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根本 陸夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
根本陸夫と関係のある人
広岡達朗: その後、広島時代の監督で、西武ライオンズの監督兼球団管理部長の根本陸夫から、当初は長嶋茂雄、上田利治が要請辞退した次での就任要請であった為躊躇したが、「お前しかいない。 辻発彦: 辻の指名の経緯については、身体能力の高さ、1983年の1年間に40回盗塁を企図して失敗0だった走塁センス、そして野球への熱意を評価したと根本陸夫は述べている。 中内正: ホークスオーナー代行時代の1992年8月、上田利治に監督要請し組閣の準備に入っていたが、父である功が同時期に西武ライオンズ管理部長・根本陸夫の招聘に動き、「球団作りは専門家に任せなさい。 大道典嘉: 1993年に根本陸夫が監督に就任するが、大道は根本を一軍に固定してくれた恩人と著書に記している。 田中尊: 関西大の上田利治、中央大の西山弘二など学生野球界ベストナインの常連で話題の大学出身捕手の補強もあったが、白石勝巳、門前、長谷川、根本陸夫と歴代の監督がレギュラーとして起用し続けた。 堤義明: 西鉄後期や福岡野球(中村長芳の個人オーナー企業のため、太平洋クラブ、クラウンライターを別途スポンサーとした)と経営者が変わっても下位が続いていたライオンズだが、西武ライオンズ以降は最新鋭かつ充実した設備の導入や、当時監督だった根本陸夫に堤義明は「全てまかせるからやってくれ」という指示を出し、実際にチームづくりは監督の専権事項とし、フロントに口を出させないなどの改革の成果から徐々に順位を上げ、1982年(昭和57年)に24年振りの日本一に輝くと、その後リーグ優勝5連覇、日本一3連覇などリーグ優勝計16回、日本一計10回に輝いた。 立花義家: プロ入り後は主に外野手として起用され、2年目の1978年には島原キャンプで臨時コーチを務めた松木謙治郎に「張本勲二世」と評され、根本陸夫監督がレギュラーに抜擢。 黒田正宏: 1982年のキャンプイン直前、根本陸夫管理部長の要望で、山下律夫・山村善則との交換トレードで片平晋作と共に西武ライオンズへ移籍。 上田利治: 門前眞佐人・白石勝巳・長谷川良平・根本陸夫と四代の監督の下で「熱血コーチ」として手腕を振るい、信念と情熱を持った指導で、選手間からの信頼も厚かった。 池田親興: 1993年監督が田淵幸一から根本陸夫に変わってから起用方も変わり成績が低迷。 工藤公康: 『プロには行かない』と言ったのに指名されてびっくりしている」と述べたほか、工藤の父も入団交渉に応じない構えを見せていたが、根本陸夫管理部長が指名直後に出向き、その後も西スカウトを中心に粘り強く交渉。 伊東勤: 本人は卒業後に同校出身の兄と同じく県内の社会人野球へ進むつもりだったというが当時西武の監督を務めていた根本陸夫からその才能を見出され、4年次の1981年に熊本工から埼玉県立所沢高等学校(定時制)へ転校、同時に西武球団職員として採用された。 松沼雅之: 毒島章一を松沼兄弟専属担当スカウトにさせ、巨人との交渉が煮詰まった頃合いを見計らい毒島と戸田博之、根本陸夫が会食に誘い西武入団を決断させた。 野村克也: 2006年は前年に続き最下位に終わり、飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁に次いで史上5人目の両リーグ最下位の監督になった。 落合博満: 巨人とダイエーが獲得に動くも、ダイエー監督の根本陸夫が長嶋茂雄が動くならと獲得を断念した為、巨人に移籍した。 山崎裕之: このオフに「球界の寝業師」の異名を取った西武根本陸夫監督はBクラスが定位置となっていたライオンズの体質改善のため、他にも田淵幸一・野村克也など他球団で実績を残した大物のベテラン選手を続々と獲得していたが、山崎もロッテ時代と同じ背番号2を与えられ、チーム再建を担うベテランの一角として期待を受けた。 衣笠祥雄: そんなチーム状況を横目に気ままにアメ車を乗り回していたが、何度も事故を起こし、当時のコーチ・根本陸夫から免許を剥奪され、衣笠をスカウトした木庭教スカウト部長から「混血のお前が他の道で生きるには大変だぞ。 芥田武夫: 1953年に小玉明利が入団テストを受けた際、捕手の根本陸夫は芥田に「ぜひ採用すべきだ」と進言したが芥田は朝日新聞運動部長から前年途中に監督になったばかりで「高校中退させるには・・・」と躊躇した。 広岡達朗: 1969年大晦日、根本陸夫監督から巨人時代に名人といわれたその技術と、評論家時代に売り物だったユニークな野球理論を高く買われ、三顧の礼を尽くされ、故郷・広島へ戻り、広島東洋カープ内野守備コーチに就任する。 大田卓司: 引退の旨を当時の球団管理部長の根本陸夫には伝えていたが、根本がそれを当時のオーナーの堤義明に伝えると「大田は代打要員として来年も残せ」と返事が返ってきたこともあり、また本人によると、横浜大洋ホエールズへのトレードの可能性もあったということで引退発表が遅れ、発表は11月までずれ込んだ。 山内一弘: 1967年オフ(12月29日)、広島東洋カープの新監督に就任した根本陸夫に請われ、無償で阪神から広島に移籍。 安仁屋宗八: 1968年には根本陸夫新監督の下、得意のシュートを武器に強気の投球で初の2桁勝利となる23勝、同僚の外木場義郎に次ぐリーグ2位の防御率2.07を記録。 松木謙治郎: また、立花義家を「張本二世」と松木が評したことで監督の根本陸夫が開幕戦において立花を3番に抜擢すると、同年には「2番・右翼手」のレギュラーに定着した。 下柳剛: 入団当初は制球力に難のある速球派投手だったが権藤博(1991年 - 1993年の一軍投手コーチ)や根本陸夫(1993年・1994年の一軍監督)は、下柳の豊富なスタミナを活かした「毎日打撃投手、毎日中継ぎ登板」という過酷な投げ込みで克服させた。93年に監督に就任した根本陸夫監督に同じお願いしたらわかったと全て任せてくれて過去2年間で1試合しか登板のなかった下柳を50試合に使った」と述べている(登板過多で選手生命が僅か数年で終わり過登板に対しては慎重な権藤として異例の起用や練習法であった)。 八木沢荘六: 西武の根本陸夫管理部長に話したら「ああ、そうか、おめでとう」と言ってくれ、森祇晶監督にも了承をしてもらいロッテに返事をした。 森永勝也: ※ 1972年は、監督代行として根本陸夫監督休養後の6月18日から閉幕まで指揮 長谷川良平: 1967年は近鉄から根本陸夫を参謀役に招いたが、出足からつまずく。 鶴岡一人: 球界ではゼネラルマネージャーの元祖と言えば根本陸夫が語られることが多いが、編成や契約金などの細やかなバランスにも関わった鶴岡は、松木謙治郎・三原脩と共に実質的GMの先駆とされる。 小森光生: 近鉄コーチ時代はキャンプの企画、立案も引き受けるなど小玉明利選手兼任監督を支え、野手に転向した伊勢孝夫に関根潤三・根本陸夫の打撃理論を教え込んだ。 山本浩二: 根本陸夫監督、関根潤三打撃コーチ、上田利治コーチ(ルーキー時に退団)、広岡達朗内野守備コーチらの指導により、徐々に成長を見せる。 |
根本陸夫の情報まとめ
根本 陸夫(ねもと りくお)さんの誕生日は1926年11月20日です。茨城出身の野球選手のようです。
引退、卒業、趣味、兄弟、テレビ、現在、家族、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1999年に亡くなられているようです。
根本陸夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 根本 陸夫(ねもと りくお、1926年11月20日 - 1999年4月30日)は、茨城県那珂郡東海村出身(水戸市生まれ)のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督・実業家、解説者。 引退後は近鉄バファローズコーチ、広島東洋カープコーチ・監督、クラウンライター→西武ライオンズ監督、福岡ダイエーホークス監督の他、西武ライオンズ球団管理部長、福岡ダイエーホークス代表取締役専務・代表取締役社長と、球団フロントの要職を歴任した。 大正生まれとしては最後のプロ野球監督経験者である。 水戸の資産家に生まれ、石神村に育つ。父・時之助は水戸で商売を営んでいたが、根本が生まれてからは祖父の事業を継承するために石神村に転居。石神村の村長となり、隣接する村松村と合併しても村長を2期務め、在任中に日本原子力研究所の誘致を決めた。根本は祖父から「いずれ根本家を支える人物」として目をかけられ正教の幼児洗礼を受けた。さらに祖父は学問好きだったので根本にも勉強家になることを期待し、石神村内の小学校から将来を考え、水戸市立三の丸小学校に転校させて若手弁護士を家庭教師としてあてがうが、それが根本と野球を結びつけることとなる。この弁護士が大変な野球好きで、2人で城跡でキャッチボールをしたり、中等野球や東京六大学野球の話をよく根本に聞かせた。また、帰宅後に根本は当時地方では珍しかったコンクリート2階建ての実家の壁にボールをぶつけて1人でも楽しんだため、このことによって病弱であった根本が頑健な青年となった。小学校卒業後は旧制茨城中学校に進学するも、放校処分となって旧制日大三中に転校。恩師・藤田省三監督に出会い、関根と共に指導を受けた。終戦後は旧制日本大学予科で野球を再開し、田宮謙次郎とバッテリーを組む。東都大学野球リーグでは1946年春季で2位に入り、自身は同年秋季に首位打者を獲得するなど活躍したが、一時立教大学にも「入っていた」ことが発覚して出場停止処分が下された。この「入っていた」というのが立教に入学してプレーしたのか、単に野球部のセレクションを受けた程度だったのか真相は不明である。この出場停止処分中に、母校・日大三中の監督から法政大学の監督に就任していた藤田に引き取られて法大へと進み、関根と再びバッテリーを組む。東京六大学野球リーグでは1948年秋季で優勝を飾った。この時期は硬派学生として暴れまわり、後に安藤組を興す安藤昇と知り合う。 大学卒業後はコロムビアを経て、1952年に藤田が監督を務める近鉄パールスへ入団。開幕から先発マスクを被り、シーズン後半は故障もあって失速するが36試合に先発出場。関根を筆頭に投手を気分良く投げさせる捕手として評判であったほか、抜群の記憶力は投手陣にも首脳陣にも頼りにされた。 1953年は正捕手として起用される。 1954年には多田文久三、原勝彦に定位置を譲る。 1955年から1956年にかけては藤田の後任でプロ経験のない芥田武夫監督をサポートし、主に根本が投手のローテーションを決めていた。 1957年引退。 引退後も近鉄に残ってスカウト、二軍マネージャー、二軍コーチを務めた。現役時代に小玉明利が入団テストを受けた際、根本は芥田に「ぜひ採用すべきだ」と進言したが、芥田は朝日新聞運動部長から前年途中に監督になったばかりで「高校中退させるには……」と 退団後は近鉄の佐伯勇オーナーから今後について尋ねられ、スカウト時代から友人を通じて顧問格になっていた鉄鋼を扱う会社に転職しようと告げていた。しかし、前述の日大野球部での停止処分中に母校日大三中で監督を務めたが、その教え子の中に後にヤクルト球団参与を務める村上宏がいた。村上の父は閣僚経験者でもある村上勇であり、その勇に見込まれた根本は産経新聞社長の水野成夫と親交を結んだ。さらに水野の友人である東洋工業の松田恒次に紹介された。 1967年、広島カープの長谷川良平が監督を務める同球団コーチに就任。上田利治は当時の同僚コーチ。 1968年、チームは「広島東洋カープ」として運営形態が変更されることになり、根本はその新体制で監督に就任。オーナーの松田恒次から「シーズン全敗でもかまわないからチームの基礎作りを」と要望される。根本はコーチに小森光生、岡田悦哉ら優秀なコーチを招聘し、2軍のスタッフを強化。阪神タイガースから山内一弘を獲得し、選手には猛練習を課した。また食事面でも制限を加える措置をとるなどして、安仁屋宗八が23勝、外木場義郎が21勝、衣笠祥雄が打率.276、21本塁打をマークし、一躍主軸打者になった。この年、68勝62敗の3位となりカープ球団創設以来初のAクラスに導く。 1969年には最下位に転落する。 1970年にはヘッドコーチとして関根潤三、内野守備コーチとして広岡達朗を 1971年は勝率5割以上の4位と健闘し、この間に衣笠、山本浩二、水谷実雄、三村敏之らを育成、後の「赤ヘル黄金時代」の礎を築いた。 1972年、球団初の海外キャンプ(米アリゾナ州ツーソン市)での調整の失敗もあって、6月に休養の名目で辞任に追い込まれた。退団後もチームづくりで広島の球団オーナーの相談に乗っている。山本浩二は広島の監督に就任した1988年秋のキャンプで、「胃から汗が出る」と達川光男が音を上げたほどの猛練習を行った。前年リーグ最下位だったチーム打率.244がリーグ1位の.271とリーグトップになり、「おれが厳しくやったのも、根本さんに厳しく鍛えられ、後になって『よかった』と思ったから。いいものを受けて、次にいい形で渡す。それが球団の流れをつくるんだ」と述べている。当時は風貌や闘将ぶりから、「若親分」と呼ばれていた。素質がありながらも趣味の自動車運転に没頭していた衣笠祥雄に対し「そんなに自動車が好きなら車工場に転職するか?」と迫り自動車運転を禁止させるなど私生活でも厳しい管理を見せた。 広島退団後は、鉄鋼業を友人と営む傍ら朝日放送解説者(1973年 - 1977年)を務めていた。 1976年には新日鐵堺の臨時コーチを務め、入社直後の尾花髙夫を指導し、投球練習を見ると「そんなフォームで投げとっては、早いボールも変化球も投げられん」と指摘した。尾花は「教わったのは左肩を下げる独特の投げ方だ。キャッチボールを3時間くらいやって試合になったらブルペンでずっと投球練習。これが役になった。高校時代はアーム式だった腕の振りが肘から先を使えるようになりスピードも上がった。いいタイミングでいい指導をしていただいた。」と述べている。1977年オフには俳優に転向していた安藤昇から「クラウンライターライオンズの仕事を手伝ってくれ」という電話が入った。球団関係者ではなく友人の安藤からの要請に根本は戸惑ったが、「球団から正式に要請がきたら受諾してほしい」とクラウンライターの幹部と親しい安藤が根回しをしてきたと根本は理解。 1978年に坂井保之球団社長から招聘されクラウンライターの監督に就任。ここでも就任直後から選手に猛練習を課して低迷するチームの建て直しを図ろうとするが、春季キャンプ初日に江田孝コーチがグラウンドで体調不良を訴え、病院へ運ばれたが、そのまま死去。再起を期したばかりの悲劇に、選手達は必死に前を向いたものの、投手陣にはアクシデントが続いた。エースの東尾修は右脇腹を痛め、速球派右腕の浜浦徹が血行障害で離脱、前年には先発としても活躍して9勝を挙げていた永射保は肝炎に苦しむ。さらに、シーズン中にもかかわらず、絶えず身売りの噂がささやかれたが、そんなチームの起爆剤として打線が奮起する。根本の積極的な起用も打線を活気づけ、開幕戦では2年目の立花義家を3番打者に抜擢。立花は「19歳の三番打者」と騒がれ、その後は打順こそ2番に回ったものの、右翼のレギュラーに定着。かつて近鉄で“18歳の四番打者”と言われた土井正博は、新たに「34歳の四番打者」として5月14日の日本ハム戦(後楽園)から6試合連続本塁打でパ・リーグ記録に並び、通算400本塁打にも到達した。中日ではトラブルメーカーであったウィリー・デービスも3番打者として機能し、真弓明信も初めて1番打者としてレギュラーとなり、前年の外野から本職の遊撃に戻って本領を発揮する。そんな真弓と、指名打者として打率.303でリーグ9位の土井がベストナインに選ばれた。投手陣では、東尾が徐々に調子を上げて、近鉄の鈴木啓示と最多勝を争う奮闘。最終的にはタイトルこそ逃したものの23勝を挙げて自身2度目の20勝をクリアしたが、東尾に続いた山下律夫が6勝、五月女豊が2勝という投手陣では長期戦を勝ち残れなかった。前期は4位に滑り込んだものの、後期は9月に10連敗を喫するなど5位。シーズン通算でも3年連続Bクラスの5位に終わった。球団の西武への売却、そして本拠地の移転が報じられたのは10月12日、正午のことであった。2年連続最下位のチームを率いたが5位に終わり、同年シーズン終了後に国土計画の堤義明社長が球団を買収し球団名が西武ライオンズに変更される。根本はそのまま監督として球団に残留、新生西武ライオンズ初代監督となる。 西武監督時代は球団管理部長も兼任してフロントの責任職に就任し、西武球団代表の坂井、球団スカウト部長の浦田直治らと共にチーム作りを急速に進めていった。新生西武の1978年のドラフト会議で森繁和を1位に指名。巨人とドラフト外で松沼博久・雅之の松沼兄弟の争奪戦を制して獲得に成功。そして阪神から田淵幸一・古沢憲司を、ロッテから山崎裕之をトレードで獲得。さらにロッテを自由契約となった野村克也も獲得。 1979年の春季キャンプはアメリカのフロリダで2か月近くにわたって実施する。上記の戦力補強ぶりから戦前の西武の評価はまずまずだったが、開幕から12連敗を記録し、結局1979年は最下位に終わる。飯田徳治、別当に次いで史上3人目の両リーグ最下位監督となった。 1980年の後期ペナントレースでは近鉄、ロッテ、日本ハムと優勝争いを演じ話題となる。1980年のドラフト会議で石毛宏典、岡村隆則、杉本正、安部理の4名を指名し獲得。ドラフト外で秋山幸二を巨人等との争奪戦の末に獲得に成功。そして、当時熊本工業高校の定時制に通学していた伊東勤を所沢高等学校に転校させ、西武の練習生とした。翌年のドラフト会議で西武は伊東を1位指名した他、プロ入りを拒否して社会人野球・熊谷組への入社が内定していた名古屋電気高の工藤公康を6位で指名し、説得の末入団にこぎつけた。 1981年限りで監督を退任して管理部長に専任。そして後任監督として、かつて広島での仲間だった広岡を招聘する。また、ヘッドコーチとして森昌彦も招聘した。こうして根本は、オーナーの堤に「私は何も現場のことは分からないから全部根本さんに任せてある」と言わしめるほどの実質的なGMとして西武黄金時代を築いていくこととなる。 広岡は1982年、1983年とライオンズを連続日本一に導く。特に1983年の巨人との日本シリーズは「球界の盟主の座を賭けた決戦」と 1984年は3位に終わる。 1985年は再びリーグ優勝する。しかし日本シリーズは阪神に2勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、広岡は健康面での不安を理由に辞任する。 広岡の後任には、オーナーの堤は後任監督に田淵を望んでいたが根本が「今の西武は人気監督を据えるより、半永久的に優勝争いができるしっかりとした球団作りが大事。勝てる野球ができる人で加えて西武の流れを熟知している人。それでいて広岡野球の次の段階に進めることのできる人」という理由で1984年にヘッドコーチを辞任していた森が監督に就任した。1985年のドラフト会議では、最大の目玉だった清原和博を根本自身がくじを引き当て1位指名に成功。清原はこの後4番打者として活躍。森は、1986年から1994年までの間でリーグ優勝を逃したのが1989年のみ、6度の日本一に輝くなど西武ライオンズの黄金時代を築いていった。1989年シーズン途中で一軍打撃コーチの土井正博が麻雀賭博で逮捕され、球団代表の坂井が解任される。坂井は翌年福岡ダイエーの球団代表に就任する。 1993年、中内㓛から招聘され西武を退団し、福岡ダイエーホークスの代表取締役専務兼監督に就任。チームは南海時代の1978年からずっとBクラスを低迷しており、根本は西武ライオンズに似た方法でチーム再建を進めていった。現場復帰となった1993年は最下位に終わるが、吉永幸一郎の成長や下柳剛、木村恵二らリリーフ陣が台頭した。特に下柳は長く現役生活を続けることができたのは根本のお蔭であると述べている。シーズン終了後は秋山幸二・渡辺智男・内山智之と佐々木誠・村田勝喜・橋本武広の交換トレード「世紀のトレード」を敢行。また同年から実施されたフリーエージェント制度(FA)で阪神から松永浩美を、同じく同年から実施された逆指名制度でのドラフト会議で小久保裕紀、渡辺秀一を獲得。 その1994年は、開幕から好調で8月後半頃まで優勝争いに加わった。結局、4位に終わったものの、貯金9で17年ぶりに勝率5割を超え、2位とのゲーム差は0だった。 1994年限りで監督を退任して専務に専念。後任監督として王貞治を招聘した。ドラフトでは駒澤大学進学が内定していた城島健司を獲得し、西武のエース投手であった工藤をFAで獲得。西武監督就任が報道されていた石毛も獲得するなど、「寝業師」ぶりを存分に発揮した。 12年ぶりの現場返り咲きとなったダイエー監督時代は、往年の若親分と呼ばれた熱血ぶりは影をひそめ、風貌も寝業師の異名にそぐわない雰囲気で、マウンドに行く途中に足がもつれてつまづくシーンがテレビの『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』などで放映されるなどしていたが、それでもときには激しく抗議し退場処分を受けたこともあった。また西武時代は、広岡や森といった管理野球の信奉者を監督に据えていたにもかかわらず2番にカズ山本を起用したり、藤本博史をセカンドで起用するなど大胆な采配を時として行い、秋山幸二によると、あまり細かいサインは出さなかったという。 吉武真太郎・小久保裕紀・渡辺秀一・城島健司・藤井将雄・斉藤和巳・佐久本昌広・井口忠仁・松中信彦・柴原洋・倉野信次・永井智浩・篠原貴行・星野順治などをドラフトで獲得し、福岡移転後の初優勝および現在に至る地元人気の土台を築いた。また、松永浩美・廣田浩章・武田一浩・田村藤夫・長冨浩志・西村龍次・山崎慎太郎など他球団で活躍したベテラン選手を補強している。また、西武時代同様ケビン・ライマー、ケビン・ミッチェルなどの現役大リーガー選手の獲得に尽力した。 1999年1月には専務から社長に昇任するが、3か月後の4月30日に急性心筋梗塞のため72歳で死去した。その年、ダイエーは大阪市から福岡市への本拠地移転11年目にしての初優勝を飾った。同年のシーズン中には根本の遺影がベンチに掲げられ、優勝時の胴上げでは選手が代わる代わる遺影を掲げた。根本は日本ハリストス正教会(キリスト教・正教会)信徒であったため、遺骨は同教会本部のある東京・神田ニコライ堂に安置されている。 2001年に野球殿堂入りした。
退団した選手の再就職先を 人脈が幅広く、そのネットワークは「政財界から裏社会にまで通ずる」とも囁かれ、「根本人脈」は5,000人とも、1万人ともいわれた。近藤唯之はシンガポールに講演に行った際、根本の知り合いだという人物がシンガポールにまでいたことに驚き、その人脈の広さにびっくりしたという。 西武時代はほとんどマスコミには姿を現さず、その行動が水面下に潜り把握できないことから特殊潜航艇とも呼ばれた。取材してもほとんど抽象的な話しかしなかったので、「管理部長の通訳が要る」と言われることもあった。これは根本のかなり慎重な性格なせいでもあり、根本を生前取材していた浜田昭八は、ペンと紙を目の前に出すと本音を言わないので、いつも根本がいないところで思い出しながら取材メモを取ったという。ダイエー時代は西武時代とは違って取材にも積極的に応じたが、話術が抽象的なのは相変わらずだったので、地元マスコミからは「言語大量、意味不明」と 王監督に対して「世界の王」として一歩引いた眼で見ていた選手達に対し、1999年キャンプイン直前、必勝祈願に訪れた福岡市の筥崎宮で、「お前たちは何を構えているんだ。世界の王と言われる監督も昔はラーメン店の息子。お前たちとなんら変わりはないんだぞ」と発言、選手の呪縛を解いたという。 大道典良は「根本さんは一軍に固定してくれた恩人」と著書に記している。 伊原春樹は「根本さんは親分肌で人心掌握において有能な方で、指導者のなんたるかを教えていただきました」と著書に記している。まず、「選手を指導しなくてもいいから、しっかり見ておけ」ということ。「選手はいいものを持ってプロに入ってきたのだから、最初はむやみに構うな。特に新人に関しては、じっくり観察することから始める」これは伊原が後に読んだ様々な書物の中でも同様の指導法が記してあり、「なるほど」と思わされた事の一つだったと著書に記している。 八木沢荘六は「送りバントなどをほとんどしなかったですし、例えば打撃の調子が上がらなかった立花義家も辛抱強く中軸で使い続けていました。投手起用もそう。勝利にこだわって何人もつぎ込むことはせず、打たれても簡単には交代させない。根本さんにその意図を聞いたところ、まずはチームとしての地盤を作り、その上で、勝てる監督を後任にしたいのだと。勉強になるなあと感心しました」と語っている。 関根潤三は著書で「あいつの真価が発揮されたのは監督を辞めた後のチーム作りだよねぇ。編成のトップとして、西武の黄金時代を築き、福岡でのホークスの土台を作った。大胆な補強と他球団の裏をかくドラフト戦略でそれまで巨人中心の球界の勢力図を塗り替えちゃったんだから。僕はプロで監督をやるとは思いもしなかった。根本もそうだった思う。でも二人とも監督として成功したとは言えないな。チームを優勝に導いた経験がないんだから。僕と根本はある部分似ている。監督には勝つために野球をするタイプと選手を育てるタイプがいるけど僕らは明らかに後者。これは僕らの恩師である藤田さんの影響だろうね。藤田さんは勝つことより育てることを最優先した指導者だった。根本は選手として非常に不器用で一つの技術を身につけるのに人の何倍も時間がかかった。だからだろうね、自分が指導者になっても選手の気持ちがよくわかった。情が深い。育てられなかったら、それは自分の責任だと考えていた。おまけにその選手の引退後の世話までしてたんだから。あいつと話してて、選手の悪口聞いたことなかったね」と記している。 福岡時代のライオンズ監督時代の近鉄戦で、土井正博が佐々木恭介に「おい、恭介、なんで試合に出ないんや。(根本)監督がウチに来ないかと言ってるぞ」と話し、実際に根本は近鉄の西本幸雄監督に佐々木のトレードを申し込んだ。その後佐々木はすぐにスタメンで使われるようになって、その年首位打者を獲得。根本は死ぬまで佐々木に「恭介、俺のおかげやからな」と話していたという。 落合博満が引退の翌年、解説者として春のキャンプを取材した際、球団代表だった根本は「落合、現役が終わって次は監督、コーチになるなぁ」と話しかけた。「いやぁ、そんな物好きはいませんよ」と言う落合に根本は「いや、必ずそういう時代がくる。実績残しているし、そういうのを求める人は必ず現れるから、そうしたらお前、がんばれよ」と告げ、コーチに森繁和を使うと面白いとアドバイスした。落合は2004年に中日監督に就任した際、森を投手コーチとして招聘し、森はバッテリーチーフコーチ、ヘッドコーチを歴任し、2004年の開幕投手に川崎憲次郎を指名した以外、落合は森に投手起用を一任した。 森は2016年9月29日の中日監督就任会見で理想の監督として根本の名前を挙げた。 清原和博が西武時代唯一厳しく恐れていた人物で、根本が1992年オフに西武を退団した後は清原に対して注意できる人がいなくなったという。 西武時代、自宅に招いた選手に夫人特製のすき焼きが振る舞われていた。割下に牛乳が入る独特の風味で、工藤は「美味しくない」と敬遠して次に呼ばれた時にはステーキが振る舞われたが、大久保博元は20回以上食べた。 根本は選手たちにタニマチを作らないよう厳命していた。 旧制日大三中・法大・近鉄で同窓となり、お互いに「ジュンちゃん」と「ネモやん」と呼び合っていた仲である関根潤三は、世間では温厚なイメージが非常に強いが、「関根は本当は絶対怒らせてはいけない奴。あの末恐ろしさは“インテリヤクザ”だよ」と評していた。その根本も上記通り、安藤昇と渋谷でつるんだり、銀座で大暴れしたこともあると言われており、根本が球界の寝技師と呼ばれる大胆な行動を取ることが出来たのは安藤との付き合いによる裏社会の人脈・情報網が影響しているとまで言われた。漫画『あぶさん』の中にも血気盛んだった学生時代の根本が描かれている。 根本が決定的な悪人になれなかったのは、地方資産家で跡取りとして生まれ育ち、恩師・藤田省三の「人の道からそれるな」という教えがブレーキとなった。このことから根本は、藤田のことを生涯尊敬していた。
西武時代
松沼博久・雅之兄弟に契約金として2人合わせて1億2000万円を提示した巨人に対し、2人合わせて1億5000万円を提示、逆転で兄弟の獲得に成功した。戦力補強に加えて、選手の争奪戦で巨人に勝ったという大きな意義を持つ一件となった。
巨人はその後も、戦力補強において幾度も根本率いる西武・ダイエーの後塵を拝することになる。 石毛宏典をはじめとする、社会人野球(主として西武グループのプリンスホテル)を駆使した囲い込み。
伊東勤を熊本県立熊本工業高等学校定時制から埼玉県立所沢高等学校に転校させ、かつ球団職員として採用し囲い込み、翌年ドラフト1位で指名。 熊谷組への就職を発表していた工藤公康をドラフト下位で強行指名。説得の末入団させる。これは長年、当事者である工藤自身含めて、すべて根本が積極的に進めたものとして信じられた話であったが、工藤が当時の西武監督だった広岡達朗から2011年に聞いた話として、根本は工藤指名には反対の立場で、積極的に指名しようとしていたのは広岡だったとのことである。広岡自身も、2009年のライオンズ・クラシックのイベントで、工藤のドラフト指名を進言したのは自分であると述べている。 森山良二に北九州大学を中退させ、野球部のない飲食業経営の会社、ONOフーズに入社させ、完全に他球団にとって無名の選手と見せかけドラフト1位指名。 西武球団のドラフト1位指名候補は長嶋一茂である旨の噂を流させ、間隙を突いて鈴木健をドラフト1位で指名(一茂は大洋との競合の末ヤクルトが指名)。 渡辺智男・石井丈裕に怪我の噂を流させ、間隙を突いて両者をドラフト上位で指名。 中日の主力選手であった田尾安志や平野謙をトレードで獲得。一方で、西武が囲い込みに失敗した小島弘務を中日がドラフト1位で指名するなど、星野仙一とのパイプを築く。
台湾球界のエースであった郭泰源を獲得。広島監督時代のコーチ・深見安博を通じた人脈により知り合った郭泰源の一家と密接な関係を築き、台湾で英雄とされる巨人監督の王貞治が直接獲得に動く前に契約を交わした。 日高高校中津分校の垣内哲也はプロ野球で2人目の分校出身者(1人目は沼田高等学校武尊分校(現・尾瀬高校)→中日→南海の星野秀孝)で、分校まで網羅した根本の情報網が注目された。その後も同校出身の選手が数名西武に入団している。 秋山幸二・佐々木誠を中心とする6人トレードを西武との間で実行。 自分の後継の監督に王貞治を指名。「巨人を家に例えれば、長嶋さんが長男で王さんは二男。通常、二男は家を継げないのでは」と説得して監督就任を承諾させる。 西武のエース投手であった工藤公康をFAで獲得する。 プロ入り拒否宣言を行い、駒澤大学進学が内定していた城島健司を、ドラフト1位で指名。
小久保裕紀・井口忠仁・松中信彦などトップアマチュア選手を、親会社をも動かし、逆指名制度を最大限に駆使して獲得。 中日がギリギリまで上位指名で獲得を目指し、井口獲得が絶望的になった際には1位指名候補であった九州共立大学の柴原洋は、「ホークス以外ならばローソン(当時ローソンはダイエーグループ。2002年に野球部は廃部)に入る」と発言。西武・プリンスホテルの関係と同様の方法で囲い込みを図り、逆指名入団の井口・松中に次ぐ3位で指名を実現する。 その一方で地元九州のノンプロである九州共立大学や三菱重工長崎などとの親交を深め、将来のドラフトに備えた。根本はダイエーでのドラフト戦略において「実力・評価が同じクラスならなるべく九州の選手を優先的に指名する」と指針を示し、選手編成についても地元密着を考えていた。 1999年の福岡ダイエーホークス初優勝の際、その年の4月に根本はこの世を去っていたが、初優勝翌日、中内功オーナーと王貞治監督から直筆の感謝の手紙が妻のもとに送られてきたという。 根本の手法は他球団も真似るようになった。球団職員としての囲い込みは1989年のドラフトで中日が大豊泰昭(2位指名)で、阪神が中込伸(1位指名)で実施した。特に星野仙一第一次政権時代の中日(1987年 - 1991年)では、進学を表明していた選手の相次ぐ強行指名と翻意の実現や、落合の獲得に代表される積極的なトレードなどで西武とともにシーズンオフにおいて多くの話題を提供した。 根本マジックに対する巨人のダメージは大きく、西武時代には松沼兄弟、秋山、郭等の争奪戦に敗れ、ダイエーに移ってからは巨人に有利な制度とされた逆指名制度で小久保・井口などの選手の獲得に失敗するなど、選手獲得において根本が編成を率いる西武・ダイエーに煮え湯を飲まされ続けた。 根本の選手獲得策はプロ野球の制度にも影響を及ぼし、1991年いっぱいで支配下選手枠を70名に設定の上で練習生としての契約を禁止、同年秋のドラフト会議以降はドラフト外の選手獲得ができないようになった。 2007年3月に発覚した西武球団によるアマチュア選手への金銭供与問題においては、根本がチーム作りに注力した1978年から金銭供与が続いていたことが明らかになった。そのため金銭供与問題は根本のチーム強化策による負の遺産として扱われることもある。 渡辺久信は、インタビューで「どこのチームも強くなっている。ただ、監督としては勝っていない。ということは、監督のタイプじゃないんです、あの人は。ある程度、チームをつくり上げて、勝てる監督にバトンタッチする。それって、かっこいいじゃないですか。(中略)そこまでやってのける行動力がすごいと思うから目標なんです」と語り、球団GMとして目標とする人物に根本を挙げている。一方で、当時と現代では時代が異なることから「会社のなかにいる人間としたら、コンプライアンスもありますので。いろんな意味で、出てこられないでしょう」として、根本の手法が現代では通用しないであろうことも指摘している。 ※1 1968年から1996年までは130試合制 ※2 1972年は、開幕から6月15日まで クラウン(クラウンライターライオンズ)は、1979年に西武(西武ライオンズ)に球団名を変更 野球殿堂競技者表彰(2001年) 8 (1952年 - 1957年) 40 (1962年 - 同年途中) 60 (1962年途中 - 1966年) 68 (1967年 - 1972年、1978年) 81 (1979年 - 1981年、1993年 - 1994年) ABCフレッシュアップベースボール - ABCラジオのプロ野球中継の現行タイトル。 侍プロ野球 - ABCテレビ(1975年3月30日までABCテレビが属していたTBS系列におけるプロ野球中継の現行統一タイトル) ゴールデンナイター - ABCテレビ(同系列の広島ホームテレビにも不定期出演) 『根本陸夫「勝者」のセオリー:根本式ビジネス32の秘策』(由倉利広著、ベストセラーズ、1995年3月) ISBN 4584182051 浜田昭八、田坂貢二『球界地図を変えた男・根本陸夫』日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年。 髙橋安幸『根本陸夫伝:プロ野球のすべてを知っていた男』集英社、2016年。ISBN 978-4-08-780799-8。 ^ 同年の12月25日から年号が昭和に変わったため。 ^ この大学間移籍に関しても終戦直後なのでルール上出来たのか、藤田の親心によってリーグが許可したのかは不明である。 ^ 根本は「18歳の4番打者」として土井を売り込んだ。 ^ 文化放送ライオンズナイターのレポーターを長年にわたって務めた中川充四郎は、根本を「番組で何度インタビューしても全く具体的な話をしない人だった」と評している。 ^ 当時としてはドラフト1位に匹敵する破格の金額。 ^ 松沼兄弟獲得にあたりどちらかが継ぐ予定だった実家の建設会社を、西武関連会社の西武建設が買収したことも大きい。 ^ 両球団のオーナー(中内㓛・堤義明)もこの件を知らず、特に中内はその日の昼食時、ダイエー本社の社員食堂で流れていたNHKニュースのトップニュースでこの発表を知り仰天した ^ 待遇は逆指名の井口・松中と同様の契約金、年俸であった。 ^ 浜田 & 田坂 2001, p. 15 ^ “親分肌で情深い「寝業師」/根本陸夫氏”. 日刊スポーツ (2018年10月19日). 2020年7月19日閲覧。 ^ “落合博満、秋山幸二、糸井嘉男…世紀の“大型トレード”はこうして成立した!”. 新潮デイリー (2021年11月17日). 2022年8月17日閲覧。 ^ “球界の寝業師・根本陸夫がドラフトでやらかした根本マジック一覧”. 野球コレクション (2023年8月7日). 2023年10月2日閲覧。 ^ 村瀬秀信「答えは過去にあり。~ニッポンの名将特集~プロ野球〔11人のこぼれ話〕 現代にも通じるリーダー列伝 勝手にベストテン第3位 根本陸夫」『Sports Graphic Number 782』2011年7月7日、文藝春秋、44-45頁。 ^ “球界の寝業師・根本陸夫が呪縛解き初優勝を呼び込んだ一言「王くんはな、ラーメン屋のせがれだよ」|プロ野球名選手 心に響くひと言”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2023年8月28日). 2023年10月2日閲覧。 ^ “【根本陸夫伝】高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男”. ライブドアニュース (2014年6月10日). 2023年10月2日閲覧。 ^ 『ベースボールマガジン』7月号、2012年、66頁。 ^ 浜田 & 田坂 2001, p. 48 ^ “監督編<5>根本陸夫”. 中国新聞 (2020年2月10日). 2020年2月10日閲覧。 ^ 浜田 & 田坂 2001, p. 52 ^ 田坂貢二「広島、西武そしてホークスを 根本陸夫のチームづくりとは」『47NEWS』2011年12月29日。オリジナルの2013年4月9日時点におけるアーカイブ。 ^ 「監督編<11>山本浩二」『中国新聞』2020年2月17日。2020年2月14日閲覧。 ^ 週刊ベースボール1979年8月6日号より。 ^ スポーツニッポン2024年2月5日、9版、尾花高夫の我が道⑤、トコトコ走る姿が認められた ^ 坂井保之『波瀾興亡の球譜 失われたライオンズ史を求めて』ベースボール・マガジン社、1995年、219頁。ISBN 4-583-03258-7。 ^ “投手コーチがキャンプで急逝……深い悲しみから始まった九州ライオンズのラストイヤー/プロ野球20世紀・不屈の物語【1978年】 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2020年7月19日). 2023年10月2日閲覧。 ^ 1986年から登録名を「森祇晶」に変更。 ^ 「【田淵幸一物語・第4部(11)】ダイエーの「救世主」に指名された」『産経新聞』2017年6月10日。2020年11月24日閲覧。 ^ 「【11月20日】1985年(昭60) ドラフト会場騒然!「読売 桑田真澄」」『スポーツニッポン』2007年11月20日。オリジナルの2008年1月17日時点におけるアーカイブ。 ^ 『ホークス75年史 HAWKS 1938-2013』ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK 962〉、2013年、86頁。ISBN 978-4-583-62022-0。 ^ 高橋 2016, p. 313 ^ ベースボール・マガジン社 編『HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡』ベースボール・マガジン社、2008年、124頁。ISBN 978-4-583-10119-4。 ^ 秋山幸二『卒業』西日本新聞社、2003年、145頁。ISBN 4-8167-0576-7。 ^ “【11月16日】1993年(平5)“特殊潜航艇”根本、久々の大型トレードで秋山ゲット”. スポーツニッポン (2007年11月16日). 2008年1月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月6日閲覧。 ^ “【ダイエーホークス創世記(5)】球団オーナーごとき…若き総帥の決断、「再び」「初の」日本一(2/3ページ)”. 産経WEST. 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ZAKZAK (2011年5月6日). 2023年10月2日閲覧。 ^ 週刊文春2012年5月3、10日号「今だから話せる」において工藤自身が文春のインタビューに答えたものである。 ^ 「ドラフトミニ事件史」『プロ野球ドラフト読本2000』ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK156 スポーツ伝説シリーズ18〉、2001年、51頁。ISBN 4-583-61117-X。 ^ 別冊宝島編集部 編『中日ドラゴンズ ドラフト1位のその後』宝島社、2014年、94頁。ISBN 978-4-8002-2092-9。 ^ “【根本陸夫伝】「巨人=絶対」という球界の構図を壊した男”. ライブドアニュース (2016年3月21日). 2023年10月2日閲覧。 ^ 高橋 2016, p. 321 ^ 中村泰三「復刻・王ダイエー、悲願の日本一達成」『日刊スポーツ』2008年9月23日。2020年11月25日閲覧。オリジナルは1999年10月29日掲載。 ^ “渡辺久信は根本陸夫の誘いを断り、野村克也のヤクルト入りを決断した”. 集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva (2021年5月5日). 2023年10月2日閲覧。 茨城県出身の人物一覧 法政大学の人物一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 個人年度別成績 根本陸夫 - NPB.jp 日本野球機構 殿堂一覧|公益財団法人野球殿堂博物館 根本陸夫 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 高須一雄 1938 - 1939 三谷八郎 1939 高須一雄 1940 三谷八郎 1941 - 1942 加藤喜作 1942 高田勝生 1943 加藤喜作 1943 - 1944 鶴岡一人(山本一人) 1946 - 1965 (蔭山和夫 1965オフ) 鶴岡一人 1966 - 1968 飯田徳治 1969 野村克也 1970 - 1977 広瀬叔功 1978 - 1980 ドン・ブレイザー 1981 - 1982 穴吹義雄 1983 - 1985 杉浦忠 1986 - 1989 田淵幸一 1990 - 1992 根本陸夫 1993 - 1994 王貞治 1995 - 2008 秋山幸二 2009 - 2014 工藤公康 2015 - 2021 藤本博史 2022 - 2023 小久保裕紀 2024 - 現在 表 話 編 歴 宮崎要 1950 三原脩 1951 - 1959 川崎徳次 1960 - 1961 中西太 1962 - 1969 稲尾和久 1970 - 1974 江藤慎一 1975 (レオ・ドローチャー 1976当初) 鬼頭政一 1976 - 1977 根本陸夫 1978 - 1981 広岡達朗 1982 - 1985 森祇晶 1986 - 1994 東尾修 1995 - 2001 伊原春樹 2002 - 2003 伊東勤 2004 - 2007 渡辺久信 2008 - 2013 伊原春樹 2014 田邊徳雄 2015 - 2016 辻発彦 2017 - 2022 松井稼頭央 2023 - 2024 西口文也 2025 - 現在 表 話 編 歴 石本秀一 1950 - 1953 白石勝巳 1953 - 1960 門前眞佐人 1961 - 1962 白石勝巳 1963 - 1965 長谷川良平 1965 - 1967 根本陸夫 1968 - 1972 別当薫 1973 森永勝也 1974 ジョー・ルーツ 1975 古葉竹識 1975 - 1985 阿南準郎 1986 - 1988 山本浩二 1989 - 1993 三村敏之 1994 - 1998 達川晃豊 1999 - 2000 山本浩二 2001 - 2005 マーティ・ブラウン 2006 - 2009 野村謙二郎 2010 - 2014 緒方孝市 2015 - 2019 佐々岡真司 2020 - 2022 新井貴浩 2023 - 現在 ISNI VIAF 日本 CiNii Books CiNii Research 日本の野球選手 日本大学第三高等学校出身の野球選手 法政大学野球部の選手 日本コロムビア硬式野球部及びその前身チームの選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 広島東洋カープ及び広島カープの監督 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の監督 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の監督 日本の野球監督 日本の野球殿堂表彰者 野球解説者 20世紀日本の実業家 プロ野球チームの経営者 日本の正教徒 茨城県出身のスポーツ選手 1926年生 1999年没 心筋梗塞で亡くなった人物 2024/11/16 22:07更新
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