近藤貞雄の情報(こんどうさだお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
近藤 貞雄さんについて調べます
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近藤貞雄と関係のある人
中尾碩志: 投手は先発完投こそが華と強く自負しており、投手分業制を掲げるかつての同僚であった近藤貞雄との論争の数々は多くの人に知られている。 星野仙一: また中日のヘッドコーチ兼投手コーチ、監督を務めた近藤貞雄は「プライドの高い投手だった。 権藤博: 投手時代の酷使体験は本人のみならず球界にも波及し、現役時代に投手コーチを務めていた近藤貞雄は「投手分業制」を発案するなど、のちの日本プロ野球に大きな影響を与えた。 早川実: 社会人通算36勝という有数の実績から、近藤貞雄ヘッドコーチからは即戦力の中継ぎとして期待され、度胸のよさとピッチングのうまさには定評があった。 若菜嘉晴: 1985年には自身唯一の全試合出場するなど、近藤貞雄新監督となった横浜大洋でも正捕手として活躍した。 米村明: 解説だった元中日監督の近藤貞雄は、「握力が落ちて来てますね。 多田文久三: しかし、1947年になると、前年度23勝の近藤貞雄が負傷、同21勝の藤本英雄が中日へ移籍という状況の中で、多田は投手に再コンバート。 広瀬哲朗: 1989年、近藤貞雄が監督に就任すると重宝され、バント要員、守備固め、代走での出場を主として頻繁に起用されるようになった。 山本隆造: 日本ハムの近藤貞雄・上田利治の2監督を退場処分にしたことがある。 西沢道夫: 監督代行は近藤貞雄 黒江透修: 1980年11月、新監督に就任した近藤貞雄の意向で中日一軍打撃・守備コーチに就任。 黒沢俊夫: 1944年に戦争による資金難や徴兵による選手不足のため西鉄軍が解散したことから、供出選手として近藤貞雄らとともに東京巨人軍へ移籍。 村田兆治: 1970年にはリーグ優勝を経験、1971年、後に監督となる金田正一のアドバイスを元に、近藤貞雄投手コーチによる投球フォームを大幅に改造し、後に村田の代名詞となる「マサカリ投法」の原型を編み出した。 中山裕章: 同年は近藤貞雄監督の下で本格派として期待され、一軍で18試合に登板し、0勝3敗・防御率5.11の成績に終わるも3セーブを挙げた。 角盈男: このトレードは日本ハム・近藤貞雄監督が巨人・藤田元司監督に駄目元で直接頼み実現したが、藤田が先発完投を強く志していたことや若手投手の台頭を受けて角自身も巨人での登板機会が減っており、藤田にトレードを直訴していたという事情があった。 佐藤政夫: ローダイからロッテへ復帰してからすぐに中日へ移籍したのは、当時中日の投手コーチだった近藤貞雄が、球団に獲得を進言したことによるものとされている。 高橋一三: 日本ハムコーチ時代の1990年にはBクラスながら、2桁勝利を挙げた投手を5人出す(西崎幸広・柴田保光・松浦宏明・酒井光次郎・武田一浩)など評価は高く、1991年に近藤貞雄が監督を辞任した際には次期監督の有力候補に挙がり、一部では「内定」の報道もされたが、本社サイドが高橋の監督就任に難色を示し、同年は土橋正幸が監督に就任、1993年には大沢が復帰したため、監督への就任はならなかった。 長谷川良平: 名古屋に移籍すると杉下茂・近藤貞雄の次の立場だ」と反論するなどし、最終的に名古屋側を折れさせた。 堂上照: 現役時代のコーチ、監督である近藤貞雄によれば、チーム内の“怒られ役”でもあったということである。 柿本実: 近藤貞雄コーチの指導を受け、それまでのオーバースローからサイドスローに転向し才能が開花、江藤愼一の進言で、監督の濃人渉に1961年後半から一軍に抜擢され、この年の優勝争いに貢献した。 中登志雄: 宇野勝は中の監督時代にレギュラーになったが、一方で平野謙に関しては中は平野を整理リスト(クビ要員)に入れており、中が監督退任したことと後任監督の近藤貞雄の意向で平野は残留になった。 古屋英夫: 1989年に監督に就任した近藤貞雄は二村を三塁手にコンバートしようとしたが、打撃の伸び悩みもあってすぐに外野手に戻っている。 岡本哲司: 1990年には、公式戦開幕直後の4月に、二村忠美との交換トレードでプロ入り時の近藤貞雄監督が率いる日本ハムファイターズに移籍。 カルロス=ポンセ: 来日した1986年には、俊足選手を好んだ当時の大洋監督・近藤貞雄から重用され、高木豊・加藤博一・屋鋪要のスーパーカートリオに続く4番を務める。 板東英二: これは、自分を事実上の中日初代リリーフエースに育て上げてくれた近藤貞雄にも、「自分で書かないとボケますよ」とのアドバイスを送っている。 村田兆治: 12月10日付の『中日スポーツ』によれば、9日にはかつてロッテ投手コーチとして村田を指導した近藤貞雄が監督を務めていた中日ドラゴンズの球団代表・鈴木恕夫がロッテの球団代表・石原照夫に獲得の意思があることを連絡したのを皮切りに、阪神や読売ジャイアンツ(巨人)、村田本人や当時ロッテ監督を務めていた山本一義の地元である広島県に本拠地を置く広島東洋カープといったセ・リーグ各球団も次々と交換トレードに向けて動いており、ヤクルトスワローズも金銭トレードでの獲得を希望、横浜大洋ホエールズも関根潤三監督の意向を踏まえて獲得を検討する見込みである――と報じられていたが、同月13日にはロッテ球団オーナーの重光武雄が村田に対し、球団社長の松井静郎を通じてトレードは認めない旨を伝えた。 近藤和彦: 1985年から1986年まで大洋の監督であった近藤貞雄に招聘されて日本ハムの一軍打撃コーチ(1989年 - 1990年)→二軍監督(1991年 - 1992年)→ヘッドコーチ(1993年 - 1994年)も務め、退団後はNHK-BS「メジャーリーグ中継」解説者、韓国プロ野球のハンファ・イーグルス打撃コーチ(1997年)も務めた。 木俣達彦: 同年は近藤貞雄監督就任に伴い、木俣の後釜となる捕手の獲得が急務との判断により中尾孝義をドラフト指名。 中島輝士: 1989年は金属バットから木製バットへの変化に悩み、近藤貞雄からは「右足を軸に力をためる打撃ができていない」と言われたが、オープン戦では最優秀新人に選ばれた。 小松辰雄: 監督2年目の近藤貞雄は小松を先発に選んだ。 |
近藤貞雄の情報まとめ
近藤 貞雄(こんどう さだお)さんの誕生日は1925年10月2日です。愛知出身の野球選手のようです。
引退、解散、事件、映画、テレビ、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2006年に亡くなられているようです。
近藤貞雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 近藤 貞雄(こんどう さだお、1925年10月2日 - 2006年1月2日)は、プロ野球選手(投手)・指導者・監督、野球解説者。 現役時代は西鉄軍、巨人、中日・名古屋で活躍し、引退後は中日、ロッテ、大洋、日本ハムのコーチ・監督を歴任した。 中日では選手・コーチ・監督と異なる立場で優勝を経験した。 愛知県岡崎市出身。旧制愛知県立岡崎中学校から旧制法政大学を中退後、1943年に西鉄軍に入団。強打の一塁手として鳴らしたが、深刻な投手不足のチーム事情から石本秀一監督は、近藤の長身からの速球を見出し投手にコンバートした。同年、西鉄軍は資金難のため1年で解散に追い込まれてしまう。(なお、この「西鉄軍」は戦中の日本野球連盟活動停止前に解散したため、戦後に復帰を認められなかった。このため、2リーグ分立時に「西鉄(クリッパース)」としてパ・リーグに加盟した球団との間に直接的な繋がりはないため、「旧制・岡崎中学から西鉄(現・西武)入団」と書かれている文献は誤りである。) 折しも徴兵による選手不足に悩む東京巨人軍の藤本英雄監督から申し出があり、1944年に黒沢俊夫らとともに巨人に移籍した。なお、黒沢とともに他球団から巨人に移籍した最初の選手となっている。投手として3勝を挙げる傍らで、登板しない試合には一塁手や外野手を務めるなどほぼフル出場した。 プロ野球が再開された1946年に巨人に復帰すると、大車輪の活躍で23勝(リーグ4位)防御率2.18(同2位)をあげる。しかし、同年の秋季キャンプで滞在していた愛媛県松山市で散歩中、進駐軍のジープにはねられそうになったためそれを避けたところ、側溝に転落。そこに落ちていたガラスの破片により右手中指を負傷してしまう。戦後混乱期にあって迅速な治療を受けられず神経に深い傷を残してしまったことから、満足な投球ができなくなる。翌1947年は未勝利に終わり巨人を自由契約となった。同僚だった千葉茂は「近藤の負傷が『別所引き抜き事件』の遠因になった」と評する。なお、近藤の右手中指は第二関節から先が曲がったまま、生涯元に戻ることはなかった。 巨人時代の同僚で中日に移籍していた宮下信明が中日の杉浦清監督に掛け合い、近藤は中日に移籍。移籍1年目の1948年に独特の3本指で投げる「疑似チェンジアップ(パームボール)」を開発し、同年7勝、1949年7勝、1950年10勝と活躍した。この近藤の復活劇をモチーフに新東宝が「人生選手」という映画を製作した。この映画には近藤も出演している。天知俊一監督が復帰した1954年チームがリーグ優勝を果たすが、近藤は同年限りで引退した。 1955年から1962年(野口〜第3次天知〜第1次杉下〜濃人監督時代)、1964年から1968年(第2次杉浦〜西沢〜第2次杉下監督時代)まで中日投手コーチを務めた。ルーキーイヤーから2年連続30勝をあげながら連投に次ぐ連投で肩を壊し、事実上投手生命を失った権藤博の起用法に対する反省から、先発―中継ぎ―抑えの「投手分業制」を提唱。「甲子園準優勝投手」の鳴り物入りで入団しながら打線の援護に恵まれず、不振をかこっていた板東英二をリリーフエースとして起用することで実践した。 高校時代の投球過多で長いイニングを投げるのが苦痛になっていた板東は期待に応えて活躍の場を見せる。巨人・中尾碩志投手コーチとの論争などを経て近藤の「投手分業制」は球界に定着した。ただし、この件について、近藤は自著『野球はダンディズム'88』の中で「当時はまだ若輩で、濃人渉監督・石本秀一ヘッドコーチの権藤の使い方を、疑問の目で見ながらも、確たる理論的な裏づけもないまま、口を挟むことができなかった」と話している。実際に確信したのは、この5年後の1966年にはフロリダの教育リーグでセネタースのピッチングコーチだった元ヤンキースのジョニー・セイン(英語版)から「投手の肩は消耗品」ということを教えられ、日本流の「投げ込み」や「酷使」が確実に投手寿命を縮めることを確信したと書いている。また、コーチ時代に中日に在籍したポール・ホイタックの影響もあったといわれる。 1967年5月には成績不振のため休養した西沢道夫に代わって監督代行を務めるが、交代前の10試合で2勝7敗1分だったところ、交代後は8勝2敗と見事チームを立ち直らせている。 その後は濃人の誘いで1969年〜1971年にロッテの投手コーチを務める。ロッテ時代には、若手有望株であった村田兆治の投球フォーム改造に取り組み、その完成形は「マサカリ投法」として村田の代名詞となった。1972年に中日の監督に就任した与那嶺要の要請で、古巣中日にヘッドコーチ兼投手コーチとして再度招かれる。与那嶺から投手の起用法について全てを任され、2年目の鈴木孝政を抜擢するなど、1974年のリーグ優勝に貢献した。1976年に退任し、1977年からはCBCの野球解説者を務めた。 1981年、最下位の責任を取って解任された中利夫監督の後任として中日の監督に就任。近藤は前任監督の中について、「中は年齢的にも(辞任当時44歳)長期政権を託されていたはずだから、わずか3年での退陣は本人はもちろん、球団フロントも誤算だったはずだ」、自身が監督になったことについては「将来の監督候補として、チーム生え抜きの木俣、あるいは星野が目されていたが、ともにまだ現役で、またもうプレイングマネージャーの時代ではなくなっていた。結局、選手時代からドラゴンズの経歴が長く、また与那嶺監督の下でヘッド兼投手コーチとして主力選手の多くを知っており、チーム事情も熟知しているなどの理由で、僕に後任監督の座がめぐってきた」と後に近藤は語っている。 近藤は、コーチングスタッフの編成で一つだけフロントに注文を出した。「牧野、そして杉下と、過去に中日はOBをコーチとして巨人にさらわれている。今度はその逆をやりたいんだが」、近藤が白羽の矢を立てるのは黒江透修だった。近藤は黒江について、「有能な反面、言いたいことをストレートに口に出して煙たがれるタイプで、そのあたりをフロントの誰かに疎まれたのか、浪々の身だった。人間が仕事上での不平不満を、酒場などで愚痴るのはサラリーマンの世界でもよくあることで、グラウンドで期待してくれれば問題はないと考えたから、コーチとしての彼の能力のみを買って、黒江を自分のチームに迎え入れた」、「結果は成功で、1982年のリーグ優勝は、球界でのキャリアは長かったといえ新米で、ともすれば作戦や用兵で独断専行に陥る危険性があった僕を、投手コーチだった権藤、作戦コーチだったジム・マーシャルらと共に助けてくれた」と著書の中で記している。ドラフト1位の中尾孝義を正捕手に抜擢し、戦力外になりかけていた平野謙の才能を見抜いてレギュラー野手に成長させ、2年目の若手投手・牛島和彦を抑え投手に抜擢し、積極的に世代交代を促した。1981年は小松辰雄が先発、抑えとフル回転し12勝11セーブ、星野仙一は23試合全て先発し2年ぶり二桁となる10勝(9敗)、防御率も4年ぶりの3点台となる3.71と持ち直し、チームは借金7の5位に終わったが優勝した巨人に対して12勝11敗3分けとリーグで唯一の勝ち越し、完全優勝を阻止した。翌1982年にリーグ優勝を果たした。この優勝決定試合は大洋戦(横浜スタジアム)で、長崎啓二(大洋)と田尾安志(中日)との間で最後まで争った首位打者争いで、いまだに語られる田尾の5打席連続敬遠の日であったが、中日は優勝し外野スタンドから大勢の観客がグラウンドに乱入し、もみくちゃの観客のいる中で優勝インタビューが行なわれた。インタビューが中盤にさしかかった時に心無いファンに正面から近藤がかぶっていた球団帽を奪い取られた。近藤も一瞬動揺したが、インタビュー中で追いかけることもできないため、そのままインタビューに答えている。翌1983年は最下位ヤクルトと0.5ゲーム差に終わり、シーズン中に後任監督の山内一弘の監督就任が発表され、近藤は中日の監督を辞任した。 1985年、横浜大洋ホエールズの監督に就任。高木豊、加藤博一、屋鋪要の俊足打者3人を1〜3番に据え「スーパーカートリオ」と売り出し、打線の上位に置く。三塁手だった田代富雄を一塁手に、一塁手だったレオン・リーを三塁手に、二塁手だった高木豊を遊撃手に、遊撃手だった山下大輔を二塁手に大胆なコンバートを敢行した。チームは4位に終わったが、最下位脱出に期待をもたせた。スーパーカートリオの3人で148盗塁を記録した。 1986年、ヤクルトへ移籍したレオンの後釜としてカルロス・ポンセとダグ・ローマンを獲得。前年優勝の阪神との開幕3連戦を3タテするなど好スタートを切ったが、加藤と田代が負傷して戦列離脱すると6月下旬から13連敗もあり、成績低下。最終的に4位に終わり、責任を取って勇退した。 1989年より日本ハムファイターズの監督を務める。近藤和彦、前田益穂をコーチで招聘した。4月10日の対福岡ダイエー戦で7回、近藤は加藤伸一による一塁への牽制球をめぐって最初三塁に投げようとした事がボークではないかと猛抗議し、退場処分となった。63歳6か月での退場処分は阪神の監督だった1967年の藤本定義の62歳9カ月を抜く当時の史上最年長記録であり、加えて平成初の退場者となった。同じ年の7月20日の対オリックス・ブレーブス戦でも酒井勉の牽制球を巡って抗議し、退場処分を受け自らの最年長記録を更新している。中島輝士、鈴木慶裕といった若手を起用した。勝率は5割前後にとどまり最後は5位に沈んだ。1990年は柴田保光、西崎幸広、松浦宏明に加え、新人の酒井光次郎、抑えの武田一浩と5人の2桁勝利を挙げ、新助っ人のマット・ウインタースが35本塁打など4位。1991年は序盤は勝ち越しに成功、4年目の芝草宇宙が史上24人目の初登板初完封勝利を飾り、西崎が10勝、柴田が9勝、武田が最優秀救援投手に輝き、野手では白井一幸が打率.311、ウィンタースが33本塁打と活躍も、チーム打率リーグ最下位と投打がかみ合わず4位に終わり同年退任。 1992年から2006年までは、CBCテレビ・CBCラジオの野球解説者・中日スポーツ野球評論家を務める。野球解説者がスポーツ新聞などに寄稿する場合、実際の記事は解説者から話を聞いた記者(ゴーストライター)が書くケースがほとんどと言われているが、近藤は自ら記事を書いた。中日スポーツの増田護記者がその理由を聞くと、「話したこととニュアンスが違う(記事になった)ことがあったんだ。それじゃあ自分で書けばいいんだから勉強もしたよ」と答えたという。また、教え子の1人であった板東は近藤が「ディスクジョッキーみたいなものをやってみたい」という意向をもっていたことから、それも踏まえて「自分で(記事を)書かなけりゃボケますよ」とアドバイスしたという。なお、近藤の願望は解説者に復帰した直後の1992年4月に始まったCBCラジオのワイド番組『もぎたてのカボチャたち』のパーソナリティー就任で実現することとなった。 1999年野球殿堂入りを果たす。 2001年にはプロ野球マスターズリーグの名古屋80D'sers初代監督となり、翌2002年まで務めた。 2006年1月2日午前9時22分、近藤は都内の病院で呼吸不全のため死去した。80歳没。この年、かつて近藤が監督を務めた日本ハムが25年ぶりのリーグ優勝を果たし、中日も2004年以来の2年ぶりのリーグ優勝を決めた。 若い頃は細面で鼻筋の通った優しい顔立ちで、女性ファンとすぐ仲良くなっていたことから、巨人の古いOBからは「スケコン」と呼ばれていた。巨人が地方遠征に出ると、女性ファンからの差し入れが殺到し、近藤の部屋には生活必需品が山のように積まれていたという。巨人のエースとして活躍したこともあったが、退団の経緯などから巨人OB会には一度も出席しなかった。 ニックネームは先進的な理論とユーモア溢れるパフォーマンスから「ダンディ」。 近藤自身が「瞬間湯沸かし器」と称していたとおり、審判に駆け寄っての抗議も多く、その際に両手を後ろに回すスタイルが多くのプロ野球ファンの共感を呼び、「日本のビリー・マーチン」と呼ばれた。審判団から退場を命じられた数も多く、1993年にダイエーの根本陸夫監督に破られるまで退場者の最高齢記録を持っていた(現在は2005年に仰木彬が更新している)。平成(1989年)のプロ野球において、初の退場を命じられたのは大正生まれの近藤であった。実際のところは審判との罵り合いはファンサービスととらえており、中日・大洋の監督時代に2度の退場宣告を受けている柏木敏夫とは、実際にはアドバイスや議論を重ねる間柄だった。近藤が日本ハム監督になると、柏木をつかまえて「お前もパ・リーグに来て一緒になんかやらかして、客集めしよう」と声をかけたこともあった。日本ハム時代は、前川芳男が抗議のターゲットであった。 その一方で近藤は論理的、システマティックな野球観を持っていた。例えば不要な投げ込みの禁止、自主練習を重視するスタイルによるキャンプでのだらだらした長時間練習の廃止、判で押したようなバント作戦の否定、「アメフト野球」「ツープラトン野球」と言われた攻撃と守備で選手を大きく入れ替える戦術などは、その野球観の代表例である。この野球観は中日時代の教え子であった権藤博が短命に終わったことから形成されたが、与那嶺監督時代に一軍と二軍でそれぞれ投手コーチを務めていたことから権藤にも継承され、1998年に横浜ベイスターズを日本一に導いている。 1982年のシーズン最終戦、優勝を賭けた試合前にベンチ裏にビールをずらりと並べ、緊張するナインに「ぐいっと引っかけて度胸を据えて行け」と言ったが、ナインは誰も手を付けず近藤一人だけが飲んでいたという逸話があるが、鈴木孝政が「(この試合は小松辰雄が完投した事もあり、)用なしだから裏でビールを飲んでた」と発言している。また木俣達彦によると、5回ごろに水を飲みに行ったところ鈴木と堂上照がベロベロになっており、ゲーム終盤にはみんな輪になって飲んでいたという。 1981年にコーチ兼任になった星野仙一はもとより信頼関係は低かったが、中日が優勝した1982年には、登録抹消はされなかったものの衰えが顕著になり登板機会が大幅に減少した。同年6月30日ナゴヤ球場での巨人戦9回表4対2で2点リードの場面で星野が通算3割3分以上打たれ、苦手としている巨人の打者・淡口憲治から同点本塁打を打たれる。牛島に後を譲り降板すると、近藤は星野に「もう先発要員ではない。リリーフに回れ」と話した。木俣達彦は「先発、完投を生きがいにしてきた星野にとって自分をすべて否定された思いに違いない」と記しているが、実際には星野の14年間の選手生活の中で、先発中心で起用されていたのは5年ほどしかなく、近藤が投手コーチを務めていた1974年のリーグ優勝時も抑えとして起用されていた。 とはいえ、先発を外されたうえにリリーフエースは牛島の指定席とあって、星野はこの年をもって引退した。星野はその後も二度、中日の監督を務めるなど球団内で圧倒的な権力を誇っていたが、阪神監督就任の際に中日OB会を除名されることとなった。近藤は、「(中日OB会から)星野を追い出したのが俺の最大の功績だ」と親しい知人に漏らしていた。こうした経緯から、星野は近藤の訃報を聞いても通夜・葬儀への出席をしなかった(死去翌日、読売新聞大阪本社版等の一部新聞には追悼のコメントを寄せていた。)。しかし近藤は、著書で星野について、現役時代や監督としての姿勢を高く評価しており、前述の1982年の引退勧告も、これからの中日のメリットのことを考えてのことだったこともあり、複雑な心境だったと述べていた。 また監督就任時には髙木守道に「君はいいコーチになれるよ」と言い、引退するように仕向けて実現させており、星野と同年に木俣達彦も引退させている。1982年5月23日の大洋戦9回裏、9対6で3点リードの場面で鈴木孝政が長崎啓二にサヨナラ満塁本塁打を打たれたが、バッテリーを組んでいた木俣は近藤にリードに問題ありと断罪され、翌日、2年目の中尾孝義にマスクを譲り代打に専念にするよう告げられる。近藤が起用した中尾は同年MVPを獲得している。代わって投は小松辰雄や牛島ら、打は平野謙らを登用している。 平野は前任監督の中が作った整理リスト(クビ要員)に入っていたが、近藤が一人ずつチェックし、そこでコーチが「平野は足はまずまず、外野の守備は全くダメです。」と報告、近藤は「だったら守備固めで使えるかもしれないから一年間、残してみよう」と残留になり、平野は「近藤さんじゃなきゃクビでしたね。それは間違いない。しかも、その後、使ってくれましたからね。いくら感謝してもしきれない。プロ野球選手・平野謙の生みの親と言ってもいいでしょう。いわゆる古き良き野球人で、門限を破っても何をしてもいいけど、ユニフォーム着たら責任を持てよ。という感じでした。まさに僕にぴったしな監督でした。」と述べている。 長嶋茂雄に対しては、前向きな姿勢が立派であると評価していたものの、監督としての能力を心配している部分もあった。そこで近藤は野村克也を参謀にして、長嶋とタッグを組んだらよいのではないかという考えを著書にて提唱していた。 スリークォーターから速球・シュート・スライダーを投げ分けた。またヘッドワークが良く、打者の弱点を突くのが大変上手かった。 各年度の太字はリーグ最高 各年度の太字はリーグ最高 ※1967年は西沢道夫の休養に伴う監督代理(5月18日 - 5月28日) ※1981年から1996年までは130試合制 ※この他、1974年10月14日の対巨人戦ダブルヘッダー(後楽園球場・長嶋茂雄引退試合)でも代理で指揮を執っている(与那嶺監督や主力選手が名古屋市内での優勝パレードに参加したため)。 野球殿堂競技者表彰(1999年) 10(1943年) 17(1946年 - 1947年) 5(1948年 - 1952年) 32(1953年、1955年) 36(1954年) 31(1956年 - 1958年) 63(1959年 - 1961年、1989年 - 1991年) 50(1962年) 65(1964年) 61(1965年 - 1968年、1972年 - 1976年、1981年 - 1983年) 54(1969年 - 1971年) 81(1985年 - 1986年) THE BASEBALL 野球烈闘
CBCドラゴンズナイター
サンデードラゴンズ オールスター感謝祭 もぎたてのカボチャたち(CBCラジオ、1992年4月-1996年3月。1993年9月までは木曜、1993年10月以降は月曜バーソナリティー) 『野球はダンディズム』(朝日新聞社、1988年3月、ISBN 4022558393) 『勝つ条件:球界一の魔術師が語る』(アイペック、1988年4月、ISBN 4870470691) 『野球はダンディズム'88』(朝日新聞社、1989年3月、ISBN 4022559896) 『退場がこわくて野球ができるか』(ドリームクエスト、2000年8月、ISBN 492519206X) ^ “【10月24日】1980年(昭55)“異端の名将”近藤貞雄、投手出身なのに「攻撃は最大の防御」”. スポニチ. (2009年10月1日). オリジナルの2019年4月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190427152912/https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0710/kiji/K20091001Z00003370.html 2020年2月24日閲覧。 ^ 近藤貞雄『野球はダンディズム'88』朝日新聞社、1989年、98頁 ^ 『野球はダンディズム'88』98-99頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』975頁 ^ 近藤貞雄著『退場がこわくて野球ができるか』ドリームクエスト、2000年、P49 ^ [完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P48 ^ 木俣達彦著、『ザ・捕手 〜私が出会った監督・選手たち』、中日新聞社、中日新聞社、2011年、p186-p188 ^ ベースボールマガジン2024年7月号、星野仙一と中日ドラゴンズ、57頁 ^ 退場がこわくて野球ができるか、P79-P80 ^ 退場がこわくて野球ができるか、P128-P129 ^ 「革命捕手」中尾孝義が見たプロ野球 入団2年目にセ捕手初のMVP その年の大洋戦の大逆転負けが正捕手定着の契機に 日刊ゲンダイ、2022年1月18日閲覧 ^ 1981年 セントラル・リーグ ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.9 [1983年編] (週刊ベースボール別冊夏祭号)、ベースボール・マガジン社、89頁、2020年 ^ ベースボールマガジン、2021年 01 月号 特集:横浜大洋ホエールズ マリンブルーの記憶 (ベースボールマガジン別冊新年号) 33頁 ^ 平成退場1号は大正生まれのダンディー・近藤貞雄スポーツニッポン - ウェイバックマシン(2017年8月3日アーカイブ分) ^ 週刊ベースボール2024年7月22日号、昭和世代の言い残し、島田誠、66頁 ^ ファイターズ50年史(B.B.MOOK1651)、ベースボール・マガジン社、2024年、77頁 ^ 『中日スポーツ』2006年1月3日 ^ 板東英二『プロ野球 今年は黙ってられないゾ』青春出版社、1995年、226頁。 ^ 『巨人軍の男たち』96頁 ^ 玉木正之「プロ野球大事典」新潮文庫 ^ 「中日ドラゴンズ 黄金時代の記憶」ベースボール・マガジン社 ^ 「中日ドラゴンズ70年史」中日新聞社、2006年、34頁 ^ 『退場がこわくて野球ができるか』 ^ 週刊ベースボール2020年6月15日号、平野謙の人生山あり谷あり、感謝あり、第5回、僕の生みの親?、近藤貞雄監督、62頁 ^ 『退場がこわくて野球ができるか』より ^ 『巨人軍の男たち』95頁 ^ 朝日新聞・東京版、1992年5月15日付テレビ欄、読売新聞・岡山版、1992年5月15日付テレビ欄およびスポーツ面「きょうのプロ野球」掲載の放送予定。 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年 訃報 近藤貞雄氏 愛知県出身の人物一覧 法政大学の人物一覧 西鉄軍の選手一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧 個人年度別成績 近藤貞雄 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 横沢三郎 1946 苅田久徳 1947 - 1948 井野川利春 1949 安藤忍 1950 - 1951 井野川利春 1952 - 1954 保井浩一 1955 岩本義行 1956 - 1960 水原茂 1961 - 1967 大下弘 1968 松木謙治郎 1969 - 1970 田宮謙次郎 1970 - 1973 土橋正幸 1973 中西太 1974 - 1975 大沢啓二 1976 - 1983 植村義信 1984 大沢啓二 1984 高田繁 1985 - 1988 近藤貞雄 1989 - 1991 土橋正幸 1992 大沢啓二 1993 - 1994 上田利治 1995 - 1999 大島康徳 2000 - 2002 トレイ・ヒルマン 2003 - 2007 梨田昌孝 2008 - 2011 栗山英樹 2012 - 2021 BIGBOSS・新庄剛志 2022 - 現在 表 話 編 歴 渡辺大陸 1950 中島治康 1951 有馬義一 1951 小西得郎 1952 - 1953 永沢武夫 1954 藤井勇 1955 迫畑正巳 1956 - 1958 森茂雄 1959 三原脩 1960 - 1967 別当薫 1968 - 1972 青田昇 1973 宮崎剛 1974 秋山登 1975 - 1976 別当薫 1977 - 1979 土井淳 1980 - 1981 関根潤三 1982 - 1984 近藤貞雄 1985 - 1986 古葉竹識 1987 - 1989 須藤豊 1990 - 1992 江尻亮 1992 近藤昭仁 1993 - 1995 大矢明彦 1996 - 1997 権藤博 1998 - 2000 森祇晶 2001 - 2002 山下大輔 2003 - 2004 牛島和彦 2005 - 2006 大矢明彦 2007 - 2009 尾花髙夫 2010 - 2011 中畑清 2012 - 2015 アレックス・ラミレス 2016 - 2020 三浦大輔 2021 - 現在 表 話 編 歴 池田豊 1936 桝嘉一 1937 根本行都 1938 - 1939 小西得郎 1939 - 1941 本田親喜 1941 - 1942 桝嘉一 1943 三宅大輔 1944 竹内愛一 1946 杉浦清 1946 - 1948 天知俊一 1949 - 1951 坪内道典 1952 - 1953 天知俊一 1954 野口明 1955 - 1956 天知俊一 1957 - 1958 杉下茂 1959 - 1960 濃人貴実 1961 - 1962 杉浦清 1963 - 1964 西沢道夫 1964 - 1967 杉下茂 1968 水原茂 1969 - 1971 与那嶺要 1972 - 1977 中利夫 1978 - 1980 近藤貞雄 1981 - 1983 山内一弘 1984 - 1986 星野仙一 1987 - 1991 高木守道 1992 - 1995 星野仙一 1996 - 2001 山田久志 2002 - 2003 落合博満 2004 - 2011 髙木守道 2012 - 2013 谷繁元信 2014 - 2016 森繁和 2017 - 2018 与田剛 2019 - 2021 立浪和義 2022 - 2024 井上一樹 2025 - 現在 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 1936春夏 牧野潔 1936秋 加藤智男 1937春 森井茂 1937秋 森井茂 1938春 松尾幸造 1938秋 森井茂 1939 松尾幸造 1940 村松幸雄 1941 森井茂 1942 河村章 1943 松尾幸造 1944 森井茂 1946 森井茂 1947 松尾幸造 1948 服部受弘 1949 服部受弘 1950 清水秀雄 1951 近藤貞雄 1952 大島信雄 1953 杉下茂 1954 石川克彦 1955 石川克彦 1956 杉下茂 1957 伊奈努 1958 中山俊丈 1959 伊奈努 1960 伊奈努 1961 板東英二 1962 柿本実 1963 河村保彦 1964 河村保彦 1965 柿本実 1966 山中巽 1967 小川健太郎 1968 小川健太郎 1969 小川健太郎 1970 小川健太郎 1971 伊藤久敏 1972 水谷寿伸 1973 稲葉光雄 1974 星野仙一 1975 松本幸行 1976 星野仙一 1977 松本幸行 1978 星野仙一 1979 星野仙一 1980 藤沢公也 1981 三沢淳 1982 小松辰雄 1983 小松辰雄 1984 鈴木孝政 1985 小松辰雄 1986 郭源治 1987 杉本正 1988 小松辰雄 1989 小野和幸 1990 西本聖 1991 小松辰雄 1992 郭源治 1993 今中慎二 1994 今中慎二 1995 今中慎二 1996 今中慎二 1997 山本昌 1998 山本昌 1999 川上憲伸 2000 野口茂樹 2001 山本昌 2002 山本昌 2003 川上憲伸 2004 川崎憲次郎 2005 川上憲伸 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 川上憲伸 2009 浅尾拓也 2010 吉見一起 2011 M.ネルソン 2012 吉見一起 2013 吉見一起 2014 川上憲伸 2015 山井大介 2016 大野雄大 2017 大野雄大 2018 小笠原慎之介 2019 笠原祥太郎 2020 大野雄大 2021 福谷浩司 2022 大野雄大 2023 小笠原慎之介 2024 柳裕也 表 話 編 歴 1936夏 沢村栄治 1936秋 沢村栄治 1937春 沢村栄治 1937秋 沢村栄治 1938春 V.スタルヒン 1938秋 前川八郎 1939 川上哲治 1940 V.スタルヒン 1941 須田博 1942 広瀬習一 1943 須田博 1944 藤本英雄 1946 近藤貞雄 1947 川崎徳次 1948 川崎徳次 1949 多田文久三 1950 藤本英雄 1951 別所毅彦 1952 藤本英雄 1953 別所毅彦 1954 大友工 1955 別所毅彦 1956 別所毅彦 1957 大友工 1958 藤田元司 1959 伊藤芳明 1960 伊藤芳明 1961 中村稔 1962 城之内邦雄 1963 伊藤芳明 1964 高橋明 1965 金田正一 1966 金田正一 1967 城之内邦雄 1968 金田正一 1969 金田正一 1970 高橋一三 1971 渡辺秀武 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 高橋一三 1975 堀内恒夫 1976 堀内恒夫 1977 堀内恒夫 1978 堀内恒夫 1979 新浦寿夫 1980 江川卓 1981 西本聖 1982 江川卓 1983 西本聖 1984 江川卓 1985 西本聖 1986 江川卓 1987 西本聖 1988 桑田真澄 1989 桑田真澄 1990 斎藤雅樹 1991 槙原寛己 1992 槙原寛己 1993 斎藤雅樹 1994 斎藤雅樹 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 斎藤雅樹 1998 桑田真澄 1999 B.ガルベス 2000 上原浩治 2001 上原浩治 2002 上原浩治 2003 上原浩治 2004 上原浩治 2005 上原浩治 2006 上原浩治 2007 内海哲也 2008 高橋尚成 2009 S.グライシンガー 2010 内海哲也 2011 東野峻 2012 内海哲也 2013 宮國椋丞 2014 菅野智之 2015 菅野智之 2016 菅野智之 2017 M.マイコラス 2018 菅野智之 2019 菅野智之 2020 菅野智之 2021 菅野智之 2022 菅野智之 2023 T.ビーディ 2024 戸郷翔征 表 話 編 歴 1950 小西得郎 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 水原円裕 1957 水原円裕 1958 水原円裕 1959 水原円裕 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 藤本定義 1963 川上哲治 1964 藤本定義 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 与那嶺要 1975 古葉竹識 1976 長嶋茂雄 1977 長嶋茂雄 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 近藤貞雄 1983 藤田元司 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 阿南準郎 1987 王貞治 1988 星野仙一 1989 藤田元司 1990 藤田元司 1991 山本浩二 1992 野村克也 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 長嶋茂雄 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 星野仙一 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 星野仙一 2004 落合博満 2005 岡田彰布 2006 落合博満 2007 原辰徳 2008 原辰徳 2009 原辰徳 2010 落合博満 2011 落合博満 2012 原辰徳 2013 原辰徳 2014 原辰徳 2015 真中満 2016 緒方孝市 2017 緒方孝市 2018 緒方孝市 2019 原辰徳 2020 原辰徳 2021 高津臣吾 2022 髙津臣吾 2023 岡田彰布 2024 阿部慎之助 VIAF 日本 日本の野球選手 二刀流の野球選手 愛知県立岡崎高等学校出身の野球選手 法政大学野球部の選手 西鉄軍及び大洋軍の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 日本の野球監督 中日ドラゴンズ及びその前身球団の監督 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の監督 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の監督 千葉ロッテマリーンズ関連人物 日本の野球殿堂表彰者 野球解説者 愛知県出身のスポーツ選手 1925年生 2006年没 2024/11/17 16:17更新
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