中利夫の情報(なかとしお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
中 利夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
中利夫と関係のある人
阿南準郎: 1987年は山本が引退し、古葉が監督に就任した大洋にコーチ、スカウト、マネージャーを大量に引き抜かれるなど、チーム力の低下が懸念されたが、元中日監督の中利夫や、近鉄時代の同僚で、前年までヤクルトのコーチであった伊勢孝夫を招聘するなど、コーチ陣の整備でチーム力低下を抑える戦略を採った。 松山昇: 8回まで4回二死から西沢道夫を歩かせただけの力投であったが、9回無死から一軍初出場であった代打の中利夫に投じた外角際どいシュートを三塁前にセーフティーバントで安打にされ、惜しくも逃した。 平田洋: また中利夫はこの試合を報じた『中日新聞』朝刊で「プロの洗礼は気にする必要はない。 高垣義広: 8月13日には中日ドラゴンズを相手に先発し、5回を中利夫の本塁打による1失点と好投、山下律夫のリリーフを仰ぐが初勝利を挙げた。 大熊忠義: 大熊自身は、つなぎの理想は「中日ドラゴンズの中利夫・高木守道の1・2番」と述べている。 大橋勲: 広島の古葉竹識や中日の高木守道・中利夫といったセ・リーグの俊足選手の盗塁を次々と阻止する一方、打撃も好調で打率も一時は3割を超えるが、大洋戦で伊藤勲から右肩にファウルチップの直撃を受けて、1ヶ月も戦線離脱を余儀なくされる間に森に正捕手の座を奪い返された。 近藤貞雄: 1981年、最下位の責任を取って辞任した中利夫監督の後任として中日の監督に就任。 井手峻: チームにコーチとして復帰したのは、中利夫監督から突然電話で「ドラゴンズで守備・走塁コーチをしてほしい。 服部受弘: 杉下は中利夫・高木守道・大島宏彦(中日新聞社最高顧問、元中日球団名誉オーナー)との対談(司会:木俣達彦)で「1958年限りで服部・西沢と自分に対し『チームの若返りのために30歳以上の選手たちを辞めさせるための妥協点』として永久欠番指定が打診されたが、自分(20番)は監督として引き続きユニホームを着るため固辞した。 近藤和彦: さらに1967年には中日の中利夫、巨人の王貞治との熾烈な争いの末、最終戦の中日戦ダブルヘッダーで中と直接対決になり、2試合で中が8打数6安打、近藤が8打数1安打でまたも2位に終わった。 牛島和彦: ドラフト前は才能こそあったもののあまりの素行の悪さから手を引く球団が続出し、中日も1度は指名を見送る予定だったが、当時の監督だった中利夫の強い希望と星野(1981年より投手コーチ補佐兼任)の「オレが鍛え直してやる」の一言で指名を決めた。 西沢道夫: いずれも優勝した巨人に3年連続10ゲーム差以上は差をつけられての2位であったが、当時固定できていなかった中利夫をリードオフマンに抜擢し、2番に高木守道を固定。 稲尾和久: 1978年に新監督・中利夫の招聘を受けて、中日ドラゴンズ一軍投手コーチに就任。 西尾慈高: 1961年、中日の若手選手だった中利夫に懇願され、自身のグラブを譲り渡した。 高木守道: 中利夫と1・2番を組み、前年に放出された森徹に代わり、江藤慎一と共に中日の新たなスター選手となった。 牛島和彦: 中利夫監督時代のある日、ミーティングで稲尾和久投手コーチから投手陣全員に「9回2死満塁、カウント2-3(2ストライク3ボール)からどんな球を投げるか?」という質問が出された。 高木守道: 2007年からは中利夫に代わり、中日OB会の会長も務めた。 |
中利夫の情報まとめ
中 利夫(なか としお)さんの誕生日は4月28日です。群馬出身の野球選手のようです。
引退、テレビ、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2023年に亡くなられているようです。
中利夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 中 利夫(なか としお、1936年〈昭和11年〉4月28日 - 2023年〈令和5年〉10月10日)は、群馬県前橋市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 登録名を頻繁に変えており、入団時は「利夫」、その後は1964年に「三夫」、1965年に「暁生」、監督時代は「利夫」。コーチ時代は「登志雄」もしくは「利夫」。解説者としては本名の「利夫」を使用。 前橋高校では1年生時の1952年秋からエース、中軸打者として活躍、主将も務めた。1953年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、桐生工に敗退。同年の秋季関東大会県予選も準決勝で桐生高に敗れる。3年次の1954年には春季関東大会県予選決勝で桐生工を降し優勝、関東大会に進むが準々決勝(初戦)で水戸農に惜敗した。同年夏の甲子園県予選は肩痛で初戦敗退。 1955年に中日ドラゴンズへ入団。2年目の1956年には、前年に中堅手であった本多逸郎が一塁手に回る。その後継として開幕から一番打者、中堅手として起用され、初の規定打席(9位、打率.262)に達した。肩も強く同年は16補殺を記録している。その後はやや低迷するが1959年には初のオールスターゲーム出場を果たし、第2戦では2回に土橋正幸から先制3点本塁打、MVPを獲得する。 1960年には打率.312(長嶋茂雄、近藤和彦に次ぐ3位)を記録し、50盗塁で盗塁王を獲得。初のベストナインにも選出された。守備面では1963年と1965年にシーズン350刺殺のリーグ新記録を作る。流し打ちの技術をマスターし、1964年に打法をアッパースイングからダウンスイングに変えてからは高打率を残すようになる。同年からは高木守道と一、二番を組みチャンスメーカーとして活躍、1966年には2度目の3割越えとなる打率.322(長嶋茂雄、遠井吾郎に次ぐ3位)を記録した。 1967年には王貞治、近藤和彦と熾烈な打率争いを繰り広げるが、セーフティーバントを連続成功させたことが功を奏し、打率.343で首位打者を獲得。 1968年に眼疾により長期欠場を余儀なくされるが、無事にカムバックした。 1971年にコーチ兼任となる。 1972年には大島康徳が開幕から中堅手に定着し出場機会が減少、同年限りで引退した。 中日で二軍打撃コーチ(1973年 - 1976年)、一軍打撃コーチ(1977年・1984年・1986年)、監督(1978年 - 1980年)、一軍作戦走塁コーチ(1985年)を歴任。 CBC解説者や中日スポーツ評論家(1981年 - 1983年)を務めた。 広島東洋カープ二軍打撃コーチ(1987年 - 1988年)・二軍監督(1989年 - 1990年)を務めた。 広島退団後はテレビ愛知(1991年 - 1996年)・三重テレビ解説者を経て、中日新聞評論家・東海ラジオ解説者(2012年 - )。 プロ野球マスターズリーグの名古屋80D'sersでは監督・選手として参加。 2003年から2006年まで中日OB会の会長も務めた。 2010年の日本シリーズ第1戦(ナゴヤドーム)では始球式を務めた。 2023年10月10日、誤嚥性肺炎のため名古屋市内の病院で死去。87歳没。 監督就任時はチーム待望の生え抜き監督であると同時に片腕として中日スポーツの記者の広野功の推薦で西鉄→太平洋クラブで監督経験のある稲尾和久(広野の西鉄時代の監督)を投手コーチに招聘した。また現役時代の監督だった水原茂にあやかり背番号を30にして話題になったが、順位は5位、3位、故障者の続出もあり就任3年目に最下位に転落し、解任された。 宇野勝は中の監督時代にレギュラーになったが、一方で平野謙に関しては中は平野を整理リスト(クビ要員)に入れており、中が監督退任したことと後任監督の近藤貞雄の意向で平野は残留になった。 中にとっては唯一のNPBでの中日以外の球団への在籍経験であり、コーチ人事で選手としての在籍経験者(生え抜き・外様を問わず)を優先する傾向の強い広島球団としては異例の、純然たる外様かつ他球団監督経験者の招聘だった。このカープでの二軍監督時代に入団し、育成を手掛けたのが前田智徳で、前田は中を恩師として慕っていた。 現役時代はその打ち方が「ちょうちん打法」と呼ばれていた。これは、高めの球が来たら身をかがめ、低めの球が来たら背を伸ばすことで、少しでもボールを多く取ることを狙った打ち方で、この時の体を上下させる動きが伸び縮みする提灯のようであることからこの名がついた。一番打者として塁に出ることを意識する中で自然と身についた打法とのこと。 ボールを長く見る打撃スタイルで、バットの出が遅く、バットと球が当たるポイントが近かった(捕手寄りだった)。この為、打撃妨害を記録することも多く、通算打撃妨害数21は日本記録である。 足が速かったこともあり、三塁打が多かった。通算81三塁打はセ・リーグ記録。 1963年と1965年に現在でもセリーグ記録となっている350刺殺を記録するなど、守備範囲が広く、その守備力は歴代屈指のものだった。その守備範囲は長嶋茂雄も恐れていた程で、打者の特徴、カウントを考慮してポジショニングをしていたことがこれの広さにも繋がった。打者の振った瞬間、バットの当たる感じによって打球の距離、方向が分かったという。実際に、レンジ系守備指標ではセリーグの外野手として歴代最高レベルの数値を叩き出している。 また、道具にも拘りを持っており、プロ7年目となる1961年に西尾慈高から譲り受けたグローブを引退までの12シーズンに渡って使い続けていた。 現役時代の心残りとして「通算1000得点を記録出来なかったこと」を挙げている。これは一番打者として、チームの勝利のため、少しでも先の塁へ進み、少しでも多く本塁に生還する(得点する)ことを重視していたことに由来している。同様の理由で走塁にも意識を置いており、単打を二塁打にするようなベースランニングを心がけていたという。 各年度の太字はリーグ最高 首位打者:1回 (1967年) 盗塁王:1回 (1960年) ベストナイン:5回 (1960年、1965年 - 1967年、1970年) オールスターゲームMVP:1回 (1959年 第2戦) 初出場・初打席:1955年4月12日、対広島カープ4回戦(中日球場)、9回裏に本多逸郎の代打として出場、大田垣喜夫の前に凡退 初安打:1955年4月14日、対広島カープ6回戦(中日球場)、9回裏に吉沢岳男の代打として出場、松山昇から単打 初先発出場:1955年7月16日、対大阪タイガース11回戦(大阪球場)、2番・中堅で先発出場 初本塁打:1956年5月8日、対広島カープ10回戦(中日球場)、6回裏に山田清志からソロ 1000試合出場:1964年8月3日 ※史上87人目 100本塁打:1966年8月13日、中村稔から ※史上45人目 リーグ最多三塁打:5回(セ・リーグ最多記録) オールスターゲーム出場:6回 (1959年、1960年、1966年、1967年、1969年、1970年) 56(1955年) 35(1956年) 3(1957年 - 1972年) 62(1973年 - 1977年) 30(1978年 - 1980年) 72(1984年 - 1986年) 76(1987年 - 1990年) 中 利夫 (なか としお、1955年 - 1963年、1973年 - 1980年) 中 三夫 (なか みつお、1964年) 中 暁生 (なか あきお、1965年 - 1972年) 中 登志雄 (なか としお、1984年 - 1990年) 東海ラジオガッツナイター - 東海ラジオ 三重テレビナイター CBCドラゴンズナイター - CBCラジオ 侍プロ野球 - CBCテレビ(TBS系列におけるプロ野球中継の現行統一タイトル) テレビ愛知 10チャンベースボール - テレビ愛知(同局プロ野球中継の現行タイトル) ^ 同校野球部の二年先輩に後に俳優となる天田俊明が投手として所属しており、中日の監督時代には東海テレビのドラゴンズ応援番組に司会者として出演している。 ^ 【虎番疾風録第3章】(84)「ドラ番記者」への誘い ^ “元中日外野手、中利夫さん死去 俊足巧打、監督も務める”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2023年10月14日). https://www.daily.co.jp/baseball/2023/10/14/0016917452.shtml 2023年10月14日閲覧。 ^ "元中日ドラゴンズ監督・選手の中利夫さんが死去 87歳・誤嚥性肺炎、俊足巧打でファンを魅了". 中日スポーツ. 中日新聞社. 14 October 2023. 2023年10月14日閲覧。 ^ 週刊ベースボール2024年6月10日号、レジェンドを訪ねる、昭和時代の言い残し、広野功、65-66頁 ^ "中利夫さん追悼 おだやかな職人肌の野球人がいちどだけ見せた「くやしさの証し」監督解任から20年すぎていた【中日】". 中日スポーツ. 中日新聞社. 15 October 2023. 2023年10月15日閲覧。 ^ "中利夫さんの肩をもんだ前田智徳 記者泣かせの男が好青年に一変、相通じた天才同士". 中日スポーツ. 中日新聞社. 14 October 2023. 2023年10月14日閲覧。 ^ “中利夫さんの日本記録と提灯打法”. 週刊野球太郎. 2024年6月2日閲覧。 ^ “王貞治が思わずセーフティーバント。中日・中利夫はそこまで追い込んだ”. 集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva (2022年1月31日). 2024年6月2日閲覧。 ^ sami. “球団史上最高の4人を選ぶ 中日ドラゴンズ編”. ranzankeikoku.blog.fc2.com. 2024年6月2日閲覧。 ^ “まるで恋のよう…プロ野球選手がグラブに求める条件と“運命の出会い” レジェンドの愛用品は球団の宝に:中日スポーツ・東京中日スポーツ”. 中日スポーツ・東京中日スポーツ. 2024年6月2日閲覧。 ^ カバヤ食品の子会社だったカバヤ・リーフが1967年に発売したトレーディングカードでは振り仮名が「なか としお」となっていた。 群馬県出身の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 個人年度別成績 中暁生 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 池田豊 1936 桝嘉一 1937 根本行都 1938 - 1939 小西得郎 1939 - 1941 本田親喜 1941 - 1942 桝嘉一 1943 三宅大輔 1944 竹内愛一 1946 杉浦清 1946 - 1948 天知俊一 1949 - 1951 坪内道典 1952 - 1953 天知俊一 1954 野口明 1955 - 1956 天知俊一 1957 - 1958 杉下茂 1959 - 1960 濃人貴実 1961 - 1962 杉浦清 1963 - 1964 西沢道夫 1964 - 1967 杉下茂 1968 水原茂 1969 - 1971 与那嶺要 1972 - 1977 中利夫 1978 - 1980 近藤貞雄 1981 - 1983 山内一弘 1984 - 1986 星野仙一 1987 - 1991 高木守道 1992 - 1995 星野仙一 1996 - 2001 山田久志 2002 - 2003 落合博満 2004 - 2011 髙木守道 2012 - 2013 谷繁元信 2014 - 2016 森繁和 2017 - 2018 与田剛 2019 - 2021 立浪和義 2022 - 2024 井上一樹 2025 - 現在 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 表 話 編 歴 1950 藤村富美男 1951 川上哲治 1952 西沢道夫 1953 川上哲治 1954 与那嶺要 1955 川上哲治 1956 与那嶺要 1957 与那嶺要 1958 田宮謙次郎 1959 長嶋茂雄 1960 長嶋茂雄 1961 長嶋茂雄 1962 森永勝治 1963 長嶋茂雄 1964 江藤慎一 1965 江藤慎一 1966 長嶋茂雄 1967 中暁生 1968 王貞治 1969 王貞治 1970 王貞治 1971 長嶋茂雄 1972 若松勉 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 山本浩二 1976 谷沢健一 1977 若松勉 1978 水谷実雄 1979 F.ミヤーン 1980 谷沢健一 1981 藤田平 1982 長崎啓二 1983 真弓明信 1984 篠塚利夫 1985 R.バース 1986 R.バース 1987 篠塚利夫, 正田耕三 1988 正田耕三 1989 W.クロマティ 1990 J.パチョレック 1991 古田敦也 1992 J.ハウエル 1993 T.オマリー 1994 A.パウエル 1995 A.パウエル 1996 A.パウエル 1997 鈴木尚典 1998 鈴木尚典 1999 R.ローズ 2000 金城龍彦 2001 松井秀喜 2002 福留孝介 2003 今岡誠 2004 嶋重宣 2005 青木宣親 2006 福留孝介 2007 青木宣親 2008 内川聖一 2009 A.ラミレス 2010 青木宣親 2011 長野久義 2012 阿部慎之助 2013 T.ブランコ 2014 M.マートン 2015 川端慎吾 2016 坂本勇人 2017 宮﨑敏郎 2018 D.ビシエド 2019 鈴木誠也 2020 佐野恵太 2021 鈴木誠也 2022 村上宗隆 2023 宮﨑敏郎 2024 T.オースティン 表 話 編 歴 1950 金山次郎 1951 土屋五郎 1952 金山次郎 1953 金山次郎 1954 吉田義男 1955 本多逸郎 1956 吉田義男 1957 飯田徳治 1958 岡嶋博治 1959 岡嶋博治 1960 中利夫 1961 近藤和彦 1962 河野旭輝 1963 高木守道 1964 古葉竹識 1965 高木守道 1966 柴田勲 1967 柴田勲 1968 古葉竹識 1969 柴田勲 1970 東条文博 1971 高田繁 1972 柴田勲 1973 高木守道 1974 中塚政幸 1975 大下剛史 1976 衣笠祥雄 1977 柴田勲 1978 柴田勲 1979 高橋慶彦 1980 高橋慶彦 1981 青木実 1982 松本匡史 1983 松本匡史 1984 高木豊 1985 高橋慶彦 1986 屋鋪要, 平野謙 1987 屋鋪要 1988 屋鋪要 1989 正田耕三 1990 緒方耕一, 野村謙二郎 1991 野村謙二郎 1992 飯田哲也 1993 緒方耕一, 石井琢朗 1994 野村謙二郎 1995 緒方孝市 1996 緒方孝市 1997 緒方孝市 1998 石井琢朗 1999 石井琢朗 2000 石井琢朗 2001 赤星憲広 2002 赤星憲広 2003 赤星憲広 2004 赤星憲広 2005 赤星憲広 2006 青木宣親 2007 荒木雅博 2008 福地寿樹 2009 福地寿樹 2010 梵英心 2011 藤村大介 2012 大島洋平 2013 丸佳浩 2014 梶谷隆幸 2015 山田哲人 2016 山田哲人 2017 田中広輔 2018 山田哲人 2019 近本光司 2020 近本光司 2021 中野拓夢 2022 近本光司 2023 近本光司 2024 近本光司 表 話 編 歴 投 秋山登 捕 土井淳 一 近藤和彦 二 井上登 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 中利夫 / 並木輝男 / 森徹 表 話 編 歴 投 村山実 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 中暁生 表 話 編 歴 投 村山実 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 一枝修平 外 江藤慎一 / 中暁生 / 山本一義 表 話 編 歴 投 小川健太郎 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 近藤和彦 / 柴田勲 / 中暁生 表 話 編 歴 投 平松政次 捕 木俣達彦 一 王貞治 二 安藤統夫 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 高田繁 / 江尻亮 / 中暁生 日本の野球選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 首位打者 (NPB) 盗塁王 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 NPBオールスターゲームMVP 日本の野球監督 中日ドラゴンズ及びその前身球団の監督 広島東洋カープ関連人物 野球解説者 群馬県立前橋高等学校出身の野球選手 群馬県出身のスポーツ選手 1936年生 2023年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/17 19:57更新
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