八木沢荘六の情報(やぎさわそうろく) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
八木沢 荘六さんについて調べます
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八木沢荘六と関係のある人
有藤通世: 10月10日、八木沢荘六の完全試合を見届ける。 石井丈裕: また、投手コーチの八木沢荘六からはアマチュア時代に2番手だったため、肩を酷使していない点も評価されている。 森繁和: 1992年からはロッテの監督に就任した八木沢荘六の後を受け、一軍投手コーチに就任。 高橋善正: 1966年の第2次ドラフト1位(八木沢荘六と荒武康博を抽選で外した外れ1位)で東映フライヤーズに入団し、1年目の1967年に初登板を完封勝利で飾るなどチームトップの15勝(11敗)を挙げ防御率も2.46とリーグ9位に入り、新人王に選出された。 浦田直治: 1980年シーズン終了後に八木沢荘六新投手コーチ就任が決まり、ようやくスカウト専任の希望が叶った。 山本理: 八木沢荘六 安井智規: 1974年9月1日のロッテ戦(日生)で八木沢荘六から最後の本塁打、同29日の阪急戦(日生)で最後の安打を記録。 定詰雅彦: 1992年、八木沢荘六が監督に就任し、正捕手は青柳でほぼ固定され、シーズン終盤の8月27日対オリックス・ブルーウェーブ戦以降19試合に先発出場した。 大塚弥寿男: 宮本洋二郎、江尻亮、八木沢荘六らとバッテリーを組み活躍。 根本陸夫: 八木沢荘六は「送りバントなどをほとんどしなかったですし、例えば打撃の調子が上がらなかった立花義家も辛抱強く中軸で使い続けていました。 児玉弘義: 1972年は49試合出場と盛り返すが、8月2日のロッテ戦(東京)で八木沢荘六から最後の本塁打を放った。 中野孝征: エース八木沢荘六を擁して勝ち進み、決勝で日大三高を降し優勝。 愛甲猛: なお、愛甲の自著によると、連続試合出場が途切れたのは当時の八木沢荘六監督が起用を忘れていたためであるといい、その振る舞いに失望した旨が記されている。 遠山奨志: これは当時の投手コーチにロッテ時代に監督だった八木沢荘六がいたことも良かったとも話している。 福澤洋一: 新任の八木沢荘六監督は捕手を、守備の福澤、打撃の青柳のどちらかに固定することを明言。 小宮山悟: 新監督として八木沢荘六が就任した。 中西太: ロッテ時代はシーズン途中からは八木沢荘六の後を受けて監督代行を務め、手腕が評価され翌年からの正式就任を打診されるも、年俸などの条件が折り合わず固辞。 野村克也: 当時阪神球団専務だった野崎勝義によると、野村が連れてきたコーチはヘッドコーチに松井優典、投手コーチに八木沢荘六、打撃コーチに柏原純一の3人である。 福沢洋一: 新任の八木沢荘六監督は捕手を、守備の福澤、打撃の青柳のどちらかに固定することを明言。 メル=ホール: 1994年はロッテでプレーするが、ここでもヤンキースでチームメイトだったヘンスリー・ミューレンス(以下「ミューレン」と表記)に実績の違いを理由に使い走りをさせたり、ロッカーをいじったり殴ったりするなどかなりいじめをしていたとのことで、当時の八木沢荘六監督からも2度にわたって注意されていたが、改善されなかった。 島野育夫: 作新学院高校時代の1961年、中堅手として1学年下の八木沢荘六、高山忠克らとともに第33回選抜高等学校野球大会に出場した。 山下律夫: 3年次の1962年には春の選抜に出場し、準々決勝で中塚政幸のいたPL学園に完封勝利して準決勝に進出するが、同年に春夏連覇した作新学院の八木沢荘六・加藤斌両投手と投げ合い、延長16回の熱戦の末に惜敗している。 三輪田勝利: 早大のチームメイトには1年上の八木沢荘六、西田暢、同期の林田真人、高橋直樹などがおり、球界外の知友には毎日新聞社の六車護がいる。 西山道隆: 高山郁夫コーチと八木沢荘六巡回コーチの指導を受け、MAX151キロのストレートを武器に7月から8月にかけて5連続完封勝利を果たすなど、10勝(リーグ4位)を挙げ、防御率1.47(リーグ2位)をマーク。 西田暢: 大学同期に八木沢荘六がいる。 大杉勝男: 同年は5度のサヨナラ打を放ち、4月20日の対西鉄ライオンズ戦(後楽園球場)では2-2の同点で迎えた延長10回一死無走者の打席で池永正明からサヨナラ本塁打、5月21日の対ロッテオリオンズ戦(後楽園球場)では3-3の同点で迎えた延長12回一死一、二塁の打席で八木沢荘六からサヨナラ安打、6月20日の対阪急戦(後楽園球場)では6-6の同点で迎えた延長10回二死一塁の打席で大石清からサヨナラ2点本塁打、9月30日の対南海戦(後楽園球場)では1点を追う延長12回二死一塁の打席で皆川睦男から逆転サヨナラ2点本塁打、翌10月1日の対南海戦(後楽園球場)・ダブルヘッダー第1試合では1-1の同点で迎えた延長11回一死満塁の打席で西岡三四郎からサヨナラ安打を放った。 鹿取義隆: 西武では投手コーチの八木沢荘六がノースローなどについて裁量を認めており、調整がしやすかったという。 成本年秀: 選手再生に実績がある野村克也が監督、自身の全盛時にロッテで監督を務めた八木沢荘六が投手コーチを務める阪神タイガースに対象を絞って入団を目指した。 チャーリー=マニエル: ところが、6月9日の対ロッテオリオンズ戦で八木沢荘六から顔面に死球を受ける。 金田正一: 同年のリーグ最小失点も記録し、防御率ベストテンに3人(成田文男・八木沢荘六・木樽正明)もランクイン。 |
八木沢荘六の情報まとめ
八木沢 荘六(やぎさわ そうろく)さんの誕生日は1944年12月1日です。栃木出身の野球選手のようです。
父親、卒業、引退、テレビ、事件、現在に関する情報もありますね。八木沢荘六の現在の年齢は79歳のようです。
八木沢荘六のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 八木沢 荘六(八木澤 荘六、やぎさわ そうろく、1944年(昭和19年)12月1日 - )は、栃木県今市市(現・日光市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者。現・公益社団法人全国野球振興会理事長。史上13人目の完全試合達成者。 実家は製材所を経営し、父親の善吉は今市市の市長も務めた。祖父が明治期の陸軍参謀総長・川上操六を尊敬していたため、「荘六」の名になった。作新学院では2年次の1961年に春の選抜で初出場を果たすと、1回戦に先発して柏原高を完封するが、2回戦はリリーフに回って高松商に敗退。3年次の1962年には春の選抜にエースとして出場し、準々決勝では八幡商を延長18回引き分け再試合の末に降す。準決勝に進んで松山商の山下律夫との投手戦となるが、控え投手であった加藤斌のリリーフもあって延長16回で辛勝。決勝では倍賞明らのいた日大三高を完封で降し初優勝を飾ると、作新は同年夏の甲子園も制して史上初の甲子園春夏連覇を果たすが、八木沢は大会前に体内から赤痢菌が検出されて出場できなかった。準々決勝から復帰してベンチ入りしていたが、加藤が主戦投手となった。高校同期に高山忠克・中野孝征、1期上に島野育夫がいた。 高校卒業後は1963年に早稲田大学へ進学し、東京六大学リーグでは在学中に3度の優勝に貢献するなどエースとして活躍。3年次の1965年にはマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会に出場し、日本代表となった東京六大学選抜チームの優勝に貢献。リーグ通算52試合登板、24勝12敗、防御率1.54、176奪三振、ベストナイン2回。第56代主将も務めた。大学同期に西田暢がいる。 1966年の第2次ドラフトで東京オリオンズから1位に指名され、大学卒業後の1967年に入団。 3年目の1969年には一軍に定着し、先発・中継ぎで活躍。1970年にはチーム最多の43試合に登板し、10年ぶりのリーグ優勝に貢献すると、巨人との日本シリーズでも2試合にリリーフで登板。 1973年10月10日の太平洋戦ダブルヘッダー第1試合(宮城)で史上13人目の完全試合を達成する。この試合は、中継ぎ登板が多く規定投球回に足りなかった八木沢に、最高勝率のタイトルを取らせるべく投球回数を稼ぐために先発した試合であった。この後、八木沢は目論見どおり規定投球回に到達し、7勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得。7勝は最高勝率を獲得した投手の中では最少であり、1986年以降は「規定投球回到達有無に関係なく13勝以上」という規定ができたため、この規定が存在する限り更新されることはない。同年の完投は完全試合の1試合のみであり、完封に至ってはプロ入り7年目で初だった。八木沢は元々ダブルヘッダーの第2試合に先発の予定であったが、第1試合に先発する予定であった村田兆治が寝違えて首を痛めたため、急遽第1試合に先発することになった。完全試合の日はカウントボール3までいったケースは一度もなかったが、これは16回ある完全試合の中で唯一の記録である。 1974年は12試合に先発として起用され、自身2度目のリーグ優勝を経験。中日との日本シリーズでも2試合に中継ぎとして登板し、24年ぶりの日本一に寄与した。 1975年オフの11月8日には「東京六大学野球連盟結成50周年記念試合プロOB紅白戦」メンバーに選出され、早大の先輩である荒川博監督率いる白軍の選手として出場。 1976年からはコーチ兼任となり、主に先発として起用される。同年は自己最多で初の2桁となる15勝、1977年には2年連続2桁の11勝をマーク。 1978年は前期シーズン中に金田正一監督に引退を勧告され、コーチに就任させる話もあったが、投手陣のリーダー格であったことから選手達が猛反発し、結局同年限りで金田監督が退任。 1979年6月9日の近鉄戦(日生)でチャーリー・マニエルの顔面に死球を当て、マニエルは顎の骨を複雑骨折する重傷を負った。この悲劇は、薄暮ゲームであったためボールが見辛く、マニエルが避け損ねたことも一つの要因だと言われている。マニエルが復帰した後に「和解」の場が持たれたが、故意にボールを当てたという疑念(ロッテ側は否定)を持っていたマニエルは八木沢と握手をしなかった。同年引退。 引退後はロッテで二軍投手コーチ(1980年)・監督(1992年 - 1994年8月2日)、西武で一軍投手コーチ(1981年 - 1984年, 1986年 - 1991年)・二軍投手コーチ(1985年)、横浜一軍投手コーチ(1995年)、巨人二軍投手コーチ(1997年 - 1998年)→阪神一軍投手コーチ(1999年 - 2001年)、オリックス一軍投手コーチ(2004年)→四国IL巡回コーチ(2005年)→東京ガス投手コーチ(2006年 - 2007年) 、ヤクルト二軍投手コーチ(2008年 - 2010年)→BCリーグ・群馬投手コーチ(2011年 - 2012年)→特別アドバイザー(2013年)を務めた。指導者生活の合間を縫って、フジテレビ「Night Game/Daylight Game&プロ野球ニュース」・ニッポン放送「ショウアップナイター」(1996年)で解説者を務めた。 コーチ時代は指導力を発揮し、中西太・山内一弘・水谷実雄・高畠康真(いずれも打撃コーチ)などと並び「12球団巡回コーチ」と呼ばれた。 西武コーチ在籍11年間で7度の日本一に恵まれ、八木沢は西武コーチ時代を「選手間で技術面の話ができるチーム。投手陣は東尾修から工藤公康。渡辺久信、郭泰源…。野手も凄かった。田淵幸一、山崎裕之、大田卓司から石毛宏典、秋山幸二、清原和博…。こんなチームで野球ができた楽しかった。」、「投手コーチとして肝を銘じたのはケガをさせないこと。理論はみんな持っている。100人いれば100の理論がある。だが、原理原則は一つ。それに反する投げ方をしたら肩や肘に負担がかかって故障につながる。チームが勝つ中で投球フォームのメカニックなどいろいろ勉強させてもらった。」と振り返っている。 1991年夏、西武球場のロッテ戦でロッテの監督に復活して2年目の金田正一がマウンドまでに見に来て、八木沢も出ていくと「お前、手伝ってくれ」と言う、何を手伝うのか分からないままその場を別れたが、シーズン終盤、金田から電話で「飯を食いに行こうと」と誘われ、東京・東銀座の料亭へ行くと重光昭夫オーナー代行も一緒で金田からいきなり「監督をやってくれ」と言われ、古巣に監督として迎えてもらえるとは身に余る光栄だが、今は西武のユニホームを着ている身を、即答はできなかった。西武の根本陸夫管理部長に話したら「ああ、そうか、おめでとう」と言ってくれ、森祇晶監督にも了承をしてもらいロッテに返事をした。本拠地が川崎球場から千葉マリンスタジアムに移転するタイミング球団名もまだ決まっていなかったが、「ロッテ」の上に「千葉」をつけて、愛称をどうするか八木沢は「ドルフィンズ」がよかったが「マリーンズ」に決まった。各方面にあいさつに出掛け、ブルペンに空調をつけ、監督・コーチ用のロッカー、シャワールームを造ってもらえようにお願いした。監督として何とかしたいと思ったのが伊良部秀輝、前年1990年に8勝しながら前年は3勝、1メートル93センチの恵まれた体格、素質を生かし切れていない。2月1日の鹿児島キャンプ初日、ブルペンで伊良部にメカニックについて話をした。体を内側ひひねって投げれば150キロなんて朝飯前に出る、そんな話をしたら142、3キロだったがスピードが1週間で150キロになった。しかし、試合ではなかなか結果が出なかった。開幕ローテ入れたが3連敗、すぐカッとする性格で5月3日の近鉄戦(千葉)に4回1/3を6失点で降板後、ベンチ裏の重い灰皿を蹴り上げて、足を痛め、離脱した。1993年は最初リリーフで使い、5月3日の西武戦(西武)で清原に対し、当時プロ野球最速の158キロをマーク、ようやく投球のコツをつかみ、先発に回したら7連勝するなど8勝を挙げた。1992年は6位、1993年も5位、1994年も首位から15.5ゲーム差の5位に沈んでいた8月1日、球団幹部から春日部近くの喫茶店で休養を勧められ了承、そのまま退団した。残りの試合は中西太ヘッドコーチが代理監督となった。八木沢はロッテ監督時代について「投手は伊良部の他に牛島和彦、小宮山悟、園川一美、前田幸長、吉田篤史、河本育之らがいて他チームに引きを取らなかったが、打線が点を取れなかった。伊良部はこの年(1994年)、自己最多の15勝挙げて最多勝に輝いた。もっと長く一緒にやりたかったが、一人でもいい選手が育ってくれたのが救いだった。」と振り返っている。テリー伊藤は自身の著書の中で「戦いなき古典芸能野球を演出した『能面』監督」と評している。 横浜コーチには早大の先輩である近藤昭仁監督に誘われて就任したが、チームは66勝64敗と16年ぶりに勝ち越すも、順位は4位に終わり、近藤と一緒にユニフォームを脱いだ。 巨人コーチには早大の先輩で、アマ球界から招かれた石山建一編成部長補佐からの要請で就任し、1998年に契約が切れた。 阪神時代は投球フォームの研究に余念がなく、選手へのアドバイスは的確であった。野村克也監督とは現役時代に1年だけチームメイトであったが、野村はその時から八木沢のコーチの素質を見ていた。八木沢の研究熱心さと投手理論には敬意を表していたほか、野村からは親しみをこめて「ロクさん」と呼ばれていた。 1999年の安芸春季キャンプでは野村の意向に沿って投手陣の整備に着手し、投手陣に投げ込みを課した。前年に小山正明コーチが投げ込みを課して故障者が続出したという経緯もあったが、八木沢は投げ込みを敢行してフォームのチェックを進めていった。 野手から投手に再転向させた安達智次郎のストレートに力がないとみるや、軸足の左足踵を上げるヒールアップ投法を教えて若干の力強さを出させることに成功するが、安達がこれを継続することはできなかった。 野村が新庄剛志に視線をやりながら「こいつ、肩が強いからピッチャーできるんじゃないか?」と言った際、八木沢は「ちょっと直すところはあるが、練習すればワンポイントでけるかもしれない。」と言い、新庄に二刀流の練習を始めてもらった。一挙手一投足、事細かに指導し、フォークの握りをする際にグラブも一緒に動かしてしまうので「ストレートの時も同じようにグラブを動かせ」と指示を出し、軸足の右足親指の部分が左足を振り上げた際に浮いてしまうと、「それでは力が抜けてしまう。親指でしっかりと地面を踏ん張るつもりで投げろ」とアドバイスを送った。新庄は明けて1999年の春季キャンプも1日置きにブルペンに入り、オープン戦2試合に登板した。3月5日の巨人戦は1回を無安打無失点、同21日のダイエー戦1回1失点と、制球は今一つであったが、強い球は投げていた。ところが登板の翌22日の近鉄戦でセンターを守っていた際に左太腿を肉離れして離脱し、二刀流は肉体的に負担が大きいということで自然消滅した。 藪恵壹にはカーブの腕の振りが目に見えて遅くなってしまうため、打者がカーブと見破りやすかったため、藪と共に修正に取り組んだ。 1年目に肩を痛めていた井川慶は力のある球を投げていたため、チェンジアップを覚えたら面白いと思い、人差し指と親指をくっつけて握るサークルチェンジの投げ方を教えた。1999年は1勝、2000年も1勝であったが、入団4年目の2001年にはチェンジアップを自分のものにして9勝挙げた。八木沢は阪神を去る前に井川は「頑張れよ。今のままでいったら必ず二桁は勝てるから」と言い、井川は涙をこぼしていた。井川は2002年に14勝をマーク、2003年は20勝5敗、防御率2.80で沢村賞に輝き、阪神の18年ぶりの優勝に貢献。2003年の優勝時にロッテ監督時代の教え子伊良部が13勝を挙げて貢献したのも感慨深ったと述べている。阪神コーチ時代は全て最下位に終わったが、チーム防御率4.04(リーグ3位)→3.90(リーグ3位)→3.749(リーグ4位)であった。 2001年の安芸キャンプでは藤田太陽をフォーム改造と投げ込み過多で右肘に炎症を起こさせるなど育成に失敗するが、このフォーム矯正は野村が指示したものであったため、藤田は後年野村から直接謝罪されている。 東京ガス入部は野村以来4人目のプロ野球監督経験者のアマチュア復帰となり、在任中は人事部安全健康・福利室に所属。木村雄太にカーブを伝授し、自身の古巣であるロッテに送り出した。 2014年、同年2月6日に死去した森徹の後を受けて同11日に日本プロ野球OBクラブ理事長に就任。前述の死球事件を教訓に、アマチュア野球でもフェイスガードを解禁して欲しいと訴えている。 西武に移籍してきた江夏豊が、球団で唯一慕っていたコーチである。その江夏が在籍した1984年はリーグ優勝を逃し、翌シーズンはその責任をとらされ二軍コーチに降格させられてしまうが、後に八木沢はインタビューで「二軍降格は自らの志願だった」と答えている。2021年11月27日のスポーツニッポンの我が道では「1984年は3位に沈み、私は責任を取る形で85年は2軍へ行った。」と述べている。 野村が阪神監督就任時、尾花高夫に一軍投手コーチとして声をかけていた。尾花本人も行動を共にすることを希望していたが、尾花はダイエーのコーチに就任。阪神の一軍投手コーチを誰にするか迷った時、友人の森祇晶が八木沢を推薦したため就任に至ったという経緯がある。 自身と同じ年に阪神へ入団した藤川球児とは反りが合わず、藤川が八木沢の退団後に出された自著では実名を伏せながらもコーチ在任中の態度や扱いを批判されている。藤川が入団2年目の2000年、秋季二軍キャンプ中に床へ肘を付けた状態で腕立て伏せを繰り返していたところに、ランチを済ませて偶然通りかかった投手コーチ(八木沢)から「そのやり方はなんだ。肘なんか付くな」と言われた。当時は右肘の状態が思わしくなかったので、トレーニングコーチからの了解を得たうえで、同僚の投手数名と肘を付いての腕立て伏せに取り組んでいた。投手コーチにもこのような事情を話したところ、爪楊枝をくわえながら自分だけに向けて高圧的な口調で「うるせえ、俺が『(肘を付けずに腕立て伏せを)やれ』と言ったらやれ」と迫ってきたので、「あんたのためにやってるんじゃない」と思わず言い返してしまった。そのコーチには後日詫びを入れたのだが、翌2001年にはシーズン中に一軍へ呼ばれず、シーズンの終盤には(当時二軍監督であった)岡田彰布から『藤川を一軍へずっと推薦してきたけれど、投手コーチが推薦をはねつける』と打ち明けられた」という。 伊原春樹とは西武・阪神でコーチとして同僚となり、伊原が西武監督時はキャンプで臨時コーチを務めた。オリックス監督時も一軍投手コーチとして招聘され、2004年に就任。前年のオリックスはチーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819と投手陣が大崩壊状態であった。八木沢に投手陣再建の手腕が託されたが、同年もチーム防御率が5.66を記録。2年連続5点台という結果に終わり、伊原と共に同年限りで辞任。 各年度の太字はリーグ最高 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更 1992年から1996年までは130試合制 1994年、成績不振により8月2日に監督を解任。監督代行は中西太 最高勝率:1回 (1973年) 初登板:1967年8月11日、対南海ホークス17回戦(大阪スタヂアム)、8回裏に5番手で救援登板・完了、1回2失点(自責点0) 初奪三振:1968年9月29日、対東映フライヤーズ27回戦(東京スタジアム)、4回表に青野修三から 初先発:1968年10月3日、対南海ホークス25回戦(大阪スタヂアム)、5回2/3を4失点 初勝利:1969年10月4日、対東映フライヤーズ24回戦(後楽園球場)、9回裏に3番手で救援登板・完了、2回1失点 初先発勝利・初完投勝利:1970年9月17日、対東映フライヤーズ22回戦(後楽園球場)、9回3失点 初完封勝利:1973年10月10日、対太平洋クラブライオンズ後期12回戦(宮城球場) ※史上13人目の完全試合 初セーブ:1974年5月24日、対阪急ブレーブス前期6回戦(阪急西宮球場)、7回裏2死に2番手で救援登板・完了、2回1/3を無失点 完全試合:1973年10月10日、対太平洋クラブライオンズ後期12回戦(宮城球場) ※史上13人目 27 (1967年 - 1979年) 72 (1980年、1999年 - 2001年、2011年 - 2012年) 73 (1981年) 84 (1982年 - 1991年) 80 (1992年 - 1994年) 77 (1995年) 85 (1997年 - 1998年) 75 (2004年) 74 (2008年 - 2010年) ^ 公益社団法人全国野球振興会の公式ホームページや、2021年に掲載された連載企画における直筆サイン等のように、状況に応じて苗字を「八木澤」表記とする例も存在する。 ^ “団体概要”. 公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ). 2022年12月2日閲覧。 ^ “八木澤理事長ごあいさつ”. 公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ). 2022年12月2日閲覧。 ^ “スポニチ紙面企画「我が道」 11月八木澤荘六(元プロ野球選手・指導者)”. NEWSCAST (2021年10月31日). 2022年12月2日閲覧。 ^ 「週刊ベースボール」2011年1月31日号(懐かしのプロ野球自主トレ企画)より、八木沢が実家で丸太を背負ってスクワットをしている写真から。 ^ 神宮球場ガイドブック2009年春号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典 ^ 49年前の完全試合投手・八木沢荘六さんが佐々木朗希にエール「何度でも達成してほしい」 ^ 昭和43年~|球場史|明治神宮野球場 ^ 週刊ベースボール別冊 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA2 パ・リーグ編 ベースボール・マガジン社.2022年.P49 ^ 近鉄・マニエル(右)はロッテ・八木沢から顔面死球を受け、下あごの複雑骨折などの重傷を負った(1979年6月9日撮影) ^ あの時フェースガードがあったら― 40年前、赤鬼マニエルにぶつけた八木沢荘六さんの悔恨と願い ^ 八木沢氏 東京ガスのコーチに就任 ^ 東京ガス硬式野球部 ^ 八木沢荘六投手コーチ就任・青木野手コーチ背番号決定のお知らせ - 2010年12月20日 ^ スポーツニッポン2021年11月27日、11版、八木澤荘六の我が道㉖ 西武コーチ11年間で7度の日本一 ^ スポーツニッポン2021年11月28日、9版、八木澤荘六の我が道㉗ 伊良部に救われたロッテ監督時代 ^ 知恵の森文庫「お笑いプロ野球殿堂 ダメ監督列伝」テリー伊藤、光文社、2004年11月、ISBN 9784334783259。 ^ スポーツニッポン2021年11月29日、11版、八木沢荘六の我が道㉖、阪神への置き土産となった井川慶 ^ 大阪日刊スポーツ・なにわWEB・阪神タイガース2000陣容 ^ 『プロ野球〈猛虎(タイガース)復活〉読本―「知将」野村克也は"ダメ虎"阪神を再生する!? (別冊宝島 (437)』宝島社、ISBN4796694374、1999年5月1日、p108 ^ 『プロ野球〈猛虎(タイガース)復活〉読本―「知将」野村克也は"ダメ虎"阪神を再生する!?』、p107。 ^ 年度別成績 1999年 セントラル・リーグ ^ 年度別成績 2000年 セントラル・リーグ ^ 年度別成績 2001年 セントラル・リーグ ^ 2000年の阪神ドラフト1位・藤田太陽の今、激動の人生について直撃 - ライブドアニュース ^ 栄光の“ドラ1”投手・藤田太陽が選んだ知られざるセカンドキャリア | VICTORY ^ “元阪神の藤田太陽さん、ノムさんらの教えが指導の礎”. 日刊スポーツ (2020年4月15日). 2022年3月4日閲覧。 ^ “【藤田太陽連載コラム】再会した野村監督から「あのころは悪かったなあ」”. 東京スポーツ (2021年3月3日). 2022年3月4日閲覧。 ^ 入団拒否、栄養費、改名…ロッテ木村「長かった」7年目の初勝利 ^ プロ野球OBクラブ新理事長は八木沢氏 スポーツニッポン 2014年2月11日閲覧 ^ ムック「埼玉西武ライオンズ 黄金投手陣の軌跡」(2013年、ベースボール・マガジン社) ^ 現役時代(野村・八木沢が阪神を退団後)の2009年にベースボール・マガジン社から刊行された『未熟者』および、現役引退後の2021年に日本実業出版社から刊行された『火の玉ストレート』。 ^ 『火の玉ストレート』第Ⅰ章「努力は人生を裏切らない」pp.24 - 28「はじめて感じた社会の不条理」 栃木県出身の人物一覧 早稲田大学の人物一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 ノーヒットノーラン達成者一覧 個人年度別成績 八木沢荘六 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 湯浅禎夫 1950 - 1952 別当薫 1952 若林忠志 1953 別当薫 1954 - 1959 西本幸雄 1960 宇野光雄 1961 - 1962 本堂保次 1963 - 1965 田丸仁 1966 戸倉勝城 1967 濃人渉 1967 - 1971 大沢啓二 1971 - 1972 金田正一 1973 - 1978 山内一弘 1979 - 1981 山本一義 1982 - 1983 稲尾和久 1984 - 1986 有藤道世 1987 - 1989 金田正一 1990 - 1991 八木沢荘六 1992 - 1994 ボビー・バレンタイン 1995 江尻亮 1996 近藤昭仁 1997 - 1998 山本功児 1999 - 2003 ボビー・バレンタイン 2004 - 2009 西村徳文 2010 - 2012 伊東勤 2013 - 2017 井口資仁 2018 - 2022 吉井理人 2023 - 現在 表 話 編 歴 藤本英雄 1950.6.28 武智文雄 1955.6.19 宮地惟友 1956.9.19 金田正一 1957.8.21 西村貞朗 1958.7.19 島田源太郎 1960.8.11 森滝義巳 1961.6.20 佐々木吉郎 1966.5.1 田中勉 1966.5.12 外木場義郎 1968.9.14 佐々木宏一郎 1970.10.6 高橋善正 1971.8.21 八木沢荘六 1973.10.10 今井雄太郎 1978.8.31 槙原寛己 1994.5.18 佐々木朗希 2022.4.10 表 話 編 歴 1950 野村武史 1951 中谷信夫 1952 柚木進 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 中村大成 1956 植村義信 1957 稲尾和久 1958 秋本祐作 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 皆川睦男 1963 田中勉, 森中千香良 1964 J.スタンカ 1965 林俊彦 1966 皆川睦男 1967 石井茂雄 1968 村上雅則 1969 清俊彦 1970 佐々木宏一郎 1971 山田久志 1972 佐藤道郎 1973 八木沢荘六 1974 竹村一義 1975 鈴木啓示, 野村収 1976 山田久志 1977 稲葉光雄 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 間柴茂有 1982 工藤幹夫 1983 高橋直樹 1984 石川賢 1985 石本貴昭 1986 渡辺久信 1987 工藤公康 1988 郭泰源 1989 星野伸之 1990 野茂英雄 1991 工藤公康 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 郭泰源 1995 平井正史 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 黒木知宏 1999 篠原貴行 2000 小野晋吾 2001 田之上慶三郎 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 斉藤和巳 2006 斉藤和巳 2007 成瀬善久 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有, 杉内俊哉 2010 杉内俊哉 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 岸孝之 2015 大谷翔平 2016 和田毅 2017 千賀滉大 2018 M.ボルシンガー 2019 山岡泰輔 2020 石川柊太 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 伊藤大海 表 話 編 歴 1位:園田喜則 2位:川畑和人 3位:水谷清仁(入団拒否) 4位:井深均(入団拒否) 5位:五島長登志 6位:得津高宏 7位:小西克善(入団拒否) 1位:八木沢荘六 2位:岩崎忠義 3位:山内健治(入団拒否) 4位:仲子隆司(入団拒否) 日本の野球選手 作新学院高等学校出身の野球選手 早稲田大学野球部の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 日本プロ野球完全試合達成者 最高勝率 (野球) 日本の野球監督 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の監督 埼玉西武ライオンズ関連人物 横浜DeNAベイスターズ関連人物 読売ジャイアンツ関連人物 阪神タイガース関連人物 オリックス・バファローズ関連人物 東京ヤクルトスワローズ関連人物 群馬ダイヤモンドペガサス 野球解説者 栃木県出身のスポーツ選手 1944年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/17 20:12更新
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yagisawa souroku
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