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八木沢荘六の情報 (やぎさわそうろく)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

八木沢荘六の情報(やぎさわそうろく) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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八木沢 荘六さんについて調べます

■名前・氏名
八木沢 荘六
(読み:やぎさわ そうろく)
■職業
野球選手
■八木沢荘六の誕生日・生年月日
1944年12月1日 (年齢79歳)
申年(さる年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
栃木出身

(昭和19年)1944年生まれの人の年齢早見表

八木沢荘六と同じ1944年生まれの有名人・芸能人

八木沢荘六と同じ12月1日生まれの有名人・芸能人

八木沢荘六と同じ出身地栃木県生まれの有名人・芸能人


八木沢荘六と関係のある人

西山道隆: 高山郁夫コーチと八木沢荘六巡回コーチの指導を受け、MAX151キロのストレートを武器に7月から8月にかけて5連続完封勝利を果たすなど、10勝(リーグ4位)を挙げ、防御率1.47(リーグ2位)をマーク。


三浦方義: 引退後は大毎→東京→ロッテで二軍投手コーチ(1963年 - 1965年, 1968年, 1973年)・スカウト(1966年 - 1967年)を歴任し、コーチ時代には成田文男・木樽正明・八木沢荘六らを育成、スカウトとしては弘田澄男を獲得している。


有藤通世: 10月10日、八木沢荘六の完全試合を見届ける。


島野育夫: 作新学院高校時代の1961年、中堅手として1学年下の八木沢荘六、高山忠克らとともに第33回選抜高等学校野球大会に出場した。


大塚弥寿男: 宮本洋二郎、江尻亮、八木沢荘六らとバッテリーを組み活躍。


榊親一: 山内一弘・山本一義・稲尾和久・有藤通世・金田正一・八木沢荘六ら6人の監督を支え、その後は平成国際大学のコーチを務めた。


醍醐猛夫: この頃から肩の衰えをリードでカバーし、現役最古参で選手達から兄貴的な存在となり、バッテリーを組んだ八木沢荘六も「頭が良い人で、とても投げやすかった。


加藤斌: 作新学院高ではエース・八木沢荘六の控え投手として、主にリリーフを担当していた。


広岡達朗: 早稲田大学の後輩である近藤昭仁・中村勝広・八木沢荘六や、監督時代の教え子だった若松勉・大杉勝男・田淵幸一からは深く信奉されており、近藤は「監督の戦略はいままで見た監督の中で間違いなくナンバーワン。


森繁和: 1992年からはロッテの監督に就任した八木沢荘六の後を受け、一軍投手コーチに就任。


山本理: 八木沢荘六


安井智規: 1974年9月1日のロッテ戦(日生)で八木沢荘六から最後の本塁打、同29日の阪急戦(日生)で最後の安打を記録。


萩原宏久: 野球部に入り、1962年春の第34回選抜高等学校野球大会に田口周監督の下で三塁手として出場、決勝戦で八木沢荘六擁する作新学院高等学校に敗れたが準優勝の立役者の一人となっている。


福澤洋一: 新任の八木沢荘六監督は捕手を、守備の福澤、打撃の青柳のどちらかに固定することを明言。


三輪田勝利: 早大のチームメイトには1年上の八木沢荘六、西田暢、同期の林田真人、高橋直樹などがおり、球界外の知友には毎日新聞社の六車護がいる。


愛甲猛: なお、愛甲の自著によると、連続試合出場が途切れたのは当時の八木沢荘六監督が起用を忘れていたためであるといい、その振る舞いに失望した旨が記されている。


児玉弘義: 1972年は49試合出場と盛り返すが、8月2日のロッテ戦(東京)で八木沢荘六から最後の本塁打を放った。


吉沢秀和: 作新学院の八木沢荘六、加藤斌に投げ勝ち完封勝利を飾る。


山内崇: 八木沢荘六からアゴにデッドボールを受けた恐怖心はないと言いながら、内角高めで攻められたときかすかに恐怖心が残っている近鉄時代のチャーリー・マニエル


大杉勝男: 同年は5度のサヨナラ打を放ち、4月20日の対西鉄ライオンズ戦(後楽園球場)では2-2の同点で迎えた延長10回一死無走者の打席で池永正明からサヨナラ本塁打、5月21日の対ロッテオリオンズ戦(後楽園球場)では3-3の同点で迎えた延長12回一死一、二塁の打席で八木沢荘六からサヨナラ安打、6月20日の対阪急戦(後楽園球場)では6-6の同点で迎えた延長10回二死一塁の打席で大石清からサヨナラ2点本塁打、9月30日の対南海戦(後楽園球場)では1点を追う延長12回二死一塁の打席で皆川睦男から逆転サヨナラ2点本塁打、翌10月1日の対南海戦(後楽園球場)・ダブルヘッダー第1試合では1-1の同点で迎えた延長11回一死満塁の打席で西岡三四郎からサヨナラ安打を放った。


高橋善正: 1966年の第2次ドラフト1位(八木沢荘六と荒武康博を抽選で外した外れ1位)で東映フライヤーズに入団し、1年目の1967年に初登板を完封勝利で飾るなどチームトップの15勝(11敗)を挙げ防御率も2.46とリーグ9位に入り、新人王に選出された。


中野孝征: エース八木沢荘六を擁して勝ち進み、決勝で日大三高を降し優勝。


浦田直治: 1980年シーズン終了後に八木沢荘六新投手コーチ就任が決まり、ようやくスカウト専任の希望が叶った。


根本陸夫: 八木沢荘六は「送りバントなどをほとんどしなかったですし、例えば打撃の調子が上がらなかった立花義家も辛抱強く中軸で使い続けていました。


岡持和彦: 野手として初出場:1973年7月28日、対ロッテオリオンズ後期2回戦(明治神宮野球場)、4回裏に高橋直樹の代打で出場、八木沢荘六の前に三振


菅野光夫: 初安打:1975年4月20日、対ロッテオリオンズ前期6回戦(川崎球場)、7回表に八木沢荘六から


金田正一: 同年のリーグ最小失点も記録し、防御率ベストテンに3人(成田文男・八木沢荘六・木樽正明)もランクイン。


メル=ホール: 1994年はロッテでプレーするが、ここでもヤンキースでチームメイトだったヘンスリー・ミューレンス(以下「ミューレン」と表記)に実績の違いを理由に使い走りをさせたり、ロッカーをいじったり殴ったりするなどかなりいじめをしていたとのことで、当時の八木沢荘六監督からも2度にわたって注意されていたが、改善されなかった。


青野修三: 1970年8月6日のロッテ戦(東京)では平岡一郎、1971年6月8日のロッテ戦(大阪)では八木沢荘六から代打満塁本塁打を記録。


中西太: ロッテ時代はシーズン途中からは八木沢荘六の後を受けて監督代行を務め、手腕が評価され翌年からの正式就任を打診されるも、年俸などの条件が折り合わず固辞。


八木沢荘六の情報まとめ

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八木沢 荘六(やぎさわ そうろく)さんの誕生日は1944年12月1日です。栃木出身の野球選手のようです。

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人物、詳細情報などについてまとめました。父親、卒業、引退、テレビ、事件に関する情報もありますね。八木沢荘六の現在の年齢は79歳のようです。

八木沢荘六のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

八木沢 荘六(八木澤 荘六、やぎさわ そうろく、1944年(昭和19年)12月1日 - )は、栃木県今市市(現・日光市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者。現・公益社団法人全国野球振興会理事長。史上13人目の完全試合達成者。

実家は製材所を経営し、父親の善吉は今市市の市長も務めた。祖父が明治期の陸軍参謀総長・川上操六を尊敬していたため、「荘六」の名になった。作新学院では2年次の1961年に春の選抜で初出場を果たすと、1回戦に先発して柏原高を完封するが、2回戦はリリーフに回って高松商に敗退。3年次の1962年には春の選抜にエースとして出場し、準々決勝では八幡商を延長18回引き分け再試合の末に降す。準決勝に進んで松山商の山下律夫との投手戦となるが、控え投手であった加藤斌のリリーフもあって延長16回で辛勝。決勝では倍賞明らのいた日大三高を完封で降し初優勝を飾ると、作新は同年夏の甲子園も制して史上初の甲子園春夏連覇を果たすが、八木沢は大会前に体内から赤痢菌が検出されて出場できなかった。準々決勝から復帰してベンチ入りしていたが、加藤が主戦投手となった。高校同期に高山忠克・中野孝征、1期上に島野育夫がいた。

高校卒業後は1963年に早稲田大学へ進学し、東京六大学リーグでは在学中に3度の優勝に貢献するなどエースとして活躍。3年次の1965年にはマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会に出場し、日本代表となった東京六大学選抜チームの優勝に貢献。リーグ通算52試合登板、24勝12敗、防御率1.54、176奪三振、ベストナイン2回。第56代主将も務めた。大学同期に西田暢がいる。

1966年の第2次ドラフトで東京オリオンズから1位に指名され、大学卒業後の1967年に入団。

3年目の1969年には一軍に定着し、先発・中継ぎで活躍。1970年にはチーム最多の43試合に登板し、10年ぶりのリーグ優勝に貢献すると、巨人との日本シリーズでも2試合にリリーフで登板。

1973年10月10日の太平洋戦ダブルヘッダー第1試合(宮城)で史上13人目の完全試合を達成する。この試合は、中継ぎ登板が多く規定投球回に足りなかった八木沢に、最高勝率のタイトルを取らせるべく投球回数を稼ぐために先発した試合であった。この後、八木沢は目論見どおり規定投球回に到達し、7勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得。7勝は最高勝率を獲得した投手の中では最少であり、1986年以降は「規定投球回到達有無に関係なく13勝以上」という規定ができたため、この規定が存在する限り更新されることはない。同年の完投は完全試合の1試合のみであり、完封に至ってはプロ入り7年目で初だった。八木沢は元々ダブルヘッダーの第2試合に先発の予定であったが、第1試合に先発する予定であった村田兆治が寝違えて首を痛めたため、急遽第1試合に先発することになった。完全試合の日はカウントボール3までいったケースは一度もなかったが、これは16回ある完全試合の中で唯一の記録である。

1974年は12試合に先発として起用され、自身2度目のリーグ優勝を経験。中日との日本シリーズでも2試合に中継ぎとして登板し、24年ぶりの日本一に寄与した。

1975年オフの11月8日には「東京六大学野球連盟結成50周年記念試合プロOB紅白戦」メンバーに選出され、早大の先輩である荒川博監督率いる白軍の選手として出場。

1976年からはコーチ兼任となり、主に先発として起用される。同年は自己最多で初の2桁となる15勝、1977年には2年連続2桁の11勝をマーク。

1978年は前期シーズン中に金田正一監督に引退を勧告され、コーチに就任させる話もあったが、投手陣のリーダー格であったことから選手達が猛反発し、結局同年限りで金田監督が退任。

1979年6月9日の近鉄戦(日生)でチャーリー・マニエルの顔面に死球を当て、マニエルは顎の骨を複雑骨折する重傷を負った。この悲劇は、薄暮ゲームであったためボールが見辛く、マニエルが避け損ねたことも一つの要因だと言われている。マニエルが復帰した後に「和解」の場が持たれたが、故意にボールを当てたという疑念(ロッテ側は否定)を持っていたマニエルは八木沢と握手をしなかった。同年引退

引退後はロッテで二軍投手コーチ(1980年)・監督(1992年 - 1994年8月2日)、西武で一軍投手コーチ(1981年 - 1984年, 1986年 - 1991年)・二軍投手コーチ(1985年)、横浜一軍投手コーチ(1995年)、巨人二軍投手コーチ(1997年 - 1998年)→阪神一軍投手コーチ(1999年 - 2001年)、オリックス一軍投手コーチ(2004年)→四国IL巡回コーチ(2005年)→東京ガス投手コーチ(2006年 - 2007年) 、ヤクルト二軍投手コーチ(2008年 - 2010年)→BCリーグ・群馬投手コーチ(2011年 - 2012年)→特別アドバイザー(2013年)を務めた。指導者生活の合間を縫って、フジテレビ「Night Game/Daylight Game&プロ野球ニュース」・ニッポン放送「ショウアップナイター」(1996年)で解説者を務めた。

コーチ時代は指導力を発揮し、中西太・山内一弘・水谷実雄・高畠康真(いずれも打撃コーチ)などと並び「12球団巡回コーチ」と呼ばれた。

西武コーチ在籍11年間で7度の日本一に恵まれ、八木沢は西武コーチ時代を「選手間で技術面の話ができるチーム。投手陣は東尾修から工藤公康。渡辺久信、郭泰源…。野手も凄かった。田淵幸一、山崎裕之、大田卓司から石毛宏典、秋山幸二、清原和博…。こんなチームで野球ができた楽しかった。」、「投手コーチとして肝を銘じたのはケガをさせないこと。理論はみんな持っている。100人いれば100の理論がある。だが、原理原則は一つ。それに反する投げ方をしたら肩や肘に負担がかかって故障につながる。チームが勝つ中で投球フォームのメカニックなどいろいろ勉強させてもらった。」と振り返っている。

1991年夏、西武球場のロッテ戦でロッテの監督に復活して2年目の金田正一がマウンドまでに見に来て、八木沢も出ていくと「お前、手伝ってくれ」と言う、何を手伝うのか分からないままその場を別れたが、シーズン終盤、金田から電話で「飯を食いに行こうと」と誘われ、東京・東銀座の料亭へ行くと重光昭夫オーナー代行も一緒で金田からいきなり「監督をやってくれ」と言われ、古巣に監督として迎えてもらえるとは身に余る光栄だが、今は西武のユニホームを着ている身を、即答はできなかった。西武の根本陸夫管理部長に話したら「ああ、そうか、おめでとう」と言ってくれ、森祇晶監督にも了承をしてもらいロッテに返事をした。本拠地が川崎球場から千葉マリンスタジアムに移転するタイミング球団名もまだ決まっていなかったが、「ロッテ」の上に「千葉」をつけて、愛称をどうするか八木沢は「ドルフィンズ」がよかったが「マリーンズ」に決まった。各方面にあいさつに出掛け、ブルペンに空調をつけ、監督・コーチ用のロッカー、シャワールームを造ってもらえようにお願いした。監督として何とかしたいと思ったのが伊良部秀輝、前年1990年に8勝しながら前年は3勝、1メートル93センチの恵まれた体格、素質を生かし切れていない。2月1日の鹿児島キャンプ初日、ブルペンで伊良部にメカニックについて話をした。体を内側ひひねって投げれば150キロなんて朝飯前に出る、そんな話をしたら142、3キロだったがスピードが1週間で150キロになった。しかし、試合ではなかなか結果が出なかった。開幕ローテ入れたが3連敗、すぐカッとする性格で5月3日の近鉄戦(千葉)に4回1/3を6失点で降板後、ベンチ裏の重い灰皿を蹴り上げて、足を痛め、離脱した。1993年は最初リリーフで使い、5月3日の西武戦(西武)で清原に対し、当時プロ野球最速の158キロをマーク、ようやく投球のコツをつかみ、先発に回したら7連勝するなど8勝を挙げた。1992年は6位、1993年も5位、1994年も首位から15.5ゲーム差の5位に沈んでいた8月1日、球団幹部から春日部近くの喫茶店で休養を勧められ了承、そのまま退団した。残りの試合は中西太ヘッドコーチが代理監督となった。八木沢はロッテ監督時代について「投手は伊良部の他に牛島和彦、小宮山悟、園川一美、前田幸長、吉田篤史、河本育之らがいて他チームに引きを取らなかったが、打線が点を取れなかった。伊良部はこの年(1994年)、自己最多の15勝挙げて最多勝に輝いた。もっと長く一緒にやりたかったが、一人でもいい選手が育ってくれたのが救いだった。」と振り返っている。テリー伊藤は自身の著書の中で「戦いなき古典芸能野球を演出した『能面』監督」と評している。

横浜コーチには早大の先輩である近藤昭仁監督に誘われて就任したが、チームは66勝64敗と16年ぶりに勝ち越すも、順位は4位に終わり、近藤と一緒にユニフォームを脱いだ。

巨人コーチには早大の先輩で、アマ球界から招かれた石山建一編成部長補佐からの要請で就任し、1998年に契約が切れた。

阪神時代は投球フォームの研究に余念がなく、選手へのアドバイスは的確であった。野村克也監督とは現役時代に1年だけチームメイトであったが、野村はその時から八木沢のコーチの素質を見ていた。八木沢の研究熱心さと投手理論には敬意を表していたほか、野村からは親しみをこめて「ロクさん」と呼ばれていた。

1999年の安芸春季キャンプでは野村の意向に沿って投手陣の整備に着手し、投手陣に投げ込みを課した。前年に小山正明コーチが投げ込みを課して故障者が続出したという経緯もあったが、八木沢は投げ込みを敢行してフォームのチェックを進めていった。

野手から投手に再転向させた安達智次郎のストレートに力がないとみるや、軸足の左足踵を上げるヒールアップ投法を教えて若干の力強さを出させることに成功するが、安達がこれを継続することはできなかった。

野村が新庄剛志に視線をやりながら「こいつ、肩が強いからピッチャーできるんじゃないか?」と言った際、八木沢は「ちょっと直すところはあるが、練習すればワンポイントでけるかもしれない。」と言い、新庄に二刀流の練習を始めてもらった。一挙手一投足、事細かに指導し、フォークの握りをする際にグラブも一緒に動かしてしまうので「ストレートの時も同じようにグラブを動かせ」と指示を出し、軸足の右足親指の部分が左足を振り上げた際に浮いてしまうと、「それでは力が抜けてしまう。親指でしっかりと地面を踏ん張るつもりで投げろ」とアドバイスを送った。新庄は明けて1999年の春季キャンプも1日置きにブルペンに入り、オープン戦2試合に登板した。3月5日の巨人戦は1回を無安打無失点、同21日のダイエー戦1回1失点と、制球は今一つであったが、強い球は投げていた。ところが登板の翌22日の近鉄戦でセンターを守っていた際に左太腿を肉離れして離脱し、二刀流は肉体的に負担が大きいということで自然消滅した。

藪恵壹にはカーブの腕の振りが目に見えて遅くなってしまうため、打者がカーブと見破りやすかったため、藪と共に修正に取り組んだ。

1年目に肩を痛めていた井川慶は力のある球を投げていたため、チェンジアップを覚えたら面白いと思い、人差し指と親指をくっつけて握るサークルチェンジの投げ方を教えた。1999年は1勝、2000年も1勝であったが、入団4年目の2001年にはチェンジアップを自分のものにして9勝挙げた。八木沢は阪神を去る前に井川は「頑張れよ。今のままでいったら必ず二桁は勝てるから」と言い、井川は涙をこぼしていた。井川は2002年に14勝をマーク、2003年は20勝5敗、防御率2.80で沢村賞に輝き、阪神の18年ぶりの優勝に貢献。2003年の優勝時にロッテ監督時代の教え子伊良部が13勝を挙げて貢献したのも感慨深ったと述べている。阪神コーチ時代は全て最下位に終わったが、チーム防御率4.04(リーグ3位)→3.90(リーグ3位)→3.749(リーグ4位)であった。

2001年の安芸キャンプでは藤田太陽をフォーム改造と投げ込み過多で右肘に炎症を起こさせるなど育成に失敗するが、このフォーム矯正は野村が指示したものであったため、藤田は後年野村から直接謝罪されている。

東京ガス入部は野村以来4人目のプロ野球監督経験者のアマチュア復帰となり、在任中は人事部安全健康・福利室に所属。木村雄太にカーブを伝授し、自身の古巣であるロッテに送り出した。

2014年、同年2月6日に死去した森徹の後を受けて同11日に日本プロ野球OBクラブ理事長に就任。前述の死球事件を教訓に、アマチュア野球でもフェイスガードを解禁して欲しいと訴えている。

人物

西武に移籍してきた江夏豊が、球団で唯一慕っていたコーチである。その江夏が在籍した1984年はリーグ優勝を逃し、翌シーズンはその責任をとらされ二軍コーチに降格させられてしまうが、後に八木沢はインタビューで「二軍降格は自らの志願だった」と答えている。2021年11月27日のスポーツニッポンの我が道では「1984年は3位に沈み、私は責任を取る形で85年は2軍へ行った。」と述べている。

野村が阪神監督就任時、尾花高夫に一軍投手コーチとして声をかけていた。尾花本人も行動を共にすることを希望していたが、尾花はダイエーのコーチに就任。阪神の一軍投手コーチを誰にするか迷った時、友人の森祇晶が八木沢を推薦したため就任に至ったという経緯がある。

自身と同じ年に阪神へ入団した藤川球児とは反りが合わず、藤川が八木沢の退団後に出された自著では実名を伏せながらもコーチ在任中の態度や扱いを批判されている。藤川が入団2年目の2000年、秋季二軍キャンプ中に床へ肘を付けた状態で腕立て伏せを繰り返していたところに、ランチを済ませて偶然通りかかった投手コーチ(八木沢)から「そのやり方はなんだ。肘なんか付くな」と言われた。当時は右肘の状態が思わしくなかったので、トレーニングコーチからの了解を得たうえで、同僚の投手数名と肘を付いての腕立て伏せに取り組んでいた。投手コーチにもこのような事情を話したところ、爪楊枝をくわえながら自分だけに向けて高圧的な口調で「うるせえ、俺が『(肘を付けずに腕立て伏せを)やれ』と言ったらやれ」と迫ってきたので、「あんたのためにやってるんじゃない」と思わず言い返してしまった。そのコーチには後日詫びを入れたのだが、翌2001年にはシーズン中に一軍へ呼ばれず、シーズンの終盤には(当時二軍監督であった)岡田彰布から『藤川を一軍へずっと推薦してきたけれど、投手コーチが推薦をはねつける』と打ち明けられた」という。

伊原春樹とは西武・阪神でコーチとして同僚となり、伊原が西武監督時はキャンプで臨時コーチを務めた。オリックス監督時も一軍投手コーチとして招聘され、2004年に就任。前年のオリックスはチーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819と投手陣が大崩壊状態であった。八木沢に投手陣再建の手腕が託されたが、同年もチーム防御率が5.66を記録。2年連続5点台という結果に終わり、伊原と共に同年限りで辞任。

詳細情報

年度別投手成績

年度 球団 登板 先発 完投 完封 無四球 勝利 敗戦 セ丨ブ ホ丨ルド 勝率 打者 投球回 被安打 被本塁打 与四球 敬遠 与死球 奪三振 暴投 ボ丨ク 失点 自責点 防御率 WHIP
1967 東京ロッテ 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 7 1.0 2 0 0 0 1 0 0 0 2 0 0.00 2.00
1968 6 3 0 0 0 0 1 -- -- .000 81 19.1 16 2 6 1 3 4 0 0 10 9 4.19 1.14
1969 44 2 0 0 0 3 2 -- -- .600 359 90.0 71 11 24 4 3 56 1 0 40 36 3.60 1.06
1970 43 4 2 0 1 5 4 -- -- .556 419 98.1 99 11 30 8 1 72 0 0 36 31 2.85 1.31
1971 23 0 0 0 0 4 1 -- -- .800 161 36.2 40 3 11 3 0 19 1 0 25 19 4.66 1.39
1972 35 7 1 0 1 7 8 -- -- .467 395 90.1 106 14 20 2 6 33 0 0 50 45 4.48 1.39
1973 55 9 1 1 1 7 1 -- -- .875 513 130.1 112 14 25 2 3 68 1 0 47 40 2.76 1.05
1974 37 12 2 2 0 8 7 2 -- .533 453 115.0 86 12 27 1 3 54 1 0 56 49 3.83 0.98
1975 20 9 1 0 1 2 5 0 -- .286 324 77.2 76 13 21 1 2 26 1 0 35 33 3.82 1.25
1976 34 22 5 0 1 15 9 1 -- .625 676 171.2 153 14 29 1 5 66 2 0 53 47 2.46 1.06
1977 40 28 5 2 1 11 14 1 -- .440 719 175.0 167 10 32 0 6 89 2 0 75 51 2.62 1.14
1978 28 17 6 1 1 5 6 3 -- .455 496 120.1 119 7 23 0 5 48 0 0 49 43 3.22 1.18
1979 28 6 0 0 0 4 8 1 -- .333 326 74.1 95 6 19 1 4 32 0 0 43 40 4.84 1.53
通算:13年 394 119 23 6 7 71 66 8 -- .518 4929 1200.0 1142 117 267 24 42 567 9 0 521 443 3.32 1.17

各年度の太字はリーグ最高

東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム本塁打 チーム打率 チーム防御率 年齢
1992年 ロッテ 6位 130 54 74 2 .422 26.5 89 .241 3.82 47歳
1993年 5位 130 51 77 2 .398 23.5 95 .251 4.08 48歳
1994年 5位 85 34 51 0 .400 -- -- ---- ---- 49歳
通算:3年 345 139 202 4 .408 Bクラス:3回

1992年から1996年までは130試合制

1994年、成績不振により8月2日に監督を解任。監督代行は中西太

タイトル

最高勝率:1回 (1973年)

記録

初登板:1967年8月11日、対南海ホークス17回戦(大阪スタヂアム)、8回裏に5番手で救援登板・完了、1回2失点(自責点0)

初奪三振:1968年9月29日、対東映フライヤーズ27回戦(東京スタジアム)、4回表に青野修三から

初先発:1968年10月3日、対南海ホークス25回戦(大阪スタヂアム)、5回2/3を4失点

初勝利:1969年10月4日、対東映フライヤーズ24回戦(後楽園球場)、9回裏に3番手で救援登板・完了、2回1失点

初先発勝利・初完投勝利:1970年9月17日、対東映フライヤーズ22回戦(後楽園球場)、9回3失点

初完封勝利:1973年10月10日、対太平洋クラブライオンズ後期12回戦(宮城球場) ※史上13人目の完全試合

初セーブ:1974年5月24日、対阪急ブレーブス前期6回戦(阪急西宮球場)、7回裏2死に2番手で救援登板・完了、2回1/3を無失点

その他の記録

完全試合:1973年10月10日、対太平洋クラブライオンズ後期12回戦(宮城球場) ※史上13人目

背番号

27 (1967年 - 1979年)

72 (1980年、1999年 - 2001年、2011年 - 2012年)

73 (1981年)

84 (1982年 - 1991年)

80 (1992年 - 1994年)

77 (1995年)

85 (1997年 - 1998年)

75 (2004年)

74 (2008年 - 2010年)

2024/06/13 11:50更新

yagisawa souroku


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