鶴岡一人の情報(つるおかかずと) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
鶴岡 一人さんについて調べます
■名前・氏名 |
鶴岡一人と関係のある人
寺田陽介: 1962年に、半田春夫、長谷川繁雄と共に、井上登との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍(南海監督であった鶴岡一人は、「このまま南海にいたら、ヤジなどで苦しむ」と思ってトレードに出したと言っている)。 山本一義: プロの全球団から誘いを受け、広商の大先輩で高校時代から目をかけてもらった鶴岡一人監督率いる南海ホークスに入るつもりであったが、それを父に話すと酷く落胆。 畑隆幸: ^ 『鶴岡一人の栄光と血涙のプロ野球史』232-236頁 大和田明: 1968年は1割台の打率に終わり、さらに監督が大和田を引っ張ってきた鶴岡一人から飯田徳治へ交代したこともあり、「鶴岡さんがやめるのなら、おれも一緒にやめる」として、この年限りで現役引退した。 稲尾和久: 高校2年生の秋にスカウト・石川正二が、冬には監督・鶴岡一人が接触してくるなど、早くから南海ホークスが稲尾の獲得に動く。 寺田陽介: 当時、南海の監督であった鶴岡一人は、守備はよい一方で、「穴が多く、いい投手にかかると打てないという欠点」があり、期待ほどの実績はあげられなかったと評しているものの、南海が400フィート打線と称していた打線の担い手の一人と位置づけられていた。 村上雅則: 高校卒業後は医者は無理でも、特定郵便局であった実家の後を継ぐため大学進学を予定していたが、村上を目に留めた南海ホークスの監督である鶴岡一人自らが村上家を訪問し、鶴岡から「ウチへ入ったらアメリカに行かせてやる」と口説かれ、高校在学中の1962年9月に南海と契約を結ぶ。 佐伯和司: これは鶴岡一人がキャピー原田を通じて佐伯をアメリカに留学させた上で、アメリカのプロ野球でプレーさせようとしたものだったが、当時の鈴木龍二セ・リーグ会長の反対でこれは実現せず、同年ドラフト1位で地元広島入団(金城基泰らが同期)、地元出身のスター選手として大いに騒がれた。 山本功児: また、実父は当時の監督であった鶴岡一人と懇意にしており、二軍選手はもちろんのこと、上記の皆川以外にも杉浦忠、穴吹義雄、野村克也らの主力選手もからもよく声をかけられていて、「功児、合宿所に遊びに来い」と度々誘いを受け、選手寮の食堂で選手たちと食事をともにするだけでなく、帰る前に湯船に浸かっていくこともあったという。 円城寺満: 鶴岡一人、他『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』日本経済新聞出版社、2007年。 柚木進: ^ 『鶴岡一人の栄光と血涙のプロ野球史』66頁 藤本真澄: 生涯独身を通したが、寂しがり屋な性格で豪酒でもあり、藤本プロ以来の盟友でもある越路吹雪や前記のスタッフ・俳優のほか南海ホークスのファンで鶴岡一人ら、気の合った仲間と毎晩飲み食い歩いていたという源氏鶏太の小説「東京一の淋しい男」は藤本がモデルといわれる(1964年『裸の重役』として映画化)。 佐野誠三: チームの一年後輩に、戦後、名将として名を馳せる鶴岡一人がいた。 浜崎忠治: 広島商時代のチームメイトに、鶴岡一人(のち南海)、灰山元治(のち朝日)、奈良友夫(のち大阪)らがいる。 広岡達朗: 大学4年次には毎日オリオンズ・近鉄パールス・大阪タイガース、さらには同郷の鶴岡一人率いる南海ホークスや入団を勧誘されたが、広岡は当初から「一番強いチームに行きたい」と決めていた。 岡村俊昭: コーチ時代には、一軍監督である鶴岡一人の「親分」に対して「大将」というあだ名があったという。 山本浩二: 南海ホークスの鶴岡一人監督が、大阪と広島に「ちょうちん会」という後援会を持っており、広島の後援会から鶴岡に推薦があり、鶴岡が廿日市高のグラウンドに視察に訪れた。 柚木進: 早速、法政大学の先輩である南海監督の鶴岡一人から勧誘を受ける。 野村克也: その中で南海ホークスの鶴岡一人(当時は山本姓)監督だけが返事をくれ、2年生だった1952年7月24日に西京極球場で行われた府予選1回戦(対花園高校)で、約束通り観戦に来た鶴岡の見守る中、野村は本塁打を放った。 矢野清: ^ 南海の鶴岡一人監督は試合終了後に辞意を伝え、23年間の監督生活を終えた。 森下整鎮: 鶴岡一人監督の回顧録には、アキレス腱を断裂した森下が、夫人の肩につかまりながら砂浜を歩いてリハビリをしていた、と書かれている。 奈良友夫: 広島商業で鶴岡一人がエースとなった1933年春選抜大会に鶴岡のあとの5番レフトでベスト4入りに貢献。 広瀬叔功: 1961年に守備位置が同一のルーキー・小池兼司が入団すると、小池の遊撃守備を見た広瀬は「自分より堅実な小池に任せた方がチームのためになるのではないか」と考え、監督の鶴岡一人に自ら提案して8月から中堅手へ転向した。 白崎泰夫: 無名校に近い忠海高校が、エースの白崎の活躍で県大会に優勝した直後、当時の南海ホークス監督である鶴岡一人の私設スカウトである上原清二(鶴岡と広島県立広島商業高等学校時代の同級生で親友)は呉線に乗り、竹原に向かった。 上田利治: この時には、先に鶴岡一人が近鉄の監督になるという話があり、尊敬する鶴岡から上田はコーチとして呼ばれていたが、発表前日に鶴岡が監督就任をキャンセルしたことで、阪急に入った。 新山彰忠: 南海は鶴岡一人監督が法大の先輩でOB会の一員であり、巨人は高校時代の恩師・前川が元巨人の投手であったこと、阪神は藤本定義監督と前川の線などが有力な新山獲得へのルートと見られていた。 浜崎真二: 実弟・浜崎忠治も鶴岡一人らと広島商業で高校野球夏春連覇したときの選手(投手・内野手)で、その後審判として平和台事件の主審を務め、歴史的判断を下したことでも知られる。 円城寺満: 南海の監督であった鶴岡一人は、後年執筆した「私の履歴書」で、上記の円城寺への暴行について「暴力はいけないこと」と、スタンカの一球は「ストライクとも、ボールとも、どちらにでもとれる微妙なものだった」と認める一方で、「その後、円城寺さんは責任を感じられたのか、体を悪くして審判を辞められた。 田沢芳夫: 引退後は野球界を離れ、鶴岡一人監督の紹介で早川電機工業(現・シャープ)に就職。 鈴木武: 当時の南海ホークス監督・鶴岡一人から「ウチの木塚よりも(盗塁が)うまいで」と評価され、当の木塚忠助も鈴木を盗塁の名人と認めていた。 |
鶴岡一人の情報まとめ
鶴岡 一人(つるおか かずと)さんの誕生日は1916年7月27日です。広島出身の野球選手のようです。
卒業、結婚、現在、引退、事件、父親、再婚、事故、母親、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2000年に亡くなられているようです。
鶴岡一人のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 鶴岡 一人(つるおか かずと〈かずんど〉、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・監督、野球解説者。位階は従五位。1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」。 愛称は「鶴岡親分」「元祖親分」「ツルさん」。「ドン鶴岡」とも呼ばれ、初代ミスターホークスの異名を取った。南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、日本プロ野球史を代表する指導者の一人。 一軍監督として通算1773勝を挙げたプロ野球史上最多勝監督。また、勝率.609は通算500勝以上を挙げている歴代監督の中でも唯一の6割超えである。リーグ優勝回数11回は川上哲治と並ぶプロ野球の監督史上最多記録である。 一年先輩である浜崎忠治(浜崎真二の弟)と仲間になったことがきっかけで野球を始める。呉は工員の体力強化を目的に野球を奨励していた呉海軍工廠の影響で、戦前から野球が盛んだった。鶴岡は五番町小学校で、同学年の藤村富美男は近くの二河小学校に通う当時からのライバル。鶴岡は広島県立広島商業高校へ進学し、1931年に遊撃手として第8回選抜中等学校野球大会で全国制覇を達成、同年中には選抜優勝校の特典として、主催の大阪毎日新聞社からアメリカ遠征を与えられ、高校やノンプロチームと対戦した。カリフォルニア州サンタマリアで対戦したハイスクールには、戦後に親交を結ぶことになる日系2世のキャピー原田がおり、原田は「印象に残る、とてもうまいプレーヤーだった」と後に振り返っている。1933年の第10回選抜中等学校野球大会はエース兼4番打者としてベスト4まで進出した。 法政大学進学後は同大学野球部で、すぐにレギュラーを務め、華麗な三塁守備は「東京六大学史上最高」とも言われ、法政大学の連覇に貢献するなど、花形選手・主将として活躍した。新聞の「法政 鶴岡」という見出しの大きさは、この頃に始まった職業野球の球団名の活字の10倍はあったという。リーグ通算88試合出場、331打数99安打、打率.299・2本塁打・56打点で、首位打者1回。個人一試合6安打という最多安打の六大学リーグ記録を持つ。 1939年に法政大学を卒業すると同時に、創立初年度の南海軍に入団した。当時の六大学野球の花形選手は、卒業後は企業チームに進んで1927年から始まっていた都市対抗野球を目指すのが既定路線。産声を上げたばかりのプロ野球は「職業野球」として軽んじられ、「海のものとも山のものとも分からない興行」という位置づけだった。プロ野球選手は「男芸者」と蔑まされる存在。法政大学野球部OB会は、「卒業と同時に職業野球に入るとは何事か。『野球芸人』になるつもりか。母校の恥だ。(鶴岡を)除名せよ」との声が出た。鶴岡にプロ入りを決断させたのは、「(軍隊に)取られたら生きて帰れるかわからない。それ(徴兵)までは好きな野球をやりたい」という思いだった。同様の理由で川上哲治もプロ入りしており、「徴兵=戦死」という暗い予想が無ければ、見下されていたプロ野球界には人材が集まらなかった可能性が高い。このように、プロ野球史は「戦争による抑圧」という陰惨な時代を迎えようとしていたが、皮肉な結果論として、戦争がプロ野球界へ貢献した側面もあった。 南海軍へ入団した鶴岡は、その卓越した統率力から新人にもかかわらず主将に抜擢され、「3番・三塁手」として同年に本塁打王を獲得。放った10本塁打は1938年の秋季リーグで記録した巨人・中島治康とともに戦前の最多タイ記録である。鶴岡の守備方法「ノーステップ・スロー」は法政大学在籍時代に肩を痛めたため、極端な前進守備から素早く送球する方法を選んだためである。鶴岡の人気は「職業野球選手中の随一」と言われ、当時は珍しかった女性の野球ファンも増やした。東京六大学のスター選手がプロ入りすることで、プロ野球界全体、選手個人の人気を共に広げていく、その先駆けが鶴岡である。 そんな鶴岡にも、1940年に召集令状が届く。鶴岡は陸軍高射砲連隊へ入隊し、6年間もの長きに渡って従軍、日本内地を転々とした後、1945年8月の終戦直前には神風特別攻撃隊の出撃地となった鹿児島県知覧町(現・南九州市)の陸軍知覧航空隊機関砲中隊長を務め、低空で飛んでくるグラマンを撃ち落とした。この時に中隊長として200名の部下を率いた経験が、後の「指揮官哲学」を生んだと言われている。1944年に結婚、同時に妻の家へ婿入りし、「山本 一人」へ改姓した。南海の経営陣はたった1年の在籍だった鶴岡こそチームの未来を担う人材と見込み、その復員をひたすら待った。 1946年に復員し、29歳で監督就任を要請され、同年30歳から1952年まで選手兼任監督を務める。終戦直後は球界に野球賭博が横行し、八百長の噂が絶えなかったが、鶴岡はチーム内の疑惑の選手を一掃し、南海を巨人と覇権を争う強豪チームに育て上げる。戦後の混乱期の中で、野球のみならず選手の生活の面倒まで世話していたことから「鶴岡親分」と呼ばれて慕われた。その様子は、鶴岡が放棄試合をしたにもかかわらず、人徳に考慮して罰金を免除すると言われるほどだったという。また、有望選手の獲得も上手かったが、無名選手を中百舌鳥球場で徹底的に鍛え上げ、名選手に育て上げる手腕がそれ以上に長けていた。さらに、選手のプロ意識を向上させるために発言した「グラウンドには“ゼニ”が落ちている。人が2倍練習してたら3倍やれ。3倍してたら4倍やれ。“ゼニ”が欲しけりゃ練習せえ」という名言は大変有名で、この「グラウンドにはゼニが〜」の部分は、野球漫画「グラゼニ」のタイトルの元になった。 このように、鶴岡は現代野球に直結する様々な手を打ってきた。大阪タイガースの「ダイナマイト打線」に対抗できる決め手はないかと考え、「足にスランプはないから」という理由で、俊足かつ野球をよく知る選手を集め、1946年は1番・安井亀和、2番・河西俊雄、3番・田川豊の「俊足トリオ」で塁を掻き回し、4番・鶴岡、5番・堀井数男が返すという「機動力野球の元祖」で、読売ジャイアンツを1勝差でかわし、戦後プロ野球再開初年度の優勝を南海(当時は「グレートリング」)の初優勝で飾った。このとき鶴岡(山本)は30歳であり、優勝監督として史上最年少である。この年は選手としても戦争のブランクを感じさせず、95打点の新記録で戦後初の打点王に輝き、戦後初のMVPを自身も初めて獲得している。 翌1947年は、少数精鋭主義の失敗から3位転落の事態に直面したことから、シーズン半ばから新しいチーム作りを画策。当時としては破天荒な選手補強に使う軍資金を球団に要求。中谷信夫と飯田徳治を同年傘下に収めると、シーズンも深まった秋に広島の情報筋から柚木進のシベリアからの復員をいち早くキャッチし、急遽試合の采配を岡村俊昭に任せて柚木の実家呉に飛び、柚木を口説き落とした。柚木は既に就職先が決まっており、また柚木は藤村冨美男と姻籍関係にあり、鶴岡の交渉が遅れていたら南海入りしていなかったといわれる。この年のうちに、大日本土木で都市対抗野球の優勝投手となった中原宏、松本忠繁・松本勇の忠勇コンビ、全大阪の笠原和夫、木塚忠助らを補強。選手獲得の際の口グセは「補強と補充は言葉の響きは似とるが、実質はエライ違いや。本当に欲しいポジションに、すぐに使える選手を入れてこそ補強なんや!」だった。万全の補強で翌1948年シーズンに臨んだ。 1946年の戦後初優勝は、他球団の未整備によるものとか、足(走塁)による撹乱でドサクサに乗じたものなどと酷評する向きがあったのに対して、1948年は各チームとも戦力を強化。藤本英雄や白石敏男、青田昇を復帰させた巨人、別当薫を加えた大阪が手強いライバルと見なされたが、小技一辺倒から力を兼備し、選手全員が結束し、第一節から一度も首位を譲ることなく堂々2年ぶりの優勝を果たした。自身も選手兼任監督ながら青田昇(読売ジャイアンツ)、小鶴誠(大映ユニオンズ)と三つ巴の首位打者争いを繰り広げ、最終打席に敬遠で歩かされたことで、青田と6毛差の3位に終わった。しかしチームが優勝したことで鶴岡自身も2年連続でMVPに選出された。気のいい鶴岡は、MVPの副賞だった金一封5万円也を選手を引き連れ、ミナミのキャバレーに繰り出し、一晩で呑み倒し使い果たした。 1949年には現在の育成枠の先駆けともいえるファームを創設、狭き門に600名もの応募者が殺到した。1951年に創設した南海土建野球部は近年増えるプロ野球二軍チームと社会人チームの交流試合の先駆けと言える。この年はチームとしてリーグ優勝を果たし、選手としても3度目のMVPを獲得した。日本プロ野球史上、「優勝監督でMVP」を達成したのは鶴岡のほかに若林忠志(阪神タイガース、1944年・1947年)と野村克也(南海、1973年)の2人だけだが、鶴岡はその中で最も多くこの栄誉を手にしている。 また1950年に完成した本拠地・大阪スタヂアム(大阪球場)の建設にも松浦竹松球団代表と共に尽力し、生涯にわたって交流を持ったキャピー原田を通じて、GHQ経済科学局長のウィリアム・マーカットから球場の建設許可を取り付けた。 1951年から1953年までリーグ三連覇、1952年に監督業に専念するため、この年限りで現役を引退した。 同一球団の監督として指揮を執った期間は日本プロ野球史上最長、史上最多の1773勝(1140敗81分)、最高勝率.609を記録した(300試合以上を経験した監督で唯一の6割超え)。特に1950年に「パシフィック・リーグ」となってから辞任するまでの19年間では、優勝:9回(うち日本一2回)、2位:9回、3位以下は僅か1回(1967年の4位)だけ、2位に終わったシーズンもそのうち5シーズンは首位と1ゲーム差以内という驚異的な成績で、南海ホークスの黄金時代を築いた名監督であり、「南海(ホークス)を語ることは鶴岡を語ることであり、鶴岡を語ることは南海(ホークス)を語ることである」とまで言われた。南海50年の歴史の中で鶴岡一人の占めた存在は大きいものがあった。 しかし、悲願の日本一を達成した直後の1959年12月に鶴岡の最大の理解者であり庇護者であった小原英一オーナーが逝去すると、球団における鶴岡の立場は次第に微妙なものになっていく。開幕から連敗続きだった1962年5月には「指揮官が悪いと部隊は全滅する」との言葉を残し、蔭山和夫ヘッドコーチを代理監督に立てて休養したが、同年8月に周囲の懇願により監督に復帰した。 小原の没後、球団上層部は大幅な財政緊縮を図るようになり、野村克也・広瀬叔功ら主力選手との間で年俸闘争が相次いでいた。こうした球団の姿勢に強い不満を抱いていた鶴岡はついに1965年の日本シリーズ終了翌日の11月6日に辞意を表明し、7日に球団に辞表を提出した。辞任の報を聞きつけた選手会長兼主将の野村らに退団を思いとどまるよう懇願されたが、鶴岡の退団の意思は固く、13日に記者会見を開き正式に監督退任を表明した。辞意表明の直後から東京オリオンズとサンケイスワローズの在京2球団が鶴岡に監督就任を要請しており、鶴岡は17日に上京して両球団のオーナーと面会し、午後4時に就任先を正式に発表すると言明していた。ところがその日の午前4時に後任の蔭山和夫新監督が急死したとの報がもたらされる。蔭山は西本幸雄の誘いで阪急ブレーブスのヘッドコーチへの就任が内定しており、鶴岡と同じく6日に退団の意思を表明していたが、球団から慰留されて鶴岡の後任を引き受け、13日に監督に就任したばかりだった。蔭山の急死をうけ、鶴岡は両球団に対し21日まで就任諾否の返答を延期したいと申し入れた。蔭山の遺体と対面した鶴岡は慟哭し「ワシが(蔭山を)殺したようなもんや」と力無く呟いた(南海蔭山新監督急死騒動)。 18日には野村と選手最年長の杉山光平が鶴岡邸を訪れて南海への復帰を懇願した。自責の念に駆られる鶴岡は復帰を躊躇したが、翌日には野村の説得に応じて監督復帰を決断した。鶴岡は「自分の後任は、第一候補は蔭山、第二候補が野村」という構想を周囲に示しており、いずれ蔭山が勇退した際には野村を監督に推挙するつもりでいたが、今この時点で働き盛りの野村が選手兼任監督になれば中西太と同様に苦労すると考え、復帰に同意したという。20日に催された蔭山の球団葬の後、鶴岡は正式に南海への復帰を表明し、改めて南海と3年契約を結んだ。蔭山の急死は、球界地図を大きく変えることになったともいわれる。 南海は蔭山の弔い合戦となった1966年こそリーグ優勝を果たしたものの、その後は力をつけてきた西本阪急の前に屈し、1967年には勝率5割を切って(.492、借金2)監督生活で唯一となるBクラス(4位)に転落し、1968年は最終盤まで阪急と激しい優勝争いを展開したものの1ゲーム差で優勝を逃した。1968年のシーズン終了後、後任監督に飯田徳治ヘッドコーチを指名し、契約満了を以て南海を退団した。蔭山の死が鶴岡の精神状態に及ぼした影響は大きく、この最後の三年間の鶴岡の姿はそれまでとは微妙に異なっていたという。野村克也は1968年1月に南海ファンの作家・藤沢桓夫との対談の中で、このごろの鶴岡は以前のように選手を怒鳴りつけて喝を入れることがなくなったといい、野村はそれが1967年のBクラス転落の一因であるとして、鶴岡に「グラウンドでは鬼になってほしい」と訴えた。と語っている。 監督業から退いた鶴岡は、当時高校生以上と異なりプロ野球OBの関与が可能だった少年野球(中学生以下)の国際交流に尽力。鶴岡は監督在任中の1967年に「リトルホークス(現・ジュニアホークス)」を創設しており、1970年には、大阪スタヂアムを本拠地とするボーイズリーグを創設した。当時は、少年野球が使用するグラウンドにプロ野球の本拠地球場を充てることは非常に珍しく、画期的なことだった。ボーイズリーグは多くの逸材を輩出し、日本野球のレベルアップに大いに貢献した。ボーイズリーグでは今日も鶴岡の名を冠した大会が開催されている。鶴岡は選手兼任時代の1947年から背番号30を着けたが、野村克也は「少年野球の監督の背番号が30に決っているのは、セ・リーグの水原茂と鶴岡さんのイメージが影響しているのでないか」と述べている。 また1969年から死去するまで、NHKの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家を務め、その後も川上哲治と共に球界のドンとして並び称され、プロ球界全体に大きな影響力を持った。また、逝去まで大之木建設株式会社(本社:広島県呉市)の非常勤取締役を務めた。 一方で、鶴岡へはその後も各球団からの監督就任要請が相次いだ。同じ関西を本拠地とする阪神タイガースから藤本定義の後任監督として1968年10月23日就任要請があったが、交渉の席で鶴岡が球団組織に対して言及すると阪神側が及び腰となり10月26日に交渉が決裂。翌1969年にも再び監督就任要請があったが、やはり鶴岡が就任するとフロント主導の構図が崩れることを恐れ、「青年監督ブーム」もあって11月3日に決裂した。同じ1969年オフに西鉄ライオンズの監督候補に挙がったが、西鉄に鶴岡を呼ぶ資金がなく監督就任実現せず。その後、1970年11月7日に近鉄バファローズから三原脩の後任として要請があったが、「三原さんが近鉄ナインにどんな野球を教えたか興味あるが、一年間監督業を務める体力が無い」として11月18日に辞退を表明した。同年にはヤクルトアトムズが8月20日に監督の別所毅彦が解任され週刊ベースボールに「別所ついに退陣! 次期監督に鶴岡確実」と報じられ、監督就任が噂されたが、就任のための条件が一致しなかった。1971年オフ、水原茂の中日ドラゴンズ監督退任を受けて、中日から非公式に監督を打診されたが断った。1972年オフ、広島東洋カープからもシーズン途中で辞任した根本陸夫監督の後任として候補が挙がっていた。 1977年9月28日、南海の選手兼任監督に就任していた野村克也が不倫相手である伊東沙知代の現場介入(公私混同)を理由として、2試合を残してシーズン途中に解任された。 沙知代は采配にまで直接介入し選手を罵倒するなどの振舞いを繰り返していたため、球団内ではかねてよりその存在が問題になっており、これより以前の1975年オフにも、西岡三四郎、江本孟紀、藤原満の3選手がチームを代表して大阪市内のホテルで野村に「公私混同を止めて下さい」「選手が動揺しているから、野球に集中させて下さい」と直訴するに至って、球団も野村のトレードで読売ジャイアンツのフロントと合意に達し、新山滋球団社長がOBの大沢啓二へ非公式に後継監督への就任を打診していたが、最終的に野村のトレードが流れたため川勝傳オーナーは野村を続投させ、逆に反沙知代派の西岡・江本が粛清されトレードで放出されるという事件が発生するなど、野村に請われてヘッドコーチを務めていたドン・ブレイザーにも「サッチーが現れる前のムース(野村)は、気さくで、率直で、大らかな、実に良い男だった。しかし1972年からムースは変わってしまった。みんなを遠ざけて嫌味ばかり言うようになり、彼は全ての友達を失った」と嘆かれるような状態になっていた。 10月5日に記者会見を開いた野村は、その場で「鶴岡元老にぶっ飛ばされた。野球の世界に政治があるとは知らなかった」と発言し、自分が解任されたのは鶴岡の陰謀であると主張した。この野村発言は、会見場で取材にあたっていたNHKの毛利泰子から呉に帰省していた鶴岡に伝えられた。退団後は「新しいカラーを打ち出そうとしている球団の邪魔をしてはいけない」という思いで南海への関与だけは意図的に避けていた鶴岡にとっては全く寝耳に水の話だった。翌日の新聞を読んで唖然とした鶴岡は、毛利への折り返し電話でも「ばかたれ。おれがそんなことをするわけはないやろ」と言い、「NHKに迷惑が掛かるから解説者を辞めさせてもらう」とまで言い出したという。そこで毛利は鶴岡を慰留するとともに「(親会社の)電鉄に打ち消してもらったらどうですか」と提案して鶴岡をNHK大阪放送局に招き、南海電鉄本社に抗議に赴く鶴岡にNHK幹部が同行した。鶴岡の抗議をうけて、川勝オーナーが鶴岡に謝罪し、森本昌孝球団代表が野村の解任に鶴岡は全く無関係であると声明した。また川勝から謝罪を促された野村も発言に行き過ぎがあったと釈明したので、鶴岡も「だれかに入れ知恵されたのだろう」とそれ以上は追及せず、事態は沈静化するかに見えた。 ところが野村は、10月13日付の『週刊文春』に「独占手記」と題する文章を発表し、その中で自分が解任に追い込まれた原因は、球団改革によって権勢を殺がれることを嫌った鶴岡が自分に忠実な広瀬叔功を監督にするために企てた陰謀によるものであると改めて主張し、沙知代が現場介入をしたなどという話は全くの事実無根であり、鶴岡が自分と沙知代を陥れるために流させたデマであると主張した。さらに1965年11月に蔭山が監督就任直後に急死した一件も、鶴岡が自らの権勢を維持する為に手下に命じて蔭山に圧力をかけ、自殺に追い込んだものであったと主張した。また鶴岡の退団表明後に野村が他の幹部選手たちと鶴岡邸に監督復帰を要請しに行った際に、鶴岡から「三冠王?……ちゃんちゃらおかしいよ」「ホームラン王?……ちゃんちゃらおかしいよ」「ほんとに南海に貢献したのは杉浦だけじゃ」と言われたとも主張するなど、鶴岡と広瀬叔功夫妻、杉浦忠、小池兼司や本妻を激しく批判した。この「独占手記」の発表によって鶴岡らと野村の対立は取り返しのつかないものとなり、関係修復は絶望的になった。 その後、沙知代派の江夏豊と柏原純一が球団に抗議して移籍を要求し、江夏は広島、柏原は日本ハムへとトレードで移籍した。 野村の解任にともない、四番捕手、抑えの切り札、若手成長株の三人を満足な代替選手を得られぬまま同時に失った南海ホークスは急速に弱体化し、以後の親会社の消極的な球団運営も祟って翌1978年から20年連続Bクラス(ダイエー時代まで連続)と深刻な低迷を続け、川勝が死去した1988年のオフに球団はダイエーへと売却された。 1991年にはプロ野球選手初の叙勲(勲四等旭日小綬章)を授与された(野球殿堂には監督在任中の1965年に入っている)。従五位に叙された。 1999年、ダイエーホークス35年ぶり日本一を見届けた翌2000年3月7日、動脈血栓症による心不全のため死去。3月8・9日、大阪の本願寺津村別院(北御堂)で行われた鶴岡の通夜・告別式には各界から3000人以上が参列した。9日の告別式では大勢の南海電気鉄道社員が御堂筋の南海本社から大阪スタヂアム跡にずらりと整列し、鶴岡の棺を乗せた車を黙礼で送った。告別式の弔辞では、杉浦忠が「親分、ここから御堂筋が見えますか」と、鶴岡への追悼の言葉を述べた。 鶴岡の出身地に近い呉市スポーツ会館には「鶴岡一人記念展示室」が設けられており、ゆかりの品が納められている。さらに、2019年5月からは生前社外取締役を務めた大之木建設が、スポーツ会館に隣接した呉市二河野球場の命名権を取得、「鶴岡一人記念球場」の名称がつけられた。 球界ではゼネラルマネージャーの元祖と言えば根本陸夫が語られることが多いが、編成や契約金などの細やかなバランスにも関わった鶴岡は、松木謙治郎・三原脩と共に実質的GMの先駆とされる。鶴岡は球団から絶大な信頼があり、大阪で試合が終わると夜行列車で東京に向かい、早朝に目当ての大学野球の選手の家を訪問することさえあった。抱えたボストンバッグには札束がうなっていたという。 球界初とされる専属スコアラーの導入、常駐スカウトを採用し、卓越した外国人管理術など、鶴岡は球界の近代化に大きく寄与した人物である。専属スコアラー第一号の導入は『ベースボールマガジン』1965年9月号に記載がある。鶴岡といえば「精神野球」のような印象を持たれるかもしれないが、むしろその逆で、新しいことに取り組むのが早く、データ、情報を活用した近代野球の先鞭を付けた野球人だった。今を先取りした新しさ、義理と人情の古めかしさと、鶴岡の求心力によって、それらがほどよく交ざり合い強力チームを作り上げた。 こうした鶴岡の手法は、上記の言葉に由来する「ゼニの取れる野球」に加え、後には「がめつい野球」とも称されることとなる。 テスト生から岡本伊三美・広瀬叔功・野村克也・森中千香良を抜擢し、無名だった飯田徳治・森下整鎮・皆川睦雄・村上雅則・国貞泰汎を育て、大学のスター選手だった蔭山和夫・杉浦忠・大沢啓二・穴吹義雄・渡辺泰輔、外国人選手ではキャピー原田を通じてジョー・スタンカ、バディ・ピート、ケント・ハドリなど優秀な外国人選手を入団させ、強い結束で「常勝南海軍」の時代を築いた。個々やチームの戦力を的確に把握し、常に新しい才能を入れることで「100万ドルの内野陣」や、西鉄ライオンズなどに対抗するための大型打線「400フィート打線」などを形成した。これらの選手獲得は鶴岡のコネ、友人からの紹介を主としており、広島の後援会の上原清二などが知られるが、鶴岡は1960年頃から各地区に常駐のスカウトを置き、各地の有力選手を積極的に獲得しようと考えた。中でも門司鉄道管理局(現・JR九州)の監督を務めていた石川正二をヘッドハンティングし、日本球界第1号の専属スカウトとして南海に迎えた。九州各地の隠れた逸材を丹念に探し歩く石川は、「九州探題」と呼ばれ、木塚を始め、多くの九州出身者選手が南海入りした。また東海地区の担当スカウトとして鶴岡が抜擢したのが三重県出身の伊藤四郎で、これらはプロ野球最初のスカウト制度の確立ともいわれる。 自らの人脈をフルに生かした情報網を築き、選手発掘にも精力的に動き、稲尾和久・広岡達朗・長嶋茂雄・山本一義・長池徳士・柴田勲・高田繁・田淵幸一、尾崎行雄、山本浩二にはプロ入り前から目をつけ、特に長嶋・柴田については入団契約直前までこぎつけた。長嶋は大沢を介して南海入りがほぼ決定し、「オレは南海にお世話になるつもり。お前も一緒に行こう。」と長嶋は杉浦を勧誘していた。また、広岡は鶴岡の前で「お世話になります」と言ったという。 しかし、柴田は30回以上も柴田家に足を運んだものの別所毅彦の横槍でさらわれたと言い、山本一義は池田勇人に邪魔され、稲尾の場合は、稲尾の父親が嫌っていた金融業を営んでいた後援会の会長が、南海入りを勧めたのが仇となったと言われている。 長池、山本は高校時代に入団テストを行い、「投手としては無理」と二人に法政大学進学の労をとったもので、長池はプロ野球ドラフト会議実施が一年遅れていたら南海入りしていた。長池は尊敬する鶴岡から一字を頂戴して息子を「徳人」と命名したとも話している。高田繁も浪商高等学校在学時に「南海に世話になりたい」と話していたが、鶴岡は「お前は身体が小さいから大学へ行く方がいい」と言ったと言われる。尾崎は、尾崎の母が鶴岡と同郷の呉の人で、初対面から「ユキ坊、ユキ坊」と呼んで、長屋の裏口から入れる親しい間柄となったが、尾崎自ら浪商の先輩、山本八郎や張本勲のいる東映に決めた。晩年は「今思えば、南海に行っとけばよかったなと思う」と話していた。鶴岡は豪気な性格ながら人が良いため、土壇場でどんでん返しに遭い、何度も悔し涙を流していたという。 中西太は「私はなぜか鶴岡さんにかわいがってもらって、球場でも、よく『おい、太』と話しかけられた。三原さんは、いい顔はなかったと思う。『相手の選手を手助けしてはいかん』とあとで言っていたこともある。私は、コーチ時代もそうだが、ついつい相手チームの選手に教えてしまう方だった。鶴岡さんと似てるところがあったのかもしれない」などと述べている。 鶴岡は1954年に毎日新聞記者の尾張久次をプロ野球初となる専属スコアラーとして招聘し、メジャーリーグにも無かった世界初の「データ野球」を導入した。尾張によってまとめられた打球の方向や性質、投球の傾向などのデータは「尾張メモ」と呼ばれ、1959年の日本シリーズにおける対読売ジャイアンツ戦において、大沢啓二の外野守備がことごとくピンチを救ったことが語られ、これは巨人の各打者のデータによって一球ごとに捕手・野村からサインを出して守備位置を変えるという、それまでの野球に例を見ない作戦が実ったものと言われた。これをきっかけに「スコアラー」の存在がマスコミに大きく取り上げられ、岡本伊三美は「後でデータを生かした鶴岡さんの野球をもって戦ったのがノムちゃうか」と笑った。中西太も「野村君も、南海にいたからこそ、観察力、洞察力が磨かれたんだろう」と述べている。野村の「ID野球」は、鶴岡のもとで養われたものである。 日本に於けるサインプレーの起源は諸説あるといわれるが、起源説もある三原脩や水原茂の頃は、まだサインの種類も少なく単純だった。複雑な「ブロックサイン」を創り上げたのは「尾張メモ」を源とする鶴岡と言われ、細かく難しい南海のサインプレーは、中日、広島、阪急、近鉄、阪神などに広がっていった。 三原脩は「西鉄の監督を引き受けて間もないころ、鶴岡君の“こまぎれ交代”にずいぶん泣かされた。この戦法の先覚者は鶴岡君だった。南海と試合をすると、鶴岡監督は目まぐるしく投手をかえてきた。下手投げが出てきたと思うと、次は左投手が現れる。打者がようやく目がなれてきたと思うとき、今度は右が出てくるというぐあいで、スイスイと目先を変えられてしまう。強力な投打の力を持つチームには、こういう作戦はあまり必要でないが、最初西鉄は戦力が充分でなかったからこれにやられた。なんとか対抗策がないものかと考え抜いたすえ思いついたのが、影武者を使う“当て馬作戦”(偵察オーダー)である(三原脩#偵察メンバー)。これでひとまず、こっちが先手をとることができた。これはいわば一時的な受け身に過ぎなかったが、四つに組んで南海に勝つためには、どんな投手が次々に現れようと、打者自身の力でハネ返す強力打線を作り上げなくてはならない。こうして作り上げたのが、西鉄黄金時代の中西、豊田、大下、関口らの強力打線だった」と述べている。 鶴岡は小学校長だった義父から「(部下には)必ず敵がいる。敵がいないと、指導者として勉強をしなくなる」と指導者としての心得を教わっていた。しかし鶴岡は「味方と敵が半々では指導者落第、7対3にできれば立派だ」という考えを持っていた。出場機会が少ない選手が大きく固まらないように注意を払い、愛情を持ったしかり方を工夫した。「23年間の監督生活は、5対5を6対4に、さらに7対3にするための努力の日々だった」と振り返っている。 もともと地方の無名の高校生だった野村を南海に入団させ、その素質を見抜いて一軍の正捕手に抜擢したのは鶴岡であったが、野村と沙知代の不倫に起因する一連の騒動により、両者の関係は1977年以降断絶状態となった。 しかし野村は晩年になるに連れ、恩師鶴岡を懐かしみ、悪口を挟みつつも鶴岡を評価する言葉を口にするようになった。野村は「Sports Graphic Number 722」の2009年11月号で、「誰しも監督になるまで何人か仕えてきた監督がいるわけですが、意識しているかは別として誰か一人の監督の影響が強く出るものなんです。(中略)そのあたりは、(私の場合は)やっぱり鶴岡さんでしょうね」、また著書で「鶴岡さんの影響を色濃く受けています」などと言う一方で、関係がおかしくなったのは次期監督として「野村」の名前が挙がるようになってからで、野村自身も「(南海ホークスに)テスト生として入団して中心選手まで行ったわけだから『野村を育成した』という意味では自慢の種のはずなんですが、鶴岡さんとしては先に杉浦、広瀬に後任をやらせたかったんでしょう。私は嫌われていた」と語り、自分は陥れられたという考えを捨てておらず、鶴岡本人が直接動いたわけではないにしても、鶴岡を支持する者や野村を恨む人たちが、プライベートな問題を理由に野村を解任したという解釈を最期まで変えなかった。野村は2018年の著書でも「テスト生上がりで三冠王にもなり、監督にもなった私は、鶴岡さんからしたら、自らの育成の手腕を一番証明・自慢できる選手だったはずなのに、なぜか私には冷たかった」と述べている。 野村が鶴岡に疎まれていたとする根拠として、鶴岡は広瀬の結婚式で仲人を務めた一方、野村と球団後援会副会長の娘である本妻との結婚式への出席については、ある事情から結婚に反対した経緯もあり見合わせたことや、将来の監督も野村ではなくエリートの杉浦が就任するものと半ば決めつけるような空気がチーム内外にあったとされていることが挙げられている。しかし上記のように、鶴岡は1965年の時点で、将来的に蔭山の次を杉浦でも広瀬でもなく野村に任せるつもりであるという構想を周囲に明示しており、さらにこの鶴岡の構想は、1969年オフに野村が兼任監督に就任する際に球団後援会が「もうなんといっても、野村は監督を引き受けなきゃいかん。鶴岡さんの次は蔭山さん、その後は野村というのが南海の監督路線だったが、蔭山さんが急死して、飯田さんがいわばピンチヒッターとしてはいってこられただけのこと。野村は引き受けるべきだ」と明言したように、球団関係者に広く共有されていた認識だった。そのため永井良和は「鶴岡は自らの後任として飯田、そしていずれは野村という構想をもっていたが、その時期が早まった」と述べている。また1965年11月の鶴岡復帰運動についても、当初から一貫して最も熱心だったのは野村であり、直後の同年12月(沙知代と知り合う5年前)に刊行された初の自著では「とにかく鶴岡さんに帰って頂くより道はない。いろいろと批判もあるだろう。しかし、僕たちは雑音のことなど少しも気にせず、鶴岡さんの復帰をお願いすることにした」と述べていた。 関係が断絶したとはいえ、鶴岡はそれ以後も野村のことをずっと気にかけており、野村が1993年にヤクルトスワローズの監督として日本一を達成した時にも、鶴岡は正力松太郎賞の選考委員として野村を推薦し、野村は同賞を受賞している。また亡くなる直前の2000年1月に、入院先へ見舞いに訪れた毛利泰子に「野村から年賀状がきたんや」と言ったが、年賀状は見つからず、毛利が阪神球団を通じて問い合わせたところ、野村から年賀状など出していないという返答が来たという。毛利はこの時の事を「鶴岡さんは亡くなるまで野村さんのことを気に掛け、心配してたんやなと思った」と述懐している。しかし、3月に鶴岡が亡くなった際には、野村は阪神球団を通じてコメントを発したのみで、葬儀に参列せず、献花すらもしなかった。長男の泰は、ひょっとしたら野村が人目を避けて密かに弔問に訪れるのではないかと思い、葬儀終了後も午前2時頃まで待っていたが、ついに野村が姿を現すことはなかった。これを知った大沢啓二は野村を「恩知らず」と厳しく批判している。 永井良和は、鶴岡没後の野村の著書や雑誌インタビューなどでは、テスト生として採用されたこと、戦力として見出してもらったことなどについて、鶴岡の眼力や指導力を肯定的に記すようになっているとして、野村がヤクルト、阪神、社会人シダックス、楽天と監督を続けていくうち、鶴岡の手腕に対する評価の変化につながったのではないかと推察している。 野村は2018年の著書『私が選ぶ名監督10人』の中で「戦時に200人の部下を率いた経験が、鶴岡さんに強烈な印象を残したのであろう。『鶴岡野球』イコール、戦時下で形成された典型的な精神に基づく『軍隊野球』であった(中略)何かあればビンタ、正座。およそプロ野球らしくない。打撃技術のイロハも教えてくれない。毎日の練習後、『野村ノート』に書くことといったら、まる軍隊の掛け声だ。『野球で一番大事なのは根性だ!』『打てないなら、球にぶつかって死球で出ろ!』『失敗したら営倉にぶち込むぞ!!』。精神野球を反面教師にして、私は『考える野球』を標榜したのだ」などと述べている。また野村は、自分が選手を褒めないのは鶴岡の影響であると主張しており、「オレが選手を褒めないのは鶴岡さんの影響。あの人も直接、選手を褒めることなんてなかったよ」と話している。野村自身によると鶴岡に褒められたのは、3年目にマスコミからハワイキャンプの収穫を聞かれて「野村に使える目処が立ったこと」と書かれた新聞を読んだことと、本塁打王を獲得した4年目に大阪スタヂアムの通路ですれ違った際に「お前、ようやったなぁ」と言われた2回だけだというが、野村は本当に大きな自信になったといい、「それでいいんです。こうやって(現在も)覚えてるくらいですから。監督はやたらと選手を褒めまくったらいかん。言葉の値打ちが下がります」と話している。東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めている2009年9月6日の対北海道日本ハムファイターズ戦の試合前、「言葉は力なんだよ。いまオレがこうしてある(長くプロ野球に携われ、監督も務めていられる)のも、南海3年目の鶴岡監督の一言(「野村に使える目処が立ったこと」)があったからなんや。鶴岡監督はとにかく人を褒めないことで有名な人だったが、4年目のある日に(本塁打王を獲得して)「おまえ、ようやったな」と言ってくれた。褒めない人のそういう一言は重みがある」とほぼ同じ話をしている。2016年や2018年の著書でも「鶴岡さんのひとことで私の人生はまぎれもなく変わった。いまでも50年以上も前の、あの監督の声の響きが私の耳には残っている。あの一言があったから、今まで野球を続けていられたようなもの」などと述べている。このことに関して野村以外では、岡本伊三美が自身のプロ野球人生を振り返った著書の題名に、鶴岡に言われた言葉「岡本、少しは野球 面白ぅなってきたか」を採っている。なおその姿勢は野村が「鶴岡にかわいがられていた」と主張する杉浦忠、広瀬叔功に対しても同様であり、この二人に至っては鶴岡から直接褒め言葉を言われたことはただの一度たりともなかったという。 佐々木信也は1970年頃、鶴岡に「野村の一番いいところは何ですか」と質問したら、鶴岡は少し考えてから「自分に生活の場を与えてくれているプロ野球界に対して、感謝の気持ちを忘れないことやな」と答え、ほかの言葉を期待していたので意外な感じがしたと話している。また鶴岡は、記者の浜田昭八に対して「物分かりがいいようで頑固なのは杉浦。アホと言われているが賢いのは野村」と語ったという。 上記の通り、最初の妻は1957年に失った。その後まもなく南海電鉄の広報誌に掲載された私設応援団長のインタビューには「日本シリーズに勝って御堂筋をパレードすることが亡くなられた奥さんへの最もよい手向けになる」との発言があり、1959年にその悲願を達成して御堂筋パレードに向かう前には再婚した妻から「お父さん、パレードを見せてあげてください」と先妻の位牌を渡されたという話が鶴岡の著書『南海ホークスとともに』に記されている。 長男(最初の妻との間の子)は常勝PL学園・大阪桐蔭の礎を築き、法政大学などの監督の後、大阪近鉄バファローズやシアトル・マリナーズのスカウトを務め、2017年10月から母校の法政大学第二高等学校でコーチを務めた鶴岡泰(山本泰)。泰は監督就任にあたり、父から「監督はおまわりさんのように選手を交通整理し、看護師みたいに親身になれることが大切だ」と言われたという。"逆転のPL"という異名を生んだ1978年の夏の甲子園での西田真次(のち真二)のフル回転は、「オヤジの杉浦フル回転から学んだ教訓」と述べている。泰は法政大学卒業時の1967年のドラフトで南海から12位指名されたが、父から猛反対されプロ入りは断念した。このドラフト指名自体が他球団からの指名を阻止するために下位で指名して、プロ入りを断念させるためにあえて父が行ったものだったという。このとき法政野球部にいた江本孟紀によれば、泰の打撃力、特に変化球打ちの能力は抜きん出ており、少なくとも選手の能力としては父親の鶴岡を超えるものがあった。その上であえてプロ入りをさせなかった鶴岡の父親としての態度について「親は子供に苦労をさせたくないものだ」と江本は評している。次男・秀樹はPL学園高校野球部OB会長で、ミズノ常務取締役。 このほか、最初の妻との間にもうけた長女を、1949年に散歩中に南海電車の線路に立ち入る事故により1歳7か月で亡くしており、このとき長女を連れていた鶴岡の母親は、亡くなるまでこの事故の心労に苦しんだという。 "東の巨人"を意識した鶴岡らしく、東京が大嫌いだった。関西弁イメージが強いが、家では広島弁の「かばちたれるな」が口癖だったという。 各年度の太字はリーグ最高 南海(南海軍)は、1944年途中に近畿日本(近畿日本軍)に、1946年にグレートリングに、1947年途中に南海(南海ホークス)に球団名を変更 グレートリングは、1947年途中に南海(南海ホークス)に球団名を変更 23年連続同一チーム監督、通算1773勝はともに歴代1位 本塁打王:1回 (1939年) 打点王:1回 (1946年) 最高殊勲選手(MVP):3回 (1946年、1948年、1951年) ベストナイン:1回 (二塁手部門:1951年) 野球殿堂競技者表彰 (1965年) 勲四等旭日小綬章 (1991年) 従五位 (2000年) オールスターゲーム出場:2回 (1951年、1952年) 5 (1939年) 1 (1946年) 30 (1947年 - 1965年) 31 (1966年 - 1968年) 鶴岡 一人 (つるおか かずと、1939年、1959年 - 1968年) 山本 一人 (やまもと かずと、1946年 - 1958年) NHKプロ野球 『御堂筋の凱歌 栄光と血涙のプロ野球史』、ベースボールマガジン社、1983年 大和球士『真説 日本野球史』、ベースボール・マガジン社 尾張久次『「尾張メモ」の全貌』講談社、1984年。ISBN 4-06-132119-6。 近藤唯之『プロ野球監督列伝』新潮社、1984年。 別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988年12月 神田順治『野球殿堂物語』ベースボール・マガジン社1992年9月 鶴岡一人追悼記念制作委員会『野球を愛した男 鶴岡一人の生涯』日本少年野球連盟・報知新聞大阪本社、2000年。 『広商野球部百年史』広商野球部百年史編集委員会、2000年11月 『プロ野球人国記 中国編』ベースボール・マガジン社、2004年4月 『野球殿堂2007』野球体育博物館、2007年4月 野村克也『運鈍根』(日本社、1965年) 浜田昭八
『監督たちの戦い 決定版 下』(日本経済新聞社、2001年) 永井良和、橋爪紳也『南海ホークスがあったころ 野球ファンとパ・リーグの文化史』(紀伊國屋書店、2003年) 広瀬叔功『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』(ベースボール・マガジン社、2014年) 福本豊『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』(ベースボール・マガジン社、2014年) 江本孟紀『野球バカは死なず』(文藝春秋、2018年) 野村克也『私が選ぶ名監督10人 采配に学ぶリーダーの心得』光文社〈光文社新書〉、2018年。ISBN 9784334043629。 永井良和『ホークスの70年 惜別と再会の球譜』ソフトバンククリエイティブ、2008年。ISBN 9784797348972。 ^ 鶴岡は日本経済新聞社の連載『私の履歴書』でも「私は大正五年七月二十七日、呉市東二河通六丁目で生まれた」(『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』、日本経済新聞社、2007年、13頁、同書著者略歴(鶴岡 一人 つるおか かずと |日本経済新聞出版社)(Internet Archive))と書いている他、『御堂筋の凱歌』(奥付)や、『わしの野球』(206頁)といった鶴岡の自著全てで「広島県呉市生まれ」と書いている。またボーイズリーグの公式ホームページでも「呉市の生まれ」と話している(鶴岡一人記念大会 | 財団法人日本少年野球連盟 | ボーイズリーグ)(Internet Archive)。呉市にある「鶴岡一人記念展示室」内の略歴でも「呉市生まれ」と記載(呉市スポーツ会館、鶴岡一人記念展示室・鶴岡一人略歴)。一部の文献に「山口県出身」、あるいは「山口県大島郡生まれ」などと書かれた物があるが、山口県大島は両親の出身地(『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』12、13頁)ではあるが、鶴岡一人自身は広島県呉市の生まれ育ちであるため、生活実態を出身地の基準とすればこれは誤りとなる。ただし、鶴岡自身の本籍が両親と同じ山口県のままであるかどうかは不明である(大相撲の番付では、生活実態のない本籍地や父親の出身地などを力士自身の出身地として届け出る例もあるため)。 ^ 鶴岡の通った五番町小学校と藤村の通った二河小学校は、現在は統合されて呉中央小学校となっている(二河小学校 五番町小学校 (PDF) 呉市役所 2017年) ^ この海外遠征は、主催新聞同士の競争から、選抜優勝チームを夏の全国中等学校野球選手権大会に出させないための方策であった。原田の回想は著書『太平洋のかけ橋』からの引用。 ^ 現在では当たり前となっている「大学出身」選手のプロ入りもこの当時は存在したが、多くは大学を中退、あるいは卒業後に必ず一度は実業団を経由しており、大学を卒業してそのままプロ入りした者は誰もいなかった(別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988年、62頁)。 ^ ただし、中島に到っては1938年の春季リーグと合算した場合11本塁打となり、事実上単独での戦前のシーズン最多本塁打となる。 ^ 「鶴岡親分」の名付け親は別所毅彦(近藤唯之『プロ野球監督列伝』、103頁)。別所は「暖簾を誇る巨人や阪神に対して、こちらは新興の意気に燃えていた。巨人戦など『見とれ、鶴岡一家の殴り込みや!』と闘志を燃やした。そんなムードの中で私が最初に『親分』『親分』と言い始めると、やがてみんなが『親分』と呼ぶようになったんだ」と話している(『ベースボールマガジン』1965年9月号、30頁)。東映ヤクザ映画隆盛前のため、選手たちがイメージしたのは清水次郎長である(同書)。 ^ 1950年から2リーグ制、南海ホークスはパシフィック・リーグに所属。 ^ 尾張久次は、自身の推測として真偽のほどは定かではないことと前置きした上で、「野村が選手兼任監督に就任した1970年、ヘッドコーチのドン・ブレイザーは妥当にしてもその他の一軍コーチに旧南海OBが誰もいない組閣をしてOBを激怒させたのが遠因」と述べているが(尾張久次『「尾張メモ」の全貌』、157-158頁)、1970年には生え抜きの穴吹義雄が一軍の外野守備コーチを務めており、明確な誤りである。 ^ 坂井保之は「鶴岡氏は外国人選手のハンドリングでも、傑出した手腕を発揮した(中略)鶴岡氏の教えをいつも頭の中に置くようにしてきた。おかげで、延べにして40名ほどの外国人選手を出し入れしたが、トラブルらしいトラブルは遭遇しないで来た」などと話している(坂井保之『波瀾 興亡の球譜 失われたライオンズ史を求めて』160-16頁ベースボール・マガジン社、1995年 ISBN 4-583-03258-7 )。 ^ 南海が地方に遠征に行くと鶴岡は一番早く起きて、地元の高校球児の品定めをやっていたという(豊田泰光『プロ野球を殺すのはだれだ』ベースボール・マガジン、2009年、139頁)。 ^ 田淵の最初の結婚は鶴岡夫妻が媒酌(週刊サンケイ 1981年2月19日号、168頁)。 ^ これに関して大沢は著書『球道無頼』(講談社、1996年)において独自の判断で動いたと記している。また、スポニチアネックスの記事でも同様の見解を述べているほか、同記事ではメモの指示したシフトと大沢の動きが異なることも指摘されている(職業野球人・大沢啓二4.尾張メモ)。大沢の著書『OBたちの挑戦X』74-75頁では「オレからすれば(スコアラーのデータは)それほどのものだとは思わなかった」「日本シリーズで大胆に守備位置を変えてプレーすることが出来たのは鶴岡さんの教え」「マスコミは色んなことを言ったが、オレはプロとして何をすれば良いのか考え、実行しただけ。初代親分(鶴岡)の教えを忠実に守っただけ」などと話している。 ^ 同様の記述(スポーツニッポン、2008年7月10日、4面)、【タイガース血風録 猛虎水滸伝】野村と木戸ハワイC意外な共通点、【二十歳のころ 野村克也氏(3)】ハワイで門限破り鶴岡監督からビンタ ^ 「監督」鶴岡一人編 第14回『日刊スポーツ』2021年1月22日(2021年1月29日閲覧) ^ 広島県呉二河球場(鶴岡一人記念球場)|聖地・名所150選|野球伝来150年特設サイト - 日本野球機構 ^ 殿堂一覧|財団法人野球体育博物館 鶴岡一人 ^ 『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』、日本経済新聞社、2007年、13頁、同書著者略歴(鶴岡 一人 つるおか かずと |日本経済新聞出版社)(Internet Archive)。 ^ 鶴岡一人記念球場(呉市二河野球場) – 呉市体育振興財団呉市と大之木建設株式会社とのネーミングライツ契約調印式について (PDF) 呉市役所報道発表資料 2019年4月12日 ^ “呉市に「鶴岡一人記念球場」 呉二河球場の愛称に名将の名”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2019年4月26日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/04/26/kiji/20190426s00001000352000c.html 2022年6月19日閲覧。 “【ソフトバンク】柳田悠岐「なんでもいいんで優勝したい」大先輩・鶴岡一人氏出身地で自主トレ”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). 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SIC. ISBN 978-4904955079 ^ 広瀬叔功『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』95頁 ^ 『週刊朝日』1981年12月4日号、185頁 ^ 『南海ホークスがあったころ』P78,80 - 81 広島県出身の人物一覧 法政大学の人物一覧 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧 グラゼニ 個人年度別成績 山本一人 - NPB.jp 日本野球機構 殿堂一覧|財団法人野球体育博物館 鶴岡一人 鶴岡一人 - NHK人物録 表 話 編 歴 高須一雄 1938 - 1939 三谷八郎 1939 高須一雄 1940 三谷八郎 1941 - 1942 加藤喜作 1942 高田勝生 1943 加藤喜作 1943 - 1944 鶴岡一人(山本一人) 1946 - 1965 (蔭山和夫 1965オフ) 鶴岡一人 1966 - 1968 飯田徳治 1969 野村克也 1970 - 1977 広瀬叔功 1978 - 1980 ドン・ブレイザー 1981 - 1982 穴吹義雄 1983 - 1985 杉浦忠 1986 - 1989 田淵幸一 1990 - 1992 根本陸夫 1993 - 1994 王貞治 1995 - 2008 秋山幸二 2009 - 2014 工藤公康 2015 - 2021 藤本博史 2022 - 2023 小久保裕紀 2024 - 現在 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 服部道子 熊川哲也 浅利純子 伊東律子 出島武春 松嶋菜々子 内館牧子 野村萬斎 田村亮子 津川雅彦 草笛光子 阿久悠 福嶋晃子 乙武洋匡 伊東律子 田村亮子 長嶋茂雄 高橋尚子 渡辺謙 池内淳子 佐々木主浩 岡本綾 井上康生 木村佳乃 内藤國雄 出田幸彦 栃東大裕 川原亜矢子 室伏広治 竹田恆和 松岡佑子 唐沢寿明 平良とみ 天海祐希 藤田宜永 森下洋子 出田幸彦 朝青龍明徳 米倉涼子 市川新之助 阿川佐和子 宮本恒靖 仲間由紀恵 高橋由伸 恩田美栄 岩合光昭 岸惠子 中村季恵 浅野ゆう子 五木寛之 優香 三谷幸喜 村山由佳 末續慎吾 村主章枝 武田真治 有馬稲子 星野仙一 中村季恵 野口みずき 野村忠宏 橋田壽賀子 中村勘九郎 荒川静香 滝沢秀明 高島礼子 和田一浩 森光子 日野原重明 琴欧州勝紀 薬師丸ひろ子 野口聡一 長澤まさみ 山田洋次 森光子 上川隆也 眞鍋かをり 林家正蔵 栗原はるみ 渡辺謙 阿木燿子 リリー・フランキー 藤山直美 内野聖陽 横峯さくら 田口壮 吉田都 鎌田實 瀬戸内寂聴 宮﨑あおい 上田桃子 岡島秀樹 青木功 中村勘三郎 新垣結衣 茂木健一郎 坂東眞理子 陣内智則 藤原紀香 本木雅弘 吉田沙保里 太田雄貴 高橋尚子 松本幸四郎 松坂慶子 姜尚中 堀北真希 妻夫木聡 上野由岐子 白鵬翔 草刈民代 阿部寛 深田恭子 原辰徳 勝間和代 城田優 杉山愛 西田敏行 森光子 野口聡一 湊かなえ 岩崎夏海 寺島しのぶ 髙橋大輔 上野樹里 伊勢谷友介 仲間由紀恵 北大路欣也 武良布枝 大竹しのぶ 田中将大 コシノジュンコ 三谷幸喜 鈴木京香 佐々木則夫 鈴木明子 松山ケンイチ 松井冬子 琴奨菊和弘 綾瀬はるか 尾木直樹 澤穂希 中村勘九郎 樹木希林 桂文枝 吉田沙保里 入江陵介 菅野よう子 日馬富士公平 田中将大 滝川クリステル 宮藤官九郎 宮本信子 杉良太郎 風吹ジュン 岡田准一 杏 片岡愛之助 阿川佐和子 中園ミホ 尾上松也 蜷川実花 山中伸弥 井上真央 阿部寛 仲間由紀恵 タモリ 黒柳徹子 羽生結弦 堺雅人 長澤まさみ 大泉洋 土屋太鳳 三宅宏実 上橋菜穂子 所ジョージ 有村架純 又吉直樹 高畑充希 辻沙絵 草刈正雄 新垣結衣 大谷翔平 萩野公介 伊調馨 秋本治 春風亭昇太 村田沙耶香 村田諒太 村上茉愛 加藤一二三 吉岡里帆 高橋一生 宮本信子 鈴木亮平 林真理子 阿部サダヲ 安藤サクラ 池江璃花子 小平奈緒 佐藤健 出川哲朗 永野芽郁 中村勘九郎 夏井いつき 野村萬斎 長谷部誠 井上尚弥 上沼恵美子 サンドウィッチマン 渋野日向子 瀬戸大也 田中圭 戸田恵梨香 中西麻耶 長谷川博己 広瀬すず 吉野彰 黒柳徹子 サンドウィッチマン 杉咲花 染谷将太 チコちゃん 宮崎美子 宮本亞門 室伏広治 吉沢亮 石川佳純 清原果耶 小池栄子 坂口健太郎 谷真海 三谷幸喜 芦田愛菜 黒柳徹子 西村宏堂 羽生結弦 坂東彌十郎 福原遥 松本潤 村上宗隆 森保一 吉田都 北口榛花 国枝慎吾 堺雅人 俵万智 寺島しのぶ 寺田宜弘 バカリズム 吉高由里子 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 水原茂 1963 川上哲治 1964 鶴岡一人 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 藤田元司 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 仰木彬 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 王貞治 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 落合博満 2008 渡辺久信 2009 原辰徳 2010 西村徳文 2011 秋山幸二 2012 原辰徳 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 工藤公康 2019 工藤公康 2020 工藤公康 2021 高津臣吾 2022 中嶋聡 2023 岡田彰布 2024 三浦大輔 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 山本一人 1952 山本一人 1953 山本一人 1954 三原脩 1955 山本一人 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 西本幸雄 1961 鶴岡一人 1962 水原茂 1963 中西太 1964 鶴岡一人 1965 鶴岡一人 1966 鶴岡一人 1967 西本幸雄 1968 西本幸雄 1969 西本幸雄 1970 濃人渉 1971 西本幸雄 1972 西本幸雄 1973 野村克也 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 上田利治 1979 西本幸雄 1980 西本幸雄 1981 大沢啓二 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 上田利治 1985 広岡達朗 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 仰木彬 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 森祇晶 1994 森祇晶 1995 仰木彬 1996 仰木彬 1997 東尾修 1998 東尾修 1999 王貞治 2000 王貞治 2001 梨田昌孝 2002 伊原春樹 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 トレイ・ヒルマン 2008 渡辺久信 2009 梨田昌孝 2010 秋山幸二 2011 秋山幸二 2012 栗山英樹 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 辻発彦 2019 辻発彦 2020 工藤公康 2021 中嶋聡 2022 中嶋聡 2023 中嶋聡 2024 小久保裕紀 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 山本一人 1952 柚木進 1953 岡本伊三美 1954 大下弘 1955 飯田徳治 1956 中西太 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 山内和弘 1961 野村克也 1962 張本勲 1963 野村克也 1964 J.スタンカ 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 足立光宏 1968 米田哲也 1969 長池徳二 1970 木樽正明 1971 長池徳二 1972 福本豊 1973 野村克也 1974 金田留広 1975 加藤秀司 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 C.マニエル 1980 木田勇 1981 江夏豊 1982 落合博満 1983 東尾修 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 石毛宏典 1987 東尾修 1988 門田博光 1989 R.ブライアント 1990 野茂英雄 1991 郭泰源 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 西口文也 1998 松井稼頭央 1999 工藤公康 2000 松中信彦 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 城島健司 2004 松中信彦 2005 杉内俊哉 2006 小笠原道大 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 和田毅 2011 内川聖一 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 柳田悠岐 2016 大谷翔平 2017 D.サファテ 2018 山川穂高 2019 森友哉 2020 柳田悠岐 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 近藤健介 表 話 編 歴 投 江藤正 捕 土井垣武 一 飯田徳治 二 山本一人 三 蔭山和夫 遊 木塚忠助 外 大下弘 / 別当薫 / 飯島滋弥 表 話 編 歴 1937春 沢村栄治 1937秋 ハリス 1938春 苅田久徳 1938秋 中島治康 1939 V.スタルヒン 1940 須田博 1941 川上哲治 1942 水原茂 1943 呉昌征 1944 若林忠志 1946 山本一人 1947 若林忠志 1948 山本一人 1949 藤村富美男 表 話 編 歴 1936秋 藤村富美男, 山下実, 古谷倉之助 1937春 中島治康, 松木謙治郎 1937秋 高橋吉雄 1938春 ハリス 1938秋 中島治康 1939 鶴岡一人 1940 川上哲治 1941 服部受弘 1942 古川清蔵 1943 岩本章, 加藤正二, 古川清蔵 1944 金山次郎 1946 大下弘 1947 大下弘 1948 青田昇, 川上哲治 1949 藤村富美男 表 話 編 歴 1936秋 古谷倉之助 1937春 景浦將 1937秋 中島治康 1938春 景浦將 1938秋 中島治康 1939 川上哲治 1940 中島治康 1941 川上哲治 1942 中島治康 1943 青田昇, 野口明 1944 藤村富美男 1946 山本一人 1947 藤村富美男 1948 藤村富美男 1949 藤村富美男 VIAF 日本の野球選手 広島県立広島商業高等学校出身の野球選手 法政大学野球部の選手 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 本塁打王 (NPB) 打点王 (NPB) 最優秀選手 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 選手兼任監督 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の監督 日本の野球殿堂表彰者 野球解説者 従五位受位者 勲四等旭日小綬章受章者 NHK紅白歌合戦審査員 私の履歴書の登場人物 広島県出身のスポーツ選手 1916年生 2000年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ ウィキデータと異なるNHK人物録ID 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 VIAF識別子が指定されている記事
2024/11/29 06:39更新
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