もしもし情報局 > 1967年 > 3月6日 > 野球選手

小川博文の情報 (おがわひろふみ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

小川博文の情報(おがわひろふみ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

小川 博文さんについて調べます

■名前・氏名
小川 博文
(読み:おがわ ひろふみ)
■職業
野球選手
■小川博文の誕生日・生年月日
1967年3月6日 (年齢57歳)
未年(ひつじ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
千葉出身

(昭和42年)1967年生まれの人の年齢早見表

小川博文と同じ1967年生まれの有名人・芸能人

小川博文と同じ3月6日生まれの有名人・芸能人

小川博文と同じ出身地千葉県生まれの有名人・芸能人


小川博文と関係のある人

佐藤幸彦: 2学年先輩には小川博文が、2学年後輩には和田孝志と高橋憲幸がいた(和田とは後にプロでもチームメイトとなる)。


入来智: 1994年の対オリックス・ブルーウェーブ戦で打者の小川博文から側頭部に打球を受けた。


大島公一: しかし同じ関東の高校出身で甲子園での対戦経験もある小川博文がキャンプで練習パートナーとなるなど、オリックスではすぐにチームになじんでいった。


中島輝士: 1988年は同僚の石井丈裕や小川博文とともに五輪代表に選出され、筒井大助らとともに野手陣のまとめ役となった。


新井潔: 同年のシーズンオフに進藤達哉・戸叶尚と共に前田和之・杉本友・小川博文との3対3の交換トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍。


戸叶尚: その後成績は低迷し、2000年オフに進藤達哉・新井潔と共に小川博文・杉本友・前田和之との3対3の交換トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍。


小枝守: 小川博文 - 元プロ野球選手(オリックス・ブルーウェーブ-横浜ベイスターズ)


寺本四郎: 初奪三振:1999年5月8日、対オリックス・ブルーウェーブ7回戦(千葉マリンスタジアム)、7回表に小川博文から


ダグ=ジェニングス: 初本塁打:1995年5月17日、対福岡ダイエーホークス7回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、9回裏に小川博文の代打で出場、ボビー・シグペンからソロ


嘉㔟敏弘: 初安打:1996年4月4日、対近鉄バファローズ3回戦(藤井寺球場)、9回表に小川博文の代打として出場、背尾伊洋から単打


田口壮: 1992年の開幕戦、千葉マリンスタジアムでの対千葉ロッテマリーンズ戦で、前年のベストナイン遊撃手でオールスターゲームにも出場した小川博文を差し置いて、9番・遊撃手で新人開幕戦先発出場を果たした。


松谷竜二郎: 1988年の大会では1回戦で中島輝士、石井浩郎、小川博文らを擁する優勝候補のプリンスホテルと対戦、延長12回の接戦を制し勝利投手となる。


山越吉洋: しかし、翌1993年には小川博文がレギュラー遊撃手に定着し出場機会が大きく減ったが、1990年には内野のユーティリティプレイヤーとして復活し、その後も準レギュラーとして活躍した。


竹下潤: 1996年8月7日のオリックスブルーウェーブでは小川博文の本塁打のみの1失点に抑え、初完投勝利。


谷中真二: 初奪三振:同上、7回裏に小川博文から


潮崎哲也: 打席でのけぞったのはあの球ぐらい」(小川博文)、「左ピッチャーのように曲がる。


紅林弘太郎: 昨年と合わせて日本シリーズ通算11安打を放ち、球団名がオリックスとなった1989年以降ではイチロー、田口壮、小川博文が記録した通算10安打を上回って単独最多となり、第7戦までは日本シリーズ通算15安打を放った。


石井丈裕: しかし同年は3・4番の小川博文と中島輝士もドラフト指名されたため、プリンスホテル監督の石山建一が石井のプロ入りに難色を示した。


杉本友: 1年目の1997年アマチュア時代のトルネード投法からの変更に時間がかかり、シーズンに優勝争いの終盤に先発ローテーションに入り、3勝を挙げたが翌1998年シーズンは開幕2戦目に先発登板したがに0勝7敗(先発6敗、リリーフ1敗)でシーズンを終えるなどなかなか才能が開花せず、2000年シーズンオフに戸叶尚、進藤達哉、新井潔との交換トレードで、前田和之、小川博文と共に横浜ベイスターズへ移籍。


進藤達哉: 2001年に小川博文、杉本友、前田和之との3対3のトレードで、戸叶尚、新井潔と共にオリックス・ブルーウェーブへ移籍した。


関根裕之: 初奪三振:同上、9回表に小川博文から


大島公一: 小川博文を擁する拓大紅陵に2回戦で敗れている。


藤井康雄: この時のチームメイトには同期の中島のほかにプロでも同僚となる小川博文らがいた。


干場崇永: 初奪三振:1993年9月25日、対オリックスブルーウェーブ25回戦(グリーンスタジアム神戸)、小川博文から


塩崎真: 初出場:1997年4月9日、対西武ライオンズ2回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に小川博文の代走として出場


土井正三: 僕だけではなくデカ(高橋智)さんを育てたのもそうですし、小川博文さんはもともと試合に出ていましたけど、レギュラーとして起用するようになったも土井監督。


五十嵐章人: 次いで清田育宏の58本塁打、後藤光尊の95本塁打が続き、それ以外の10人(古屋英夫、松永浩美、田中幸雄、堀幸一、小川博文、井口資仁、吉村裕基、浅村栄斗、T-岡田、島内宏明)は100本塁打以上を達成している。


小川博文の情報まとめ

もしもしロボ

小川 博文(おがわ ひろふみ)さんの誕生日は1967年3月6日です。千葉出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

選手としての特徴、詳細情報などについてまとめました。現在、卒業、引退に関する情報もありますね。小川博文の現在の年齢は57歳のようです。

小川博文のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

小川 博文(おがわ ひろふみ、1967年3月6日 - )は、千葉県館山市出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球指導者。野球解説者。ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。

現在はオリックス・バファローズ傘下のジュニアチームの監督を務める。

中学生までは館山市で軟式野球をしており、1982年に当時の顧問の勧めで創立5年目の拓大紅陵高に進学(2学年後輩には飯田哲也と佐藤幸彦がいた)。当初は硬式野球経験のあるシニアリーグ出身者に遅れを取ったが、監督小枝守の下で厳しい練習に取り組み二塁手として成長。2年夏にはレギュラーの1番打者となり、秋からは3番打者を務めるようになった。同年秋の関東大会では大島公一らを擁する法政二高と準々決勝で対戦し、サヨナラタイムリーを放ち、ベスト4に進み、同校初の全国大会となる第56回選抜大会への出場を決めている。

選抜大会では初戦の対智弁学園戦で3ランホームランを放つなど3安打4打点の活躍を見せ、二回戦では再び法政二高を破った。準々決勝ではKKコンビを擁するPL学園と対戦し、桑田真澄に3打数無安打2三振と抑えられ、チームも完封負けを喫している。3年夏の第66回全国選手権大会にも出場し、大会前には優勝候補の一角に挙げられた。しかし初戦の対鹿児島商工戦で増永祐一に4打数無安打に抑えられ、5対0で敗れている。

野球部部長の川俣幸一の勧めもあり、高校卒業後は社会人野球へ進むことを決断。複数の企業からオファーがあったが、次期監督の石山建一自らが来校したプリンスホテルに進んでいる。3年目の1987年には都市対抗と日本選手権でともに2本塁打を放つなど三番打者として活躍し、初の社会人ベストナインに二塁手として選出された。翌1988年にはソウルオリンピック日本代表に同僚の石井丈裕や中島輝士とともに選出され、二塁手として全試合に先発出場している。予選リーグでは七番、準決勝と決勝では六番打者を務め、チーム3位の打率.368と同1位の2盗塁の成績を残し、堅守と広角打法でチームを支えた。また、決勝戦ではジム・アボットから先制点に繋がる二塁打を放っている。

社会人の4年間で通算打率.430、50本塁打を記録し、1988年度ドラフト会議にてオリックス・ブレーブスから2位指名を受け、入団。契約金、年俸はそれぞれ5,800万円、720万円(推定)だった。

1989年はキャンプで遊撃手にコンバートされ、弓岡敬二郎や山越吉洋とポジションを争った。身体能力の高さやパンチ力のある打撃を監督の上田利治に評価されて近鉄との開幕戦に9番・遊撃手として先発出場を果たす。同年は114試合に先発し、規定打席には届かなかったもののレギュラーの座を勝ち取っている。

1991年は全試合に出場し、自己最多の135安打を放つなど活躍し、オールスターゲームにも第2戦の1打席のみながら初出場を果たす。同年は初のベストナインに遊撃手として選出され、1,300万円増の年俸3,400万円で契約を更改した。一方でオフには大物ルーキーとして期待された田口壮や土井正三監督の評価が高い勝呂壽統が加入し、遊撃手のポジション争いは激化した。

1992年は開幕戦こそ田口にスタメン遊撃手の座を奪われたが翌日の第2戦を含め94試合に遊撃手としてスタメンで出場し、レギュラーの座を守った。また2年連続でオールスターゲームに監督推薦で出場し、第2戦では初の先発出場を果たし、2打点を挙げている。

1993年は松永浩美が移籍したこともあり、6月頃から三塁手として起用されることが多くなった。

同年のシーズンオフ、監督に仰木彬が就任。

1994年は初の打率3割を達成し、シーズン後半には3番を務めた。この年も三塁手として起用されることがもっとも多かったが、ベストナインでは三塁手として0票であり、遊撃手として50票を集めるも1票差で広瀬哲朗に競り負ける。

1995年は1月17日の阪神淡路大震災で被災し、オリックス選手会とイチローからの義援金計400万円を酒井勉とともに1月23日に神戸市役所に届けている。シーズンに入ると6月8日の対日本ハムファイターズ戦で正二塁手の福良淳一が右ひざ十字靱帯を断裂し、翌日から主に二塁手を任されるようになった。同年の日本シリーズでは福良の復帰もあり、全試合に遊撃手として先発出場した。第4戦の9回に完封勝利目前の川崎憲次郎から同点本塁打を放ち、小林の14球を経てチームが勝利している。

1996年のシーズン前半はコンパクトなスイングや右打ちを狙って不振に陥り、出場機会が減少。しかしヘッドコーチの中西太の助言などで自分のバッティングを取り戻し、7月31日の対西武ライオンズ戦では横田久則から7年ぶりの満塁本塁打を放っている。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第3戦でバルビーノ・ガルベスを1回1/3で降板に追い込む2点タイムリーツーベースを放ち、第5戦でも西山一宇からダメ押しとなる2点タイムリーツーベースを放っている。レギュラーシーズンでは規定打席に到達しなかったが、同年のシーズンオフには1,000万円増の年俸7,200万円(推定)で契約を更改した。

1997年にはFA権を取得したが、行使せずオリックスに残留。

1999年にはプロ野球史上5人目となる全打順本塁打を達成。同年のシーズンオフには700万円増の年俸6,400万円で契約を更改した。

2000年シーズンオフに進藤達哉・戸叶尚・新井潔との交換トレードで、前田和之・杉本友と共に横浜ベイスターズへ移籍。11月12日に入団発表が行なわれ、ロバート・ローズの付けていた背番号23を引き継いだ。このトレードにあたっては監督の森祇晶からの強い誘いもあり、移籍の事前打診を快諾している。

2001年は進藤に代わる三塁手のレギュラーを務め、自己最多の15本塁打を放つなど5番打者として活躍した。ゴールデングラブ賞の選考では岩村明憲に次ぐ第2位の票を集めている。

2002年は新外国人マイク・グランの入団もあって二塁手や一塁手としてのスタメン出場も増えるなど起用が安定しなかった。グランが不振に陥ったことで三塁へ戻るなどの負担もあり、出場数も本塁打数も落としてしまったが便利屋として貴重な働きをした。

2003年シーズンオフにはオリックスへのトレードが内定していたが、伊原春樹の監督就任に伴う方針転換などで破談となった。この経緯について11月にオリックスGMの中村勝広がベイスターズに謝罪している。また、契約更改では年俸が野球協約の上限となる25%(1,750万円)減の5,250万円(推定)となった。

2004年は残り94本となった通算1500本安打を目指したが、一度も一軍に呼ばれることなく9月に戦力外通告を受けた。気力、体力ともにまだ自信がありこのまま引退しては悔いが残ると、現役続行に強い意欲を示し、西武ドームでの12球団合同トライアウトに参加したが、同年限りで現役を引退した。

2005年、古巣のオリックス・バファローズの球団本部育成担当に就任、野球教室の講師などを務めた。

2008年にサーパスの育成コーチ兼野手コーチ補佐に就任。6月には監督のテリー・コリンズの辞任に伴って一軍内野守備走塁コーチに昇格、シーズン終了後まで同職を務めた。

2009年にフロント入りし、一度コーチ職を離れる。

2010年に二軍打撃コーチに就任、2年ぶりに現場復帰し、2011年8月26日付で打撃低迷の責任を取り、辞任した正田耕三の後任として一軍打撃コーチに昇格。

2012年も再び一軍打撃コーチを務めたがチーム打率、得点共にリーグ最下位に低迷。

2013年は育成担当インストラクターを務め、再びコーチ職を離れた。

2014年より、一軍打撃コーチへ三度復帰した。

2015年10月3日に来年度の契約更新を行わない旨を通告された。

2016年からもう一つの古巣である横浜DeNAベイスターズの一軍打撃コーチに就任することが発表された。

2018年シーズン終了後に退団。

2019年からはオリックスOBとしてJ SPORTSの野球解説者として活動する傍ら、古巣オリックス・バファローズのジュニアチームで監督を務めている。

2025年から活動を開始するサムティの硬式野球部初代監督に就任する。

選手としての特徴

打撃

手首が強く、グリップ一杯にバットを長く持つスイングで比較的小柄ながらも長打力に定評があった。一方でこの打撃フォームは投球に対して振り遅れやすくなるという指摘をプロ入り直後から受け、リーグ優勝を達成して注目を浴びた1995年頃にもコンパクトなスイングで繋ぐ打撃を目指すべきと批判を受けた。一方、オリックス時代に打撃コーチだった中西太は、シンプルに自分のスイングをすれば良いというスタンスで指導していた。

小川自身は配球は読まず構えにもこだわらず、ボールが来て瞬間に打てると感じたらバットを振り、タイミングが合わなければスイングしないという打撃理論を持っていた。様々な打順で起用され、プロでは全打順本塁打の記録も達成したが、打順によって打席での考えが変わることは全くなかったという。

走塁

プロ入り時点でベース一周13秒7、100メートル走のタイムは11秒6と俊足には定評があった。1990年には22盗塁を記録している。

その他

1998年頃から打撃の衝撃を抑えるためにマウスピースを使用していた。当時は下の歯にテンプレートを装着する選手はいたものの、マウスピースを装着するプロ野球選手は一人だけだったという。知り合いの歯科医の勧めがきっかけで使い始め、インパクト時の強い力で奥歯の部分だけ穴が開くため1ヶ月ごとにオーダーメイドの新品に取り替え、予備も2、3個用意していた。応援歌はサイボーグ009のオープニングテーマだった。

詳細情報

年度別打撃成績

年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁死 犠打 犠飛 四球 敬遠 死球 三振 併殺打 打率 出塁率 長打率 OPS
1989 オリックス 115 391 344 36 85 11 4 5 119 32 7 6 24 2 20 0 1 44 7 .247 .289 .346 .635
1990 125 436 385 43 100 13 1 5 130 41 22 7 14 2 33 0 2 84 10 .260 .320 .338 .658
1991 130 571 495 57 135 24 2 5 178 48 8 6 28 6 42 0 0 57 12 .273 .326 .360 .686
1992 103 396 344 39 100 23 1 3 134 38 3 1 24 5 20 1 3 54 8 .291 .331 .390 .720
1993 125 465 414 36 106 18 2 8 152 36 8 5 12 2 37 1 0 72 12 .256 .316 .367 .683
1994 126 527 459 48 139 17 5 4 178 53 2 4 13 8 44 0 3 70 15 .303 .362 .388 .750
1995 120 422 379 44 103 20 3 6 147 38 0 3 11 2 30 0 0 66 12 .272 .324 .388 .711
1996 110 351 313 42 90 14 0 9 131 38 1 2 9 2 26 3 1 55 9 .288 .342 .419 .761
1997 120 407 372 40 87 11 2 11 135 38 4 1 7 3 24 0 1 73 8 .234 .280 .363 .643
1998 102 319 290 30 69 14 0 7 104 27 0 2 3 1 24 4 1 64 10 .238 .297 .359 .656
1999 112 367 321 40 88 16 0 6 122 37 2 2 4 3 39 1 0 66 13 .274 .350 .380 .730
2000 101 269 241 28 63 10 0 5 88 45 3 1 1 3 24 1 0 66 4 .261 .325 .365 .690
2001 横浜 131 496 420 48 111 16 0 15 172 65 3 2 10 9 57 2 0 100 13 .264 .346 .410 .755
2002 119 396 352 28 92 15 2 7 132 44 1 1 6 5 32 1 1 76 5 .261 .321 .375 .696
2003 81 160 147 15 38 3 0 4 53 17 0 1 2 1 9 1 1 26 5 .259 .304 .361 .664
通算:15年 1720 5973 5276 574 1406 225 22 100 1975 597 64 44 168 54 461 15 14 973 143 .266 .324 .374 .698

各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

年度 一塁 二塁 三塁 遊撃
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1992 - 10 19 31 0 3 1.000 - 92 136 242 5 56 .987
1993 - 1 0 1 0 0 1.000 78 44 127 5 9 .972 48 69 120 8 20 .959
1994 - 14 15 26 0 4 1.000 79 57 130 6 18 .969 51 66 101 2 25 .988
1995 4 13 0 0 1 1.000 73 95 155 1 26 .996 6 3 12 2 1 .882 57 59 102 4 21 .976
1996 6 20 0 0 4 1.000 4 5 3 1 2 .889 - 101 116 221 9 42 .974
1997 2 9 0 0 0 1.000 21 30 30 2 5 .968 - 100 110 226 5 45 .985
1998 11 31 1 0 2 1.000 6 7 8 0 1 1.000 1 0 0 0 0 - 86 90 201 5 41 .983
1999 11 68 6 1 4 .987 - 11 2 10 2 0 .857 81 91 181 7 32 .975
2000 39 188 6 1 4 .995 17 22 39 2 5 .968 5 1 6 0 1 1.000 17 9 36 1 5 .978
2001 - 7 10 15 0 5 1.000 123 84 208 9 11 .970 -
2002 58 368 26 4 29 .990 12 21 26 1 7 .979 40 30 68 2 6 .980 -
2003 2 3 0 0 0 1.000 10 14 19 0 0 1.000 25 14 31 3 1 .938 -

表彰

ベストナイン:1回(1991年)

千葉県知事賞(1988年) ※ソウル五輪野球(公開競技)日本代表メンバーとしての銀メダル獲得を称えて

記録

初出場・初先発出場:1989年4月9日、対近鉄バファローズ1回戦(藤井寺球場)、9番・遊撃手で先発出場

初安打・初打点:同上、7回表に阿波野秀幸から適時二塁打

初本塁打:1989年4月11日、対ロッテオリオンズ1回戦(川崎球場)、3回表に小川博からソロ

初盗塁:1989年4月16日、対日本ハムファイターズ2回戦(西宮球場)、4回裏に二盗(投手:津野浩、捕手:田村藤夫)

1000試合出場:1997年6月21日、対西武ライオンズ9回戦(札幌市円山球場)、10回表に遊撃手で出場 ※史上341人目

1000安打:1998年8月27日、対福岡ダイエーホークス24回戦(福岡ドーム)、9回表に長冨浩志から ※史上188人目

1500試合出場:2001年9月18日、対ヤクルトスワローズ23回戦(明治神宮野球場)、8回表にジョン・ズーバーの代打で出場 ※史上134人目

100本塁打:2003年7月31日、対阪神タイガース20回戦(阪神甲子園球場)、4回表に谷中真二から右越ソロ ※史上229人目

全打順本塁打:1999年6月3日、対福岡ダイエーホークス11回戦(グリーンスタジアム神戸)、1番・遊撃手で先発出場、5回裏に西村龍次から左越同点2ラン ※史上5人目

オールスターゲーム出場:3回(1991年、1992年、1994年)

背番号

23(1989年 - 2004年)

73(2008年)

83(2010年 - 2012年、2014年 - 2015年)

74(2016年 - 2018年)

2024/06/14 12:00更新

ogawa hirofumi


小川博文と同じ誕生日3月6日生まれ、同じ千葉出身の人

磯部 さちよ(いそべ さちよ)
1981年3月6日生まれの有名人 千葉出身

磯部 さちよ(いそべ さちよ、1981年3月6日 - )は、日本のタレント、女優である。芸能事務所は太田プロダクション所属。 兵庫県神戸市で生まれる。「ワンギャル」の5期生として2001年(平成1…

高橋 洋二(たかはし ようじ)
1943年3月6日生まれの有名人 千葉出身

高橋 洋二(たかはし ようじ 1961年9月18日 - )は放送作家、ライター。 神奈川県出身。神奈川県立鶴嶺高等学校卒業。法政大学経済学部中退。大学では映画研究会に所属。1982年開始の『タモリ…

上野 啓輔(うえの けいすけ)
1986年3月6日生まれの有名人 千葉出身

上野 啓輔(うえの けいすけ、1986年3月6日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球指導者、実業家。株式会社FROM BASE.代表取締役。大正大学硬式野球部コーチ。N…

工藤 唯(くどう ゆい)
1999年3月6日生まれの有名人 千葉出身

工藤 唯(くどう ゆい、1999年3月6日 - )は、日本のグラビアアイドル。ケイエイチプロモーションと専属契約。 2018年11月30日発売された初のイメージDVD「美少女伝説 ファーストキス」…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


小川博文と近い名前の人

小川 宏(おがわ ひろし)
1926年4月17日生まれの有名人 東京出身

小川 宏(おがわ ひろし、1926年〈大正15年〉4月17日 - 2016年〈平成28年〉11月29日)は、日本のフリーアナウンサー・司会者。元NHKアナウンサー。東京都墨田区出身。 東京府南葛…

小川 寛興(おがわ ひろおき)
1925年3月5日生まれの有名人 東京出身

小川 寛興(おがわ ひろおき、1925年3月5日 - 2017年7月19日)は、日本の作曲家。 東京府東京市芝区新橋(現在の東京都港区)出身。日本作曲家協会監事。 大倉高等商業学校中等科卒業(19…

小川 博(おがわ ひろし)
1962年4月2日生まれの有名人 栃木出身

小川 博(おがわ ひろし、 1962年4月2日 - )は、栃木県足利市出身、群馬県育ちの元プロ野球選手(投手)。現役引退後の2004年、強盗殺人事件を起こして無期懲役の判決を受け、現在は受刑者となって…

小川 知子_(女優)(おがわ ともこ)
1949年1月26日生まれの有名人 広島出身

小川 知子(おがわ ともこ、1949年〈昭和24年〉1月26日 - )は、日本の女優・歌手。広島県広島市生まれ 、東京都北区育ち。 1970年前後に、人気アイドル歌手として有名になる。1980年代は…

小川 知子_(アナウンサー)(おがわ ともこ)
1971年12月24日生まれの有名人 東京出身

小川 知子(おがわ ともこ、1971年12月24日 - )は、TBSテレビ総合編成本部 アナウンスセンター長。 東京都新宿区の出身で、東京家政学院高等学校から慶應義塾大学文学部史学科東洋史専攻へ進…

小川 航基(おがわ こうき)
1997年8月8日生まれの有名人 神奈川出身

小川 航基(おがわ こうき、1997年8月8日 - )は、神奈川県横浜市都筑区出身のプロサッカー選手。エールディヴィジ・NECナイメヘン所属。ポジションはフォワード(FW)。日本代表。 横浜市立南…

小川 和夫(おがわ かずお)
1909年8月10日生まれの有名人 出身

小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 1994年3月26日)は、日本の英文学者。元NHK職員。 東京市浅草区(現・東京都台東区)生まれ。1935年、東京帝国大学英文科を卒業。 翌…

小川 ゆい(おがわ ゆい)
1991年11月8日生まれの有名人 埼玉出身

小川 ゆい(おがわ ゆい、1991年11月8日 - )は、日本のタレント。福岡県出身。 旧芸名は小川 祐依(読み同じ)で、高校在学中の2008年に参加・出場した『週刊少年チャンピオン』マスコットガー…

小川 美佳(おがわ みか)
1984年7月30日生まれの有名人 東京出身

小川 美佳(おがわ みか、1984年7月30日 - )は、日本の女性ものまねタレント。 本名同じ。東京都出身。身長は160cm。所属事務所はオスカープロモーションを経て、現在はジョリーアンリミテッド…

小川 まるみ(おがわ まるみ)
1981年2月15日生まれの有名人 東京出身

小川 まるみ(おがわ まるみ、1981年2月15日 - )は日本のタレント、グラビアアイドル。東京都出身。東京農業大学第一高等学校卒業。インターアクト所属。 タレント、グラビアアイドルとして幅広…

小川 菜摘(おがわ なつみ)
1962年12月30日生まれの有名人 東京出身

小川 菜摘(おがわ なつみ、1962年(昭和37年)12月30日 - )は、日本の女優・タレントである。本名・濵田 聖名子。 夫は1つ年下でダウンタウンの浜田雅功。長男はOKAMOTO'Sのベーシス…

小川 智美(おがわ ともみ)
1978年11月18日生まれの有名人 千葉出身

小川 智美(おがわ ともみ、1978年11月18日 - )は千葉県出身のタレント、女優。愛称はともみっち。英検2級。 池袋ウエストゲートパーク(第8話ヘルス嬢役 2000年、TBS) ナースのお仕…

小川 瀬里奈(おがわ せりな)
1987年1月12日生まれの有名人 出身

小川 瀬里奈(おがわ せりな、1987年1月12日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント。アルファコア所属。イタリアミラノ出身。日本人とイタリア人のハーフである。 趣味はケーブルテレビ観賞、…

小川 笹乃(おがわ ささの)
1995年7月17日生まれの有名人 熊本出身

小川 笹乃(おがわ ささの、旧芸名:ヲガワ ササノ、英語: Sasano Ogawa、1995年7月17日 - )は、日本の元モデル、女優である。熊本県合志市出身、埼玉県在住。血液型はA型。 …

小川 沙織(おがわ さおり)
1978年2月14日生まれの有名人 福岡出身

小川 沙織(おがわ さおり、1978年2月14日 - )は、福岡県福岡市出身のタレント、モデル、女優。 オスカープロモーション(女性部)に所属していた。血液型はA型。夫はカメラマンの下川順司。 布…

小川 エレナ(おがわ えれな)
1962年7月4日生まれの有名人 東京出身

小川 エレナ(おがわ エレナ、1962年7月4日 - )は、日本の元タレント・モデル・女優。本名、ELENA金谷DEJAVING(エレナ・かなや・ディジャービン)。 東京都渋谷区出身。所属していた事…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
小川博文
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手) 石山順征

グループ

風男塾 からっと☆ LinQ Prizmmy☆ 愛乙女★DOLL CoverGirls ひめキュンフルーツ缶 乙女新党 Silent Siren 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「小川博文」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました