上田利治の情報(うえだとしはる) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
上田 利治さんについて調べます
■名前・氏名 |
上田利治と関係のある人
アニマル=レスリー: 一方、在籍当時の監督の上田利治やチームメイトの星野伸之、福良淳一によると普段や試合前は真面目で気が弱い面もあったという。 平石洋介: 松坂世代および1980年代生まれの人物として初の監督就任で、プロ通算37安打は2リーグ制以降の野手出身監督経験者では、上田利治の56安打を下回り歴代最少実績である。 古溝克之: 1998年シーズンオフにチームの若返りで阪急ブレーブス時代の同僚だった本西厚博とともに戦力外通告後に金銭トレードで本西とともに阪急ブレーブス時代の恩師である上田利治が率いる日本ハムファイターズへ移籍。 ブーマー=ウェルズ: 見かねた上田利治監督が「たまには牛も食わんとあかん」と、ステーキを何度もご馳走し、公私にわたって面倒を見たという。 東尾修: 一方で、阪急監督の上田利治も「ウチだってやられたらいくで」とコメントしたが、これに東尾は「頭に来た」としており、「当時の阪急は乱数表を使って死球のサインがあったし、そんなチームの監督が何を言うか」と後に述べている。 根本陸夫: 上田利治は当時の同僚コーチ。 幸田優: しかし、続く7番上田利治にレフト前に運ばれ1点を奪われてしまうが、8番興津立雄を三振にきってとり、史上初の1イニング4奪三振を記録した。 パンチ佐藤: パンチは上田利治と仰木彬を深く尊敬している一方で、上田と仰木の間にオリックス監督(ブルーウェーブの初代監督)を務めた土井正三に対してはどうしても尊敬の念が持てず、引退後に出演した「プロ野球ニュース」では、歴代の監督に感謝のメッセージを述べる際に「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督、…途中何かありましたけども」と、土井にだけは感謝の念を述べなかった。 中田昌宏: しかし、フロント入りしていた前監督・上田利治らは「線が細すぎる。 蓑田浩二: また、監督の上田利治からは「チャンスがあれば初球から行け」と指示されていた)。 ロベルト=マルカーノ: 神戸の教会で行われた日本での追悼式には、同年までオリックスの監督を務めた上田利治や福本などかつてのチームメイトが参列し、その若すぎる死を悼んだ。 後藤田正晴: 同じ徳島出身の上田利治を参院選出馬に勧誘したことがある。 村山実: 村山はヘッドコーチとして、大学時代にバッテリーを組んだ上田利治の招聘を望み、第三者を介した報酬の交渉(村山自身は出なかった)が長引いた後に決着したところ、戸沢が「ここまで長引いての入団はうまくいかないから」という不可解な理由で就任を取り消し、上田の入団は実現しなかった。 小笠原道大: 日本ハム時代は当時監督だった上田利治の方針もあり、2番で起用された時期も含めて2008年6月8日の西武戦まで公式戦で犠牲バント成功が1度もなく、1997年から1999年の間で7度の指示があったが失敗している。 富澤宏哉: これに対し、阪急・上田利治監督はレフトポール下の富澤の元まで行き猛抗議し、全選手をベンチへ引き上げさせた。 山口高志: 山口不在の阪急はヤクルトに敗退、大橋穣や上田利治は「(故障せずに)山口がいれば勝てた」と話している。 西川佳明: 阪急監督の上田利治はその投球術を「公園で草野球をしとるおっさんみたいなボールや」と喩えている。 広瀬哲朗: この年の後半、前半圧倒的に勝っていたチームが大失速し苦しんでいる際、チームを奮起させようと一軍監督の上田利治に一軍昇格を申し出たが、代わりに落とす選手がいないと断られ、反論で落合博満の獲得の件や1996年の大失速した原因を指摘し、その場にいたヘッドコーチの住友平も交えての大喧嘩になったことを後年に語っている。 福原峰夫: 1996年8月21日オリックス対日本ハム18回戦(グリーンスタジアム神戸)でラフプレーを巡って上田利治監督が仰木彬監督に猛抗議をした際に、コーチの福原が間に入って頭を下げたことで上田が退いた。 長池徳士: 1975年から指名打者制度が導入されたが、上田利治監督は2年連続のV逸から「センターラインの強化」を掲げ、二塁手にボビー・マルカーノ、右翼手にバーニー·ウィリアムスを獲得し、長池は右翼手からDHにコンバートされた。 成田光弘: その背景には上田利治監督の捕手を求める声もあった。 今津光男: 1974年には上田利治監督に請われて阪急ブレーブスへ移籍し、1975年には日本シリーズで古巣・広島と対戦。 大橋穣: 1974年に就任した上田利治監督からは「勝っている場合」と条件付きながら、絶対に(遊撃手からは)代えないと絶対的な信頼を得ていた。 三輪田勝利: 現役引退後、西本幸雄の後を受けて監督に昇格した直後の上田利治から「誠意のかたまり」と評されたことでスカウトへ転身した。 野口寿浩: 日本ハムは当時、正捕手の田口昌徳が左膝靭帯を損傷したこともあり、監督の上田利治から高い信頼を受けて5月初旬から正捕手として起用され、監督推薦でオールスターにも初選出された。 加藤英司: 1981年に、上田利治が3年ぶりに監督に復帰した際、加藤は上田が主力選手に挨拶としてかけた電話に「なにしに帰ってくるんですか?」と応じたといい、復帰後の上田との関係は良好ではなかった。 大杉勝男: この判定を巡って阪急監督の上田利治が猛抗議。 中田昌宏: 上田利治監督が率いたV4時代はヘッド兼打撃コーチ。 田中尊: 関西大の上田利治、中央大の西山弘二など学生野球界ベストナインの常連で話題の大学出身捕手の補強もあったが、白石勝巳、門前、長谷川、根本陸夫と歴代の監督がレギュラーとして起用し続けた。 今井雄太郎: 上田利治が監督を勇退した1990年オフ、矢野実との交換で福岡ダイエーホークスに移籍し、この頃から2歳年上の妻の実家がある佐賀県佐賀市に在住。 |
上田利治の情報まとめ
上田 利治(うえだ としはる)さんの誕生日は1937年1月18日です。徳島出身の野球選手のようです。
兄弟、卒業、引退、現在、テレビ、家族に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2017年に亡くなられているようです。
上田利治のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 2017年7月1日)は、徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 実家は魚屋。5人兄弟の長男で、叔父は徳島県弁護士会の副会長であった。上田の徳島の実家のすぐ近くには、高校の後輩となる元西鉄選手でプロゴルファーの尾崎将司、その実弟でゴルファーの健夫・直道の実家があった。海南高校時代から捕手で、3年次の1954年には夏の甲子園県予選で準々決勝に進出するが、撫養高に惜敗。学業成績も優秀で、高校時代は野球の練習と生徒会の活動を同時に行いつつ、毎朝しっかりと勉強していたため、睡眠時間は4時間程度であったという。担任からは「野球なんかやらずに、東大へ行って弁護士になれ」と勧められ、上田も高校卒業後の1955年、弁護士になるつもりで関西大学二部法学部に進学。関西大には学校推薦で無試験で進学するよう薦められたが、上田はそれを断り筆記試験に臨んだところ、400点満点の入試で実力で合格に十分な298点を取ったところに野球推薦での+100点のボーナスを加えた結果398点となり、受験生全体でダントツの成績になってしまったという。野球部では村山実とバッテリーを組んで活躍し、関西六大学野球リーグでは4度の優勝を経験。2年次の1956年には全日本大学野球選手権大会に出場。1年上の三塁手、難波昭二郎ら強力打線の活躍もあり、決勝で島津四郎・人見武雄らのいた日大を降し、西日本の大学としては初の優勝を飾る。3年次の1957年、4年次の1958年の同大会では、全盛期の立大にいずれも準決勝で敗退。リーグ通算68試合に出場し、258打数66安打、打率.256、1本塁打の記録を残した。学生時代から大変な勉強家で、読書量も豊富で学生時代にはナポレオン・ボナパルトの著作を全て読破していた。 プロ入りには消極的であったが、「東洋工業からの出向社員として3、4年プレーし、その後は東洋工業で」との条件を出して熱心に口説いた広島カープの誘いに応じ、大学卒業後の1959年に入団。プロ入りしたものの弁護士の夢も捨ててはおらず、1年目の同年は日南キャンプに六法全書を持ち込んで野球の練習の合間に法律の勉強もした。開幕後は田中尊・川原政数と併用され、53試合に捕手として先発出場。正捕手の田中を脅かす存在となり、長谷川良平など主力投手の評価も高かったが、右肩を壊す。2年目の1960年には川原、新人の西山弘二などの捕手も台頭して出場機会が減少し、3年目の1961年限りで現役を引退。 引退後は東洋工業への復帰を願い出たが、若い頃から野球理論に長けていた上田は早くから指導者として期待されており、松田恒次オーナーが「将来の指導者として入れた」と上田本人に伝えた。松田オーナーの意向により、1962年に専任コーチとしては日本プロ野球史上最年少の25歳で広島の二軍コーチに就任。 1963年からは一軍バッテリーコーチとなり、その後は一軍打撃コーチとして山本一義・衣笠祥雄・水谷実雄・三村敏之・山本浩二を育てた。門前眞佐人・白石勝巳・長谷川良平・根本陸夫と四代の監督の下で「熱血コーチ」として手腕を振るい、信念と情熱を持った指導で、選手間からの信頼も厚かった。日南キャンプでは、必ずハンドマイクを持って大声で指示、指導に当たった。その日の練習スケジュールは、時間割り単位で決め、スケジュール表は印刷して報道関係者にも配った。以来、ロスのない練習は無駄なくスムーズに進行していた。やがて各球団も「上田方式」を学んだ。 上田と同じ捕手出身の根本とは反りが合わず、1969年シーズン後、根本と投手陣の起用やチーム強化の方針を巡って意見が対立。辣腕の球団幹部とも衝突し、フロントや選手が引き止めるのも聞かず、さっさと辞表を出して退団した。衣笠や山本浩二ら成長著しい若手選手たちからは「ウエさん、ウエさん」と慕われ、同僚のコーチも別れを惜しんだ。同年オフには阪神タイガースの選手兼任監督に就任した村山からヘッドコーチとしてオファーがあり上田も応諾したが、報酬を巡る第三者を介した交渉が長引き、それが決着したところ、阪神球団社長の戸沢一隆が「ここまで長引いての入団はうまくいかないから」という不可解な理由で話を反故にしたという。一方、上田自身が後年「選手の特徴も何も知らないボクが阪神に入団しても、1軍コーチとしての役割を果たせないと思った」と「(2年目から1軍に上がる前提で)2軍コーチなら受諾する」というラインで返答したが村山が「それでは困る」と言ったため辞退せざるを得なかったと話したとする証言がある。結局、1970年は中国放送野球解説者を務め、オフに自費でワールドシリーズを視察した。 帰国後に阪急ブレーブスから招聘されてヘッドコーチに就任し、1971年から1973年まで務める。これは、現役を引退した山内一弘にコーチ就任を要請した西本幸雄監督が、すでに巨人の二軍コーチ就任が決まっていた山内から「若くて頭のいい奴」として紹介されたことによるものであった。この時には、先に鶴岡一人が近鉄の監督になるという話があり、尊敬する鶴岡から上田はコーチとして呼ばれていたが、発表前日に鶴岡が監督就任をキャンセルしたことで、阪急に入った。上田は、近鉄に入っていたら監督はやらなかったと思うと話している。西本は捕手出身の上田にバッテリーを中心とした守備部門を任せるつもりであったが、上田の要望により打撃部門を担当することになった。当時の西本と上田の関係について、フロントの矢形勝洋は巨人の川上哲治・牧野茂コンビのような相性のよさではなかったとしている。上田はここで「癖盗みの天才」といわれたダリル・スペンサーと出会い、スパイ野球を会得。「花の44年組」の一人である加藤秀司を育て、リーグ2連覇に貢献する。この頃はデール・カーネギーの『人を動かす』や『孫子の兵法』などを読み、リーダーシップを学んだという。 1974年、上田は37歳の若さで阪急の監督に就任する。この就任について上田は「西本がフロントで支援する」と聞いたので受諾したが直後に西本の近鉄監督就任が決まり、「西本さんが球団を離れるとわかっていたら、引き受けていなかった」と後年の取材で述べている。監督就任2年目の1975年から日本シリーズ3連覇を含むリーグ4連覇を果たし、現在でも語り継がれる阪急の黄金時代を築き上げた。日本シリーズ3連覇は三原脩監督率いる西鉄ライオンズ、水原茂監督率いる巨人、川上哲治監督率いるV9時代の巨人、森祇晶監督率いる西武ライオンズ(1986年~88年、1990年~92年の2度)、工藤公康監督率いる福岡ソフトバンクホークスが達成している。 1978年には、リーグ4連覇を経て日本シリーズへ進出。巨人のV9以来史上2球団目のシリーズ4連覇を期待されながら、広岡達朗監督の下でセントラル・リーグ初優勝を成し遂げたヤクルトスワローズとの対戦に臨んだ。もっとも、主力投手である佐藤義則や山口高志を故障で欠くなど球団事情は苦しく、シリーズの決着は第7戦にまで持ち越された。さらに、第7戦の6回裏1死からヤクルトの大杉勝男が阪急の先発・足立光宏から左翼線上に放った打球を左翼線審の富澤宏哉が「本塁打」と判定したことに激怒した。判定の取り消しと左翼線審の交代を求めて、審判団への抗議を始めた。審判団がこのような要望を受け入れなかったため、上田は守備に就いていたナインをグラウンドから引き上げさせたうえで抗議を継続。試合を見届けていた日本野球機構(NPB)コミッショナー(当時)の金子鋭が阪急側のベンチへ出向いて、頭を下げながら抗議の打ち切りと試合の再開を上田へ懇願する事態に至った。上田は金子の懇願を受け入れたものの、抗議に伴う中断時間は1時間19分で、2020年のシリーズ終了時点でシリーズ最長記録になっている。足立はこの年のレギュラーシーズン中から左膝の関節炎を発症していて、長時間の中断によって水がたまるほど左膝の状態が悪化したため、試合の再開に合わせて降板。急遽登板させた高卒新人の松本正志がチャーリー・マニエル、3番手の山田久志が大杉に再び本塁打を浴びた末、0対4の完封負けでヤクルトにシリーズ4連覇を阻まれた。結局、上田は第7戦での混乱の責任を取る格好でシリーズの終了後に監督を退いた。 1979年・1980年には、NHKの野球解説者・スポーツニッポンの野球評論家として関西地方を拠点に活動を開始した。阪急では、上田の下で一軍投手コーチを務めていた梶本隆夫が監督を引き継いだものの、パ・リーグの下位に低迷した。そこで1980年のシーズン終了後に球団のオーナーへ就任した柴谷貞雄が「王者奪還」を目指すべく、上田に監督への復帰を要請。上田もこの要請を受諾したため、1981年から監督へ再び就任した一方、梶本もコーチに降格の上で残留させた。 阪急の監督復帰後は今井雄太郎、福本豊、山田久志など西本に鍛えられたベテラン勢に加え、松永浩美、石嶺和彦、藤井康雄、福良淳一、佐藤義則、山沖之彦、星野伸之、古溝克之などの若手を見出し育成、さらに1983年にはブーマー・ウェルズが加入する。ブーマーは1984年には三冠王を獲得する大活躍を見せ、同年5度目のリーグ優勝を果たした。同時期は西武の全盛時代であったこともあり、第2期監督時代のリーグ優勝はこの年だけであるが、安定した戦力を背景に毎年のように優勝争いに加わり、常に上位に食い込む結果を残したものの最後の競り合いに弱いところがあり、ここ一番の大事な試合を落とすことが多かった。1984年の日本シリーズでは9年ぶりに広島と対戦したが、日本一を逃している。 1988年、阪急がオリエント・リース(翌年より、オリックス)への球団譲渡を発表した際には、単独で会見を開き、「信じられないことだ」と何度も口にしていた。このとき、上田は阪急とオリエント・リースによる譲渡発表への同席を拒否し、監督続投も「白紙」としていた。10月23日の阪急ブレーブス最後の試合終了後に、「阪急ブレーブスを長い間、見守りつづけていただきありがとうございました。話を聞いた時は、夢であってくれと思っていました。阪急からオリックスに変わっても、ブレーブスはファンの皆さんの物です。ユニフォームは変わっても、勇者魂は永遠に生き続けます。これからも応援してください」と語り、37,000人の観衆に最後の挨拶をおこなった。上田の監督続投が正式に決まったのは、10月26日に新オーナーの宮内義彦と会談した後であった。 オリックス時代には門田博光を迎えて「ブルーサンダー打線」を創り上げ、1989年は前半戦を終えて2位近鉄に8.5ゲーム差をつけ独走状態であったが、後半戦に入り打線がスランプに陥り混戦状態になる。近鉄に加え、前半戦で一時最下位に落ちた西武が復調し、三つ巴の優勝争いを繰り広げるも最後は近鉄に優勝をさらわれてしまい2位に終わった。1990年も2年連続で2位につけたがこの年限りで勇退。1991年には編成部長に就任するが、球団の方針と意見が合わず、僅か1年で退団。1992年からサンテレビマンスリー解説者、1993年からはデイリースポーツ野球評論家を務めるが、1992年8月にダイエーの中内正オーナー代行から監督要請を受け、上田も了承。組閣の準備に入っていたが、父の中内㓛オーナーが西武の管理部長であった根本の招聘に動いた結果、就任に至らなかった。 1995年から、大沢啓二の後任として、日本ハムファイターズの監督に就任した。日本ハムからの話は1992年のオフにもあり、このときはフロントの一部が難色を示して実現せず、2年越しでの就任であった。コーチ陣は大石清・住友平・加藤・中沢伸二・山森雅文と阪急OBが多く、その他のコーチは日本ハムOBの古屋英夫・柴田保光などであった。前年の1994年は故障者が続出したこともあり最下位候補であったが、就任1年目は4位と健闘する。当時二軍でくすぶっていた6年目の岩本勉を「秘蔵っ子」として抜擢したほか、1993年・1994年と外野手であった田中幸雄を遊撃手に戻し、非常に珍しい4番・遊撃手に抜擢。田中はこの起用に応え、初芝清・イチローと分け合って打点王を獲得した他、ゴールデングラブ賞・ベストナインも受賞。キップ・グロスが16勝で最多勝利、7月に加入したバーナード・ブリトーが21本塁打放っている。 2年目の1996年はオリックスと熾烈な優勝争いを繰り広げ、優勝への期待も高まったが、同年9月9日に突然休養した。9月11日、上田は記者会見を開き、長女と次女が統一教会(現・世界平和統一家庭連合)に入信したこと、2人を脱会させようとして失敗したこと、娘を脱会させることを誓って日本ハムの監督を引き受けた経緯があることなどを明かした。その上で「自分の娘も止められない人間がチームを引っ張っていけるわけがない」と述べ、監督を辞任する意思を表明した。持田三郎社長は「上田監督は球団のイメージダウンになると言うが、そうは考えていない」と述べ、上田に復帰を求めた。その後はオリックスに優勝をさらわれ2位に終わったが、同年オフに、辞任を撤回したものの選手との溝はなかなか埋まらなかった。この年、金子誠が新人王を獲得し、以後レギュラーで活躍した。先発では西崎幸広、今関勝が抜群の安定感を見せ、島崎毅から抑えの金石昭人につなぐ勝利の方程式を確立、グロスが2年連続最多勝利、島崎が新設された最多ホールドの初代受賞者に。 1997年は獲得した落合博満が期待に反して活躍しなかった。1998年には「ビッグバン打線」と呼ばれる強力打線で8月まで首位を独走するも、後半戦になると打線が低迷して失速し、西武に抜かれ2位に終わりまたしても優勝を逃した。同年にはオリックスの三輪田勝利スカウトが自殺したが、彼のことを「誠意のかたまり」と評した。 1999年は5月23日の近鉄戦(東京ドーム)ではシャーマン・オバンドーのセカンドゴロ併殺打における一塁の判定を巡って塁審・山本隆造に抗議。上田はその際、山本に「ヘタクソ!」と暴言を吐き、野球人生唯一となる退場処分を宣告された。退場を宣告された直後、上田は山本の後頭部に平手打ちをし、2試合の出場停止処分を受ける(山本は一時は刑事告訴も辞さない姿勢を見せたが、その後上田が謝罪し和解。告訴は見送られた)。結局、このシーズンは5位と低迷し、上田は日本ハムの監督を辞任した。在任中は優勝経験のある選手が少なかったことから、後一歩で2シーズンも優勝を逃したが、客足が遠のき、低迷していた当時の日本ハムで上田が残した功績は大きかった。5年間でBクラス3回の中でゴールデングラブ賞受賞者を4人、ベストナイン受賞者を5人も輩出した。小笠原道大・井出竜也・西浦克拓・野口寿浩・上田佳範など、スタメンに定着できなかった若手を中心選手に育て、特に小笠原は捕手から一塁に転向させて一気に打撃センスが開眼し、怪我で低迷していた片岡篤史をクリーンアップに起用して復活させた。 阪急→オリックス、日本ハムを通じて、上田は監督時代のベンチの立ち位置は常に真ん中寄りであった。西本から受け継いだ円熟期の阪急、若返りを迫られた阪急2期目、最下位からチーム作りを迫られた日本ハム時代と、3つの大きく異なる状況下でいずれも結果を出したことから「オールマイティー型監督」と評された。現役時代に高い実績を残した選手が監督に就任するケースが多い日本プロ野球界において、選手としては無名という異例の経歴であり、選手と指揮官の才能は別物であることを証明した監督となった。その一方でドラフト1位重複の抽選に弱かった。特に阪急→オリックス時代には、単独指名の年と1987年の伊藤敦規(日本ハムとの抽選)や1988年の酒井勉(ロッテとの抽選)を除いて、1980年に石毛宏典(西武)、1981年は金村義明(近鉄)、1982年は野口裕美(西武)、1983年は高野光(ヤクルト)、1986年は田島俊雄(南海)、1989年は野茂英雄(近鉄)とことごとく外している。それらの選手の「外れ1位」も活躍したのは金村の外れ1位・山沖之彦ぐらいであった。日本ハム時代にも1995年に福留孝介(近鉄・入団拒否)、1998年に松坂大輔(西武)を1位重複で外している。2位重複の抽選でも1997年に、司会者の手違いで順番が先になったにもかかわらず新沼慎二(横浜)を外している。 上田はチームの活性化のための大型トレードに積極的で、しばしば大胆な戦力の入れ替えを敢行した。阪急時代は1974年の宮本幸信・渡辺弘基と広島白石静生・大石弥太郎の投手同士の交換トレード、1976年の戸田善紀・森本潔と中日島谷金二・稲葉光雄のレギュラー選手同士のトレード、1976年の正垣宏倫と広島永本裕章・川畑和人、1982年には加藤英司と広島の水谷実雄、1988年に南海の門田博光を新生オリックスの顔として、日本ハム時代も1997年にはエース西崎幸広と西武石井丈裕・奈良原のトレードなど、多くの実績を残した。1976年の中日とのトレードは、両球団で結果の明暗がはっきりと出たため、ある球団のスカウトからは「阪急とはもうトレードの話をしない」と言われるほどであった。ただし、戦力外通告やトレードなどの選手の退団に関する手続きは編成部やフロントに丸投げせず、必ず自ら選手に直接通告した。上田は自軍に在籍中の現役選手とは極力距離を置くようにしていたが、退団させた選手に対しては困窮させないよう親身に接し、何かあれば良く世話を焼いたので元選手やその家族から頼りにされていたという。 日本ハムでも監督退任後はフロント入りを要請されたが、上田はこれを固辞した。退団後の2000年からサンテレビ解説者・デイリースポーツ評論家に復帰し、2003年には野球殿堂入りを果たす。2007年3月31日には、広島OBということもあってか、RCCラジオの「ひとこと治宣の千客万来」最終回に電話出演した。 2017年7月1日午前2時55分、上田は肺炎のため川崎市内の病院で死去した。80歳没。オリックス球団も、上田の逝去時にもっとも早く選手に喪章をつけさせ、追悼セレモニーも行っている。 第1期阪急監督時代の阪急は「パシフィック・リーグに阪急の敵なし」と称されるほど強く、日本シリーズで3年続けて巨人を倒した三原脩時代の西鉄ライオンズやV9時代の巨人と並んで「日本のプロ野球史上最も強かったチーム」として語り継がれている。上田の阪急・日本ハム監督時代に野球評論家として活動していた豊田泰光も生前、第1期監督時代の1975-77年の阪急を「監督と選手の関係が理想に最も近かったチーム」に挙げていた。上田については、「自分から発する『知力』があまりに強い人だったから(他人がアホに見えるといった意味合い)、1978年の日本シリーズのような常識外れのような抗議をやってしまうわけだが、この『知力』が上手く働くと相手がコンプレックスを持ってしまう」と語っている。 古巣の広島と対戦した1975年の日本シリーズでは、スタッフに対して、第1・2戦における広島投手陣の投球をできる限りフィルムで撮影することを指示。撮影された膨大なフィルムをコーチ陣とともに見ながら、第3戦までに広島投手の癖や傾向等を徹底的に研究した結果、シリーズを制した。ちなみに、上田と広島の監督・古葉竹識は同学年で、現役時代には広島で同僚になった後に、ほぼ同時期に他球団に移籍していた。 巨人と対戦した1976年の日本シリーズでは、後楽園球場(当時は巨人と日本ハムの本拠地)へ乗り込むと、本塁からレフトポール下までの距離をメジャーで計測。パ・リーグの対日本ハム戦で使用しているにもかかわらず、「なんや、87メートルしかないやないか、(ポール下のフェンスに書かれている。)90メートルはインチキや!」と言い放った。結局、阪急は後楽園球場での3連戦にすべて勝利。当時の阪急ナインによれば、このパフォーマンスで「監督は巨人を上から見ている」ことが知れ渡ったことによって、緊張感がほぐれたことが3連勝につながったという。 1978年日本シリーズ第7戦における審判団への抗議を巡り、抗議の対象になった大杉の打球の行方を左翼手として最も近くで見ていた簑田浩二が、現役引退後に「富澤線審が『ホームラン』と判定してからにすぐに、『完全なファウルじゃないか!』『ボールを見失ったとハッキリ言え!』などと富澤に詰め寄ったので押し問答になった」、「選手はこの日のために春のキャンプから長いシーズンを戦ってきた。それをあんな判定で台無しにされるなんて。選手の誰もが監督と同じ気持ちだった。上田監督にはみんな感謝の気持ちでいっぱいだった」などと述べている。また、前記の佐藤義則は「自信があったからできたことだと思う」と言っている。試合終了後に宿舎のホテルで球団幹部と進退について協議した際には「続投」で合意したものの、祝勝会となるはずだった料理を食べてもらおうとマスコミ記者を招いた席で辞意を口にし、合意を覆すことになった。 阪急監督の第1期と第2期の間には西武ライオンズ、中日ドラゴンズ、阪神、南海からも監督就任の要請を受けていた。福本によれば、1980年のシーズン中には「西武・上田監督」の噂が阪急ナインの間で流れていた。阪急への復帰が決まった際に「エーッ、本当に戻ってくるの!?」と大声で話す選手もいたという。結局、1979年のシーズン中にヤクルトの監督を辞任していた広岡を、西武は1982年から監督(根本陸夫の後任)に招聘。広岡が「監督への就任後に知った」という話によれば、西武では「1980年のシーズン中に上田の監督就任が99.9%決まっていたにもかかわらず、土壇場で白紙に戻っていた。さらに、上田が阪急の監督へ復帰した1981年には、前年に巨人の監督を退いたばかりの長嶋茂雄を監督に迎えようとして、長嶋に固辞されていた。私に監督への就任を要請してきたのは、このような事情で監督のなり手がいなくなったから」とのことである。阪急への復帰に対し、1978年に在籍していた選手は、当時選手会からの慰留を振り切る形で退任した経緯から「なんで、2年で戻ってきたんや―というわだかまり」があったと福本は2021年に述べた。上田が復帰の挨拶で主力選手にかけた電話に「なにしに帰ってくるんですか?」と応じたという加藤秀司は「なんで正直に、もう一度、阪急のユニホームが着たくなった。勝ちたくなった―と言うてくれへんかったのかなぁ。梶本さんにもみんなにも申し訳ない。わがまま言うてすまん―と頭をさげたら、みんな納得したと思う。」と2021年に語っている。 オリックスが1990年ドラフト会議の1巡目で、野茂英雄への独占交渉権を8球団の指名重複による抽選で逃した末に、 パンチ佐藤(佐藤和弘)の単独指名へ切り替えたのは上田の要請による。奇しくもパンチの引退後の初仕事が当時日本ハム監督就任間もない時期の上田のインタビューだった。上田はインタビュー中、「パンチ、なんで現役やめるの! もったいない!もったいない!」としきりに言っており、豪快な言動で知られるパンチは終始恐縮していた。パンチは上田を自分をプロに導いてくれた名監督として深く尊敬している。上田本人は真面目な性格だが、パンチや岩本のような明るい性格の選手が大好きだった。そうした明るい選手や、結果を出した選手を誉める際に「ええで!」という言葉を発したと報じられ、第2期阪急・オリックス監督以降、ええで節として上田のトレードマークになった。ただし、後年の本人への取材では「関西弁の『ええで』といったら、『もうええで』。つまり『もういらない』という意味になる。そんな言葉を、選手を語るときに使わない。関西弁をよくわかっていない記者が書き始めて、それが広がったんです」と述べている。 阪急・オリックスの監督時代には、背番号「30」を一貫して着用。監督就任前のコーチ時代には「64」「63」「62」「61」「60」、日本ハムの監督時代には「88」を背負っていた。ちなみに、日本のプロ野球球団ではかつて、「30」が一軍監督の背番号として多用されていた。一軍の公式戦でベンチ入りの登録が可能な選手・スタッフの総数が30人と決められていた時期の名残でもあったが、上田のオリックス監督退任以降、このような事例は2023年レギュラーシーズン開幕時点ではオリックスを含めても皆無である。 阪急監督時代は福本豊・簑田浩二・松永浩美・弓岡敬二郎などの走れる人材に恵まれたこともあり、盗塁策を積極的に採用。大熊忠義や福良淳一などのバント戦術を駆使して塁を進めてから加藤秀司やボビー・マルカーノ、ブーマー・ウェルズなどの一振りで得点するケースが多かった。その一方でオリックス監督時代はブルーサンダー打線、日本ハム監督時代はビッグバン打線を作り上げるなど攻撃力主体のチームを作ることにも長けており、阪急・オリックスではほぼ毎年のようにAクラス入りし、日本ハムでも主力選手の故障・不振などがありながらも4位・2位・4位・2位・5位とまずまずの成績を残し、一度も最下位に転落しなかった。 上田が阪急監督在任中、1970年代後半に編み出した走塁戦術に「ギャンブルスタート」がある。これは、無死または一死の場面で三塁走者に対し、打球がゴロと判ってから走る一般的な「ゴロ・ゴー」だけではなく、バットがボールに当たると同時に走り出す「当たり・ゴー」、さらにはバットに当たる前から走らせる(投球の高さがストライクゾーンにきたら三塁走者がスタートを切る)「ヒット・エンド・ラン」の三種のサインを状況に応じて使い分けるというもので、上田はこの作戦を実行して貴重な一点をもぎ取っていた。上記のような局面での「当たり・ゴー」と「ヒット・エンド・ラン」は、打者がライナーを打ってしまった場合等には逆に併殺打になるため、非常にリスクの高い作戦であった。上田阪急のレギュラーであった大熊忠義は「監督も一、三塁でよくエンドランのサインを出した。満塁の場面でもあったから、さすがにこっちはサイン間違いかなと思ったくらいです。1点を取る上田さんの野球です」と語っている。同じく大橋穣によれば、上田はこうした走塁作戦を実行する際に、走者に判断の責任を押し付けず、自らがはっきりとサインを出して責任を取り、失敗した時には「悪かった。俺がサインを出すカウントを間違えた」と選手に詫びたという。大橋は上田を「采配が失敗だったと思えば潔く認める、信頼できる指揮官だった」と評している。 1982年8月12日には、同年から指名打者に偵察メンバーを使う事が禁止されたことを忘れ、指名打者の偵察メンバーに投手の山沖之彦を起用したところ運悪く満塁のチャンスで打順が回り、山沖が三振に終わったという事もあった。 ※ 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更 野球殿堂競技者表彰(2003年) 初出場:1959年4月22日、対大阪タイガース3回戦(広島市民球場) 13 (1959年 - 1961年) 64 (1962年、1965年 - 1967年) 62 (1963年) 63 (1964年) 61 (1968年 - 1969年) 60 (1971年 - 1973年) 30 (1974年 - 1978年、1981年 - 1990年) 88 (1995年 - 1999年) サンテレビボックス席(サンテレビ) 上田利治の朝からどうでっか(日本各地のAMラジオ局で放送) RCCカープナイター(RCCラジオのプロ野球中継の現行タイトル) 侍プロ野球(RCCテレビ・TBS系列のプロ野球中継の現行タイトル〔RCCローカル中継は「赤ヘルだいすき!カープナイター/カープデーゲーム中継」のタイトル〕) NHKプロ野球 ^ 日本ハムはこの頃、終盤で最大9連敗していた。 ^ 「プロ野球 阪急など元監督 上田利治氏死去」『NHKニュース』2017年7月2日。オリジナルの2017年7月2日時点におけるアーカイブ。2023年4月19日閲覧。 ^ “伝説の記者 コマさんの「今日も野球日和」”. www.jimo2.jp (2017年8月3日). 2023年4月19日閲覧。 ^ “【越智正典「ネット裏」】 ナイターなのに朝イチから…メジャーの監督もうなった上田利治の野球熱”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). 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『監督たちの戦い 決定版 下』(日本経済新聞社、2001年) 福本豊
『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』(ベースボール・マガジン社、2014年) 徳島県出身の人物一覧 関西大学の人物一覧 広島東洋カープの選手一覧 個人年度別成績 上田利治 - NPB.jp 日本野球機構 野球殿堂 上田利治 上田利治 - NHK人物録 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 横沢三郎 1946 苅田久徳 1947 - 1948 井野川利春 1949 安藤忍 1950 - 1951 井野川利春 1952 - 1954 保井浩一 1955 岩本義行 1956 - 1960 水原茂 1961 - 1967 大下弘 1968 松木謙治郎 1969 - 1970 田宮謙次郎 1970 - 1973 土橋正幸 1973 中西太 1974 - 1975 大沢啓二 1976 - 1983 植村義信 1984 大沢啓二 1984 高田繁 1985 - 1988 近藤貞雄 1989 - 1991 土橋正幸 1992 大沢啓二 1993 - 1994 上田利治 1995 - 1999 大島康徳 2000 - 2002 トレイ・ヒルマン 2003 - 2007 梨田昌孝 2008 - 2011 栗山英樹 2012 - 2021 BIGBOSS・新庄剛志 2022 - 現在 表 話 編 歴 三宅大輔 1936 - 1937 村上実 1937 山下実 1938 - 1939 村上実 1939 山下実 1940 井野川利春 1940 - 1942 西村正夫 1943 - 1944, 1946 - 1947 浜崎真二 1947 - 1953 西村正夫 1954 - 1956 藤本定義 1957 - 1959 戸倉勝城 1959 - 1962 西本幸雄 1963 - 1973 上田利治 1974 - 1978 梶本隆夫 1979 - 1980 上田利治 1981 - 1990 土井正三 1991 - 1993 仰木彬 1994 - 2001 石毛宏典 2002 - 2003 レオン・リー 2003 伊原春樹 2004 仰木彬 2005 中村勝広 2006 テリー・コリンズ 2007 - 2008 大石大二郎 2008 - 2009 岡田彰布 2010 - 2012 森脇浩司 2013 - 2015 福良淳一 2016 - 2018 西村徳文 2019 - 2020 中嶋聡 2021 - 2024 岸田護 2025 - 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 水原茂 1963 川上哲治 1964 鶴岡一人 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 藤田元司 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 仰木彬 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 王貞治 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 落合博満 2008 渡辺久信 2009 原辰徳 2010 西村徳文 2011 秋山幸二 2012 原辰徳 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 工藤公康 2019 工藤公康 2020 工藤公康 2021 高津臣吾 2022 中嶋聡 2023 岡田彰布 2024 三浦大輔 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 山本一人 1952 山本一人 1953 山本一人 1954 三原脩 1955 山本一人 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 西本幸雄 1961 鶴岡一人 1962 水原茂 1963 中西太 1964 鶴岡一人 1965 鶴岡一人 1966 鶴岡一人 1967 西本幸雄 1968 西本幸雄 1969 西本幸雄 1970 濃人渉 1971 西本幸雄 1972 西本幸雄 1973 野村克也 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 上田利治 1979 西本幸雄 1980 西本幸雄 1981 大沢啓二 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 上田利治 1985 広岡達朗 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 仰木彬 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 森祇晶 1994 森祇晶 1995 仰木彬 1996 仰木彬 1997 東尾修 1998 東尾修 1999 王貞治 2000 王貞治 2001 梨田昌孝 2002 伊原春樹 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 トレイ・ヒルマン 2008 渡辺久信 2009 梨田昌孝 2010 秋山幸二 2011 秋山幸二 2012 栗山英樹 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 辻発彦 2019 辻発彦 2020 工藤公康 2021 中嶋聡 2022 中嶋聡 2023 中嶋聡 2024 小久保裕紀 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 服部道子 熊川哲也 浅利純子 伊東律子 出島武春 松嶋菜々子 内館牧子 野村萬斎 田村亮子 津川雅彦 草笛光子 阿久悠 福嶋晃子 乙武洋匡 伊東律子 田村亮子 長嶋茂雄 高橋尚子 渡辺謙 池内淳子 佐々木主浩 岡本綾 井上康生 木村佳乃 内藤國雄 出田幸彦 栃東大裕 川原亜矢子 室伏広治 竹田恆和 松岡佑子 唐沢寿明 平良とみ 天海祐希 藤田宜永 森下洋子 出田幸彦 朝青龍明徳 米倉涼子 市川新之助 阿川佐和子 宮本恒靖 仲間由紀恵 高橋由伸 恩田美栄 岩合光昭 岸惠子 中村季恵 浅野ゆう子 五木寛之 優香 三谷幸喜 村山由佳 末續慎吾 村主章枝 武田真治 有馬稲子 星野仙一 中村季恵 野口みずき 野村忠宏 橋田壽賀子 中村勘九郎 荒川静香 滝沢秀明 高島礼子 和田一浩 森光子 日野原重明 琴欧州勝紀 薬師丸ひろ子 野口聡一 長澤まさみ 山田洋次 森光子 上川隆也 眞鍋かをり 林家正蔵 栗原はるみ 渡辺謙 阿木燿子 リリー・フランキー 藤山直美 内野聖陽 横峯さくら 田口壮 吉田都 鎌田實 瀬戸内寂聴 宮﨑あおい 上田桃子 岡島秀樹 青木功 中村勘三郎 新垣結衣 茂木健一郎 坂東眞理子 陣内智則 藤原紀香 本木雅弘 吉田沙保里 太田雄貴 高橋尚子 松本幸四郎 松坂慶子 姜尚中 堀北真希 妻夫木聡 上野由岐子 白鵬翔 草刈民代 阿部寛 深田恭子 原辰徳 勝間和代 城田優 杉山愛 西田敏行 森光子 野口聡一 湊かなえ 岩崎夏海 寺島しのぶ 髙橋大輔 上野樹里 伊勢谷友介 仲間由紀恵 北大路欣也 武良布枝 大竹しのぶ 田中将大 コシノジュンコ 三谷幸喜 鈴木京香 佐々木則夫 鈴木明子 松山ケンイチ 松井冬子 琴奨菊和弘 綾瀬はるか 尾木直樹 澤穂希 中村勘九郎 樹木希林 桂文枝 吉田沙保里 入江陵介 菅野よう子 日馬富士公平 田中将大 滝川クリステル 宮藤官九郎 宮本信子 杉良太郎 風吹ジュン 岡田准一 杏 片岡愛之助 阿川佐和子 中園ミホ 尾上松也 蜷川実花 山中伸弥 井上真央 阿部寛 仲間由紀恵 タモリ 黒柳徹子 羽生結弦 堺雅人 長澤まさみ 大泉洋 土屋太鳳 三宅宏実 上橋菜穂子 所ジョージ 有村架純 又吉直樹 高畑充希 辻沙絵 草刈正雄 新垣結衣 大谷翔平 萩野公介 伊調馨 秋本治 春風亭昇太 村田沙耶香 村田諒太 村上茉愛 加藤一二三 吉岡里帆 高橋一生 宮本信子 鈴木亮平 林真理子 阿部サダヲ 安藤サクラ 池江璃花子 小平奈緒 佐藤健 出川哲朗 永野芽郁 中村勘九郎 夏井いつき 野村萬斎 長谷部誠 井上尚弥 上沼恵美子 サンドウィッチマン 渋野日向子 瀬戸大也 田中圭 戸田恵梨香 中西麻耶 長谷川博己 広瀬すず 吉野彰 黒柳徹子 サンドウィッチマン 杉咲花 染谷将太 チコちゃん 宮崎美子 宮本亞門 室伏広治 吉沢亮 石川佳純 清原果耶 小池栄子 坂口健太郎 谷真海 三谷幸喜 芦田愛菜 黒柳徹子 西村宏堂 羽生結弦 坂東彌十郎 福原遥 松本潤 村上宗隆 森保一 吉田都 北口榛花 国枝慎吾 堺雅人 俵万智 寺島しのぶ 寺田宜弘 バカリズム 吉高由里子 VIAF 日本 日本の野球選手 徳島県立海部高等学校出身の人物 関西大学野球部の選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 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2024/12/01 22:28更新
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ueda toshiharu
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