藤田浩雅の情報(ふじたひろまさ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
藤田 浩雅さんについて調べます
■名前・氏名 |
藤田浩雅と関係のある人
河村健一郎: 阪急二軍バッテリーコーチ時代は藤田浩雅を育て、星野伸之に「もっと高めを使え」とアドバイス。 長村裕之: 1985年には藤田浩雅の控え捕手や指名打者、右の代打として60試合に出場、10試合に先発マスクを被る。 村上信一: 代打での初打席から2打席連続代打本塁打:1984年8月16日、対ロッテオリオンズ21回戦(平和台球場)、8回裏に藤田浩雅の代打で出場、深沢恵雄から右越ソロ ※史上初 杉本尚文: 初出場・初打席:1990年8月26日 対近鉄バファローズ22回戦(西宮球場)、藤田浩雅の代打・村上信一に代わって捕手 島袋修: 初出場:1987年4月19日、対ロッテオリオンズ2回戦(川崎球場)、7回裏に藤田浩雅に代わり捕手として出場 アニマル=レスリー: 同年は19セーブを挙げ、マウンド上で雄叫びを上げたり、勝利すると味方捕手の藤田浩雅をボコボコ殴ってスキンシップを図るなどの派手なパフォーマンスで人気を得た。 石嶺和彦: 試合中から痛みが悪化し、翌日には歩くこともできなくなって同年は一軍に復帰できず、これを契機に藤田浩雅が一軍の捕手に定着している。 渡辺伸治: プロ3年目の1988年に一軍初出場を果たすが、藤田浩雅や中嶋聡の壁を破れず、一軍で捕手としての出場はなかった。 中沢伸二: その後は藤田浩雅の台頭もあり、1985年引退。 村上眞一: 代打での初打席から2打席連続代打本塁打:1984年8月16日、対ロッテオリオンズ21回戦(平和台球場)、8回裏に藤田浩雅の代打で出場、深沢恵雄から右越ソロ ※史上初 杉本尚文: 同年の終盤から一軍に出場して自信になるが、杉本が現役当時のオリックス捕手陣は藤田浩雅、中嶋、高田誠、三輪隆、日高剛と層が厚く、チーム自体も強い時期で、正捕手の座を奪うことはできなかった。 荒木貴裕: 同年4月2日に鵜久森淳志も代打サヨナラ満塁本塁打を放っており、同一球団によるシーズン2本のサヨナラ満塁本塁打は1988年の藤田浩雅、福良淳一(阪急ブレーブス)以来29年ぶりでプロ野球史上3度目、セ・リーグでは史上初の快挙となった。 中出謙二: 捕手としての出場は15試合にとどまるが、それでも藤田浩雅に次ぐ試合数であった。 長村裕之: 初本塁打:1985年8月6日、対南海ホークス16回戦(大阪スタヂアム)、4回表に藤田浩雅の代打として出場、山内孝徳からソロ 佐野心: 初盗塁:1992年4月18日、対読売ジャイアンツ2回戦(ナゴヤ球場)、7回裏に長嶋清幸の代走で出場(投手:岡田展和、捕手:藤田浩雅) 羽生田忠克: 初盗塁:1987年5月2日、対阪急ブレーブス4回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏に二盗(投手:原田賢治、捕手:藤田浩雅) 内田強: 正捕手の藤田浩雅が不振だったこともあり、同年は5月から47試合に先発マスクを被る。 有賀佳弘: 即戦力と期待されるが中沢伸二、片岡新之介、藤田浩雅らの捕手陣に割り込むことはできなかった。 中嶋聡: 1989年、球団名がオリックス・ブレーブスに変わってからは、正捕手だった藤田浩雅の不調により正捕手の座を掴む。 |
藤田浩雅の情報まとめ
藤田 浩雅(ふじた ひろまさ)さんの誕生日は1961年10月3日です。静岡出身の野球選手のようです。
卒業、引退、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。藤田浩雅の現在の年齢は63歳のようです。
藤田浩雅のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 藤田 浩雅(ふじた ひろまさ、1961年10月3日 - )は、静岡県裾野市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 家業の食堂は何度も傾き、食うや食わずの生活をしてきた。御殿場西高校では2年先輩の杉本正とバッテリーを組んでいた1年先輩の捕手が投手にコンバートされたため、1年次の1977年秋に捕手へ転向。高校卒業後は大昭和製紙への入社を希望するも断念し、1980年に関東自動車工業へ入社。3年目の1982年には都市対抗にヤマハ発動機の補強選手で出場してベスト8入りに貢献し、打撃は粗削りであったが、その強肩に広島、阪急などが目をつけた。特に阪急は衰えが目立つようになった中沢伸二の後継としてリストアップし、同年のドラフト3位で阪急ブレーブスに入団。 1983年は主に二軍で河村健一郎バッテリーコーチに鍛えられて一軍出場は6試合に終わったが、秋季キャンプでは「バットを見るのが嫌になるくらい」振り込みを続け、フォームを改造。 1984年には衰えを隠せなくなっていた中沢伸二から正捕手の座を奪い、最終的に98試合出場でリーグトップの守備率.992・盗塁阻止率.423をマーク。打撃では打率.287で83安打ながら22本塁打の好成績を残し、リードでも2桁勝利投手を4人送り出したほか、チーム防御率もリーグ唯一の3点台(3.72)を記録。「走ってこないかな」と手ぐすね引くほど強肩には自信があり、リードはエースの山田久志ら大ベテランに鍛えられた。山田とのバッテリーでは、主に山田が配球を考え、カーブのサインに対しては遅いカーブ、速いカーブと投げ分けた。リードの醍醐味を覚えたのが星野伸之とのバッテリーで、星野はMAX135km/hのストレートにカーブ、フォークの3種類しかなかったが、西武の清原和博をして「星野と藤田のバッテリーは読みづらい」と言わしめている。同年のリーグ優勝に貢献して新人王・ベストナイン・ダイヤモンドグラブ賞を受賞し、その後も正捕手としてチームを支えた。外国人投手とバッテリーを組むことが多く、抑え投手のアニマル・レスリーから(スキンシップとして)パンチを食らうことも頻繁にあった。「アイツのハングリー精神には頭が下がる」と阪急首脳陣全員が認めるガッツマンで、殴られても蹴られても耐える姿に上田利治監督も岡田栄球団社長も「1発殴られて何点とか、査定する時にはプラスのポイントをつけなければいかんな」とシーズン中から口をそろえて慰謝料を約束したが、1986年オフの契約更改では点数に入っていなかった。藤田曰く「アニマルが投げる時はフォームも大きいし、意外と神経質だから神経もずい分使った。リードにも苦心しましたよ。それが認められなかったようで…」と複雑な表情を浮かべたが、当時12球団のレギュラー捕手は西武・伊東勤、巨人・山倉和博の3300万円を筆頭に2000万円台が当たり前であった。4年目とはいえ、藤田はレギュラー捕手としては12球団で一番薄給であった。欠場したのは僅か4試合で、シーズン中には右手の3針縫う怪我をし、バットが満足に振れなくても、スローイングができなくても、チームのためにと出場を続けても、評価は低かった。藤田は「他球団の捕手と比べてもあまりにも差がありすぎる。もう少し捕手の立場を理解してほしい」と訴え、「こうなったらアニマルに慰謝料でも請求しようかな」と半分冗談、半分本気で言い残して事務所を後にした。口約束とはいえ、監督、球団社長自ら慰謝料を用意するといった以上、査定担当者も見直しせざるを得なかった。2回目の交渉で前回より100万円多い1250万円を提示されようやくサインし、希望額に50万円足りなかったが、藤田は女房の苦労を分かってくれれば、それで良かった。 1985年には土佐キャンプ初日で強擦プレーの練習中、弓岡敬二郎からの送球を落球。上田に「なにやっとるんじゃ」と激怒され、尻を左足で蹴り上げられている。 1988年6月18日の南海戦(西宮)で吉田豊彦から日本プロ野球史上5人目となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放つ。 1989年は故障もあり、若手の中嶋聡に正捕手を奪われた。ただし、中嶋が正捕手となってからも、ガイ・ホフマンやドン・シュルジーが先発する時はスタメンに起用されていた。 1991年シーズン終了後に同じポジションの高田誠との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。藤田元司監督が3年越しのラブコールを送り、まとめた話であった。 巨人では2番手捕手として期待されたが、大久保博元の加入により二軍生活が続き出場機会に恵まれなかった。 1994年8月13日の阪神戦(東京D)では、桑田真澄とバッテリーを組みセ・リーグタイ記録の16奪三振(毎回奪三振も記録)完封試合に、最後までマスクを被って貢献し打撃でも2打点を挙げた。9月10日の広島戦(東京D)では大量ビハインドで守備で途中出場し、8回裏には井上祐二からソロ本塁打を打った。これが結果的に現役最後の出場となった。 1995年は一軍に昇格することがなかった。 1996年は5月から二軍コーチ兼任となり事実上現役を引退。 引退後も巨人一筋で、二軍バッテリーコーチ(1997年, 2004年 - 2005年, 2008年 - 2009年)・フロント(1998年 - 2002年, 2006年)・ブルペン捕手(2003年)・育成担当コーチ(2007年)・二軍育成コーチ(2010年)を務めた。 2011年からは合宿所の寮長。 2013年4月現在の役職はファンサービス部課長。コーチ時代は親身かつ熱心な指導に定評があり、寮長時代は清武英利球団代表に「君がルールだから」と了承を得て、門限繰り上げ・夕食の義務化・自室での禁煙と規則を厳格化した。違反すれば「外出禁止。1ヶ月とか甘いものではなく、3ヶ月、半年、1年だってある」とし、さらには「場合によっては手を出すこともある。新人選手の親御さんには伝えた」と鉄拳制裁も辞さない構えであった。 2024年現在はチームスタッフ(育成チーム)を務めている。 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更 各年度の太字はリーグ最高 太字年はダイヤモンドグラブ賞の受賞 新人王(1984年) ベストナイン:1回 (1984年) ダイヤモンドグラブ賞:1回 (1984年) 初出場:1983年9月2日、対西武ライオンズ20回戦(阪急西宮球場) 25 (1983年 - 1991年) 38 (1992年 - 1995年) 68 (1996年) 86 (1997年) 108 (2003年) 85 (2004年 - 2005年) 111 (2007年) 71 (2008年 - 2010年) 武田和歌子のぴたっと。(ABCラジオ、2015年3月12日) - 「福本豊のあの人は今 元・プロ野球選手名鑑」に電話出演。 ^ 日めくりプロ野球 12月【12月4日】1986年(昭61) 約束してくれたのに…アニマルの女房・藤田浩雅“殴打賃”よこせ!スポーツニッポン、リンク切れ ^ '94スポニチプロ野球手帳 ^ 週刊ベースボールONLINE 藤田浩雅&熊野輝光 阪急の明るいニュースとなった2年連続新人王/プロ野球1980年代の名選手、週刊ベースボール ^ 日刊スポーツ1985年2月5日「上田監督藤田蹴っ飛ばす」 ^ 週刊ベースボール 2011年11月7日号96ページ ^ 巨人“鬼寮長”復活!規則厳格化「俺がルールだ」、スポーツニッポン 静岡県出身の人物一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 個人年度別成績 藤田浩雅 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 蔭山和夫 1952 中西太 1953 豊田泰光 1954 宅和本司 1955 榎本喜八 1956 稲尾和久 1957 木村保 1958 杉浦忠 1959 張本勲 1961 徳久利明 1962 尾崎行雄 1965 池永正明 1967 高橋善正 1969 有藤通世 1970 佐藤道郎 1971 皆川康夫 1972 加藤初 1973 新美敏 1974 三井雅晴 1975 山口高志 1976 藤田学 1977 佐藤義則 1978 村上之宏 1979 松沼博久 1980 木田勇 1981 石毛宏典 1982 大石大二郎 1983 二村忠美 1984 藤田浩雅 1985 熊野輝光 1986 清原和博 1987 阿波野秀幸 1988 森山良二 1989 酒井勉 1990 野茂英雄 1991 長谷川滋利 1992 高村祐 1993 杉山賢人 1994 渡辺秀一 1995 平井正史 1996 金子誠 1997 小坂誠 1998 小関竜也 1999 松坂大輔 2001 大久保勝信 2002 正田樹 2003 和田毅 2004 三瀬幸司 2005 久保康友 2006 八木智哉 2007 田中将大 2008 小松聖 2009 攝津正 2010 榊原諒 2011 牧田和久 2012 益田直也 2013 則本昂大 2014 石川歩 2015 有原航平 2016 高梨裕稔 2017 源田壮亮 2018 田中和基 2019 高橋礼 2020 平良海馬 2021 宮城大弥 2022 水上由伸 2023 山下舜平大 表 話 編 歴 投 今井雄太郎 捕 藤田浩雅 一 ブーマー.W 二 大石大二郎 三 落合博満 遊 弓岡敬二郎 外 簑田浩二 / 高沢秀昭 / T.クルーズ 指 L.リー 表 話 編 歴 1972 種茂雅之 1973 野村克也 1974 村上公康 1975 有田修三 1976 有田修三 1977 加藤俊夫 1978 中沢伸二 1979 梨田昌崇 1980 梨田昌崇 1981 梨田昌崇 1982 大宮龍男 1983 梨田昌崇 1984 藤田浩雅 1985 伊東勤 1986 伊東勤 1987 伊東勤 1988 伊東勤 1989 中嶋聡 1990 伊東勤 1991 伊東勤 1992 伊東勤 1993 田村藤夫 1994 伊東勤 1995 伊東勤 1996 高田誠 1997 伊東勤 1998 伊東勤 1999 城島健司 2000 城島健司 2001 城島健司 2002 城島健司 2003 城島健司 2004 城島健司 2005 城島健司 2006 里崎智也 2007 里崎智也 2008 細川亨 2009 鶴岡慎也 2010 嶋基宏 2011 細川亨 2012 炭谷銀仁朗 2013 嶋基宏 2014 伊藤光 2015 炭谷銀仁朗 2016 大野奨太 2017 甲斐拓也 2018 甲斐拓也 2019 甲斐拓也 2020 甲斐拓也 2021 甲斐拓也 2022 甲斐拓也 2023 若月健矢 2024 甲斐拓也 表 話 編 歴 1位:榎田健一郎 2位:田中孝尚 3位:藤田浩雅 4位:柴原実 5位:湧川勉 6位:山中賢次 日本の野球選手 御殿場西高等学校出身の人物 トヨタ自動車東日本硬式野球部及びその前身チームの選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 パシフィック・リーグ最優秀新人 (NPB) 日本のブルペン捕手 日本の野球指導者 静岡県出身のスポーツ選手 1961年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/18 11:26更新
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fujita hiromasa
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