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高木 守道さんについて調べます
■名前・氏名 |
高木守道と関係のある人
金森隆浩: 中日ドラゴンズ(当時の監督:高木守道)は1994年4月時点で金森を同年のドラフト会議における1位指名候補に予定していたが、3年のオフに腰を痛めたことで投球フォームを崩し、4年次は球速140 km/hさえ程遠くなっていたが、春季リーグ戦で最優秀投手賞を受賞した。 宇野勝: 当初は星野仙一の監督復帰に伴い現役選手として中日復帰が内定していたが、高木守道が10.8決戦で日本プロ野球を盛り上げた功績を評価されたことで監督留任が決定し、立ち消えになった。 江藤省三: ここにも高木守道がおり二塁手のレギュラーは掴めず、同年は三塁手として2試合の先発出場にとどまる。 権藤博: 近鉄コーチ時代には仰木彬と、ダイエーコーチ時代には田淵幸一と、中日コーチ時代には高木守道との不仲説も噂され、特に高木監督との対立はメディアでたびたび取り上げられた(後述)。 種田仁: 1992年、この年から就任した高木守道監督の現役時代の背番号1を与えられる。 忌野清志郎: ちなみに、中日は(前述したアルバム発売中止騒動が起こった)1988年にセントラル・リーグでの優勝を星野仙一監督の下で果たしたものの、監督が高木守道に代わった1992年には最下位(6位)でシーズンを終えている。 谷沢健一: ただし、星野が2018年に逝去した際には評論家を務めていた中日スポーツに高木守道、木俣達彦、大島康徳とともに生前を偲ぶコメントを寄せていた。 久野誠: 9月23日にCBCラジオで放送された『中日ドラゴンズ対横浜DeNAベイスターズ』戦中継の実況(解説は高木守道と山田久志)で、野球中継の実況担当から退いた。 伊藤文隆: 初奪三振:同上、8回裏に高木守道から 王貞治: 同試合後、この年限りで引退する中日の高木守道と肩を組んでファンに手を振った。 中山裕章: 声明解除が正式に通達されたことを受け、以前から中山に関心を示していた中日ドラゴンズ(監督:高木守道)は中山との契約に向けて動き出し、1993年12月27日には中山を打撃投手(球団職員身分・1年契約)として採用したことを発表した。 尾藤竜一: 少年野球時代に高木守道が主宰する野球大会「高木守道杯」へ参加していたことや、巨人以外のNPB球団で支配下登録選手になることを目指していたことから、2012年には、当時高木が一軍監督を務めていた地元球団の中日ドラゴンズで打撃投手を担当。 井上善夫: 県岐阜商には高木守道がいた。 松井雅人: 7月25日の横浜DeNAベイスターズ戦では代走で出場すると、高木守道監督が一塁を守れる野手を使いきっていたため、そのまま学生時代を通じても一度も経験のない一塁手の守備に就いた。 谷木恭平: 谷木は1番打者であった高木守道が亡くなった際、「『1番高木が塁に出て、2番谷木が送りバント~』。 村田兆治: 第1戦(中日球場)では9回裏に抑えとして登板するが、高木守道に逆転サヨナラ二塁打を喫する。 徳武定祐: 中日コーチ1期目には、5年連続で2割5分台止まりの高木守道に「バットをミートポイントへ最短距離でぶつける」打撃フォームへの改造を提言した。 山井大介: 2012年は監督の高木守道と投手コーチの権藤博の思案もあって、中継ぎから始まった。 大豊泰昭: 1992年シーズンには、高木守道が監督に就任し、秋季キャンプで臨時コーチとして訪れた張本勲の勧めで一本足打法を始める。 高橋三千丈: 1995年に監督の高木守道が休養し、ヘッドコーチの徳武定祐が監督代行に就任、徳武がさっそくコーチ陣の配置転換に着手、2軍投手コーチの鈴木孝政を1軍に昇格させ、高橋は2軍に配置転換となった。 山崎武司: 1992年は監督が星野仙一から高木守道に交代し、高木は山﨑を重宝していたこともあり、前年を上回る40試合に出場し、打撃成績も打率.236、4本塁打と向上。 カールトン半田: 当時若手の有望選手だった高木守道に「バックトス」を伝授したといわれている。 彦野利勝: ポストシーズンでの初回先頭打者アーチは高木守道以来14年振り。 仁村徹: 普段は温和な性格であるが、高木守道と同様、血の気の多い一面もあり、星野仙一をして「怒ったら、俺より怖い」と言わしめたこともある。 安田達矢: 高木守道~プロも惚れ込むプロの技~ 権藤博: 現役時代の同僚でもある高木守道が中日の監督に復帰した2012年には、同球団の一軍投手コーチに再び就任。 西沢道夫: いずれも優勝した巨人に3年連続10ゲーム差以上は差をつけられての2位であったが、当時固定できていなかった中利夫をリードオフマンに抜擢し、2番に高木守道を固定。 小松崎善久: 小松崎と同じ「乱闘要員」で、前年限りで引退していた岩本は二軍コーチに配置転換(その後、一軍コーチに復帰)されるなど、物静かなイメージの強い高木守道への監督交代に伴う「星野カラー」一掃を感じさせる去り際となった。 武上四郎: ベストナインは高木守道(中日)に譲ったが、江夏豊(阪神)を抑えて新人王を獲得。 中山裕章: 同年7月21日には高木守道監督ら首脳陣立ち会いの下でナゴヤ球場にて昇格テストを受け、高木監督から「長いイニングは無理だが、試合の展開次第で投げさせ様子を見たい」と判断を受けたため、後半戦からの一軍合流が決定した。 |
高木守道の情報まとめ
高木 守道(たかぎ もりみち)さんの誕生日は1941年7月17日です。岐阜出身の野球選手のようです。
引退、テレビ、現在、卒業、結婚、家族、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2020年に亡くなられているようです。
高木守道のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 高木 守道(たかぎ もりみち、1941年7月17日 - 2020年1月17日)は、岐阜県稲葉郡鏡島村(現:岐阜市)出身(愛知県名古屋市生まれ)のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。 現役時代は中日ドラゴンズで活躍し、その華麗かつ堅実な守備で「プロ野球史上最高の二塁手」と称されることも多い。引退後はコーチ・監督を歴任し、初代・西沢道夫に続く2代目の「ミスタードラゴンズ」と呼ばれる。2007年1月 - 2012年11月25日まで中日ドラゴンズOB会会長を務めた。 2012年から2013年の登録名は髙木 守道(読み同じ)。 岐阜市立鏡島小学校・岐阜市立精華中学校出身。1951年8月19日、当時10歳であった高木は後に自身が選手としてプレーした中日スタヂアムの一塁側スタンドで兄と共に巨人戦を観戦していたが、その試合の3回裏に球場ネット裏上段から出火した。この火災は内野席・球場施設がほぼ全焼し死者4人・重軽傷者318人を出す大惨事(中日スタヂアム火災)となったが、高木は事なきを得た。少年時代の高木にとって、プロ野球の試合を観客として観戦したのはこれが最初で最後となった。 中学で野球部に入部し、1957年には県内の名門として知られる県立岐阜商業高校に進学。当初は遊撃手であったが、肩を痛め、二塁手に転向。高木の入学直後、野球部は打力向上のため東京六大学で活躍していた立大4年生の長嶋茂雄を特別コーチとして招聘したが、高木は長嶋から二塁手として高い評価を受け、自身も長嶋を目標に野球人生を歩むこととなった。「長嶋は高木の肩がそれほど強くないことを見抜き、高木を二塁手として起用することを勧めた」とする逸話もあるが、高木本人は「(二塁手として)褒めていたことは聞いたことはあるが、後でとってつけた話じゃないの?」と発言している。1年夏で早くもレギュラーになり、2年上のエース清沢忠彦を擁した1957年夏の第39回全国選手権大会に出場するが、準々決勝で大宮高に敗退。3年次の1959年春には第31回選抜大会に出場し、決勝まで進んだが、中京商業の平沼一夫(中京大 - 西濃運輸 - 東京)に抑えられ2-3で惜敗、準優勝に終わる。この試合は雨天順延で日程がずれ、皇太子(現:上皇)の御成婚パレードと日程が重なり、テレビ中継されなかった。テレビ中継が始まってから現在まで春夏通じて、中継が中止された大会は後にも先にもこの大会のみである。同年夏は岐阜大会決勝で、後にプロで同僚となる高木一巳のいた大垣商に完封負け。 1960年に中日ドラゴンズへ入団。卒業後は早稲田大学へ進学することが決まっていたが、中日は球団と県岐阜商のOBである国枝利通を通じて高木を翻意させ、入団を実現させた。春季キャンプでは杉下茂監督から「守備はすでに完成されている。打撃も勝負強い」と、天知俊一ヘッドコーチからも「高校生離れしたプレー。プロ顔負け」とそれぞれ高い評価を受けた。 1962年までの背番号は41で、同年5月7日の大洋戦(中日)を前にレギュラー選手に故障者が出たことから内野手の控え選手として一軍初昇格を果たし、同試合の7回に代走で初出場すると二盗(初盗塁)に成功した。そのまま二塁手として守備に就き、8回には宮本和佳からプロ入り初打席初本塁打を打ったが、試合には敗れた。シーズン中盤からは内野のユーティリティープレイヤーとして20試合に先発。 1961年は二塁手、三塁手として62試合に先発出場。1962年には南海から移籍してきた半田春夫から「メジャーリーグでは当たり前のプレー。セーフになるはずの走者をアウトにできれば試合の流れを変えられる」として「バックトス」を教わり、首脳陣から「基本を無視する無謀なプレー」と批判されても翻意することなく、数年間にわたり猛練習を積み重ねたことで自身の代名詞的プレーとして確立した。その後、公式戦で遊撃手寄りのゴロをバックトスで送球したことで併殺を完成させ、水原茂監督から「これぞプロ野球」と絶賛された 1963年には、その後継として二塁手のレギュラーとなり、同年から背番号も1に変更した。規定打席(19位、打率.254)にも到達し、同年には50盗塁を記録し、最多盗塁のタイトルを獲得。中利夫と1・2番を組み、前年に放出された森徹に代わり、江藤慎一と共に中日の新たなスター選手となった。以後も1965年、1973年と3度の盗塁王に輝く俊足に加え、打撃では1969年に24本塁打するなど通算236本塁打を記録しており、守備ではバックトスやグラブトスなどを度々披露した。 1965年にはリーグ4位の打率.302、1966年にも6位の打率.306と、2年連続打率3割・10傑入りを記録。1968年5月28日の巨人戦(後楽園)で堀内恒夫から顔面に死球を受け、一時は意識不明となる。その影響で首から左肩・背中にかけて痛みが残り、同年以降は長期にわたる打撃成績の低迷を余儀なくされた。さらに死球禍から3年後の1971年9月2日にも巨人戦(中日)で再び堀内から頭部に死球を受け、その際には激昂して堀内にヘルメットを投げつけた。しかし、後日ロッカールームで堀内に対し「ヘルメットを投げたことは悪かった」と謝罪したほか、翌日に堀内が謝罪のために自宅を訪れた際にも「気にするな」と声を掛けている。 1972年に新任の徳武定祐一軍打撃コーチから「バットをミートポイントへ最短距離でぶつける」打撃フォームへの改造を提言され、二人三脚でそれまでのアッパースイングから一転し、ダウンスイングの練習に取り組んだところ、1973年にはそれまで5年連続で2割5分台止まりであった打率を.273まで回復させ、28盗塁も記録したことで3度目の盗塁王を獲得した。そしてプロ15年目の1974年には経験に裏打ちされたプレーでチームを牽引し、10月12日には巨人のV10を阻止する形で20年ぶり2度目のリーグ優勝に貢献した。 初打席初本塁打を記録した選手で通算200本塁打、通算2000本安打を記録した選手は高木が初めてであり、また通算で200本塁打・200犠打を併せて記録した選手も高木が初めてである。 1974年、優勝決定翌日の10月13日に予定されていた後楽園の対巨人シーズン最終戦ダブルヘッダーは、長嶋の引退試合であったが、降雨で翌14日に順延してしまい、中日の優勝パレードと日程が重なった。そのため、大島康徳・藤波行雄などの若手や、引退直前であった広野功を含む準レギュラー級選手のみを出場させ、中日のレギュラー選手は同日の名古屋での優勝セレモニーのために欠場するよう球団に言い渡された。この通達に高木は「偉大なる選手になんて失礼なことを」と大いに憤慨し、球団にその通達の撤回と「それが無理ならばせめて自分だけでも出場させてほしい」と抗議した。しかしその願いは聞き入れられず、高木は優勝セレモニーで終始むすっとした表情をしていた。高木はのちに長嶋へ電話し、謝罪したという。 ロッテとの日本シリーズでは、第1戦(中日)の9回裏に村田兆治から逆転サヨナラ二塁打を打つなど大活躍する。2勝1敗で迎えた第4戦(後楽園)でも金田留広から初回先頭打者本塁打を打つが、その試合の3打席目(5回)で自打球を左足首に当て負傷(全治3週間の骨折してしまう。高木は第6戦で復帰し、シリーズ通算22打数8安打1本塁打を記録して敢闘賞を獲得したが、チームはロッテに敗れ日本一を逃した。 1975年にもリーグ4位の打率.298を記録し、1978年4月5日の広島戦(広島市民)では1回表に高橋里志から中前安打を打ち、日本プロ野球史上11人目、中日の生え抜き野手としては初となる通算2000本安打を達成した。 1979年にも38歳ながら打率.300(14位)と気を吐くが、視力の衰えもあり、中が監督に退任した1980年限りで現役を引退。二塁手としてベストナイン7回は史上最多である。同年シーズン終了後にナゴヤで行われたセ・リーグオールスター東西対抗では、同年限りで引退した1歳上で自身より1年早くプロ入りした王貞治と共に引退セレモニーが行われた。引退の際には「王さんが引退したら自分がプロ野球選手で最年長になる。最年長の選手は相応のプレーを見せなければならないが、自分にはそのプレッシャーに耐えられる強さがなかった」と発言している。1981年のオープン戦で引退試合が行われた。 中日で一軍作戦守備コーチ(1981年 - 1983年)、二軍監督(1984年 - 1985年)、一軍守備コーチ(1986年)を務めた。1986年には山内一弘監督の解任を受け、7月6日からシーズン終了まで監督代行を務めた。中以来となる生え抜き監督として期待されたが、「みんなで力を合わせて頑張る」との意気込みも虚しく就任時点の借金7を返済するには至らず、シーズン終了をもってユニフォームを脱ぐことになった。谷沢健一・大島康徳・宇野勝ら主力の相次ぐ故障や不振、エース小松辰雄が7勝どまりに終わるなど苦しい采配を強いられたとはいえ、就任時よりも勝率が悪化した。新聞では本来トップニュースであるはずの「山内一弘監督解任」には軽く触れる程度で、紙面の1面から3面を割いたのは高木監督代行の就任を祝う内容であった。中日ファンの芸能人からの激励メッセージなど、その扱いは監督代行のそれでは到底なく、まるで元から予定していた高木監督の就任が前倒しになったかのような祝福ぶりであった。 1987年からCBC野球解説者となるが、1991年オフに星野仙一の監督辞任を受け、後任として監督に就任する。ヘッドコーチに徳武定祐を呼んだ。 1992年はシーズン後半に上位チームに善戦するものの、主力選手の故障等も響いて60勝70敗の最下位となる。なお、この年のセントラル・リーグは全球団が60勝台であった。 1993年は優勝したヤクルトに前半大差をつけられるも、後半一時は逆転して首位に立ったが、最終的に2位となる。特に9月5日の対阪神タイガース21回戦ではトーマス・オマリーのソロ本塁打1点だけに抑えていた先発の山本昌広を7回で降板させたが(点数も7-1)、そこから後続のピッチャーが8回1点、9回に8点を取られ、大逆転負けを喫した。高木は試合後「私が悪かった」と選手に頭を下げ、シーズン終了後には「中日がペナントをとれなかったのは、この試合にある」とまでいわれた。また、落合博満は後に自著でこの試合を振り返って「勝負事では驕りは禁物である。誤った采配を招くからである」と、中4日でこの試合でも102球投げていた山本を代えたのはまだしも、当時リリーフエースだった郭源治を出すタイミングを誤ったことに苦言を呈し、「何点勝っていても、手を緩めずに完璧に叩きのめしたことを、相手の記憶に植えつけなければいけない」と述べている。なお、同年オフには2年前(1991年オフ)に不祥事を起こし、横浜大洋ホエールズ(→当時・横浜ベイスターズ)を解雇され、2年間資格停止処分を受けていた中山裕章を打撃投手として採用し、翌シーズン途中から選手として現役復帰させた。落合がFAで巨人へ移籍。 1994年は今中慎二、山本昌のダブルエースと立浪和義、大豊泰昭、アロンゾ・パウエルを中心とした打撃陣がかみ合い、首位巨人に前半戦で大差をつけられるが、後半戦は巨人のもたつきもあり、猛追してとうとう同率首位に立ち、両チーム共この年の130試合目の最終戦で勝った方がリーグ優勝という日本プロ野球史上に残る10.8決戦を迎えたが、結果的に敗戦で終える。シーズン終盤には星野の監督復帰の話が挙がり、高木は辞任の構えを見せたが、後半戦の躍進を評価され、球団オーナーの加藤巳一郎や選手会長川又米利以下、選手たちから続投要請を受けたことから、翌1995年も引き続き指揮を執ることとなった。中日で4年連続で監督を務めたのは当時、与那嶺要、星野に次いで3人目だった。 1995年は投手陣の崩壊・故障者の続出により、チームは低迷を続けていた。そのため、成績不振の責任を取り、シーズン途中で監督を辞任。監督としての最後の試合となった6月2日の対阪神戦では、友寄正人審判への暴行により退場処分を受けた。中山球団社長は「先ほど高木監督と話し合って、本日指揮を執るのを最後に休養してもらうことになりました」と発表し、あくまで球団主導の解任ではなく、本人からの申し出だと中山社長は説明。同シーズンは、当初はヘッドコーチに徳武が監督代行を務めたが、その徳武もシーズン途中で解任され、その後はシーズン終了まで島野育夫が監督代々行を務めた。当時、三振が多かった山崎武司を起用し続け、山崎は高木の監督退任後の1996年には本塁打王になっている。 1996年からは再びCBC野球解説者・中日新聞野球評論家として活動した。 2003年オフには谷沢健一・野村克也・牛島和彦らと共に中日の次期監督候補として名前が挙がったが、この時は監督復帰は実現せず、落合博満が就任した。 2006年、野球殿堂入り。また、この年の日本シリーズ第1戦で始球式を務めた。2007年からは中利夫に代わり、中日OB会の会長も務めた。 2011年9月22日、翌年から落合の後任としてから監督に就任することが球団から発表された。「まさに青天の霹靂で驚いています。落合さんという大監督の後ということもあり悩みはしましたが、やはり野球人間なのでしょう。この年齢になっても、もう1度チャンスを頂けましたので、全力で頑張る覚悟です」と球団広報を通じてコメントした。第2次監督時代の登録名は髙木 守道。 2012年は2位に終わり、クライマックスシリーズではファイナルステージで巨人に3連勝の後の3連敗で3勝4敗で敗退。 2013年は2001年以来12年ぶりのBクラスと1990年以来23年ぶりの4位に終わり、セ・リーグ5球団に全て負け越す結果となった。9月25日に同年限りで退任する意向であることが中日新聞で報道され、10月8日に退任の会見を行った。 高齢もあり、評論活動はCBCテレビ・CBCラジオの野球中継での副音声ゲストなど、散発的なものとなっている。一方、少年野球教室で子供たちを熱心に指導していたほか、亡くなる5日前の2020年1月12日にはCBCラジオ『板東サンデー』に出演し、同番組パーソナリティでOBの板東英二とともに現役時代の思い出話を披露していた。 2020年1月17日、急性心不全のため、4時に名古屋市内で死去。78歳没。2月15日には名古屋市内のイベントに出席することも予定していた。 現役時代の優勝経験は巨人のV9時代も重なってか、1974年の1度だけだったが、巨人のV10を阻んだ優勝でもある。また、コーチ時代は1982年に1度経験している。通算で2度リーグ優勝を経験しているが、日本シリーズではいずれも2勝4敗で敗れており、日本一は1度もなかった。 主に打低投高だった時代に活躍し、通算236本塁打は二塁での先発出場率が90%を超えている選手中では歴代最多である。レンジファクター系指標による二塁守備は通算でプロ野球史上歴代最高値を出している。規定打席到達15シーズン中一桁本塁打だった年は3回だけ、24本塁打した年もあり、長打力をも備えたリードオフマンとして打線を牽引し続けた。 野球誌やテレビ番組などでの「プロ野球歴代ベストナイン」等の企画では、プロ野球史上最高の二塁手として高木が選出されたことがある。高木は二塁手として2179試合・11477守備機会・5327刺殺・5866補殺・284失策・1373併殺という通算守備記録を残している(すべて二塁手プロ野球歴代1位)。 口数が少なく、穏和なイメージがあるが、自身のプレースタイルや野球理論には確固たる自信を持っており、これを否定されたりした場合にはたとえ先輩や監督・コーチ相手であったとしても徹底的に怒り、反抗する骨太さを持っている。
また、1年先輩でチーム内でも親しい関係にあった板東英二はその高木の姿勢を「球界のガンジー」と表現している。 このような性格から、「瞬間湯沸かし器」と揶揄されることがある。また、本人は自身を指して自虐的に「暴走老人」と言うことがある。 一方で、山本昌は「どんなに打たれても叱責を受けたことはない」と1992年から1995年までの4シーズンを務めた頃の高木について振り返っており、山本は高木を「僕を初めて大人扱いしてくれた監督」であり「最も喜ぶ顔を見たい監督」であったと評していた。 2011年12月20日に放送されたインタビューにて、一軍デビューをした1960年5月7日当日は二軍の試合が岐阜であり、その後名鉄電車で移動後、名古屋駅前にあったパチンコ屋で時間を潰していたところ館内放送で「中日球場へ向ってください」と呼び出しを受け、一軍に合流したと証言している。 入団3年目のある出場試合において、中日の攻撃中にベンチを抜け出し合宿所に帰ってしまったことがある。直前の守備のとき、普通の二塁手なら追いつけないような打球に追い付きはしたものの捕球することができなかったプレーに対し、当時の杉浦清監督に「何をやっているんだ!」と罵声を浴びせられたことが気に入らなかったためである。そのころ高木は、南海から移籍してきたカールトン半田がキャンプの練習中に披露していたバックトスを見て、練習を重ねながら自分の型にしようと試合で試し始めていた時期であった。なお、再度守備に就くまで高木がいなくなったことに中日ベンチは誰も気付かなかったという。髙木が普段無口でベンチでも目立たなかったためである。
板東英二の証言によると、高木は自身の後輩であるものの、板東に対し上下関係を一切気にしていない様に接していたようである。たとえば「(殆どストレートしか投げない)板東さんの球を打てないのはおかしい」という疑問を率直に述べたり、板東が登板していてピンチを背負うと高木がマウンドに来て「真っ直ぐ狙ったら犠牲フライ打てるのに」、「フォアボールばっかり出しやがって。どんどんストライク取れよ」などと、板東を激しく叱咤することが多かった。それ以外にも板東は、大洋戦にリリーフ登板した際に2連続で二塁打を許し、いずれも牽制アウトにしながらも、マイク・クレスニックに初球を本塁打されてサヨナラ負けした際、「だったら早く打たれとけ!」と高木がそのことに関して激しく激高していた光景を目の当たりにしたことがあったという。 今中慎二は高木について、「10.8決戦で巨人が先発3本柱を惜し気なく投入したのに対し、いつも通りリリーフを登板させた我の強さや、負けた時にはすぐ『自分が悪かった』と謝る潔さがあった」と自著で述べている。 1964年、球団創設以来初の最下位に沈んだことで球団関係者や親会社の間から「恵まれすぎて、甘やかされているから最下位に落ち込んだのだ」との意見が噴出。そこで球団は全員一律に25%ダウンという線を定め、そこからタイトル獲得などの昇給項目があればベースアップするという方針を打ち出した。まだ査定を手計算で行っていた時代なので、一律ダウンのような個人成績を無視した大雑把な提示がまかり通っていた。これに噛み付いた理由として「僕は昨年よりいい成績を残したのだから、絶対に承服しない」と言ったことがある。
先輩投手であった柿本実が、ある試合で二塁走者を気にして牽制球を繰り返していたところ、4回目の牽制球をグラブで捕らず足で止めて「いい加減にしろ」と意思表示したことがあるという(2011年5月29日の「サンデードラゴンズ」にて板東英二が証言)。 北海道遠征(札幌市円山球場)で巨人との試合中、三塁走者だった高木は、俊足を生かしピッチャーゴロで本塁突入を試みるが、そのときの投手だった巨人の関本四十四に三本間で挟まれタッチアウトとなる。しかし、関本がタッチの際に高木の顔面にグラブを当てたことで高木は激昂。関本は高木をにらみつけ殴りかかり乱闘騒ぎとなった。 日々の鍛錬を怠らない性格で知られ、代名詞的プレーとされる「バックトス」は数年間の鍛錬の末に身に着けたものだが、既に「一流」の評価を得ていた1970年代にも『中日新聞』(中日新聞社)記者が浜松春季キャンプで黙々とバックトスの練習を続ける高木の姿を目撃している。 初打席初本塁打を打った1人だが、その中で高木は2017年シーズン終了時点で本塁打数2位の記録を持っている。 高木はファンを大事にしており、サイン会では最後の1人まで書き上げていたと田尾安志と谷沢健一が後年になって振り返っている。 岐阜県立岐阜商業高等学校の後輩にはシドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子や元中日ドラゴンズ外野手の和田一浩がおり、髙木と彼らは母校で「ビッグ3」と呼ばれている。2004年11月23日、地元の岐阜メモリアルセンターでこの3人のトークショーが行われた。 板東ビルの隣の天ぷら店にいた名古屋西川流のホープの女性を板東英二が高木に紹介し、板東の義母が太鼓判を押し、板東夫妻の仲人で結婚。 夫人の姉の孫がNHKアナウンサーの片山千恵子である。 広岡達朗と親交があり、2012年の中日キャンプではその縁で広岡は臨時野手コーチを務めた。 勝利の立役者となっても取材記者の取材をほとんど受けないなど、無口な性格から「むっつり右門」と呼ばれたが、2学年下の井手峻と家族ぐるみで付き合ったり、新宅洋志に結婚式で着用するためのモーニングコートを貸したりするなど気取らない性格でもあった。 ナゴヤドームにて野球中継の解説を担当する際、ドーム内の売店で売られているホットドッグをアナウンサーやスタッフに差し入れていた。 2度目の監督在任時においては、試合後の監督インタビューなど、報道陣の前で自軍の選手を名指しで批判・叱咤することが多かった。前任監督の落合がマスメディアに向かって選手批判をすることがなかったこともあり、この高木のスタイルは当時賛否を呼んだ。また前述のように、野球理論に関するコーチとの衝突もあった。
投手コーチである権藤博(現役時代に同僚だった)は自軍の選手を厳しい口調で批判する高木に対し、「マスコミの前で選手の悪口を言わないでほしい。選手は一番こたえるものです」「打たれた・打てないはコーチの責任。勝った負けたは監督の責任」と諭すこともあったという。投手起用においても互いに持論をぶつけ合ったが、2012年9月16日の広島戦は完封リレーで勝利してCS出場を決め、高木と権藤は固い握手を交わした。その権藤は高木について、「努力する天才」であると同時に「究極のわがまま」でもある、と評している。 一方で2013年には、一部のベテラン選手から陰口を叩かれることもあったが、高木本人は曰く「ベテランというのは、そういうもんなんだわ」「『何言ってもいいから結果だせ』としか思わん」と、全く意に介していなかった。 2013年5月15日の対日本ハム戦、7回表に稲葉篤紀にセンター前への適時打を打たれた際の中継プレーを巡って井端弘和と一触即発の事態となり、イニング終了後井端がベンチ裏で壁を蹴り上げる騒動となった。高木は中堅・大島洋平からの返球を井端がカットしなかったことに激昂したが、井端は後年まで「プレーに関しては、今も自分の判断に自信を持っている」と一塁手のマット・クラークが中継に入る場面であったと主張している。その後、落ち着きを取り戻した井端が高木の元に謝りに行ったところ、高木は「オレなんか試合途中に帰ったこともあるんだから、いちいち気にするな」と井端を許したという。 各年度の太字はリーグ最高 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBの二塁手における歴代最高 太字年はダイヤモンドグラブ賞受賞年 監督通算成績 787試合 383勝 379敗 25分 勝率.503 盗塁王:3回(1963年、1965年、1973年) ベストナイン:7回(二塁手部門:1963〜1967年、1974年、1977年) ※二塁手として5年連続は千葉茂に次ぐ歴代2位タイ(他に浅村栄斗)かつセ・リーグ最長、二塁手として7度受賞は歴代1位タイ(他に千葉茂、浅村栄斗)かつセ・リーグ最多 ダイヤモンドグラブ賞:3回(二塁手部門:1974年、1977年、1979年) 野球殿堂競技者表彰(2006年) 日本シリーズ敢闘賞:1回(1974年) NPB80周年ベストナイン(2014年、二塁手) 岐阜市民栄誉賞(2000年)
初盗塁:同上、7回裏に二盗(投手:権藤正利、捕手:島野雅亘) 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、9回裏に宮本和佳から左越2ラン ※史上4人目の初打席初本塁打 初先発出場:1960年6月30日、対国鉄スワローズ16回戦(後楽園球場)、7番・三塁手で先発出場 1000試合出場:1969年7月30日、対アトムズ15回戦(中日スタヂアム)、2番・二塁手で先発出場 ※史上141人目 100本塁打:1969年8月26日、対大洋ホエールズ20回戦(中日スタヂアム)、9回裏に森中千香良から左越ソロ ※史上52人目 1000安打:1969年9月28日、対阪神タイガース21回戦(中日スタヂアム)、1回裏に江夏豊から左前安打 ※史上72人目 1500試合出場:1973年8月28日、対阪神タイガース18回戦(阪神甲子園球場)、1番・二塁手で先発出場 ※史上44人目 300盗塁:1973年9月8日、対広島東洋カープ22回戦(中日スタヂアム)、5回裏に二盗(投手:藤本和宏、捕手:西沢正次) ※史上14人目 1500安打:1974年4月22日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、7回表に小川邦和から右前安打 ※史上29人目 150本塁打:1974年9月30日、対読売ジャイアンツ24回戦(中日スタヂアム)、1回裏に関本四十四から左越先頭打者本塁打 ※史上39人目 200本塁打:1977年8月22日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場)、1回表に会田照夫から左越先頭打者本塁打 ※史上28人目 350盗塁:1977年9月1日、対広島東洋カープ22回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に二盗(投手:望月卓也、捕手:道原博幸) ※史上10人目 300二塁打:1977年9月14日、対読売ジャイアンツ19回戦(後楽園球場)、8回表に西本聖から左翼線適時二塁打 ※史上14人目 3000塁打:同上 ※史上12人目 2000安打:1978年4月5日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、1回表に高橋里志から中前安打 ※史上11人目 2000試合出場:1978年4月7日、対読売ジャイアンツ1回戦(ナゴヤ球場)、1番・二塁手で先発出場 ※史上12人目 1000得点:1978年6月22日、対横浜大洋ホエールズ17回戦(横浜スタジアム)、7回表に田尾安志の2ランで生還 ※史上11人目 4打席連続本塁打:1977年6月12日 - 14日 ※史上7人目、歴代2位タイ、3試合にまたいでの3打席以上連続本塁打は史上唯一 4打数連続本塁打:同上 ※史上8人目、歴代2位タイ 1試合5盗塁:1964年8月5日 同一球場で1000安打(ナゴヤ球場) オールスターゲーム出場:4回(1966年、1967年、1973年、1979年) 41(1960年 - 1962年) 1(1963年 - 1982年) 67(1983年) 71(1984年 - 1986年) 81(1992年 - 1995年) 88(2012年 - 2013年) 高木 守道(たかぎ もりみち、1960年 - 1986年、1992年 - 1995年) 髙木 守道(たかぎ もりみち、2012年 - 2013年) 『プロ魂髙木守道:名二塁手モリミチ物語』(郷良明著、中日新聞本社、1989年11月、ISBN 4806202177) 『髙木守道:プロも惚れ込むプロの技』(永島直樹原作、安田タツ夫画、1992年4月、ISBN 4324026440) 侍プロ野球 J SPORTS STADIUM サンデードラゴンズ(上記にも述べたとおり、現状のCBCプロ野球解説者を含めても唯一の落合支持派であることから、落合監督になってからは、番組内で放送される落合監督のキャンプ中のインタビューの聞き手を担当) CBCドラゴンズナイター ^ ゴロを捕球した二塁手が二塁ベースカバーに回っている遊撃手へ送球する際、体の反転・左回転を省き右掌で送球する技術。 ^ その後200本塁打は稲葉篤紀、2000本安打は稲葉と駒田徳広も記録。 ^ その後、石毛宏典・谷繁元信も記録。 ^ その後中日の生え抜き野手としては谷沢健一・立浪和義・荒木雅博もそれぞれ通算2000本安打を達成している。 ^ しかし、この1980年にはプロ野球最年長の野村克也も引退しているが、野村・王に次ぐプロ野球選手最年長選手は張本勲であった。 ^ 板東の著書に記述があり、2011年4月10日放送の「サンデードラゴンズ」でも証言している。 ^ 板東は「ボールを足でマウンドに蹴り返した」と証言しているが、髙木は「足で止めただけ」と蹴り返したことは否定している。 ^ この騒動は、関本が翌年太平洋クラブライオンズに移籍する遠因となった。 ^ 「ミスタードラゴンズ髙木守道さん死去(78歳) バックトスは永遠に」『中日スポーツ』中日新聞社、2020年1月18日、紙面から。オリジナルの2020年1月18日時点におけるアーカイブ。2020年1月18日閲覧。 ^ 『中日新聞』2020年5月2日朝刊第10版運動・スポーツ面18頁「堅守の求道者 1・ミスターとの出会い 二塁手の原点 長嶋の目」(中日新聞社) ^ “高木守道の名人野球教室~内野守備編~”. ヒマラヤスポーツ. 2020年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月22日閲覧。 ^ “た | プロ野球在籍者名簿”. 日本野球機構. 2024年1月6日閲覧。 ^ 『中日ドラゴンズ '94ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1994年3月16日、10頁。ISBN 978-4806202714。 ^ 「【ボクの思い出STADIUM】ナゴヤ球場」『中日スポーツ』中日新聞社、2016年6月14日。オリジナルの2018年3月3日時点におけるアーカイブ。2018年3月3日閲覧。 ^ 「【10月14日】1974年(昭49) 長嶋茂雄、引退 その日のミスターと周囲の人々」『スポニチアネックス』スポーツニッポン新聞社、2007年10月8日。オリジナルの2007年10月27日時点におけるアーカイブ。2007年10月27日閲覧。 ^ 『中日新聞』2020年5月3日朝刊第10版運動・スポーツ面20頁「堅守の求道者 2・初打席で初本塁打 交代出場 衝撃デビュー」(中日新聞社) ^ ベースボール・マガジン社 2007, p. 165. ^ 『中日新聞』2020年5月4日朝刊第10版運動・スポーツ面17頁「堅守の求道者 3・バックトス 職人技 鍛錬の積み重ね」(中日新聞社) ^ 『中日新聞』2020年5月6日朝刊第10版運動・スポーツ面16頁「堅守の求道者 5・死球禍 残った痛み 消えた輝き」(中日新聞社) ^ 『中日新聞』2020年5月8日朝刊第10版運動・スポーツ面25頁「堅守の求道者 6・二人三脚 逆境打開の『大根切り』」(中日新聞社) ^ 『中日新聞』2020年5月9日朝刊第11版運動・スポーツ面22頁「堅守の求道者 7・リーグ優勝 あの守道さんが泣いた」(中日新聞社) ^ 『中日ドラゴンズ70年史』掲載のOB座談会 ^ 『中日新聞』2020年5月10日朝刊第11版運動・スポーツ面16頁「堅守の求道者 8・日本シリーズ 不運の骨折 耐えて奮闘」(中日新聞社) ^ 2012年10月6日付「中日スポーツ」2面。 ^ “1988年優勝の軌跡”. 中日新聞 (2021年3月29日). 2021年3月29日閲覧。 ^ “「すまない徳武さん」相次いだ監督休養……波乱の1995年”. 中日新聞 (2022年4月30日). 2022年4月30日閲覧。 ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1994』(ベースボール・マガジン社)の<セントラルリーグ回顧>の『中日』p27、『阪神』p31 ^ 落合博満『勝負の方程式』小学館、1994年、p148-p149 ^ “【豊田誠佑コラム】大豊の打撃フォーム「足を上げるか上げないか」論争ボッ発 – 東京スポーツ新聞社”. 東スポWeb (2022年6月21日). 2022年6月21日閲覧。 ^ 『中日スポーツ』1994年10月14日付第5版1頁「1年勝負!!優勝しかない 高木監督続投決定 加藤オーナー 精鋭集めろ コーチ陣まず強化」(中日新聞社) ^ 『月刊ドラゴンズ』2017年10月号、p33 ^ “監督の交代について”. 中日ドラゴンズ (2011年9月22日). 2018年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月22日閲覧。 ^ 中日、セ5球団全てに負け越し 12年ぶりBクラス スポーツニッポン 2013年10月5日配信 ^ 中日・高木監督が退任表明 中日新聞 2013年9月26日配信 ^ 退任の高木監督が会見「恩返しできなかった。それが一番残念」 スポーツニッポン2013年10月8日配信 ^ 「高木守道さん急死 78歳、ミスター・ドラゴンズ」『中日新聞』中日新聞社、2020年1月18日、朝刊1面。オリジナルの2020年1月18日時点におけるアーカイブ。2020年1月18日閲覧。 ^ “球団史上最高の4人を選ぶ 中日ドラゴンズ編”. 日本プロ野球RCAA&PitchingRunまとめ. 2015年9月6日閲覧。 ^ 【掛布雅之さん】プロ野球歴代ベストナインを選んでもらった! ^ 田尾、藪、岡が考えるプロ野球ベストナイン(前編) - YouTube ^ 大山くまお (2021年1月29日). “星野仙一も絶賛……“プロ野球史上最高の二塁手”高木守道さんは何がすごかったのか”. 文春オンライン. 2021年4月1日閲覧。 ^ 盟友・高木守道氏を悼む 今も耳に残る「パチン!」の音 ^ 山本昌 『133キロ怪速球』 ベースボール・マガジン社、2009年。ISBN 978-4583101699。 p139 ^ “意外な選手が多い?初打席で本塁打を放った選手たち”. BASEBALL KING (2018年3月11日). 2020年7月18日閲覧。 ^ 【田尾安志さん登場】同志社から中日まで、懐かしのエピソードを本人に直撃【初コラボ】前編 - YouTube ^ NHK片山アナ 4月から東京へ 大叔父様は竜・高木監督 中日スポーツ 2012年2月2日閲覧(web魚拓による保存措置) ^ 『中日新聞』2020年5月5日朝刊第11版運動・スポーツ面15頁「堅守の求道者 4・むっつり右門 寡黙で一徹 心根は素直」(中日新聞社) ^ 若狭敬一 (2020年1月24日). “優しく、粋だったミスタードラゴンズ・高木守道さんはいつも笑っていた”. 文春オンライン. 2021年4月1日閲覧。 ^ 中日高木監督が怒りのノーサイン 日刊スポーツ 2012年5月4日 ^ “プロ野球「師弟の絆」裏物語 第3回 谷繁元信と権藤博の「一意奮闘」(4)”. Asagei+(徳間書店) (2012年9月18日). 2017年9月11日閲覧。 ^ “高木監督、権藤コーチと緊急会談”. スポニチ (2012年7月3日). 2017年12月4日閲覧。 ^ “"努力する天才""究極のわがまま"「そのどちらもが高木守道」権藤博さん59年の付き合いを語る”. 中日スポーツ・東京中日スポーツ (2020年1月18日). 2020年1月23日閲覧。 ^ “「ワシは何とも思わんよ」…サンドバッグを受け入れた、高木守道さんの懐の深さ”. BASEBALL KING (2021年1月30日). 2021年4月1日閲覧。 ^ 中日黄金時代を支えた井端弘和氏が高木守道監督との一触即発事件を振り返る「オレなんか試合途中で帰ったことも…」 中日スポーツ、2020年1月18日、2021年6月4日閲覧 ^ “岐阜市民栄誉賞”. 岐阜市. 2017年12月4日閲覧。 ^ “【データ】村上宗隆プロ野球新5打席連続本塁打 20人「打数」と13人「打席」の両方を更新”. 日刊スポーツ. (2022年8月2日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202208020001009.html 2023年1月13日閲覧。 ^ 阪神・江越 珍記録!3試合にまたいで3打席連発「やっと来たなと」.スポニチ Sponichi Annex 野球.2016年4月10日閲覧。 ^ ベースボール・マガジン社 2007, pp. 165–167. ^ ベースボール・マガジン社 2007, p. 167. 編集兼発行人:池田哲雄(編)「中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡」『週刊ベースボール別冊冬季号』第34巻第1号、ベースボール・マガジン社、2007年1月1日、ISBN 978-4583613246。 (通算206号・原著『昇竜の軌跡』は2005年6月1日発行) 岐阜県出身の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 個人年度別成績 高木守道 - NPB.jp 日本野球機構 髙木守道 日本プロ野球名球会 高木守道の名人野球教室~内野守備編~-WEB野球教室|ヒマラヤ himaraya 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 池田豊 1936 桝嘉一 1937 根本行都 1938 - 1939 小西得郎 1939 - 1941 本田親喜 1941 - 1942 桝嘉一 1943 三宅大輔 1944 竹内愛一 1946 杉浦清 1946 - 1948 天知俊一 1949 - 1951 坪内道典 1952 - 1953 天知俊一 1954 野口明 1955 - 1956 天知俊一 1957 - 1958 杉下茂 1959 - 1960 濃人貴実 1961 - 1962 杉浦清 1963 - 1964 西沢道夫 1964 - 1967 杉下茂 1968 水原茂 1969 - 1971 与那嶺要 1972 - 1977 中利夫 1978 - 1980 近藤貞雄 1981 - 1983 山内一弘 1984 - 1986 星野仙一 1987 - 1991 高木守道 1992 - 1995 星野仙一 1996 - 2001 山田久志 2002 - 2003 落合博満 2004 - 2011 髙木守道 2012 - 2013 谷繁元信 2014 - 2016 森繁和 2017 - 2018 与田剛 2019 - 2021 立浪和義 2022 - 2024 井上一樹 2025 - 現在 表 話 編 歴 金田正一 稲尾和久 小山正明 米田哲也 梶本隆夫 皆川睦雄 村山実 鈴木啓示 堀内恒夫 山田久志 江夏豊 平松政次 東尾修 村田兆治 北別府学 佐々木主浩 高津臣吾 工藤公康 野茂英雄 山本昌広 岩瀬仁紀 黒田博樹 上原浩治 藤川球児 平野佳寿 山内一弘 榎本喜八 野村克也 長嶋茂雄 広瀬叔功 張本勲 王貞治 江藤慎一 土井正博 高木守道 松原誠 柴田勲 大杉勝男 藤田平 衣笠祥雄 福本豊 山崎裕之 山本浩二 有藤通世 若松勉 谷沢健一 加藤秀司 門田博光 大島康徳 新井宏昌 秋山幸二 駒田徳広 立浪和義 鈴木一朗(イチロー) 清原和博 古田敦也 野村謙二郎 石井琢朗 松井秀喜 田中幸雄 前田智徳 金本知憲 松井稼頭央 小笠原道大 稲葉篤紀 宮本慎也 小久保裕紀 アレックス・ラミレス 中村紀洋 谷繁元信 井口資仁 和田一浩 新井貴浩 福留孝介 荒木雅博 青木宣親 阿部慎之助 鳥谷敬 内川聖一 福浦和也 坂本勇人 栗山巧 大島洋平 表 話 編 歴 1953 簑原宏 1954 大下弘 1955 戸川一郎 1956 稲尾和久 1957 宮本敏雄 1958 藤田元司 1959 土屋正孝 1960 田宮謙次郎 1961 J.スタンカ 1962 吉田義男 1963 稲尾和久 1964 山内一弘 1965 森下整鎮 1966 渡辺泰輔 1967 足立光宏 1968 長池徳二 1969 長池徳二 1970 井石礼司 1971 山田久志 1972 足立光宏 1973 野村克也 1974 高木守道 1975 山本浩二 1976 柴田勲 1977 河埜和正 1978 足立光宏 1979 井本隆 1980 小川亨 1981 井上弘昭 1982 上川誠二 1983 西本聖 1984 山沖之彦 1985 石毛宏典 1986 達川光男 1987 篠塚利夫 1988 宇野勝 1989 新井宏昌 1990 岡崎郁 1991 川口和久 1992 岡林洋一 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 小林宏 1996 仁志敏久 1997 松井稼頭央 1998 大塚光二 1999 川上憲伸 2000 城島健司 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 金本知憲 2004 井上一樹 2005 矢野輝弘 2006 川上憲伸 2007 ダルビッシュ有 2008 A.ラミレス 2009 髙橋信二 2010 和田一浩 2011 吉見一起 2012 稲葉篤紀 2013 長野久義 2014 R.メッセンジャー 2015 山田哲人 2016 B.エルドレッド 2017 宮﨑敏郎 2018 鈴木誠也 2019 亀井善行 2020 戸郷翔征 2021 山本由伸 2022 J.オスナ 2023 紅林弘太郎 2024 今宮健太 表 話 編 歴 1950 金山次郎 1951 土屋五郎 1952 金山次郎 1953 金山次郎 1954 吉田義男 1955 本多逸郎 1956 吉田義男 1957 飯田徳治 1958 岡嶋博治 1959 岡嶋博治 1960 中利夫 1961 近藤和彦 1962 河野旭輝 1963 高木守道 1964 古葉竹識 1965 高木守道 1966 柴田勲 1967 柴田勲 1968 古葉竹識 1969 柴田勲 1970 東条文博 1971 高田繁 1972 柴田勲 1973 高木守道 1974 中塚政幸 1975 大下剛史 1976 衣笠祥雄 1977 柴田勲 1978 柴田勲 1979 高橋慶彦 1980 高橋慶彦 1981 青木実 1982 松本匡史 1983 松本匡史 1984 高木豊 1985 高橋慶彦 1986 屋鋪要, 平野謙 1987 屋鋪要 1988 屋鋪要 1989 正田耕三 1990 緒方耕一, 野村謙二郎 1991 野村謙二郎 1992 飯田哲也 1993 緒方耕一, 石井琢朗 1994 野村謙二郎 1995 緒方孝市 1996 緒方孝市 1997 緒方孝市 1998 石井琢朗 1999 石井琢朗 2000 石井琢朗 2001 赤星憲広 2002 赤星憲広 2003 赤星憲広 2004 赤星憲広 2005 赤星憲広 2006 青木宣親 2007 荒木雅博 2008 福地寿樹 2009 福地寿樹 2010 梵英心 2011 藤村大介 2012 大島洋平 2013 丸佳浩 2014 梶谷隆幸 2015 山田哲人 2016 山田哲人 2017 田中広輔 2018 山田哲人 2019 近本光司 2020 近本光司 2021 中野拓夢 2022 近本光司 2023 近本光司 2024 近本光司 表 話 編 歴 投 金田正一 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 古葉毅 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 藤井栄治 表 話 編 歴 投 G.バッキー 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 重松省三 表 話 編 歴 投 村山実 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 中暁生 表 話 編 歴 投 村山実 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 一枝修平 外 江藤慎一 / 中暁生 / 山本一義 表 話 編 歴 投 小川健太郎 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 近藤和彦 / 柴田勲 / 中暁生 表 話 編 歴 投 堀内恒夫 捕 田淵幸一 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 G.マーチン / 末次利光 / 若松勉 表 話 編 歴 投 小林繁 捕 木俣達彦 一 王貞治 二 高木守道 三 掛布雅之 遊 河埜和正 外 若松勉 / 山本浩二 / 張本勲 表 話 編 歴 1972 J.シピン 1973 J.シピン 1974 高木守道 1975 大下剛史 1976 D.ジョンソン 1977 高木守道 1978 土井正三 1979 高木守道 1980 基満男 1981 篠塚利夫 1982 篠塚利夫 1983 高木豊 1984 篠塚利夫 1985 岡田彰布 1986 篠塚利夫 1987 正田耕三 1988 正田耕三 1989 正田耕三 1990 正田耕三 1991 正田耕三 1992 和田豊 1993 和田豊 1994 和田豊 1995 立浪和義 1996 立浪和義 1997 立浪和義 1998 R.ローズ 1999 仁志敏久 2000 仁志敏久 2001 仁志敏久 2002 仁志敏久 2003 今岡誠 2004 荒木雅博 2005 荒木雅博 2006 荒木雅博 2007 荒木雅博 2008 荒木雅博 2009 荒木雅博 2010 平野恵一 2011 平野恵一 2012 田中浩康 2013 菊池涼介 2014 菊池涼介 2015 菊池涼介 2016 菊池涼介 2017 菊池涼介 2018 菊池涼介 2019 菊池涼介 2020 菊池涼介 2021 菊池涼介 2022 菊池涼介 2023 中野拓夢 2024 吉川尚輝 表 話 編 歴 投 堀内恒夫 捕 田淵幸一 一 王貞治 二 高木守道 三 C.ボイヤー 遊 河埜和正 外 山本浩司 / 高田繁 / 柴田勲 表 話 編 歴 投 堀内恒夫 捕 大矢明彦 一 王貞治 二 高木守道 三 高田繁 遊 山下大輔 外 山本浩二 / 柴田勲 / 若松勉 表 話 編 歴 投 西本聖 捕 若菜嘉晴 一 王貞治 二 高木守道 三 掛布雅之 遊 山下大輔 外 山本浩二 / J.ライトル / J.スコット VIAF 日本 日本の野球選手 岐阜県立岐阜商業高等学校出身の野球選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 盗塁王 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 中日ドラゴンズ及びその前身球団の監督 名球会 野球解説者 日本の野球殿堂表彰者 岐阜県出身のスポーツ選手 1941年生 2020年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 2024/11/21 09:18更新
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takagi morimichi
高木守道と同じ誕生日7月17日生まれ、同じ岐阜出身の人
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