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新谷博の情報 (しんたにひろし)
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【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

新谷博の情報(しんたにひろし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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新谷 博さんについて調べます

■名前・氏名
新谷 博
(読み:しんたに ひろし)
■職業
野球選手
■新谷博の誕生日・生年月日
1964年7月14日 (年齢60歳)
辰年(たつ年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
佐賀出身

(昭和39年)1964年生まれの人の年齢早見表

新谷博と同じ1964年生まれの有名人・芸能人

新谷博と同じ7月14日生まれの有名人・芸能人

新谷博と同じ出身地佐賀県生まれの有名人・芸能人


新谷博と関係のある人

橋本将: 初安打・初打点:1997年9月6日、対西武ライオンズ23回戦(千葉マリンスタジアム)、4回裏に新谷博から


野村謙二郎: 駒大では2学年先輩に新谷博、1学年先輩に田村勤、同期に鈴木英之、1学年後輩に鈴木望、2学年後輩に関川浩一、3学年後輩に竹下潤と若田部健一がいた。


大塚範一: 1982年8月8日、第64回全国高等学校野球選手権大会1回戦・佐賀商業高校対木造高校戦で、佐賀商業の投手・新谷博がノーヒットノーランを達成した時のテレビ放送の実況を務めた(あとアウト1つで夏の大会史上初の完全試合になるところだった)。


松永浩美: 200本塁打:1996年4月27日、対西武ライオンズ3回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に新谷博から ※史上66人目


木村恵二: チームメイトに新谷博らがいた。


石本努: 初盗塁:1995年10月4日、対西武ライオンズ26回戦(西武ライオンズ球場)、7回表に二盗(投手:新谷博、捕手:伊東勤)


広瀬哲朗: 1982年のプロ野球ドラフト会議にヤクルトスワローズから4位で指名されたが、同時に2位で駒澤に入学予定であった新谷博が指名されたため監督の意向で拒否。


大島康徳: 満塁本塁打は8本打っており、最年長満塁本塁打(43歳6か月)の記録を持っている(門田博光の42歳6か月を更新、1994年5月4日西武戦、8回表2点リードされている場面で代打で登場し新谷博から)。


阿井英二郎: 2回戦で新谷博を擁する佐賀商と対戦し、先頭打者の打球が右足踝を直撃する不運もあって、1対5で敗れている。


太田誠: 指導した主なプロ野球選手には石毛宏典、白井一幸、広瀬哲朗、新谷博、野村謙二郎、若田部健一、高橋尚成、新井貴浩、武田久らがいる。


内田和也: 新谷博が会長を務める世田谷サムライボーイズや東京玉川リトルシニア、世田谷南ボーイズなどといった中学生硬式野球チームでも指導についた。


五十嵐章人: 日本選手権では前年に続いて決勝へ進むも日本生命の新谷博、木村恵二という継投の前に敗れたが敢闘賞、優秀選手となった。


中村紀洋: 150本塁打:2000年5月26日、対日本ハムファイターズ9回戦(大阪ドーム)、1回裏に新谷博から左越2ラン ※史上113人目


福良淳一: 1000安打:1995年7月2日、対西武ライオンズ14回戦(西武ライオンズ球場)、1回表に新谷博から右前先制適時打 ※史上180人目


小川浩一: 2年夏は県大会決勝で新谷博が先発した佐賀商に敗れ、秋は県大会優勝で九州大会へ進むが準々決勝で佐世保工の香田勲男が延長11回を完投して惜敗。


松永浩美: 1996年4月27日の西武3回戦(西武球場)で新谷博から通算200本塁打(プロ野球史上66人目)。


鹿取義隆: 1994年は前半緊急登板が多かったせいか夏場に調子を落とし、後半はストッパーの座を新谷博や石井丈裕に明け渡す形になったが、終盤は勝負どころのロングリリーフで復活し、結果的に5連覇に貢献した。


河野博文: 駒大では同期の横田の他に、2学年先輩に広瀬哲朗と近藤満、1学年先輩に鍋島と二塁手の白井一幸、2学年後輩に新谷博、3学年後輩に田村勤がいた。


潮崎哲也: 第4戦では新谷博の後を受けて2番手として登板し、2/3回を投げて2安打1死球で満塁となったが杉山が後続を断った。


植草貞夫: 」: 第64回大会 1回戦・佐賀商(佐賀) VS 木造(青森)※完全試合達成間近の佐賀商・新谷博に対して(その後、死球を与えノーヒットノーランにとどまる)。


袴田吉彦: 地の塩(2014年2月16日 - 3月9日、WOWOW) - 新谷博行 役


白井一幸: 駒大では同期の鍋島や前田誠の他に、1学年先輩に広瀬哲朗と近藤満、1学年後輩に横田真之と先述の河野、3学年後輩に新谷博がいた。


ジョー=ビティエロ: 初本塁打:2001年4月30日、対日本ハムファイターズ9回戦(グリーンスタジアム神戸)、4回裏に新谷博から左越ソロ


中村紀洋: 初盗塁:1996年5月17日、対西武ライオンズ5回戦(西京極野球場)、4回裏に二盗(投手:新谷博、捕手:髙木大成)


竹下潤: 1992年7月15日の福岡ダイエーホークス戦で初先発を果たし、5回を3失点に抑えると大学の先輩である新谷博の救援を受けて初勝利を飾る。


松永浩美: 全打順本塁打:1996年4月27日、対西武ライオンズ3回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に新谷博から ※史上2人目


横田真之: 駒大では同期の河野の他に、2学年先輩に広瀬哲朗と近藤満、1学年先輩に白井一幸、2学年後輩に新谷博、3学年後輩に田村勤がいた。


卓田和広: 実況中「2アウトランナー無し」を「2ストライクノーボール」と言い間違えた際には、解説の新谷博に「今何で2ストライクノーボールって言ったの?」とツッコミを入れられ、これに対し本人は「魔が刺した」とコメントしている。


田村勤: 駒大では3学年先輩に河野博文と横田真之、1学年先輩に新谷博、1学年後輩に野村謙二郎、3学年後輩に関川浩一がいた。


大島公一: 初本塁打:1993年6月15日、対西武ライオンズ9回戦(西武ライオンズ球場)、1回表に新谷博から先頭打者本塁打


新谷博の情報まとめ

もしもしロボ

新谷 博(しんたに ひろし)さんの誕生日は1964年7月14日です。佐賀出身の野球選手のようです。

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現在、引退、卒業、結婚、家族、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。新谷博の現在の年齢は60歳のようです。

新谷博のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

新谷 博(しんたに ひろし、1964年7月14日 - )は、佐賀県出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球指導者、監督。

2023年現在、尚美学園大学女子硬式野球部の監督、埼玉西武ライオンズ・レディースのGM、明治安田生命硬式野球部のヘッドコーチ、北海道放送の野球解説者、佐賀魂の総監督、ディレクト・アスリーツの取締役を務めている。現在のマネジメント契約は日本電波制作社。

佐賀市の公務員の家庭で、姉2人のいる末っ子として生まれた。小学校3年生で野球を始める。中学校では捕手を務め、3年生になるとエースで四番を任され主将となったが、監督と激しく喧嘩し退部している。身長が高かったこともあってバスケットボール部に転部したが、高校では再び野球をやりたいと考えて強豪の佐賀商業に進学した。

佐賀商で野球部に入ると腹筋運動1,400回など毎日6-7時間の練習を行い、帰宅しても2階の自室まで上がる体力が残らないほどだった。一方、入学時は柔軟な身体や高いセンスを持ちながらも身体が細かったが、これらの練習によってフィジカルが強化されて故障の心配も減ったという。2年の春になると同期の田中孝尚らが投手を務めて新谷は控えの三塁手となっていたが、投手陣がそろって体調を崩した際に代役を任され、それをきっかけに投手に転向している。一方、田中は捕手に転向し、新谷とバッテリーを組む事になる。2年秋の県大会ではエースとしてチームを支えたが、決勝戦で敗れ翌春の選抜大会出場はならなかった。

この敗戦をきっかけとして練習に真剣に取り組み、短期間でカーブ、スライダー、フォークボールを修得し、いずれの球種でもストライクが取れるほどに精度が向上した。1982年の3年夏の県大会では前評判通りの強さで優勝し、チーム打率と防御率は同年の選手権大会出場校のなかでともにトップだった。本大会初戦の8月8日の対木造高校戦では、1人の走者も許さずに9回二死を迎えながら27人目の代打・世永幸仁に死球を与え、完全試合は逃したものの次打者を打ちとりノーヒットノーランかつ準完全試合を達成した。新谷自身は完全試合を達成すれば大会史上初だったという事を知らず、安打を避けることを優先して内角を攻めた世永への配球を悔やんだという。

2回戦では東農大二を6安打1失点に抑えて完投勝利を収め、津久見高との3回戦でも延長14回を投げ抜いて8安打3失点と好投したが、惜しくも敗れている。大会後は荒木大輔や畠山準らとともに日本代表に選ばれて遠征に参加した。複数のプロ球団からスカウトが勧誘に来たが、当時は、過去の経緯からプロ経験者の就任に制約が大きかった高校野球の指導者を志しており、監督からの強い勧めもあって進学希望を早くから表明していた。同年のドラフトでヤクルトから2位指名を受けたが、意思は変わらず駒澤大学に進学した。

この時、先述の田中孝尚も阪急から2位指名を受け、こちらは入団している。しかし1軍出場のないまま1986年限りで引退しており、プロの舞台で再会することはなかった。

駒大野球部では4年生になったらエースを任せるという太田誠監督の方針もあり、無理な起用などはなかった。2年生では河野博文の存在もあってリリーフなどで起用され、3年生になると先発を任され春季リーグ戦では無四球完封を達成している。3年の秋季までに16勝を挙げるなど期待に応える成長を見せ、同学年の阿波野秀幸とともに東都リーグを代表する投手と評されていた。

しかし3年冬の走塁練習で右ひざを強打し、後十字靭帯を損傷。手術を行えば1年間のリハビリが必要と診断されたが、卒業後のプロ入りを希望していたため靭帯付近の筋肉を鍛えて手術を避ける方法を選んだ。そのままシーズンオフとなったため監督にはケガを報告しなかったが、軸足の負傷によって投球の感覚が損なわれ、さらに腰を痛めて制球が悪化し、そのまま無理に練習を続けてヒジを痛めてしまった。靭帯損傷などを知らない太田監督はベンチ入りメンバーから外すなどの方法で復調のきっかけを探したが、球のキレが失われてノイローゼに近い状態に陥った。4年秋のリーグ最終登板では救援を成功させたがプロから声はかからず、太田監督の勧めで社会人野球に進み日本生命に入社した。なお、東都大学リーグでは通算40試合に登板し、16勝6敗、防御率2.62、127奪三振の成績を残している。駒大では3学年先輩に白井一幸、2学年先輩に横田真之と先述の河野、1学年後輩に新井富夫と田村勤両投手、2学年後輩に野村謙二郎と鈴木英之(現・関西国際大学硬式野球部監督)がいた。

1987年に入社した日本生命では早瀬万豊や伊藤伸幸がエースとなっており、さらに翌年には木村恵二が入社して新谷の出番は少なく、下積みが続いた。イメージ通りの投球ができず、当時はイップスになっていたという。1989年にはチームが日本選手権に3年ぶりの出場を果たし、木村の連投でベスト4まで進んだ。日本石油との準決勝では先発を任されたが、自信がないまま登板して3失点し、チームも敗れている。結果が出ないまま3年間が過ぎたが、練習には真摯に取り組み、全体練習の後に個人練習をしながら疲労が限界に達して外野で座ったまま眠ることもあったほどだという。

1990年は4月に腰を痛めて1週間休んだが、復帰直後に球速が突然140km/h後半まで上がり、全盛期の投球とともに自信を取り戻した。同年の日本選手権では初戦の対NTT東北戦で先発を任され、ともに大会タイ記録の6者連続を含む14奪三振で完封勝利を挙げた。準決勝の対河合楽器戦でも先発で7回を1安打無失点に抑え、日本石油との決勝でも先発して無失点の好投でチームの優勝に貢献。自責点0で3勝を上げた活躍が評価され、大会MVPに選ばれている。この大会前後から再びプロのスカウトに注目されるようになったが、木村のプロ入りが決まっていたというチーム事情もあって同年はドラフトで指名を受けなかった。

翌1991年は杉浦正則とともに日本代表のエース級が2人そろったチームとして高い評価を受けていたが、都市対抗と日本選手権はともに初戦で敗退した。翌年のバルセロナ五輪代表の候補に挙げられていたが、「契約金と指名順位で納得する評価を受けられればプロに進みたい」としてドラフトの除外対象には含まれなかった。出身地に近いダイエーや西武、中日、近鉄の4球団から獲得の打診があり、同年のドラフト会議で西武から2位指名を受けて入団。契約金、年俸はそれぞれ8,000万円、1,200万円(いずれも推定)と、1位指名の竹下潤を上回る高条件だった。

入団当時の西武は黄金期を迎えており、登板機会が得られないのではないと不安があったという。しかし社会人野球を経験して肉体が鍛えられており、キャンプで一軍投手陣に負けない球を投げられた事で自信を得た。また、渡辺久信や鹿取義隆の気づかいでチームに溶けこんでいった。開幕2戦目の4月7日の対オリックス戦で早くも初登板を果たし、渡辺智男の不振などから8月2日には初めて先発を任され、初勝利を挙げた。同年は9月中旬まで計8試合に先発し、2完投を含む2勝を記録している。同年の日本シリーズでは第5戦で初登板して5回途中から1回2/3を投げ5安打を浴びて1失点したものの、第6戦では4回途中から1回1/3を1安打無失点に抑えた。

翌1993年は年俸が2,400万円(推定)に倍増し、先発ローテーションの5番手として19試合に先発し、8月7日の対ダイエー戦ではプロ初完封を達成している。同年の日本シリーズでは中継ぎに回り、第2戦では郭泰源の後を受けて3回表から7イニングを投げ5安打1失点に抑えている。オフには年俸が2,000万円増の4,400万円(推定)となった。8勝1敗の成績を残したものの投球内容には納得がいかず、翌年にかけて体を開かずネジるような投球フォームに変更している。

1994年は村田勝喜や小野和義の加入もあり、前半戦は中継ぎや抑えを任された。4月14日の対ダイエー戦で、1点リードして2死満塁の場面で松永浩美相手にフルカウントとなり、伊東勤のサインに首を振ってストレートで空振り三振を取った。この場面はプロ野球で最も印象に残っている会心の投球で、これを機に伊東からサインに首を振ることを許可され、自身に取って大きなターニングポイントとなったという。5月はリリーフとして7試合に登板し、20回1/3を投げ4勝1敗1セーブ、防御率1.33の成績で初の月間MVPを受賞した。またオールスターゲームにも初めて出場し、第1戦で7回1死満塁の場面に登板して1回1/3を1安打無失点に抑えている。

後半戦もロングリリーフや谷間の先発を含め杉山賢人とともに様々な場面で起用され、必死で投げていたという。同年は自己最多の41試合(先発8試合)に登板し自身初の二桁勝利を達成、そしてシーズン最終戦の10月10日の対ロッテ戦で1回1/3を投げて3失点ながら規定投球回に達し、最優秀防御率のタイトルを受賞した。日本シリーズでは第4戦の5回途中から登板し、3回2/3を4安打無失点に抑えた。オフのMVPの投票ではシーズン210安打を達成したイチローに大差を付けられたものの、イチローの満票獲得を阻止して次点となっている。契約更改では西武の投手としては過去最高のアップとなる4,000万円増の年俸8,400万円(推定)となった。

1995年は工藤公康の移籍などから先発ローテーションの中心となり、夏場に急性胃腸炎で一時先発を外れたものの同年の自己最多の23試合に先発しチーム最多となる自己最多の11勝を挙げ、防御率はリーグ6位の2.93だった。オフには年俸9,000万円(推定)で契約を更改し、前年の羽生田忠克の結婚披露宴をきっかけに交際を始めたフライトアテンダントの女性と結婚式を挙げている。翌1996年は自身初の開幕投手を任され、3年連続二桁勝利となる自己最多タイの11勝を挙げた。同年の契約更改では年俸が1億1,000万円(推定)となり、清原和博と潮崎哲也に並ぶチーム史上最速の6年目で1億円の大台に到達した。

1997年は前年チーム最多勝を挙げた西口文也に次ぐ2、3番手の先発と見られていたが、シーズン初登板となった4月9日の対オリックス戦で7安打6失点(自責点は1)の内容で3回で降板し、続く4月17日の対日本ハム戦では初回に6安打を浴びて5点を失い、1死しか取れずに28球でKOされた。この深刻な不振のため、初めて一軍登録を抹消されて二軍で調整を行っている。6月に一軍に復帰したものの再び打ち込まれて二軍に戻り、前年オフに伸ばし始めたヒゲを剃り落とし、走り込みと投球フォームの確認を続けた。8月18日に一軍に再昇格し、翌日の対ロッテ戦でシーズン初勝利を挙げたものの、同年はわずか2勝に終わった。ヤクルトとの日本シリーズでは第4戦に先発し、4回を投げ6安打3失点で5回表に代打を送られ敗戦投手となった。3回の2死二、三塁の場面で安易に勝負に行き、古田敦也に2点タイムリー二塁打を打たれたことが敗北の大きな原因になったと評されている。オフの契約更改では3,000万円の大幅減で年俸8,000万円(推定)となった。

西崎幸広や橋本武広と並ぶ投手陣の最年長として迎えた1998年は、キャンプで早めの調整を進めたものの、シーズン当初は中継ぎとして起用され防御率も10点を超えていた。しかし同年初先発となった5月27日の対ロッテ戦で勝利を挙げるとそのまま先発ローテーションに定着し、6月20日の対オリックス戦では1年9ヶ月ぶりに完封勝利を収めている。規定投球回には達しなかったものの、16試合に先発して防御率3.67の成績を残した。横浜との同年の日本シリーズでは第5戦の7回途中から5点ビハインドの場面で登板したが、8回に3点、さらに9回に7点を失った。この1試合10失点および10自責点は、いずれも日本シリーズ新記録となっている。投手コーチの杉本正は「先発も早々に降板しており、他の投手への負担を避けるため仕方なかった」と述べ、新谷自身は「野手に迷惑をかけてしまった」と語っているが、森祇晶からは日本シリーズにふさわしい采配と言えるか疑問を投げかけられている。守備走塁コーチの伊原春樹は「なかばさらし者にような形で投げ続けた新谷は見ていて本当にかわいそうだった。試合後、新谷は意気消沈。他に投手がいたのに、なぜ、代えなかったのか。帰宅後、私は新谷が心配になり、思わず電話を入れたほどだ。「大変だったな。どういう意図で監督がマウンドから降ろさなかったか分からないが、この悔しさを胸に秘め、次にやり返せ」と言葉をかけるしかなかった。」と述べている。オフの契約更改では1,000万円減の年俸7,000万円(推定)となった。

1999年は4月に2試合に先発したが両試合とも2回も持たずに6失点で降板し、4月14日に一軍登録を抹消された。同年はイースタン・リーグで先発として7勝を挙げたが10月6日に球団から戦力外通告を受け、同じく西武を解雇された元二軍投手コーチの森繁和とともに日本ハムに入団した。

移籍1年目の2000年は4月7日の対ダイエー戦で3回5失点で降板したものの、4月14日の対ロッテ戦で2年ぶりの勝利を完投で挙げている。その後5月にかけて3連勝し、マスコミにも騒がれたが投球内容には自信を持てなかったという。チーム最年長の選手として、投手陣の決起集会を開くなどチームを支える役割を担っていた。

2001年はプロ入り初めて先発の無しの中継ぎを務め 10月1日の対西武戦で8回裏から4番手として登板し、垣内哲也にソロホームランを浴びながらも1回2/3を投げて1失点だった。移籍後初の西武ドームでの登板だったこの試合が現役最終登板となり、それを予感していた両チームのファンから大きな声援が送られたという。シーズン終了後に日本ハムから一軍投手コーチ就任を打診され、家族や太田誠と相談した上で10月12日に球団に引退を申し入れて受諾した。

2002年から日本ハムで投手コーチを務め、野球の知識や技術を重視しつつメンタル面にも注力する指導を目指していた。2004年をもって日本ハムを退団し、スポーツコーチング術を学ぶため2005年に筑波大学の修士課程に入学した。一方、7月に尚美学園大学が女子硬式野球部を翌2006年に創設する事を発表したのにともない同部の監督就任の誘いがあり、これを承諾している。また、九州で唯一佐賀県だけは硬式野球チームがない事を知り、全国的に社会人野球チームの減少が続ていた事もあってチーム創設の取り組みを始めた。佐賀には県単位の野球連盟がなかったため最初に連盟を組織し、佐賀市に帰省した2005年7月に高校時代の後輩らに呼びかけたところ急速に反応が広がり、翌8月にはチームを結成している。東京に居住している事から監督は別途探す予定だったが、周囲の協力が得やすくなる事などを考慮して自身が監督に就任した。

2006年は主に週末に尚美学園野球部で指導を行い、部員数が6名ながらも片岡安祐美ら各地の選手を加えて尚美ドリームスというチームで8月の全日本選手権に参加し、ベスト4まで進出している。2006年からは北海道放送の解説者も務め、同年春から翌年春にかけて尚美学園はヴィーナスリーグで3連覇を達成している。2008年の第3回IBAF女子ワールドカップでは日本代表の投手コーチを務め、3連覇を目指すアメリカを二次予選ラウンドで破り初優勝を遂げた。また、同年は尚美学園が全日本選手権で初優勝し、佐賀魂の監督を退いて総監督に就いたほか、大学院を修了した。

2010年の第4回IBAF女子ワールドカップでも日本代表の投手コーチに就任し、連覇に貢献した。2012年にエドモントンで開催される第5回IBAF女子ワールドカップに向け、日本代表監督に就任する事が2011年3月7日に発表された。自身が監督を務める尚美大学の選手・OGを含む8人が選出されたこの大会で、史上初となる3連覇を達成している。

2020年に創設された埼玉西武ライオンズ・レディースの初代監督に就任し、クラブ選手権では初出場初優勝へ導くなど、主要大会などで優勝や準優勝を重ねる。2023年からは監督を退き、チームのGMに就任。

また、2023年より、社会人野球の明治安田生命のヘッドコーチに就任した。

社会人後半からプロ前半にかけてはサイドスロー気味のスリークォーターから最速140km/h後半のストレート、鋭いスライダーをはじめとした多彩な変化球を駆使した。また、的を絞らせない投球が持ち味と評されている。現役晩年は球威が衰えていたものの、低めへ制球した変化球を投げ分ける技巧派の投球を見せていた。

大学以降は先発、中継ぎ、抑えなど様々な役割を任されたが、どんな場合でも目の前の打者一人を抑えることに集中しており、打者に負けたくないという闘争心が野球に対するモチベーションとなっていた。その一方で、監督が決める役割の内容には興味が薄く、他の投手が先発や抑えにこだわる気持ちは理解しにくかったという。

若い頃から神戸製鋼を応援していたラグビーファンであり、松尾雄治の従妹にあたる妻とは初デートで日本選手権を観戦したという。開幕投手へのこだわりなどが薄く、投球スタイルも性格もマイペースだと評されていた。 本宮ひろ志の作品を愛読しており、中でも「大ぼら一代」に受けた影響は大きいという。

日本の女子野球界では最も厳しい指導者とも評される一方、経験に裏打ちされた指導には多くの選手から信頼を寄せられている。新谷自身は、女子選手は野球に対する熱意が高いため指導しやすいと感じていたという。また、日本のアマチュア野球は技術面の訓練の比重が大きくなりすぎたという問題点があり、他分野でも通用する人材が育つように野球を通じた人格形成を重視すべきだと述べている。

尚美学園の監督に就任した際には、選手に対して個々のプレーに対する意味を説明して理解を深める事に努めた。他のチームが勝つために努力してくるような強いチームを作り、また同時に指導者を務められる選手を育てる事で日本女子野球を発展させる事を目標としている。練習後には、選手と食事やボウリングなどに行くこともよくある。選手と信頼関係を作る上で大事なのは自身が勉強すること、そしてその先には勝利によって喜びを与えてあげることが重要であり、また選手の自主性はプロと違いアマチュアである教え子にとって野球は大学の生活の一部に過ぎないという考えから、練習は練習、遊びは遊びとメリハリがきく選手に育てていると語っている。

かつては女子プロ野球について、「実力がアマより劣っていては意味がない」と語るなどその実力を疑問視していたが、2012年4月21日の日本代表候補と女子プロ野球選抜との強化試合で、新谷率いる日本代表候補が女子プロ野球選抜に完敗し 、「日本で一番いいチームをつくるのが役目であり、プロ選手の代表入りは当然ある」「一番大事なのはチームワークであり、性格、やる気を含めて判断する」と、史上初となるプロからの日本代表への選出に前向きな姿勢を見せ、結果プロからは5人が選出されることとなった。

各年度の太字はリーグ最高

最優秀防御率:1回 (1994年)

月間MVP:1回 (1994年5月)

初登板:1992年4月7日、対オリックス・ブルーウェーブ1回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点

初セーブ:1992年4月9日、対オリックス・ブルーウェーブ3回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点

初奪三振:1992年4月18日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(千葉マリンスタジアム)、6回裏に愛甲猛から

初先発・初勝利:1992年8月2日、対オリックス・ブルーウェーブ18回戦(西武ライオンズ球場)、6回1/3を3失点(自責点2)

初完投勝利:1992年8月8日、対千葉ロッテマリーンズ18回戦(千葉マリンスタジアム)、9回3失点

初完封勝利:1993年8月7日、対福岡ダイエーホークス16回戦(福岡ドーム)

オールスターゲーム出場:1回 (1994年)

17 (1992年 - 1999年)

60 (2000年 - 2001年)

81 (2002年 - 2004年)

侍プロ野球

HBCファイターズナイター

スカイ・A sports+

FOX SPORTS ジャパン(FOX bs238) 「BASEBALL CENTER」解説者

鎌スタラジオ

^ 広報かぞ 2023年3月号 みんなで戦う埼玉西武ライオンズ・レディース×加須市その2 マイ広報紙

^ 2024年度入退団 埼玉西武ライオンズ・レディースX

^ Number、1991年8月15日 臨時増刊号、P.77

^ 朝日新聞、2003年7月10日付朝刊、佐賀地方面

^ Number、1991年8月15日 臨時増刊号、P.78

^ Number、1991年8月15日 臨時増刊号、P.80

^ asahi.com 第64回全国高校野球選手権大会 佐賀商 対 東農大二

^ asahi.com 第64回全国高校野球選手権大会 津久見 対 佐賀商

^ Number、1991年8月15日 臨時増刊号、P.81

^ 読売新聞、1984年9月20日付朝刊、P.16

^ 読売新聞、1985年6月1日付朝刊、P.16

^ 週刊ベースボール、2008年11月17日号、P.112

^ 週刊ベースボール、2008年11月17日号、P.113

^ 毎日新聞、1991年9月25日付夕刊、P.10

^ 毎日新聞、1991年11月20日付夕刊、P.2

^ 読売新聞、1991年12月5日付朝刊、P.19

^ 週刊ベースボール、2001年11月12日号、P.133

^ NPB公式記録 1992年度日本シリーズ 第5戦

^ NPB公式記録 1992年度日本シリーズ 第6戦

^ 読売新聞、1992年12月6日付朝刊、P.17

^ 読売新聞、1993年8月8日付朝刊、P.20

^ NPB公式記録 1993年度日本シリーズ 第2戦

^ 週刊ベースボール、1994年7月4日号、P.20

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^ 読売新聞、1994年10月11日付夕刊、P.13

^ NPB公式記録 1994年度日本シリーズ 第4戦

^ 朝日新聞、1994年11月1日付朝刊、P.23

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^ 週刊ベースボール、1996年11月11日号、P.68

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^ 読売新聞、1997年4月10日付朝刊、P.19

^ 読売新聞、1997年4月18日付朝刊、P.19

^ 読売新聞、1997年8月26日付朝刊、P.26

^ NPB公式記録 1997年度日本シリーズ 第4戦

^ 読売新聞、1997年10月23日付朝刊、P.23

^ 読売新聞、1998年5月28日付朝刊、P.16

^ 読売新聞、1998年6月21日付朝刊、P.21

^ 読売新聞、1998年10月25日付朝刊、P.19

^ 週刊ベースボール、1998年11月9日号、P.29

^ ベースボールマガジン2022年6月号、横浜ベイスターズ盛衰記、伊原春樹の球界回顧録第62回、追憶は回る右腕とともに。回顧テーマ、横浜ベイスターズ、95頁

^ 読売新聞、1998年12月9日付朝刊、P.19

^ 読売新聞、1999年4月14日付朝刊、P,22

^ 週刊ベースボール、1999年11月1日号、P.36

^ 読売新聞、2000年4月15日付朝刊、P.21

^ 朝日新聞、2001年10月2日付朝刊、P.15

^ 週刊ベースボール、2001年11月12日号、P.132

^ 読売新聞、2001年10月13日付朝刊、P.17

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^ 週刊ベースボール、2006年2月6日号、P.78

^ 毎日新聞、2005年9月20日付朝刊、佐賀地方面

^ Number、2007年1月4日号、P.98

^ オフィシャルサイト プロフィール

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^ 沸き上がれ女子野球 尚美学園大奮闘でW杯3連覇埼玉新聞、2012年9月9日. 2013年1月27日閲覧

^ “西武公認女子チーム発足へ 新谷博氏が監督就任、拠点は埼玉”. サンケイスポーツ (2020年1月16日). 2023年10月26日閲覧。

^ “埼玉西武ライオンズ・レディースが初出場初優勝 女子硬式クラブの頂点に”. full-count (2020年10月31日). 2023年10月26日閲覧。

^ 2023年度スタッフ・選手名簿 埼玉西武ライオンズ・レディース公式X

^ 2023年 明治安田生命硬式野球部名簿”. 明治安田生命硬式野球部. 2023年5月3日閲覧。

^ 読売新聞、1992年8月9日付朝刊、P.11

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^ 週刊ベースボール、1998年7月6日号、P.127

^ 週刊ベースボール、2000年6月5日号、P.19

^ 週刊ベースボール、1996年2月26日号、グラビア

^ 読売新聞、2008年9月17日付朝刊、埼玉地方面

^ 週刊ベースボール、2006年2月6日号、P.79

^ Number、2007年1月4日号、P.101

^ 兵庫スイングスマイリーズオフィシャルブログ Powered 2011年11月06日 頑張れ!日本!! #8新原

^ 「マドンナジャパン」監督・新谷博 2-いま、この人。デイリースポーツonline、2012年7月30日.2013年1月28日閲覧。

^ 谷岡雅樹 『甦る!女子プロ野球‐ヒールをスパイクに履きかえて』 梧桐書院、2010年。ISBN 978-4340140008

^ 女子日本代表候補完敗 女子プロリーグ選抜に2連敗スポニチ Sponichi Annex、2012年4月21日. 2013年2月3日閲覧。

^ 日本代表候補がプロに完敗!W杯V3目指しプロ代表入りへ…女子野球スポーツ報知、2012年4月22日. 2013年1月27日閲覧。

^ 新谷監督プロに脱帽「毎日野球をやっているだけのことはある」 スポニチ Sponichi Annex、2012年4月21日. 2013年1月27日閲覧。

^ 女子野球の日本代表発表 プロから初めて5人選出スポニチ Sponichi Annex、2012年7月22日. 2013年1月27日閲覧。

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50 新谷博

55 田口紗帆

53 幸田正広

58 石平英一

1 磯崎由加里*

3 伊藤優雅

11 館彩花

16 小林美玲

18 里綾実

22 三浦光希

21 英菜々子

2 中村朱里

4 小坂未羽*

5 小櫃莉央*

6 出口彩香

7 山崎まり

14 有馬雅妃*

24 村上奈名

31 豊巻翔子

33 岩見香枝

35 川中もも

64 中川実栞

66 北田茉莉*

86 池内遥香

9 村田凪佐*

12 田上亜純

15 米谷奈月*

17 高田爽矢

19 千葉愛希

20 石垣麻雅乃*

88 清水優花

1950 荒巻淳

1951 柚木進

1952 柚木進

1953 川崎徳次

1954 宅和本司

1955 中川隆

1956 稲尾和久

1957 稲尾和久

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 小野正一

1961 稲尾和久

1962 久保田治

1963 久保征弘

1964 妻島芳郎

1965 三浦清弘

1966 稲尾和久

1967 足立光宏

1968 皆川睦男

1969 木樽正明

1970 佐藤道郎

1971 山田久志

1972 清俊彦

1973 米田哲也

1974 佐藤道郎

1975 村田兆治

1976 村田兆治

1977 山田久志

1978 鈴木啓示

1979 山口哲治

1980 木田勇

1981 岡部憲章

1982 高橋里志

1983 東尾修

1984 今井雄太郎

1985 工藤公康

1986 佐藤義則

1987 工藤公康

1988 河野博文

1989 村田兆治

1990 野茂英雄

1991 渡辺智男

1992 赤堀元之

1993 工藤公康

1994 新谷博

1995 伊良部秀輝

1996 伊良部秀輝

1997 小宮山悟

1998 金村暁

1999 工藤公康

2000 戎信行

2001 N.ミンチー

2002 金田政彦

2003 斉藤和巳, 松坂大輔

2004 松坂大輔

2005 杉内俊哉

2006 斉藤和巳

2007 成瀬善久

2008 岩隈久志

2009 ダルビッシュ有

2010 ダルビッシュ有

2011 田中将大

2012 吉川光夫

2013 田中将大

2014 金子千尋

2015 大谷翔平

2016 石川歩

2017 菊池雄星

2018 岸孝之

2019 山本由伸

2020 千賀滉大

2021 山本由伸

2022 山本由伸

2023 山本由伸

2024 L.モイネロ

1950 木下勇

1951 武末悉昌

1952 川崎徳次

1953 川崎徳次

1954 太田正男

1955 長坂衛

1956 河村久文

1957 島原幸雄

1958 河村久文

1959 島原幸雄

1960 稲尾和久

1961 稲尾和久

1962 稲尾和久

1963 稲尾和久

1964 田中勉

1965 田中勉

1966 田中勉

1967 田中勉

1968 池永正明

1969 与田順欣

1970 池永正明

1971 高橋明

1972 高橋明

1973 加藤初

1974 三浦清弘

1975 東尾修

1976 東尾修

1977 東尾修

1978 山下律夫

1979 東尾修

1980 東尾修

1981 東尾修

1982 森繁和

1983 高橋直樹

1984 東尾修

1985 東尾修

1986 東尾修

1987 東尾修

1988 工藤公康

1989 工藤公康

1990 渡辺久信

1991 渡辺久信

1992 工藤公康

1993 渡辺久信

1994 郭泰源

1995 郭泰源

1996 新谷博

1997 西口文也

1998 西口文也

1999 西口文也

2000 松坂大輔

2001 松坂大輔

2002 松坂大輔

2003 松坂大輔

2004 松坂大輔

2005 松坂大輔

2006 西口文也

2007 西口文也

2008 涌井秀章

2009 涌井秀章

2010 涌井秀章

2011 涌井秀章

2012 涌井秀章

2013 岸孝之

2014 岸孝之

2015 牧田和久

2016 菊池雄星

2017 菊池雄星

2018 菊池雄星

2019 多和田真三郎

2020 Z.ニール

2021 髙橋光成

2022 髙橋光成

2023 髙橋光成

2024 今井達也

1位:竹下潤

2位:新谷博

3位:熊澤当緒琉

4位:松田和哉

5位:神野信也

6位:千原淳弘

7位:渡辺孝男

8位:日月鉄二

9位:蒲谷和茂

1位:荒木大輔

2位:新谷博(入団拒否)

3位:阿井英二郎

4位:広瀬哲朗(入団拒否)

5位:上地和彦

6位:西沢浩一

30 山中正竹

31 野端啓夫

32 荒井信久

11 新谷博

16 西山一宇

17 若田部健一

18 渡部勝美

19 杉浦正則

20 小桧山雅仁

9 三輪隆

10 高見泰範

1 大島公一

3 若林重喜

4 西正文

6 小島啓民

7 十河章浩

8 丹波健二

24 四方田勇一

12 坂口裕之

23 町田公二郎

25 佐藤真一

26 中本浩

28 川畑伸一郎

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日本の野球選手

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出光 元(いでみつ げん)
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