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大島康徳の情報 (おおしまやすのり)
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【12月4日】今日誕生日の芸能人・有名人

大島康徳の情報(おおしまやすのり) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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大島 康徳さんについて調べます

■名前・氏名
大島 康徳
(読み:おおしま やすのり)
■職業
野球選手
■大島康徳の誕生日・生年月日
1950年10月16日 (年齢2021年没)
寅年(とら年)、天秤座(てんびん座)
■出身地・都道府県
大分出身

(昭和25年)1950年生まれの人の年齢早見表

大島康徳と同じ1950年生まれの有名人・芸能人

大島康徳と同じ10月16日生まれの有名人・芸能人

大島康徳と同じ出身地大分県生まれの有名人・芸能人


大島康徳と関係のある人

角光雄: 1990年6月6日の大阪近鉄バファローズ戦(東京ドーム)ではラルフ・ブライアントにドームの天井スピーカーを直撃する推定飛距離170mの本塁打を打たれているが、この試合前に同僚の大島康徳が「打球が天井のスピーカーに当たったら、特別ルールで認定ホームランらしい。


門田博光: 1990年、9月9日の対西武戦(西宮球場)では2点を追う9回一死満塁の打席で鹿取義隆から逆転サヨナラ満塁本塁打(42歳6か月は当時の最年長満塁本塁打だったが、1994年5月4日に43歳6か月で記録した大島康徳に更新された)、翌10日の対西武戦(西宮球場)でも4-4の同点で迎えた9回一死無走者の打席で渡辺智男から2日連続及びシーズン30号本塁打となるサヨナラ本塁打を放った。


金村曉: 故障がちだったため監督の大島康徳が完投させず起用した結果、故障なく初めて1年ローテーションを守りきり、規定投球回にも到達という最低限の役割を果たしたものの7勝13敗、防御率4.89と不振だった。


上田武司: 7月11日の中日戦(後楽園)では前半から巨人先発の堀内恒夫、中日先発の川内八洲男が好投し0-0で迎えた6回裏に高田繁の適時二塁打で1点が入ってから試合は動き、7回表には大島康徳の適時打で同点、さらに木俣達彦の適時打で逆転、上田の悪送球でもう1点失って1-3とリードを許すが、その裏に上田がミスを取り返す左中間へのソロ本塁打で1点差に迫り、土壇場の9回裏1死3塁で打席に立った上田が川内をリリーフした伊藤久敏から左翼へサヨナラ2点本塁打を放つ。


本多逸郎: スカウト時代は木俣達彦と大島康徳を担当した。


古屋英夫: 1988年には中日から大島康徳が移籍して五番打者となり、古屋は六番を務めた。


田中富生: 1988年に大宮龍男と共に大島康徳、曽田康二とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍。


小林繁: 6月25日の中日ドラゴンズ戦で、それまで「カモ」にしていた中日の大島康徳に「自信を持って投げた」インコースのシュートをホームランされる。


ケン=モッカ: 三塁守備は失策の多さと守備範囲の狭さから不安定だったものの、打撃では3割を超える打率を3回残し、円熟期の田尾安志・平野謙・谷沢健一・大島康徳・宇野勝・中尾孝義らとともに、強竜打線と呼ばれる打線の一員として活躍する。


江尻慎太郎: 2001年12月21日の日本ハムドラフト入団会見で、記者からの「大島康徳監督(当時)にはどのような印象を持っていますか?」という質問に、「小学生のころは、ファミコンで、チャンスに強いバッターとして使わせて頂いておりました」と発言し、大島を苦笑いさせた。


嶋田信敏: 2000年に大島康徳監督の要請で日本ハムのコーチへ復帰。


大島雅斗: 父は元中日ドラゴンズ・日本ハムファイターズ外野手の大島康徳


角中勝也: 大島康徳からは「コンパクトな構えからの巧みなバットコントロールが際立つ巧打者」と評されている。


大宮龍男: 1988年に大島康徳・曽田康二との交換トレードで田中富生と共に中日ドラゴンズへ移籍すると、中村武志の2番手捕手として起用される。


實松一成: 大島康徳監督1年目の2000年に一軍昇格し、フレッシュオールスターゲームにも出場した。


森本潔: 1977年は開幕から三塁手として先発するが、その後は大島康徳の成長もあって控えに回る。


福家雅明: 初奪三振:同上、7回裏に大島康徳から


大田卓司: 同学年の大島康徳(中津工業)、詫摩和文(鹿児島照国高校)と共に「九州三羽がらす」とも称された。


牛島和彦: 1999年オフに中日時代の同僚だった大島康徳が日本ハムファイターズの監督に就任、大島から一軍投手コーチの要請を受けるが球団が出した条件と合わず就任に至らず。


島田芳明: 初出場:1983年4月13日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(横浜スタジアム)、7回表に大島康徳の代走として出場


森繁和: 2000年シーズンからは大島康徳の招聘で日本ハムファイターズ一軍投手コーチに就任。


渡辺孝博: 初奪三振:同上、9回表に大島康徳から


角盈男: 1990年6月6日の大阪近鉄バファローズ戦(東京ドーム)ではラルフ・ブライアントにドームの天井スピーカーを直撃する推定飛距離170mの本塁打を打たれているが、この試合前に同僚の大島康徳が「打球が天井のスピーカーに当たったら、特別ルールで認定ホームランらしい。


正田樹: 2000年は監督の大島康徳に一軍で起用され、同年のフレッシュオールスターゲームでは、1歳上の同僚實松一成と共にイースタン・リーグ選抜の先発バッテリーを務め、ウエスタン・リーグ選抜の先発投手で同じ1位指名の高卒新人左腕河内貴哉と投げ合った。


曽田康二: 1987年12月、大島康徳と共に、大宮龍男・田中富生との2対2の交換トレードで日本ハムファイターズに移籍。


土橋正幸: (大島康徳


詫摩和文: 夏も県予選で敗れ甲子園には届かなかったが、超高校級の強打者として「九州三羽烏」(大田、大島康徳と共に)「中西二世」と呼ばれ注目を集める。


川又米利: 町田公二郎に次ぐ代打本塁打16本(大島康徳に並ぶ)の記録を持つ。


高井保弘: 1974年に代打本塁打6本を記録し、当時のシーズン最多代打本塁打数を更新するが、後に大島康徳によって記録を更新される。


中利夫: 1972年には大島康徳が開幕から中堅手に定着し出場機会が減少、同年限りで引退した。


大島康徳の情報まとめ

もしもしロボ

大島 康徳(おおしま やすのり)さんの誕生日は1950年10月16日です。大分出身の野球選手のようです。

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引退、家族、事故、テレビ、ドラマ、現在、結婚、病気、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2021年に亡くなられているようです。

大島康徳のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

大島 康徳(おおしま やすのり、1950年〈昭和25年〉10月16日 - 2021年〈令和3年〉6月30日)は、日本のプロ野球選手(内野手、外野手)、プロ野球監督、野球解説者。

現役時代は中日ドラゴンズ(1969年 - 1987年在籍)で強打者として活躍し、1974年・1982年にはチームのセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に貢献。また、1983年には本塁打王のタイトルを獲得、現役生活の終盤となる1988年に日本ハムファイターズへトレードで移籍すると、1990年には通算2000安打を達成。プロ入り26年目の1994年に44歳で現役を引退し、2000年 - 2002年には日本ハムの監督を務めている。

次男はお笑い芸人の大島雅斗。

福岡県生まれの大分県中津市育ち。父は国鉄職員、母、兄、姉の5人家族、高校入学まで野球経験はない。今津中学時代はテニスやバレーボールをやっており、バレーボールでは大分県選抜チームのレギュラーだった。また、相撲が強かったため相撲部に助っ人で参加することもあった。相撲の大会を観戦に来ていた中津工業高校の小林監督が惚れ込み、本人は当初、乗り気でなかったもののスパイクとグローブをプレゼントされたのをきっかけに同校に入学。野球部ではエース、4番打者として活躍し、同期の春日一平とバッテリーを組んだ。1967年秋季九州大会大分県大会準決勝に進むが、同年春のセンバツ優勝校で、優勝メンバーにも名を連ねていた大田卓司を擁する津久見高に敗退。翌1968年春季九州大会大分県大会も準決勝で高田高に敗れる。同年夏も大分大会で敗退し甲子園には届かなかった。この大分大会の2回戦・大分商業戦で左中間130 mの本塁打を打った。この試合を中日ドラゴンズのスカウトが視察に来ていたため、中日入団後に打者転向のきっかけとなった。また大田、詫摩和文(鹿児島照国高校)と共に「九州三羽ガラス」とも称された。

その後中日ドラゴンズ(少年時代は阪神タイガースが贔屓のチームだったという)の入団テストで、同球団の二軍監督を務めていた本多逸郎の目に留まり合格、1968年秋のプロ野球ドラフト会議で3位指名され入団した。投手として入団したが、入団間もない投球練習でコーチから一球で「投手失格」を言い渡されたが、その一方で当時の一軍監督だった水原茂が素質を見抜いて打者転向させた。大島を発掘した本多は彼を将来の主軸と見込み、1年目から4番打者として起用する。

1971年6月に一軍初出場。直後に一塁手のジョン・ミラーが故障し、同年は一塁手、中堅手として64試合に先発出場を果たす。またジュニアオールスターゲームではMVPを獲得した。

1972年は開幕から中堅手、右翼手として起用され、規定打席(29位、打率.230)にも到達。しかしまだ荒削りで完全なレギュラー定着には至らなかった。

1974年には三塁手、中堅手、一塁手を兼ねチームのセントラル・リーグ優勝に貢献。同年の最終戦は長嶋茂雄の引退試合で、中日の選手代表として花束を渡している。ロッテ・オリオンズとの日本シリーズでは5試合に先発出場。最終第6戦は先発を外れるが、6回に村田兆治から同点本塁打を打ち意地を見せた。

1976年、代打起用で勝負強さを発揮しシーズン代打本塁打7本の日本記録を樹立。

1977年には三塁手の定位置を獲得し、打率.333(4位)、27本塁打の好成績を残す。

1979年には全130試合で4番打者に座り、30本の大台を越える36本塁打、打率.317(リーグ3位)を記録。また、リーグ最多となる159安打を放ち、打点もキャリアで最多(唯一の100打点超え)となる103を数えた。

1980年4月には交通事故で重傷を負い欠場を余儀なくされるが、1か月で復帰した。

1982年は左翼手がメインとなり、5番打者として優勝に貢献し、西武ライオンズとの日本シリーズは5試合連続左翼手として先発。第5戦では杉本正から5回に先制本塁打、最終第6戦では東尾修に三振を喫し最後の打者になっている。

1983年に再び36本塁打を放ち、山本浩二と並んで本塁打王に輝く。

輝かしい打撃成績を残したにもかかわらず代打起用が多かったのは、バッティングの調子の波が激しすぎた他、守備に難があったためである。殊勲打を打っても失策でふいにしてしまうことが多々あった。

1985年に西武ライオンズからトレード要請があったが、マスコミに漏れてしまい破談となる。しかし1987年オフ、監督の星野仙一のチーム改革により、田中富生・大宮龍男との交換トレードで日本ハムファイターズへ曽田康二とともに移籍。星野の意向で球団から功労金をもらっている。すでに37歳であったが、日本ハムでは一塁手としての起用が多く、チームの得点力不足もあって主軸として活躍し、1988年はチーム最多の63打点、1989年7月8日の近鉄バファローズ戦では阿波野秀幸からサヨナラ適時打、8月13日の近鉄戦で佐々木修から本塁打を打ち、350本塁打を達成。1990年8月21日の対オリックス・ブレーブス戦で佐藤義則から適時二塁打を打ち2000安打を達成。39歳10か月での達成は当時最年長記録で、到達までに要した試合数2290も当時最長記録だった。なお、1・2年目ともに出場試合数ゼロでの達成は史上初である。日本ハムでは主に一塁手としてして活躍し、41歳でも年間規定打席到達するなど健在をアピールしていたが、1992年に監督に新任した土橋正幸の元では自身の不振も重なり一塁のレギュラーは中島輝士に代わり14年ぶりに100試合を切った。翌1993年には監督が大沢啓二に代わり試合数は前年を半分近く下回ったものの代打の切り札として活躍した。

1994年、43歳にしてこの年も代打起用がメインだったとはいえ、最終的には打率.323・21安打(2本塁打)・22打点の成績を残しており、自身も「43歳とあってスイングスピードは当然落ちていましたが、それをカバーして余りある技術を手にしていました。与えられた打席でしっかり結果を出したと自負しているシーズンでもあります。」と述べ、「あと2年は出来るな」と思っていた。しかし球団から「来年は契約しません。御苦労様でした。」と戦力外通告をされてしまう。その時は「分かった」とだけ言って引き下がるも、後にこの時を回想し「実際、体はボロボロでした。プロ入った時から必要ないと言われたらパッとやめようと思っていましたし、逆に必要とされるなら給料が下がろうが続けようと思ってましたが、球団の事情は想像がつきました。この年、最下位になったことで大沢啓二監督が退任し、翌年から阪急で黄金時代を築いた上田利治さんが監督になることも決まっていました。こうなると僕にも分かるんですが新監督は自分の色でやりたいんですよね。これはもう仕方ありません。勝てなかったら責任取るのは監督で、だったら俺みたいな面倒くさそうなヤツは辞めてもらい、自分の色でチームをつくり変えたいと思って当然です。」と述べている。

球団からは「引退試合は監督を退任する大沢、柴田保光と一緒にやって欲しい」と言われたものの、大島は球団と交渉し単独で行うことにした。9月28日のロッテ戦(東京ドーム)を引退試合に選び、6番・指名打者として先発出場。伊良部秀輝から2安打を放ち、試合終了後には胴上げされた。当時は44歳の誕生日を目前に控えており、高卒入団では野村克也に次ぐ長寿選手と言われていた。現役生活26年は山本昌(32年)、工藤公康・中嶋聡(29年)、野村・谷繁元信(27年)に次ぐ記録。通算代打本塁打20本は歴代2位。満塁本塁打は8本打っており、最年長満塁本塁打(43歳6か月)の記録を持っている(門田博光の42歳6か月を更新、1994年5月4日西武戦、8回表2点リードされている場面で代打で登場し新谷博から)。当時年齢のことに対して記者に質問されたことが多かったため「年寄り扱いするな」と記者に対して怒ったことがある。後に「プロ入り9年目で初めて100安打以上を打った遅咲きの男が、2000安打どころか、最後は2204安打までいってます。なかなかどうして、大したものですよね。」と現役時代を振り返って自らを評価した。引退勧告の時球団からコーチの要請があったが、断っている。

ベストナインは1度も受賞していない。通算2000安打以上を記録しながらベストナイン選出がないのは、大島と松原誠の2人だけ。1979年には一塁手として打撃3部門全てにおいて王貞治を上回る成績を挙げたにもかかわらず王に持っていかれ、1983年には外野手として本塁打王を獲得したのに受賞できなかった(受賞者は本塁打王を分け合った山本浩二、盗塁王の松本匡史、最多安打の田尾安志)。

1994年10月11日には川崎球場にて『愛ラブSMAP!』(テレビ東京)のコーナー「僕たちのベースボール・ストーリー」に出演。その当時中居を除き、野球経験がほとんどなく、素人に等しかったSMAPに、素振りの手本からトス打撃、フリー打撃までじっくり教えるなど非常に熱心であったため、SMAPは驚いたという。これがきっかけで、大島はSMAPと親交が生まれた。番組などに出演することは逝去時まで無かったものの、ファンであったことや、メンバーが出演したドラマや番組の感想をブログで語り、評論していた。特にブログでは、大の野球ファンである中居正広や、大ファンと公言していた木村拓哉が話題に上ることが多かった。

NHK解説者・東京中日スポーツ評論家(1995年 - 1999年)を経て、2000年から2002年まで日本ハムの監督を務めた。投手コーチに森繁和、バッテリーコーチに日本ハム時代の同僚で大島がキャッチャーとして超一流と評価していた田村藤夫を招聘し、中日時代同僚だった牛島和彦、平野謙も呼びたかったが球団の出した条件と合わず、球団から「この人をお願いします」と言われたコーチもいた。嶋田信敏も大島の声掛けでコーチに就いた。2002年には球団の主導人事で大島と日本ハム時代同僚だった高代延博がヘッド兼内野守備走塁コーチに就任している。1年目は打線が活発で打率、本塁打、得点、盗塁でリーグトップ、さらに小笠原道大、四番シャーマン・オバンドーが「3割、30本塁打、30本塁打、100打点」をマークする活躍ぶり。しかし投手陣がリーグワーストの5位の4.70で3位がやっとだった。2年目の2001年は補強ほとんど無し・怪我人続出・先発ローテーションが崩壊し、オバンドー、ナイジェル・ウィルソンら負傷者が続出しビッグバン打線沈黙。小笠原が2年連続最多安打も7年ぶりの最下位となった。3年目は5月までAクラスに食らいついていたが徐々に失速。5位に終わるのも小笠原が初の首位打者、3年目の正田樹が新人王と明るい話題もあったが同年限りで解任された。怪我人続出ということもあり、当時若手の森本稀哲と田中賢介を起用した。

監督1年目の2000年に投手交代のためにマウンドへ行ったものの、選手と話過ぎて審判に交代を告げるのを忘れてしまい、仕方なくバテバテの高橋憲幸を続投させたことがある。高橋は火事場の馬鹿力を発揮して2者連続三振で危機を乗り切った。 監督としては熱血漢で知られ、瞬間湯沸かし器とまで言われたが、監督時代には巨人監督の長嶋茂雄を意識した所作および指導方法が見られた。

田中幸雄は「大島さんの監督就任は嬉しかったですね。一緒にプレーした先輩ですし私は大島さんをお手本にしてきましたから。また一緒に野球ができる、勝って大島さんを喜ばせたいという気持ちは強かったです。負けず嫌いで喜怒哀楽がかなり表に出ていました。だから若手の中には「怖い監督」と思った選手もいたかもしれません。」と述べている。

2006年には第1回WBC日本代表打撃コーチを務め、準決勝ではイチローを3番打者にするなどの打順変更を王貞治監督に進言し、初代世界一に貢献。

プロ野球マスターズリーグには名古屋80D'sersの選手として在籍。背番号は中日時代の5。日本プロ野球名球会が主催する野球教室で着るユニフォームの背番号は、2000安打を達成して名球会入りした日本ハム時代の11である。2010年にファイターズの始球式をした際は2010年仕様の背番号11のユニフォームで登場した。

2003年から逝去までは再びNHK解説者・東京中日スポーツ評論家として活動。解説者としては、極めて明朗快活であり、選手を貶さない解説が評判であった。

2017年2月7日、自身の公式ブログで「2016年10月にステージ4の大腸がんになり手術を受けていたこと、肝臓に転移していること」を発表した。なお、治療はするものの重く受け止めず、今まで通りの生活をしたいと述べている。「父、母でがんで亡くなり、兄は白血病で28歳に亡くなっている大島家はがんの家系なんでしょうね。」と述べ、がん発症後も喫煙は続け、酒は飲めないことはないが禁酒していた。なお、妻が大島の死後にブログで明かしたところによれば、既に2016年の手術前の精密検査の段階で妻と長男には医師からの見立てでは大島の余命は概ね2~3か月であることを宣告されていた。しかし、肝臓に転移はしていたものの、手術で大腸癌の癌細胞を全て切除することに成功し、尚且つ早期に治療に取り掛かったことにより予後が非常に安定しており、これには大島の主治医も大いに驚いた。一時期は寛解と呼べるレベルにまで体調が回復したことにより、医者の見立てよりも遥かに長く、余命宣告から4年半以上生きることとなる。因みに、癌であることを公表した日は、当初の余命宣告上で、最も長く生きてもこの頃が余命と言われていた頃であった。

2018年5月7日、自らの闘病生活などを書き記した著書『がんでも人生フルスイング 「中高年ガン」と共に生きる”患者と家族”の教科書』(双葉社)を上梓した。この頃は大島の体調は非常に良好であり、寛解したと言える状態にまで回復していた。

2021年6月30日、大腸がんのため、東京都内の病院で死去。70歳没。6月上旬に腹水を抜く措置を受けるために入院し、退院後の6月12日にNHK BS1のMLB中継・ロサンゼルス・エンゼルス対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦を解説したがこれが生前最後の仕事となった。その後、体調の悪化が見られたためホスピスに入院して緩和医療を受けており、ブログのエントリーは6月29日を最後に更新が途絶えていた。葬儀は親族による密葬で7月4日に執り行われた。大島の死去が公表された7月5日には、自身が春頃に記した言葉が妻によってブログに掲載された。なお、名球会の名誉会員で野球殿堂入りを果たしていないのは、2023年現在、大島のみである。

長打力と勝負強さを兼ね備えた強打者。体全体を使い、力強くボールを叩く豪快なフルスイングが特徴であった。1976年に代打でシーズン7本塁打のプロ野球記録を樹立すると、翌1977年からは三塁手のレギュラーを担い、キャリア初となる打率.333、27本塁打を記録。1982年からは外野手に転向。翌1983年には36本塁打で本塁打王に輝いた。日本ハム時代の1990年には通算2000安打を達成している。

打撃のコツとして「配球を読んでヤマを張ること」、「積極的にファーストストライクを狙うこと」以上2つの思い切りの良さを挙げており、大島は「目の付け所をどこにするか。野球を難しく考えなくて良い」と語っている。また、「バットコントロールにこだわり過ぎては駄目。まずはフルスイングして(ボールを)遠くに飛ばすこと。そこから工夫すれば良い」と語っている。

中日時代は長打力が魅力の打撃と明るい人柄、そして同球団の応援歌「燃えよドラゴンズ!」の歌詞のフレーズで、ファンから「一発長打の大島くん」と愛された。

日本ハム選手時代に付けていた背番号「11」は自身と夫人の結婚記念日から取ったものである。

中日時代のコーチで名球会でも一緒になった稲尾和久とは同郷で、「ヤス」と呼ばれては可愛がられていたという。

恋愛にあまりに興味がなかったことや、妙な部分で神経質なところがあり、私生活では当時としては珍しく、30歳代半ばまで独身を通していた(大島の実家が大島がプロ入り前に早くに父・兄を亡くし大島がプロ入り後は長らく母の扶養をしていた)が、郭源治の紹介で10歳年下の客室乗務員をしていた女性と結婚。恋愛結婚というよりも、顔を合わせてすぐに結婚したという感じであった。息子が2人おり、そのうちの1人がNSC大阪37期卒・お笑いコンビ・セパ(2019年5月から)の大島雅斗(元・ケンモッカ、ばくぼん)。

1984年5月5日の対大洋戦(横浜)で、3回表に一塁走者となった時(一死満塁)、打者の宇野勝がライトにフライを打ち上げたが、ライトの高木由一がこれを落球。大島はハーフウェーで打球の行方を追っていたが、打者走者の宇野が大島を追い越してアウトになった。これは「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」などで頻繁に取り上げられた。なお、みのもんたのナレーションで「走ってなかったんですか?」とされているが、フライの行方を見守って走らなかった大島の判断が普通であり、前の走者を確認しなかった宇野のミスとされている。一方の大島自身も、同月19日の対ヤクルト戦(ナゴヤ)5回裏無死一・二塁の場面でレフトにフライを打ち上げたが、レフトの釘谷肇が落球したところ一塁走者の谷沢健一を追い越したという宇野と同じミスを犯している。

1985年5月4日の対阪神戦(甲子園)で、中日3点リードの4回裏無死に佐野仙好のあわや逆転満塁本塁打という大飛球をラッキーゾーンの金網に激突しながら後ろ向きの姿勢でキャッチするという“超美技”を披露。失点を1に喰い止めた。

日本ハムの監督に就任が決定した際に激励会が開かれ、憧れの長嶋茂雄も出席した。長嶋はスピーチで大島とのエピソードとして、自身の引退試合で対戦相手だった中日の選手代表で大島が真っ赤なバラの花束を贈ってくれたことを話し、大島はそれを覚えていてくれたことに大感激した。しかし、実際に大島が贈呈したのは白ユリであった。

日本ハム監督時代の2001年オフ、当時チームの中心選手であった片岡篤史がFA権を行使。片岡は日に日に阪神タイガースに移籍したいという気持ちが芽生えていた反面、監督の大島やチームメイトを「裏切ってしまうことにならないか」という気持ちもあり、大島に相談した。大島は片岡に対し、「寂しいけれど、他のチームから来て欲しいと言って貰える選手になれたんだから、素晴らしいことじゃないか。(阪神で)頑張ってこい」と伝えて後押しし、片岡は移籍を決断した。大島はこの時を振り返り、「交換トレードじゃないし、戦力的には3番打者・三塁手がそのまま抜けるわけだから痛かった。球団には、お金が入ってくるんでしょうが、別に僕らの給料が上がるわけでもないしね。でも、僕はあいつを引き留めなかった。自分で選んだことだし、それを僕がとやかく言う必要はないと思ったから」と語っている。

2006年の第1回WBCで優勝した際に「昔からオリンピックに出場するのが夢だったんだ」と金メダルを首に掛けられた瞬間から人目を憚らず号泣していた。

2015年2月26日放送のフジテレビの番組「アウト×デラックス」に、息子でNSC大阪37期生(当時)の大島雅斗が出演した際、息子から電話で「NMB48のCDを借金して買っている」と告白されて「もし本当だったら殺すよ?」と激怒した。しかし3月5日放送分では大島自身も番組に出演して息子と話し合い、「(NMB48は)難波にAKB48の仲間みたいのがいて」と説明されると、「AKB48はお父さんも知ってるよ。あっちゃん可愛いよ」と前田敦子ファンであることを告白。自身が大島姓なのに(大島優子ではなく)前田推しであることでアウトを宣告された。さらに今現役選手だったらテーマソングは何にするかと聞かれ、「ヘビーローテーション」と答えようとして「バイブレーション」と答えている。

2018年、牛島和彦との対談では、野手は誤魔化しがきくという持論から、「肉離れや骨折も関係なかった」と笑っていた一方、自身が引退後に病魔と闘った経験から「いまの俺は病気をしたから分かるけど」と牛島が現役末期に怪我に苦しんでいたことを理解していた。大島は同対談で現役時代を振り返り、牛島とは対照的に自分は人当たりが悪く社交性が低かったと話していた。

本人の公式ブログでは野球のことから家族のこと、ドラマの感想やファンであるSMAPの話題まで内容が幅広い。ブログでの一人称は「大島」。

1994年5月に約5000万円をかけて一戸建てを新築したものの、欠陥住宅で20年以上苦しんでいたことを公表した。施工主を相手に損害賠償など約6800万円の支払いを請求する訴訟を起こしたが、判決は補修費用など約300万円の支払い命令にとどまった。

大島は晩年「人生はフルスイングできたかどうか。仕事でも何でも、思い切りやりきることができたなら、それでいいと思う。俺は振った。振り切った人生だったよ」と語っている。

現役時代・監督時代あわせて通算5回(中日1回、日本ハム1回、日本ハム監督3回)の退場処分の経験がある。

1974年5月14日のヤクルト戦では益川満育と乱闘により益川と共に退場。1991年8月6日のダイエー戦では9回表二死にハーフスイングを三振と判定されたことに激高し、塁審の良川昌美を小突き退場となった。山崎夏生から2度退場処分を受けている。そのうちの一つは2000年6月20日の東京ドームで行われたロッテ戦で7回にロッテ・大塚明が左翼ポール際に大飛球を放った、三塁塁審の山崎は「ポールに当たってファウル側のスタンドに落ちた」と本塁打の判定。大島はベンチを飛び出し「ファウルだろう!」と猛抗議、抗議時間は21分に及び、山崎は「ここがリミットだ」と遅延行為で退場を宣告。2002年3月31日のダイエー戦では良川一塁塁審に暴力行為を行ったとして退場処分となり2試合出場停止(4月3日、4日のオリックス戦)となった。監督代行は一軍ヘッド兼内野守備走塁コーチの高代延博が務めた。

各年度の太字はリーグ最高

2000年は135試合制、2001年と2002年は140試合制。

2002年、4月3日・4日のオリックス戦の出場停止2試合(2勝0敗)は通算成績に含まない。監督代行は高代延博

本塁打王:1回(1983年)

最多安打:1回(1979年) ※当時連盟表彰なし

ジュニアオールスターゲームMVP:1回(1971年)

月間MVP:1回(1984年6月)

初出場・初先発出場:1971年6月17日、対ヤクルトアトムズ8回戦(中日スタヂアム)、7番・三塁手で先発出場

初安打:同上、5回裏に会田照夫から

初本塁打・初打点:同上、9回裏に石岡康三から左越3ラン

100本塁打:1978年9月27日、対阪神タイガース26回戦(ナゴヤ球場)、4回裏に宮田典計から左中間へソロ ※史上98人目

1000試合出場:1980年4月12日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、4番・一塁手で先発出場 ※史上214人目

150本塁打:1980年8月30日、対阪神タイガース19回戦(ナゴヤ球場)、9回裏に小林繁から右中間へ同点2ラン ※史上59人目

1000安打:1981年9月11日、対広島東洋カープ23回戦(広島市民球場)、3回表に北別府学から ※史上121人目

200本塁打:1983年4月29日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、6回表に宮城弘明からソロ ※史上39人目

1500試合出場:1984年4月22日、対読売ジャイアンツ6回戦(後楽園球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上77人目

250本塁打:1984年6月21日、対ヤクルトスワローズ13回戦(ナゴヤ球場)、5回裏に梶間健一から左越2ラン ※史上22人目

1000三振:1985年10月2日、対ヤクルトスワローズ25回戦(ナゴヤ球場)、1回裏に荒木大輔から ※史上10人目

1500安打:1986年4月16日、対読売ジャイアンツ4回戦(後楽園球場)、4回表に加藤初から ※史上50人目

300本塁打:1986年8月15日、対阪神タイガース20回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に中西清起から3ラン ※史上18人目

2000試合出場:1988年6月28日、対近鉄バファローズ11回戦(東京ドーム)、5番・一塁手で先発出場 ※史上25人目

3000塁打:1988年7月21日、対阪急ブレーブス15回戦(阪急西宮球場)、5回表に佐藤義則から左中間へ2点適時二塁打 ※史上29人目

1000打点:1988年9月23日、対ロッテオリオンズ24回戦(東京ドーム)、4回裏に園川一美から右越ソロ ※史上20人目

350本塁打:1989年8月13日、対近鉄バファローズ21回戦(東京ドーム)、3回裏に佐々木修から左越ソロ ※史上13人目

2000安打:1990年8月21日、対オリックス・ブレーブス19回戦(阪急西宮球場)、6回表に佐藤義則から中前安打 ※史上25人目

300二塁打:1990年9月9日、対近鉄バファローズ26回戦(宇都宮清原球場)、6回裏に藤王康晴の代打で出場、石本貴昭から右中間適時二塁打 ※史上29人目

1000得点:1991年5月28日、対ロッテオリオンズ9回戦(川崎球場)、1回表にマット・ウィンタースの2ランで生還 ※史上22人目

3500塁打:1991年6月1日、対近鉄バファローズ4回戦(水戸市民球場)、1回裏に小野和義から左前安打 ※史上17人目

2500試合出場:1992年8月20日、対西武ライオンズ18回戦(東京ドーム)、7番・一塁手で先発出場 ※史上6人目

1イニング2本塁打:2回 ※史上7人目(複数回達成は史上初)

    1972年8月2日、対ヤクルトアトムズ18回戦(明治神宮野球場)、2回表先頭で渡辺孝博から左越ソロ、二死満塁で井原慎一朗から中越満塁本塁打 ※史上7度目

    1977年8月9日、対読売ジャイアンツ15回戦(ナゴヤ球場)、6回裏先頭でクライド・ライトから右中間ソロ、二死満塁で小俣進から左中間へ満塁本塁打 ※史上8度目

    5試合連続本塁打(1979年10月8日 - 10月17日)

    最年長満塁本塁打:43歳6か月(1994年5月4日)

    オールスターゲーム出場:4回(1977年、1979年、1983年、1984年)

    シーズン最多代打本塁打:7(1976年)

    40(1969年 - 1976年)

    5(1977年 - 1987年)

    11(1988年 - 1994年)

    77(2000年 - 2002年)

    87(2006年WBC)

    NHKプロ野球

    メジャーリーグ中継 (NHK)

    NHKニュースおはよう日本 - 火曜日7時台スポーツコーナー「大島がズバリ!」解説

    Sportsプラス(不定期ゲスト)

    愛ラブSMAP!(テレビ東京)-「僕たちのベースボール・ストーリー」

    大島康徳の負くっか!!魂(週刊ベースボール)

    この道(中日新聞・東京新聞)

    ぐんぐんうまくなる!バッティング(2007年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4583100531)

    がんでも人生フルスイング 「中高年ガン」と共に生きる”患者と家族”の教科書(2018年、双葉社、ISBN 978-4575313550)

    振りきった、生ききった 「一発長打の大島くん」の負くっか人生(2021年、中日新聞社、ISBN 978-4806207849 , 東京新聞、ISBN 978-4808310646)

    小・中学生のためのワンコイン野球教室 2 バッティング編(2006年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4583613833)

    小・中学生のための野球上達トラの巻 ピッチング編&バッティング編(2007年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4583614465) - 川口和久と共監修

    決定版! 小・中学生のための野球上達法 1 打撃編&守備編(2008年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4583615325) - 高木豊、簑田浩二と共監修

    連続写真で徹底解析 プロ野球究極のテクニック 打撃編(2012年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4583619125) - 篠塚和典、小早川毅彦と共解説

    熱血大島ぶちかませ(1978年2月、作詞・作曲:手塚ともかず、編曲:いしだかつのり、歌:ザ・ドーナッツ)

    熱血ファイターズの歌(2001年・2002年、作詞・作曲:山本正之、歌:INDEPENDENCE)

    ^ 「スポーツカードマガジン」(ベースボール・マガジン社)のインタビューでは「若い頃は遊びの方が楽しく4打席立つと集中力が続かなかった」という理由を語っている。

    ^ これは当時の西武が、田淵幸一、山崎裕之の引退により右の主軸を務められる打者を欠いていたためであり、実際、前年限り日本ハムで引退しコーチとして西武に移籍していた元チームメイトの井上弘昭が現役復帰している。なお、中日と西武の間では後日田尾安志と大石友好、杉本正とのトレードがまとまっている。

    ^ セパの相方伊東貴彦は、同じ元プロ野球選手の伊東勤の甥。

    ^ 一方、大島の好守によって大飛球が満塁本塁打ではなく犠牲フライになった佐野(大島同様、左翼手として出場)は、8回表に宇野勝の本塁打をキャッチできずラッキーゾーンに飛び込んだ。そして9回裏には二死無走者の場面で先発投手の郭源治からレフトにソロ本塁打を放ち、一矢を報いた(中日の左翼手は大島から島田芳明に交代済み)。

    ^ 本来は退場日の次の試合となる4月2日から出場停止になるが、同日はチームの本拠地開幕戦だったため、出場停止日を1日ずつ繰り下げることで特別にベンチ入りが認められた。

    ^ 中日新聞社版と同内容。

    ^ 週刊文春2018年11月15日号、新・家の履歴書、110-113頁

    ^ 大島康徳さんは「甘いマスクで人も良かった。というより人が良すぎた」同学年の大田卓司氏が悼む - 西日本スポーツ、2021年7月5日配信記事

    ^ 「大島康徳さん死去 70歳 4年前に大腸がん公表 闘病も力尽く 元日本ハム監督 王ジャパンコーチも」『スポーツニッポン』2021年7月5日。2024年6月21日閲覧。

    ^ 週刊ベースボール2017年11月13日冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!! 大島康徳コラム第34回「大は小を兼ねる?」、97頁

    ^ 星野仙一著、ハードプレイ・ハード 勝利への道、2000年、文藝春秋、P84

    ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.5 [1986年編] (週刊ベースボール別冊冬桜号)ベースボール・マガジン社、2020年、88頁

    ^ 「【8月21日】1990年(平2) プロ22年生大島康徳 最長2290試合目の2000本安打」『Sponichi Annex』2009年8月1日。2009年8月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月6日閲覧。

    ^ 週刊ベースボール2018年11月19日号、冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!!第83回、ゴリ押しした引退試合?、64-65頁

    ^ 週刊ベースボール2018年11月12日号、冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!!第82回、ついに引退 ジタバタせずに「分かった」102-103頁

    ^ 週刊ベースボール2018年10月29日号、冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!!、77頁

    ^ 週刊ベースボール 2019年2月25日号、大事なのは愛ですよ、愛!【大島康徳の負くっか魂!!第95回】68-69頁

    ^ 「パンチ佐藤の漢の背中!元日本ハム・嶋田信敏氏「『元プロ野球選手』というプライドを持っているからこそ、どんな仕事もできる」/パンチ佐藤の漢の背中!「2」」『週刊ベースボール』2019年3月2日。2023年10月20日閲覧。

    ^ 「追悼。ガンと戦い続けた元中日、日ハムの大島康徳氏(THE PAGE)」『THE PAGE』2021年7月6日。2023年8月15日閲覧。

    ^ ファイターズ50年史(B.B.MOOK1651)、ベースボール・マガジン社、2024年、87頁

    ^ 俺たちの東京日本ハムファイターズ、2014年、P64、ベースボール・マガジン社

    ^ 「大島康徳さん、監督時代にマウンドへ行き雑談、交代告げずベンチへ ジェスチャーで「そのまま行け」」『スポーツ報知』2021年7月5日。2021年7月6日閲覧。

    ^ ファイターズ50年史(B.B.MOOK1651)、田中幸雄「ミスター・ファイターズの回想、ベースボール・マガジン社、2024年、84頁

    ^ 「元日本ハム監督・大島康徳氏 大腸がん告白「肝臓に転移があり ステージは4です」」『東京スポーツ』2017年2月7日。2017年2月7日閲覧。

    ^ 「芸人の大島雅斗 がん告白した父・大島康徳氏を「支えたい」 お笑いが大好きな親父」『デイリースポーツ』2017年2月7日。2017年2月7日閲覧。

    ^ 『パパと歩んだ道・あの日あの時』余命宣告 - 大島奈保美オフィシャルブログ「家族とともに歩む『この道』」Powered by Ameba 2023年3月6日

    ^ 大島康徳、2018、『がんでも人生フルスイング 「中高年ガン」と共に生きる”患者と家族”の教科書』、双葉社

    ^ 「元プロ野球選手で評論家の大島康徳さんが死去 大腸がん、70歳 本紙で自伝「この道」連載中」『東京新聞 TOKYO Web』2021年7月5日。2021年8月3日閲覧。

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    ^ 「大島康徳さん死去 最後の仕事は6月12日のエンゼルス大谷試合解説」『Sponichi Annex』2021年7月5日。2021年7月6日閲覧。

    ^ 大島康徳さんは在宅ではなくホスピスで…妻・奈保美さんが旅立った日をつづる「なんて見事な旅立ち方なのでしょう」 - 中日スポーツ 2021年7月9日

    ^ 「この命を生ききる」『大島康徳オフィシャルブログ「この道」』2021年7月5日。2021年7月5日閲覧。

    ^ 「死去した大島康徳氏、最後のブログ公開「病気に負けたんじゃない 俺の寿命を生ききったということだ」」『スポーツ報知』2021年7月5日。2021年7月5日閲覧。

    ^ 「大島康徳さんが歩んだフルスイングの人生 「仕事でも何でも、思い切りやりきればいい」」『東京新聞 TOKYO Web』2021年7月5日。2021年8月3日閲覧。

    ^ 「【評伝】一発長打と明るいキャラクターで愛された大島康徳さん 最後まで己の道を歩み続けた努力家」『東京新聞 TOKYO Web』2021年7月5日。2021年8月3日閲覧。

    ^ 「中日OBの井手峻東大野球部監督 大島康徳氏を悼む「歌詞のように長打力が魅力だった」」『東スポWeb』2021年7月5日。2021年8月3日閲覧。

    ^ 「初めての夫婦ペアパジャマ」『大島康徳 公式ブログ』2017年7月14日。2018年8月19日閲覧。

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    ^ 彩流社「プロ野球『毎日が名勝負』読本」(2001年刊)p.35

    ^ 「片岡篤史とベロベロになるまで飲んだ話【大島康徳の負くっか魂!!第72回】 | 野球コラム」『週刊ベースボールONLINE』2018年8月7日。2021年8月3日閲覧。

    ^ 本当は、死ぬまで野球選手でいたかった―えのきどいちろうの球界達人対談(ベースボール・マガジン社) - 大島康徳・編 より。

    ^ 「2015年2月26日放送 アウト×デラックス」『TVでた蔵』ワイヤーアクション、2015年2月26日。2018年8月19日閲覧。

    ^ ベースボール・マガジン社『週刊ベースボール』2018年10月1日号 p.67.

    ^ 「大腸がん闘病中の大島康徳氏、夢のマイホームが欠陥住宅だった!電気つけたら天井落下」『スポニチ Sponichi Annex』2019年3月15日。2021年7月6日閲覧。

    ^ 「元中日・大島康徳氏、自宅が欠陥だらけだった!がん闘病との“二重の苦悩”を告白」『スポーツ報知』2019年3月15日。2021年7月6日閲覧。

    ^ 「がん闘病の大島康徳氏 欠陥住宅との戦い明かす 取り壊しての新居建設を決意」『デイリースポーツ』2019年3月15日。2021年7月6日閲覧。

    ^ 日本プロ野球事件史―1934-2013、ベースボール・マガジン社、2013年、P113

    ^ 日本プロ野球事件史―1934-2013 (B・B MOOK 889 スポーツシリーズ NO.759)、ベースボール・マガジン社、2013年、P110-P112

    ^ 「21分の抗議、退場、緊急入院…大島康徳監督とNPB審判員が挑んだ“極限の試合”」『スポーツニッポン』2021年7月7日。2023年10月20日閲覧。

    ^ この記録に関する出典は、講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ

    大分県出身の人物一覧

    中日ドラゴンズの選手一覧

    北海道日本ハムファイターズの選手一覧

    個人年度別成績 大島康徳 - NPB.jp 日本野球機構

    選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

    選手情報 - 週刊ベースボールONLINE

    大島康徳公式サイト:Y.oshima

    大島康徳オフィシャルブログ「この道」 - Ameba Blog(2017年2月 - )

    大島康徳公式ブログ - 旧オフィシャルブログ(2006年6月 - 2017年2月)

    89 王貞治

    86 鹿取義隆(投手)

    84 武田一浩(投手)

    87 大島康徳(打撃)

    85 辻発彦(内野守備走塁)

    88 弘田澄男(外野守備走塁)

    11 清水直行

    12 藤田宗一

    15 久保田智之

    18 松坂大輔

    19 上原浩治

    20 薮田安彦

    21 和田毅

    24 藤川球児

    31 渡辺俊介

    40 大塚晶則

    41 小林宏之

    47 杉内俊哉

    61 石井弘寿(途中離脱)

    61 馬原孝浩(追加招集)

    22 里崎智也

    27 谷繁元信

    59 相川亮二

    1 岩村明憲

    2 小笠原道大

    3 松中信彦

    7 西岡剛

    8 今江敏晃

    10 宮本慎也

    25 新井貴浩

    52 川﨑宗則

    5 和田一浩

    6 多村仁

    9 金城龍彦

    17 福留孝介

    23 青木宣親

    51 イチロー

    横沢三郎 1946

    苅田久徳 1947 - 1948

    井野川利春 1949

    安藤忍 1950 - 1951

    井野川利春 1952 - 1954

    保井浩一 1955

    岩本義行 1956 - 1960

    水原茂 1961 - 1967

    大下弘 1968

    松木謙治郎 1969 - 1970

    田宮謙次郎 1970 - 1973

    土橋正幸 1973

    中西太 1974 - 1975

    大沢啓二 1976 - 1983

    植村義信 1984

    大沢啓二 1984

    高田繁 1985 - 1988

    近藤貞雄 1989 - 1991

    土橋正幸 1992

    大沢啓二 1993 - 1994

    上田利治 1995 - 1999

    大島康徳 2000 - 2002

    トレイ・ヒルマン 2003 - 2007

    梨田昌孝 2008 - 2011

    栗山英樹 2012 - 2021

    BIGBOSS・新庄剛志 2022 - 現在

    金田正一

    稲尾和久

    小山正明

    米田哲也

    梶本隆夫

    皆川睦雄

    村山実

    鈴木啓示

    堀内恒夫

    山田久志

    江夏豊

    平松政次

    東尾修

    村田兆治

    北別府学

    佐々木主浩

    高津臣吾

    工藤公康

    野茂英雄

    山本昌広

    岩瀬仁紀

    黒田博樹

    上原浩治

    藤川球児

    平野佳寿

    山内一弘

    榎本喜八

    野村克也

    長嶋茂雄

    広瀬叔功

    張本勲

    王貞治

    江藤慎一

    土井正博

    高木守道

    松原誠

    柴田勲

    大杉勝男

    藤田平

    衣笠祥雄

    福本豊

    山崎裕之

    山本浩二

    有藤通世

    若松勉

    谷沢健一

    加藤秀司

    門田博光

    大島康徳

    新井宏昌

    秋山幸二

    駒田徳広

    立浪和義

    鈴木一朗(イチロー)

    清原和博

    古田敦也

    野村謙二郎

    石井琢朗

    松井秀喜

    田中幸雄

    前田智徳

    金本知憲

    松井稼頭央

    小笠原道大

    稲葉篤紀

    宮本慎也

    小久保裕紀

    アレックス・ラミレス

    中村紀洋

    谷繁元信

    井口資仁

    和田一浩

    新井貴浩

    福留孝介

    荒木雅博

    青木宣親

    阿部慎之助

    鳥谷敬

    内川聖一

    福浦和也

    坂本勇人

    栗山巧

    大島洋平

    1950 小鶴誠

    1951 青田昇

    1952 杉山悟

    1953 藤村富美男

    1954 青田昇

    1955 町田行彦

    1956 青田昇

    1957 青田昇, 佐藤孝夫

    1958 長嶋茂雄

    1959 桑田武, 森徹

    1960 藤本勝巳

    1961 長嶋茂雄

    1962 王貞治

    1963 王貞治

    1964 王貞治

    1965 王貞治

    1966 王貞治

    1967 王貞治

    1968 王貞治

    1969 王貞治

    1970 王貞治

    1971 王貞治

    1972 王貞治

    1973 王貞治

    1974 王貞治

    1975 田淵幸一

    1976 王貞治

    1977 王貞治

    1978 山本浩二

    1979 掛布雅之

    1980 山本浩二

    1981 山本浩二

    1982 掛布雅之

    1983 山本浩二, 大島康徳

    1984 宇野勝, 掛布雅之

    1985 R.バース

    1986 R.バース

    1987 ランス

    1988 C.ポンセ

    1989 L.パリッシュ

    1990 落合博満

    1991 落合博満

    1992 J.ハウエル

    1993 江藤智

    1994 大豊泰昭

    1995 江藤智

    1996 山崎武司

    1997 D.ホージー

    1998 松井秀喜

    1999 R.ペタジーニ

    2000 松井秀喜

    2001 R.ペタジーニ

    2002 松井秀喜

    2003 A.ラミレス, T.ウッズ

    2004 T.ローズ, T.ウッズ

    2005 新井貴浩

    2006 T.ウッズ

    2007 村田修一

    2008 村田修一

    2009 T.ブランコ

    2010 A.ラミレス

    2011 W.バレンティン

    2012 W.バレンティン

    2013 W.バレンティン

    2014 B.エルドレッド

    2015 山田哲人

    2016 筒香嘉智

    2017 A.ゲレーロ

    2018 N.ソト

    2019 N.ソト

    2020 岡本和真

    2021 村上宗隆, 岡本和真

    2022 村上宗隆

    2023 岡本和真

    2024 村上宗隆

    1位:星野仙一

    2位:水谷則博

    3位:大島康徳

    4位:北野幸作(入団拒否)

    5位:三好真一

    6位:竹田和史

    7位:今村信彦(入団拒否)

    8位:小林浩二(入団拒否)

    9位:島谷金二

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    日本の野球選手

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    野球解説者

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    日本の闘病記著者

    大分県出身のスポーツ選手

    1950年生

    2021年没

    大腸癌で亡くなった人物

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2024/11/30 11:35更新

ooshima yasunori


大島康徳と同じ誕生日10月16日生まれ、同じ大分出身の人

後藤 郁(ごとう かおる)
【アイドリング】
1995年10月16日生まれの有名人 大分出身

後藤 郁(ごとう かおる、1995年〈平成7年〉10月16日 - )は、日本の女優、タレントであり、女性アイドルグループ・アイドリング!!!の元メンバー。大分県別府市出身。イザワオフィス所属。 小学…


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大島 由香里_(タレント)(おおしま ゆかり)
1983年6月13日生まれの有名人 大阪出身

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大島 僚太(おおしま りょうた)
1993年1月23日生まれの有名人 静岡出身

大島 僚太(おおしま りょうた、1993年1月23日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身のプロサッカー選手。Jリーグ・川崎フロンターレ所属。ポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代…

大島 優子(おおしま ゆうこ)
1988年10月17日生まれの有名人 栃木出身

大島 優子(おおしま ゆうこ、1988年〈昭和63年〉10月17日 - )は、日本の女優で、女性アイドルグループ・AKB48の元メンバーである。栃木県下都賀郡壬生町出身、太田プロダクション所属。夫は俳…

大島 麻衣(おおしま まい)
1987年9月11日生まれの有名人 千葉出身

大島 麻衣(おおしま まい、1987年〈昭和62年〉9月11日 - )は、日本のタレント、歌手、YouTuber。東京都足立区出身、千葉県野田市育ち。野田親善大使。ホリプロ所属。女性アイドルグループ・…


大島 弘子(おおしま ひろこ)
1973年8月5日生まれの有名人 東京出身

大島 弘子(おおしま ひろこ、1973年8月5日 - )は日本の元タレント、元女優である。東京都出身。かつての所属先はビッグ・アップル→キティ・フィルム。 高校在学中にバラエティ番組『少女雑貨専門T…

大島 なぎさ(おおしま なぎさ)
1991年9月20日生まれの有名人 茨城出身

大島 なぎさ(おおしま なぎさ、1991年9月20日 - )は、日本の元モデル、元女優である。茨城県出身。ビーチウォーカーズ・マネージメント株式会社所属だった。血液型はO型。 『non-noモデルオー…

大島 さと子(おおしま さとこ)
1959年9月17日生まれの有名人 神奈川出身

大島 さと子(おおしま さとこ、1959年9月17日 - )は、日本の女優、タレント、司会者。旧芸名は大島 智子(読み方同じ)。 神奈川県川崎市高津区出身。所属事務所はキャストパワー。身長161cm…

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1993年9月29日生まれの有名人 千葉出身

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大島 みづき(おおしま みづき)
1988年5月6日生まれの有名人 神奈川出身

大島 みづき(おおしま みづき、1988年5月6日 - )は日本のグラビアアイドル、アイドル歌手。 1988年5月6日、神奈川県に生まれる。 2006年3月、小泉瑠美(現長谷川瑠美)と「NO KI…


大島 涼花(おおしま りょうか)
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大島 蓉子(おおしま ようこ)
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