潮崎哲也の情報(しおざきてつや) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
潮崎 哲也さんについて調べます
■名前・氏名 |
潮崎哲也と関係のある人
石嶺和彦: 200本塁打:1992年4月7日、対西武ライオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に潮崎哲也からソロ ※史上61人目 森田幸一: この時の松下電器のエースは潮崎哲也で、大学同期の木村も補強選手として登板していた。 杉山賢人: 鹿取義隆・潮崎哲也と形成した強力なストッパー・トリオは毛利元就の「三本の矢」のエピソードやJリーグブームに湧く中、サンフレッチェ広島になぞらえて、「サンフレッチェ」と呼ばれた。 横田久則: 2015年は同球団の一軍投手コーチを務めるが、2016年は潮崎哲也との入れ代わりで二軍監督に就任。 太田暁: 初打席:1991年5月4日、対西武ライオンズ4回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に中根仁の代打として出場、潮崎哲也から四球 デニー友利: なお、プロに指名されなければ松下電器野球部に入団予定で、その顔合わせなどで後にチームメイトになる潮崎哲也、原井和也とプロ入団前から面識があった。 森繁和: 杉下茂とは指導者としての師弟関係であり、西武ライオンズで共に一軍投手コーチを務めていた時のことを杉下は「選手をというより森繁和投手コーチを一人前にするのが仕事で、郭泰源、渡辺久信、工藤公康、潮崎哲也、鹿取義隆らが主力だから、コーチなんかいらないよ。 片岡篤史: 西武がリーグ3連覇を決めた9月30日の試合では潮崎哲也から左飛に打ち取られ最後の打者になっている。 的山哲也: 初打点:1996年6月1日、対西武ライオンズ9回戦(西武ライオンズ球場)、5回表に潮崎哲也から左犠飛 ジョージ=アリアス: 初盗塁:2000年6月25日、対西武ライオンズ13回戦(西武ドーム)、2回表に二盗(投手:潮崎哲也、捕手:伊東勤) 渕脇芳行: 初打席:同上、10回表に潮崎哲也の前に三振 会田有志: サイドスロー時代の球速は、潮崎哲也や高津臣吾のような「アンダー気味のサイドスロー」からコンスタントに140km/h台前半を記録し最高球速147km/hを計測をしていたが、アンダースローに転向後は130km/h台後半のストレートと110km/hから120km/h台のシンカーを使った投球で打者を抑えていた。 髙津臣吾: これはチームが西武ライオンズとの同年の日本シリーズで潮崎哲也の遅いシンカーに苦しめられたことを受け、当時の監督であった野村克也から「150キロの腕の振りで100キロの遅いシンカーを投げろ」と習得を命じられたためである。 佐藤幸彦: 9月21日の対西武戦での引退打席は、同年齢で同じく引退試合となった潮崎哲也から3球目にライトフライを放った。 広永益隆: パ・リーグ通算3万号本塁打:1992年6月5日、西武ライオンズ10回戦(西武ライオンズ球場)、6回表に藤本博史の代打で出場、潮崎哲也から2ラン 鍛治舎巧: 潮崎哲也 原井和也: 同期に水本勝己・潮崎哲也がいた。 新谷博: 同年の契約更改では年俸が1億1,000万円(推定)となり、清原和博と潮崎哲也に並ぶチーム史上最速の6年目で1億円の大台に到達した。 中嶋治彦: 秋の日本選手権では初戦先発で松下電器の潮崎哲也と投げ合うが敗退。 鹿取義隆: セットアッパーの潮崎哲也の活躍もあり、シーズンでは27セーブポイントを挙げて初タイトルとなる最優秀救援投手を受賞し、起用法や守備など周囲に支えられた事を深く感謝している。 西本和人: しかし1990年に巨人から鹿取義隆と新人の潮崎哲也が入団し同じサイドスロー投手の活躍で西本も優勝には貢献したが出番が減少。 松下建太: 変化球は、二軍監督の潮崎哲也から教わったというシンカーを投げていた。 渡辺久信: 当時は交流戦がなく、これは日本シリーズを見据えた采配であり、同試合では同僚の潮崎哲也、石井丈裕も打席に立ったが、三振を喫しなかったのは渡辺だけであった。 水本勝己: 高校卒業後は、社会人野球の名門・松下電器に進み、潮崎哲也ともバッテリーを組む。 早坂圭介: 初打席:2003年8月10日、対西武ライオンズ20回戦(千葉マリンスタジアム)、9回裏に波留敏夫の代打で出場、潮崎哲也の前に見逃し三振 小島弘務: 1989年の都市対抗野球では松下電器に補強されたが潮崎哲也や同僚で一緒に補強の森田幸一らがいて登板はなかった。 与田剛: 実績がないなかで監督らの推薦で入ったNTT東京時代に球速150 km/hを超える剛速球が注目され、野茂英雄、潮崎哲也らと全日本代表メンバーに抜擢。 石井大智: シンカーは潮崎哲也を参考にして習得した。 宮内春輝: 高津臣吾や潮崎哲也を参考にしたというシンカーを得意球とする。 森祇晶: 巨人からトレードで獲得した鹿取義隆を抑えで、新人の潮崎哲也も中継ぎと抑えの両方で起用し、鹿取は37試合で3勝1敗24セーブで最多セーブと最優秀救援投手を受賞、潮崎も43試合で7勝4敗8セーブの成績を残し、「抑え不在」というここ数年のチームの課題が解消された。 |
潮崎哲也の情報まとめ
潮崎 哲也(しおざき てつや)さんの誕生日は1968年11月26日です。徳島出身の野球選手のようです。
卒業、引退、テレビに関する情報もありますね。潮崎哲也の現在の年齢は55歳のようです。
潮崎哲也のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 潮崎 哲也(しおざき てつや、1968年11月26日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。 現役時代は西武ライオンズに所属し、「魔球」と称されたシンカーを駆使した投球術で西武の黄金期を支えた。ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。 鳴門高校ではスリークォーターのオーソドックスなフォームからストレートと変化の大きいカーブ以外に決め球がなく、控え投手兼外野手という時期が続いた。このためフォークボールやパームを習得に励んだがうまく行かなかったという。2年時に首脳陣から「目先を変える意味で、横でも下からでも投げておけ」 と指示されたことでサイドスローに転向した。転機は3年生の春に高松西高との練習試合を行なった際、同じサイドスローの相手投手がシンカーを投げていたことから、監督から「お前も同じようなタイプだから、シンカーを投げろ」と勧められて挑戦したという。カーブと逆に手首を捻って中指と薬指から抜くような独特の投げ方を試すと、1球目から驚くほど落ちるシンカーが投げられ、楽に三振が取れるようになり、同年夏の徳島大会でチームが決勝まで進む原動力となった。なお、決勝では池田高校に敗れて甲子園出場はならなかった。 卒業後は松下電器に入社し、同社保有の社会人野球チーム松下電器野球部へ入部。勤務先の潮崎の月給は11万円強と高額ではなかったものの好きな野球ができて嬉しかったという。高卒同期に水本勝己、原井和也がいた。監督の鍛治舎巧に素質を評価されて1年目から先発を務め、1987年の都市対抗野球大会に出場して2回戦では先発が打ち込まれて1回から救援登板すると2回を1失点に抑えたがチームは優勝したヤマハに敗れた。ストレートの球速が10km以上速くなり、150km近くのストレートと40~50km遅い100km台のシンカーとのコンビネーションで相手打者を幻惑し、社会人野球を代表する投手として注目される。 1988年の都市対抗では1回戦で酒井勉が先発した日立製作所を完投で破って勝利投手となったが、2回戦では同大会の久慈賞を受賞したNTT東海の上原勝男(NTT北陸から補強)と投げ合って敗戦投手となっている。 同年のソウルオリンピック(以下、五輪)では、潮崎は19歳という史上最年少で日本代表に選ばれ、同じメンバーで参加した五輪直前のIBAFワールドカップで好投。特に対オランダ戦では6回1/3を投げて12個の三振を奪うなど、シンカーが威力を発揮した。五輪では野茂英雄や石井丈裕と共に先発ローテーションを構成し、予選リーグ第3戦の対オランダ戦で先発して5回を2安打8奪三振の内容で勝利投手となった。また、同大会では予選リーグ第1戦以外の4試合全てに登板して8回2/3を投げ1失点と、影のMVPと呼ばれるほどの活躍で銀メダル獲得に貢献した。なお、決勝の対アメリカ戦では6回から2イニングを完璧に抑えたが、鈴木義信監督が迷いながら続投させた8回にティノ・マルティネスに外角低めの直球を打たれ、左翼席上段まで届く本塁打にされている。 翌1989年の都市対抗では大阪府予選の第一代表決定戦で野茂と投げ合い、この試合は12三振を奪いながら敗れたものの本大会に出場。準決勝でプリンスホテルと対戦し、10回1/3を投げ抜いた末に敗戦投手となった。同年は野茂や与田剛とともに「社会人三羽ガラス」と並び称され、1989年度ドラフト会議にて西武から1位指名を受けて入団。契約金、年俸はそれぞれ7,800万円、840万円(いずれも推定)で、担当スカウトは浦田直治と鈴木照雄だった。西武が潮崎を指名した経緯としては、当初は野茂の獲得に動いていたものの8球団が競合となったことを嫌い、また当時の西武は先発陣と打線は揃っていたものの、中継ぎと抑えの投手陣が貧弱だったというチーム事情で潮崎の一本釣りに切り替えたというものである。背番号は松沼雅之が着けていた16になっている。社会人時代に野茂や与田、佐々岡真司らの投球を目の当たりにしていた事で、プロ入り後に気持ちの余裕が生まれたという。 1990年(1年目)は、西武のドラフト1位投手としては森繁和以来の11年ぶりとなる開幕一軍入りを果たした。4月14日の平和台野球場での対福岡ダイエーホークス戦で初登板し、ブルペンでの投球練習がわずか10球だったにもかかわらず2回1/3を2安打無失点、4奪三振に抑えている。2回目の登板となった4月24日の西宮球場での対オリックス・ブレーブス戦では山越吉洋に本塁打を打たれるも、2回1/3をこの1失点に抑えてプロ初勝利を挙げた。さらに7月5日の西宮での対オリックス戦では、同日2本塁打を放っていた門田博光を含むブルーサンダー打線を相手に新人としては1962年の尾崎行雄以来となる8連続奪三振を記録した。だが、7回に9人目の代打・柴原実にレフト前ヒットを許して日本タイ記録はならなかったが、翌日のスポーツ紙などで大きく報じられ、これをきっかけに潮崎の人気と知名度が上昇した。鹿取義隆とともにダブルストッパーを務め、主にセットアッパーとして鹿取の最多セーブ投手獲得を支えた。リーグ優勝を決めた9月23日の西武球場での対日本ハムファイターズ戦では、最後に鹿取が登板する予定だったが、1死1、2塁の場面で田中幸雄をゲッツーに打ち取ったため潮崎が胴上げ投手となった。同年の日本シリーズでは、第2戦で4回途中から2番手として登板し、4回2/3を投げて被安打2、自責点2の内容で勝利投手となった。第4戦でも7回から3イニングを無失点に抑え、シリーズ初セーブを挙げるとともに胴上げ投手になっている。なお、レギュラーシーズンと日本シリーズ双方で胴上げ投手となった新人は1975年の山口高志以来、史上2人目だった。同年は最優秀新人の選考は野茂に敗れたものの、102回2/3を投げて123奪三振、防御率1.84の活躍でパシフィック・リーグ会長特別賞を受賞した。 1991年は、疲れさえ残さなければ前年並の成績を残せると自信を持って鹿取とともに自主トレを行ない、所沢キャンプでは体力向上に努めた。しかしキャンプに入ると納得の行くストレートが投げられず、2月26日の紅白戦初登板では辻発彦、奈良原浩、安部理に3連続盗塁を喫するなど、3回4失点の不本意な内容に終わった。前年の投球フォームをビデオで確認するなど修正に務めたが、シーズンの防御率は4.48と悪化した。同年の日本シリーズでは第2戦で1回を無失点に抑えた。第4戦では2回を投げ3連打を含む4安打3失点で決勝点を奪われたものの、敗戦投手にはなっていない。同年の契約更改では中継ぎだけでなく先発ローテーションの谷間も埋めたフル回転の働きが評価され、年俸は1,300万円増の4,100万円(推定)となった。 1992年はシンカーのキレが今ひとつだったが、初の二桁セーブを挙げた。同年の日本シリーズでは抑えの切り札として第4戦までのうち3試合に登板し、シンカーの復調もあっていずれも無失点に抑えて2セーブを挙げている。しかし、大宮龍男と組んだ第5戦では連投の疲れから球威が落ちたストレートを狙われ、3イニング目に入った延長10回に池山隆寛に決勝点となる本塁打を浴びて敗戦投手となった。続く第6戦でも延長10回に高校の先輩である秦真司にサヨナラ本塁打を打たれている。オフには年俸6,500万円(推定)で契約を更改した。 1993年には杉山賢人が入団し、鹿取と3人で勝ち試合の終盤を任されるようになり、「サンフレッチェ」と呼ばれた。森監督の起用法にも支えられて安定感の高い救援トリオを形成し、潮崎はいずれもキャリアハイとなる53試合登板、防御率1.18の成績を残している。なお、優勝がかかった10月6日の対近鉄バファローズ戦では延長10回にラルフ・ブライアントを迎えた場面で一時左翼手の守備に就くという珍しい経験をしている。この年の日本シリーズは第3戦から第7戦まで5試合連続で登板し、そのうち第4戦から第6戦まではサンフレッチェが揃って登板した。シリーズでは計6回2/3を投げ自責点2、2セーブの内容で優秀選手賞を受賞している。またオフには身体障害者などを招待する「潮崎シート」を西武球場に新設し、所沢市に運用を委託した。 1994年は2年連続で50試合に登板し、防御率2.39と安定した成績を残している。同年の日本シリーズは3試合で3回2/3を投げ自責点1で、勝敗やセーブはつかなかった。オフには1,000万円増の年俸1億円(推定)で契約を更改し、清原和博と並ぶ球団史上最速の6年目で1億円の大台に達した。 1995年はオールスターゲームに初選出を果たし、第2戦で1回を投げている。シーズン通算では5勝6敗12セーブと負け越したものの、防御率が2年振りに1点台(1.92)を記録し、奪三振率も9.73と高かった。 1996年は、東尾監督の方針で鹿取に代わるクローザーに指名された。しかし肩痛による調整遅れやプレッシャーなどもあり、シーズン序盤は18試合に登板して1勝4敗6セーブ、防御率6.00と不振に苦しみ6月2日には自身初となるケガ以外での二軍落ちを経験した。二軍での調整を経て6月13日に一軍に復帰すると翌日の福岡ドームでの対ダイエー戦で3回2/3を1安打無失点に抑え、続く6月16日の対ダイエー戦でも1回を零封した。この試合の後に先発転向を命じられ、6月21日の西武球場での対日本ハム戦で8回を2安打無失点に抑える好投を見せている。7月10日の対日本ハム戦では7回2/3まで完全試合の内容で投げるなど先発として一定の成果を残したが、8月からはリリーフに戻った。 1997年は前年オフに台湾プロ野球で最多セーブを記録したロバート・ウィッシュネフスキーを獲得、また同じく前年に石井貴がリリーフとして台頭してきたこともあり、東尾監督の勧めと潮崎の希望から先発に転向した。4月15日の対日本ハム戦では7回2/3を投げて4安打無失点で初勝利を挙げ、順調なスタートを切っている。5月18日の西武球場での対ロッテ戦では被安打2で初の完封勝利を記録するなど白星を重ね、8月28日の対ダイエー戦は9回途中まで1失点に抑える内容で先発のみで初の二桁勝利を達成した。同年は自己最多の12勝を挙げ、防御率はリーグ3位の2.90を記録した。同年の日本シリーズは第2戦に先発し、1失点ながら6安打を浴びて3回で降板。第4戦では新谷博の後を受けて2番手として登板し、2/3回を投げて2安打1死球で満塁となったが杉山が後続を断った。また、オフには翌年のアジア大会の日本代表合宿に参加し、立石尚行にシンカーを教授している。 1998年は西口文也に次ぐ先発2番手として期待されたが、前年を下回る7勝に終わったが後半戦中継ぎに回りリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは2連敗で迎えた第3戦に先発し、緩急や高めの球をうまく使って横浜ベイスターズのマシンガン打線を抑えた。オフには、同年取得したFA権を行使した上でチームに残留している。 1999年は高速シンカーを習得し、4月18日の対日本ハム戦では8回を投げて4安打1失点の好投を見せたが、高速シンカーを覚えたことにより本来投げていたシンカーのキレが悪くなり痛打が目立ちシーズン通算では5勝に終わっている。 2000年4月30日の西武ドームでの対千葉ロッテマリーンズ戦で1000投球回を達成。 2001年頃からは投球の計算が立ちにくくなり、不安を抱えながら投げることが多くなったという。また、点差をつけられた場面などでの起用が増えていった。 2002年は石井貴の故障などから13試合に先発し、4月27日の対日本ハム戦では1年半ぶりに先発勝利を上げた。 2004年は9月上旬に球団から引退を打診され、力の衰えを実感していた事もあってあっさり受け入れた。9月21日の西武ドームでの対ロッテ戦が潮崎にとって引退試合となった。この試合、潮崎は1打席限定の登板で先発し同じく引退打席の佐藤幸彦にシンカーとストレートを投げて右飛に打ち取り、試合後に胴上げされている。 西武の編成部調査担当に就任した。 2005年には西武ジュニアの監督を務めた。 2007年にグッドウィル(西武二軍)の投手コーチに就任。 2008年、一軍投手コーチ(ブルペン)に昇格。5月24日の対巨人戦の始球式では巨人一軍打撃コーチの篠塚和典と対決し、左中間へのヒットを打たれた。 2010年は一軍投手コーチ(ベンチ)を務めた。2009年はパシフィック・リーグワースト記録となる14回のサヨナラ負けを喫するなど中継ぎ陣の弱さが目立ち、2010年はチーム防御率が前身のクラウンライターライオンズ時代以来33年ぶりの最下位に低迷した。また救援防御率は4.15、5.31、5.08と低迷し、3年連続でチーム救援防御率リーグ最下位に終わっている。 2011年から2012年までは西武の編成部にプロ担当として在籍。 2013年からは、同球団の二軍監督として3シーズンぶりに現場へ復帰。 2015年10月13日に翌2016年の一軍ヘッド兼投手コーチ就任が発表された。 2017年・2018年には再び二軍監督を務めた。2017年シーズンの途中からは森慎二一軍投手コーチの急死により西口文也二軍投手コーチが一軍投手コーチに昇格したため、二軍投手コーチも兼任した。 2019年からは松井稼頭央の二軍監督就任に伴ってフロント入りし、編成グループトップのディレクターに就任した。 右のサイドスローから150km/h近い速球と100km/h前後の球速で50cm近くも沈むシンカー、130km/h台のスライダーを投げ分け、リリーフおよび先発で活躍した。プロでの先発転向後、1999年には120km/h台の高速シンカーも習得した。サイドスローのフォームは鹿取義隆や斎藤雅樹を参考にし、横から投げるためシンカーが浮き上がるようなイメージを作り出していた。 リリーフの時は打球を前に飛ばさない事を第一に考え、カウントを取る球も勝負球もシンカーで見逃されて四球になるリスクと隣合わせの投球スタイルだった。一方で先発の時は走者を貯めないことを先決にし、投球の組み立てにおけるシンカーの比重が相対的に小さくなった。リリーフの心構えについては鹿取から教えられたことが役立ったといい、打たれても落ち込まない姿勢や投球に対するシンプルな考え方を学んでいる。 打たれても悔やんで引きずることはなく、抑えたら自分の力だと思うほど開き直りの良い性格で、プロ入り1年目から1994年まで監督を務めた森祇晶からも精神力の強さはチームで一番と評されていた。右投げのアンダーハンドの投手は「左打者に相性が悪い」という定説があったが、潮崎はそれほど苦にしなかった。加えて潮崎はホームランバッターもそれほど苦にしなかった一方で、空振りが取れなかった新井宏昌は対戦したプロ選手の中で印象に残っているという。 潮崎の最大の持ち味として、「魔球」あるいは「伝家の宝刀」と称されたシンカーが挙げられる。 遅いシンカーはカーブと逆の握りで逆に手首を捻って中指と薬指から抜くバルカンチェンジのような独特の投げ方で、軌道もスライダーのようにスッと沈むオーソドックスなものではなく、一度浮かんで沈むようなカーブに近い軌道だった。右に沈むため自身はシンカーと呼んでいたが、一般的なシンカーとは別の球種だと指摘されることもあった。 松沼雅之は「パームボールのように揺れながら浮き上がりフォークボールのようなスピードで落ちる球」と表現し、森繁和は「スピードはないものの、一度浮き上がってから落ちる。横から見るとカーブのようだった。サイドスローからの独特な、見たことのないボールだった」と評している。山田久志は「潮崎や高津のシンカーはチェンジアップだ」とテレビ番組で述べたことがあり、同じ番組の取材でそれを聞いた潮崎も「チームのスコアラーもチェンジアップと記録していた」と述べ否定しなかった。 国際試合などでは2巡目からシンカーにタイミングを合わされる事がしばしばあり、リリーフとしての短いイニングの起用で威力がより発揮された面もあったという。なお、高速シンカーはストレートに近い握りで、リリースの瞬間に手首を被せるように投げていた。潮崎曰く、自身のシンカーのルーツとなったのは水島新司の野球漫画「ドカベン」に登場する里中智が得意とする『さとるボール』であるという。 西武時代の清原和博は潮崎のシンカーを「ボールがホームベース直前で視界から消える。消える球は打てない」と評し、「同じチームでよかった」と言わしめた。門田博光は潮崎のシンカーを苦手とし、潮崎がボールを投げた瞬間にバッターボックスの一番前まで移動して打とうとしたことがあったものの、打つことができなかった。野村克也はヤクルトの監督を務めていた1992年のユマでの春季キャンプにおいて、当時プロ入り2年目で決め球を持っておらず「お前にはスピードがないから緩急をつけろ」と指示してきた高津臣吾に対し「潮崎はなぜ抑えられる?真っすぐとシンカーだけなのに」と問うた。同年の日本シリーズで西武と対戦した際にも「ああいうシンカーを覚えろ」とアドバイスを送り、高津もこれを聞き入れて独学での習得に励み、1年でのマスターに成功した。 他にも西武での同僚・関係者や相手チームの選手からは、「一度浮き上がってきて、目線から消えた。それで完全に上体が起こされてしまって。ファウルで逃げ粘るのが精いっぱいやった」(福良淳一)、「一度フワッと浮いて、ストライクゾーンに落ちてくる。それまで見たことがない軌道だった。まさに魔球だよね」(渡辺久信)、「抜けたと思ったらボールからストライクゾーンに入ってくる。想定外の変化をする。打席でのけぞったのはあの球ぐらい」(小川博文)、「左ピッチャーのように曲がる。西武時代に潮崎さんのボールを(捕手として)受けていたけど、あの曲がりは特殊」(和田一浩)と評されている。 潮崎は現役時代にチームの勉強会で投手コーチからシンカーの握りを公開するように求められた際、「同じチーム内でもライバル。メシの種は教えられない」とこの要求を突っぱねたことがあったが、引退後に行われたあるインタビューで「シンカーを伝授したいと思ったことは?」と問われた際には「一子相伝じゃないし、自分の代でこの変化球を終わらせたくはないから、伝授したい気持ちは重々ある」と答えている。実際投げ方を教わりにきた投手は少なくなかったため惜しまずにボールの握り方を教えたが、彼のようなシンカーを投げる者は現れず、その理由として潮崎のように薬指の柔らかさを持つ投手はおらず、ボールをリリースする際にうまく抜くことができないため、回転力を止めてしまうことが挙げられた。2005年に中日から西武に移籍してきた正津英志は「いろいろとマネしてみましたが、潮崎さんのシンカーを投げられませんでした」とコメントしている。 身長176cm、体重68kg(入団1年目)の細身の体に加えジャニーズ系の甘いルックスで絶大な人気を誇った。新人時代の潮崎は1週間に40通以上のファンレターが届き、スポーツタオルなどのプレゼントも大量に贈られた。スポーツ雑誌の「人気選手ランキング」ではトップ3の常連で、登板時に潮崎の名前がコールされるとスタンドから黄色い歓声が起こった。当時のプロ野球選手では珍しい「かわいい系」の風貌で女性ファンのハートをがっちりつかんだが、ピンチに動じないメンタルに加え、大きな故障がなく体も強かった。1年目のロッテ戦で西村徳文に内角球を投じて険悪な雰囲気になるも後続を抑えて、ベンチに帰る際におどけながらロッテベンチに向けて帽子を取る仕草をしたところマイク・ディアズが怒って走り寄っている。 握力が30kgしかなく、1年目のキャンプではバーベルを上げられなかったという逸話もある。 私生活では2人の息子がおり、潮崎が現役引退時に少年野球をしていた長男には力の衰えを理解してもらえなかったという。 大久保博元が2021年7月に公式YouTubeチャンネルに公開した動画によると、母子家庭出身の元プロ野球選手のコミュニティの中で最も性格が良いという。 各年度の太字はリーグ最高 パ・リーグ連盟特別表彰:1回 (新人特別賞:1990年) 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1993年) 初登板:1990年4月14日、対福岡ダイエーホークス1回戦(平和台球場)、6回裏2死に3番手として救援登板、2回1/3を無失点 初奪三振:同上、7回裏に藤本博史から 初勝利:1990年4月24日、対オリックス・ブレーブス1回戦(西宮球場)、6回裏に4番手として救援登板、2回1/3を1失点 初先発:1990年7月18日、対近鉄バファローズ15回戦(西武ライオンズ球場)、2回4失点で敗戦投手 初セーブ:1990年7月29日、対オリックス・ブレーブス14回戦(西宮球場)、6回裏1死に救援登板、3回2/3を無失点 初先発勝利・初完投勝利:1991年9月3日、対オリックス・ブルーウェーブ24回戦(西武ライオンズ球場)、9回1失点 初完封勝利:1997年5月18日、対千葉ロッテマリーンズ9回戦(西武ライオンズ球場) 1000投球回数:2000年4月30日、対千葉ロッテマリーンズ5回戦(西武ドーム) ※史上282人目 500試合登板:2003年8月10日、対千葉ロッテマリーンズ21回戦(千葉マリンスタジアム)、9回裏に3番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上72人目 8連続奪三振:1990年7月5日、対オリックス・ブレーブス12回戦(西宮球場) オールスター出場:1回(1995年) 16 (1990年 - 2004年) 86 (2007年 - 2010年、2013年 - 2018年) ^ この年のドラフト会議は潮崎、野茂(近鉄)、与田(中日)、佐々岡真司(広島)、西村龍次(ヤクルト)、小宮山悟(ロッテ)、佐々木主浩(横浜大洋)が1位指名されたが、1位以降の指名でも古田敦也(ヤクルト、2位)、石井浩郎(近鉄、3位)、前田智徳(広島、4位)、新庄剛志(阪神、5位)が指名されたため、ドラフト制が導入されて以降では「豊作」と言われている。 ^ プロ野球記録は梶本隆夫及び土橋正幸の9者連続三振。 ^ 日本語に直訳すると「三本の矢」を意味し、この年に発足したJリーグのサンフレッチェ広島になぞらえて命名された。 ^ 週刊ベースボール、2004年11月29日号、P.55 ^ 別冊宝島1652号、宝島社、P.48-49 ^ 週刊ベースボール、1997年7月14日号、P.55 ^ 「[連続インタビュー'04年のおわりに]八木裕/潮崎哲也/赤堀元之「刻んだ思いは、それぞれに」」『Sports Graphic Number』、2004年11月11日号、P.70 ^ 週刊ベースボール、1999年6月14日号、P.12 ^ 野球選手に学ぶ"オリジナル技"の開発 潮崎哲也はなぜ魔球シンカーを習得できたのか?(1/4)(2/4)(3/4)(4/4) - 東洋経済オンライン 2013年6月25日、2020年1月24日閲覧。 ^ 週刊ベースボール、1997年7月14日号、P.56 ^ 毎日新聞、1999年7月5日付夕刊、P.3 ^ 別冊宝島1545号、宝島社、P.66 ^ 別冊宝島1545号、宝島社、P.70 ^ 別冊宝島1545号、宝島社、P.68 ^ 別冊宝島1545号、宝島社、P.71 ^ 週刊ベースボール、1990年5月7日号、P.128 ^ 読売新聞、1989年12月5日付朝刊、P.19 ^ 週刊ベースボール、2004年11月29日号、P.56 ^ 週刊ベースボール、1990年5月7日号、P.129 ^ 週刊ベースボール、1990年5月7日号、P.130 ^ 週刊ベースボール、1990年5月21日号、P.22 ^ 「大いなる挑戦 「記録」に挑んだ男たち」『Number』、1991年1月20日号、P.30 ^ NPB日本シリーズ記録 1990年 第2戦 ^ NPB日本シリーズ記録 1990年 第4戦 ^ 「大いなる挑戦 「記録」に挑んだ男たち」『Number』、1991年1月20日号、P.29 ^ 「ジンクスを嗤う 潮崎哲也「理想のフォームをイメージしながら」」『Number』、1991年4月5日号、P.50 ^ NPB日本シリーズ記録 1991年 第4戦 ^ 読売新聞、1991年12月11日付朝刊、P.19 ^ 「第2戦 1本のホームランで西武がタイに」『Number』、1992年11月20日号、P.36 ^ NPB日本シリーズ記録 1992年 第6戦 ^ 毎日新聞、1992年12月13日付朝刊、P.19 ^ 別冊宝島1652号、宝島社、P.57 ^ “潮崎哲也が語った短期決戦の投手心理。デストラーデ移籍は痛手だった”. sportiva.shueisha.co.jp. Sportiva Web. 2020年1月24日閲覧。 ^ 週刊ベースボール、2000年3月26日号、P.112 ^ 毎日新聞社・編『西武ライオンズファンブック 1994年度版』、P.60 ^ 毎日新聞社・編『西武ライオンズファンブック 1994年度版』、P.61 ^ 読売新聞、1994年12月11日付朝刊、P.27 ^ 週刊ベースボール、1996年7月15日号、P.56 ^ 週刊ベースボール、1997年5月19日号、P.115 ^ 「西武スイスイ5連勝 鈴木健3連発 潮崎プロ初完封」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1997年(平成9年)5月19日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ パ・リーグ1997年成績 ^ 週刊ベースボール、1999年6月14日号、P.13 ^ 毎日新聞、1998年5月9日付朝刊、P.21 ^ 週刊ベースボール、1998年11月9日号、P.28 ^ 毎日新聞、1998年11月5日付朝刊、P.20 ^ 週刊ベースボール、2004年11月29日号、P.58 ^ 毎日新聞、2002年4月28日付朝刊、P.23 ^ 埼玉西武ライオンズ公式サイト 2013年度コーチングスタッフ発表 ^ 2016年度 コーチングスタッフ発表!埼玉西武ライオンズ公式サイト、2016年4月9日閲覧。 ^ “松井稼頭央は来季西武2軍監督、潮崎氏はフロントへ”. 日刊スポーツ. https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/201810220000043_m.html?mode=all 2020年1月23日閲覧。 ^ “西武6部制に組織改正 潮崎氏編成ディレクター就任”. 日刊スポーツ. https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/201812250000480_m.html 2020年1月23日閲覧。 ^ 「[連続インタビュー'04年のおわりに]八木裕/潮崎哲也/赤堀元之「刻んだ思いは、それぞれに」」『Number』、2004年11月11日号、P.69 ^ 週刊ベースボール、2004年11月29日号、P.57 ^ 毎日新聞社・編『西武ライオンズファンブック 1994年度版』、P.58 ^ 読売新聞、1991年1月17日付朝刊、P.19 ^ 週刊ベースボール、1990年5月21日号、P.20 ^ 「球界200人が選ぶ!史上最強の変化球 第7位 潮崎哲也[元西武]のシンカー」『週刊ベースボール』、2012年7月23日号、P.14 ^ NHK BS1「球辞苑」 2021年2月15日放送分。テーマは「シンカー」 ^ 別冊宝島1652号、宝島社、P.36 ^ 週刊ベースボール、1990年5月21日号、P.23 ^ 松坂大輔"西武ライオンズ”で引退!感動をありがとう デーブ大久保チャンネル 2021/07/07 (2021年7月11日閲覧) 徳島県出身の人物一覧 埼玉西武ライオンズの選手一覧 個人年度別成績 潮崎哲也 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube 表 話 編 歴 1957 豊田泰光 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 近藤和彦 1961 塩原明 1962 岩下光一 1963 王貞治 1964 K.ハドリ 1965 林俊彦 1966 長嶋茂雄 1967 D.スペンサー 1968 柴田勲 1969 足立光宏 1970 黒江透修 1971 黒江透修 1972 長嶋茂雄 1973 高田繁 1974 山崎裕之 1975 中沢伸二, 外木場義郎 1976 B.ウイリアムス 1977 福本豊 1978 若松勉 1979 水谷実雄 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ 表 話 編 歴 30 鈴木義信 31 川島勝司 32 山中正竹 11 潮崎哲也 12 渡辺智男 14 鈴木哲 15 菊池総 16 吉田修司 18 石井丈裕 19 野茂英雄 20 古田敦也 22 應武篤良 1 西正文 2 葛城弘樹 3 米崎薫臣 6 野村謙二郎 9 小川博文 10 筒井大助 28 大森剛 8 中島輝士 21 前田誠 25 松本安司 27 笘篠賢治 表 話 編 歴 30 鈴木義信 31 川島勝司 32 山中正竹 11 潮崎哲也 12 渡辺智男 14 鈴木哲 15 菊池総 16 吉田修司 18 石井丈裕 19 野茂英雄 20 古田敦也 22 應武篤良 1 西正文 2 葛城弘樹 3 米崎薫臣 6 野村謙二郎 9 小川博文 10 筒井大助 28 大森剛 8 中島輝士 21 前田誠 25 松本安司 27 笘篠賢治 表 話 編 歴 30 安藤喜春 31 柳俊之 32 野端啓夫 14 白井弘泰 15 江口孝義 16 潮崎哲也 17 与田剛 18 野茂英雄 19 川辺忠義 10 古田敦也 22 鈴木俊雄 23 高見泰範 1 西正文 2 南渕時高 6 樋口一紀 8 石井浩郎 9 酒井司 20 内藤雅人 23 松井達徳 26 佐藤和弘 25 佐藤真一 表 話 編 歴 1位:潮崎哲也 2位:鈴木哲 3位:大塚孝二 4位:宮地克彦 5位:佐伯秀喜 6位:北原泰二 日本の野球選手 徳島県立鳴門高等学校出身の野球選手 パナソニック野球部及びその前身チームの選手 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 野球日本代表選手 オリンピック野球日本代表選手 日本のオリンピック銀メダリスト 野球のオリンピックメダリスト 日本の野球監督 徳島県出身のスポーツ選手 1968年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/17 02:52更新
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shiozaki tetsuya
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