今津光男の情報(いまづみつお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
今津 光男さんについて調べます
■名前・氏名 |
今津光男と関係のある人
湊谷武雄: 春の選抜では準々決勝に進むが、県尼崎高の今津光男投手に完封を喫する。 水谷実雄: 初出場:1966年9月30日、対大洋ホエールズ25回戦(広島市民球場)、9回裏に今津光男の代打として出場 パンチ佐藤: 入団後は守備走塁コーチの今津光男と二人三脚で有名だった。 小池兼司: 浜松商では3年次の1956年、春の甲子園に遊撃手として出場したが、2回戦で県立尼崎高のエース今津光男に抑えられ敗退。 漆畑勝久: 翌1966年には阿南準郎、今津光男にポジションを譲るが、その後も二塁手、三塁手、遊撃手をこなすユーティリティプレイヤーとして活躍した。 田中尊: 1965年8月10日の大洋戦(川崎)では3回表二死満塁の好機に大洋先発及川宣士の後を受けた2番手新治伸治から寺岡孝が押し出しの死球、今津光男の二ゴロを林健造が前へはじく失策、そして田中が自身唯一の満塁本塁打を叩き込み、さらに1点を加えこの回7点を取ったが、その裏に黒木基康に満塁本塁打を浴び3点差に迫られたものの6回表に2点を追加し、2番手で投げた池田の好投もあり9-4で大洋に大勝した。 浜中祥和: 春の選抜では準々決勝に進むが、県尼崎高の今津光男投手に完封を喫する。 鎌田実: 3年次の1956年には夏の甲子園県予選で決勝に進出するが、県尼崎高の今津光男の好投に抑えられ、またも9回サヨナラ負け。 三村敏之: 1970年は、今津光男に代わり開幕から遊撃手に定着、初めて規定打席(14位、打率.261)に達する。 蔦行雄: 県尼崎高の今津光男と投げ合うが、9回裏またも1-2でサヨナラ負けを喫し、甲子園出場を逸する。 米崎薫臣: 1992年はコーチに着任した今津光男から走塁を積極的に教わるなどキャンプではレギュラー争いを期待されたが、シーズンでは5試合の出場に終わった。 青野修三: 春の選抜は2回戦で桐生高に敗退するが、夏の選手権は、1回戦で県尼崎高の今津光男の好投に苦しむも1-0で辛勝。 |
今津光男の情報まとめ
今津 光男(いまづ みつお)さんの誕生日は1938年7月8日です。兵庫出身の野球選手のようです。
卒業、現在、引退、母親に関する情報もありますね。2005年に亡くなられているようです。
今津光男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 今津 光男(いまづ みつお、1938年7月8日 - 2005年11月7日)は、兵庫県尼崎市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ。 母子家庭で育ち、尼崎高校では甲子園に投手として3度出場。2年次の1955年に春の選抜で準決勝へ進出するが、山本八郎・坂崎一彦を擁する浪華商に0-1で敗退。3年次の1956年は選抜準々決勝で県岐阜商の清沢忠彦に完封を喫し、夏の選手権では1回戦で青野修三を擁する西条高に惜敗。 卒業後の1957年に中日ドラゴンズへ入団し、1年目から二軍ではエースとして活躍。防御率0.23でウエスタン・リーグ最優秀防御率を獲得するが、これは現在も破られていない。一軍では登板予定日が2度も雨に降られてチャンスを逃し、夏場に肘を痛めたため、自ら希望して遊撃手に転向。結局1年目は一軍出場が無かったが、2年目の1958年には牧野茂に代わりレギュラーとなる。3年目の1959年は故障もあって前田益穂に正遊撃手の座を譲るが、その後も内野の準レギュラーとして活躍。1964年オフに戦力外通告を受けたが、1965年には藤村隆男コーチの誘いで広島カープへ移籍。古葉竹識と二遊間を組み、1968年には初の規定打席(26位、打率.234)にも到達し、9月15日の大洋戦(広島市民)では池田重喜からサヨナラ本塁打を放っている。球団史上初のAクラス入りにも貢献し、1969年までレギュラーの地位を守る。1970年には三村敏之に定位置を譲るが、5月28日の中日戦(広島市民)では延長11回に田辺修からサヨナラ本塁打を放ち、後に「生涯で最も記憶に残る」と語っている。広島には守備と走塁を評価されて移籍したが、「クビ同然で広島に拾われた」と思っていた今津は「とにかく中日をやっつけてやる」の一念で、古巣・中日戦になると目の色を変えた。走攻守に際立った働きを見せたが、堅実な守備には定評があり、投手出身の強肩で三遊間の深い位置に放たれた安打性の打球をアウトにし、捕球から送球まで見事な動きを見せた。グラブ作りの名人でもあり、新品のグラブを何日もかけて手で叩き、水で濡らしては油を塗り込んだ。アパートのベランダに陰干しした後に、さらに練習で使い込み柔らかくしていくという、こだわりようであった。 1974年には上田利治監督に請われて阪急ブレーブスへ移籍し、1975年には日本シリーズで古巣・広島と対戦。敵将となった古葉が「今津がいるからやりにくいよ」と言ったように、カープを丸裸にした。1976年には日本ハムファイターズにコーチ兼任として移籍するが、日本ハムでは一軍出場は無く、同年限りで現役を引退。 引退後は日本ハム(1977年 - 1983年・1985年 - 1986年一軍内野守備コーチ, 1984年一軍守備・走塁コーチ)、オリックス(1990年一・二軍走塁コーチ→1991年一軍守備・走塁コーチ)、近鉄(1992年 - 1993年一軍走塁コーチ→1994年二軍野手総合コーチ)、韓国KBO・サンバンウル(1996年 - 1997年コーチ)でコーチを歴任。指導者としては実技に対しては独特の理論を持ち、選手からも慕われた。日本ハムコーチ時代はザル内野を鍛え上げ、1981年の初優勝と1982年の後期優勝に貢献。オリックスコーチ時代は佐藤和弘と二人三脚の関係であったが、ほぼ「合宿での飲み友達」であったという話もある。1990年には日本ハム戦でトニー・ブリューワへの死球がきっかけで乱闘騒ぎが起こり、日本ハムの近藤和彦一軍打撃コーチを蹴り飛ばした事もあった。1995年秋にはサンバンウルにインストラクターとして招かれ、コーチとしても韓国球界の発展に関わった。今津は「韓国のレベルは日本の二軍の上ぐらい。チームに一人か二人、日本でもやれる選手がいる。10年で日本に追いつき追い越せを目標にやっているが、10年では無理かな」と語っており、帰国後は1998年から中日に入団した李鍾範を注目し、「素晴らしい肩と足を持っている。打撃は内角に弱点があるから2割5分から6分ぐらい。我流でやっていながら、中から上のレベルだ」と評している。 2005年11月7日午後4時50分、肺癌のため東京都清瀬市の病院で死去。67歳没。 甲子園での阪神戦の移動日には、弟のように気をかけていた4歳下の記者を必ず尼崎の実家に「出張費が助かるだろうが」とよく泊めていた。息子の帰りを心待ちする母親は手料理と分厚い布団が用意してあり、記者も楽しみにしていた。当時、南観音にあった広島空港から大阪の伊丹まで飛んでいたプロペラ機で40分ほどのフライトであったが、今津は母親を窓側に座らせてを楽しませ、喜ぶ母親の顔に表情を緩ませていた。 今津は中日時代から喜劇俳優の伴淳三郎によく似ていると言われており、伴からも息子のように可愛がられていた。名古屋遠征では、伴が出演する御園座公演があると、記者と一緒に楽屋を訪ねた。女優の清川虹子からも「ミッちゃん来たの」と声を掛けられていた。 各年度の太字はリーグ最高 1000試合出場:1969年10月12日 ※史上144人目 36 (1957年 - 1958年) 6 (1959年 - 1961年途中、1966年 - 1973年) 56 (1961年途中 - 同年終了) 4 (1962年 - 1963年) 2 (1964年) 48 (1965年) 57 (1974年) 31 (1975年) 30 (1976年) 87 (1977年 - 1986年) 77 (1990年 - 1994年) ^ 今日も野球日和 第64回 「守備・走塁でファンうならせた職人 今津光男」 - ジモ通 ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ 広島カープ連載・鯉人 今津光男氏の巻「信念貫く姿勢つねに忘れず 渋い右打ちでカープに9年在籍」 ^ 今津光男氏死去 元プロ野球選手 兵庫県出身の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 広島東洋カープの選手一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 個人年度別成績 今津光男 - NPB.jp 日本野球機構 日本の野球選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 日本の野球指導者 大阪近鉄バファローズ関連人物 兵庫県出身の人物 肺癌で亡くなった人物 1938年生 2005年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/10/26 13:35更新
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