大杉勝男の情報(おおすぎかつお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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大杉 勝男さんについて調べます
■名前・氏名 |
大杉勝男と関係のある人
カール=ボレス: 1970年には、東映フライヤーズとの試合中に大杉勝男と乱闘となり、ノックアウトされている(その後、大杉が謝罪して落着した)。 大矢明彦: その後試合は大杉勝男の本塁打を巡って1時間19分の抗議が行われた後にヤクルトが日本一に輝いた。 渡辺秀武: 1000奪三振:1980年5月3日、対ヤクルトスワローズ4回戦(広島市民球場)、8回表に大杉勝男から ※史上58人目 達川光男: 大杉勝男と対戦した際、津田恒美のコントロールが定まらず、落ち着かせるつもりで「こいつぁー石ころじゃけぇ(足が速くないので四球で出塁させても盗塁の心配はないという意味)、安心して投げてきんさい」と叫んだ。 若松勉: 1978年には大杉勝男、チャーリー・マニエルと共にクリーンナップを組む。 杉浦享: 1975年には小田らとの交換トレードで日本ハムから大杉勝男が移籍入団、一塁の定位置に座る。 江本孟紀: キャンプに最初から参加できなかった江本は調整の遅れを取り戻すためとして土橋正幸投手コーチから主力打者三人を相手にフリー打撃に登板するよう命じられたが、調整不足と緊張から全くストライクが入らず、白仁天と大杉勝男の二人に10球連続でボール球を投げてしまい「ストライク入らんヤツが、プロのピッチャーか!」と激怒された。 古賀正明: 巨人時代には大杉勝男に1試合で2つの死球を投じて、マウンドに突進された。 作道烝: さらに代わった佐藤政夫からも張本勲、大杉勝男が本塁打を放ち、日本プロ野球記録となる5者連続本塁打が記録された。 落合博満: 大杉勝男に次ぐプロ野球史上二人目の両リーグ1000安打を達成し、9月14日の近鉄戦では小池秀郎のノーヒットノーランを阻止する左翼線への二塁打を放つなどの活躍も見せたが、打率.262、3本塁打、43打点で終わった。 内田順三: その後は準レギュラーとして起用され、1975年に、小田義人と共に、大杉勝男との交換トレードで、日本ハムファイターズへ移籍。 武上四郎: 在任中は「三原監督と広岡監督をマッチした監督になりたい」と言っていたが、前年に不自然な引退をしていた大杉勝男が自著『サムライたちのプロ野球』で、自身に対する酷薄な仕打ちを書き綴り、「好き嫌いで選手を使っている」と批判するような状況であった。 水原茂: 1965年頃にオープン戦で韓国に遠征した際、あるゲームで大杉勝男が韓国のノンプロチームをひいきする地元審判の露骨なジャッジに腹を立てて悪態をついたのを見るや、水原は大杉を呼びつけるなりビンタを飛ばした。 広岡達朗: 早稲田大学の後輩である近藤昭仁・中村勝広・八木沢荘六や、監督時代の教え子だった若松勉・大杉勝男・田淵幸一からは深く信奉されており、近藤は「監督の戦略はいままで見た監督の中で間違いなくナンバーワン。 大井道夫: 丸井時代の同僚に大杉勝男がいた。 渡辺進: 1984年には大杉勝男引退後の後継一塁手として起用され、自己最高の打率.281(22位)を記録する。 小田義人: 1974年シーズンオフに大杉勝男との交換トレードで内田順三と共に日本ハムファイターズへ移籍。 足立光宏: 第3戦で完封勝利、最終第7戦では大杉勝男に疑惑の本塁打を浴びるなど2失点で敗戦投手となるが、シリーズ敢闘賞を獲得している。 島津佳一: 初出場:1974年5月8日、対太平洋クラブライオンズ前期3回戦(後楽園球場)、9回裏に大杉勝男の代走で出場 和田一浩: 8月15日の対巨人戦(ナゴヤドーム)において、大杉勝男、落合に次ぐ史上3人目のセ・パ両リーグ1,000安打と同時に、大杉、金本知憲、谷繁に次ぐ史上4人目となる2球団での1,000安打を達成する。 藤村富美男: 国鉄退団後は水原茂監督に請われて東映フライヤーズで一軍打撃コーチ(1964年 - 1965年, 1968年)・二軍監督(1967年)を務め、就任した時には猛者揃いの東映選手も「恐ろしい人が来る」と戦々恐々であったが、旅館で「ビールでもどうですか」と言ったら「ビールはいらん、それよりあんパンくれ」と言って周囲を驚かせ、大杉勝男の入団を促すなどの成果を挙げた。 谷村智啓: 1977年8月25日のヤクルト戦(岡山)で大杉勝男に1500本安打を打たれる。 鴨川清: 初出場:1973年6月14日、対ロッテオリオンズ前期10回戦(宮城球場)、9回表に大杉勝男の代走として出場 土橋正幸: 張本勲・大杉勝男ら当時の東映にいた武闘派の選手からも恐れられており、高橋は高校の後輩でもある江本孟紀に「土橋さんに5、6人ぶっ飛ばされている。 ランディ=バース: だが、守備難がネックで一塁しか守れなかったこと、当時のヤクルトの一塁には大杉勝男、杉浦享という強打者が二人おり被ってしまうため、当時の監督の武上四郎が急に難色を示しだし、結果的に大杉、杉浦を優先したことから合意には至らなかった。 大下剛史: 1971年のホームランは3本のみだが、この年5月3日の対ロッテ戦、延長10回表の作道烝(作道杰)、大下、大橋穣、張本勲、大杉勝男と5打者連続ホームラン(日本プロ野球記録)達成の一員となっている。 江本孟紀: 1981年8月26日の対ヤクルトスワローズ戦(甲子園)に先発した江本は、7回まで1失点と好投して試合を作るが、4-1と3点リードで迎えた8回表に、一死から四番・大杉勝男に単打、五番・杉浦亨に二塁打を浴び、続く六番・渡辺進の単打で大杉が生還して4-2と2点差に迫られた。 中村剛也: 西武の日本人選手の本塁打記録(43本、秋山幸二、田淵幸一)、25歳の本塁打記録(44本、大杉勝男、岩村明憲)を塗り替える46本塁打、自身初としては、規定打席、本塁打王、100打点(101打点、リーグ3位)、サヨナラ本塁打、オールスターゲーム出場(三塁手、ファン投票1位)。 土井正博: 1967年のオールスターゲームでは第1戦で2本塁打を放ち6打点、第2戦で3点本塁打の長池徳二、第3戦で満塁本塁打の大杉勝男と共にMVPを獲得。 ヴィクトル=スタルヒン: さらにこの年シーズン4本のサヨナラ安打を放っているが、これは1969年に大杉勝男に破られるまで日本プロ野球記録であった。 |
大杉勝男の情報まとめ
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大杉 勝男(おおすぎ かつお)さんの誕生日は1945年3月5日です。岡山出身の野球選手のようです。
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人物、詳細情報などについてまとめました。兄弟、卒業、引退、テレビに関する情報もありますね。47歳で亡くなられているようです。
大杉勝男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 大杉 勝男(おおすぎ かつお、1945年3月5日 - 1992年4月30日)は、岡山県勝田郡奈義町出身のプロ野球選手(内野手)。 NPBにおける通算本塁打数・通算打点数ともに歴代9位。 3兄弟の次男として生まれ、4歳年上の兄に影響されて野球を始めた。その後、兄と父を病で亡くす。 関西高校に入学し、硬式野球部に入部。1年でありながら真っ先にレギュラー捕手となるが、甲子園に出場することはかなわなかった。卒業後は、1963年に野球部を新設し、高校の先輩である岡田悦哉が監督となった丸井に入社。都市対抗の東京都予選などで活躍するが、創部2年目の1964年に野球部は休部する。 1965年、岡田の勧めもあり東映フライヤーズの入団テストを受け、入団。 水原監督は大杉を入団1年目から積極的に起用した。本来の守備位置である一塁手にはノーム・ラーカーがいたが、外野手、三塁手を兼ねて22試合に先発出場を果たす。2年目には101試合に出場、180打数ながら8本塁打を残した。同年は打率.269を記録する。 1967年は飯島滋弥コーチの「月に向かって打て」の助言で開眼し、4月12日の対東京オリオンズ戦(後楽園球場)では両者無得点で迎えた延長13回無死無走者の打席で小山正明からサヨナラ本塁打、5月の段階で両リーグトップの13号を放つ。レギュラーに定着し、オールスターゲームにも出場。第3戦(大阪スタヂアム)で江夏豊から満塁本塁打を放ち、MVPを獲得する。同年は全試合に出場して打率.291・27本塁打・81打点の成績を残すが、リーグ最多の107三振を喫した。 1968年も三振が目立ったが、34本塁打・89打点を残し、この年から73年まで6年連続30本塁打を記録。同年4月14日の対南海ホークス戦(大阪スタヂアム)では8回二死満塁の打席で新山彰忠から、6月23日の対阪急ブレーブス戦(後楽園球場)・ダブルヘッダー第1試合では2回無死満塁の打席で水谷孝からそれぞれ満塁本塁打を放った。 1969年は監督に就任した松木謙治郎から「バットのヘッドが投手寄りに向いていると、近くには詰まり、高めはバットが波を打つ。だから打率が落ちたのだ」と指摘され、バッティングを修正。最終的に打率.285・36本塁打・99打点を残した。同年は5度のサヨナラ打を放ち、4月20日の対西鉄ライオンズ戦(後楽園球場)では2-2の同点で迎えた延長10回一死無走者の打席で池永正明からサヨナラ本塁打、5月21日の対ロッテオリオンズ戦(後楽園球場)では3-3の同点で迎えた延長12回一死一、二塁の打席で八木沢荘六からサヨナラ安打、6月20日の対阪急戦(後楽園球場)では6-6の同点で迎えた延長10回二死一塁の打席で大石清からサヨナラ2点本塁打、9月30日の対南海戦(後楽園球場)では1点を追う延長12回二死一塁の打席で皆川睦男から逆転サヨナラ2点本塁打、翌10月1日の対南海戦(後楽園球場)・ダブルヘッダー第1試合では1-1の同点で迎えた延長11回一死満塁の打席で西岡三四郎からサヨナラ安打を放った。 1970年からは3年連続40本塁打を放った。1970年には自己最高となる打率.339・44本塁打・129打点を記録。同年8月6日の対阪急戦(西京極球場)では1試合3本塁打 1971年には2年連続本塁打王のタイトルを獲得する。同年5月3日の対ロッテ戦(東京スタジアム)では延長10回二死に作道烝(代打満塁本塁打)・大下剛史・大橋穣・張本勲に続き日本プロ野球記録となる5者連続本塁打の締めを放った。 1972年には打点王を獲得。同年5月は当時プロ野球記録の月間15本塁打を達成。同月13日の対ロッテ戦(後楽園球場)では4回一死に木樽正明から放った通算200本塁打を845試合目で達成。当時の王貞治の最少試合数200号を抜き、史上最少試合数200号を更新する。7月11日の対南海戦(後楽園球場)で大杉は初回に26号本塁打を放つものの、降雨ノーゲームとなり、幻の本塁打となった。最終的に長池徳二(阪急ブレーブス)に本塁打1本差の2位。打点は野村克也(南海)と同点1位に終わった。 1974年に背番号を再び「51」に戻す。その後復調せず、打率.234と成績が低迷。球団の親会社が前年オフに日本ハムにかわり、東映カラーの払拭を目指すフロントは主力選手の大量放出を断行する。この年のオフに前年に続いて再び阪神への移籍話が持ち上がり、日本ハムからは大杉と小坂敏彦、阪神からは池田純一と後藤和昭の2対2のトレード成立が10月28日にも発表されようとしていたが、来期1975年から阪神監督となる吉田義男が「大杉は魅力ある」としながらも池田の放出に難色を示し、10月29日にこのトレードは白紙に戻された。しかし翌30日は同時にこの話があったヤクルトとの1対2のトレードが発表され移籍が決定する。同日、内田順三と小田義人との交換トレードでヤクルトスワローズに移籍した。 1975年、4月14日の対中日ドラゴンズ戦(明治神宮野球場)では3回裏に移籍後初本塁打を放つが、6月下旬に急性胃炎を発症。8月21日の対大洋ホエールズ戦(県営宮城球場)では代打での出場機会もなく欠場。1968年9月21日から続いていた連続試合出場記録が1975年8月20日までの「890試合」で途切れた。シーズンでは打率.237と結果を残せなかった。 1976年に打率.300・29本塁打・93打点の成績を残す。 1977年からは広岡達朗が監督に就任。同年は打率.329・31本塁打・104打点を記録した。 1978年には開幕から5番打者を務め、後半戦は4番で打線を引っ張り、チームも開幕から129試合連続得点という記録を打ち立てた。同年はシーズン前半を打率2位の.343で折り返す(同時点の1位は、同僚であるヒルトンの.351)。後半戦も好調で打率.327・30本塁打・97打点を記録する活躍をみせて球団のリーグ初優勝に貢献。阪急との日本シリーズでは松岡弘とともに活躍。大杉は第7戦の6回裏に足立光宏からレフトポール際に本塁打を放った。この判定を巡って阪急監督の上田利治が猛抗議。1時間19分も試合が中断するも、判定は覆らなかった。この2打席連続本塁打で大杉は第2戦・第5戦の本塁打と合わせて長嶋茂雄のシリーズ4本塁打の記録に並び、同じく長嶋のシリーズ記録であった9打点を更新する10打点を残し、シリーズMVPを獲得した。 1980年は前年のスランプを引きずり、打率.301・21本塁打・82打点に終わった。 1981年は36歳ながら、最終的にキャリアハイの打率.343を記録するもリーグ3位に終わる。7月21日の対中日戦では小松辰雄から史上14人目の2000安打達成。 1982年は前年の好調を維持し、6月中旬の段階で打率.340・10本塁打を残してたが、それ以降途中交代が急激に多くなり、規定打席に届かないままシーズンを終える。 1983年、6月3日の対中日戦(明治神宮野球場)では4回無死一塁の打席で鈴木孝政から安打を放ち、史上初の両リーグ1000安打を達成。同月17日の対阪神タイガース戦(明治神宮野球場)では5回一死満塁の打席で池内豊から放った満塁本塁打を含む2本塁打6打点と活躍、翌18日の対阪神戦(明治神宮野球場)では13年ぶりの1試合3本塁打を記録した。8月8日に史上初のセ・パ両リーグで1000試合出場を達成。持病の不整脈が悪化し、同年7月以降は試合途中に4度退場するなどの異状が続いたこともあり、オフの11月8日に東京・新橋の球団事務所を訪れ、体力の限界を理由に現役引退を申し出、球団も了承した。引退試合は翌1984年3月24日の読売ジャイアンツとのオープン戦(明治神宮野球場)で行われた。大杉は5回一死一塁の代打で出場し、最終打席は三ゴロ併殺打に倒れる。試合終了後、引退セレモニーのあいさつで「最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません」という言葉を残した。また引退会見の席では「さりし夢 神宮の杜に かすみ草」という句を詠んでいる。 引退発表の日、背番号8がヤクルト初の欠番に内定。1984年から1989年までフジテレビ・ニッポン放送野球解説者を務めたほか、『そーっと歌ってみよう→わがまま気ままベストワン!!』(テレビ朝日)、『大杉・アッコのホームラン歌謡曲』(ニッポン放送)などテレビ・ラジオのバラエティ番組にレギュラー出演。1990年には横浜大洋ホエールズ一軍打撃コーチに就任したが、1991年に癌が判明し退団。 1992年4月30日、肝臓癌のため死去。47歳没。名球会会員最初の物故者となった。『プロ野球ニュース』でも訃報が伝えられ、大洋コーチ就任時にキャスターの中井美穂へ宛てたビデオメッセージがプレイバックされると、中井と大矢明彦(ヤクルト時代のチームメイトであった)がVTR明けに憚らず涙した。 1997年1月22日、野球殿堂入りした。 人物現役時代は道具を大切にし、特にバットにおいては毎日手入れを欠かさず、牛骨を使って木目を締め、体調に応じてバットの重さも変えていた。普段は850gの軽いバットだった。 グラウンド上ではケンカっ早く、乱闘では相手選手に殴りかかることがたびたびあった。例えば1978年の巨人戦で両軍入り乱れての乱闘の際には、当時の巨人監督である長嶋茂雄にも殴り掛かって一発加えている。大杉自身は乱闘の際に興奮しすぎて、長嶋に殴り掛かったことは覚えていないという。巨人の選手として立ち会っていた元同僚の張本勲が暴れる大杉を止めないといけないほどであった。 詳細情報年度別打撃成績
各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更 タイトル本塁打王:2回(1970年、1971年) 打点王:2回(1970年、1972年) 最多安打:1回(1971年)(当時連盟表彰無し) 表彰ベストナイン:5回(一塁手部門:1967年、1969年 - 1972年) ダイヤモンドグラブ賞:1回(1972年) 野球殿堂競技者表彰(1997年) 日本シリーズMVP:1回(1978年) オールスターゲームMVP:1回(1967年 第3戦) 記録初出場:1965年4月20日、対南海ホークス戦(後楽園球場)、延長10回裏に代打で出場 初打席:同上、皆川睦男から一ゴロ 初安打:1965年5月9日、対阪急ブレーブス5回戦に米田哲也から 初本塁打:1965年9月11日、対東京オリオンズ22回戦(東京スタジアム)、2回表に迫田七郎から 100本塁打:1969年9月23日、対南海ホークス17回戦(大阪スタヂアム)、2回表に皆川睦男からソロ ※史上54人目 150本塁打:1970年10月19日、対阪急ブレーブス26回戦(阪急西宮球場、ダブルヘッダー第2試合)、8回表に米田哲也から左翼へ3ラン 200本塁打:1972年5月13日、対ロッテオリオンズ8回戦(後楽園球場)、4回裏に木樽正明から左翼中段ソロ ※史上18人目 1000試合出場:1973年6月23日、対阪急ブレーブス前期11回戦(阪急西宮球場)に先発出場 ※史上66人目 250本塁打:1973年8月9日、対南海ホークス後期3回戦(大阪スタヂアム)、8回表に村上雅則から3ラン ※史上10人目 1000安打:1973年8月2日、対阪急ブレーブス後期3回戦(阪急西宮球場)、1回表に米田哲也から2ラン ※史上83人目 300本塁打:1975年10月11日、対広島東洋カープ25回戦(広島市民球場)、7回表に佐伯和司からソロ ※史上9人目 1000打点:1977年6月5日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場、ダブルヘッダー第1試合)、4回表に松本幸行から右翼線安打を放って2打点 ※史上11人目 350本塁打:1977年8月12日、対大洋ホエールズ17回戦(明治神宮野球場)、1回裏に間柴茂有から3ラン ※史上8人目 1500安打:1977年8月25日、対阪神タイガース21回戦(岡山県野球場)、1回表に谷村智啓から左前安打 ※史上33人目 400本塁打:1979年7月28日、対中日ドラゴンズ14回戦(明治神宮野球場)、1回裏に星野仙一から右越2ラン ※史上6人目 2000安打:1981年7月21日、対中日ドラゴンズ16回戦(浜松球場)、1回表に小松辰雄から左中間二塁打 ※史上14人目 2000試合出場:1981年7月31日、対横浜大洋ホエールズ15回戦(明治神宮野球場)に先発出場 ※史上16人目 450本塁打:1982年5月11日、対横浜大洋ホエールズ6回戦(横浜スタジアム)、6回裏に遠藤一彦から左翼席に逆転3ラン ※史上5人目 300二塁打:1982年8月19日、対中日ドラゴンズ16回戦(明治神宮野球場)、3回裏に中田宗男から三塁線を抜く二塁打 ※史上22人目 4000塁打:1983年8月4日、対広島東洋カープ17回戦(広島市民球場)、3回表に津田恒美から2ラン ※史上7人目 1500打点:1983年8月21日、対広島東洋カープ20回戦(明治神宮野球場)、1回裏に池谷公二郎から2ラン ※史上5人目 セ・パ両リーグ1000安打:1983年6月3日、対中日ドラゴンズ9回戦(明治神宮野球場)、4回裏に鈴木孝政から中前安打 ※史上初 セ・パ両リーグ1000試合出場:1983年8月8日、対読売ジャイアンツ15回戦(明治神宮野球場)に先発出場 ※史上初 背番号51(1965年 - 1972年、1974年) 3(1973年) 8(1975年 - 1983年) 88(1990年 - 1991年) 2024/06/13 05:19更新
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oosugi katsuo
大杉勝男と同じ誕生日3月5日生まれ、同じ岡山出身の人
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