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武田一浩の情報 (たけだかずひろ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

武田一浩の情報(たけだかずひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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武田 一浩さんについて調べます

■名前・氏名
武田 一浩
(読み:たけだ かずひろ)
■職業
野球選手
■武田一浩の誕生日・生年月日
1965年6月22日 (年齢58歳)
巳年(へび年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和40年)1965年生まれの人の年齢早見表

武田一浩と同じ1965年生まれの有名人・芸能人

武田一浩と同じ6月22日生まれの有名人・芸能人

武田一浩と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


武田一浩と関係のある人

与田剛: 1995年シーズンオフには武田一浩(日本ハムファイターズ)とのトレードが検討されたが、このトレードは中日が与田の放出に消極的な態度を示したため、不成立に終わっている。


東瀬耕太郎: 武田一浩、平塚克洋の投手陣で2年まではベンチにも入ることが出来なかったが、3年の春季リーグ戦から登板。


安田秀之: 大型野手として期待されたが、なかなか一軍で出場機会はなく、1995年オフに武田一浩・松田慎司との交換トレードで下柳剛とともに日本ハムファイターズへ移籍。


小野和義: 翌1983年夏の全国高校野球選手権西東京大会では、準決勝で明大中野高の武田一浩に投げ勝ち、決勝でも帝京大高を降し、第65回全国高等学校野球選手権大会への出場を決める。


津村潔: “【伝説】初登板で完全試合!?遂に武田一浩さんがYouTube初登場!武田さんの幼少期に迫る【プロ野球】”. 片岡篤史チャンネル (2021年9月7日). 2021年9月10日閲覧。


山田久志: コーチ時代には岩瀬や川上憲伸を手塩にかけて育て上げた反面、武田一浩や前田幸長とはソリが合わず、正津英志や遠藤政隆も打ち込まれると山田からは無視されていたという。


バディ=カーライル: 初打点:2001年5月6日、対中日ドラゴンズ9回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に武田一浩から右前適時打


大石清: 日本ハムコーチ時代には岩本勉のイップス克服に大きな影響を与え、今関勝・島崎毅・関根裕之・高橋憲幸を育てた一方で、武田一浩と対立して二軍へ追っ払ったあげく、武田の昇格要請をことごとく拒否したこともあった。


小池秀郎: 野口茂樹・川上憲伸・山本昌・武田一浩に次ぐ5人目の先発投手の座を山田洋・鶴田泰らと争い、2000年のシーズンは先発として起用された。


秋山幸二: 監督の王貞治は、西武から移籍の工藤、日本ハムから移籍の武田一浩と共に、甘えの体質を変えてくれたと述べている。


嘉㔟敏弘: 初打点:1997年4月11日、対福岡ダイエーホークス1回戦(福岡ドーム)、2回表に武田一浩から犠飛


根本陸夫: また、松永浩美・廣田浩章・武田一浩・田村藤夫・長冨浩志・西村龍次・山崎慎太郎など他球団で活躍したベテラン選手を補強している。


谷口邦幸: 初安打:2001年4月30日、対中日ドラゴンズ6回戦(ナゴヤドーム)、5回表に武田一浩から中前安打


山本昌広: しかし、防御率2.96はこの年20勝を挙げた巨人の新人上原浩治や19勝を挙げシーズンMVPになった同僚野口茂樹に次ぐリーグ3位で、野口や川上憲伸・武田一浩とともに先発ローテの4本柱を担った。


松元ユウイチ: 初打席・初安打:同上、3回裏に武田一浩から中前安打


金平桂一郎: 明大中野高を卒業(元プロ野球選手の武田一浩は同級生、現三迫ボクシングジム会長三迫貴志は後輩)後、1990年にロシア・サンクトペテルブルクのレスガフト記念体育大学へ留学した。


丹波健二: 調布リトルに在籍し、同期には武田一浩らがいた。


星野仙一: 明治大学の後輩であり、前年のパ・リーグ最多勝投手であった武田一浩をFAで獲得した。


小久保裕紀: 第3戦で初安打を打つと、ナゴヤドームでの第4戦では、前年までダイエーに所属していた武田一浩から本塁打を放つなど、日本一に貢献した。


門倉健: 同年オフ、パ・リーグ最多勝投手の武田一浩(前福岡ダイエーホークス)がFA権を行使して中日に加入し、彼と右のエースの座を争うこととなった。


高橋一三: 日本ハムコーチ時代の1990年にはBクラスながら、2桁勝利を挙げた投手を5人出す(西崎幸広・柴田保光・松浦宏明・酒井光次郎・武田一浩)など評価は高く、1991年に近藤貞雄が監督を辞任した際には次期監督の有力候補に挙がり、一部では「内定」の報道もされたが、本社サイドが高橋の監督就任に難色を示し、同年は土橋正幸が監督に就任、1993年には大沢が復帰したため、監督への就任はならなかった。


白井康勝: 1992年それまで抑えを務めていた武田一浩の先発転向に伴いリリーフエースへ。


西俊児: 8月28日のダイエー戦(福岡D)でもエース武田一浩からセンター前への同点タイムリーを打ち、9月1日の西武戦(東京D)では竹下潤からファウルで3球以上粘って推定飛距離140mの本塁打を放った。


板倉賢司: 調布リトル・シニア所属時の1学年上には中学校、高校を通じての先輩でもある荒木大輔や宮下昌己、同級には武田一浩や上福元勤、丹波健二らがいた。


川崎憲次郎: 同年は二軍(ウエスタン・リーグ)でわずか1試合(2イニング)を投げただけで終わり、中日は川崎の離脱に加えて先発投手として計算していた武田一浩・川上憲伸や新外国人(ティム・アンローやオジー・ティモンズ)の不調などから5位に低迷し、星野はシーズン閉幕を待たず9月25日に辞任を表明した。


平塚克洋: 高校卒業後は明治大学へ進学し、同期の武田一浩との二本柱で活躍。


前田幸長: 同年オフには福岡ダイエーホークスからフリーエージェント (FA) の権を行使して移籍加入した武田一浩に背番号18を譲り29へ変更された。


大島公一: 初盗塁:1993年6月2日、対日本ハムファイターズ9回戦(東京ドーム)、1回表に二盗(投手:武田一浩、捕手:田村藤夫)


城島健司: 工藤公康・武田一浩の左右エース投手、バッテリーコーチの若菜嘉晴の公私共の支え、ロッテから移籍したベテラン田村藤夫の教えもあり、以後不動の正捕手となった。


渡辺理砂: 後に芸能界を引退し、元プロ野球選手・武田一浩と結婚したが、2002年に離婚した。


武田一浩の情報まとめ

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武田 一浩(たけだ かずひろ)さんの誕生日は1965年6月22日です。東京出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴、人物などについてまとめました。引退、母親、父親、事件に関する情報もありますね。武田一浩の現在の年齢は58歳のようです。

武田一浩のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

武田 一浩(たけだ かずひろ、1965年〈昭和40年〉6月22日 - )は、東京都世田谷区出身の元プロ野球選手(投手)、実業家(社会起業家)。

現役時代(1988年 - 2002年)は日本プロ野球 (NPB) の日本ハムファイターズ・福岡ダイエーホークス・中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツの計4球団で15年間プレーし、通算89勝99敗31セーブの成績を残した。

日本ハム時代の1991年には最優秀救援投手を獲得し、ダイエー時代(1996年 - 1998年)は左のエース・工藤公康と並ぶ右のエースとして活躍。1996年にはキャリアハイとなる15勝を挙げたほか、1998年には13勝を挙げてパシフィック・リーグ(パ・リーグ)最多勝を獲得した。同年オフにフリーエージェント (FA)権を行使して中日に移籍すると、中日でも右のエースとして1999年のセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に貢献。巨人に移籍した2002年にはNPB史上3人目の全球団勝利を達成し、同年限りで現役を引退した。

2020年時点では日本放送協会 (NHK) の野球解説者として活動している。また、2021年時点では省エネシステムの提案や商品の販売を手掛ける「株式会社グルーヴ」(東京都世田谷区)の代表取締役を務めている。

世田谷区立北沢小学校および明治大学付属中野中学校出身。幼少期は王貞治のファンで、小学生のころから母親にウナギの骨の唐揚げ・カルシウムの錠剤などを摂らされたり、ともにランニングをしたりしていた。

リトルリーグの名門である「調布リトルリーグ・リトルシニア」 で野球を始め、日本一を経験、1980年度に卒団。中学受験で明大中野中学に入学、軟式野球部に所属し2年秋に内野手から投手へ転向、明治大学付属中野高校に進学 する。1982年秋季東京大会はブロック予選決勝に進むが、国士舘高に完封負けを喫する。翌1983年夏には全国高校野球選手権西東京大会準決勝(明治神宮野球場・7月28日)で創価高の小野和義と投げ合い、敗退。第65回全国高校野球大会への出場はならなかった。なお、中学の同級生にプロモーターの金平桂一郎がいる。

1983年度のドラフト会議ではプロ球団から指名を受けず、父親の強い勧めもあり明治大学文学部へ内部進学(1984年)。東京六大学野球リーグは2年生から出場し、1986年(3年生)秋季リーグ戦では同期の佐藤元信(松下電器)とバッテリーを組み、5完封を含む7連勝を記録し、優勝に貢献する。同季のベストナインに選出されたほか、対立教大学1回戦では1試合17奪三振(毎回奪三振)を記録した。同年の明治神宮野球大会に出場するが2回戦(初戦)で札幌大に敗退。1987年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出されるが、秋季リーグ戦中には首脳陣の起用法を批判し、プロ入りへの支障が心配されるなど造反事件が話題になった。リーグ通算成績は56試合登板・20勝8敗・防御率2.40・208奪三振。

1987年度のドラフト会議 前には、日本ハムファイターズ・南海ホークス・中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツ(巨人)の4球団(いずれも武田が後に在籍することとなる)からプロ入りの誘いを受けた。ドラフト会議当日、日本ハムは伊藤敦規を指名したが、阪急ブレーブスとの抽選に敗れたために武田を1位指名した。武田の1年目(1988年)の年俸は600万円・契約金は5,500万円(いずれも推定額)で、背番号は15(1991年まで着用)。

プロ1年目となる1988年6月8日の対阪急ブレーブス戦(東京ドーム)でプロ初登板を果たし、同年8月3日の対ロッテオリオンズ戦(川崎球場)でプロ初勝利を挙げた。同年は一軍では20試合に登板(うち先発登板は2試合)して1勝2敗・防御率3.38の成績で、二軍(イースタン・リーグ)のジュニアオールスター代表にも選出された。同年オフには年俸840万円 で契約更改。

2年目(1989年)には先発ローテーションに定着して主力投手となり、2試合連続完封勝利を記録。同年は36試合に登板して6勝8敗・防御率4.22の成績で、パ・リーグ投手成績は規定投球回22人中18位だった。同年オフには年俸1,680万円で契約更改。

1990年には近藤貞雄監督に見込まれ、抑え投手に転向。前半戦ではNPBタイ記録となる12試合連続セーブポイントを記録し、オールスターゲーム(球宴)にも初出場を果たした。同年は37試合に登板して10勝5敗13セーブ、23セーブポイントの成績を挙げ、翌1991年シーズンの年俸は3,100万円になった。

1991年も41試合に登板して4勝8敗18セーブ、22セーブポイントを挙げて最優秀救援投手のタイトルを獲得。特に同年5月には10試合に救援登板して3勝1敗・3セーブの成績を残し、プロ入り後初の月間MVPを獲得した。しかし、球団からのリリーフエースとしての評価は低く、特に1991年の契約更改では、12月2日の交渉を保留した後の記者会見で激怒した様子が、スポーツ新聞などでセンセーショナルに報道された。同日の交渉では年俸35%増額(4,200万円)を提示されたが、プレスルームに入った直後にセカンドバッグを窓に投げつけ、「ほんと、頭くる!」、「もうリリーフなんて絶対やらない。調停覚悟でとことん戦う」と発言。武田本人は後年、抑えを務めていた時期について、与田剛との対談で「完投できるエースの西崎(幸広)さんが先発する日(週1日)は休むことができたが、柴田(保光)さんや酒井(光次郎)が先発している時は早いイニングから登板の準備をする必要があった」と述べている。尚、現役時代15年間契約更改で保留したのはこの年だけだったと後年本人が語った。

1992年には背番号が4に変更され、年俸4,950万円になった が、同年は本人の希望から先発に再転向。同年は故障に泣かされ、22試合登板・4勝9敗・防御率3.87の成績に終わったが、8月30日の対福岡ダイエーホークス戦では延長12回完封勝利を記録。大沢啓二監督が就任した1993年(同シーズンの年俸:4,750万円)は、自己最多となる170回1/3(27試合)を投げ、3年ぶりとなる10勝(8敗)を記録。防御率3.33もパ・リーグの投手(規定投球回到達者23人中)9位を記録し、チームもリーグ2位でシーズンを終えた。同年11月27日には年俸7,100万円(前年比2,350万円増額)で契約更改した が、1994年は開幕前に肩を痛める。同年は投球回84イニング1/3(18試合登板)にとどまり、5勝9敗・防御率5.98と乱調。チームもリーグ最下位に低迷し、本人・首脳陣の双方にとって大誤算に終わった。

上田利治監督が就任した1995年(年俸:6,300万円)は、春季キャンプで好調ぶりを見せ、上田監督から称賛されていたが、開幕前に左足肉離れ(復帰まで1か月の怪我)を起こし、二軍スタートで迎える。同年5月1日に一軍選手登録されるが、コーチ陣との折り合いの悪さから、一軍ではわずか2試合にしか登板できず、プロ入り後初の未勝利(0敗・防御率5.06)に終わった。一方、二軍(イ・リーグ)では13試合に登板して6勝4敗・防御率1.62(投球回数:83イニング1/3)の成績を残し、最優秀防御率のタイトルを獲得。また、本人も後に当時を「一軍登板が減ったことで、それまで以上に練習する時間が増え、しっかりと鍛え直すことができた」と回顧している。

1995年オフ、日本ハムはフリーエージェント (FA)権を行使して読売ジャイアンツ(巨人)に移籍することを決めた河野博文(左腕投手)の穴を埋めるため、左腕投手の補強に乗り出し、武田を交換要員として複数球団と交渉。河野や田村藤夫(捕手)の穴埋めを優先してトレードの話を進めていたところ、先発投手の補強を求めていたダイエー(王貞治監督)が左腕投手の下柳剛を交換要員として提示した。しかし、トレード成立寸前にダイエーのフロントから、「下柳ならもっといいトレードができる」と反対意見が上がったため、両球団が微調整を行い、武田と下柳の両者を中心とした複数トレードに発展。11月16日には松田慎司とともに、下柳・安田秀之との2対2の交換トレードでダイエーへ移籍することが正式に決定し、両球団から発表された。

一方で本人は日本ハム球団に対し、明治大学の先輩である星野仙一監督の率いる中日ドラゴンズへのトレードを求めていた。同年オフに監督として中日に復帰した星野は当時、投手陣の補強を目指し、既に前田幸長(前千葉ロッテマリーンズ)・村田勝喜(前西武ライオンズ)をトレードで獲得していたが、抑え投手が最大の補強ポイントだったため、その補強ポイントに合致する武田の獲得を目指し、佐藤毅球団社長ら球団首脳陣とともに積極的に動いていた。しかし交換要員が折り合わず、交渉が難航していたところ、途中から動き出したダイエーに横取りされる格好となった。

美山和也(2009)は「武田は中日とのトレードを反故にされたことに激怒してトレードを拒否しようとも考え、その後も日本ハムに対しては『同一リーグに放出させたことを後悔させてやる』と燃えていた」と述べている。一方、中日球団の親会社である中日新聞社が発行する『中日スポーツ』はダイエーとのトレード決定後、「武田は中日入りできなかったことが心残りで星野監督に電話したが、『ダイエーで頑張れ。機会があったら一緒にやろう』と激励された。ダイエーへの不満もない」と報道している 。

ダイエー時代(1996年 - 1998年)は右のエースとして活躍し、左のエース・工藤公康とともに投手陣を牽引した。

ダイエー移籍1年目(1996年)の年俸は6,300万円。当時、弱小球団だったダイエーはチームが一丸となっておらず、南海時代からのベテラン選手たちが王監督の起用法に不満を抱いたり、若手選手を萎縮させるような言動を取ったりしていたため、見かねた武田がチームメイトに対し「若いヤツに文句を言わないでくれ」と指摘することもあった。また、日本ハム時代はキャンプ前半はそれほど投げ込まなかったが、同年春の高知キャンプでは、同僚になった工藤の影響を受け、「プロ1, 2年目のころ以来」となる1日300球以上の投球を行ったほか、納得するまで走り込みを行うなど、日本ハム時代と大きく調整方法を変えた。当初、王監督ら首脳陣は武田を抑えで起用する戦力構想をしていたが、武田自身が先発を希望し、オープン戦で先発起用したところ好結果を残したため、リリーフ起用の構想は自然消滅した。

同年のダイエーは、54勝74敗2分の成績(勝率.422)でパ・リーグ最下位に低迷。自身も開幕時には肋骨痛で出遅れたが、4月9日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(グリーンスタジアム神戸)で初登板すると、1年間を通じて先発ローテーションの柱を担い、6月末 - 8月まで7連勝を記録。最終的には15勝8敗・防御率3.84(171投球回)・6完投と好成績を残した。同年の勝利数(15勝)・投球回数(171イニング)はともに自己最多で、完封4試合も同年のパ・リーグ最多だった。同年オフには斎藤雅樹、バルビーノ・ガルベス(ともに巨人)、西口文也(西武)、キップ・グロス(日本ハム)とともに、沢村栄治賞(沢村賞)の候補に挙がった(最終的には斎藤雅が受賞)。

1997年1月10日、年俸9,800万円(前年比3,500万円増額)で契約更改。同年以降、城島健司ら後輩たちを連れて自主トレを行うようになった。また、工藤とともに投手陣の中心として期待され、プロ10年目で自身初の開幕投手を務めた。同年は開幕から4連勝を記録し、4月29日(対オリックス戦)・5月6日(対西武戦)では2試合連続完封勝利を記録。5月18日に対オリックス7回戦で4勝目を挙げたが、その後は勝利から見放され、最終的には9連敗のままシーズンを終えた。同年は26試合に登板して4勝9敗・防御率3.85(投球回163回2/3)、3完投の成績で、特に対近鉄バファローズ戦では防御率7.45と打ち込まれた。同年オフ(12月6日)には年俸8,400万円(前年比1,400万円減額)で契約更改した。

1998年は前年不振に終わったことから、開幕前には2年連続の開幕投手を拒否する旨を宣言していた。同年は4月14日の対日本ハム1回戦(福岡ドーム)で初勝利(約11か月ぶりの勝利)を挙げると、28試合に登板して自己2番目となる13勝(10敗・防御率3.62)を挙げ、黒木知宏(ロッテ)・西口(西武)とともにパ・リーグ最多勝を獲得した。

1998年5月中旬に武田はプロ入り後初となるフリーエージェント (FA) の権利を取得した。しかしダイエー球団は、シーズン中に武田のFA権行使を控えた下交渉を打診せず、武田は同年11月4日にFA権の行使を宣言。ダイエーとの慰留交渉では現場首脳陣とのすれ違いがあった一方、3年前にも武田を獲得しようとした星野監督がFA宣言直後に獲得に名乗りを上げた。同月24日にはダイエーの中内正オーナー代行から「骨を埋める球団はどこがいいのか考えろ。星野監督がいなくなった時のことは考えているのか」と慰留されたが、その直後に『中日スポーツ』の記者に対し「気持ちはほぼ固まった。自分は島岡(吉郎・元明大野球部)監督に育てられた人間だ。星野監督の意見には共感できる部分が多い」と話し、翌26日には中日入りを決断した。

同月27日に中日へ入団の意思を伝え、翌28日には正式に中日入りを表明。なお中日だけでなく、巨人(長嶋茂雄監督)もFA宣言以降、水面下で中日より良い条件を提示していたが、武田は中日移籍を選択した。ダイエー時代から着用していた背番号17は当時サムソン・リーが着用していたため、背番号は前田幸長が着用していた18に決まり、同月30日に中日と正式契約(契約金4,200万円を含めて3年で最高4億5,000万円の複数年契約)を締結した。星野監督は入団決定後、起用法について「(武田本人は)『中4日でも』と言っていたが、(セ・リーグは)DH制じゃないんだから、とりあえず中5日でいく」「(当時の抑え)宣の状態が万全でない時や、宣につなぐ遠藤や大塔に不安がある時は(抑えの経験が豊富な武田に抑えを)十分に任せられる」と話していた。

中日移籍1年目の1999年は春季キャンプで300球超の投げ込みを行ったり、公式戦に入っても若手以上に走り込んだりなど、徹底した自己管理でチームに強い影響を与えた。同年は野口茂樹・山本昌・川上憲伸とともに先発ローテーションの4本柱を担い、セ・リーグ投手成績6位(9勝10敗・防御率3.50)の成績を残し、右の主戦投手として中日の11年ぶり5度目となるセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に貢献した(自身にとってもプロ入り後初優勝)。同年は対横浜ベイスターズ戦で4勝2敗を記録したほか、対阪神タイガース戦でも投球回30イニング2/3で防御率1.17を記録した。

移籍後初登板(初先発)となった同年4月6日の対横浜1回戦(ナゴヤドーム)で中村武志とバッテリーを組み、横浜の「マシンガン打線」を9回7被安打無失点に抑え、移籍後初勝利を自身2年ぶりの完封勝利で飾った。続く4月15日の対ヤクルトスワローズ1回戦(ナゴヤドーム)では2試合連続となる完封勝利を記録し、チームはこの試合で開幕からの連勝を10に伸ばした。その後、勝利数はそれほど伸びなかったが、防御率は2点台を保ち、先発陣の一角を担い続けた。その一方で、同年終盤には右膝を故障し、シーズン途中からは痛みに耐えながら投げていた。

優勝決定後、10月6日に対阪神27回戦(阪神甲子園球場)で最後の先発機会を与えられ、勝てば2年連続(セ・リーグ移籍後では初)の2桁勝利となるところだったが、味方の援護に恵まれず、1対1の同点で迎えた延長11回裏に一死満塁の場面で代打・田中秀太へのサヨナラ押し出し四球(147球目)を出して敗戦投手となり、チーム3人目の2桁勝利はならなかった。古巣であるダイエーとの日本シリーズでは、10月27日の第4戦(ナゴヤドーム)で先発登板したが、3回に秋山幸二と小久保裕紀にタイムリーを浴び、2失点。6回にも小久保に本塁打を打たれ、6回6被安打3失点の投球内容で敗戦投手になった。同年オフにはサムソン・リーの退団に伴い、背番号をダイエー時代と同じ17に変更した。

翌2000年は年俸1億7,000万円となったが が、同年は15試合登板・3勝6敗・防御率4.66の成績に終わった。沖縄春季キャンプでは1日300球の投げこみを見せることなく、キャンプ中に右膝を故障 し、2月ごろは歩く程度のトレーニングしかできなかった。膝の状態が完治しないまま開幕を迎え、4月30日の対阪神戦で初勝利を挙げたが、出場選手登録抹消を3度にわたって繰り返し、シーズン途中(8月末) で戦線離脱。9月上旬には右膝軟骨の除去手術 を受けたが、これが原因で下半身の粘りがなくなった。

2001年は引退を賭けてシーズンに臨んだが、同年も3勝6敗(11試合登板・防御率4.83)の成績 に終わり、10月19日に中日から戦力外通告を受ける。一度は引退を決断するが、同時に中日を去った星野から「まだ2ケタ勝てるだろう」という言葉を受け、現役続行を決意した。

2001年12月2日にNPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示され、12月4日に読売ジャイアンツ(巨人)が獲得を表明。同日、前年の年俸1億7,000万円から大幅ダウン(1億2,000万円減額)となる年俸5,000万円+出来高払いで巨人と契約した。入団会見では「東京生まれが東京に帰ってきた。中日に勝てば12球団全部に勝つことになる。15年で一度も日本一になっていないので、優勝に貢献したい」とコメントした。

2002年は前田幸長(ともに中日から移籍)とともに巨人の中継ぎの新戦力として期待され、シンカーの研究に精を出した。同年は開幕二軍スタートだったが、5月7日に一軍登録される。同日の対中日7回戦(ナゴヤドーム)で即先発登板し、6回4被安打2失点で勝利投手となり、史上3人目の全球団勝利を達成。しかし、同年夏場に古傷の右膝を痛めてリハビリ生活が続き、同年の日本シリーズ要員構想からも外れた。

同年10月10日に現役引退が発表され、同日のヤクルト戦(東京ドーム)における先発登板が現役選手としての最終登板となった。なお、NPB史上最多勝利と最優秀救援投手の両方を獲得した投手は、武田以外では江夏豊・金城基泰・村田兆治・山沖之彦(このうち村田は、厳密には最優秀救援ではなく最多セーブ)の4人のみである。

現役引退後、2003年以降は日本放送協会 (NHK) の野球解説者になり、2020年時点でも同局の解説者を務めている(出演番組:NHKプロ野球、メジャーリーグ中継)。また、解説者の仕事と並行して、事務機器(コピー機など)の販売会社で営業職を担当し、マスターズリーグの札幌アンビシャスにも参加していた ほか、競馬番組にゲストとして出演することがある。

2006年にはダイエー時代にともにプレーした王監督(当時:福岡ソフトバンクホークス監督)が指揮を執るワールド・ベースボール・クラシック (WBC) 日本代表の投手コーチを務めた。また、2010年の秋季キャンプでは古巣ダイエーの後身であるソフトバンクの臨時投手コーチを務め、2011年の春季キャンプでもソフトバンクの臨時投手コーチを務めた。2013年から東京ガスの臨時投手コーチを務め、石川歩、山岡泰輔を指導した。

2013年オフ、ロッテから戦力外通告を受けた山本徹矢から相談を受けたことをきっかけに、引退直後から抱いていた「プロ野球選手のセカンドキャリアをサポートするシステムをつくりたい」という構想を具現化すべく、同年12月20日に人材派遣会社「株式会社ヒューマンリンク」 を設立し、代表取締役に就任。中日時代の同僚で、同じくNHKの解説者でもある今中慎二も同社の運営に携わった。その後、2021年時点では「グルーヴ」の代表取締役を務めている。

2018年9月5日、日本時間午前9時からのロサンゼルス・エンゼルス対テキサス・レンジャーズ戦(NHK BS1にて中継)で生中継の解説を務めていたが、試合途中に急遽、体調に異常をきたし病院に急行した。

選手としての特徴

投球フォームは右からのサイドスロー、ないしスリークォーター気味のやや変則的なフォーム。高校時代は「東京では珍しい速球派投手」と評されていた。

加賀新一郎 (2015) は、「強靭な下半身でキレのある直球・変化球を投げ、打者を翻弄した」と述べている。江川卓・二宮清純 (1999) によれば、1998年時点のデータではスピード(球速)・コントロール(制球力)・テクニック(技術)のいずれも3.5(5段階評価)で、自己最多となる15勝を挙げた1996年は速球を軸に、サイドスロー特有のよく曲がるスライダー、フォークを交える配球だった。また、パ・リーグ最多勝を獲得した1998年は内角をえぐり、外角のスライダーで勝負する配球パターンだった。江川・二宮 (1997) は「慎重にコーナーをつくピッチングというよりは、思い切りのよさが持ち味で、抑えとして成功したころから、絶対的な決め球を持つ投手というよりも、大胆で勢いのある投球術によって抑え込み、ピンチにたじろがない勝負強さが印象に残る投手」と評している。フィールディングにも特に難はなく、1996年は城島健司とのバッテリーで3回の盗塁企図をいずれも刺した。

『スポーツニッポン』編集委員・小川勝は1999年に『サンデー毎日』誌上で武田について「明大の先輩・鹿取義隆に似た独特のサイドスローで、球威で勝負するタイプ。体の回転を指先に伝えるセンスは天性のもの」「戦力的に2桁勝利を期待できる点はもちろん、昨年(1998年)に好成績を収めた若手投手の慢心に楔を打ち込める存在という点でも、まさに『今年の中日優勝の使者』と呼ぶにふさわしい」と評していた。

身長は171 cmと、プロ野球選手としてはかなり小柄で「小さな大投手」と呼ばれた。

また、日本ハム時代にチームメイトだったマット・ウインタースからMLBで流行していたカットボールの存在を教えられてこれを習得し、日本プロ野球 (NPB) にその存在を広めた。後に日本屈指のカットボーラーとなった川上憲伸はプロ2年目の1999年、中日に移籍加入した武田が投げていたカットボールに興味を持ち、習得した。

人物

1年目に対南海ホークス戦でトニー・バナザードと対戦した際、バナザードが空振りしたバットがすっぽ抜け、マウンド上の武田の後ろまで飛んで行った。この時、バナザードは武田をにらみつけながらマウンド方向へ歩き、自らバットを拾いに行った。この場面の映像は、まるで武田が接近するバナザードに怯えているかのように扱われ、珍プレーネタとして放送された。

自他ともに認める一言居士で、明治大学時代には島岡吉郎監督に反発したほか、プロ入り後も首脳陣と衝突して日本ハム・中日をそれぞれ追われている。しかし、本人は2002年に古くからの知人たちから「もう40歳近いんだから、少しは丸くなれ」という助言を受けても「僕から意地を取ったらただの投手です」と反発している。

ダイエー時代の後輩である城島健司からは、工藤公康と並んで師として慕われている ほか、武田自身も工藤や、秋山幸二を師と仰いでいる。ダイエー時代の監督だった王貞治は武田について、工藤や秋山と共に「(球団の)甘い体質を変えてくれた選手」と述べている。武田自身は、王について「憧れの存在である一方で野手出身であったため、(投手である自身や工藤と)時に考えが合わず、喧嘩に発展したこともあったが、こちらの話をしっかりと聞いて理解しようとしてくれたので、より一層ついていこうと思った」と述べている。

また明治大学の後輩で、後に中日で同僚となった川上憲伸とは誕生日が同じ(6月22日)である。中日時代には川上を頻繁に呼びつけては細かく指導しており、今中慎二は自著で「武田さんは大学の後輩である川上を『本当のエースにしたい』と感じて細かく指導し、川上も大学の先輩である武田さんだからこそ素直に物事を受け入れられただろう。自分が知る限り、川上は武田さんが在籍していた期間(1999年 - 2001年)に一番いいボールを投げていたという印象を持っている」「星野監督が明治大学時代に影響を受けた『明治イズム』(島岡イズム)が選手間に好影響をもたらした例」と述べている。

東京六大学野球時代、長嶋一茂と仲がよく、田園調布の実家に遊びに行き、浪人時代だった長嶋茂雄と食事をした経験がある。

中日時代には同僚の山本昌(競馬ファン)を武豊(野球好き)と知り合わせ、2人が親交を深めるきっかけを作っている。

2024/06/15 04:40更新

takeda kazuhiro


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