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小久保裕紀の情報 (こくぼひろき)
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【11月23日】今日誕生日の芸能人・有名人

小久保裕紀の情報(こくぼひろき) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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小久保 裕紀さんについて調べます

■名前・氏名
小久保 裕紀
(読み:こくぼ ひろき)
■職業
野球選手
■小久保裕紀の誕生日・生年月日
1971年10月8日 (年齢53歳)
亥年(いのしし年)、天秤座(てんびん座)
■出身地・都道府県
和歌山出身

(昭和46年)1971年生まれの人の年齢早見表

小久保裕紀と同じ1971年生まれの有名人・芸能人

小久保裕紀と同じ10月8日生まれの有名人・芸能人

小久保裕紀と同じ出身地和歌山県生まれの有名人・芸能人


小久保裕紀と関係のある人

奈良原浩: 2024年からは、大学の後輩である小久保裕紀のソフトバンク監督就任に伴い、福岡ソフトバンクホークスのヘッドコーチを務める。


鳥越裕介: 藤井の葬儀では出棺の際、藤井の兄貴分であった工藤公康、主力の小久保裕紀、若田部健一らと一緒に棺を担いだ。


堀内恒夫: 大阪近鉄バファローズからタフィ・ローズ、福岡ダイエーホークスから小久保裕紀とパ・リーグ本塁打王経験者が2選手同時に加入。


濱中治: また、7月14日のオールスターにファン投票で選出された巨人(当時)の小久保裕紀内野手が怪我で出場を辞退したため、代替選手として出場した。


帆足和幸: 5月9日に福岡 Yahoo! JAPANドームで行われた対ソフトバンク戦で先発し8回まで3安打無四球6奪三振無失点と好投していたが、9回に松中信彦、小久保裕紀、長谷川勇也の3連打で1点を失い途中降板。


藤井将雄: 出棺時は、工藤・若田部を筆頭に、秋山幸二、小久保裕紀、村松有人、松中信彦、城島健司、鳥越裕介、大道典嘉、西村龍次が藤井の棺を担いだ。


朝井秀樹: 2009年、シーズン初登板では小久保裕紀の飛球を鉄平が見失い、その後の適時打に繋がるという不運もあり制球を乱し降板。


松田宣浩: 新人野手が一軍の開幕戦にスタメンで出場したのは、小久保裕紀以来チーム12年ぶりだった。


松井光介: 初奪三振:同上、1回表に小久保裕紀から見逃し三振


高山健一: 高校卒業後は青山学院大学に進学し、小久保裕紀や清原幸治と同級生となった。


大道典嘉: 1994年にはドラフトで主砲候補と期待されていた小久保裕紀が入団し、小久保の練習風景を見てパワーに驚愕した。


川越英隆: 2024年からは、大学の先輩・小久保裕紀が監督に就任した福岡ソフトバンクホークスの四軍投手コーチ(チーフ)を務める。


大島洋平: 2015年2月16日に、「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表に選出されたことが発表され、小久保裕紀が日本代表監督に就任してから初めての選出となった。


木村龍治: 小久保裕紀は1年後輩である。


木佐貫洋: 日記を書くことになったきっかけは、リハビリ中に当時巨人のチームリーダーの1人だった小久保裕紀に「苦しいときの記録を残しておけ」とすすめられたという。


中内正: 2003年11月3日、読売ジャイアンツへ小久保裕紀を無償トレードした際、記者会見の席で涙した事が話題になった。


川﨑宗則: 鳥越の復帰後は小久保裕紀の長期離脱で空いた三塁手に回り、初の規定打席到達で打率.294・2本塁打・51打点・30盗塁を記録し、チームのリーグ優勝・日本一に貢献。


松田宣浩: 試合後、引退セレモニーが開かれ、小久保裕紀、工藤公康、秋山幸二、王貞治からのビデオレターが映し出され、ビデオレターが終わると松田の引退スピーチが始まり、東京ドームのファンと共に「熱男~!!」と合唱。


柳田悠岐: 2シーズンにわたってキャプテンを務めたが、監督が小久保裕紀に交代したことに伴いキャプテン制は廃止された。


高畠導宏: 彼の葬儀の際、小久保裕紀選手は自らのバットを棺に入れたという。


又吉克樹: 二軍でもなかなか調子が安定しなかったが、大阪遠征中の6月5・6日の二夜にわたって小久保裕紀二軍監督に相談を持ちかけ、小久保の現役時代の経験談を聞いて「こうなったら33にして、150km/hを目指します」と決意し、体を大きくひねるトルネード投法に変更。


黒木知宏: 1000投球回:2000年9月13日、対福岡ダイエーホークス25回戦(福岡ドーム)、7回裏1死目に小久保裕紀を三塁ゴロで打ち取って達成 ※史上286人目


澤村拓一: 2015年2月16日に「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表に選出されたことが発表され、小久保裕紀が日本代表監督に就任してから初めて日本代表に選出されることとなった。


平野恵一: セ・リーグでカムバック賞受賞者が出るのは小久保裕紀(2004年)以来4年ぶり。


林孝哉: 1999年に一軍に定着、小久保裕紀がシーズン前半に一塁手、指名打者に回ったこともあり、主に三塁手として34試合に先発出場。


関根裕之: 当時の即戦力投手の中でも左腕の河原隆一(関東学院大学)に次ぐ目玉選手で、当初は福岡ダイエーホークス入りが有力視されたが、あくまで1位指名にこだわる関根に対してダイエーが難色を示した(ダイエーは逆指名1位で青山学院大学の小久保裕紀を、逆指名2位で即戦力投手を獲得する方針であった)ため、石井貴(三菱重工横浜)を西武ライオンズにさらわれた日本ハムが逆指名1位での入団を打診、獲得にこぎ付けた。


佐藤真一: 1992年のバルセロナオリンピックでは、山中監督率いる日本代表チームに、プロ入り後にもチームメイトとなる小久保裕紀や伊藤智仁らと共に選ばれた。


江川智晃: 控えだったが、小久保裕紀の肋間神経痛や腰痛により、4月18日から20試合連続で先発起用され、5月2日の対日本ハム戦で決勝2点本塁打、5月5日の対楽天戦では戸村健次 - 嶋基宏バッテリーからプロ入り初盗塁も決めた。


藤山直美: 2003年、小久保裕紀選手が怪我をした折には「私が代りにサードを守る」と発言。


内川聖一: キャプテン制を敷くのは2012年シーズンの小久保裕紀以来で、球団の福岡移転後では、秋山幸二(1999年~2002年)、小久保裕紀(2009年~2012年)に次いで歴代3人目となる。


小久保裕紀の情報まとめ

もしもしロボ

小久保 裕紀(こくぼ ひろき)さんの誕生日は1971年10月8日です。和歌山出身の野球選手のようです。

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現在、引退、離婚、卒業、テレビ、家族、事件、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。小久保裕紀の現在の年齢は53歳のようです。

小久保裕紀のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

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小久保 裕紀(こくぼ ひろき、1971年10月8日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、プロ野球監督。現在は福岡ソフトバンクホークスの一軍監督を務める。

現役時代は福岡ダイエーホークス・福岡ソフトバンクホークス、読売ジャイアンツに所属し、両球団で主将を務めた。2005年から2009年まで社団法人日本プロ野球選手会の第10代理事長を務めた。バルセロナオリンピック野球の銅メダリスト。

引退後の2013年からはNHKの野球解説者を務める一方、同年より2017年まで、日本代表(侍ジャパン)の監督を務めた。2021年シーズンは福岡ソフトバンクホークスのヘッドコーチ、2022年シーズンからは同二軍監督を務め、2024年シーズンより一軍監督を務める。

和歌山市立砂山小学校から和歌山市立西和中学校へ進学し「和歌山キングタイガース」に所属。和歌山県立星林高等学校から青山学院大学へ進学し、大学時代は東都大学野球リーグで通算40試合に出場して打率.291、8本塁打、23打点を記録したほか、ベストナインに3回選出された。1993年、小久保が主将となり、青山学院史上初の大学野球日本一に貢献した。大学時代の3学年上に奈良原浩、3学年下に井口資仁がいた。

1992年、バルセロナオリンピック野球日本代表に大学生で唯一選出され、予選リーグで2本塁打を放つ。のちにメジャーリーグベースボールでプレーするノマー・ガルシアパーラやジェイソン・ジアンビ擁するアメリカ代表との試合では、先制打を含む2本の適時二塁打で勝利に貢献し、銅メダルを獲得した。

読売ジャイアンツ(巨人)と福岡ダイエーホークスの競合の末、ダイエーを逆指名し、1993年のドラフト会議にてダイエーから2位指名され入団した。背番号は9。年俸は1200万円、契約金は最高額の1億6000万円(以下、推定)。

1994年の春季キャンプから高畠康真の指導を受け、4月9日のオリックス・ブルーウェーブ戦(グリーンスタジアム神戸)に6番・右翼手として初出場。チームは17得点で大勝するも小久保は6打数0安打であった。それでも翌10日のオリックス戦(神戸)で野田浩司からプロ初安打を放つと、7月5日の千葉ロッテマリーンズ戦(北九州市民球場)では、34試合目・67打席目で園川一美からプロ初本塁打を放った。シーズン通算成績は打率.215、6本塁打と、即戦力になれず不本意なルーキーイヤーとなったが、オフにはハワイ・ウインター・ベースボールに参加し、首位打者とMVPに輝いた。

王貞治が監督に就任した1995年は、二塁手のレギュラーに定着すると全試合出場を達成し、28本塁打を放ってパシフィック・リーグ本塁打王に輝いたほか、リーグ1位の9三塁打と長打率.548を記録した。オールスターゲームにもファン投票トップで初選出され、2戦目に古溝克之から本塁打を含む3安打を放った。5月26日の近鉄バファローズ戦で自身初の4番打者を務めた。

1996年は津野広志(ロッテ)からプロ初の満塁本塁打や、2年連続の20本塁打以上を記録したが、打率は.247に終わった。チームも3年ぶりに最下位となった。

1997年は8月末から一塁手を、最後の9試合で三塁手を守った。2年ぶりに全試合に出場し、打率.302、36本塁打、114打点の好成績を挙げ、ドミンゴ・マルティネス(西武ライオンズ)との争いに勝利して打点王を獲得した。二塁打37本、長打率.588、310塁打はそれぞれリーグ1位を記録し、野球体育博物館では「セの松井秀喜、パの小久保」としてポスターのモデルにもなった。

1998年は、後述の不祥事により開幕戦から8週間の出場停止と制裁金400万円の処分を受けた。浜名千広・井口忠仁を二遊間としてレギュラーで固定するため、二塁から三塁手にコンバートされた。出場停止期間から復帰した5月30日に「4番・三塁手」で2安打を放ったが、1か月も経たずに右肩関節唇損傷の重傷で離脱し、わずか17試合の出場、2本塁打、打率.225に終わった。

1999年、前年に痛めた肩の影響もあり打撃不振に陥るも、1年を通して4番を任された。ポジションは三塁と一塁の併用だった。優勝を決めた日本ハムファイターズ戦では、7回裏に金村暁から同点本塁打を放つなど、福岡移転後初のリーグ優勝に貢献した。最終成績は打率.234、24本塁打、77打点で、本塁打と打点はチーム内トップであった。中日ドラゴンズとの日本シリーズでも「4番・三塁手」で全試合に出場。第3戦で初安打を打つと、ナゴヤドームでの第4戦では、前年までダイエーに所属していた武田一浩から本塁打を放つなど、日本一に貢献した。

2000年から本格的に三塁手として固定され、チームの選手会長に就任した。開幕から6試合で6本塁打と順調な滑り出しを切ると、6月20日のオリックス戦から7月4日のロッテ戦にかけて10試合連続打点を記録するなど、6月は21試合連続安打などで打率.390を記録し、初の月間MVPを獲得した。8月30日の試合後時点で首位の西武に3.5ゲーム差を付けられていたが、チームの選手会長として試合前や試合後に選手だけを集めてミーティングや決起集会を招集するなど、チームが一丸になるよう努めた。チームは勝ち星を重ねて9月5日に首位を奪い返すと、マジック1で迎えた同年10月7日のオリックス戦(福岡ドーム)で金田政彦から決勝本塁打を放ち、リーグ連覇に貢献した。巨人との日本シリーズでは第4戦以降腰痛で離脱したが、契約更改では31本塁打(リーグ5位)・105打点(リーグ3位)とV2貢献を高く評価され、1億円プレイヤーとなった。

2001年も好調を維持し、44本塁打(リーグ4位、40本以上は自身初)・123打点(リーグ4位)を記録。福岡ドームを本拠地とするダイエーの選手として初めて40本塁打に乗せた。この年は松中信彦が36本塁打(リーグ6位)、城島健司が31本塁打(リーグ9位)、井口が30本塁打(リーグ12位)で、パシフィック・リーグで初めて同一球団から4名の30本塁打以上の打者を輩出した。30本カルテットが全員日本人選手である事象はプロ野球史上初だった。

2002年は3年連続の30本超えとなる32本塁打を記録し、通算1000安打を通算1000試合出場と同時に達成するなど活躍したが、チームは2年連続の2位に終わった。オールスターゲームで右翼手、日米野球で二塁手と、過去の守備位置に就くこともあった。

2003年は選手会長を松中に譲り、自身の練習に専念してキャンプを消化していた。しかし3月6日の西武とのオープン戦(福岡ドーム)で、4回に松中の左中間二塁打で一塁から本塁へ突入したところ、捕手の椎木匠と交錯し、右膝の前十字靭帯断裂・内側靭帯損傷・外側半月板損傷・脛骨と大腿骨挫傷という重傷を負った。

完治まで最低6か月と診断されたことで、アリゾナ州のリハビリ施設でトレーニングに励んだ。同年の試合には一、二軍とも出場できなかったが、チームは3年ぶりのリーグ優勝と4年ぶりの日本一を達成した。優勝決定戦では自身も胴上げに参加し、その後もリハビリを継続し、キャッチボールや屋内での打撃練習を再開していた。

翌年の復活を期待されていたが、優勝パレード翌日である2003年11月3日、突如巨人へ無償トレードで移籍することが発表された。

移籍の理由は、高塚猛球団社長と意見が合わなかったことや、アメリカでの治療費約2000万円が球団から一切支払われなかったことが挙げられ、小久保自身が一時帰国した2003年6月中旬に、球団に対して契約解除(自由契約)の希望を伝えていた。無償トレードとなったのは、中内正オーナーが金銭トレードの分を小久保の年俸に上乗せするよう巨人側へ伝えたからと記者会見で発表した。

小久保はのちに「トレードを訴えたのは僕自身」「ホークス以外ならどこでもよかった」「無償トレードになった理由は知らない」と語っている。

この一件はチームメイトやダイエーファンのみならず、ダイエー球団そのものや、球界全体に大きな衝撃を与え、ダイエー選手(選手会)は優勝旅行をボイコットした。

松中信彦は「球団にふざけるな、と言いたい。どうして小久保さんをタダで巨人に出さなきゃいけないんですか。あんなにチームのために一生懸命やった人が簡単に放出されるなら、ぼくらだって同じ目に遭う。この球団は勝ちたくないんでしょうね。終わりですよ。ファンには申し訳ないけれど、翌年連覇したいという気が急激に薄れています」、柴原洋は「チームをまとめていたのは小久保さんだったんでチームにとっても大打撃」、斉藤和巳は「今、頭の中が真っ白で何も考えられません。恥ずかしいです。とても日本一の球団がやることじゃない。選手としては侮辱されているとしか思えない」、城島健司は「普通じゃない」、和田毅は「シーズン中何度も励ましてくれた。来年いないなんて信じられない」とそれぞれコメントを残し、監督である王も「チームが崩壊する」と話している。11月6日に中内オーナーが球場を訪れた際、選手などが誰も中内と挨拶をしないという異例中の異例な出来事が起こった。

巨人は松井秀喜がメジャーリーグに移籍して以来、日本人長距離打者に恵まれていなかったことから「右打者の松井」と期待していた。2004年、故障箇所にサポート器具を装具し、膝関節も曲がりきらない状態でシーズンを迎え、トレードマークだった一本足打法から膝への負担軽減を図るべくすり足打法に変え、「3番・三塁手」で阪神との開幕戦からスタメンで出場し、翌試合に福原忍から東京ドームの右翼席中段へ移籍後初安打・初本塁打を記録。その後はなかなか成績が上がらない中、徐々に膝への不安が減り、5月には一本足打法に戻し、本塁打を量産した。前半戦最後の3連戦で4本塁打を放つなど活躍し、7月度の月間MVPに輝いた。シーズン途中の7月23日にはアテネオリンピックで離脱した高橋由伸に代わり、巨人軍第69代4番に座り、長嶋茂雄、原辰徳、落合博満、清原和博らも達成できなかった、巨人の右打者として史上初のシーズン40本塁打以上(41本塁打)を達成した。

2005年、セ・パ交流戦初年度に12本を放ち、交流戦初代本塁打王を獲得した(タイで4人受賞)。5月3日からは1試合を除いて全試合に4番で出場。横浜ベイスターズの土肥義弘からプロ入り初の3打席連続本塁打を放つなど、シーズンでは34本塁打を記録した。FA権を取得したが、移籍時に2年+1年(球団側に選択権がある)オプションの最高3年契約を結んでおり、球団がこのオプションを行使し、巨人に残留した。

2006年は巨人代表・清武英利から巨人軍第17代目の主将を依頼された。主将制度は1998年の吉村禎章以来8年ぶりの復活だったが、移籍選手の主将指名は初。小久保のユニフォームの右袖には15×80mmのキャプテンマークが縫い付けられた。年俸は3億円に達した。開幕戦に「6番・三塁手」で出場すると、4月には3試合連続を含む9本塁打を記録し、チームは首位を独走したが6月2日の西武戦での打球処理中、古傷の右手親指内側側副靭帯を剥離骨折し長期離脱を余儀なくされる。するとチームも大きな不振に陥り、チームは2年連続でBクラスとなった。8月18日の中日戦で一軍復帰し、最終成績は88試合の出場で、打率.259、19本塁打、55打点であった。また、4番での出場は9月3日中日戦の1試合のみだった。

11月11日、FAにより福岡ソフトバンクホークスへの復帰を発表した。12月10日、小久保の人的補償として吉武真太郎が巨人に移籍した。

尚、逆指名制度で入団した選手として初めて、FA権を行使し国内移籍した選手となった。

2007年シーズンは、王を胴上げすべく禁酒を決意し、右足の状態も改善したことからサポート用具を外し、開幕戦に「5番・三塁手」で先発出場した。9本塁打、26打点、得点圏打率.375で同年3・4月の月間MVPを受賞。夏場に疲労から調子を下げ、8月末には死球により肋骨を骨折したため離脱した。最終的にチームトップの25本塁打、82打点を挙げたが、チーム自体は2年連続の3位に終わり、クライマックスシリーズでも4度目となる敗退に終わった。

2008年は3年目の松田宣浩が頭角を現したこともあり、守備の負担が少ない一塁手に転向した。前年オフに三角線維軟骨複合体の治療のため左手首を手術した影響から、二軍での調整を経て、4月8日に「5番・一塁手」で一軍初出場。チームは終盤に大失速し、12年ぶりの最下位に終わったため、9月23日に王が監督退任を表明した。最終成績は、打率.253、56打点、得点圏打率.260で、2年連続20本塁打を記録した。

2009年は前年後半の不振を受けて、過食で体重を激増させてウエイトトレーニングを再開し、新任の秋山幸二監督の下、キャプテンに任命された。故障者の多いチーム事情の中で唯一全試合中軸として先発出場し、うち138試合を一塁手として出場した。交流戦では史上最速で優勝し、レギュラーシーズンでも一度も同一カード3連敗を受けることなく3位にまで躍進、打撃でも4番に定着してチームを支えた。100試合以上出場したシーズンでは初めて20本塁打を割ったが、得点圏打率は.336を記録、チームトップの81打点を挙げた。しかし、2年ぶりに出場したクライマックスシリーズでは振るわず、チームも東北楽天ゴールデンイーグルスに2連敗して5度目の敗退を喫した。

2010年、8年ぶりの開幕4番で出場すると、4月2日から11試合連続安打を記録した。その後は首痛・肩痛によって数字を落とし、1か月の離脱を余儀なくされた。離脱中のチームは6連敗など首位と最長の5.5ゲーム差に広がったが、7月10日に復帰し、一気に9連勝と波に乗った。勝負所の8・9月の全試合は4番で出場し、打率.303、併殺打は0だった。チームは7年ぶりの優勝を決めたが、クライマックスシリーズでは、打率1割台・0本塁打・3打点と大不振で、第6戦の最終回の最後の打者となり、チームも敗退した。シーズン終了後には2度目のゴールデングラブ賞を一塁手として受賞し、初受賞より15年ぶりの史上最長ブランクとなった。

2011年の開幕戦(オリックス戦)で木佐貫洋から死球を受け、右手第一末節骨を剥離骨折したが、僅か10日間で一軍復帰。初安打が自身3年連続10度目のサヨナラ打となった。5月12日に史上16人目(大卒選手では史上5人目)の通算400本塁打を達成した。シーズンでも8年連続2桁本塁打を記録したが、8月4日のオリックス戦で高宮和也から死球を受け、左第9肋骨を骨折し、9月17日にも首痛で出場選手登録を抹消された。日本シリーズでは全試合に出場し、打率.320、第4戦と5戦の2試合連続先制打と貢献し、8年ぶりの日本一にとなり、シリーズMVPを獲得した。40歳1か月での日本シリーズMVPは最年長記録となった。

2012年は長年悩まされていた首の痛みを取る手術を受けたものの、開幕戦に「5番・一塁手」で出場。しかし、通算2000安打まであと1安打とした5月25日、検査で腰椎の椎間板ヘルニアが判明し、出場選手登録を抹消された。6月24日に復帰すると、同日の日本ハム戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)において、ブライアン・ウルフから中前安打を放ち、史上41人目の2000安打を達成した。

8月14日のロッテ戦後に記者会見を開き、同年限りでの現役引退を表明した。引退表明後も出場を続け、9月30日の日本ハム戦では、10年ぶりとなる二打席連続本塁打を放った。41歳の誕生日を迎えた10月8日、シーズン最終戦のオリックス戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)がシーズン公式戦としての引退試合となり「4番・一塁手」で先発出場したが、この前日に小久保は「直球だけ(で勝負する)とかは止めてほしい」とコメントしていた。オリックスの先発だった西勇輝は真剣勝負で挑み、この試合でノーヒットノーランを達成した。そのため小久保も無安打で終わり、最終打席は遊ゴロに抑えられた。試合後には引退セレモニーが行われた。クライマックスシリーズにはファイナルステージ第2試合を除いて先発出場するが、最終出場となった10月19日の日本ハム戦の9回二死一塁で小久保に打席が回り、遊飛に倒れて試合終了。ソフトバンクの敗退が決まり、これが小久保の現役最後の打席となった。試合後には両チームの選手による胴上げが行われた。同年11月29日、任意引退選手公示が行われた。

背番号9番は、2015年に柳田悠岐が継承するまで欠番となった。

2000安打達成(2012年6月24日)
2000安打達成(2012年6月24日)

10年ぶりの2打席本塁打を放つ(2012年9月30日)
10年ぶりの2打席本塁打を放つ(2012年9月30日)

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引退セレモニー(2012年10月8日)

2013年からNHKの野球解説者を務める。2013年のみ西日本新聞社スポーツアドバイザーおよび西日本スポーツ評論家も兼任した。公式サイトも開設し、全て自身の手で書き綴った自叙伝が1月30日発売された。

2013年10月9日、常設化された野球日本代表「侍ジャパン」の初代監督に任命された。オリンピック正式競技後としては初の日本代表選手経験者の監督就任となった。監督経験どころかコーチ経験も無しの史上初の人事となり、不安視する声も多かった。

11月に行われた2013 BASEBALL CHALLENGEのチャイニーズ・タイペイ戦で初采配。2015年11月のプレミア12では準決勝で韓国に逆転負けを喫し、3位に終わった。その試合の采配を2017年の第4回ワールド・ベースボール・クラシック開幕直前まで強く批判され、戦前から苦戦が予想されたが、下馬評を覆し準決勝まで進出。しかし、アメリカと対戦の末敗戦した。なお、予選リーグ無敗での決勝ラウンドへの進出は、第4回大会にして初めてのことだった。

試合後の最後のミーティングで「負けた全責任は俺にある。おまえたちはよくやった。胸を張って帰国しよう」と選手を鼓舞した。全試合4番を務めた筒香嘉智は「小久保監督のためなら頑張ろうと思えるような素晴らしい監督だった。国を背負って戦うことができて光栄だった」とコメントし、全試合マスクを被った小林誠司からも「選手の気持ちを理解してくれた」と感謝の言葉を口にしていた。

この試合をもって日本代表監督を退任した。

2020年12月3日、ソフトバンクの一軍ヘッドコーチに就任することが発表された。現役以来の球団復帰となった。

その後、2022年からは二軍監督を務めた。就任1年目は2位、2年目の2023年はウエスタン・リーグを優勝し、ファーム日本選手権も制覇、ファーム日本一となった。

2023年10月21日、同年限りで退任した藤本博史の後任として2024年シーズンより一軍監督を務めることが発表された。ホークスが福岡へ移転後にプロ入りした選手としては球団初の一軍監督となった。また「野球日本代表(侍ジャパン)トップチームの指揮経験がある新人監督」はNPB史上初となる。ヘッドコーチには青山学院大学時代の先輩である奈良原浩を招聘した。投手陣、特に先発陣の立て直し」を課題に掲げ、そのために、過去2年は米マイナーリーグで指導した大学の後輩、プロでは同僚だった倉野信次を投手コーチとして呼び戻した。

2024年9月23日、監督就任1年目でチームを4年ぶり20度目(1リーグ時代を含むと22度目)のリーグ優勝に導いた。10月4日の最終戦に勝利してシーズン91勝とし、2002年の伊原春樹(西武)と2015年の工藤公康(ソフトバンク)が記録した新人監督最多勝利記録(90勝)を更新。就任1年目のシーズンを91勝49敗3分けで終えた。

北海道日本ハムファイターズとのクライマックスシリーズでは3連勝でアドバンテージの1勝を含めて4勝0敗で日本シリーズへ進出。日本シリーズではセ・リーグ3位からクライマックスシリーズを勝ち上がり出場した横浜DeNAベイスターズ相手に連勝するも、打線が29イニング連続無得点と抑え込まれ、2000年以来24年ぶりの本拠地3連敗を喫するなどして、最終的に2勝4敗で敗退した。

通算413本の本塁打を量産した一本足打法の長距離砲で、独特の大きな弧を描く本塁打が特徴。アッパースイングで打球を高く上げて本塁打を放つ。

自身は「ヒットの延長がホームランではなく、自分のスイングの延長にホームランがある」という見解を持っている。松中と同じ試合で本塁打を打つMKアベック弾を放った試合では、34勝5敗で勝率.872と高勝率を誇り、ビジターでアベック弾を放った試合では2008年4月22日の楽天戦で敗れるまで無敗であった。

満塁に強く、13本塁打を放っている。過去12勝1敗と勝率も高い。1999年8月20日に史上7人目の満塁ランニング本塁打を放っている。このイニングに秋山がスタンドインによる満塁弾を打ち、史上2回目となる「1イニング2本の満塁本塁打」の快挙を達成している。2011年は満塁本塁打は0だったが、満塁打率は.429を記録した。

4番打者として、歴代10位となる1,329試合に出場した。本塁打は、日本人では落合、田淵幸一に次ぐ史上3人目の記録となる両リーグ40本以上を達成した。その反面、三振が多く、小久保は理想の4番打者像として「三振数が少ない選手」と語っているが、ツーストライクからの打率は悪いわけではないものの、実際には歴代11位の1516三振を喫している。オールスター戦でも2本塁打放っているが21三振と歴代11位である。主に、外角のスライダーに空振りしてしまうケースが多く、「僕自身、多いんですがね(笑)」と話している。

日本プロ野球において、大卒で400本塁打と2,000安打を両方達成したのは、自身を除けば2021年現在で長嶋茂雄・山本浩二・金本知憲・阿部慎之助の4人しかいない記録である。

守備では捕球・スローイング共に比較的安定していたが、膝を故障して以降は反応がやや鈍くなった。

大学時代のポジションは三塁手で、プロ1年目は主に右翼手として出場し、1995年から1997年までは二塁手を務めた。ゴールデングラブ賞を二塁手、一塁手で受賞した。

プロ入り当初は2桁盗塁やリーグ最多三塁打を記録したこともあった。しかし膝の故障を発症してからは脚力の衰えが顕著となり、一塁到達タイムは4.62秒と平均を下回ったが、全力疾走は怠らなかった。

この節には、過剰に詳細な記述が含まれているおそれがあります。百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。 内容の整理をノートで検討しています。(2020年9月)
幼少の頃に両親が離婚。幼少期は柔道部であったが、母の勧めで小学1年生から野球を始める。加入したボーイズリーグのチームは非常に厳しかったため、小久保は辞めようと思っていたが、甘えさせてはいけないと、母は嫌がる小久保を無理やりグラウンドに連れて行ったという。プロを目指したのは小学2年生で、高校卒業後は社会人野球を目指していたが、母の強い勧めがあり、大学進学に変更した。 読書家としても知られ、1996年に「プロ2年目でたまたまタイトルを取れて有頂天になっていた」と絶不調に陥っていた際に船井幸雄の本を目にし、船井の著作物を読みあさって以降、20代から30代にかけて貪るように自己啓発本を読み、40代以降は歴史小説に傾倒しているという。 ダイエーでの若手時代、小久保のエラーが一因となり敗れた試合後、エラーの場面について幾度も質問してきた記者に辟易した小久保は「私にはこれが精一杯ですから」と発言し、それがそのまま翌日の新聞に掲載された。記事を見た監督の王はすぐに小久保を呼び出し、「我々の仕事はファンに夢を見せる事だ。このような発言をすると、ファンは小久保裕紀という人間に対して夢を見る事ができなくなる。今後2度とこのような発言はするな」と叱責した。後日、小久保本人がこのエピソードに関して、王貞治という人間を師匠として尊敬する要因になった一番の出来事だと語っている。 巨人に移籍した際にも王は、「プロ野球人としての手本になる選手だからジャイアンツにとってもいい刺激になる」と語っている。また、2012年6月24日に2000安打を達成し、7月14日のセレモニーで「名球会ブレザー」が贈呈された際、ブレザーを直々に贈呈したのはホークス監督として小久保とプロ野球人生を歩み、小久保を見守り続けた王貞治(名球会会長)であった。その際には、「自分が必ず着せる。責任感の強い男。武士道というか気質として古い日本的なものを持っている」と評した。 ファンとの交流を大事にしていたため、福岡で試合がある日は、試合直前までサインをしていた。さらに自身の公式ファンサイト「K'Project」で2004年から毎年オフに、100人以上のファンと間近でふれあった。主にトークと歌のディナーショー形式で、なかには様々なサプライズがあり、諸事情で参加できないと言いながら、本当は隠れて待っていたり、和服姿やドラキュラ姿で参加したりした。2010年はリーグ優勝を果たしたこともあり、ファンと炭酸ファイトを行った。イベント内ではオークションなどを行い、ポケットマネーと合わせて24時間テレビ 「愛は地球を救う」、宮崎の口蹄疫に義援金を送った。2011年東北地方太平洋沖地震もK'Projectを通して2011年3月26日にトークショーを行い、急きょだったにも関わらず、ホークスの一軍選手ほぼ全員、被災地東北の球団である楽天の選手も、嶋基宏、岩隈久志、田中将大らが参加した。終了後に募金を行い、総額375万円を贈った。 2005年4月8日の中日戦で、川上憲伸からシーズン初の本塁打(その試合を決定づける満塁本塁打)を打った時、TVカメラに向かって「約束を果たしたよ」と手話を送った。前年のシーズンオフに高橋由伸と訪問したろう学校にて、第1号の本塁打を打ったら手話でメッセージを送る約束をしていたと「スポーツうるぐす」で報道された。この手話は2006年4月1日の対横浜戦の土肥義弘からソロ本塁打を打った際も行い、このことについては、カルビープロ野球チップス・2005年第2弾のカードにも書かれている。 2005年12月から2009年12月まで社団法人選手会第10代理事長を務め、公園でも気軽にキャッチボールができる「ゆうボール」を作るなど、キャッチボールプロジェクトの発展に貢献した。4年間にわたる在位は、岡田彰布、立浪和義に続いて3番目だった。後任は井端弘和である。 実弟の小久保隆也は、腹話術師のいっこく堂のマネージャーであり、智弁和歌山高校で投手として1年夏、3年夏に甲子園に出場している。また、隆也の子であり、裕紀の甥にあたる小久保快栄は、明秀学園日立高等学校の内野手として、3年春に甲子園(第94回センバツ大会)に出場している。

主将として

学生時代からチームを引っ張っており、小、中、大学と主将であった(高校時代は投手だったため副主将)。ルーツは中学生時代である。野球は団体競技であり、全体の責任はキャプテンにあると徹底的に叩き込まれたため、チームとしてどう動くべきかという全体を見る目を自然と持てるようになったという。怒られることは自身のプレーではなく、チームとしてであった。プロでも、巨人で2006年に外様初の主将となり、古巣復帰後も2009年に主将就任。前年最下位だったチームは3位となり、2010年にはリーグ優勝。2011年にはパ・リーグ連覇、CS制覇、日本一を果たす。秋山監督にも信頼され「自分が監督を務めている間は主将は絶対に変えない」と言われていて2012年の引退年までチームをAクラスに導いた。 チームの士気を上げるため、強気な発言をすることが多い。2011年、長年苦しめられてきたクライマックスシリーズ前日には、「1つも負けるつもりはないです。最後(6戦目)までチケットを買ってくれたファンのみなさんには申し訳ない」と発言した。日本シリーズでも、打撃で最年長記録を次々と塗り替え、守備では積極的に投手に声をかけ、第7戦前には円陣で選手に手を重ねるよう指示するなど、日本一に大きく貢献した栄誉を称えられ、日本シリーズMVPを獲得。4月11日、ペナントレース前日に「今年は必ず日本一をとります」と宣言したとおり、見事有言実行を果たしてみせた。 青山学院大学の練習方法を変えた選手でもある。「自分たちで練習する時間が欲しい」という小久保の提言によって全体練習を減らした。大学4年で初の大学野球優勝をもたらし、以後定着した青学大の伝統である。恩師である河原井正雄は小久保ほど部員を引っ張ってくれた選手はいないとコメントしており、引退後に際しては、「野球界をリードできる男。王さんじゃないけれど球界を引っ張ってもらいたい。先陣をきってやる、という位の器は俺はあると思う」と絶賛した。 現役時代、主にアリゾナ州や奄美大島で行っていた自主トレは大所帯で、ソフトバンクのチームメイトである斉藤和巳は毎年恒例で参加しており、過去には松中信彦、村松有人、川﨑宗則、明石健志、長谷川勇也、岩嵜翔、中村晃なども参加していた。巨人時代は、二岡智宏、木佐貫洋の同行を球団に依頼された。車好きでもあり、国際免許を持っている。アリゾナではチームメイトを乗せ、自らハンドルを持つことが多い。ただし、2011年は、斉藤がコーチになったことと、前年自身がオーバーワークで離脱した反省を踏まえ、プロ入り初めて一人で自主トレを消化した。 キャンプの全体ランニングでは常にトップを走る。ダイエー新人時代から「選手の中で一番早く球場入りして、試合後一番遅くまで残っている」と言われるほど練習熱心である。入団時のコーチだった定岡智秋は「小久保には厳しい練習に耐えられる体の強さがあり、努力を継続させる強い意志も持っていた。だからこそ、球界を代表する選手に成長できた」と語っている。ダイエー時代の同僚で高校野球監督に転身した大越基は、生徒に模範すべき選手と語っている。城島健司は小久保が2,000安打達成の際、「ホークスの新たな伝統を築いた若手の中心が間違いなく小久保さんだった。野球を愛され、真剣に向き合ったからこその偉大な数字。僕らの誇りです」と述べた。 自身が巨人に移籍した直後に感じた孤独を他の選手には覚えさせてはいけないと、巨人から復帰してすぐの2007年には、不振に喘いでいたプロ2年目の松田宣浩を食事に誘ってアドバイスを送り、2011年にFA移籍してきた内川聖一も同様にキャンプから積極的に食事に誘った。その年の8月に小久保自身が骨折で離脱した際には内川が小久保のバッティンググローブを借りて出場、「尊敬する小久保さんがいない間、心配をかけたくない。僕が頑張る」と語った。内川は2015年に小久保引退以来空席だった主将を任され、「このチームにおけるキャプテンの重さは、小久保さんが引退してから感じていた。チームに影響を与えられるようになりたい」と責任感を口にした。

ホークス復帰

無償トレードによりダイエーから巨人へ移籍したため、小久保が数年後にFA権を行使して、親会社が変わったソフトバンクホークスに復帰するのではないかという噂や期待が絶えることはなかった。小久保が着用した背番号「9」は小久保の巨人在籍中は準永久欠番の扱いだった。 2006年1月1日の西日本スポーツ1面で、「小久保2007年ホークス復帰決定」と報じられ、巨人側から抗議が出るという事態が起きた。同じ時期に東京スポーツ紙面にて、ロサンゼルス・ドジャース移籍可能性も報道されている。 2006年10月17日、検査のため渡米する前の空港で、小久保はFA権を行使する考えを示し、11月7日に正式にFA権を申請した。帰国時の会見での「次に着るユニフォームの球団でユニフォームを脱ぐという思いもある」と発言し、球団オーナーである孫正義もどうにかしてホークスに戻したいとシーズン中に語っており、ソフトバンク側は、交渉解禁直後の11月9日に王も参加しての最初の交渉を行い、11月11日、4年総額12億円+出来高の契約に合意し、古巣への復帰が決定した。最大の理由は王が胃の全摘出手術でやせ細っている中、わざわざ交渉の席に駆けつけてきたことである。 移籍会見で王は「ジャイアンツに行く話になった時が一番ショックでしたから、一日でも早く(ホークスへ)帰ってきたらいいなという気持ちを、毎日のように思っていました」と語った。

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娘はモデルの小久保春菜。

不祥事

1997年オフにプロ野球脱税事件が発覚し、主犯格の1人として懲役1年、執行猶予2年、罰金700万円の有罪判決が言い渡され、コミッショナーからは1998年の開幕戦から8週間の出場停止と制裁金400万円の処分を受けた。

詳細情報

年度別打撃成績

年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁死 犠打 犠飛 四球 敬遠 死球 三振 併殺打 打率 出塁率 長打率 OPS
1994 ダイエー 78 191 177 18 38 6 0 6 62 20 2 1 4 2 8 0 0 31 5 .215 .246 .350 .596
1995 130 538 465 72 133 20 9 28 255 76 14 4 5 6 50 7 12 94 16 .286 .366 .548 .914
1996 126 539 478 73 118 26 3 24 222 82 7 3 0 6 48 1 7 95 13 .247 .321 .464 .785
1997 135 588 527 88 159 37 3 36 310 114 4 3 0 5 52 2 4 112 16 .302 .366 .588 .954
1998 17 75 71 7 16 3 1 2 27 11 0 0 0 0 3 1 1 19 1 .225 .267 .380 .647
1999 130 538 465 60 109 24 2 24 209 77 4 2 3 6 62 1 2 103 8 .234 .323 .449 .773
2000 125 520 473 87 136 26 3 31 261 105 5 2 0 6 31 2 10 85 13 .288 .340 .552 .892
2001 138 605 535 108 155 32 1 44 321 123 6 1 0 5 62 3 3 97 6 .290 .364 .600 .964
2002 136 579 507 89 148 25 0 32 269 89 8 1 0 3 63 3 6 90 10 .292 .375 .531 .905
2004 巨人 125 508 462 85 145 24 2 41 296 96 0 0 0 2 42 1 2 101 6 .314 .372 .641 1.013
2005 142 592 524 77 147 25 0 34 274 87 1 1 0 1 62 0 5 114 11 .281 .361 .523 .884
2006 88 344 308 37 79 5 0 19 141 55 1 0 2 2 31 3 1 68 6 .256 .325 .458 .782
2007 ソフトバンク 124 514 466 70 129 26 0 25 230 82 2 4 2 2 41 4 3 103 9 .277 .338 .494 .831
2008 106 434 383 45 97 21 0 20 178 56 1 1 0 3 42 0 6 95 11 .253 .334 .465 .799
2009 144 605 533 64 142 27 0 18 223 81 2 2 0 6 50 4 16 101 13 .266 .344 .418 .762
2010 112 469 427 60 119 22 0 15 186 68 1 2 1 3 34 0 4 69 4 .279 .335 .436 .771
2011 98 372 342 31 92 21 0 10 143 48 0 1 0 2 22 0 6 72 7 .269 .323 .418 .741
2012 103 357 331 20 79 11 0 4 102 34 0 0 3 3 20 0 0 67 6 .239 .280 .308 .588
通算:18年 2057 8368 7474 1091 2041 381 24 413 3709 1304 58 28 20 63 723 32 88 1516 161 .273 .342 .496 .840
    各年度の太字はリーグ最高

    ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

    太字年はゴールデングラブ賞受賞年

    本塁打王:1回(1995年)

    打点王:1回(1997年)

    ベストナイン:3回(二塁手部門:1995年、1997年、一塁手部門:2011年)

    ゴールデングラブ賞:3回(二塁手部門:1995年、一塁手部門:2010年、2011年)

    パ・リーグ連盟特別表彰:1回(最優秀監督賞:2024年

    月間MVP:3回(2000年6月、2004年7月、2007年4月)

    日本シリーズMVP:1回(2011年)

    スーパースラッガー賞:1回(1995年)

    カムバック賞:1回(2004年)

    スカパー! ドラマティック・サヨナラ賞:1回(2010年)

    「ジョージア魂」賞:1回(2012年度第10回)

    パシフィック・リーグ功労賞:1回(2012年)

    東京ドームMVP:1回(2004年)

    オープン戦最優秀新人賞(フレッシュマン大賞):1回(1994年)

    初出場・初先発出場:1994年4月9日、対オリックス・ブルーウェーブ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、6番・右翼手で先発出場

    初打席:同上、2回表に星野伸之の前に空振り三振

    初安打:1994年4月10日、対オリックス・ブルーウェーブ2回戦(グリーンスタジアム神戸)、7回表に野田浩司から左越二塁打

    初打点:1994年6月26日、対西武ライオンズ13回戦(西武ライオンズ球場)、5回表に小野和義から左犠飛

    初本塁打:1994年7月5日、対千葉ロッテマリーンズ13回戦(北九州市民球場)、2回裏に園川一美から左越ソロ

    初盗塁:1994年7月13日、対オリックス・ブルーウェーブ13回戦(福岡ドーム)、7回裏に二盗(投手:野村貴仁、捕手:高田誠)

    100本塁打:1999年4月29日、対日本ハムファイターズ6回戦(東京ドーム)、3回表に岩本勉から左越2ラン ※史上202人目

    150本塁打:2000年9月24日、対大阪近鉄バファローズ26回戦(大阪ドーム)、10回表に大塚晶文から右越3ラン ※史上116人目

    200本塁打:2002年4月9日、対大阪近鉄バファローズ1回戦(福岡ドーム)、7回裏に関口伊織から左中間へ同点ソロ ※史上75人目

    1000試合出場:2002年9月17日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(福岡ドーム)、4番・三塁手で先発出場 ※史上382人目

    1000安打:2002年9月27日、対西武ライオンズ25回戦(福岡ドーム)、1回裏に後藤光貴から左越先制2ラン ※史上211人目

    250本塁打:2004年7月2日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、3回表に佐々岡真司から左越満塁本塁打 ※史上46人目

    300本塁打:2005年9月10日、対中日ドラゴンズ18回戦(東京ドーム)、3回裏にルイス・マルティネスから左越2ラン ※史上31人目

    1000三振:2006年9月23日、対阪神タイガース19回戦(東京ドーム)、3回裏に下柳剛から ※史上40人目

    1000打点:2007年7月18日、対北海道日本ハムファイターズ14回戦(札幌ドーム)、5回表にブライアン・スウィーニーから左翼線適時二塁打 ※史上30人目

    1500安打:2007年9月15日、対北海道日本ハムファイターズ20回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、9回裏に江尻慎太郎から左前安打 ※史上94人目

    1500試合出場:2008年4月13日、対埼玉西武ライオンズ6回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、5番・一塁手で先発出場 ※史上157人目

    3000塁打:2008年7月22日、対オリックス・バファローズ13回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、1回裏に近藤一樹から左前安打 ※史上43人目

    350本塁打:2008年4月30日、対埼玉西武ライオンズ8回戦(西武ドーム)、2回表に石井一久から左越先制ソロ ※史上21人目

    300二塁打:2008年9月7日、対千葉ロッテマリーンズ20回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、7回裏に小宮山悟から左中間へ2点適時二塁打 ※史上50人目

    1000得点:2010年5月3日、対オリックス・バファローズ7回戦(スカイマークスタジアム)、1回表に岸田護から左越2ラン ※史上37人目

    350二塁打:2011年4月24日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(藤崎台県営野球場)、1回裏に光原逸裕から左翼線適時二塁打 ※史上31人目

    400本塁打:2011年5月12日、対オリックス・バファローズ6回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、4回裏にアルフレッド・フィガロから左越ソロ ※史上16人目

    3500塁打:2011年5月15日、対埼玉西武ライオンズ6回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、4回裏に帆足和幸から右中間適時二塁打 ※史上25人目

    2000安打:2012年6月24日、対北海道日本ハムファイターズ9回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、4回裏にブライアン・ウルフから中前安打 ※史上41人目

    2000試合出場:2012年6月28日、対オリックス・バファローズ12回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、「6番・一塁手」で先発出場 ※史上46人目

    1500三振:2012年8月22日、対埼玉西武ライオンズ17回戦(西武ドーム)、4回表に菊池雄星から ※史上11人目

    10試合連続打点:2000年6月20日 - 7月4日

    210守備機会連続無失策:2001年5月13日 - 9月9日 ※三塁手としてのパ・リーグ記録

    通算満塁本塁打:13本 ※歴代4位タイ

    ゴールデングラブ賞を再獲得するまでのインターバル最長記録:15年(1995年 - 2010年)

    通算安打1999本目の記録日から2000安打達成日までの日数最長記録:33日(2012年5月22日 - 6月24日)

    オールスターゲーム出場:11回(1995年、1996年、1997年、2000年、2001年、2002年、2004年、2007年、2008年、2009年、2011年) ※1998年、2006年にもファン投票で選出されているが、負傷のため欠場

    8(1992年 バルセロナオリンピック、青山学院大学 学生)

    9(1994年 - 2003年・福岡ダイエーホークス / 2007年 - 2012年・福岡ソフトバンクホークス)

    6(2004年 - 2006年・読売ジャイアンツ)

    90(2013年10月 - 2017年 日本代表 監督、2021年 - )

    「希望の轍」サザンオールスターズ(2004年 - 2006年)

    「ありがとう」SMAP(2007年 - 2012年)

    第21回日米大学野球選手権大会 日本代表

    バルセロナオリンピック 日本代表

    第11回IBAFインターコンチネンタルカップ 日本代表

    1993年夏季ユニバーシアード 日本代表

    第22回日米大学野球選手権大会 日本代表

    2015 WBSCプレミア12 日本代表監督

    2017 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督

    一瞬に生きる(2013年1月30日、小学館、ISBN 978-4093882842)

    開き直る権利 侍ジャパンを率いた1278日の記録(2017年11月7日、朝日新聞出版、ISBN 978-4022514967)

    結果を出す二軍の教え(2023年8月31日、KADOKAWA、ISBN 978-4046064929) - 解説(仁志敏久、松元ユウイチ、木田優夫、内田順三と共同)

    ^ 三塁打と本塁打の両部門でリーグトップとなるのは、1947年の大下弘以来48年ぶり2人目。

    ^ 10試合連続以上の打点は小久保で10人目。

    ^ 2004年にダイエーから買収。

    ^ ホークスの主将制度は、2002年の秋山幸二以来7年ぶりに復活。

    ^ 2000安打までのあと1本でのインターバル33日間はプロ野球での史上最長記録となった。

    ^ 400本塁打と2000安打を両方達成したのは史上14人目で、大卒では長嶋茂雄、山本浩二、金本知憲に次ぐ史上4人目となった。

    ^ 福岡移転後に選手として在籍していた人物では秋山幸二・工藤公康・藤本博史に次いで4人目。

    ^ 小久保の前に歴代の日本代表トップチームを率いてきた王貞治や原辰徳は在任当時現職の一軍監督を兼任しており、長嶋茂雄・星野仙一・山本浩二はいずれも一軍監督退任後の指揮であった。なお、アテネオリンピックで病床の長嶋に代わって登録上正式な「監督」として指揮を執り、のちに横浜DeNAベイスターズで初めて一軍監督を務めた中畑清を含めると史上2人目となる。

    ^ 第3戦の2回裏から第6戦の3回表まで。

    ^ ホークスは直近に出場した8度の日本シリーズ(2003年・2011年・2014年・2015年・2017年・2018年・2019年・2020年)でいずれも優勝しており、日本シリーズ敗退は2000年以来24年ぶり、21世紀以降およびソフトバンクとなってからは初である。また、クライマックスシリーズでリーグ優勝チームを破って日本シリーズへ出場したチームに敗れたのは2007年の日本ハム(対中日)、2010年の中日(対ロッテ)、2018年の広島(対ソフトバンク)、2019年の巨人(対ソフトバンク)に次いで史上5球団目であった。

    ^ 朝日新聞、1998年2月10日付朝刊 (31面)

    ^ ベースボールマガジン社 『2001 ベースボール・レコード・ブック』89頁 2000年度主要記録集「小久保が10試合連続打点」より。

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    小久保裕紀 - 株式会社ジャパン・スポーツ・マーケティング

    個人年度別成績 小久保裕紀 - NPB.jp 日本野球機構

    90 小久保 裕紀 選手名鑑2024 - 福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト

    小久保裕紀オフィシャルサイト - 公式サイト

    選手情報 - 週刊ベースボールONLINE

    90 小久保裕紀

    92 奈良原浩(ヘッド)

    94 倉野信次(投手チーフ兼ヘッドコーディネーター)

    72 若田部健一(投手〈ブルペン〉)

    71 中田賢一(投手〈ブルペン補佐〉)

    78 村上隆行(打撃)

    80 本多雄一(内野守備走塁兼作戦)

    79 大西崇之(外野守備走塁兼作戦)

    84 髙谷裕亮(バッテリー)

    74 松山秀明(監督)

    73 小笠原孝(投手チーフ)

    97 牧田和久(投手)

    93 村松有人(打撃)

    82 髙田知季(内野守備走塁)

    96 城所龍磨(外野守備走塁)

    83 清水将海(バッテリー)

    88 斉藤和巳(監督)

    86 佐久本昌広(投手チーフ)

    76 寺原隼人(投手)

    86 奥村政稔(投手)

    75 大道典良(打撃)

    91 金子圭輔(内野守備走塁)

    98 高波文一(外野守備走塁)

    87 細川亨(バッテリー)

    011 大越基(監督)

    013 森笠繁(打撃)

    014 笹川隆(内野守備走塁)

    015 釜元豪(外野守備走塁)

    016 的山哲也(バッテリー)

    017 森山良二(リハビリ担当〈投手〉)

    018 中谷将大(リハビリ担当〈野手〉)

    012 川越英隆(コーディネーター〈投手ファーム統括〉)

    020 星野順治(コーディネーター〈投手〉)

    023 荒金久雄(コーディネーター〈野手統括〉)

    019 関川浩一(コーディネーター〈野手〉)

    022 森浩之(コーディネーター〈野手〉)

    021 井出竜也(コーディネーター〈野手〉)

    1 風間球打

    2 スチュワート・ジュニア

    11 津森宥紀

    14 又吉克樹

    16 東浜巨

    17 有原航平

    18 武田翔太

    20 中村亮太

    26 大津亮介

    27 岩井俊介

    29 石川柊太

    34 村田賢一

    35 モイネロ

    38 澤柳亮太郎

    39 尾形崇斗

    40 杉山一樹

    41 前田悠伍

    42 三浦瑞樹

    47 大関友久

    48 藤井皓哉

    49 松本晴

    50 板東湧梧

    51 前田純

    53 大山凌

    54 オスナ

    56 田浦文丸

    58 木村大成

    59 長谷川威展

    60 大野稼頭央

    63 ヘルナンデス

    66 松本裕樹

    67 笠谷俊介

    68 木村光

    70 田上奏大

    12 嶺井博希

    19 甲斐拓也

    22 牧原巧汰

    45 谷川原健太

    55 石塚綜一郎

    62 海野隆司

    64 吉田賢吾

    65 藤田悠太郎

    79 渡邉陸

    0 川瀬晃

    4 ダウンズ

    6 今宮健太

    8 牧原大成

    13 三森大貴

    23 周東佑京

    24 栗原陵矢

    25 山川穂高

    33 廣瀨隆太

    36 イヒネイツア

    43 井上朋也

    46 川原田純平

    52 リチャード

    69 仲田慶介

    99 野村勇

    3 近藤健介

    7 中村晃

    9 柳田悠岐

    28 ウォーカー

    30 佐藤直樹

    31 正木智也

    32 柳町達

    37 生海

    44 笹川吉康

    57 緒方理貢

    61 川村友斗

    126 宮里優吾

    133 星野恒太朗

    134 大城真乃

    135 アルメンタ

    136 大竹風雅

    139 井﨑燦志郎

    142 藤原大翔

    145 ハモンド

    146 藤田淳平

    148 山崎琢磨

    156 ロドリゲス

    158 赤羽蓮

    160 長水啓眞

    161 内野海斗

    162 岡植純平

    163 佐々木明都

    164 水口創太

    165 宮崎颯

    169 飛田悠成

    176 サルディ

    151 加藤晴空

    171 盛島稜大

    122 藤野恵音

    124 桑原秀侍

    129 佐倉俠史朗

    130 勝連大稀

    131 中澤恒貴

    159 山下恭吾

    170 西尾歩真

    175 アルモンテ

    123 大泉周也

    144 シモン

    150 山本恵大

    166 重松凱人

    168 佐藤航太

    173 オスーナ

    金田正一

    稲尾和久

    小山正明

    米田哲也

    梶本隆夫

    皆川睦雄

    村山実

    鈴木啓示

    堀内恒夫

    山田久志

    江夏豊

    平松政次

    東尾修

    村田兆治

    北別府学

    佐々木主浩

    高津臣吾

    工藤公康

    野茂英雄

    山本昌広

    岩瀬仁紀

    黒田博樹

    上原浩治

    藤川球児

    平野佳寿

    山内一弘

    榎本喜八

    野村克也

    長嶋茂雄

    広瀬叔功

    張本勲

    王貞治

    江藤慎一

    土井正博

    高木守道

    松原誠

    柴田勲

    大杉勝男

    藤田平

    衣笠祥雄

    福本豊

    山崎裕之

    山本浩二

    有藤通世

    若松勉

    谷沢健一

    加藤秀司

    門田博光

    大島康徳

    新井宏昌

    秋山幸二

    駒田徳広

    立浪和義

    鈴木一朗(イチロー)

    清原和博

    古田敦也

    野村謙二郎

    石井琢朗

    松井秀喜

    田中幸雄

    前田智徳

    金本知憲

    松井稼頭央

    小笠原道大

    稲葉篤紀

    宮本慎也

    小久保裕紀

    アレックス・ラミレス

    中村紀洋

    谷繁元信

    井口資仁

    和田一浩

    新井貴浩

    福留孝介

    荒木雅博

    青木宣親

    阿部慎之助

    鳥谷敬

    内川聖一

    福浦和也

    坂本勇人

    栗山巧

    大島洋平

    1950 湯浅禎夫

    1951 山本一人

    1952 山本一人

    1953 山本一人

    1954 三原脩

    1955 山本一人

    1956 三原脩

    1957 三原脩

    1958 三原脩

    1959 鶴岡一人

    1960 西本幸雄

    1961 鶴岡一人

    1962 水原茂

    1963 中西太

    1964 鶴岡一人

    1965 鶴岡一人

    1966 鶴岡一人

    1967 西本幸雄

    1968 西本幸雄

    1969 西本幸雄

    1970 濃人渉

    1971 西本幸雄

    1972 西本幸雄

    1973 野村克也

    1974 金田正一

    1975 上田利治

    1976 上田利治

    1977 上田利治

    1978 上田利治

    1979 西本幸雄

    1980 西本幸雄

    1981 大沢啓二

    1982 広岡達朗

    1983 広岡達朗

    1984 上田利治

    1985 広岡達朗

    1986 森祇晶

    1987 森祇晶

    1988 森祇晶

    1989 仰木彬

    1990 森祇晶

    1991 森祇晶

    1992 森祇晶

    1993 森祇晶

    1994 森祇晶

    1995 仰木彬

    1996 仰木彬

    1997 東尾修

    1998 東尾修

    1999 王貞治

    2000 王貞治

    2001 梨田昌孝

    2002 伊原春樹

    2003 王貞治

    2004 伊東勤

    2005 ボビー・バレンタイン

    2006 トレイ・ヒルマン

    2007 トレイ・ヒルマン

    2008 渡辺久信

    2009 梨田昌孝

    2010 秋山幸二

    2011 秋山幸二

    2012 栗山英樹

    2013 星野仙一

    2014 秋山幸二

    2015 工藤公康

    2016 栗山英樹

    2017 工藤公康

    2018 辻発彦

    2019 辻発彦

    2020 工藤公康

    2021 中嶋聡

    2022 中嶋聡

    2023 中嶋聡

    2024 小久保裕紀

    1950 別当薫

    1951 南村不可止

    1952 別所毅彦

    1953 川上哲治

    1954 杉下茂

    1955 別所毅彦

    1956 豊田泰光

    1957 大下弘

    1958 稲尾和久

    1959 杉浦忠

    1960 近藤昭仁

    1961 宮本敏雄

    1962 土橋正幸, 種茂雅之

    1963 長嶋茂雄

    1964 J.スタンカ

    1965 長嶋茂雄

    1966 柴田勲

    1967 森昌彦

    1968 高田繁

    1969 長嶋茂雄

    1970 長嶋茂雄

    1971 末次民夫

    1972 堀内恒夫

    1973 堀内恒夫

    1974 弘田澄男

    1975 山口高志

    1976 福本豊

    1977 山田久志

    1978 大杉勝男

    1979 高橋慶彦

    1980 J.ライトル

    1981 西本聖

    1982 東尾修

    1983 大田卓司

    1984 長嶋清幸

    1985 R.バース

    1986 工藤公康

    1987 工藤公康

    1988 石毛宏典

    1989 駒田徳広

    1990 O.デストラーデ

    1991 秋山幸二

    1992 石井丈裕

    1993 川崎憲次郎

    1994 槙原寛己

    1995 T.オマリー

    1996 T.ニール

    1997 古田敦也

    1998 鈴木尚典

    1999 秋山幸二

    2000 松井秀喜

    2001 古田敦也

    2002 二岡智宏

    2003 杉内俊哉

    2004 石井貴

    2005 今江敏晃

    2006 稲葉篤紀

    2007 中村紀洋

    2008 岸孝之

    2009 阿部慎之助

    2010 今江敏晃

    2011 小久保裕紀

    2012 内海哲也

    2013 美馬学

    2014 内川聖一

    2015 李大浩

    2016 B.レアード

    2017 D.サファテ

    2018 甲斐拓也

    2019 Y.グラシアル

    2020 栗原陵矢

    2021 中村悠平

    2022 杉本裕太郎

    2023 近本光司

    2024 桑原将志

    1950 別当薫

    1951 大下弘

    1952 深見安博

    1953 中西太

    1954 中西太

    1955 中西太

    1956 中西太

    1957 野村克也

    1958 中西太

    1959 山内和弘

    1960 山内和弘

    1961 野村克也, 中田昌宏

    1962 野村克也

    1963 野村克也

    1964 野村克也

    1965 野村克也

    1966 野村克也

    1967 野村克也

    1968 野村克也

    1969 長池徳二

    1970 大杉勝男

    1971 大杉勝男

    1972 長池徳二

    1973 長池徳二

    1974 C.ジョーンズ

    1975 土井正博

    1976 C.ジョーンズ

    1977 L.リー

    1978 B.ミッチェル

    1979 C.マニエル

    1980 C.マニエル

    1981 T.ソレイタ, 門田博光

    1982 落合博満

    1983 門田博光

    1984 ブーマー

    1985 落合博満

    1986 落合博満

    1987 秋山幸二

    1988 門田博光

    1989 R.ブライアント

    1990 O.デストラーデ

    1991 O.デストラーデ

    1992 O.デストラーデ

    1993 R.ブライアント

    1994 R.ブライアント

    1995 小久保裕紀

    1996 T.ニール

    1997 N.ウィルソン

    1998 N.ウィルソン

    1999 T.ローズ

    2000 中村紀洋

    2001 T.ローズ

    2002 A.カブレラ

    2003 T.ローズ

    2004 松中信彦, F.セギノール

    2005 松中信彦

    2006 小笠原道大

    2007 山﨑武司

    2008 中村剛也

    2009 中村剛也

    2010 T-岡田

    2011 中村剛也

    2012 中村剛也

    2013 M.アブレイユ

    2014 E.メヒア, 中村剛也

    2015 中村剛也

    2016 B.レアード

    2017 A.デスパイネ

    2018 山川穂高

    2019 山川穂高

    2020 浅村栄斗

    2021 杉本裕太郎

    2022 山川穂高

    2023 G.ポランコ, 近藤健介, 浅村栄斗

    2024 山川穂高

    1950 別当薫

    1951 飯田徳治

    1952 飯田徳治

    1953 中西太

    1954 山内和弘

    1955 山内和弘

    1956 中西太

    1957 中西太

    1958 葛城隆雄

    1959 葛城隆雄

    1960 山内和弘

    1961 山内和弘

    1962 野村克也

    1963 野村克也

    1964 野村克也

    1965 野村克也

    1966 野村克也

    1967 野村克也

    1968 G.アルトマン

    1969 長池徳二

    1970 大杉勝男

    1971 門田博光

    1972 野村克也, 大杉勝男

    1973 長池徳二

    1974 長池徳二

    1975 加藤秀司

    1976 加藤秀司

    1977 L.リー

    1978 B.マルカーノ

    1979 加藤英司

    1980 C.マニエル

    1981 T.ソレイタ

    1982 落合博満

    1983 水谷実雄

    1984 ブーマー

    1985 落合博満

    1986 落合博満

    1987 ブーマー

    1988 門田博光

    1989 ブーマー

    1990 O.デストラーデ, 石嶺和彦

    1991 O.デストラーデ, J.トレーバー

    1992 ブーマー

    1993 R.ブライアント

    1994 石井浩郎

    1995 イチロー, 初芝清, 田中幸雄

    1996 T.ニール

    1997 小久保裕紀

    1998 N.ウィルソン

    1999 T.ローズ

    2000 中村紀洋

    2001 中村紀洋

    2002 T.ローズ

    2003 松中信彦

    2004 松中信彦

    2005 松中信彦

    2006 小笠原道大, A.カブレラ

    2007 山﨑武司

    2008 T.ローズ

    2009 中村剛也

    2010 小谷野栄一

    2011 中村剛也

    2012 李大浩

    2013 浅村栄斗

    2014 中田翔

    2015 中村剛也

    2016 中田翔

    2017 A.デスパイネ

    2018 浅村栄斗

    2019 中村剛也

    2020 中田翔

    2021 島内宏明

    2022 山川穂高

    2023 近藤健介

    2024 山川穂高

    1950 飯田徳治

    1951 飯田徳治

    1952 飯田徳治

    1953 飯田徳治

    1954 川合幸三

    1955 杉山光平

    1956 榎本喜八

    1957 岡本健一郎

    1958 スタンレー橋本

    1959 榎本喜八

    1960 榎本喜八

    1961 榎本喜八

    1962 榎本喜八

    1963 榎本喜八

    1964 榎本喜八

    1965 高木喬

    1966 榎本喜八

    1967 大杉勝男

    1968 榎本喜八

    1969 大杉勝男

    1970 大杉勝男

    1971 大杉勝男

    1972 大杉勝男

    1973 加藤秀司

    1974 C.ジョーンズ

    1975 加藤秀司

    1976 加藤秀司

    1977 加藤秀司

    1978 柏原純一

    1979 加藤英司

    1980 レオン

    1981 柏原純一

    1982 柏原純一

    1983 落合博満

    1984 ブーマー

    1985 R.デービス

    1986 ブーマー

    1987 ブーマー

    1988 清原和博

    1989 ブーマー

    1990 清原和博

    1991 J.トレーバー

    1992 清原和博

    1993 石井浩郎

    1994 石井浩郎

    1995 J.フランコ

    1996 片岡篤史

    1997 P.クラーク

    1998 P.クラーク

    1999 小笠原道大

    2000 松中信彦

    2001 小笠原道大

    2002 A.カブレラ

    2003 松中信彦

    2004 松中信彦

    2005 J.ズレータ

    2006 小笠原道大

    2007 A.カブレラ

    2008 A.カブレラ

    2009 髙橋信二

    2010 A.カブレラ

    2011 小久保裕紀

    2012 李大浩

    2013 浅村栄斗

    2014 E.メヒア

    2015 中田翔

    2016 中田翔

    2017 銀次

    2018 山川穂高

    2019 山川穂高

    2020 中田翔

    2021 B.レアード

    2022 山川穂高

    2023 頓宮裕真

    1950 本堂保次

    1951 山本一人

    1952 岡本伊三美

    1953 岡本伊三美

    1954 森下正夫

    1955 岡本伊三美

    1956 佐々木信也

    1957 岡本伊三美

    1958 R.バルボン

    1959 岡本伊三美

    1960 仰木彬

    1961 森下整鎮

    1962 ブルーム

    1963 ブルーム

    1964 D.スペンサー

    1965 D.スペンサー

    1966 国貞泰汎

    1967 ブレイザー

    1968 ブレイザー

    1969 山崎裕之

    1970 山崎裕之

    1971 山崎裕之

    1972 基満男

    1973 桜井輝秀

    1974 山崎裕之

    1975 B.マルカーノ

    1976 吉岡悟

    1977 B.マルカーノ

    1978 B.マルカーノ

    1979 B.マルカーノ

    1980 山崎裕之

    1981 落合博満

    1982 落合博満

    1983 大石大二郎

    1984 大石大二郎

    1985 西村徳文

    1986 辻発彦

    1987 白井一幸

    1988 福良淳一

    1989 辻発彦

    1990 大石第二朗

    1991 辻発彦

    1992 辻発彦

    1993 辻発彦

    1994 福良淳一

    1995 小久保裕紀

    1996 大島公一

    1997 小久保裕紀

    1998 J.フランコ

    1999 金子誠

    2000 大島公一

    2001 井口資仁

    2002 高木浩之

    2003 井口資仁

    2004 井口資仁

    2005 堀幸一

    2006 田中賢介

    2007 田中賢介

    2008 片岡易之

    2009 田中賢介

    2010 田中賢介

    2011 本多雄一

    2012 田中賢介

    2013 藤田一也

    2014 藤田一也

    2015 田中賢介

    2016 浅村栄斗

    2017 浅村栄斗

    2018 浅村栄斗

    2019 浅村栄斗

    2020 浅村栄斗

    2021 中村奨吾

    2022 浅村栄斗

    2023 浅村栄斗

     投  伊良部秀輝

     捕  中嶋聡

     一  J.フランコ

     二  小久保裕紀

     三  初芝清

     遊  田中幸雄

     外  佐々木誠 / イチロー / D.ジャクソン

     指  T.ニール

     投  西口文也

     捕  伊東勤

     一  P.クラーク

     二  小久保裕紀

     三  鈴木健

     遊  松井稼頭央

     外  イチロー / 佐々木誠 / T.ローズ

     指  D.マルティネス

     投  田中将大

     捕  細川亨

     一  小久保裕紀

     二  本多雄一

     三  中村剛也

     遊  中島裕之

     外  糸井嘉男 / 内川聖一 / 栗山巧

     指  J.フェルナンデス

    1972 大杉勝男

    1973 C.ジョーンズ

    1974 W.パーカー

    1975 加藤秀司

    1976 加藤秀司

    1977 加藤秀司

    1978 柏原純一

    1979 柏原純一

    1980 小川亨

    1981 柏原純一

    1982 柏原純一

    1983 片平晋作

    1984 山本功児

    1985 山本功児

    1986 ブーマー

    1987 ブーマー

    1988 清原和博

    1989 愛甲猛

    1990 清原和博

    1991 J.トレーバー

    1992 清原和博

    1993 清原和博

    1994 清原和博

    1995 J.フランコ

    1996 片岡篤史

    1997 髙木大成

    1998 髙木大成

    1999 小笠原道大

    2000 小笠原道大

    2001 小笠原道大

    2002 小笠原道大

    2003 福浦和也

    2004 松中信彦

    2005 福浦和也

    2006 小笠原道大

    2007 福浦和也

    2008 A.カブレラ

    2009 髙橋信二

    2010 小久保裕紀

    2011 小久保裕紀

    2012 稲葉篤紀

    2013 浅村栄斗

    2014 T-岡田

    2015 中田翔

    2016 中田翔

    2017 銀次

    2018 中田翔

    2019 内川聖一

    2020 中村晃, 中田翔

    2021 中村晃

    2022 中村晃

    2023 中村晃

    2024 山川穂高

    1972 大下剛史

    1973 桜井輝秀

    1974 桜井輝秀

    1975 B.マルカーノ

    1976 B.マルカーノ

    1977 山崎裕之

    1978 B.マルカーノ

    1979 B.マルカーノ

    1980 山崎裕之

    1981 山崎裕之

    1982 大石大二郎

    1983 大石大二郎

    1984 大石大二郎

    1985 西村徳文

    1986 辻発彦

    1987 白井一幸

    1988 辻発彦

    1989 辻発彦

    1990 辻発彦

    1991 辻発彦

    1992 辻発彦

    1993 辻発彦

    1994 辻発彦

    1995 小久保裕紀

    1996 大島公一

    1997 大島公一

    1998 金子誠

    1999 金子誠

    2000 大島公一

    2001 井口資仁

    2002 高木浩之

    2003 井口資仁

    2004 井口資仁

    2005 西岡剛

    2006 田中賢介

    2007 田中賢介

    2008 田中賢介

    2009 田中賢介

    2010 田中賢介

    2011 本多雄一

    2012 本多雄一

    2013 藤田一也

    2014 藤田一也

    2015 L.クルーズ

    2016 藤田一也

    2017 鈴木大地

    2018 中村奨吾

    2019 浅村栄斗

    2020 外崎修汰

    2021 中村奨吾

    2022 外崎修汰

    2023 中村奨吾

    2024 小深田大翔

     投  工藤公康

     捕  伊東勤

     一  J.フランコ

     二  小久保裕紀

     三  馬場敏史

     遊  田中幸雄

     外  田口壮 / 秋山幸二 / イチロー

     投  涌井秀章

     捕  嶋基宏

     一  小久保裕紀

     二  田中賢介

     三  小谷野栄一

     遊  西岡剛

     外  坂口智隆 / 糸井嘉男 / 栗山巧

     投  田中将大

     捕  細川亨

     一  小久保裕紀

     二  本多雄一

     三  松田宣浩

     遊  中島裕之

     外  坂口智隆 / 糸井嘉男 / 岡田幸文

    2009 井口資仁

    2010 小久保裕紀

    2011 松田宣浩

    2012 中田翔

    2013 浅村栄斗

    2014 松田宣浩

    2015 柳田悠岐

    2016 吉村裕基

    2017 栗山巧

    2018 森友哉

    2019 鈴木大地

    2020 井上晴哉

    2021 岡大海

    2022 宗佑磨

    2023 角中勝也

    1974 石岡康三

    1975 安仁屋宗八

    1976 船田和英

    1977 浅野啓司

    1978 野村収

    1979 三村敏之

    1980 谷沢健一

    1981 藤田平

    1984 鈴木孝政

    1986 津田恒実

    1987 杉浦享, 新浦壽夫

    1988 有田修三

    1989 西本聖, 中尾孝義

    1990 吉村禎章, 遠藤一彦

    1992 伊東昭光

    1993 川崎憲次郎

    1994 彦野利勝

    1996 加藤伸一

    1997 伊藤智仁

    1998 斎藤隆

    1999 遠山奬志

    2000 種田仁

    2001 成本年秀

    2002 前田智徳

    2003 平井正史, 鈴木健

    2004 小久保裕紀

    2008 平野恵一

    2012 大竹寛

    2015 館山昌平

    2017 岩瀬仁紀

    2018 松坂大輔

    太田誠

    鈴木三好

    中尾卓一

    原貢

    大西敏文

    木村龍治

    佐々木善丈

    鶴田泰

    門奈哲寛

    関根裕之

    河原純一

    渡辺秀一

    田口昌徳

    一鍬田学

    柳沢裕一

    印出順彦

    神野純一

    渡辺峰雄

    上茂雄

    小田裕剛

    小久保裕紀

    高田義宜

    仁志敏久

    天野義明

    伊礼忠彦

    杉村昭

    真中満

    竹間容祐

    今田康博

    30 山中正竹

    32 荒井信久

    35 野端啓夫

    12 佐藤康弘

    14 杉山賢人

    15 渡部勝美

    16 西山一宇

    17 小桧山雅仁

    18 伊藤智仁

    19 杉浦正則

    10 高見泰範

    23 三輪隆

    1 大島公一

    3 若林重喜

    4 西正文

    5 徳永耕治

    6 十河章浩

    7 小島啓民

    8 小久保裕紀

    9 坂口裕之

    25 佐藤真一

    26 中本浩

    28 川畑伸一郎

    河原井正雄

    横川賢次

    伊藤義博

    木村憲治

    磯貞之

    河原隆一

    白鳥隆志

    関根裕之

    大淀尚之

    金森隆浩

    河原純一

    川村丈夫

    工藤寿

    北川博敏

    江井康胤

    小久保裕紀

    高田義宜

    高山健一

    鳥越裕介

    浪岡靖之

    原丈弘

    稲葉篤紀

    井口忠仁

    尾嶋伸治

    木下郁

    中野谷明也

    箱崎豊

    大野倫

    湯浅貴博

    川島勝司

    井尻陽久

    山本清春

    伊藤義博

    杉浦正則

    高橋建

    山部太

    米正秀

    渡辺秀一

    川村丈夫

    織田淳哉

    田嶋大三

    大久保秀昭

    柳沢裕一

    谷口英功

    旗手浩二

    松本尚樹

    小久保裕紀

    十河章浩

    仁志敏久

    高林孝行

    梶田茂生

    佐藤友昭

    大野倫

    90 小久保裕紀

    73 奈良原浩(ヘッド)

    79 大西崇之(外野守備・走塁)

    80 稲葉篤紀(打撃)

    87 仁志敏久(内野守備・走塁)

    88 矢野燿大(バッテリー)

    89 鹿取義隆(投手)

    10 松井裕樹

    11 菅野智之

    14 則本昂大

    15 澤村拓一

    16 大谷翔平

    18 前田健太

    19 増井浩俊

    21 西勇輝

    22 大野雄大

    24 山﨑康晃

    29 小川泰弘

    30 武田翔太

    35 牧田和久

    27 炭谷銀仁朗

    37 嶋基宏

    52 中村悠平

    2 今宮健太

    3 松田宣浩

    5 川端慎吾

    6 坂本勇人

    9 中島卓也

    13 中田翔

    23 山田哲人

    60 中村剛也

    7 中村晃

    8 平田良介

    25 筒香嘉智

    55 秋山翔吾

    90 小久保裕紀

    73 奈良原浩(ヘッド)

    72 権藤博(投手)

    80 稲葉篤紀(打撃)

    87 仁志敏久(内野守備・走塁)

    79 大西崇之(外野守備・走塁)

    84 村田善則(バッテリー)

    10 松井裕樹

    11 菅野智之

    12 秋吉亮

    14 則本昂大

    15 宮西尚生

    17 藤浪晋太郎

    19 増井浩俊

    20 石川歩

    30 武田翔太

    34 岡田俊哉

    35 牧田和久

    41 千賀滉大

    66 平野佳寿

    9 炭谷銀仁朗

    22 小林誠司

    27 大野奨太

    2 田中広輔

    3 松田宣浩

    4 菊池涼介

    6 坂本勇人

    13 中田翔

    23 山田哲人

    1 内川聖一

    7 青木宣親

    8 平田良介

    25 筒香嘉智

    51 鈴木誠也

    55 秋山翔吾

    2006 王貞治

    2009 原辰徳

    2013 山本浩二

    2017 小久保裕紀

    2023 栗山英樹

    高須一雄 1938 - 1939

    三谷八郎 1939

    高須一雄 1940

    三谷八郎 1941 - 1942

    加藤喜作 1942

    高田勝生 1943

    加藤喜作 1943 - 1944

    鶴岡一人(山本一人) 1946 - 1965

    (蔭山和夫 1965オフ)

    鶴岡一人 1966 - 1968

    飯田徳治 1969

    野村克也 1970 - 1977

    広瀬叔功 1978 - 1980

    ドン・ブレイザー 1981 - 1982

    穴吹義雄 1983 - 1985

    杉浦忠 1986 - 1989

    田淵幸一 1990 - 1992

    根本陸夫 1993 - 1994

    王貞治 1995 - 2008

    秋山幸二 2009 - 2014

    工藤公康 2015 - 2021

    藤本博史 2022 - 2023

    小久保裕紀 2024 - 現在

    1位:渡辺秀一(逆指名)

    2位:小久保裕紀(逆指名)

    3位:吉本一義

    4位:吉武真太郎

    5位:澤田剛

    ISNI

    VIAF

    日本

    CiNii Books

    CiNii Research

    小久保裕紀

    日本の野球選手

    福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手

    読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手

    本塁打王 (NPB)

    打点王 (NPB)

    カムバック賞 (NPB)

    NPBオールスターゲーム選出選手

    名球会

    野球日本代表選手

    オリンピック野球日本代表選手

    日本のオリンピック銅メダリスト

    野球のオリンピックメダリスト

    ユニバーシアード野球日本代表選手

    日米大学野球選手権大会日本代表選手

    野球解説者

    日本の野球監督

    福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の監督

    脱税した人物

    青山学院大学硬式野球部の選手

    和歌山県立星林高等学校出身の人物

    和歌山県出身のスポーツ選手

    1971年生

    存命人物

2024/11/19 12:53更新

kokubo hiroki


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