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門田博光の情報 (かどたひろみつ)
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【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

門田博光の情報(かどたひろみつ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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門田 博光さんについて調べます

■名前・氏名
門田 博光
(読み:かどた ひろみつ)
■職業
野球選手
■門田博光の誕生日・生年月日
1948年2月26日 (年齢2023年没)
子年(ねずみ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
奈良出身

(昭和23年)1948年生まれの人の年齢早見表

門田博光と同じ1948年生まれの有名人・芸能人

門田博光と同じ2月26日生まれの有名人・芸能人

門田博光と同じ出身地奈良県生まれの有名人・芸能人


門田博光と関係のある人

広瀬叔功: 全盛期を過ぎてから南海へ入団した門田博光、藤原満は、天才としての広瀬を「選手としてはとにかく別格」(門田)、「とにかく半端じゃなかった。


黒田正宏: 初先発出場:1973年5月15日、対近鉄バファローズ3回戦(日生球場)、5番・右翼手として先発出場(偵察要員:門田博光と交代)


岩隈久志: 最優秀選手のBクラスチームからの選出は、1988年の門田博光以来。


阿部慎之助: 4月の月間16本塁打は王貞治の球団記録を更新し、1981年の門田博光(南海)、1994年の江藤智(広島)と並ぶ日本タイ記録だった。


坊西浩嗣: 初出場:1991年4月7日、対オリックス・ブルーウェーブ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、8回表に門田博光の代走として出場


山本和範: 門田博光の後を打つ五番打者のイメージが強いが、現役晩年の1994年には当時では珍しい攻撃的な二番打者として活躍。


石嶺和彦: このホークス移転の影響を受けて門田博光がブレーブスにトレードで移籍し、翌年から石嶺と指名打者で併用される事になった。


森山良二: 初奪三振:同上、9回表に門田博光から


片岡新之介: 他のチームメイトに門田博光、林田真人らがいる。


潮崎哲也: さらに7月5日の西宮での対オリックス戦では、同日2本塁打を放っていた門田博光を含むブルーサンダー打線を相手に新人としては1962年の尾崎行雄以来となる8連続奪三振を記録した。


野村克也: 2年目の1971年は、島本講平が入団して、打者に転向、ブレイザーが連れてきたサッド・ティロットソンも不安定で大誤算、勝率が5割を切って4位で終わり、門田博光が120打点で打点王を獲得。


杉本裕太郎: また、球団としては2008年のアレックス・カブレラ以来、日本人打者に限れば1989年の門田博光以来となる3割30本を達成した。


ドン=ブレイザー: 打線も好調で門田博光、ジム・タイロン、新井宏昌、藤原満が3割、門田が月間16本塁打を樹立し、初の本塁王も獲得したが、前期5位、後期6位(年間5位)と低迷した。


ブーマー=ウェルズ: 1989年9月25日の対福岡ダイエーホークス戦、3回裏にホームランを放った門田博光をホームで出迎えた際のハイタッチで門田の右腕が脱臼。


長池徳士: 門田博光がある日自分の打席で左投手が救援に出てくるとベンチに帰ってくる。


古田敦也: 39歳になるシーズンでの打率3割達成は史上3人目、捕手としては史上初であり、打率.306は岩本義行と門田博光に次いで年齢別歴代3位、148安打は岩本と並んで年齢別歴代1位だった。


岡田貴弘: 2010年以来、7年ぶりとなるシーズン30本塁打を達成したが、最初に30本塁打を打ってから2回目の30本塁打達成まで7年以上のブランクを要したのは、山﨑武司、門田博光以来、史上3人目のことであった。


原田賢治: 1988年、門田博光との交換で内田強・白井孝幸らと共に福岡ダイエーホークスに移籍。


江本孟紀: また野村は、江本と江夏、門田博光の三人を「南海時代の三悪人」と評しているが、この三悪人は「頭のいいヤンチャ坊主選手」という意味で、必ずしも悪い意味では使っていない(なお、鶴岡一人は監督時代に当時現役選手だった野村と広瀬叔功、杉浦忠を「南海の三悪人」と呼んでいた)。


香川伸行: 2009年12月30日に放送されたTBSのドキュメント「『壮絶人生ドキュメント 俺たちはプロ野球選手だった』」では、香川の現役時代のエピソードや、引退後の波乱万丈の人生と現状が関係者(牛島和彦、門田博光など)の証言や再現VTRを交えて紹介された。


江本孟紀: まず中百舌鳥球場で行われた秋季合宿の場で野村が選手に意見を求めた際に、江本と西岡、門田博光の3人が「『カゲ』の監督がいるせいで選手が気持ちよくプレーできない雰囲気になっている」という旨の発言をして現状の是正を求め、さらに11月には江本と西岡、藤原満の3人がチームを代表して、大阪市内のホテルで野村に「公私混同を止めて下さい」「選手が動揺しているから、野球に集中させて下さい」と直訴した。


安木祥二: 卒業後はクラレ岡山(門田博光と外山義明は、1年先輩)に進みリリーフで活躍。


大島康徳: 満塁本塁打は8本打っており、最年長満塁本塁打(43歳6か月)の記録を持っている(門田博光の42歳6か月を更新、1994年5月4日西武戦、8回表2点リードされている場面で代打で登場し新谷博から)。


樋口正蔵: 1970年には門田博光が入団し開幕から右翼手の定位置を譲るが、打撃は好調を維持し、シーズン中盤にはポジションを奪回、打率.325の好成績を残す。


島野育夫: 翌年に門田博光が台頭して外野手のレギュラーを外れた。


山本和範: その後、南海ホークス・福岡ダイエーホークスで門田博光、佐々木誠らと共に主力選手として活躍、類い稀な勝負強さを発揮した。


山本功児: 1969年度ドラフト会議にて同年のシーズンオフに監督に就任した野村克也から度々誘いを受け、地元の球団の南海ホークスから3位指名(1位は佐藤道郎、2位は門田博光)を受けるも拒否し、法政大学経営学部に進学。


外山義明: 高校同期には四番打者の門田博光がおり、卒業後は門田と共にクラレ岡山へ入社(当初は、東京六大学野球連盟の早稲田大学進学を希望していたが不合格となったため、入社。


金本知憲: 6月28日に1991年の門田博光以来21年ぶり史上7人目、大学出身の選手では初の通算2500安打を達成。


西岡三四郎: 同年秋、ついに我慢の限界に達した選手たちは、野村に対して芳枝の排除を要求するに至り、中百舌鳥球場で行われた秋季合宿の場で野村が選手に意見を求めた際に、西岡と門田博光、江本孟紀の3人が「"カゲ"の監督がいるせいで選手が気持ちよくプレーできない雰囲気になっている」という旨の発言をして現状の是正を求め、さらに11月には西岡、江本、藤原満の3人がチームを代表して、大阪市内のホテルで野村に「公私混同を止めて下さい」と直訴した。


門田博光の情報まとめ

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門田 博光(かどた ひろみつ)さんの誕生日は1948年2月26日です。奈良出身の野球選手のようです。

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兄弟、卒業、母親、引退、テレビ、趣味、ドラマ、家族、離婚、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2023年に亡くなられているようです。

門田博光のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

通算本塁打数、通算打点数、ともにNPB歴代3位。選手時代の晩年にも目覚ましい活躍をしたことから「不惑の大砲」の異名を持ち、「中年の星」とも呼ばれていた。また、力強い打撃力から「ポパイ」とも呼ばれていた。

山口県小野田市に5人兄弟の三男として生まれる。門田が幼い頃、父が貿易関係の仕事に失敗し、一家で奈良市に移り、つつましい家庭で育つ。五条中学から天理高校に進み野球部に入部。4番打者、中堅手として、同期のエース外山義明を擁し活躍。1964年・秋季近畿大会県予選では4校による決勝リーグに進むが、1勝2敗に終わる。翌1965年夏の甲子園県予選決勝に進出。白滝政孝投手のいた郡山高を2-0で破る。続く紀和大会決勝でも県和歌山商を3-1で降し甲子園に出場。1回戦で小山健二(日本コロムビア)を擁する丸子実に9回に逆転され1-3で敗退。なお高校時代の三年間で本塁打は一本も打てなかった。

卒業後は外山とともに社会人野球チームのクラレ岡山硬式野球部に進む。就職した倉敷レーヨン岡山工場では、靴の製作業務に携わり、月収は1万5千円だった。

1966年から都市対抗野球大会に4年連続出場。この時のチームメイトには片岡旭、田中武、林田真人らがいる。1968年の都市対抗に3番打者、右翼手として出場。1回戦で前年優勝の日本石油に大敗するが、相手エース三浦健二から2安打を放ち好打者として注目される。

同年のドラフトで阪急ブレーブスから12位指名を受けるが、10位以下の下位指名であったことと、クラレ岡山のチーム事情からこれを拒否。

1969年のドラフトで南海ホークスからの2位指名を受け、プロ入り。担当スカウトは柚木進で「かつてエースとして活躍された柚木さんのスカウト第1号で入団しました。大阪球場であった繊維会社だらけの大会で見てくれたようです。当時倉敷レーヨンに所属していて、その大会でホームランを打ったのですが、それより、そのあとの打席で代打を出されたとき、僕が何一つ不平不満を言わずに下がっていったらしいです。なんでホームラン打ったのに代えられるんだ、みたいなことを全くしなかった。そのシーンに好感を持ったからと言われました。」と述べている。

1970年は開幕から2番打者、右翼手として起用され53試合に先発出場、俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現す。

1971年にレギュラー定着。主に3番打者として打率.300(リーグ11位)、31本塁打、120打点を記録し打点王を獲得、初のベストナインに選出される。強肩でも知られ、同年は15補殺を果たす。また同年に打撃フォームを王貞治を参考にした一本足打法に改造した。

プロ入り2年目の1971年から、野村克也監督解任の年である1977年までの7年間で5回の打率3割を記録。1973年には打率.310(リーグ5位)、18本塁打の成績でリーグ優勝に貢献した。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、第3戦に堀内恒夫から本塁打を打ち、シリーズ通算17打数3安打。野村監督時代は主に3番を打ち、成績的には中距離打者としての性格が濃かったが、4番打者兼監督の野村からは「俺の前にランナーで出てくれさえすればいい。それがお前の仕事。ホームランなど狙わなくていい」とはっきり言われ、大振りすると怒られたという。

野村の監督解任によりその束縛から解放され、長距離打者としての道を歩み始める。4番打者として、それまで使うことを許されなかった重いバット(1000g)を使い始めた(後述)。最初の年(1978年)は夏になるとバテてしまい振り切れなくなり、打率.250、本塁打15本と低調な成績に終わったが、後には振り切れるようになった。

1976年、オールスターゲーム第2戦(後楽園球場)では1回に放った2点本塁打を含む5打数4安打2打点の成績でMVPに選出された。

1979年2月16日、キャンプ地の大方球場(高知県)で、準備運動でジャンプをして着地した際に右足のアキレス腱を断裂。疲労の蓄積、この日から履いた新しいスパイク、「固すぎる」と多くの選手や評論家が危惧していたグラウンド等、様々な要因がある中でのことだった。ほぼ1シーズンを棒に振るが、同年9月には代打で復帰。アキレス腱断裂は全治6か月で、当時としては通常なら現役復帰自体が困難であったが、その中での復帰であった。

1980年、背番号を母親が44歳で亡くなったのに因み「44」に変更。この年以降、「ホームランを打てば足に負担はかからない。これからは全打席ホームランを狙う」 と長打狙いのバッティングに徹し、同年6月25日の対日本ハムファイターズ戦(大阪スタヂアム)では1点を追う9回一死一・二塁の場面で新井宏昌に代えて桜井輝秀を送ると、日本ハムは木田勇から杉山知隆に投手交代。門田は代打の代打で出場し、杉山から代打逆転サヨナラ3点本塁打を放った。シーズンでは41本塁打の成績でカムバック賞を受賞。

1981年、7月には月間16本塁打のプロ野球新記録(当時)を記録している。16本目は同月31日の対西武戦(大阪スタヂアム)の3回無死満塁の打席で杉本正から放った満塁本塁打だった。また7月はオールスターゲームのある月であり、約1週間の公式戦中断がある中での記録だった。8月22日の対西武ライオンズ戦(上越市営球場)では松沼雅之からシーズン2本目となる満塁本塁打、同月27日の対ロッテオリオンズ戦(大阪スタヂアム)では3-3の同点で迎えた9回二死無走者の打席で倉持明からサヨナラ本塁打を放った。シーズンでは44本塁打で初の本塁打王を獲得。

1983年も40本塁打で本塁打王。同年5月24日の対日本ハム戦(後楽園球場)の5回一死満塁の打席で川原昭二から、同月27日の対西武戦(大阪スタヂアム)の4回一死満塁の打席で工藤公康からそれぞれ満塁本塁打、当時、投手だった愛甲猛(ロッテ)から2本の満塁本塁打を放ち、シーズン4本目の最多満塁本塁打のパ・リーグタイを記録した。オールスターゲーム第1戦(明治神宮野球場)では1回に松岡弘から、6回に西本聖からそれぞれ本塁打を放ち、2本塁打3打点の成績でMVPに選出された。

1985年、4月14日の対日本ハム戦(大阪スタヂアム)では7回に坂巻明から通算10本目となる満塁本塁打を放った。

1987年、8月26日の対西武戦(大阪スタヂアム)では工藤公康から左中間二塁打を放ち、史上24人目となる通算2000安打を達成した。9月1日の対ロッテ戦(大阪スタヂアム)では1点を追う9回無死一塁の打席で牛島和彦から逆転サヨナラ2点本塁打を放った。

1988年は40歳にして打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王の二冠を獲得し、さらにMVPに選出された。40代での40本塁打、同100打点、同OPS10割は史上初(40代での44本塁打、同125打点、同OPS1.062は歴代最高記録)であり、この年限りで消滅した南海での選手生活に花を添えた。40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録であり、40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった。その後も42歳で31本、44歳で7本と、それぞれ年齢別最多本塁打記録を作った。

1989年に南海ホークスはダイエーに買収され福岡ダイエーホークスとなり福岡に本拠地移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また平和台球場は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して、「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、内田強・原田賢治・白井孝幸の3選手とのトレードによりオリックス・ブレーブスに移籍。この結果、1968年の阪急のドラフト入団拒否から21年後にオリックスへの入団となった。契約更改で大台の1億円を突破。移籍後も変わらぬ活躍で、ブルーサンダー打線の中核を担った。しかし、9月25日の対ダイエー戦(西宮球場)で3回に31号本塁打を放った後、ブーマーとハイタッチした際に右肩を脱臼し、試合は1-9と大敗、オリックスのリーグ優勝を逃す遠因となった。OPSは2年連続で10割を超え、40代でOPS10割を達成したのは歴代で門田のみとなっている。だが本人はこのシーズンについて引退後に、「41歳での33本塁打の時も、自分からすれば打ち損ないばかり。カッコ悪いと思って、いつも下を向いてダイヤモンドを一周しとった」と悔しがっている。

1990年、9月9日の対西武戦(西宮球場)では2点を追う9回一死満塁の打席で鹿取義隆から逆転サヨナラ満塁本塁打(42歳6か月は当時の最年長満塁本塁打だったが、1994年5月4日に43歳6か月で記録した大島康徳に更新された)、翌10日の対西武戦(西宮球場)でも4-4の同点で迎えた9回一死無走者の打席で渡辺智男から2日連続及びシーズン30号本塁打となるサヨナラ本塁打を放った。42歳での30本塁打はMLBのテッド・ウィリアムズを抜いた記録でもある。

オリックスでは、「強いチームというのは、勝つ時も負ける時も淡白でさらっとしている」と感じたという。南海が低迷した一因として、いつでも全力で闘うため、手の抜きどころを知らず、シーズンの前半戦は善戦するも、後半戦は息切れしていたことを挙げている。これを「マラソンの25km地点で息切れするようなもの」と表現している。

1991年、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化や慕っていたオリックスの上田監督辞任、オリックスの神戸移転で奈良の自宅から通勤に2時間かかることなどから移籍を希望していたところ、オリックス側が門田の意思を尊重して自由契約とする形で古巣の福岡ダイエーホークスに復帰。年俸は800万円増の1億3000万円(推定)、背番号は「53」。入団会見では「全力投球でチームに貢献したい。故障さえしなければ30本塁打もクリアできる」と抱負を語った。同年4月9日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)では7回一死一・三塁の場面で代打で出場し、佐藤秀明から移籍後初本塁打を放った。オールスターゲーム第2戦(広島市民球場)では6回に代打で出場、桑田真澄から本塁打を放ち、43歳のオールスター最年長本塁打記録を更新し、優秀選手に選出された。8月8日の対日本ハム戦(平和台球場)では3-3の同点で迎えた延長10回二死無走者の打席で柴田保光からサヨナラ本塁打を放った。シーズンでは112試合に出場、18本塁打と目標の30本塁打を大きく下回った。オフの12月12日の契約更改では現状維持の年俸1億3000万円(推定)でサインした。

1992年夏、「朝起きても目の焦点が合わんで、2m前の字も読まれへん。胸も気持ち悪いし、体がフワフワ浮いとる感じがする。普通の食事もとれん。スポーツドリンクを飲むだけや」「5年前から(肝機能など)全ての数字が悪かった。もう23年もやって、スポーツする人間の老衰やな」と知人の記者に漏らすほど持病の糖尿病が悪化したことで、このシーズン限りで現役を引退した。引退試合は平和台球場での最終公式戦・対近鉄戦。「3番・指名打者」として先発出場し、1回裏、野茂英雄との対戦で、全て速球をフルスイングで空振りし三球三振だった。

引退後は朝日放送テレビ・朝日放送ラジオ野球解説者(1993年 - 2005年)、スポーツニッポン(1993年 - 1994年)→日刊スポーツ(1995年 - 1996年)評論家を務めた。2005年に小脳梗塞のため緊急入院している。

2006年1月10日には野球殿堂入り。殿堂入り表彰式は同年7月21日、神宮球場でのオールスターゲーム第1戦で行われた。そのお礼の挨拶で、「最高のものをいただきました。人生の“終着駅”に着いたかなという感じです」と発言。終了後、その場にいた名球会の会長である金田正一から「二度とそんなことは言うな!」と叱責され、「これからも後進のために頑張ると約束してくれ」と言われたという。

2009年に大阪ホークスドリームを設立し、総監督となる。2011年6月に田中実監督の解任に伴い新監督に就任したが、同年9月に契約満了に伴い退任した。

2014年には、日本新薬の臨時コーチを務めた。

晩年は兵庫県赤穂郡上郡町の会員制の別荘地にある自宅で単身隠居生活を送っていたが、糖尿病などの影響で体調を崩し、兵庫県相生市の病院で2日に1回の人工透析を受けるなど療養生活を続けていた。

しかし2023年1月23日、予定されていた通院治療に姿を見せず、翌1月24日に医師から相談を受け自宅を訪ねた警察官によって、死亡しているのが発見された。74歳没。

南海入団2年目のシーズン前に、当時ヘッドコーチを務めていたドン・ブレイザーの、「打率3割を打てる理想的な2番打者を育てたい」との希望により、ブレイザーが投手役になって1週間ぶっ続けでバントの練習をさせられた。しかし、野球を始めてからバントの練習などしたこともなかった門田は、一向に上手く出来るようにはならず、ついにブレイザーは「オー、ノー、ギブアップ」と降参した。1番は広瀬叔功、2番は失格で、「あいつはヒットならよく打つ。それなら俺(4番)の前を打たせておけ」(野村)ということで3番を打つことになったという。

1971年に31本塁打、120打点で打点王になった頃から一発狙いの強振が目立ち始め、見かねた野村克也監督が、王貞治に協力を頼んで「ヒット打ちに行くのが基本。その延長がホームランなんだ」と2人で説得を図ったとのエピソードが残されている。大阪スタヂアムのオープン戦でのことであったが「そんなはずはありません。監督も王さんもホームラン狙いで大振りになっている」と自説を撤回しないばかりか、反論までしてきた門田に2人とも唖然としたという。また、挙句の果てに門田は「監督はずるい。王さんと口裏を合わせている」と野村に言い放ち、王は「大変な新人が入ってきたね」と呆れ、野村から「もう二度と教えてやらん!」と怒鳴られたという。門田はあくまで長打にこだわった打撃を押し通し、「ホームランの当たり損ねがヒット」「ホームラン狙いをやめれば4割打てる」とも語っている。オールスター戦では、当時、東映フライヤーズの大杉勝男が説得役に担ぎ出されたという。

当時の南海には門田の手本になるような左打者がおらず、そのことで悩んでいたが、ある日、凡退した後、ベンチの隅にある鏡の前の水道で手を洗ってふと鏡を見ると、次打者の野村克也が反転して左打者として映っていた。それ以来、門田は手を洗う格好をして「鏡の中の左打者」である野村の打撃フォームを熱心に観察・研究した。野村に話すと「参考になったやろ」と威張られるに決まっているからという理由で、門田は絶対にそのことは野村には言わなかったという。

フルスイングへのこだわりについて、門田は次のように語っている。「ろくでもない解説者が、『あんなに強く振らなくても、軽く打てばホームランになるんですけど』と言うやろ。大間違いや。軽く振って本塁打にするにはどれだけ時間がかかるか知らん奴が言うこと。たしかに思い切って振ってる内は30本は超えん。でも、それが軽く振ってるように見えるのは、何万スイング、何十万スイングしているから、そう見えるわけよ。そこを超越せんと軽く打ってるようには見えんのよ」「ワシは朝のコケコッコから、とにかく時間を忘れてバットを振った。普通の奴は出来んから、俺は『変わり者』と言われるんやろな。そこまでやらな、こんな小さな体で500本も打てんじゃろ」。

2006年に野球殿堂入りした際のインタビューでも、「(上体を)ネジってネジってバチン! というスイングをする選手が最近は少ない。アウトコースを軽くミートして逆方向に打つホームランではロマンがない」と持論を展開している。

その頃のプロ野球の主力選手には珍しく大きな数字の背番号をつけており、しかも次第に大きくなっていった。1980年から使用した44番はハンク・アーロンなどメジャーリーグの強打者に多いことや、44歳で亡くなった母親の供養の意味で44本の本塁打を目標とする意図からつけられた。1981年に実際に44本塁打を放って本塁打王を獲得すると、次は60本に目標を切り替えて背番号を60とした。1986年にはこの年入団したデビッド・ホステトラーが「61」、ダニー・グッドウィンが「62」を背負ったことで長距離砲の「60番トリオ」と命名されたが、グッドウィンが1年で解雇、デビッドは翌年から背番号が「9」に変更されたためこの年限りとなった。さらにオリックスへ移籍した際は78を付けてさらに番号がコーチ並みに大きくなった。最後の球団となった福岡ダイエーでは53とやや若返っている。

本塁打王と打点王を獲得した1988年に、日本テレビ系列で放映された「追跡」の特集では、インタビュアーであった作家の安部譲二に同年本塁打王を獲得できたことに関して、「ここ7、8年、どこの球場でも場外を打つことがホームランという気力でやれたこと」と語っていた。翌1989年に33本塁打を打った際も、本人曰く「ほとんどが打ち損ない」で満足いく打球が少なかったものの、それまでに「場外」を意識してきた積み重ねの結果が、打球が飛ばなくなってもフェンスを超えられた結果であるという。

バットに関しては「速い球を重たいバットで打てるなら、遅い球でも対応できる」という考えを持っていた。実際に門田が使用していたバットは長さ34インチ半、重さ1000gの特大バットであった。

2019年シーズンのNPBにおいて、ミズノ統一球を使っている場合では考えられない打球の飛び方がしていると囁かれる中で、メジャーで流行となっている"フライボール革命"の影響や、フェイスガード着用によって打者が内角攻めを怖がらなくなったという声に関心をあまり示さず、投手の失投が多くなったこと、つまり投手のレベル低下を指摘した。門田は「極論を言えば、シーズンを通して真ん中周辺のストレート系だけを狙える勇気があれば、プロでもそれ相当の数字は残る」と、如何に打者に失投を狙うことが重視されるかをその話の流れで語っている。どの時代にも打者心理を優位にする球場があることは否定しないながらも、自分は常に場外を狙っていたため、加齢で衰えても柵越えの本塁打を量産することが出来たのであって、球場の小ささや狭さに合わせたバッティングを行うと長期的には力が落ちていくと主張している。

村田兆治は門田に生涯14本の本塁打を打たれているが、門田について次のように語っている。「あれは昭和48年(1973年)だったか、マサカリが完成してすぐだった。絶対に打たれるはずのないひざ元へのスライダーを門田さんに打たれた。失投ではなくて、完璧な球を本塁打にする打者。投げていて緊張感があった。あれから、門田さんにスライダーを投げたことはない。それぐらい悔しかった。」

門田が「永遠のライバル」と称している山田久志は門田に28本塁打を打たれている。山田は門田について、「本物のプロのバッターだった。真っすぐを狙っているところに、真っすぐを投げた。駆け引きが一切ない。インハイとアウトローに全て直球を投じた。いい勝負が出来た」と証言している。

東尾修は、危ない球をスレスレに投げて、その反対球で打者をかわしていく投手(ケンカ投法)であったが、ある試合の第1打席で、その危ない球が門田に当たった。その報復に門田は第3打席にピッチャー返しを東尾の太ももに直撃させた。東尾がしばらく起き上がれなかったために試合が中断し、この際に門田はマウンドまで出向き「これは1打席目に自分に当てたお返し」であることを告げ、自分に危険な投球をしないよう警告した。東尾はこれを了承して以降、そのような投球をしてこなくなったという。現役時代の門田が最も多く対戦した投手が東尾であった(336打席)。

門田がターゲットを定めて燃えたのが新人との対決であった。

1989年秋のドラフトで、野茂英雄が近鉄バファローズに入団することが決まった時には、「野茂からの第1号は俺が打つ」と決め、翌シーズンへ向け、ゴルフ場で走り込むなど準備を進め、1990年4月18日の日生球場での近鉄-オリックス1回戦で、その目標を実現させている。野茂の初登板は4月10日の西武戦であったが、門田は「(西武の打者の)誰も打つなよ」と念じ続け、願い通じ被本塁打0のまま迎えた18日も、4番に座る門田は「松永、福良、ブーマー、ホームラン打つなよ‥絶対打つなよ‥」と念じていたという。

小宮山悟に対しては、「『大学もプロも変わらない』みたいなコメントを読んだ瞬間、じゃあプロの打球を見せましょう。で、ピッチャーライナーを一発見舞ったんや」と述べている。

アキレス腱断裂後は指名打者としての起用がほとんどになった門田であるが、すでにアキレス腱断裂の前年(1978年)も、指名打者としての出場が最多であった。もっとも、右翼手としての守備をそれなりに評価する向きもある。例えば、1970年代前半の中堅手だった広瀬叔功は、自身の著書で、「(他の外野手からはフライが飛ぶとすぐに『広瀬さん!』と声が掛かったが)彼(門田)は守備範囲も決して狭くなく、右中間寄りのフライもさばき、大声で叫ぶ声を聞いた記憶はほとんどない」「グラブを柔らかく使いこなした捕球も上手かったが、肩が強くてしばしばホームで相手走者を刺した」「打撃と違ってしゃにむに速い球を返すのではなく、無駄な動きを抑えて素早く正確にワンバウンドの送球をしていた」と証言している。シーズン2桁補殺も5度(1971年-1973年、1975年、1977年)記録した。

アキレス腱断裂からの復帰後は、大半が指名打者での出場となったが、南海時代末期の1987年には加藤英司が指名打者に入ったり、オリックス時代には石嶺和彦が指名打者に入ったため、門田が守備に就くこともあり、その際は左翼手としての出場が大半であった。

1988年の球宴では指名打者部門が設置されておらず、秋山幸二・平野謙と共にパ・リーグ外野手部門でファン投票選出され、ナゴヤ球場での第2戦に3番・右翼手で先発出場。立浪和義がパ・リーグの先発投手、阿波野秀幸から打った打球を捕球、ライトフライに仕留めている。

南海時代は野村克也監督とソリが合わなかった。門田はフルスイングを持ち味としているが、野村からは「大振りをやめろ」と再三注意された。門田はそれを聞くことなく、自分のスタイルを貫いて2年目からレギュラーを掴んだ。

野村が門田の契約更改の交渉の場に入ってきて、「まだまだ働きが足らん。大きなこと言える立場じゃないよ」などと、門田の年俸アップの足を引っ張ったこともある。生一本な門田の気性を見通したプレイングマネージャーの選手操縦法という見方もできるが、門田はそう取らなかった。衝突が決定的になったのは野村の愛人問題であり、「グラウンドにヨメハン連が出てくることはない。野村さんにはとてもついていけない」と咬みついた。1975年の終盤から少しの感情のズレからエスカレートし、野村が「任意引退させる」、門田が「あんな監督の下ではやれん」と言い争いになったが和解にしている。野村が解任された1977年には、当時の野村の愛人だった伊東芳枝から電話で、「あんたが野村の言うことを聞かないと起用しない」と言われたという。秋季練習の後、中百舌鳥の合宿で野村に、「君達の思っていることを俺に話してほしい」と言われ、手を挙げたのが門田と江本孟紀、それに西岡三四郎であった。そこで言葉の行き違いがあり、「もう練習に来なくてもいい」と言われたので、「はい、分かりました」と言って練習に参加しなくなり、「門田、野村監督と対立」などとスポーツ紙に書かれて騒がれたという。ただし、門田本人は自著で「そんなに大げさなものではなかった」と述べている。

野村は自著で、南海監督時代に手こずった門田、江本、江夏豊の3人を「南海の三悪人」と呼び、「選手として一流になれても、指導者にはなれない」と語っている。野村が解説者時代の「週刊朝日」の連載 でも「最後の野球バカ門田博光」と題し、「何かを言えばそれと反対のことをする男である」と評している。

しかし一方で、野村は門田の実力を大いに認めている。先述の通り、門田を見い出して3番打者に抜擢したのは野村であり、「ものすごい頑張り屋」とも評している。2年目に打点王を獲った際には、私費で門田に100万円の時計をプレゼントし、自分の後釜、次の4番打者として期待していた。門田も従うべきところでは従っていたといわれ、また「『二塁の桜井とライトの門田は10年間不動のままでいける』と野村に言ってもらい、信頼が厚くて助かった」とも述べている。

野村が3000試合出場の記念の記録を立てた試合(1980年8月1日 西武-南海戦)で、門田は「こういう時に野村さんに恩返しをしたい」と言ってきたという。何をしてくれるのかと思っていたら、キャッチャーマスクをかぶった西武の野村の目の前で特大のホームランを2打席連続で放った。その後、3打席目に立った門田に「もう分かったから、ええ加減にしとけや」とボヤくと、「二塁打ですませてくれた」のだという。

南海の後継球団である福岡ソフトバンクホークスでは、2013年に(南海時代からの通算で)ホークス創設75周年を記念したプロジェクト「LEGEND HAWKS」を展開。8月31日の対楽天戦(福岡 ヤフオク!ドーム)の試合前に開かれた記念セレモニーには、野村と共に南海時代の復刻ユニフォーム姿で登場した。始球式では、球団会長の立場で「見届け人」として参加した王貞治に見守られながら、同ドームの左打席(野村は右打席)に立った。

2020年に、野村の訃報を自身が通院していた兵庫県内の病院から流れたテレビ速報で知った。訃報に際してインタビューを受けた門田曰く、最後に会ったのはこの前年(2019年)東京で行われた会合の席であった。既に車椅子姿であった野村は「とことん打撃を追究する門田ほどの野球バカは、もう二度と出てこんやろうなあ」と親しみを込めて認めてくれたという。

入団1年目(1970年)に、二塁走者として出塁し、帰塁の際に右肩を脱臼して以来、持病として脱臼癖を持っていたが、「週刊ベースボール」2023年2月27日号での佐藤道郎の追悼コラムでは、1973年の優勝旅行でハワイへ行った際、サーフィンで転んで海に落ちたことが直接の原因で、以来、肩の周囲の筋肉を固めるため、本格的なウェイトトレーニングを始めたという。

1984年4月14日の日本ハム戦で本塁打を打った際のハイタッチで右肩を再び脱臼しており、それ以降、南海では門田との強いタッチは禁止されていた。

オリックス移籍1年目の1989年9月25日、古巣の対ダイエー戦でも、3回裏に本塁打を打ち、本塁で出迎えたブーマーからのハイタッチに応じた際に、また右腕を脱臼。この時は登録抹消までには至らなかったが、シーズン終盤での貴重な約1週間を棒に振った(同日のスポーツニッポンの取材に対し、「何度もやっているから自分でどうすればいいか分かっている」としながらも落ち込み、また、ブーマーもひどく落ち込んでいたという)。この年は近鉄、西武、オリックスが最後まで競り合った末、近鉄が優勝したが、門田が登録抹消されてから残り15試合はオリックスにとってダメージとなり、オリックスとしての初優勝は1995年まで持ち越しとなった。

1990年の西武戦で打席に立った際、投球を捕手の大宮龍男が落球し、一塁ランナーが進塁を試みるという場面があった。ここで門田は、自らの足元にボールが転がっているのを確認していたにも関わらず、まだ必死でボールを探している大宮に向かって、全く別の方向を指差して撹乱するという珍プレーを披露している。大宮は一瞬だがまんまと騙され、結局、ランナーの進塁を許してしまい、門田を小突いている。

南海時代の1980年オフ、門田とこのシーズン不振だった掛布雅之(阪神タイガース)のトレードが、スポーツニッポンで報じられた。球団事務所に抗議が殺到したため、話は流れてしまったが、「トレードの話自体は本当にあった」と門田本人が後年、明かしている。また、1979年オフには、シーズン終盤の成績から翌年の復活を見越した読売ジャイアンツとのトレード話もあったが、獲得を進言していた長嶋茂雄監督が辞任したことにより、破談となっている。穴吹義雄監督も門田と山本和行のトレードを阪神に打診したが、安藤統男監督が断ったので話が流れている。

現役引退後は野球解説や評論の仕事はしているが、NPBで監督、コーチ等、現場に関わる仕事は一切しなかった。現役末期から罹患していた糖尿病の影響により体調が不安視されたことも要因としている。

ダイエー時代に中内功オーナーからコーチ就任要請を受けたが、実現せず、2005年にオリックス・バファローズの仰木彬監督からも就任要請を受けたが断った。

プロ野球での指導者の経験はないが、社会人チームや独立リーグでの指導者の経験はある。

門田は、南海ホークスの大阪球場最終戦となった1988年10月15日対近鉄戦では、試合後のセレモニーで号泣している。その後、大阪球場は野球以外の様々な用途で使用されることになり、住宅展示場となった際には「悲しさを通り越して涙も出なかった」と振り返っている。

野球のみならず実生活でも左利きであるが、ペンは右手で持つ。ただし油絵は左手で描く。

引退後は広島市のお好み村に、広島風お好み焼き店を出店していたことがある。

趣味は陶芸、油絵、写経など。陶芸は、陶器作りの過程に何か野球に通ずるものがあるのではないかと思い、それを追究しようとの気持ちの延長で始めたものだという。しかし、あくまで野球でプレーをする際の集中力や感覚の向上を目的としていたため、引退後にはそれらの趣味はすべてやめてしまったという。

かつての同僚である高柳秀樹や加藤秀司、定岡智秋などによれば、現役時代の自主トレで台湾を訪れた際に、現地の水道水は不衛生で飲めないので、水代わりにビールを飲まざるをえなかったことから、これ以降、朝から水代わりにビールを飲む習慣がついたのではないかと証言しており、現役末期以降の糖尿病や高血圧などによる体調不良につながったとの見解もある。現役引退後に糖尿病による足の壊疽が進行したことから、足の一部の指の切除手術を受けており、取材の際には手術を受けた片足に頑丈そうな厚底ブーツを履いていたという。

現役引退後の1993年1月26日放送のテレビドラマ「ホテルドクター」(ABC制作、テレビ朝日系)の第3話にラーメン屋台の主人役でゲスト出演した。また、ABCのラジオ番組を持っていた時、「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造のモノマネを披露し、コーナーのタイトルを読み上げていた。持ちネタとして他に、山下清のモノマネも披露していた。

2007年8月24日・31日の「小兵」をテーマとした「ナンだ!?」(テレビ朝日)に舞の海秀平(相撲)、志村雄彦(バスケットボール)と共に出演。「高校時代の3年間で1本も本塁打を打てなかった」などのエピソードを明かした。

夫人との間に一男一女。アキレス腱断裂後に病院から退院し自宅に戻った際に、長男(当時小学一年生)から職業を訊かれたことがきっかけで、「今度、オールスターゲームに出たら、球場に来るか」と口にする。復帰した1980年に、門田はそれを子どもとの約束と考えてプレーに励み、パ・リーグの西本幸雄監督の推薦で出場を実現させた。西宮球場の第1戦に家族を招き、その前で本塁打を放った。

ホークスの福岡移転で門田が関西の他球団への移籍を申し出たことについて、門田を知る球団・球界関係者の多くは「子煩悩なカドさんなら仕方ないか」と納得していた部分もあった。その後、娘の高校進学のタイミングで単身赴任が可能となり福岡ダイエーホークスに移籍した。なお、夫人とは引退後に離婚したとされ、晩年は長男・長女とも離れて単身で隠居生活を送っていた。

各年度の太字はリーグ最高

南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

本塁打王:3回(1981年、1983年、1988年)※パ・リーグ左打者最多タイ(他にタフィ・ローズ、ラルフ・ブライアント)

打点王:2回(1971年、1988年) ※17年のブランク受賞は同賞史上最長

最高出塁率:3回(1981年、1987年、1988年)

最優秀選手:1回(1988年)※40歳シーズンでの受賞は史上最年長

ベストナイン:7回(外野手部門:1971年、1976年、1977年、指名打者部門:1981年、1983年、1988年、1989年)

野球殿堂競技者表彰(2006年)

正力松太郎賞:1回(1988年)※選手として表彰、指名打者の受賞は史上唯一

カムバック賞(1980年)

月間MVP:3回(1981年7月、1988年5月、1989年5月)

オールスターゲームMVP:2回(1976年 第2戦、1983年 第1戦)

日本プロスポーツ大賞 殊勲賞:1回(1988年)

報知プロスポーツ大賞:1回(1988年)

サンスポMVP大賞:1回(1988年)

初出場・初先発出場:1970年4月12日、対ロッテオリオンズ1回戦(東京スタジアム)、2番・右翼手として先発出場

初安打:同上、4回表に木樽正明から

初打点:1970年4月26日、対東映フライヤーズ2回戦(後楽園球場)、4回表に代打で宮崎昭二から左前適時打

初本塁打:1970年5月13日、対東映フライヤーズ4回戦(大阪スタヂアム)、2回裏に高橋直樹から

100本塁打:1975年5月11日、対阪急ブレーブス前期6回戦(大阪スタヂアム)、9回裏に竹村一義から2ラン ※史上82人目

150本塁打:1977年5月29日、対日本ハムファイターズ前期12回戦(青森市営野球場)、4回表に野村収から2ラン ※史上48人目

1000安打:1977年8月13日、対阪急ブレーブス後期6回戦(大阪スタヂアム)、4回裏に佐藤義則から投手強襲遊撃内野安打 ※史上103人目

1000試合出場:1978年5月11日、対クラウンライターライオンズ前期9回戦(平和台球場)、3番・右翼手として先発出場 ※史上200人目

200本塁打:1980年6月27日、対西武ライオンズ前期11回戦(西武ライオンズ球場)、4回表に松沼博久からソロ ※史上34人目

250本塁打:1981年8月1日、対西武ライオンズ後期5回戦(大阪スタヂアム)、6回裏に柴田保光から2ラン ※史上19人目

1500安打:1983年5月17日、対近鉄バファローズ7回戦(大阪スタヂアム)、4回裏に鈴木啓示から同点ソロ ※史上47人目

300本塁打:1983年6月22日、対阪急ブレーブス10回戦(阪急西宮球場)、3回表に山沖之彦から2ラン ※史上15人目

1500試合出場:1983年7月12日、対ロッテオリオンズ14回戦(川崎球場)、4番・指名打者として先発出場 ※史上75人目

1000打点:1984年4月6日、対阪急ブレーブス1回戦(大阪スタヂアム)、9回裏に佐藤義則から右前適時打 ※史上17人目

350本塁打:1984年8月26日、対日本ハムファイターズ24回戦(平和台球場)、2回表に高橋里志から左中間へ2ラン ※史上12人目

3000塁打:1986年6月13日、対日本ハムファイターズ11回戦(大阪スタヂアム)、6回裏に木田勇から中前安打 ※史上25人目

1000三振:1986年8月19日、対日本ハムファイターズ19回戦(大阪スタヂアム)、8回裏に田中幸雄から ※史上12人目

400本塁打:1986年10月2日、対近鉄バファローズ25回戦(藤井寺球場)、5回表に小野和義から右中間へ2ラン ※史上10人目

3500塁打:1987年4月25日、対近鉄バファローズ2回戦(大阪スタヂアム)、4回裏に阿波野秀幸から左中間へソロ ※史上15人目

300二塁打:1987年5月2日、対ロッテオリオンズ4回戦(川崎球場)、6回表に佐藤政夫から左中間二塁打 ※史上27人目

1000得点:1987年6月16日 対日本ハムファイターズ9回戦(群馬県立敷島公園野球場)、7回表に加藤英司の3点本塁打で生還 ※史上21人目

2000安打:1987年8月26日、対西武ライオンズ18回戦(大阪スタヂアム)、3回裏に工藤公康から左中間二塁打 ※史上24人目

2000試合出場:1987年9月8日、対西武ライオンズ20回戦(西武ライオンズ球場)、4番・指名打者として先発出場 ※史上24人目

450本塁打:1988年6月12日、対近鉄バファローズ9回戦(新潟市営鳥屋野球場)、2回裏に加藤哲郎から中越2ラン ※史上9人目

4000塁打:1989年4月26日、対ロッテオリオンズ5回戦(阪急西宮球場)、7回裏に関清和から左越ソロ ※史上10人目

500本塁打:1989年8月15日、対近鉄バファローズ15回戦(藤井寺球場)、3回表に小野和義から右中間へソロ ※史上6人目

1500打点:1990年4月10日、対福岡ダイエーホークス1回戦(グリーンスタジアム神戸)、1回裏に山内孝徳から右中間へ逆転2ラン ※史上6人目

350二塁打:1990年6月10日、対西武ライオンズ8回戦(西武ライオンズ球場)、7回表に黒原祐二から右中間二塁打 ※史上18人目

4500塁打:1991年5月28日、対西武ライオンズ6回戦(北九州市民球場)、3回裏に渡辺智男から一塁強襲内野安打 ※史上4人目

550本塁打:1991年6月7日、対日本ハムファイターズ9回戦(平和台球場)、1回裏に角盈男から右中間へ先制2ラン ※史上3人目

2500安打:1991年8月7日、対日本ハムファイターズ19回戦(平和台球場)、5回裏に角盈男から中前へ逆転決勝2点適時打 ※史上6人目

2500試合出場:1991年9月23日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(平和台球場)、4番・指名打者として先発出場 ※史上5人目

1500三振:1992年5月28日、対西武ライオンズ8回戦(平和台球場)、4回裏に渡辺智男から ※史上2人目

月間本塁打16本:1981年7月 ※パ・リーグ記録

シーズン満塁本塁打:4本(1983年) ※パ・リーグタイ記録

5試合連続本塁打:2回(1981年7月1日 - 7日、1981年7月9日 - 12日)

2試合連続サヨナラ本塁打 ※史上6人目(パ・リーグ史上初)

    1990年9月9日、対西武ライオンズ24回戦(阪急西宮球場)、9回裏に鹿取義隆からバックスクリーン右に逆転サヨナラ満塁本塁打

    1990年9月10日、対西武ライオンズ25回戦(阪急西宮球場)、9回裏に渡辺智男から左越サヨナラソロ

    1試合5四球:1988年5月27日、対阪急ブレーブス9回戦(阪急西宮球場) ※パ・リーグタイ記録

    1試合10守備機会・1試合10刺殺:1973年6月10日、対日拓ホームフライヤーズ前期10回戦(後楽園球場) ※共に外野手としてのパ・リーグタイ記録

    同一球場で1000安打(大阪スタヂアム)

    オールスターゲーム出場:14回(1972年、1975年 - 1977年、1980年 - 1984年、1987年 - 1991年)

    最多安打無しで通算2566安打 ※歴代最多

    リーグ最多塁打なしで通算4688塁打 ※歴代最多

    27(1970年 - 1979年)

    44(1980年 - 1982年)

    60(1983年 - 1988年)

    78(1989年 - 1990年)

    53(1991年 - 1992年)

    ETV特集「ある野球人の死 “不惑”の大砲 門田博光」(2024年6月15日、NHK Eテレ)

    『不惑の挑戦:南海ホークス最後のモンスター』海越出版社、1988年。ISBN 4906203639。 

    『我が輩はバットである:私小説・プロ野球人門田の軌跡』海越出版社、1993年。ISBN 487697148X。 

    『門田博光の本塁打一閃―ホームランに魅せられた男』ベースボール・マガジン社、2006年。ISBN 458303928X。 

    ABCフレッシュアップベースボール - 出演していたABCラジオのプロ野球中継の現行タイトル。

    スーパーベースボール - 出演していたABCテレビのプロ野球中継現行統一タイトル。

    ^ このドラフトで阪急に入団した選手には、ライバルとなる山田久志のほか、後に南海で同僚となる加藤秀司、同学年の福本豊がいる。

    ^ アキレス腱断裂の際、チームに担架が用意されておらず、門田は戸板に乗せられて搬送された。

    ^ トニー・ソレイタ(日本ハム)と同数。

    ^ それぞれ、7月14日(川崎球場、4回二死満塁)と9月11日(秋田市八橋野球場、7回無死満塁)に満塁本塁打を放っている。

    ^ 日本人左打者のパ・リーグ記録で、金本知憲(2005年)と並ぶ日本人左打者3位タイ

    ^ 一時は近鉄への移籍に決まりかけたが、トレード要員を巡り、交渉は決裂した。

    ^ なお、試合は広永益隆のソロ本塁打で挙げた最少得点を若田部健一・吉永幸一郎のバッテリーが守り抜き完封している。

    ^ 自分と逆ポジションの選手の鏡像を参考にしたエピソードは永射保にもある。

    ^ これは張本勲、衣笠祥雄なども同様である(ただし張本は1993年の春季キャンプで巨人の臨時打撃コーチを務めた経験はある)。

    ^ “門田博光さんが急死 74歳 プロ野球歴代3位の通算567本塁打”. SANSPO.COM(サンスポ). 産経デジタル (2023年1月24日). 2023年1月24日閲覧。

    ^ “門田博光さんが死去”. KYODO. 共同通信 (2023年1月24日). 2023年1月24日閲覧。

    ^ “門田博光氏が死去 74歳 40歳で本塁打、打点の2冠 「中年の星」”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2023年1月24日). https://www.daily.co.jp/baseball/2023/01/24/0015991325.shtml 2023年1月24日閲覧。 

    ^ 「傷だらけの野アザミ 打席に咲けない南海の主砲 門田博光」『サンデー毎日』、毎日新聞社、1979年5月27日号、158-161頁。 

    ^ “門田博光さんの知られざる社会人時代「靴を作る仕事をしていました」 同級生プロOBが追悼”. 東スポ. (2023年1月24日). https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/251959 2023年12月10日閲覧。 

    ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年

    ^ 『本塁打一閃』, pp.69-70

    ^ “激白 門田博光「関西パ・リーグ漢塾」”. FRIDAYデジタル (2018年8月12日). 2021年6月23日閲覧。

    ^ ホークス75年史―南海、ダイエー、ソフトバンクー継承される栄光の歴史、ベースボール・マガジン社、2013年、ホームランに惚れぬいて、門田博光、68頁

    ^ 「パ・リーグも全日程終了 首位打者江藤、初の両リーグ獲得 本塁打王・大杉 打点の門田も逃げ切る」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1971年(昭和46年)10月10日付朝刊、11面。

    ^ 門田博光「門田博光の本塁打一閃」ベースボールマガジン社 2006年

    ^ 「王さまさま!! 門田博、もらったバットで4安打も」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1976年(昭和51年)7月19日付朝刊、17面。

    ^ 「第2戦の表彰選手」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1976年(昭和51年)7月19日付朝刊、17面。

    ^ 「南海 主砲・門田けが アキレスケン切る 全治二ヵ月、前期絶望」『北海道新聞』(縮刷版) 1979年(昭和54年)2月17日付朝刊、12面(スポーツ面)。

    ^ 週刊ベースボール 2024年2月26日号「球界の記念日にタイムスリップ あの日、あのとき、あの場所で」63頁

    ^ 野村克也「私が見た最高の選手、最低の選手」東邦出版 2013年

    ^ 「門田、代打サヨナラ3ラン」『毎日新聞』(縮刷・関東版) 1980年(昭和55年)6月26日付朝刊、19面(スポーツ面)。

    ^ 「門田カムバック賞」『北海道新聞』(縮刷版) 1980年(昭和55年)11月22日付朝刊、14面(スポーツ面)。

    ^ 「門田が月間本塁打新 16本、堂々と満塁で飾る」『北海道新聞』(縮刷版) 1981年(昭和56年)8月1日付朝刊、13面(スポーツ面)。

    ^ 「田淵、場外2ラン 西武逃げ込む」『北海道新聞』(縮刷版) 1981年(昭和56年)8月23日付朝刊、15面(スポーツ面)。

    ^ 「単独トップ逃がす ロッテ 門田にサヨナラ食う」『北海道新聞』(縮刷版) 1981年(昭和56年)8月28日付朝刊、15面(スポーツ面)。

    ^ 「パ・リーグ 全日程終了 7日から"日・ロ決戦"」『北海道新聞』(縮刷版) 1981年(昭和56年)10月5日付朝刊、15面(スポーツ面)。

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    ^ 「満塁ホーマーの応酬」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)5月25日付朝刊、15面(スポーツ面)。

    ^ 「レオに強い南海 門田、とどめの満塁アーチ」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)5月28日付朝刊、15面(スポーツ面)。

    ^ 「門田が満塁アーチ 今季3本目」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)7月15日付朝刊、13面(スポーツ面)。

    ^ 「主砲、満塁アーチ応酬 門田はパ新の今季4本目」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)9月12日付朝刊、15面(スポーツ面)。

    ^ 「アーチ合戦 全パが制す 門田2発でMVP ミスター赤ヘルも負けじ」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)7月24日付朝刊、16面(スポーツ面)。

    ^ 「第1戦の表彰選手」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)7月24日付朝刊、16面(スポーツ面)。

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    奈良県出身の人物一覧

    福岡ソフトバンクホークスの選手一覧

    オリックス・バファローズの選手一覧

    個人年度別成績 門田博光 - NPB.jp 日本野球機構

    選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

    60 ヴィクトル・スタルヒン

    62 池田豊

    63 中島治康

    64 若林忠志

    65 川上哲治、鶴岡一人

    69 苅田久徳

    70 天知俊一、二出川延明

    72 石本秀一

    74 藤本定義、藤村富美男

    76 中上英雄

    77 水原茂、西沢道夫

    78 松木謙治郎、浜崎真二

    79 別所毅彦

    80 大下弘、小鶴誠

    81 飯田徳治、岩本義行

    83 三原脩

    85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳

    88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一

    89 島秀之助、野村克也、野口二郎

    90 真田重蔵、張本勲

    91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎

    92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男

    93 稲尾和久、村山実

    94 王貞治、与那嶺要

    95 杉浦忠、石井藤吉郎

    96 藤田元司、衣笠祥雄

    97 大杉勝男

    99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄

    00 米田哲也

    01 根本陸夫、小山正明

    02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎

    03 上田利治、関根潤三

    04 仰木彬

    05 村田兆治、森祇晶

    06 門田博光、高木守道、山田久志

    07 梶本隆夫

    08 山本浩二、堀内恒夫

    09 若松勉

    10 東尾修

    11 落合博満

    12 北別府学、津田恒実

    13 大野豊

    14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩

    15 古田敦也

    16 斎藤雅樹、工藤公康

    17 伊東勤

    18 松井秀喜、金本知憲

    19 立浪和義

    22 髙津臣吾、山本昌

    23 アレックス・ラミレス

    24 谷繁元信、黒田博樹

    09 青田昇

    10 江藤慎一

    11 皆川睦雄

    13 外木場義郎

    16 榎本喜八

    17 星野仙一、平松政次

    18 原辰徳

    19 権藤博

    20 田淵幸一

    23 ランディ・バース

    59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿

    60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎

    62 市岡忠男

    64 宮原清

    65 井上登、宮武三郎、景浦將

    66 守山恒太郎

    67 腰本寿

    68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三

    69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧

    70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚

    71 小西得郎、水野利八

    72 中野武二、太田茂

    73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三

    74 野田誠三

    76 小泉信三

    77 森茂雄、西村幸生

    78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎

    79 平沼亮三、谷口五郎

    80 千葉茂

    81 佐伯達夫、小川正太郎

    82 鈴木龍二、外岡茂十郎

    83 内村祐之

    84 桐原眞二

    85 田中勝雄、山内以九士

    86 中河美芳、松方正雄

    87 藤田信男、山下実

    88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一

    89 池田恒雄、伊達正男

    90 佐伯勇

    91 中澤良夫

    92 吉田正男

    94 廣岡知男

    95 呉昌征、村上實

    96 牧野直隆、保坂誠

    97 山本英一郎

    98 中尾碩志、井口新次郎

    99 吉國一郎

    00 福島慎太郎

    01 武田孟、長谷川良平

    02 中澤不二雄、生原昭宏

    03 松田耕平

    04 秋山登

    05 志村正順

    06 川島廣守、豊田泰光

    07 松永怜一

    08 嶋清一

    09 大社義規、君島一郎

    10 古田昌幸

    12 長船騏郎、大本修

    13 福嶋一雄

    14 相田暢一

    15 林和男、村山龍平

    16 松本瀧藏、山中正竹

    17 郷司裕、鈴木美嶺

    18 瀧正男

    19 脇村春夫

    20 前田祐吉、石井連藏

    21 川島勝司、佐山和夫

    22 松前重義

    23 古関裕而

    24 谷村友一

    02 フランク・オドール、正岡子規

    03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄

    金田正一

    稲尾和久

    小山正明

    米田哲也

    梶本隆夫

    皆川睦雄

    村山実

    鈴木啓示

    堀内恒夫

    山田久志

    江夏豊

    平松政次

    東尾修

    村田兆治

    北別府学

    佐々木主浩

    高津臣吾

    工藤公康

    野茂英雄

    山本昌広

    岩瀬仁紀

    黒田博樹

    上原浩治

    藤川球児

    平野佳寿

    山内一弘

    榎本喜八

    野村克也

    長嶋茂雄

    広瀬叔功

    張本勲

    王貞治

    江藤慎一

    土井正博

    高木守道

    松原誠

    柴田勲

    大杉勝男

    藤田平

    衣笠祥雄

    福本豊

    山崎裕之

    山本浩二

    有藤通世

    若松勉

    谷沢健一

    加藤秀司

    門田博光

    大島康徳

    新井宏昌

    秋山幸二

    駒田徳広

    立浪和義

    鈴木一朗(イチロー)

    清原和博

    古田敦也

    野村謙二郎

    石井琢朗

    松井秀喜

    田中幸雄

    前田智徳

    金本知憲

    松井稼頭央

    小笠原道大

    稲葉篤紀

    宮本慎也

    小久保裕紀

    アレックス・ラミレス

    中村紀洋

    谷繁元信

    井口資仁

    和田一浩

    新井貴浩

    福留孝介

    荒木雅博

    青木宣親

    阿部慎之助

    鳥谷敬

    内川聖一

    福浦和也

    坂本勇人

    栗山巧

    大島洋平

    1977 王貞治

    1978 広岡達朗

    1979 西本幸雄

    1980 古葉竹識

    1981 藤田元司

    1982 広岡達朗

    1983 田淵幸一

    1984 衣笠祥雄

    1985 吉田義男

    1986 森祇晶

    1987 工藤公康

    1988 門田博光

    1989 藤田元司

    1990 森祇晶

    1991 秋山幸二

    1992 石井丈裕

    1993 野村克也

    1994 長嶋茂雄, イチロー

    1995 イチロー

    1996 仰木彬

    1997 古田敦也

    1998 佐々木主浩

    1999 王貞治

    2000 松井秀喜

    2001 若松勉

    2002 原辰徳

    2003 王貞治, 星野仙一

    2004 伊東勤

    2005 ボビー・バレンタイン

    2006 王貞治

    2007 落合博満

    2008 渡辺久信

    2009 原辰徳

    2010 西村徳文

    2011 秋山幸二

    2012 原辰徳, 阿部慎之助

    2013 星野仙一

    2014 秋山幸二

    2015 工藤公康

    2016 栗山英樹

    2017 デニス・サファテ

    2018 工藤公康

    2019 工藤公康

    2020 工藤公康

    2021 高津臣吾

    2022 中嶋聡

    2023 岡田彰布

    2024 三浦大輔

    2004 イチロー

    2013 田中将大

    2021 稲葉篤紀, 大谷翔平

    2022 村上宗隆

    2023 栗山英樹, 大谷翔平

    2024 大谷翔平

    1950 別当薫

    1951 山本一人

    1952 柚木進

    1953 岡本伊三美

    1954 大下弘

    1955 飯田徳治

    1956 中西太

    1957 稲尾和久

    1958 稲尾和久

    1959 杉浦忠

    1960 山内和弘

    1961 野村克也

    1962 張本勲

    1963 野村克也

    1964 J.スタンカ

    1965 野村克也

    1966 野村克也

    1967 足立光宏

    1968 米田哲也

    1969 長池徳二

    1970 木樽正明

    1971 長池徳二

    1972 福本豊

    1973 野村克也

    1974 金田留広

    1975 加藤秀司

    1976 山田久志

    1977 山田久志

    1978 山田久志

    1979 C.マニエル

    1980 木田勇

    1981 江夏豊

    1982 落合博満

    1983 東尾修

    1984 ブーマー

    1985 落合博満

    1986 石毛宏典

    1987 東尾修

    1988 門田博光

    1989 R.ブライアント

    1990 野茂英雄

    1991 郭泰源

    1992 石井丈裕

    1993 工藤公康

    1994 イチロー

    1995 イチロー

    1996 イチロー

    1997 西口文也

    1998 松井稼頭央

    1999 工藤公康

    2000 松中信彦

    2001 T.ローズ

    2002 A.カブレラ

    2003 城島健司

    2004 松中信彦

    2005 杉内俊哉

    2006 小笠原道大

    2007 ダルビッシュ有

    2008 岩隈久志

    2009 ダルビッシュ有

    2010 和田毅

    2011 内川聖一

    2012 吉川光夫

    2013 田中将大

    2014 金子千尋

    2015 柳田悠岐

    2016 大谷翔平

    2017 D.サファテ

    2018 山川穂高

    2019 森友哉

    2020 柳田悠岐

    2021 山本由伸

    2022 山本由伸

    2023 山本由伸

    1950 別当薫

    1951 飯田徳治

    1952 飯田徳治

    1953 中西太

    1954 山内和弘

    1955 山内和弘

    1956 中西太

    1957 中西太

    1958 葛城隆雄

    1959 葛城隆雄

    1960 山内和弘

    1961 山内和弘

    1962 野村克也

    1963 野村克也

    1964 野村克也

    1965 野村克也

    1966 野村克也

    1967 野村克也

    1968 G.アルトマン

    1969 長池徳二

    1970 大杉勝男

    1971 門田博光

    1972 野村克也, 大杉勝男

    1973 長池徳二

    1974 長池徳二

    1975 加藤秀司

    1976 加藤秀司

    1977 L.リー

    1978 B.マルカーノ

    1979 加藤英司

    1980 C.マニエル

    1981 T.ソレイタ

    1982 落合博満

    1983 水谷実雄

    1984 ブーマー

    1985 落合博満

    1986 落合博満

    1987 ブーマー

    1988 門田博光

    1989 ブーマー

    1990 O.デストラーデ, 石嶺和彦

    1991 O.デストラーデ, J.トレーバー

    1992 ブーマー

    1993 R.ブライアント

    1994 石井浩郎

    1995 イチロー, 初芝清, 田中幸雄

    1996 T.ニール

    1997 小久保裕紀

    1998 N.ウィルソン

    1999 T.ローズ

    2000 中村紀洋

    2001 中村紀洋

    2002 T.ローズ

    2003 松中信彦

    2004 松中信彦

    2005 松中信彦

    2006 小笠原道大, A.カブレラ

    2007 山﨑武司

    2008 T.ローズ

    2009 中村剛也

    2010 小谷野栄一

    2011 中村剛也

    2012 李大浩

    2013 浅村栄斗

    2014 中田翔

    2015 中村剛也

    2016 中田翔

    2017 A.デスパイネ

    2018 浅村栄斗

    2019 中村剛也

    2020 中田翔

    2021 島内宏明

    2022 山川穂高

    2023 近藤健介

    2024 山川穂高

    1950 別当薫

    1951 大下弘

    1952 深見安博

    1953 中西太

    1954 中西太

    1955 中西太

    1956 中西太

    1957 野村克也

    1958 中西太

    1959 山内和弘

    1960 山内和弘

    1961 野村克也, 中田昌宏

    1962 野村克也

    1963 野村克也

    1964 野村克也

    1965 野村克也

    1966 野村克也

    1967 野村克也

    1968 野村克也

    1969 長池徳二

    1970 大杉勝男

    1971 大杉勝男

    1972 長池徳二

    1973 長池徳二

    1974 C.ジョーンズ

    1975 土井正博

    1976 C.ジョーンズ

    1977 L.リー

    1978 B.ミッチェル

    1979 C.マニエル

    1980 C.マニエル

    1981 T.ソレイタ, 門田博光

    1982 落合博満

    1983 門田博光

    1984 ブーマー

    1985 落合博満

    1986 落合博満

    1987 秋山幸二

    1988 門田博光

    1989 R.ブライアント

    1990 O.デストラーデ

    1991 O.デストラーデ

    1992 O.デストラーデ

    1993 R.ブライアント

    1994 R.ブライアント

    1995 小久保裕紀

    1996 T.ニール

    1997 N.ウィルソン

    1998 N.ウィルソン

    1999 T.ローズ

    2000 中村紀洋

    2001 T.ローズ

    2002 A.カブレラ

    2003 T.ローズ

    2004 松中信彦, F.セギノール

    2005 松中信彦

    2006 小笠原道大

    2007 山﨑武司

    2008 中村剛也

    2009 中村剛也

    2010 T-岡田

    2011 中村剛也

    2012 中村剛也

    2013 M.アブレイユ

    2014 E.メヒア, 中村剛也

    2015 中村剛也

    2016 B.レアード

    2017 A.デスパイネ

    2018 山川穂高

    2019 山川穂高

    2020 浅村栄斗

    2021 杉本裕太郎

    2022 山川穂高

    2023 G.ポランコ, 近藤健介, 浅村栄斗

    2024 山川穂高

    1962 張本勲

    1963 ブルーム

    1964 張本勲

    1965 D.スペンサー

    1966 榎本喜八

    1967 張本勲

    1968 張本勲

    1969 張本勲

    1970 張本勲

    1971 江藤慎一

    1972 張本勲

    1973 張本勲

    1974 張本勲

    1975 小川亨

    1976 加藤秀司

    1977 加藤秀司

    1978 佐々木恭介

    1979 加藤英司

    1980 栗橋茂

    1981 門田博光

    1982 落合博満

    1983 スティーブ

    1984 スティーブ

    1985 落合博満

    1986 落合博満

    1987 門田博光

    1988 門田博光

    1989 松永浩美

    1990 清原和博

    1991 白井一幸

    1992 清原和博

    1993 辻発彦

    1994 イチロー

    1995 イチロー

    1996 イチロー

    1997 鈴木健

    1998 片岡篤史

    1999 イチロー

    2000 イチロー

    2001 中村紀洋

    2002 A.カブレラ

    2003 小笠原道大

    2004 松中信彦

    2005 松中信彦

    2006 松中信彦

    2007 T.ローズ

    2008 中島裕之

    2009 中島裕之

    2010 A.カブレラ

    2011 糸井嘉男

    2012 糸井嘉男

    2013 E.ヘルマン

    2014 糸井嘉男

    2015 柳田悠岐

    2016 柳田悠岐

    2017 柳田悠岐

    2018 柳田悠岐

    2019 近藤健介

    2020 近藤健介

    2021 吉田正尚

    2022 吉田正尚

    2023 近藤健介

    2024 近藤健介

    1980 門田博光

    1985 村田兆治

    1991 小野和義, 白井一幸

    1998 西村龍次

    2001 盛田幸妃

     投  山田久志

     捕  野村克也

     一  大杉勝男

     二  山崎裕之

     三  有藤通世

     遊  阪本敏三

     外  長池徳二 / G.アルトマン / 門田博光

     投  山田久志

     捕  野村克也

     一  加藤秀司

     二  吉岡悟

     三  藤原満

     遊  大橋穣

     外  弘田澄男 / 門田博光 / 福本豊

     指  大田卓司

     投  山田久志

     捕  加藤俊夫

     一  加藤秀司

     二  B.マルカーノ

     三  有藤道世

     遊  石渡茂

     外  門田博光 / 福本豊 / L.リー

     指  高井保弘

     投  村田兆治

     捕  梨田昌崇

     一  柏原純一

     二  落合博満

     三  有藤道世

     遊  石毛宏典

     外  福本豊 / 島田誠 / テリー.W

     指  門田博光

     投  東尾修

     捕  香川伸行

     一  落合博満

     二  大石大二郎

     三  スティーブ.O

     遊  石毛宏典

     外  島田誠 / テリー.W / 簑田浩二

     指  門田博光

     投  西崎幸広

     捕  伊東勤

     一  清原和博

     二  福良淳一

     三  松永浩美

     遊  田中幸雄

     外  秋山幸二 / 平野謙 / 高沢秀昭

     指  門田博光

     投  阿波野秀幸

     捕  山下和彦

     一  ブーマー.W

     二  辻発彦

     三  松永浩美

     遊  田辺徳雄

     外  秋山幸二 / 藤井康雄 / R.ブライアント

     指  門田博光

    1951 川上哲治, 野口明, 林義一

    1952 飯島滋弥

    1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男

    1954 中西太, 山内和弘

    1955 山内和弘, 西沢道夫

    1956 森下正夫, 吉田義男

    1957 大下弘, 宮本敏雄

    1958 宮本敏雄, 中西太

    1959 山内和弘, 中利夫

    1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲

    1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎

    1962 ブルーム, 張本勲

    1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅

    1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ

    1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一

    1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識

    1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男

    1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司

    1969 土井正博, 船田和英

    1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎

    1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司

    1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩

    1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之

    1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲

    1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博

    1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司

    1977 若松勉, 野村克也, 王貞治

    1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之

    1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二

    1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊

    1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博

    1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之

    1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満

    1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓

    1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美

    1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章

    1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博

    1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三

    1989 村田兆治, 彦野利勝

    1990 R.ブライアント, 清原和博

    1991 古田敦也, 広沢克己

    1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広

    1993 清原和博, T.オマリー

    1994 秋山幸二, G.ブラッグス

    1995 落合博満, 松井秀喜

    1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲

    1997 松井稼頭央, 清原和博

    1998 川上憲伸, 松井秀喜

    1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志

    2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博

    2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋

    2002 G.アリアス, 的山哲也

    2003 高橋由伸, 金本知憲

    2004 松坂大輔, SHINJO

    2005 金城龍彦, 前田智徳

    2006 青木宣親, 藤本敦士

    2007 A.ラミレス, 阿部慎之助

    2008 山﨑武司, 荒木雅博

    2009 青木宣親, 松中信彦

    2010 阿部慎之助, 片岡易之

    2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀

    2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼

    2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一

    2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐

    2015 藤浪晋太郎, 會澤翼

    2016 筒香嘉智, 大谷翔平

    2017 内川聖一, A.デスパイネ

    2018 森友哉, 源田壮亮

    2019 森友哉, 近本光司

    2020 (中止)

    2021 菊池涼介, 島内宏明

    2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐

    2023 柳田悠岐, 万波中正

    2024 牧秀悟,佐藤都志也

    76 山田久志

    77 山田久志

    78 鈴木啓示

    79 C.マニエル

    80 木田勇

    81 江夏豊

    82 落合博満

    83 東尾修

    84 ブーマー

    85 落合博満

    86 落合博満

    87 工藤公康

    88 門田博光

    89 阿波野秀幸

    90 野茂英雄

    91 秋山幸二

    92 石井丈裕

    93 辻発彦

    94 イチロー

    95 イチロー

    96 イチロー

    97 松井稼頭央

    98 イチロー

    99 松坂大輔

    00 中村紀洋

    01 T.ローズ

    02 松井稼頭央

    03 城島健司

    04 松中信彦

    05 渡辺俊介

    06 ダルビッシュ有

    07 山﨑武司

    08 岩隈久志

    09 鉄平

    10 T-岡田

    11 内川聖一

    12 吉川光夫

    13 田中将大

    14 大谷翔平

    15 柳田悠岐

    16 大谷翔平

    17 D.サファテ

    18 山川穂高

    19 森友哉

    20-21 中止

    1位:佐藤道郎

    2位:門田博光

    3位:山本功児(入団拒否)

    4位:薮上敏夫

    5位:中山孝一

    6位:鈴木治彦(入団拒否)

    7位:堀井和人

    8位:山田克己(入団拒否)

    9位:北尾一喜

    10位:堀内三郎

    1位:山田久志

    2位:加藤秀司

    3位:長谷部優(入団拒否)

    4位:柳橋明(入団拒否)

    5位:新井良夫

    6位:島崎基慈

    7位:福本豊

    8位:柿本進(入団拒否)

    9位:切通猛

    10位:三好行夫(入団拒否)

    11位:村上義則(入団拒否)

    12位:門田博光(入団拒否)

    13位:石井清一郎

    14位:鈴木博(入団拒否)

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    日本の野球選手

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2024/11/20 13:28更新

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門田 ゆたか(かどた ゆたか、1907年(明治40年)1月6日-1975年(昭和50年)6月25日)は昭和期の作詞家。本名門田 穣。 福島県信夫郡福島町(現・福島市)出身。早稲田大学文学部仏蘭西文学…

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もんた よしのり(1951年〈昭和26年〉1月8日 - 2023年〈令和5年〉10月18日)は、日本の歌手・シンガーソングライター・俳優。兵庫県神戸市育ち。血液型はA型。娘は元COLORの門田こむぎ。…

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