三原脩の情報(みはらおさむ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
三原 脩さんについて調べます
■名前・氏名 |
三原脩と関係のある人
栗山英樹: 背番号は私淑する三原脩(元日本ハム球団社長)にあやかって「80」となった。 上田利治: 日本シリーズ3連覇は三原脩監督率いる西鉄ライオンズ、水原茂監督率いる巨人、川上哲治監督率いるV9時代の巨人、森祇晶監督率いる西武ライオンズ(1986年~88年、1990年~92年の2度)、工藤公康監督率いる福岡ソフトバンクホークスが達成している。 八重樫幸雄: さらに、1971年から指揮を執った三原脩監督には、三塁手へのコンバートを命じられた。 二出川延明: これに対して西鉄・三原脩監督が抗議したが、中根塁審はこれを拒み、「走者の足と送球が同時だったのでセーフだ」と付け加えた。 沢村栄治: 一方で、沢村とスタルヒンの両方を見ている三原脩・水原茂らによると、確かにスタルヒンも速かったが、沢村はそれ以上でボールがグーンとホップしてきたとされる。 宇野光雄: 退任後は藤倉電線を経て、1947年に三原脩監督の熱心な勧誘を受けて読売ジャイアンツへ入団するが、肩を故障してしまう。 白石勝巳: しかし、翌1948年春に巨人が別府でキャンプを張ると、監督の三原脩や、中島治康・千葉茂らから「帰って来いよ、また一緒にやろうよ」と声がかかり、白石は再び巨人に復帰した。 藤原真: また、三原脩監督の構想から外れたことで、球団にトレードを直訴。 チャーリー=ゲーリンジャー: 1934年の日米野球に出場した三原脩はゲーリンジャーについて「難しいゴロがセンター前へ抜けようとする。 荒川博: シーズン終了後の11月26日に三原脩の後任として監督に昇格し、コーチ陣に広岡、小森、沼澤と早大出身の後輩を招聘して「早大カルテット」と称された。 太田幸司: 会見にはオーナーの佐伯勇と監督の三原脩が立会い、報道陣も新聞、雑誌、テレビ、ラジオなど約200名、女学生を中心としたファンも朝から近鉄本社前に集結し、本社もあらかじめ混乱を予測し玄関先にガードマンを配置するなど、大規模なものとなった。 高橋博士: 消化試合のダブルヘッダーを盛り上げるために、三原脩球団社長の発案で、ファンサービスとして行われたものである。 小玉明利: 5月14日には14年ぶりに単独首位に立ったが、自らが選手として出場する機会が減ったためか、チームを最下位から脱出させることはできず、近鉄はさらなる切り札として名将三原脩を招聘することとなり、小玉はわずか1年で解任された。 木村貴臣: 1967年は新任の小玉明利選手兼任監督に積極的に起用され、90試合にマスクを被って先輩の吉沢岳男・児玉弘義を押し退けてレギュラー捕手となるが、1968年に監督が三原脩に交代すると、児玉にレギュラーを奪われて出場機会が半減。 西本幸雄: 3つのチームを優勝に導いた監督は、プロ野球史上で西本、三原脩、星野仙一のみである(2022年現在)。 仰木彬: 仰木さんは西鉄で三原脩さんの野球を学んでいますから。 有藤通世: 母はプロ入りに反対したため、社会人野球を経験してからプロ入りでも遅くないと考えたり、落ち着かない日々を送っている時、新聞で当時の近鉄・三原脩監督が「高知の人間は素質はあるんだけど、酒と女で潰れてしまう」とコメントした記事を目にした。 鶴岡一人: 三原脩は「西鉄の監督を引き受けて間もないころ、鶴岡君の“こまぎれ交代”にずいぶん泣かされた。なんとか対抗策がないものかと考え抜いたすえ思いついたのが、影武者を使う“当て馬作戦”(偵察オーダー)である(三原脩#偵察メンバー)。 中西太: 西鉄では三原脩監督時代の黄金期を支え、本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回、ベストナイン(三塁手)7回を記録。 土井淳: プロ入り時には後に大洋を指揮する西鉄の三原脩監督が「土井をどうしても獲ってくれ」と言っていたが、土井は秋山と「せっかくここまで縁があってきたのだから、プロもバッテリーで挑戦しよう」と決めていた。 鶴岡一人: 日本に於けるサインプレーの起源は諸説あるといわれるが、起源説もある三原脩や水原茂の頃は、まだサインの種類も少なく単純だった。 鶴岡一人: その後、1970年11月7日に近鉄バファローズから三原脩の後任として要請があったが、「三原さんが近鉄ナインにどんな野球を教えたか興味あるが、一年間監督業を務める体力が無い」として11月18日に辞退を表明した。 石本秀一: 三原脩からも株の話を聞いたことがあったそうだが、実際に株をやっていた野球人は石本くらいではないかという。 松園尚巳: 松園はその理念を三原脩に対して「野球の選手は、三十そこそこの一般人なら働きざかりというとき、選手寿命が終わる。 葛城隆雄: 当時の西鉄監督の三原脩は、葛城に打順が回ると稲尾を一塁か外野に引っ込め、次の打者でまたマウンドに戻すという奇策を用いたほどである。 権藤博: 西鉄のテストで三原脩監督と川崎徳次の前で投げたことが自信になり、ブリヂストンのテストでは誰もバットにかすらなかった。 別当薫: それでもシーズン勝ち越しは果たせなかったが、三原脩監督時代の1964年以来5年ぶりのAクラスとなった。 石本秀一: 西鉄は三原脩を三顧の礼で監督に迎えたにもかかわらず、優勝候補だった3年目の1953年も優勝出来ずBクラスに沈んだ。 小川年安: 同春季の早慶戦2回戦で、三原脩にホームスチールを敢行された時の捕手でもあった(投手は水原)。 西本幸雄: 三原脩監督率いる大洋の先勝で迎えた第2戦(10月12日、川崎球場)の8回表、大毎は、まず先頭打者の坂本文次郎がセーフティ・バントで出塁、続く田宮謙次郎の時に土井淳のパスボールで坂本が進塁、田宮も四球を選ぶ。 |
三原脩の情報まとめ
三原 脩(みはら おさむ)さんの誕生日は1911年11月21日です。香川出身の野球選手のようです。
父親、卒業、結婚、引退、事件、テレビ、現在、病気、ドラマに関する情報もありますね。去年の情報もありました。1984年に亡くなられているようです。
三原脩のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 1984年2月6日)は、香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町)出身のプロ野球選手(内野手、右投右打)・監督・球団経営者。 監督としての通算3248試合はNPB歴代最多記録。通算1687勝は歴代2位。 出生時の本名および読売ジャイアンツ総監督退任までの表記は「三原 修」(読み同じ)。 長女の三原敏子は中西太の妻であり、三原は中西の義父に当たる。 1911年11月21日に香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町)で生まれる。生家は地元でも有名な大地主で、修は末っ子として何ひとつ不自由なく育った。香川県立丸亀中学校入学後から野球にのめり込み、将来は修が官吏になることを望んだ父親の意向で香川県立高松中学校に転校させられたが、校長は文武両道を推進しており、野球部入部を条件に転入を承認した。高松中学校では遊撃手として投手の梶原英夫(のち東京帝国大学)らと共に第14回全国中等学校優勝野球大会へ出場し、準決勝まで進出したが雨天コールドで敗退となった。また、当時の野球部マネージャーを務めていたのは、のちに日本社会党委員長に就任する成田知巳だった。 高松中学校を卒業した三原は第四高等学校を受験するが、三原の先輩にあたる水原義明が在籍していた早稲田大学から勧誘されて入学する。早稲田大学野球部では1年生から二塁手として活躍し、特に1931年春季の、いわゆる「早慶戦」2回戦で水原茂を相手に敢行したホームスチールは長い早慶戦史に名を残すほどの大きなプレーだった。このホームスチールで勝ち越しに成功した早稲田大学は流れを掴んでその後も加点して6-3で勝利を挙げ、早稲田大学は対戦成績を1勝1敗として1930年春季からの早慶戦の連敗を5で止めることが出来た。 しかし、三原は1933年の春のリーグ戦後、結婚を機にグローブを練習場に叩きつけて野球部を退部し、帰郷した。故郷では野球から離れた生活を送っていたが、大学中退を許さない三原家の空気のなか、同年に復学。復学したものの本来理系の三原は商科の授業に精が出ず帰郷。その後、大学時代のレギュラー弘世正方(1931年春季リーグ首位打者)が弘世助太郎日本生命社長の甥っ子であることを縁に同社に入社し大阪府へ転居、あわせて弘世らに勧誘されて全大阪でプレーを始めた。三原の六大学リーグ戦の成績は通算67試合に出場し、231打数68安打、打率.294だった。 1934年6月6日、大日本東京野球倶楽部に契約選手第1号として入団する。チームは半年後の同年12月26日に発足するが、その直後の1935年1月に入営のために一度退団する。日本初のプロ野球である日本職業野球連盟(職業野球、1939年から日本野球連盟)が発足した1936年9月に、後身である東京巨人軍の選手兼助監督として復帰すると、同年9月に行われた「茂林寺の特訓」では、監督を務める藤本定義の片腕として成果を挙げるのに大きな役割を果たした。 1937年春季では「3番・二塁手」のレギュラーとしてチーム2位の24打点を記録したが、同年に再び応召され、中国戦線へ出征した。その際に南翔で大腿部を貫通する銃創を受ける。 1938年に三度復帰するが、同年には二塁手のレギュラーを新人の千葉茂に譲る形となった。一説では、当時の三原は株式の売買に忙しく、しばしば地方遠征の不参加があったという。それでも同年の秋季には二塁手のレギュラーに返り咲き、打順も1番を任される。大阪タイガースとの優勝決定戦第1戦終了後、塁審の杉村正一郎が下した判定に不満を持った藤本が抗議のために審判室へ入ろうとしたため、これを止めようと三原が追いかけるが、偶然にも三原の手にはバットが握られていたために藤本だけでなく三原に対しても日本職業野球連盟から出場停止処分と罰金が課されることになった。三原自身はバットこそ握っていたとはいえ、何もしていないのに処罰されたことを不服としてそのまま現役を引退、東京巨人軍を退団した。 現役引退、東京巨人軍を退団した三原は報知新聞社で記者として活動するも、三度目の応召を受けビルマ戦線に従軍した。終戦後は読売新聞社運動部の記者として勤務し、野球評を中心に記述していた。 そんな中、東京巨人軍が「読売ジャイアンツ」へ改称された1947年のシーズン途中である6月3日に、成績不振に悩まされていた球団から三原へ監督就任を要請された。三原はこれを受諾し、3日後の6月6日に大学の後輩にあたる監督の中島治康に配慮する形で助監督兼技術顧問として復帰した。同年9月には総監督に就任するが、この年の読売ジャイアンツは5位に終わる。 1948年は中島に代わって全試合で三原が指揮を執って2位の好成績を残すが、同年オフに別所毅彦の移籍を巡る「別所引き抜き事件」が発生する。なお、当時の球団は監督の大半が背番号「30」を背負っていたが、三原自身は戦前の助監督兼任時代に「21」を着用していたほか、前年に復帰した際には退団まで「31」を付け、のちに西鉄ライオンズの監督就任時には「50」、大洋ホエールズで「60」、近鉄バファローズで「70」、晩年のヤクルトアトムズでは「80」と徐々に番号が大きくなったが、西鉄時代に背番号を変更したのはライバル・水原茂への対抗意識として倍の背番号を選んだとの文献もあるものの、三原本人にこだわりは無かったようである。 1949年には、試合中に対戦相手である南海ホークスの筒井敬三を殴打する「三原ポカリ事件」を起こし、無期限の出場停止処分を受ける。三原の出場停止期間中は中島が指揮を執り、三原の周囲からの救済運動によって後に出場停止100日間へ減じられ、同年7月23日に復帰するとチームは最終的に優勝を果たした。これは巨人によって戦後初の優勝で、日本野球連盟においては最後の優勝となった。 三原の出場停止が明ける頃、学生時代からのライバルで巨人入団後に三塁手を務めていた水原がシベリア抑留から帰国した。ファンや選手からは待ち望んでいた「巨人の功労者」水原のプレーを期待する声が高まったが三原は水原を起用せず、チーム内から三原に対する批判が起きた。シーズンを終えてからはその批判が大きくなり、選手らを中心に三原を排斥して水原を擁立させようとする「三原監督排斥運動」が起きた。球団はこの事態を重く見て「総監督に三原、監督に水原」の人事を発表し、セントラル・リーグに加盟した1950年から現場の指揮権は水原が握ることとなった。監督に就任した水原は三原の監督交代こそ否定的だったが、一方で「三原君は副代表にどうですか?とにかく僕に監督を、ということなら一本でやらせて下さい」と球団に提案している。 1950年のシーズン終了後、前年の1949年まで読売ジャイアンツから移籍していたパシフィック・リーグ、西鉄クリッパースの川崎徳次と球団社長である西亦次郎の説得により、1951年1月30日に西日本パイレーツを吸収合併した新生「西鉄クリッパース」(同年2月28日より「西鉄ライオンズ」)監督に就任した。当初は1月18日に西日本パイレーツの監督へ就任することが発表されていたが、西鉄への吸収合併により宮崎要の後任として三原に白羽の矢が立った。そのために1952年までは引き続き宮崎が監督を名乗り、三原は総監督として指揮を執っていた。 なお、西日本パイレーツの監督に就任することが発表された翌日より、名前の表記を「三原 修」から「三原 脩」に変更している。改名の動機について三原自身が自著で触れることは無かったが、後年になって長男が明かした内容によると、「修学」「修行」などといった発展途上を表す熟語のイメージが強かった「修」の文字から決別したい思いがあったとされ、読売ジャイアンツ監督時代にチームを文字通り「おさめる」ことが出来ず、最終的には排斥運動まで起こったことから監督としてより高い立場からチームを「おさめたい」願いを「脩」の文字に託したようである。 三原は、巨人時代の悶々とした気持ちを晴らすために西鉄ライオンズを強大なチームに育て上げ、日本シリーズでの「打倒巨人」を誓った。1952年に球界屈指のスター選手である「青バット」大下弘の獲得に成功すると、中西太、豊田泰光、稲尾和久ら若手有望株の選手を相次いで獲得し、大下を軸にするチーム作りを始めた。その甲斐あって1954年に初優勝を遂げたが、セントラル・リーグは当時「魔球」と呼ばれたフォークボールを武器に大活躍を見せた杉下茂を擁する中日ドラゴンズが優勝したため、この年では巨人との対戦は叶わなかった。 巨人との日本シリーズが実現したのは1956年で、両者の戦いは「巌流島の決闘」と評されるほどの注目を集め、4勝2敗で三原にとって念願の「巨人を破っての日本一」を達成した。後年、三原は日本経済新聞の「私の履歴書」において当時について回想し、祝勝会で選手らと飲酒している最中に色紙が回ってきて、それに「我勝てり」と書き込んだという。巨人で監督失格の烙印を押されて都落ちした三原の会心の勝利で、西鉄黄金時代の始まりだった。1957年には4勝1分で巨人を無敗で一蹴するなど、選手の間からは「パ・リーグで南海や大毎に勝つ方が難しい」といった声も聞かれるほどだった。 1958年、西鉄は3年連続で巨人との日本シリーズを戦うこととなり、長嶋茂雄(立教大学)が加入した巨人が3連勝し、王手をかける。第3戦の翌日未明に三原が徹夜の麻雀の途中で降雨に気付き、球団社長の西へ電話を掛けて第4戦の中止を取り決めた。「フル回転だった稲尾を休ませたい」「ツキを変えたい」思惑があったが逆転優勝の勝算があってのことではなかった。雨は翌朝には上がって快晴となったため、巨人は西鉄側の中止決定に対して猛抗議したが、三原の回想には「水原自身が電話を掛けて激しく詰め寄って来たので『どうせ君が勝つんだから良いじゃないか』といって一方的に受話器を下ろした」とあり、水原の慢心を誘う揺さぶりではなく三原の本心だった。選手側もいまさら挽回は無理だろうという雰囲気だったが、「このまま平和台で優勝を決められれば、荒っぽい九州のファンに殺される。せめて2勝して東京まで行って決めよう」という消極的な積極論に同調し、西鉄は雨天中止による中1日登板の稲尾が完投して第4戦に勝利すると、第5戦も延長戦の末に勝利を挙げて連勝、シリーズは舞台を後楽園球場に移した。第5戦での稲尾は3点を追う時点での連投(ロングリリーフ)だったが、これは三原が敗戦を前提として、試合後に「エース(稲尾)を起用して負けたんだから仕方ない」という言い訳をするための起用だった。しかし三原の本心を知らない選手は、稲尾のリリーフを「監督はまだ勝負を諦めていない」と解釈して奮い立ち、同点に追いついたのち逆転に成功し、シリーズの流れは完全に西鉄へ傾いた。結局、稲尾は東京での第6戦、第7戦でも完投し、巨人は本拠地でも、長嶋をもってしても、西鉄の流れを止められなかった。 こうして西鉄は、日本シリーズ史上初の「3連敗からの4連勝」で頂点に立った。稲尾は第2戦を除く6試合に登板して4完投、さらに第4戦から全ての試合に登板して4勝を挙げた。「神様、仏様、稲尾様」はこの時に三原の口から出たものである。後年に病床の三原の元を訪ねた稲尾は、この日本シリーズでの起用の理由を説明したのち、監督失格とまで言った三原に対して、稲尾は「勝ったんだから良いじゃないですか」と慰めるも、三原は気が済まない様子だったと回想している。 球団に不信感を抱いていた三原の意を汲んだ大洋ホエールズが接触して就任寸前まで漕ぎつけたが、かつて三原が記者として勤務していた報知新聞社がこれをスクープし、西鉄に残留する。1959年のシーズンは4位に低迷し、同年11月19日に責任を取る形で西鉄監督を辞し、2日後の11月21日に大洋の監督に就任した。 当時の大洋ホエールズは1954年から6年連続で最下位に低迷しており、「万年最下位」の大洋に名将・三原が監督に就任したことは大きな話題を呼んだ。周囲の期待は当然ながら常勝軍団の西鉄を築いた三原が大洋をどのように鍛え直すかに集まり、同時に水原率いる巨人とペナントレースで戦うことから「巌流島の戦いの再現」と宣伝された。春季キャンプ中に記者から「目標は勝率5割ですか?」と問われた三原は、突然大声を出して「冗談じゃない!」と一蹴した。続けて「勝率5割を目標にして優勝できますか?大洋の目標は『優勝』です。最下位だと言ってもそれは去年までのこと。前年最下位だから次も最下位だという理屈は無い。前年最下位のチームが優勝した例はアメリカには一杯ありますよ」と捲し立て、いつしか選手はこの言葉に聞き耳を立てていた。 1960年は開幕から6連敗を喫し、エースの秋山登も離脱する苦しい幕開けとなったが、三原の選手起用がすぐに冴え渡り、巨人と優勝争いを繰り広げた。スタミナ不足で前年を未勝利で終えた権藤正利を中継ぎ専門で復活させ、秋山に次ぐ主戦投手だった左腕の鈴木隆も中継ぎで起用して、秋山には復帰後に先発、中継ぎ、抑えの三役を担わせることで接戦での勝利が急増した。そして空いた先発枠には体力のある若手の島田源太郎を抜擢し、投手力の若返りと底上げに成功した。また、近藤和彦・桑田武を除くと打線はリーグ最低の打率だったが、二塁手に新人の近藤昭仁を起用するなど、野手陣の再編にも力を注ぐ。 当時のプロ野球規則ではトレード期限が同年4月末までで、5月以降はトレードが不可能だったが、例外としてコミッショナーが承認すれば移籍可能だったため、三原はこれを利用する。現役時代の後輩である千葉茂が率いる近鉄バファローから、千葉と揉めて出場機会に恵まれていなかった「曲者」鈴木武を獲得して遊撃手として起用するとすぐに優れた適応力を見せ、打者によって守備位置を変え、牽制時に巧みなタッチで走者を度々アウトにするなど、チームの守備力向上に貢献した。鈴木が起用されるまで遊撃手だった麻生実男は守備力で劣るために打力を活かそうとして代打専門、大学時代の負傷の後遺症で打撃力が弱い浜中祥和は守備力と走力を活かして守備固めと代走で重点的に起用するなど、三者三様の能力が生かされるようになった。 さらに三原は投手、野手問わず選手が最も得意とする技術を徹底的に磨くよう指示を出した。権藤にはカーブ、島田には制球力、浜中には走塁といった具合で、三原の手書きメモには「タイプの違った2人の選手の長所を上手く組み合わせて起用すれば、1人のスタープレーヤーに匹敵する戦力が生まれる…」と書かれており、これらの選手を「超二流選手」と呼んで選手を上手く組み合わせる采配を見せ、僅差に強いチーム作りを進めた。実際にこの年は1点差試合が33勝17敗と、約2:1の割合で勝利を掴んでおり、粘る巨人を下して球団史上初のリーグ優勝を成し遂げた。 同年の日本シリーズは「ミサイル打線」との異名を持つ強力打線で優勝した大毎オリオンズだった。「三原をもってしても…」というように下馬評では圧倒的な大毎有利だったが、初戦から全て1点差での試合を制して日本一に輝いた。前年度が最下位だった球団によるリーグ優勝・日本一は日本プロ野球史上初の快挙で、監督として3球団での優勝も史上初だった。この功績が評価され、1961年にはスポーツ界で初となる菊池寛賞を受賞した。 しかし、この年の貧打を投手力でカバーする戦略は長続きしなかった。1961年には一転して最下位に終わったことから、1962年以降は「メガトン打線」を構築する。そして同年と1964年も阪神タイガースと優勝を争いを終盤まで演じたが、いずれも優勝を逃して2位に終わった。その後もチーム成績は向上せず、1967年10月3日に三原は成績不振を理由に辞任を表明する。翌日には球団側もこれを認め、三原は大洋を退団することが決まった。 大洋を退団したばかりの三原の元へ、11月6日に近鉄バファローズから監督就任の要請があり、三原は承諾した。球団との契約金は無く、1年間の単年契約だった。三原は大洋時代と同じように1年目の序盤から優勝争いを繰り広げて話題を呼び、最終的には優勝こそ逃すものの4年連続最下位から脱却して4位で終えた。ところが、1968年11月7日に「会社に背信行為があった」として辞任を申し入れた。球団からの説得によって最終的には留任が決まるが、三原が就任する以前の近鉄には八百長による敗退行為が蔓延しており、三原の判断で八百長に関与していた選手を次々に放出していたことから球団との対立が生じていた。しかし、この時の三原の判断が正しかったことは、1970年の「黒い霧事件」で証明されることとなる。 就任2年目には阪急ブレーブスとの優勝争いを繰り広げる。前年に3年契約を結んでいた三原は、任期満了によって1970年10月24日に退任を発表した。近鉄時代でも選手の指導力は変わらず、永淵洋三を投手・野手の二刀流で起用した後に野手に一本化して首位打者を獲得させたほか、伊勢孝夫・小川亨も主力選手へ育てた。 1970年11月7日にヤクルトアトムズの監督に就任した。これまでとは一転して優勝どころかAクラス(2位・3位)入りすら叶わなかったが、三原の就任前年までが勝率.264と、ドラフト制度導入以後の最低勝率を記録した崩壊状態のチームを、1年目は最下位ながらも勝率.419、2年目の1972年には勝率.472の4位、3年目の1973年には同じ4位ながら勝率.488と、徐々に勝率は上がっていく一方で、首位・巨人には4.5ゲーム差まで詰め寄るなど、短期間でチームを立て直すことには成功した。 選手起用の面においても入団直後の若松勉の打撃センスを見抜いてレギュラーに抜擢し、三原と共に打撃コーチとして入団した中西とのマンツーマン指導によって翌年には早くも首位打者を獲得させるなど、のちに若松が大打者として飛躍するきっかけを作った。 松岡弘は「三原さんはその年(1971年)にオープン戦で僕をガンガン使ってくれた。それで、まだ2ケタ勝ったことのない4年目の僕が開幕投手。周りには「なんで松岡が」と不満だった人もいたみたいだけど、三原さんは信頼してくれた。そうしたらその年14勝ですよ。三原さんの魔術にかかっちゃったんだね。そこから72年は17勝、73年は21勝です。三原さんを筆頭にチームで僕を育ててくれてやっぱり期待に応えようとして僕も精神的に強くなれたんかな」と述べている。 三原はヤクルトアトムズの監督を1973年10月25日に勇退し、同年11月17日に「日本ハム」による日拓ホームフライヤーズの買収へ関与した。日本ハムファイターズ(日本ハム球団株式会社)の代表取締役社長兼球団代表に就任し、監督に娘婿となっていた中西を迎え入れた。だが三原は、試合開始直後の初回に走者が出た場面でいきなり犠打のサインを出した中西の采配を見るや、「監督の器ではない」と思ったという。 結局、チームは1974年・1975年と2年連続の最下位に終わり、三原は中西を首、中西の後任として大沢啓二を招聘した。大沢は三原の期待通りに最下位続きだったチームを優勝争いが出来るまで育て上げ、三原が相談役へ退いた1981年には前身の東映フライヤーズ時代以来19年ぶりとなるリーグ優勝を果たした。この間にも積極的にチームの体質改善を図り、張本勲・大杉勝男・白仁天・大下剛史・高橋直樹などの東映時代の主力を次々に放出した。リーグ優勝を果たした時に残っていたのは宇田東植・千藤三樹男・岡持和彦のみで、同年オフに宇田は阪神タイガースへ移籍し、千藤は現役引退を発表した。同時期に発生した江川事件(1978年)では巨人を除く11球団で江川卓の巨人入団に反対したが、大勢を変えることは出来なかった。 相談役に退いた三原は、1981年に戸籍上も「三原 脩」に改名した。1983年に野球殿堂入りを果たすと、その直後の1984年2月6日に糖尿病の悪化による心不全のため死去した。72歳没。 選手としては1934年に発足した大日本東京野球倶楽部の契約第1号だった。なお、日本初のプロ契約選手として三原が紹介される場合もあるが、1920年代に「日本運動協会」などが発足しているため、厳密には誤りである。 東京巨人軍を退団、現役引退後は新聞記者として報知新聞社(戦時中の新聞統制による統合が再分離された際に読売新聞社へ移籍)に勤務していた時期があるほか、晩年には日本ハム球団株式会社(日本ハムファイターズ)の代表取締役社長兼球団代表(のちに相談役)を歴任した。 注目されるのが監督としての三原で、選手の調子やツキを見逃さない慧眼の持ち主で、周囲の予想を超える、あるいは予想に反する選手起用や戦術で数々の名勝負を演出し、その手腕は「三原魔術」「魔術師」「知将」と驚嘆された。日本プロ野球史上において「日本野球連盟」「2リーグ分立」(のちのセントラル・リーグおよびパシフィック・リーグの両方)に加盟する球団での日本シリーズといった、3種類の優勝を経験した唯一の人物である。監督としての通算3248試合出場は日本プロ野球記録で、監督としての在籍球団数(5球団)も藤本定義、石本秀一と並ぶ日本プロ野球タイ記録である(監督代理は含めない)。通算1687勝は歴代2位。 前述のように「三原魔術」と称された三原だが、その魔術の代表的な物として西鉄ライオンズの監督時代の「流線型打線」がある。 犠打や「つなぐ打撃」を期待される2番打者に強打者を配置するもので、当時としてはかなり画期的な取り組みである。1954年にパシフィック・リーグを制覇した際には2番・豊田泰光、3番・中西太、4番・大下弘の強力打線を並べ、三原独自の打線論を披露した。この西鉄の強力打線は「水爆打線」と呼ばれたが、その元祖は松竹ロビンスである。現代のプロ野球においてもこの打線論を引き継いでる部分が多い。 一方、大洋ホエールズの監督に就任した後の1962年には、打撃の良い近藤和彦を2番に据え、小技に長けた近藤昭仁を下位に置くメガトン打線を組んだが、三塁手・桑田武を強引に遊撃手へ据えるほどの守備力を度外視した布陣だったため、1960年に日本一を達成した時とは一転して「接戦に弱い」という弱点が露呈した。 流線型打線と共に三原の代名詞となったのが「超二流」で、一流では無いが守備や打撃で一芸に秀でた選手を好んで起用していた。西鉄では、打率こそ低いが二塁打を多く放ち、相手から「曲者」と呼ばれた河野昭修を6番でレギュラー起用したほか、滝内弥瑞生を代走や守備要員として、小淵泰輔を内野のユーティリティープレーヤーとして仰木彬と共に起用した。 大洋時代にも守備力に難があった麻生実男を代打の切り札として起用する代わりに、主砲・桑田に対して「打率.250で良い代わりに本塁打を打て!」と指示するなど、弱小と言われたチームで選手の特性を見抜き、多彩な選手起用を見せて成功を収めた。また、「運」「ツキ」の有無を先発起用に反映することもあり、「ツキ」がある選手は実績の有無に関わらず起用して多く成功させている。 選手の負担を軽減させる目的で選手起用をすることや、「相手が何か仕掛けてくる」と思わせておきながら、実際は相手の予想に反するか予想以上の結果を引き出すことがある。 大洋ホエールズのエースである秋山登は登板数が嵩んでいたため、負担を軽減するために鈴木隆、大石正彦をショートスターターとして起用することがあった。また、ヤクルトアトムズ監督時代の1973年には小林国男、榎本直樹ら若手投手を3回ずつ登板させた後、主戦投手の松岡弘、浅野啓司を中継ぎで起用させるパターンを練り上げ、その結果、チーム防御率がリーグトップの好成績を記録した。また、同じヤクルト時代には満塁の場面で代打の大塚徹を起用するが、全球を見逃すように指示を出した。相手側に「何か仕掛けてくるだろう」と思わせながら押し出しの四球を狙ったもので、思惑通りに大塚は押し出しの四球を選ぶことに成功した。 大洋時代にはアル・グルンワルド(グルン)、近鉄時代は永淵洋三、ヤクルト時代は外山義明といった、投手でありながら打撃のよい選手には投手として登板後に外野手へ起用(あるいはその逆)したり、代打で起用することもあった。 当て馬(偵察メンバー)作戦は、三原が西鉄ライオンズの監督を受諾して間もない頃に、南海ホークス監督の鶴岡一人に目まぐるしく投手を交代される「小間切れ交代」に泣かされ、その対抗策として思い付いたものである。1960年9月19日の対阪神タイガース戦(川崎球場)では、1試合に26人もの選手を起用(そのうち偵察メンバーは2人)した。通常、一軍に登録可能な選手の中からベンチ入りが可能な選手は25人までだが、当時は「5月1日から9月15日までの期間以外は、45人の支配下選手登録の中であれば何人でも出場可能」という規則が存在したことがこの作戦に繋がっており、三原は後に「こんな『おかしな』制度があるんだ、ということを提唱したかった」と自ら述べている。 1962年9月22日の対中日ドラゴンズ戦(川崎球場)では、発表した先発選手のなかで若手主体の7人を「偵察」として送り出し、試合開始直後に全員を主力選手に交代させた。以下、そのメンバーの一覧である。 この「偵察メンバー」作戦はエスカレートし、プロ野球全体の大問題となった「サイン盗み」を、パシフィック・リーグで最初に行ったのは西鉄監督時代の三原で、乱数表の導入も近鉄監督時代の三原だと言われている。三原の回想によれば、サイン盗みは「外野のスパイが団扇の向きを変える」などして選手に伝えていたという。 前述の「偵察メンバー」は日本シリーズでも行われている。 1960年の日本シリーズ(対大毎オリオンズ戦)の先発投手では、シーズン全体で中継ぎが主体だった鈴木隆を起用し、1回表の途中でエース・秋山登に交代させた。同年のオープン戦で秋山から快打を連発させていた石川進を秋山と対戦させないようにするのが目的で、走者が出たところでの交代と決められていたが、実際には石川は先発起用されなかった。 なお、この初戦を翌日に控えた前夜に、日本教育テレビ(NET)で「シリーズ直前インタビュー」と題して大毎監督・西本幸雄と大洋監督・三原の対談番組が放送される予定だったが、予定時間になっても三原が現れず、西本と番組のホスト役だった野球解説者の佐々木信也との対談に終始した。翌日、佐々木と番組スタッフが川崎球場の監督室にいた三原を訪ねて抗議したところ、三原はそこでNETを侮辱したかのような発言をしたため、温厚だった佐々木を激怒させた。早稲田大学出身の二塁手だった三原は、慶応大学出身の二塁手だった佐々木に対して良い感情を持っておらず、これ以前にも伏線めいた話として、シーズン中に土井淳がスクイズを決めたのに対し、佐々木は三原がいつサインを出したのかが見抜けなかった。試合後、佐々木が監督室の三原へ聞きに行くも、見下したような顔で「あれば見事なスクイズでしたねぇ」としか返事がもらえず、佐々木は東京六大学で同期だった土井本人に真相を尋ねたところ、オフレコを条件に「自分が出していた。(三原)監督は時々、選手の判断に任せてサインを出させることがある」と告白されている。実際、西鉄時代に2番打者としてプレーした豊田泰光は「ヒッティング、バント、ヒットエンドラン」の選択を三原から任せられ、塁上の走者に豊田が自らサインを出していたことがある。 偵察メンバーを多用する三原だが、1958年の日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)においては先発出場のメンバーを事前に公表することとなっていた。しかし三原は、第6戦(後楽園球場)で事前に公表した打順とは異なる選手を起用(玉造陽二から花井悠へ変更)していた。これを巨人監督・水原茂はルール違反として抗議したために試合開始が当初より遅れたが、三原は事前公表に反する起用とは意に介さず、むしろ抗議中は西鉄側でバットを振っていればいいが、守備に就いた巨人側は投手の肩が冷えないように神経をすり減らすことになると踏んだために逆に喜んだという。 日本シリーズでの三原は「偶数戦(第2・4・6戦)必勝主義」を唱えていた。1956年の日本シリーズでは初戦で黒星を喫したがこれは計算済みで、偶数戦に勝利することが重要であるとの考えである。この考えは後に「2戦目重視主義」のルーツとなる。 早稲田大学時代の1931年春季の「早慶戦」2回戦において三原がホームスチールを決めた試合は現在でも語り草となっているが、その試合を含めて3連投していたのは「伊達の3連投」の伊達正男で、ホームスチールを決めた瞬間に登板していたのが水原茂だった。水原と三原は同じ香川県出身で、「宮本武蔵・佐々木小次郎」にも例えられるほどの永遠のライバルとされている。1951年に三原が西鉄ライオンズの監督に就任してから初めてのキャンプでは「我、いつの日か中原(ちゅうげん)に覇を唱えん」と第一声を発したとされる。また、1956年から3年間に渡って日本シリーズで対決し、「巌流島の戦い」と呼ばれた。 三原がヤクルトアトムズの監督に就任した1971年に、水原は中日ドラゴンズの監督を務めていた。この年のセ・リーグ最終戦となった10月9日は両者の最終対決が川崎球場で行われ、中日が勝利した。これによって同年の両球団の対戦成績は12勝12敗2分と完全な五分となった。 犬猿の仲とも評された三原と水原だったが共にユニフォームを脱いだ後も交流は続いたそうで、晩年は三原がパ・リーグ会長、水原がセ・リーグ会長となる計画もあったが、実現することなく両者とも鬼籍に入った。 前述の対談番組以降も、西本とは縁が続いた。三原が近鉄を率いて初優勝に挑んだ1969年に、阪急の監督としてそれを阻んだのが西本だった。その10年後に西本が近鉄の指揮を執り、三原が達成できなかった近鉄の初優勝が実現した。 また、当時三原が相談役を務めていた日本ハムが、球団譲渡以来の初優勝(1980年後期)に“マジック1”と迫ったシーズン最終戦に西本が率いる近鉄に大敗し、後期およびシーズン優勝を近鉄に譲っている。 1956年のシーズン最終戦で、既に二冠を確定させて三冠王の可能性もあった中西をあえて休ませ、同僚の豊田に5毛の差で首位打者を獲得させた。三原は中西に対して直接「お前は二冠も取れたんだからもう良いだろう」と説得したという。中西がそのまま三冠王を獲得していれば二リーグ分立以降では初の三冠王であったが、この頃は世間一般にも「三冠王」という概念が無かったとも言われている。 大洋ホエールズの監督時代に阪神タイガースとの優勝争いが激化していた頃のある日、国鉄スワローズ戦に敗れた後で三原が「死に馬に蹴られた」と発言した。これに激怒したのが金田正一で、金田は残る1試合の対大洋ホエールズ戦に登板して完投勝利を収め、その試合によって大洋が優勝を逃す遠因になった。また、国鉄が3試合残っていた対阪神タイガース戦では金田も、主力投手の村田元一も登板しなかったため、「国鉄は大洋に優勝させたくなかったのだろう」と言われた。 外国人選手をめぐるトラブルに泣かされることが多く、近鉄監督時代はカール・ボレスの我儘に耐えかねて娘婿の中西が監督を務める西鉄へ放出したが、それが「黒い霧事件」の発端となっている。ヤクルト監督最終年度である1973年にはジョー・ペピトーンを巡るトラブルに巻き込まれ、日本ハム球団社長に就任したばかりの1974年にはバール・スノーの失踪騒動に遭った。三原は1973年を最後に監督業を退いたが、三原は明治時代生まれで最後のプロ野球監督だった。三原は明治44年(1911年)生まれで、1976年に太平洋クラブライオンズの監督に1905年(明治38年生まれ)のレオ・ドローチャーを招聘して契約までこぎつけたものの、直後に病気のため就任が見送りとなった例がある。 日本ハム球団相談役の職についていた1981年10月1日、新たに人名用漢字に追加された54字に三原の名前である「脩」が入っていたため、その取材を受けたことがある。1951年より「三原修」から「三原脩」に改名したが戸籍上は長らく「三原修」のままだった。これは、漢字の使用に制限が設けられた「戸籍法」が1948年に施行され、「脩」が当用漢字に含まれず、1951年に新設された人名用漢字にも含まれなかったためである。前述の人名用漢字に追加された際に、三原も「脩」への改名申請を家庭裁判所に申請したほか、野球外でも「三原脩」の名前を使用していた実績からすぐに改名が認められ、晩年にようやく「三原脩」が本名になった。なお、「脩」の字は、1951年に人名用漢字を新設する際に参考にされた1940年出版の「標準名づけ読本」が選んだ500字に含まれない、決して常用平易とは言えない漢字だったが、1975年に法務省民事局が行った調査では「人名に用いる常用平易な漢字として追加すべき漢字」の44位にランクインし、1981年の追加に至った。これは三原の影響力もあったと推測されている。 新聞記者時代に野球評を書いていた一方、野球解説者としての活動は、監督時代に出場が叶わなかった年の日本シリーズ中継のゲスト出演、日本ハム球団代表時代のKBCラジオ制作中継への本数契約による出演にとどまった。 巨人監督時代に藤本英雄(1950年6月28日)、西鉄時代に西村貞朗(1958年7月19日)、大洋時代に島田源太郎(1960年8月11日)と佐々木吉郎(1966年5月1日)、近鉄時代に佐々木宏一郎(1970年10月6日)の完全試合を自軍監督として見届けている。 野球殿堂競技者表彰(1983年) 菊池寛賞(1961年) 21(1936年 - 1938年) 31(1947年 - 1950年) 50(1951年 - 1953年) 60(1954年 - 1967年) 70(1968年 - 1970年) 80(1971年 - 1973年) 三原 修(1936年 - 1938年、1947年 - 1950年) 三原 脩(1951年 - 1973年) 『私の野球生活』(1947年 東亜出版社) 『私の新しい野球戦術』(1948年 大泉書店) 『少年野球読本』(1949年 読売新聞社) 『監督はスタンドとも勝負する』(1963年、朝日新聞社) 『三原メモ』(1964年、新潮社) 『現代の野球』(1971年 ベースボール・マガジン社)※翻訳(著者:ギル・ホッジス) 『勝つ:戦いにおけるツキとヨミの研究』(1973年、サンケイ新聞社出版局) 『ギル・ホッジスの戦法:現代の野球』(1978年3月、ベースボール・マガジン社)※翻訳(著者:ギル・ホッジス) 『風雲の軌跡:わが野球人生の実記』(1983年7月、ベースボール・マガジン社 ISBN 4583023448) 『人づかいの魔術:私の野球人生から』(1983年8月、講談社 ISBN 406200562X) 『エノケンのホームラン王』(1948年9月9日、東宝) 『鉄腕投手 稲尾物語』(1959年3月21日、東宝) ※監修も務める KBCジャンボナイター(KBCラジオ) ^ このホームスチールは、6回裏に慶応義塾大学が2-2の同点に追いついた直後の7回表、2死満塁の場面で三原が実行したものである。ちなみに、この試合は伊達正男が3日連続で登板して勝ち点を挙げた「伊達の3連投」として有名な試合で、ホームスチールは左打者を打席に迎えた場面で企てたものである。通常、左打者が打席に入れば三塁走者の動きは捕手からは丸見えとなるばかりか、投手は右投げの水原であり、通常はホームスチールなど考えられない場面である。そのため、早稲田大学の初代監督だった飛田穂洲から「定石外れの暴挙」と痛烈な批判を浴びせられたが、三原は堂々と反論し、後の片鱗を見せた。 ^ 当時は前後期制で、前期の優勝球団と後期の優勝球団が年度王者を賭けて対戦する優勝決定戦が存在した。 ^ 第二次世界大戦での「新聞統制」によって読売と報知新聞社が合併していたが戦後になって再分離された。この際に三原の籍が旧・報知新聞から読売へ移されていた。 ^ ただし全選手が三原の排斥に賛同していたわけではなく、例えば川上哲治は三原派で「(水原監督の)1年目(1950年)は水原さんとは仲良くなかった」と語っている。 ^ その後、1979年に西本幸雄(近鉄バファローズ)、2013年に星野仙一(東北楽天ゴールデンイーグルス)も達成している。 ^ セントラル・リーグおよびパシフィック・リーグの両方で日本シリーズを制したことがある監督は、他に水原茂・広岡達朗がいる。 ^ この時代のプロ野球では、三原をはじめ多くの監督は現在のコーチボックスで指揮を執っていた。 ^ 10月11日からの日本シリーズに合わせ、公式戦を早く消化するように変則ダブルヘッダーが組まれた。第2試合は川崎が本拠地である「大洋-中日」、第一試合が「ヤクルト-中日」だった。 ^ 元は「死に馬が屁を放る」で、「死に馬に蹴られた」とは三原の造語である。 ^ 真のライバル 3 (もう一人の水原)〈徒然想 2010年4月8日記事〉 ^ “巨人軍年表”. 読売巨人軍公式サイト. https://www.giants.jp/G/museum/g_history/ 2022年11月12日閲覧。 ^ 『野球殿堂 1959-2009』P77 ^ 『巨人軍の男たち』45頁 ^ 『巨人軍の男たち』44頁 ^ 【プロ野球仰天伝説89】バットを持って審判室へ。その後、罰金処分に怒って退団した三原脩【怒れる男たち】週刊ベースボールONLINE2018年03月22日 ^ “残された南海との遺恨 「ぽかり事件」で無期限出場停止/三原脩氏編4”. 日刊スポーツ (2021年12月10日). 2021年12月10日閲覧。 ^ 参考:三原脩が監督を務めた時代の年表 ※『ライオンズ・クラシック 2011』(埼玉西武ライオンズホームページ内)より。 ^ 中川淳一 (2012年1月10日). “三原「修→脩」 名監督の改名は筋書きのないドラマ”. NIKKEIリスキリング. 日本経済新聞社. p. 2. 2023年10月16日閲覧。 ^ 中川淳一 (2012年1月10日). “三原「修→脩」 名監督の改名は筋書きのないドラマ”. NIKKEIリスキリング. 日本経済新聞社. p. 1. 2023年10月16日閲覧。 ^ 「西鉄・三原監督、辞任騒動」週刊ベースボール別冊 よみがえる1958-69年のプロ野球 [Part1] 1958年編 ルーキー・長嶋茂雄、球界席巻! ベースボール・マガジン社.2023年.P26 ^ 読売新聞1967年10月4日9面「三原監督が退陣表明 『来シーズン、大洋と契約しない』」読売新聞1967年10月p89 ^ 読売新聞1967年10月5日10面「三原監督の辞任了承 別当ヘッドコーチが代理監督に」読売新聞1967年10月p118 ^ 読売新聞1967年11月7日11面「三原近鉄監督正式に就任」読売新聞1967年11月p187 ^ 読売新聞1968年11月9日11面「三原監督、退団申し入れ」読売新聞1968年11月p259 ^ 週刊ベースボールプラス6 1950-2011 わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡、松岡弘が語るヤクルト初優勝までベースボール・マガジン社、2011年、P41 ^ 週刊現代2016年12月31日号、p129 ^ 追悼・中西太「オリックス時代は、どういうバッターにどういう指導をすればいいかが分かっていた。ワシの指導者人生の集大成と言っていいのかもしれん」/追悼・中西太週刊ベースボール ^ 『野球殿堂 1959‐2009』、『コトバンク』内掲載記事「三原脩」(ソース:『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『デジタル大辞泉』)ほか ^ 三原脩『勝つ 戦いにおける“ツキ”と“ヨミ”の研究』サンケイ新聞社、1973年、114-116頁。 ^ “【9月22日】1962年(昭37) 三原監督、ルール守ってアテ馬7人 エースも三塁守らせる”. スポーツニッポン (2007年9月22日). 2012年12月27日閲覧。 ^ 『南海ホークスがあったころ』 ^ NHK教育テレビジョン『知るを楽しむ 「個性がプロ野球を救う」』における、佐々木のコメントより。 ^ 玉木正之『プロ野球大事典』新潮文庫。1938年秋の中島治康の三冠王は1965年になって認定された ^ 中川淳一 (2012年1月10日). “三原「修→脩」 名監督の改名は筋書きのないドラマ”. NIKKEIリスキリング. 日本経済新聞社. p. 3. 2020年10月22日閲覧。 立石泰則『魔術師決定版 〜三原脩と西鉄ライオンズ〜』小学館、2002年。ISBN 9784093874038。 野球体育博物館『野球殿堂 1959-2009』ベースボール・マガジン社、2009年。ISBN 9784583101644。 『ライオンズ60年史』ベースボール・マガジン社、2010年。ISBN 9784583616858。 永井良和、橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』紀伊國屋書店、2003年。ISBN 9784314009478。 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 p.21 - 22 巨人時代(田村大五執筆)。中西の妻となった娘の名前も記されている。 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年 香川県出身の人物一覧 早稲田大学の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 個人年度別成績 三原修 - NPB.jp 日本野球機構 三原脩 とは - コトバンク 殿堂入りリスト|財団法人野球体育博物館 表 話 編 歴 西垣徳雄 1950 - 1953 藤田宗一 1954 - 1955 宇野光雄 1956 - 1960 砂押邦信 1961 - 1962 浜崎真二 1963 林義一 1964 - 1965 砂押邦信 1965 飯田徳治 1966 - 1967 別所毅彦 1968 - 1970 三原脩 1971 - 1973 荒川博 1974 - 1976 広岡達朗 1976 - 1979 武上四郎 1980 - 1984 土橋正幸 1984 - 1986 関根潤三 1987 - 1989 野村克也 1990 - 1998 若松勉 1999 - 2005 古田敦也 2006 - 2007 高田繁 2008 - 2010 小川淳司 2011 - 2014 真中満 2015 - 2017 小川淳司 2018 - 2019 髙津臣吾 2020 - 現在 表 話 編 歴 藤田省三 1950 - 1952 芥田武夫 1952 - 1957 加藤久幸 1958 千葉茂 1959 - 1961 別当薫 1962 - 1964 岩本義行 1965 - 1966 小玉明利 1967 三原脩 1968 - 1970 岩本堯 1971 - 1973 西本幸雄 1974 - 1981 関口清治 1982 - 1983 岡本伊三美 1984 - 1987 仰木彬 1988 - 1992 鈴木啓示 1993 - 1995 佐々木恭介 1996 - 1999 梨田昌孝 2000 - 2004 表 話 編 歴 渡辺大陸 1950 中島治康 1951 有馬義一 1951 小西得郎 1952 - 1953 永沢武夫 1954 藤井勇 1955 迫畑正巳 1956 - 1958 森茂雄 1959 三原脩 1960 - 1967 別当薫 1968 - 1972 青田昇 1973 宮崎剛 1974 秋山登 1975 - 1976 別当薫 1977 - 1979 土井淳 1980 - 1981 関根潤三 1982 - 1984 近藤貞雄 1985 - 1986 古葉竹識 1987 - 1989 須藤豊 1990 - 1992 江尻亮 1992 近藤昭仁 1993 - 1995 大矢明彦 1996 - 1997 権藤博 1998 - 2000 森祇晶 2001 - 2002 山下大輔 2003 - 2004 牛島和彦 2005 - 2006 大矢明彦 2007 - 2009 尾花髙夫 2010 - 2011 中畑清 2012 - 2015 アレックス・ラミレス 2016 - 2020 三浦大輔 2021 - 現在 表 話 編 歴 宮崎要 1950 三原脩 1951 - 1959 川崎徳次 1960 - 1961 中西太 1962 - 1969 稲尾和久 1970 - 1974 江藤慎一 1975 (レオ・ドローチャー 1976当初) 鬼頭政一 1976 - 1977 根本陸夫 1978 - 1981 広岡達朗 1982 - 1985 森祇晶 1986 - 1994 東尾修 1995 - 2001 伊原春樹 2002 - 2003 伊東勤 2004 - 2007 渡辺久信 2008 - 2013 伊原春樹 2014 田邊徳雄 2015 - 2016 辻発彦 2017 - 2022 松井稼頭央 2023 - 2024 西口文也 2025 - 現在 表 話 編 歴 三宅大輔 1934 - 1935 浅沼誉夫 1935 - 1936 藤本定義 1936 - 1942 中島治康 1943 藤本英雄 1944, 1946 中島治康 1946 - 1947 三原修 1947 - 1949 水原茂(水原円裕) 1950 - 1960 川上哲治 1961 - 1974 長嶋茂雄 1975 - 1980 藤田元司 1981 - 1983 王貞治 1984 - 1988 藤田元司 1989 - 1992 長嶋茂雄 1993 - 2001 原辰徳 2002 - 2003 堀内恒夫 2004 - 2005 原辰徳 2006 - 2015 高橋由伸 2016 - 2018 原辰徳 2019 - 2023 阿部慎之助 2024 - 現在 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 水原茂 1963 川上哲治 1964 鶴岡一人 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 藤田元司 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 仰木彬 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 王貞治 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 落合博満 2008 渡辺久信 2009 原辰徳 2010 西村徳文 2011 秋山幸二 2012 原辰徳 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 工藤公康 2019 工藤公康 2020 工藤公康 2021 高津臣吾 2022 中嶋聡 2023 岡田彰布 2024 三浦大輔 表 話 編 歴 1950 小西得郎 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 水原円裕 1957 水原円裕 1958 水原円裕 1959 水原円裕 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 藤本定義 1963 川上哲治 1964 藤本定義 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 与那嶺要 1975 古葉竹識 1976 長嶋茂雄 1977 長嶋茂雄 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 近藤貞雄 1983 藤田元司 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 阿南準郎 1987 王貞治 1988 星野仙一 1989 藤田元司 1990 藤田元司 1991 山本浩二 1992 野村克也 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 長嶋茂雄 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 星野仙一 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 星野仙一 2004 落合博満 2005 岡田彰布 2006 落合博満 2007 原辰徳 2008 原辰徳 2009 原辰徳 2010 落合博満 2011 落合博満 2012 原辰徳 2013 原辰徳 2014 原辰徳 2015 真中満 2016 緒方孝市 2017 緒方孝市 2018 緒方孝市 2019 原辰徳 2020 原辰徳 2021 高津臣吾 2022 髙津臣吾 2023 岡田彰布 2024 阿部慎之助 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 山本一人 1952 山本一人 1953 山本一人 1954 三原脩 1955 山本一人 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 西本幸雄 1961 鶴岡一人 1962 水原茂 1963 中西太 1964 鶴岡一人 1965 鶴岡一人 1966 鶴岡一人 1967 西本幸雄 1968 西本幸雄 1969 西本幸雄 1970 濃人渉 1971 西本幸雄 1972 西本幸雄 1973 野村克也 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 上田利治 1979 西本幸雄 1980 西本幸雄 1981 大沢啓二 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 上田利治 1985 広岡達朗 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 仰木彬 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 森祇晶 1994 森祇晶 1995 仰木彬 1996 仰木彬 1997 東尾修 1998 東尾修 1999 王貞治 2000 王貞治 2001 梨田昌孝 2002 伊原春樹 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 トレイ・ヒルマン 2008 渡辺久信 2009 梨田昌孝 2010 秋山幸二 2011 秋山幸二 2012 栗山英樹 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 辻発彦 2019 辻発彦 2020 工藤公康 2021 中嶋聡 2022 中嶋聡 2023 中嶋聡 2024 小久保裕紀 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 香川県立高松高等学校出身の野球選手 早稲田大学野球部の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の監督 日本の野球選手 日本の野球監督 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の監督 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の監督 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の監督 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の監督 20世紀日本の実業家 プロ野球チームの経営者 北海道日本ハムファイターズ関連人物 日本の男性ジャーナリスト スポーツライター 日本生命保険の人物 報知新聞社の人物 読売新聞グループの人物 野球解説者 日本の野球殿堂表彰者 菊池寛賞受賞者 香川県出身のスポーツ選手 1911年生 1984年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/21 17:55更新
|
mihara osamu
三原脩と同じ誕生日11月21日生まれ、同じ香川出身の人
TOPニュース
三原脩と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「三原脩」を素材として二次利用しています。