉、シーズン前に酷評したドゥエイン・ホージー、1996年に田畑と共にダイエーから移籍した佐藤真一、青柳進、同じく1996年に西武を戦力外になり移籍した辻発彦、オリックスから移籍した馬場敏史、中日からテスト入団した野中徹博、ダイエーからテスト入団の広田浩章らがいる。

1998年は吉井がFA権を行使してニューヨークメッツへ移籍、前年15勝の田畑が3勝に終わり前年7勝の川崎憲次郎が17勝と飛躍した以外は全体的に先発もリリーフも良くなかった。4位に終わり、同年9月21日に退団した。尾花は辞任した。

最初に2連覇した後は日本一と4位を交互に繰り返したが、スワローズ歴代でも屈指の名将と評価されている。ヤクルト監督時代の成績は1187試合628勝552敗7引き分けで勝率.532。 ヤクルトの前身、国鉄・サンケイ時代を含め、野村の勝利数、勝率はいずれもトップである。

野村のヤクルト監督最終年である1998年に西武から移籍してきた渡辺久信は、自著でそのミーティングの長さに驚かされたと述べている。広岡達朗ら西武の監督のミーティングは、用意された映像を観ながら、対戦相手の癖を示しつつ相手選手をどう攻略するかを研究することに徹した実践一辺倒の内容だったが、これに対して野村はまず自身の野球思想などの講釈に多くの時間を割いており、そのあとで一球ごとの投手心理・打者心理をホワイトボードに板書しながら早口で解説していったという。野村はボードが字で埋まるとすぐに消してしまうので、選手たちはノートに書き写すだけで精一杯で、後で各自が部屋に戻ってからノートを読み返して復習していたという。渡辺はこの作業によって自分の体験が理論化され、他の人にそれを伝えることができるようになって「教えることの楽しさ」を感じ、話を聞きに来る若い選手に、体に記憶されている投手としての経験を言葉を使って伝えていく指導者の道を志向するようになったという。

トーマス・オマリーは「監督、大好きね。リスペクトしているんだ」、「とにかく色々教わった。データから相手の強み、弱み。すべて理解し準備した上で試合に臨むことが重要だとね。」と述べている。

NHKの野球解説者に決まっていたが、1998年10月25日に三顧の礼をもって阪神タイガースの監督に迎えられる。ヤクルト監督退任直後であること、阪神は例年生え抜きを中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。久万俊二郎から野村に対して「今まで球団が監督要請をした中で、私が直接出てきてお願いするのは野村さんが初めてです」、「今、タイガースはどん底にあります。来年、一からスタートするのにあたり、監督にふさわしいのは野村さんしかいない。野村さんは球界の第一人者。あなたの右に出る者はいません」と熱く語ったという。当時阪神球団専務だった野崎勝義によると、野村が連れてきたコーチはヘッドコーチに松井優典、投手コーチに八木沢荘六、打撃コーチに柏原純一の3人である。他に多くの要望が来ると覚悟していたが、野村が注文を付けたのはこれだけである。八木沢とはロッテ時代の1978年にバッテリー組んでおり、バッテリーコーチは黒田正宏が就任した。1985年の日本一以降長く低迷するチームの再建を託した野村に対する期待は大きく、就任時の会見では球団側から「野村監督様」と紹介されるなどVIP待遇を受ける。またファンの人気も絶大だった。

前任の吉田義男が「今のメンバーで核になるような選手はいまへんわ。脇役ばっかりで戦っているようなもんですわ。」と言い残した戦力をそのまま引き継いだ。

同年のドラフトでは当時阪神のスカウトだった菊地敏幸によると夏の時点で1位は松坂大輔で行くことが意思統一が出来ていたが、菊池は「野村さんが来た時点で松坂指名が消えたんです」、「野村家と横浜高校がいい関係ではなかった」と説明し、そして「野村家というかサッチーなんですけどね」と続け、阪神はドラフト1位で藤川球児を指名した。結果的に藤川指名も正解となったが、入団した藤川のブルペン投球を見た野村が「これがドラ1か」とぼやいた。それを食事中に伝え聞いた別のベテラン担当スカウトが皿を叩き付けて激怒したという。

「野村TOP野球」(TOPとは、Total・Object lesson・Processの略語)をチームのスローガンとし、開幕直後から快進撃を続け、6月9日には単独首位に立ち(この年優勝した中日以外唯一首位についたチームとなる)、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった時価100万円の純金製野村監督像(通称・純金ノムさん)が前倒しで発売された(最初の購入者は落語家の月亭八方。総売上げ数は27個)。

オールスター戦を挟んで9連敗、9月28日には前年記録した球団ワースト記録の12連敗を喫し最下位に終わった。

また安芸キャンプにおける新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志の松井秀喜キラーとしての再生、遠山と葛西稔のスイッチ起用(通称「遠山・葛西スペシャル」、遠山 - 葛西 - 遠山 - 葛西、この頃の阪神の選手層の薄さから抑えに指名できる投手がいなかったため。どちらかが一旦一塁を守って再度登板する)なども行った。

1999年のオープン戦で、強肩の新庄を「投手心理を理解させるため」投手として起用。野村が提言する「考える野球」と新庄の積極的な性格も相まって関係は良好だった。6月12日の対巨人戦では新庄が敬遠球をヒッティングし、三遊間を抜けるヒットになりサヨナラ勝ちを収めた。サヨナラ劇では新庄が「敬遠されたらボール球を打ってもいいか」と奇襲策を提案し、野村は「好きにせえや!」と事実上のゴーサインを出している。

ダレル・メイが「あの監督は勝てば自分の手柄、負ければ選手の責任」と放言。文書で野村批判のビラを自ら配る。メイはシーズン終了を待たずに解雇された。

なおこの年の8月7日の対ヤクルト戦、3回表無死一・二塁で、阪神・湯舟敏郎が送りバント。一塁塁審の小林毅二は湯舟を一塁アウトと判定したが、野村は一塁ベースカバーのヤクルト・馬場敏史の足が送球を受けるより早くベースを離れたとして抗議。野村はセーフではないかと審判団に詰め寄り、その抗議の中で「このバカ」と暴言を吐いたため、小林は野村に退場を宣告し、野村の野球人生で初めての退場処分となった。

2000年は、一軍守備走塁総合コーチに西武時代の同僚でもあった伊原春樹を招き、伊原が西武一軍守備走塁コーチ時代に担当していた守備、走塁の作戦面を任せた。4月の9連勝(1分け含む)で首位浮上した時は「今年は違うぞ」の印象を与えたが、すぐさま6連敗。以降立て直しがきかず球団史上初の3年連続最下位に終わった。チーム得点は両リーグ最低の2年連続400点台、投手陣も川尻哲郎が復調の気配を見せたぐらいだった。伊原はジェイソン・ハートキーの盗塁失敗を巡り野村と対立し、1年で退団。2001年は、4番として自己最高の成績を収めた新庄がFAで前年オフにニューヨーク・メッツへ移籍。柏原によれば野村は「向こうの方が向いてだろう。」と述べた。厳しい状況の中、若手選手育成を掲げ、7人の俊足選手を「F1セブン」(後述)と名付けて売り出したが、打率・得点・本塁打はリーグ最下位、この年も順位は最下位。入団4年目の井川慶がチェンジアップを自分のものにして9勝を挙げた。桧山進次郎が2試合残して、3割に届いていた、柏原がコーチ会議で「3割は自信になる。残り試合では外しましょう。」と話をしたら、野村が「何でや」、他のコーチも「最下位だし、個人記録は関係ない。」の意見が相次いだ。柏原が「言うべきことは言った」と思っていたら、最終的に野村が外す決断をした。最終戦の後、野村が桧山を呼んで、「3割は初めてか?4番でよく1年間頑張った。おめでとう」と言葉をかけた。野村が招聘した松井・八木沢・柏原の3コーチは解任された(松井はフロント入り)。

2001年10月19日に野村の2002年シーズンの監督留任が発表され、ヘッドコーチに木戸克彦、投手コーチに佐藤義則、打撃コーチに和田豊を据える、翌シーズンの首脳陣も公表されていた。秋季キャンプは指揮を執ったものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された12月5日に辞任を発表した。なお著書「女房はドーベルマン」によると、野村は沙知代が逮捕されるまで脱税行為をしているとは知らなかったという。

結局、阪神監督としては3年連続最下位で終わった。

F1セブン(エフワンセブン)は2001年に、本拠地の甲子園球場が広いことや、新庄のメジャー移籍等で長距離打者が皆無というチーム状況の中で、機動力重視のチーム方針の象徴として名付けられた選手たちのことを言う。

メンバー

    (1号車)赤星憲広

    (2号車)藤本敦士

    (3号車)沖原佳典

    (4号車)上坂太一郎

    (5号車)平下晃司

    (6号車)松田匡司

    (7号車)高波文一

    なお、この当時から俊足選手として重宝されていた田中秀太を忘れたため、発表翌日に「秀太忘れとった、F1エイトや」と訂正したが、ほとんど話題になることはなかった。なお、『野村ノート』(小学館)では「高波、藤本、沖原、秀太ら足の速い選手を7人集めて【F1セブン】といって売り出した。まぁ、沖原などは決して速いほうではなかったのだが、セブンの語呂がよかった」と説明している。

    F1セブンは、かつての大洋のスーパーカートリオ(屋鋪要、高木豊、加藤博一)を意識したネーミングで、野村曰く「スーパーカーはもう古い、これからの時代はF1」とのことで「F1セブン」となった。

    赤星、藤本、沖原の3人は新入団で、野村が直々にスカウトした選手だった。そのためキャンプでは新戦力に期待するファンが多かったが、オープン戦では全員が打率2割台以下に落ち込み、オープン戦で大爆発を見せた新外国人のイバン・クルーズに話題を奪われた。

    シーズン序盤に空中分解したF1セブンの後釜として、同年6月に赤星、上坂、濱中治で『平成の新少年隊』を結成したが(当初は藤本の予定だったが、藤本が怪我で二軍落ちしたため、上坂と交代)、F1セブンと比べると話題性は低かった。

    F1セブンのメンバー及び平成の新少年隊では、赤星がルーキーながら盗塁王を獲得し、濱中もこの年にブレイクして活躍、藤本と上坂も若手ながらレギュラーを奪取するなど、一定の成果が見られた。

    翌年、星野仙一監督が高波、松田の代わりに坪井智哉、濱中を加えた「新F1セブン」を考案したが、これも話題にならなかった。

    赤星と藤本は2003年、2005年の阪神優勝の原動力となり、沖原も2003年の優勝に大きく貢献するなど、一部のメンバーは活躍を見せた。

    野村は楽天の監督に就任後、西武から戦力外通告を受けた高波を獲得。代走、守備要員として活躍したが、2008年オフに沖原と共に自由契約となった。また、上坂は2007年オフのトライアウトで視察したが、獲得には至らなかった。

    F1セブンのメンバーは、赤星が引退し藤本が国内FA権を行使してヤクルトに移籍した2009年シーズンを最後に、全員が阪神を退団。その後、平下が2010年シーズンで引退。最後まで現役を続行した藤本も、2013年シーズン限りで引退している。

    メディアでは「阪神では常勝チームとなる礎を築いた」などと紹介されることが多いが、最下位からの浮上は出来ず、あまり結果を残したとはいえない3年間であった。上述のように南海、ヤクルト時代とも多少なりとも戦力は揃っており、野村はそのチームの弱点(絶対的な抑え投手、捕手、1番打者などの不在等)を的確に改善してきた。しかし野村が監督をしていた当時の阪神は本塁打を20本程度打てるものの三振も多く規定最低打率を争う状態だった新庄と桧山がクリーンナップとして出場するなど過去2球団と異なり選手層が薄いチームであった。

    投手陣では、リリーフエースから先発に転向させた福原忍や若手で野村監督就任時2年目だった井川慶に大きな期待をかけていた。特に井川については野村が監督をつとめた3年間でエースとして成長した。また「遠山・葛西スペシャル」などは人材難の裏返しでこそあったが、野村時代3年間でチーム防御率は4.04⇒3.90⇒3.75と年々改善されている。福原や井川が活躍してセ・リーグ制覇を勝ち取った2003年シーズンおよび2005年シーズンのチーム防御率はそれぞれ3.53と3.24だった。

    野村と共にヤクルトから移籍した、ヘッドコーチの松井優典は「ミーティングを仕切れない。その言葉に説得力がない」、打撃コーチの柏原純一は「外国人選手に対してものを言えない。また特定の選手、例えば人気の新庄剛志外野手しか指導しない。それ以外の選手に熱意を持った指導がない」そんなことを野崎はオーナーの久万に伝えた。

    一方でチームの打撃成績は中々上がらず、戦力が少ない中でのやりくりも上手く行かず、「何度駄目なところを指摘しても直さない。日本語が通じないのか」と度々酷評していた今岡誠や大豊泰昭(後に中日移籍)との対立が話題に挙がることも多かったが、こうした対立はあくまでも少数派であり、岡田彰布が監督に就任した前後で野村が楽天の監督となった後も赤星、藤本、矢野輝弘、桧山らは楽天戦の試合前には必ず挨拶し、その様子は新聞などによって度々報じられていた。また、低打率かつ三振が多くレギュラーポジションを奪われていた桧山が中距離打者としての地位を確立したのも、新人の赤星がリードオフマンのポジションを得たのも、野村監督時代であった。

    ヤクルト時代の教え子で、巨人退団後野村が獲得した広澤克実は「2000年の阪神はヤクルトが最下位争いしていた時代と同じ色がしていた。ベテラン、外国人、若手がみんなバラバラ。不協和音が流れ、選手が育たない独特の雰囲気だった。私は右肩の脱臼骨折が完治しておらず、ボールが投げられない状態だったが、よく4番一塁で使ってもらった。一塁手の大豊泰昭が野村監督と揉めていたからだ。」と述べている。

    野村の阪神監督時代二軍監督だった岡田は「阪神の二軍監督の時は野村さんとの関係でいろいろ言われた。野村さんとは話をせずに報告ばっかりやったから、コミュニケーションが取れんかったのは事実だ。野村さんは一度も二軍の試合は見にこんかった。鳴尾浜には松井さん(ヘッドコーチ)がいつも来ていた。二軍の選手も数字がついてくる。打者も投手もファームで成績を残し一軍に上がりたい。打っても、抑えても一軍からお呼びがかからなければモチベーションは下がるし、「なんで俺より先にあの選手が?」と疑問に思う。野村さんは一軍に昇格させた選手を一度も使わず、二軍に戻すこともあった。あの頃は、頑張っている選手たちの汗に応えてあげることができず本当につらかった。野村監督で一番参っていたのは今岡だろう。今岡自身にも問題はあったかもしれないが、野村さんは覇気のない態度や、時に見せる淡泊なプレーが気に入らなかったようだ。今岡という選手は二軍に置いて調子を見るというタイプではない。気持ちで打つ選手やから、難しい球をホームランすることもあれば、あっさり三振する時もある。この点も野村さんには嫌われていたのではないか。」と述べている。

    投手コーチだった八木沢は「ノムさんの野球は西武時代に仕えた広岡達朗さん、森祇晶さんと比べて一番細かいが、いかんせん選手が若かった。」と述べている。

    打撃コーチだった柏原は「誘われた時に、俺もいろいろ勉強してきたし、昔の俺じゃねーぞ」と自信を持っていたが、思うような野球はなかなかできない。外国人も期待外れで、新庄のサヨナラ打で盛り上がった時期もあったが、長続きせず、1年目は最下位。結局3年間で3年連続最下位。野村さんにとっても屈辱だった。適材適所の戦力で遠山昭治を松井キラーに育てたりしたが、これでも付け焼き刃。「どんな根拠で指導してるんや。」とよく怒られた記憶がある。暗黒時代となった3年間だったが、桧山に赤星憲広、矢野輝弘、井川慶ら、星野阪神での03年優勝の力になった。野村さんはしっかりと種をまかれたと思う。」と述べている。

    グラウンドでの采配のみならず、フロントに積極的な戦力補強の進言をしたとされる。野村は史上初めて久万と会談した阪神の監督である。エースと4番打者は育てられないと主張する野村に対し、久万は元々、FAなど多額の金銭を使って日本人選手を獲得することに消極的で、補強はトレードと外国人獲得で済ませていたこともあり、「巨人のようになれというのか」「4番バッターを育てるのが監督の役目」などと拒否していた。しかし野村は「ある意味では(巨人の補強方法は)正しい、時代に合ったものです」と進言し、「じゃあ今まで60年あった阪神の歴史の中で誰が(30本塁打以上打って本塁打王を獲得するほどの)4番バッターにまで生え抜きで成長しましたか? 掛布雅之ぐらいでしょう。あと60年待ちますか? 4番バッターだけは(才能ある選手との)巡り会いなんですよ」と説いたという。

    また、当時阪神が短期間で監督を代えていたこと、編成部の有力な新人選手獲得失敗にも言及し、「監督だけ代えてもチームは強くならない。戦力補強と編成部の強化を行うべき」とも進言した。これらの意見に対し、久万は会談中激昂する場面もあったものの会談後、野村の意見を取り入れたと見られる施策を打っている(片岡篤史やジョージ・アリアスの補強、鳥谷敬の獲得等)。

    当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったと報じられた。

    また、後任として中日の監督だった星野を久万に推薦したのも野村であるという。任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り「今の状態の阪神を再建できるとすれば西本(幸雄)さんか星野だ」と、既に熱血指導型の星野に後を託す考えもあったと言われる。後任の星野も久万に直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言した。 その後阪神は、野村辞任の2年後にあたる2003年と岡田監督2年目の2005年にリーグ優勝を果たした。2006年5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における対阪神戦(セ・パ交流戦)を迎えたが、選手交代を告げにグラウンドに姿を現す野村を、甲子園の阪神ファンは歓声と拍手で迎えた。

    阪神を退団した野村に手を差し伸べたのは後援者の志太勤だった。志太は、2002年2月に自身の所有する社会人野球のシダックス硬式野球部の中伊豆キャンプに臨時コーチで野村を招いた。同部は社会人野球の新興チームながら、1999年にビクトル・メサ(元キューバ代表)らを擁し第26回社会人野球日本選手権大会を制覇した強豪で、志太はこのチームを野村に任せるつもりで元キューバ代表の主力選手であるオレステス・キンデランやアントニオ・パチェコを補強していたが、就任を前にして脳腫瘍が発見されたため、3月に手術を受けて療養し、退院後の11月6日付でシダックス硬式野球部の監督兼ゼネラルマネージャーに就任した。このため、野村は終生にわたって、志太を「(野球人としても社会人としても自分にとって)どん底の時代に手を差し伸べて下さった恩人」と慕っていた。

    チームは、野村の監督就任1年目(2003年)に、第74回都市対抗野球大会で決勝に進出。三菱ふそうを相手に6回裏終了の時点で3点差を付けていたが、7回表に集中打・四死球・スクイズ成功などで一挙5点を奪われたあげく、1点差(4対5)で優勝を逃した。この逆転劇について、野村は監督退任後に「(6回裏までのリードで)『優勝していいのかな?』と思いながら(試合会場の東京ドームで)ベンチからネット裏をふと見たところ、(大会を主催している)日本野球連盟会長(当時)の山本英一郎が観戦している姿が目に留まった。その姿が気になったせいで、(7回表から)リリーフを送れば逃げ切れたのに、先発(当時のエースだった野間口貴彦)を続投させたら逆転負け。(試合中にもかかわらず)『優勝していいのかな?』などとバカなことを考えてしまったせいで、志太会長には悪いことをしてしまった。この経験は、『監督の迷いはチームに大きな影響を及ぼす。それだけに、(監督が野球のセオリーに沿った)正しい考えを持たないと、とんでもないことになる』という大きな教訓として、その後(楽天での監督生活)に生かされた」と述べている。この年には中日ドラゴンズで山田久志監督の退任が決まっていたため、大会後の報道では後任監督候補の1人に挙げられていたが、当時の球団社長である西川順之助は、球団外部から「野村氏を監督に」と強く推す声はあったが沙知代を問題視して野村案を斥け、早々に落合博満と谷沢健一に候補を絞り込んでいたと語っている。

    2004年に球界再編問題が発生すると、8月23日にBS朝日の番組に出演した野村は、シダックス野球部が志太の出身地である静岡県の草薙球場を本拠地としてプロ野球に参入する計画を進めていると語り、対談相手の竹中平蔵金融経済担当相に志太を説得してくれるよう頼み込んだ。野村はその後もメディアに向けて「志太会長は最近(プロ球界)参入に興味を持ちつつある。私自身がプッシュしていけば可能性はゼロじゃない」等と繰り返し発言していたが、志太が周囲からプロ野球参入を思い止まるよう強く諫められたため、シダックス野球部のプロ球団化計画は実現しなかった。

    2005年9月、東北楽天ゴールデンイーグルスオーナーの三木谷浩史は「チームの再構築が必要」という理由から初代監督の田尾安志を就任1年足らずで解任。楽天は全日程終了前の9月22日夜に島田亨球団社長、米田純球団代表、井上智治オーナー代行が野村を訪ね、監督就任を要請した。野村は志太に「アマチュア野球は楽しい。都市対抗優勝の宿題が残っているからシダックスの監督を続けたいが、最後は志太さんが決めて欲しい」と言って判断を委ねたところ、志太はプロ球界復帰を後押しする意向を示したので、楽天からの就任要請を正式に受諾し、社会人日本選手権を最後にシダックスを退団することになった。しかし当時野村のマネージャーを務めていた梅沢直充によればシダックスを去ることは野村の本意ではなく、楽天監督就任工作を成就させた沙知代と口論になったという。梅沢はこの時に野村から「オレはアマチュアを愛しているんだ。シダックスで良かったんだ、シダックスが楽しかったんだ」と言われたと語っている。

    楽天からの監督就任要請を受諾したことに伴って、10月3日にシダックスの監督を退任することを発表。最後に指揮を執った第32回社会人野球日本選手権大会1回戦では、日本生命に1対2で敗れた。日本野球連盟は野村に対して、この年に社会人ベストナイン特別賞を授与している。

    野村は後年、プロ(南海・ヤクルト・阪神)と社会人野球(シダックス)の双方での監督経験を踏まえて、「プロ野球とアマチュア野球では、給料のベースが全く違う。プロ野球では個人記録がベースになっているが、アマチュアでは本塁打を何本打とうが、何勝しようが給料はみんな同じだから、みんなの心が『チームの優勝のために頑張ろう』という方向にまとまりやすい。このことはいい勉強になった」と述べていた。

    シダックスでは、野村の下でコーチを務めていた田中善則を硬式野球部の後任監督へ据えたものの、2006年限りで同部を解散。社会人野球でプレーを続ける意向を示した選手の移籍を認める一方で、部活動の一環として実施してきたK-Ball少年野球の支援に特化すべく、「K-Ball技術指導部」を新設している。なお、野村の監督在任中に在籍していた部員からは、野間口・武田勝・森福允彦など7人のNPB選手を輩出。その1人である中村真人外野手は、野村が監督を務める楽天へ2007年に入団したことを機に、野村の指導を再び受けていた。

    楽天の監督就任要請を正式に受諾した野村は5年ぶりにプロ野球界に復帰することとなった(3年契約)。日本のプロ野球において70歳代で監督となったのは仰木彬に次いで史上2人目。

    監督就任に際し野村は「このおじいちゃんに監督の要請が来ること自体プロ野球に後継者が育っていないことを意味している」とコメントしている。1年間監督を続け仰木の持つ最年長監督記録を更新した。「三木谷浩史が清原のファンみたいだね。オレは知らないけど、三木谷が獲りにいくでしょう。ピアスに代表されるように、精神構造が乱れている。チームの統制が乱れるので、指揮官としてはやりにくい」と改めて難色を示し、コーチ人事は伊勢孝夫、八重樫幸雄、川崎憲次郎の名前が候補に挙がっていたが、川崎に投手コーチの要請をしたが断られ、自身の人脈で連れて行ったのは池山隆寛だけだった。辻発彦にコーチ要請していたが、2006年に第1回WBCが開催されることになっていて、すでに日本代表監督の王貞治からコーチの依頼を受け、野村の申し出は大変ありがたかったが、断った。

    2006年5月11日、セ・パ交流戦の対横浜戦において、8回裏に谷中真二が投じた肩付近への死球が危険球とみなされ退場処分になったことに激昂し、木内九二生球審を突こうとするなどして猛抗議。あわや野村も退場処分になるところだった。5月16日、フルスタ宮城で行われたヤクルト戦では、ヤクルトを率いる古田監督との師弟対決が実現した(結果は、10-9でヤクルトが勝利)。以後この師弟対決は5回戦まで全てヤクルトが勝っていたが、雨天中止で予備日(6月19日)に回された6回戦に4-2で勝ち、ヤクルトの交流戦単独優勝の可能性を消滅させた。

    かつては自軍の選手が本塁打を打ってもベンチに座ったまま出てこようとはしなかったが、ベンチから出て選手をハイタッチで出迎えるようになった。相変わらずの毒舌も度々飛び出す一方、記者の質問にジョークを返したり、ユーモアを交えて回答するようになった。ホームゲームでは毎試合、終了後に記者の囲み取材に応じており、テレビのスポーツニュースでは野村の試合後のコメントが伝えられた。特に田中将大が登板した日のコメントは「マー君、神の子、不思議な子」や「不思議の国のマー君」などと残しており、スポーツ紙などでは名物コーナーとして、「野村語録」が常設されるようになった。

    育成方針は基本的に叩いて伸ばすタイプだが、楽天時代には活躍した選手や、進歩が見られる選手に対しては素直に感謝や賞賛の言葉を贈るなど、以前とは違った面を見せ始めた。カツノリは同年に戦力外通告されたのを機に現役を引退し、コーチに転身した。

    2006年は前年に続き最下位に終わり、飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁に次いで史上5人目の両リーグ最下位の監督になった。公式シーズン後(11月)に行われた日米野球の監督を務めたが、選手の出場辞退が相次ぎ苦戦、史上初めてメジャーリーグ選抜チームに5戦全敗。72年ぶりの記録となった。

    2006年11月23日に開催された楽天のファン感謝祭において、「来年は私の野球人生のすべてを賭ける。Aクラスに入れないようなら辞めて次の人に譲ります。いくら東北のファンが粘り強いと言っても、(新規参入から)3年連続で裏切ったら許してくれないでしょう」と、翌年の成績に自分の進退を賭ける旨の決意表明をした。このことは球団側も聞かされておらず、米田純球団代表も突然の事態に困惑していた。野村は就任当初から「作る年、戦う年、勝つ年」と3年かけてチームを作る方針を語ってきたが、2007年は3年契約の2年目であり「戦う年」にあたる。監督自らが提唱する計画に反するため、本当に辞めるつもりだったのか、それとも辞めるくらいの決意で戦うというリップサービスであったのかは定かでない。また、球団側は2007年シーズンが終了してもまだ契約が残っていることを強調したため、翌年の成績如何にかかわらず慰留する方針であると考えられていた。11月26日に行われた球団納会において島田亨球団社長から前述の発言の再考、撤回を求められたが拒否した。11月28日に行われた楽天の経営諮問委員会に出席し、その場で三木谷浩史オーナーや東北の財界者にAクラス入りを果たすまでは辞任しないで欲しいと長期政権を望まれた。しかし「成績が悪ければ進退伺を提出するのが通例。来季は自分の野球生命を賭ける」と今までと同じ姿勢を崩さなかった。

    2007年シーズンは新人を含め若手選手を積極的に起用する場面が目立った。投手陣では一場靖弘、岩隈久志らがシーズン序盤で離脱した影響もあり、永井怜、田中将大らを先発ローテーションに起用。捕手は育成を兼ねてルーキーの嶋基宏を多用。またシーズン中盤には渡辺直人、草野大輔らが台頭した。後半戦開始間もなく福盛和男が離脱するものの小山伸一郎をリリーフエースとして起用、一場と岩隈が一軍に復帰したこともあり先発ローテーションを再編、それまで主に先発だった山村宏樹、有銘兼久、永井らをリリーフに転向させた。さらに4番を張る山崎武司が38歳での本塁打王・打点王の二冠に輝く大活躍もあり、シーズンの最終成績は4位で創設3年目で初めて最下位を脱出した。2007年10月4日、3年契約最後の年である2008年も予定通り監督を続けることを表明。

    2008年6月29日のソフトバンク戦で球団史上最多20安打の猛攻で15点を奪い大勝。この日は73歳の誕生日で、7年ぶりの誕生日白星となり、選手達が用意した帽子型のケーキで祝福された。7月5日、対西武戦(西武ドーム)では「ライオンズ・クラシック」企画の一環として、当時(1963年)の日本記録である野村の52本塁打達成の舞台となった西鉄ライオンズ対南海ホークス戦を再現するイベントが行われた(この試合では豊田泰光(元西鉄)が始球式を行い、野村が捕手を務めた)。

    同年7月15日、日本ハム(東京ドーム)戦で監督として通算3,000試合出場を達成、選手としても通算3,017試合に出場しており、日米ともに前例のない、選手・監督両方での通算3,000試合出場を達成した。この年は序盤に球団初の単独首位になるものの交流戦後半から失速、かろうじて最終戦で勝利して最下位脱出をしたものの5位に終わる。2007年とはうって変わり、得失点差はプラスとなり、エース岩隈久志が21勝を挙げて復活するなど戦力の整備は進んだものの、順位には反映されなかった。同年シーズンを以って3年契約が終了。去就が注目されたが、球団から戦力の整備を評価され、1年契約での続投要請を受ける。野村自身もそれを受諾し、2009年も引き続き楽天を指揮することになったが、ドミンゴ・グスマンとホセ・フェルナンデス(中村紀洋をFAで獲得)が退団。

    ヤクルト最終年と阪神の3年間、そして楽天の3年間で負け越し、監督としての通算勝率が5割を切った(通算1488勝1497敗76分)。

    2009年シーズンは開幕から投手陣を中心に怪我人が続出した。特にドラフトで獲得した新人投手全員がオープン戦前に故障してしまい、片山博視や青山浩二といった期待の若手もキャンプで出遅れた上、前年活躍した新守護神川岸強も開幕後すぐに体を傷めるなど、投手に関しては就任以来の災厄に見舞われた。さらに野手に関しても、高須洋介やリック・ショートなどが故障でシーズン中に長期間戦線離脱するなど怪我人の多い年となった。スポーツ紙での解説者の順位予想では楽天は軒並み下位予想され、野村はこれに対して「下馬評が低いからやりやすい」とコメント。

    レギュラーシーズンが開幕するとチーム初の開幕4連勝で好スタートを見せ4月を首位で終える。4月29日には監督通算1500勝を達成、4試合連続で完投勝利した田中将大からウイニングボールを受けとった。しかし、怪我人が続出した5月以降は調子を落とし、交流戦では最大6連敗を喫し、7月には3年ぶりの8連敗、一時は5位にまで後退するが、8月に入り最大6連勝を含め通算17勝7敗。9月以降も好調を維持し、9月12日のソフトバンク戦(ヤフードーム)でチーム初のクライマックスシリーズ(以下「CS」)進出マジックナンバー「19」が点灯。2度消滅するが、10月3日の対西武戦(Kスタ宮城)で勝利し、チーム初のCS進出が決まった。9日のオリックス戦で2位が確定しCS第1ステージの地元開催権を獲得する。楽天球団として創設後初のAクラス入りとなり、野村自身のキャリアでもヤクルトで最後に優勝した1997年以来8シーズンぶりであった。また、11勝勝ち越したことで、監督通算勝率を5割に戻した。

    11日にKスタ宮城で行われたレギュラーシーズン最終戦(ソフトバンク戦)終了後、球団から契約を更新しない旨を告げられ、同年シーズン限りでの退任が決定した。16日のCS第1ステージの試合前ミーティングにおいて、仮に日本一になっても契約は更新しないと宣言されたことを選手に告げ、涙を流した。三原脩が持つ監督通算最多記録3248試合まで44試合に迫っていた。

    16日に開幕したCS第1ステージではソフトバンクに2連勝し第2ステージ進出を決めたが、21日開幕の第2ステージでは日本ハムに1勝4敗を喫し、日本シリーズ出場はならず。日本ハムのCS優勝セレモニーの後、楽天と日本ハム両軍の選手・コーチに胴上げされた。日本ハムに敗れた10月24日が野村にとって現役、監督通じてユニフォームを着てグラウンドに姿を見せた最後の日となった。11月2日、楽天の新監督に広島の前監督マーティ・ブラウンの就任が発表されるとともに、一度は拒否の姿勢を見せていた名誉監督就任要請を受諾した。この年をもって現場からも完全に引退することとなった。

    退任決定の際に「人生に疲れた。クビと言われ、どっと疲れが出てきた」と語った。さらに「ユニホーム姿もいよいよ秒読みだが、やっぱりオレは『元南海』がいい」とも口にした。

    東北楽天ゴールデンイーグルス監督退任後

    2010年からはサンケイスポーツの野球評論家に復帰、テレビ・ラジオではフリーの野球解説者として出演した。

    2010年1月24日には、故郷網野や母校が在る峰山町(平成の大合併で周辺自治体とともに合併し京丹後市)を含んでいた京都5区選出代議士谷垣禎一が総裁就任直後の政権奪還を目指す野党第一党自由民主党の党大会で講演をした。講演では「負けるときは負けるべくして負ける。巻き返しに向けて頑張れ」と自民党の政権奪還に向けて叱咤激励し、「負ければ反省するが、勝つと反省しない。そこに落とし穴があった」と第45回衆議院議員総選挙敗北の要因を野村なりに分析し語った。また、自民党をかつて「球界の盟主」と言われた読売ジャイアンツに例え「上に立てば必ず足を引っ張られることを忘れず、気を引き締めて捲土重来、頑張ってください」と応援の言葉を述べた。また、小泉進次郎(衆議院議員初当選から半年足らず)については「実にしっかりしている」と述べ、その上で「球界では親子2代で名選手の例がない。どうして政界と違うのかねぇ」と述べた。

    S☆1で共演していた枡田絵理奈は「野村さんの解説は本当にわかりやすく、ひとつひとつのプレイをとてもていねいに教えてくれます。監督は、野球をあまりよく知らない私に、野球の〝楽しさ〟や〝奥深さ〟を教えてくれる先生でもありました」と言っていた。2011年の日本シリーズでは第2戦、第5戦をテレビ東京系列で、第7戦をTBS系列でゲスト解説を担当した。中継放送終了後のS☆1も生出演した。

    2012年12月29日、契約満了により楽天名誉監督を退任。2020年現在までに、プロ野球界で名誉監督の称号を贈られたのは、野村と長嶋茂雄(巨人終身名誉監督)のみである。

    2013年4月、日本体育大学児童スポーツ教育学部客員教授に就任。大学で講演など実施。2013年12月16日に有馬記念レセプションパーティーにスペシャルトークショーのゲストで出演し、司会の徳光和夫に対して監督時代から鬱積した不満をぶちまけるようにストレートな毒舌を浴びせたこともある。

    また、野村は監督在任中の1990年から、地元の竹野郡網野町(現・京丹後市)に、三冠王達成時のペナントや、MVPのトロフィーなど約80点の記念品を寄贈してきた。網野町では記念館の建設を計画したもの頓挫し、その後、これらの記念品は京丹後市内で塩漬け状態となっていた。地元住民や有識者からは記念館建設を望む声が強いものの、京丹後市は予算不足を理由に及び腰とされ、野村は「自分の記念品を邪魔物扱いしているのか」とぼやいていたという。しかし、2018年3月にアミティ丹後(丹後地域地場産業振興センター)に「野村克也ベースボールギャラリー」が開設され、後年のヤクルト監督時代なども含めた野村からの寄贈品を中心に展示している。

    2017年12月8日、妻の沙知代が急死。当日の自宅前での会見では「突然のことでびっくりしています」と憔悴した表情で述べた。

    2019年、ヤクルト球団50周年を記念して行われたOB対抗戦「スワローズドリームゲーム」に、1990年代、自らが監督として率いた選手らで構成する「GOLDEN 90’s」の監督として出場し、4回裏、自ら打席にも立つ。その際、野村は体力が衰えていたため、当時の教え子であった古田、真中、川崎、池山らに支えられ、初球を空振りしたところで申告敬遠を告げられた。

    2020年になってからもヤクルトやシダックス野球部のOB会に出席。かつて指導したヤクルト新監督の高津臣吾や日本ハム新任コーチの武田勝にエールを送っており、特にヤクルトに対しては「ヘッドコーチ? 喜んでやりたいと思います」と冗談めかしながらサポートにも意欲を見せていた。1月21日には前年10月に死去した金田正一のお別れの会に参列し、献花した。さらにその後、1月25日に催されたシダックス野球部OB会に出席して「愛がなければ人は育たない」とスピーチしたのが公の場に於ける野村の最後の姿となった。

    死去

    2020年2月11日未明、東京都世田谷区の自宅にて入浴中であったが浴槽でぐったりしているところを家政婦が発見し、病院に搬送されたが死亡が確認された。84歳没(享年86)。

    死因は虚血性心不全。ニューヨーク・タイムズ紙も訃報を報じ、追悼記事を掲載、功績を紹介した。

    戒名は「慈光院眞球克将居士」。

    追悼行事は死去前後からの新型コロナウイルス感染症の流行により延期され、死去から1年10か月後の2021年12月11日に神宮球場で「野村克也をしのぶ会」が開催された。弔辞は江本孟紀・古田敦也・高津臣吾が読み、矢野燿大・新庄剛志・石井一久らも参列した。

    選手としての特徴

    打者として

    野村が数々の大記録を残せた大きな理由に、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことが挙げられる。当時の鶴岡監督率いる南海は、他球団に先駆けてデータ収集・活用のための体制を整えており、実際のデータ収集を担当した尾張久次は日本プロ野球のスコアラー第1号とも言われている。野村は蔭山和夫コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果と併せて分析し、打撃にも配球にも生かした。

    野村が特に優れていたのは瞬時の観察力と解析力だった。広瀬叔功によれば、野村は若い頃から「あのピッチャーの右手首がグラブから見えたらカーブ」など、ピッチャーが投球する時に表れる微妙な癖を的確に見分けていたという。

    1966年の日本シリーズで全盛期の野村と対戦した巨人の堀内恒夫は「どこへでも打てるバッターだった。(第2戦の)初回に打たれた右翼越えの二塁打も、アウトコース高めに投げた真っすぐをトスバッティングのように打たれた」と語っている。また広瀬によれば、野村は偉大なホームランバッターでありながら、より遠くへ飛ばすという飛距離へのこだわりは稀薄であったという。

    捕手として

    野村がプロ生活を始めた当時、捕手の地位は打者としての役割を求められないばかりか大柄で、ミットの薄い部分でキャッチングして大きな音を出すことで投手の気分を良くさせる程度しか求められていないなど、現在とは比べ物にならないほど低いものであった。その中で野村は自身の打撃成績の向上のため蔭山和夫や尾張久次とスコアの研究を重ねる過程で、スコアの研究をリードに生かすことで効率よく打者を抑えることを研究するようになっていった。

    捕手として守備に就いた時には、相手打者にささやくことで集中力を奪うことを得意とした。この策は「ささやき戦術」として知られる。野村のささやき戦術は1950年代、当時同リーグで活躍していた西鉄の日比野武を参考にして(著書「野村克也 野球論集成」では日比野、「野村の遺言」には、阪急の山下健と書いている)始まったといわれる。当初は「次は頭にいくでぇ」「今度こそ頭だぞ」「当たったら痛いだろうナァ」などといった直接的な脅しだったため、当時ライバルだった阪急の西本幸雄監督が「先に野村にぶつけろ」と指令を出した。その後、鶴岡と西本の会談が持たれたために脅しは止めたが、今度は相手打者の私生活などについてささやき、集中力を乱す方向へ変更した。東京都であれば銀座、大阪府であれば北新地といった繁華街の高級クラブに頻繁に出向き、その店のホステスから常連客として姿を見せるライバル選手の情報を仕入れるのが常だったという。

    このささやき戦術は多くの選手に影響を与え、有名選手を中心に様々なエピソードを残している。白仁天はささやきによる集中力低下を避けるために耳栓を用いたが、かえって意識しすぎて打てなかったという。一方で大杉勝男にささやきかけると「うるさい!」と一喝されたものの、その一喝は野村のささやきをそれだけ気にしていた結果であった。

    ただし、この戦術が全く通じない選手も存在した。王貞治はバッターボックスに入るまでの雑談には応じたものの、いざ投手と構えると集中し、話を全く聞かなかった。長嶋茂雄は、野村のつぶやきに「よく知ってるねぇ。どこで聞いたの?」と意に介さずに会話を続けたり、かみ合わない話を返したりするなど全くささやきが通じなかった。さらに動揺を誘う為「(バッティングの)フォームが少しおかしいんじゃないの?」と長嶋にささやいた際には、「本当?ちょっと待って」とタイムをかけられ、1、2回素振りをした後に次の球を本塁打にされてしまった。そしてホームインした長嶋から「教えてくれてありがとう」と言われ、野村は唖然としたという。天才肌の榎本喜八に対しては、榎本独特のオーラに呑まれて、野村自身余裕をなくして戦術を実行できなかった。また、投手のクセの研究に関しては野村にもヒケをとらない高井保弘は、打席で「何(のボールを)待ってんのや」と聞いてきた野村に「ヤマの張り合いをしよう」と持ちかけ、ことごとく球種を言い当てた上に最後に本塁打を打ったという。

    オールスターゲームでも、パ・リーグ捕手としての地位を最大限に利用して同リーグ投手のデータ収集を行ったが、稲尾はこの意図を見抜いていたため野村のサイン通りに投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」だったと言われており、稲尾は後年「オールスターでは野村さんとの駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と語っている。また、稲尾はマスコミや周囲に「自分の決め球はスライダーである」と吹聴していたが、実際はスライダーは見せ球で、本当の決め球はシュートであった。これを見抜いていたのは野村だけだった。

2024/06/14 06:36更新

nomura katsuya


野村克也と同じ誕生日6月29日生まれ、同じ京都出身の人

川瀬 晶子_(声優)(かわせ あきこ)
1980年6月29日生まれの有名人 東京出身

川瀬 晶子(かわせ あきこ、1980年6月29日 - )は、日本の女性声優。東京都出身。アクセント所属。 小さい頃から芝居が好きであり、小学校時代に演劇部に所属。 ある時、学校の演劇部に、「ボラ…

堀江 利幸_(経営者)(ほりえ としゆき)
1942年6月29日生まれの有名人 東京出身

6月29日生まれwiki情報なし(2024/06/12 07:37時点)

酒井 友之(さかい ともゆき)
1979年6月29日生まれの有名人 東京出身

酒井 友之(さかい ともゆき、1979年6月29日 - )は、埼玉県三郷市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(ボランチ、右サイドハーフ)。元日本代表。 埼玉県三郷市…

陽向 菜友(ひなた なゆ)
2000年6月29日生まれの有名人 東京出身

陽向 菜友(ひなた なゆ、2000年6月29日 - )は、日本の女優。フリー。東京都出身。 2013年9月まで、劇団ひまわりに所属していた。元、ノーメイク所属・青SHUN学園(2013年10月 -…

中沢 初絵(なかざわ はつえ)
1967年6月29日生まれの有名人 東京出身

中沢 初絵(なかざわ はつえ、1967年6月29日 - )は東京都出身沖縄県育ちのアイドル、タレント。父親は東京都、母親が沖縄県出身。弟は漫画家でタレントの山咲トオル。一人娘をもつ、ママドル。 高…

木村 昴(きむら すばる)
1990年6月29日生まれの有名人 東京出身

木村 昴(きむら すばる、1990年6月29日 - )は、日本の声優、タレント、ラッパー、俳優、司会者、ナレーター。 ドイツ出身。アトミックモンキー所属。天才劇団バカバッカ主宰。 1990年、ド…

西京 舞(さいきょう まい)
1984年6月29日生まれの有名人 京都出身

西京 舞(さいきょう まい、1984年6月29日 - )は、京都府出身のグラビアアイドルである。前所属事務所は、エクセルヒューマンエイジェンシー。 2007年1月から2008年3月まで芸能人女子フ…

木内 あきら(きうち あきら)
1973年6月29日生まれの有名人 京都出身

木内 あきら(きうち あきら、1973年6月29日 - )は、日本のタレント、エステティシャン兼ビューティーアドバイザー。京都府京都市生まれ。血液型はB型。 1993年、短大在学中に「'94テイジ…

美元(みをん)
1979年6月29日生まれの有名人 東京出身

美元(みをん、1979年6月29日 - )は、女優、ファッションモデルである。 1979年、東京都生まれ。日本人の父と韓国系日本人の母の間に生まれた。 「美元」は芸名で、旧姓は芦澤、実名は裕子(…

久松 夕子(ひさまつ ゆうこ)
1933年6月29日生まれの有名人 東京出身

久松 夕子(ひさまつ ゆうこ、1933年6月29日 - )は、日本の女優、声優。本名は久松孝子。東京府(現東京都)出身。劇団青年座所属。東京都立小松川高等学校卒業。 ありがとう(1970年、TBS…

倍賞 千恵子(ばいしょう ちえこ)
1941年6月29日生まれの有名人 東京出身

倍賞 千恵子(ばいしょう ちえこ、1941年〈昭和16年〉6月29日 - )は、日本の女優、歌手、声優。愛称は「チコちゃん」。 妹は女優の倍賞美津子。弟は日産自動車硬式野球部元監督の倍賞明、新日本プ…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


野村克也と近い名前の人

野村 華苗(のむら かなえ)
1971年5月31日生まれの有名人 神奈川出身

野村 華苗(のむら かなえ、本名:稲垣華苗【旧姓:野村】 1971年(昭和46年)5月31日 - )は、元テレビ朝日アナウンサー。 神奈川県横浜市出身。 法政大学女子高等学校、法政大学法学部政治…

野村 香菜子(のむら かなこ)
1989年12月25日生まれの有名人 出身

野村 香菜子(のむら かなこ、1989年12月25日 - )は、日本の女性声優。東京都出身。Rush Style所属。 声優に興味を持ち始めたきっかけは幼少時に観た『楽しいムーミン一家』で、その後…

野村 勝人(のむら かつひと)
11月2日生まれの有名人 茨城出身

野村 勝人(のむら かつひと、11月2日 - )は、日本の男性声優。 2012年現在はカレイドスコープに所属しているが、以前はケッケコーポレーションに所属していた。 人物 OVA『I"s Pu…

野々村 香音(ののむら かのん)
2001年4月20日生まれの有名人 東京出身

香音(かのん、2001年〈平成13年〉4月20日 - )は、日本のファッションモデル、タレント、女優、『non-no』の専属モデルである。本名、野々村 香音(ののむら かのん)。父はタレントの野々村真…

野村 靖_(政治家)(のむら やすし)
1931年10月1日生まれの有名人 徳島出身

野村 靖(のむら やすし、1931年(昭和6年)10月1日 - 2017年(平成29年)5月22日)は、日本の政治家。阿南市長。徳島県阿南市出身。徳島県立新野高等学校卒業。 1950年、徳島県立新…

野村 吉三郎_(経営者)(のむら きちさぶろう)
1934年6月10日生まれの有名人 大分出身

野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1934年(昭和9年)6月10日 - )は、日本の経営者。元全日本空輸社長・会長。大分県出身。 1959年(昭和34年)4月 早稲田大学第一法学部卒業後、全日本…

野村 貢(のむら みつぐ)
1956年11月21日生まれの有名人 北海道出身

野村 貢(のむら みつぐ、1956年11月21日 - )は北海道室蘭市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 札幌大学を経て、フジタ工業に所属。また、日本代表として国際Aマッチ12試合に出場した。…

野村 泰治(のむら たいじ)
1922年11月20日生まれの有名人 東京出身

野村 泰治(のむら たいじ、1922年〈大正11年〉11月20日 - 2002年〈平成14年〉8月4日)は、日本放送協会(NHK)、及び東京放送(TBSテレビ = 局契約)アナウンサー。 中央大学…

野村 真季(のむら まさき)
1975年12月2日生まれの有名人 神奈川出身

野村 真季(のむら まさき、1975年12月2日 - )は、テレビ朝日のエグゼクティブアナウンサー。 三人姉妹の三女として、神奈川県横浜市で育つ。神奈川県立市ケ尾高等学校、東京女子大学現代文化学部…

野村 秀雄(のむら ひでお)
1888年1月8日生まれの有名人 広島出身

野村 秀雄(のむら ひでお、1888年1月8日 - 1964年6月20日)は、日本の放送経営者、ジャーナリスト。第8代日本放送協会(NHK)会長、元朝日新聞社代表取締役、熊本日日新聞社社長。広島県双三…

野村 正育(のむら まさいく)
1962年2月10日生まれの有名人 滋賀出身

野村 正育(のむら まさいく、1962年2月10日 - )は、NHKのエグゼクティブ・アナウンサー(局次長待遇)。現在はNHK放送研修センター・日本語センター出向。 滋賀県立膳所高等学校、京都大学…

野村 優夫(のむら まさお)
1969年10月24日生まれの有名人 神奈川出身

野村 優夫(のむら まさお、1969年10月24日 - )は、日本放送協会 (NHK) のチーフアナウンサー。 神奈川県茅ヶ崎市出身。浅野高等学校、早稲田大学卒業。大学を卒業後、1992年にNHKに…

野村 裕美(のむら ゆみ)
1970年3月8日生まれの有名人 出身

野村 裕美(のむら ゆみ、1970年3月8日 - )は、日本でタレント活動をしていた女優。野村 ゆみ名義やのむら ゆみ名義でも活動していた。本名は竹田 裕美(たけだ ゆみ)。活動当時は太田プロダクショ…

野村 麻衣(のむら まい)
1990年3月30日生まれの有名人 栃木出身

野村 麻衣(のむら まい、1990年3月30日 - )は、日本の女優、タレント。 栃木県小山市出身。YOUGO TRUST所属。元所属事務所はDig esT(ディグエスト)。『悪い芝居』所属。 …

野村 奈央(のむら なお)
1999年8月10日生まれの有名人 愛知出身

野村 奈央(のむら なお、1999年〈平成11年〉8月10日 - )は、日本のタレント・女優である。女性アイドルグループ・AKB48の元チームKドラフト研究生である。愛知県出身。 2015年 3…

野村 沙知代(のむら さちよ)
1932年3月26日生まれの有名人 東京出身

野村 沙知代(のむら さちよ、1932年〈昭和7年〉3月26日 - 2017年〈平成29年〉12月8日)は、日本のタレント。所属事務所は株式会社エフエンタープライズ(東京都千駄ヶ谷)。 元プロ野球選…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
野村克也
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

AKB48G PASSPO☆ CheekyParade SMAP 私立恵比寿中学 SUPER☆GiRLS SUPER EIGHT Rev.from DVL アイドリング HKT48 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「野村克也」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました