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門田博光の情報 (かどたひろみつ)
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【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

門田博光の情報(かどたひろみつ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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門田 博光さんについて調べます

■名前・氏名
門田 博光
(読み:かどた ひろみつ)
■職業
野球選手
■門田博光の誕生日・生年月日
1948年2月26日 (年齢74歳没)
子年(ねずみ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
奈良出身

(昭和23年)1948年生まれの人の年齢早見表

門田博光と同じ1948年生まれの有名人・芸能人

門田博光と同じ2月26日生まれの有名人・芸能人

門田博光と同じ出身地奈良県生まれの有名人・芸能人


門田博光と関係のある人

長池徳士: 門田博光がある日自分の打席で左投手が救援に出てくるとベンチに帰ってくる。


金本知憲: 6月28日に1991年の門田博光以来21年ぶり史上7人目、大学出身の選手では初の通算2500安打を達成。


柚木進: 「傷だらけの野アザミ 打席に咲けない南海の主砲 門田博光」『サンデー毎日』、毎日新聞社、1979年5月27日号、158-161頁。


田淵幸一: 1991年は権藤博を投手コーチに招へい、門田博光が復帰したほか古巣・阪神との大型トレードで獲得した池田親興(法大の後輩)がストッパーで再起、大野久は盗塁王となるが5位、1992年は4位と順位こそ上がったものの、長い低迷から脱することはできずに解任された。


井上コオ: 第9巻 門田博光 - 限界を忘れたすごい奴(作:永島直樹)


香川伸行: 2009年12月30日に放送されたTBSのドキュメント「『壮絶人生ドキュメント 俺たちはプロ野球選手だった』」では、香川の現役時代のエピソードや、引退後の波乱万丈の人生と現状が関係者(牛島和彦、門田博光など)の証言や再現VTRを交えて紹介された。


山本功児: 1969年度ドラフト会議にて同年のシーズンオフに監督に就任した野村克也から度々誘いを受け、地元の球団の南海ホークスから3位指名(1位は佐藤道郎、2位は門田博光)を受けるも拒否し、法政大学経営学部に進学。


黒田正宏: 在任中は球団首脳から『門田をホークスに戻せないか?』と相談を受け、オリックスに移籍した門田博光と上田利治監督に連絡し、門田のホークス復帰に漕ぎ着けた。


野村克也: 2年目の1971年は、島本講平が入団して、打者に転向、ブレイザーが連れてきたサッド・ティロットソンも不安定で大誤算、勝率が5割を切って4位で終わり、門田博光が120打点で打点王を獲得。


落合博満: 南海の門田博光は「オレでも34インチ半が精一杯やったのに……。


広瀬叔功: しかし野村退団による江夏、柏原の移籍、主砲・門田博光のアキレス腱断裂(1979年)もあり、戦力は整わず成績は下位に低迷した。


森山良二: 初奪三振:同上、9回表に門田博光から


潮崎哲也: さらに7月5日の西宮での対オリックス戦では、同日2本塁打を放っていた門田博光を含むブルーサンダー打線を相手に新人としては1962年の尾崎行雄以来となる8連続奪三振を記録した。


野村沙知代: 門田博光には「野村の方針に文句を言うな。


鈴木啓示: 3000奪三振:1984年9月1日、対南海ホークス22回戦(大阪スタヂアム)、2回裏に門田博光から ※史上4人目


山之内健一: 背番号は同年まで主砲の門田博光が付けていた60を引き継ぐなど期待されていた。


得津高宏: “門田博光さんの知られざる社会人時代「靴を作る仕事をしていました」 同級生プロOBが追悼”.


福本豊: 1989年に移籍してきた門田博光の相手を「ほかの誰の手にも負えない大きな存在」という理由で任されたが、同学年で現役の門田を見ると「僕かて野球を続けたかったのに…」と悔しさが募ったと回想している。


新井宏昌: 門田博光の影響で、体のひねりでボールを飛ばす事を意識してから、自分のスイングを見失っていた時期だった。


坊西浩嗣: 初出場:1991年4月7日、対オリックス・ブルーウェーブ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、8回表に門田博光の代走として出場


上田利治: オリックス時代には門田博光を迎えて「ブルーサンダー打線」を創り上げ、1989年は前半戦を終えて2位近鉄に8.5ゲーム差をつけ独走状態であったが、後半戦に入り打線がスランプに陥り混戦状態になる。


沼澤康一郎: 1971年には大きな交通事故に遭うも奇跡的に復活し、在任中は島野育夫・富田勝・藤原満・桜井輝秀・門田博光を育て、7年ぶりのリーグ優勝に貢献した1973年退任。


山崎武司: なお、山﨑は一軍の試合に出場していない年が2年あり、実働19年目での40本塁打、本塁打王は王貞治、門田博光に並び、100打点、打点王は王、衣笠祥雄の20年目に次ぐ記録である。


落合信子: 前年の本塁打王の門田博光、トニー・ソレイタの44本よりも10本以上少なく、また打率、打点ともに突出した数字ではなかったため、「落合の三冠王はラッキー」という評する向きも少なくなかった。


島野育夫: 翌年に門田博光が台頭して外野手のレギュラーを外れた。


江本孟紀: まず中百舌鳥球場で行われた秋季合宿の場で野村が選手に意見を求めた際に、江本と西岡、門田博光の3人が「『カゲ』の監督がいるせいで選手が気持ちよくプレーできない雰囲気になっている」という旨の発言をして現状の是正を求め、さらに11月には江本と西岡、藤原満の3人がチームを代表して、大阪市内のホテルで野村に「公私混同を止めて下さい」「選手が動揺しているから、野球に集中させて下さい」と直訴した。


大島康徳: 満塁本塁打は8本打っており、最年長満塁本塁打(43歳6か月)の記録を持っている(門田博光の42歳6か月を更新、1994年5月4日西武戦、8回表2点リードされている場面で代打で登場し新谷博から)。


柚木進: スカウトとしては温和な堀井数男と豪傑な柚木とで名コンビを組み、藤田学、高柳秀樹らの獲得に関わり、門田博光を発掘した実績を持つ。


定岡智秋: 同年オフに智秋・門田博光と巨人の河埜和正・新浦壽丈との交換トレードが決まりかけたが、巨人の監督が長嶋茂雄から藤田元司に替わり「新浦は出せない」という方針となったために頓挫したという。


潮崎哲也: 門田博光は潮崎のシンカーを苦手とし、潮崎がボールを投げた瞬間にバッターボックスの一番前まで移動して打とうとしたことがあったものの、打つことができなかった。


門田博光の情報まとめ

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門田 博光(かどた ひろみつ)さんの誕生日は1948年2月26日です。奈良出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴、エピソードなどについてまとめました。兄弟、卒業、母親、引退、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。74歳で亡くなられているようです。

門田博光のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

通算本塁打数、通算打点数、ともにNPB歴代3位。選手時代の晩年にも目覚ましい活躍をしたことから「不惑の大砲」の異名を持ち、「中年の星」とも呼ばれていた。また、力強い打撃力から「ポパイ」とも呼ばれていた。

山口県小野田市に5人兄弟の三男として生まれる。門田が幼い頃、父が貿易関係の仕事に失敗し、一家で奈良市に移り、つつましい家庭で育つ。五条中学から天理高校に進み野球部に入部。4番打者、中堅手として、同期のエース外山義明を擁し活躍。1964年・秋季近畿大会県予選では4校による決勝リーグに進むが、1勝2敗に終わる。翌1965年夏の甲子園県予選決勝に進出。白滝政孝投手のいた郡山高を2-0で破る。続く紀和大会決勝でも県和歌山商を3-1で降し甲子園に出場。1回戦で小山健二(日本コロムビア)を擁する丸子実に9回に逆転され1-3で敗退。なお高校時代の三年間で本塁打は一本も打てなかった。

卒業後は外山とともに社会人野球チームのクラレ岡山硬式野球部に進む。就職した倉敷レーヨン岡山工場では、靴の製作業務に携わり、月収は1万5千円だった。

1966年から都市対抗野球大会に4年連続出場。この時のチームメイトには片岡旭、田中武、林田真人らがいる。1968年の都市対抗に3番打者、右翼手として出場。1回戦で前年優勝の日本石油に大敗するが、相手エース三浦健二から2安打を放ち好打者として注目される。

同年のドラフトで阪急ブレーブスから12位指名を受けるが、10位以下の下位指名であったことと、クラレ岡山のチーム事情からこれを拒否。

1969年のドラフトで南海ホークスからの2位指名を受け、プロ入り。担当スカウトは柚木進で「かつてエースとして活躍された柚木さんのスカウト第1号で入団しました。大阪球場であった繊維会社だらけの大会で見てくれたようです。当時倉敷レーヨンに所属していて、その大会でホームランを打ったのですが、それより、そのあとの打席で代打を出されたとき、僕が何一つ不平不満を言わずに下がっていったらしいです。なんでホームラン打ったのに代えられるんだ、みたいなことを全くしなかった。そのシーンに好感を持ったからと言われました。」と述べている。

1970年は開幕から2番打者、右翼手として起用され53試合に先発出場、俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現す。

1971年にレギュラー定着。主に3番打者として打率.300(リーグ11位)、31本塁打、120打点を記録し打点王を獲得、初のベストナインに選出される。強肩でも知られ、同年は15補殺を果たす。また同年に打撃フォームを王貞治を参考にした一本足打法に改造した。

プロ入り2年目の1971年から、野村克也監督解任の年である1977年までの7年間で5回の打率3割を記録。1973年には打率.310(リーグ5位)、18本塁打の成績でリーグ優勝に貢献した。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、第3戦に堀内恒夫から本塁打を打ち、シリーズ通算17打数3安打。野村監督時代は主に3番を打ち、成績的には中距離打者としての性格が濃かったが、4番打者兼監督の野村からは「俺の前にランナーで出てくれさえすればいい。それがお前の仕事。ホームランなど狙わなくていい」とはっきり言われ、大振りすると怒られたという。

野村の監督解任によりその束縛から解放され、長距離打者としての道を歩み始める。4番打者として、それまで使うことを許されなかった重いバット(1000g)を使い始めた(後述)。最初の年(1978年)は夏になるとバテてしまい振り切れなくなり、打率.250、本塁打15本と低調な成績に終わったが、後には振り切れるようになった。

1976年、オールスターゲーム第2戦(後楽園球場)では1回に放った2点本塁打を含む5打数4安打2打点の成績でMVPに選出された。

1979年2月16日、キャンプ地の大方球場(高知県)で、準備運動でジャンプをして着地した際に右足のアキレス腱を断裂。疲労の蓄積、この日から履いた新しいスパイク、「固すぎる」と多くの選手や評論家が危惧していたグラウンド等、様々な要因がある中でのことだった。ほぼ1シーズンを棒に振るが、同年9月には代打で復帰。アキレス腱断裂は全治6か月で、当時としては通常なら現役復帰自体が困難であったが、その中での復帰であった。

1980年、背番号を母親が44歳で亡くなったのに因み「44」に変更。この年以降、「ホームランを打てば足に負担はかからない。これからは全打席ホームランを狙う」 と長打狙いのバッティングに徹し、同年6月25日の対日本ハムファイターズ戦(大阪スタヂアム)では1点を追う9回一死一・二塁の場面で新井宏昌に代えて桜井輝秀を送ると、日本ハムは木田勇から杉山知隆に投手交代。門田は代打の代打で出場し、杉山から代打逆転サヨナラ3点本塁打を放った。シーズンでは41本塁打の成績でカムバック賞を受賞。

1981年、7月には月間16本塁打のプロ野球新記録(当時)を記録している。16本目は同月31日の対西武戦(大阪スタヂアム)の3回無死満塁の打席で杉本正から放った満塁本塁打だった。また7月はオールスターゲームのある月であり、約1週間の公式戦中断がある中での記録だった。8月22日の対西武ライオンズ戦(上越市営球場)では松沼雅之からシーズン2本目となる満塁本塁打、同月27日の対ロッテオリオンズ戦(大阪スタヂアム)では3-3の同点で迎えた9回二死無走者の打席で倉持明からサヨナラ本塁打を放った。シーズンでは44本塁打で初の本塁打王を獲得。

1983年も40本塁打で本塁打王。同年5月24日の対日本ハム戦(後楽園球場)の5回一死満塁の打席で川原昭二から、同月27日の対西武戦(大阪スタヂアム)の4回一死満塁の打席で工藤公康からそれぞれ満塁本塁打、当時、投手だった愛甲猛(ロッテ)から2本の満塁本塁打を放ち、シーズン4本目の最多満塁本塁打のパ・リーグタイを記録した。オールスターゲーム第1戦(明治神宮野球場)では1回に松岡弘から、6回に西本聖からそれぞれ本塁打を放ち、2本塁打3打点の成績でMVPに選出された。

1985年、4月14日の対日本ハム戦(大阪スタヂアム)では7回に坂巻明から通算10本目となる満塁本塁打を放った。

1987年、8月26日の対西武戦(大阪スタヂアム)では工藤公康から左中間二塁打を放ち、史上24人目となる通算2000安打を達成した。9月1日の対ロッテ戦(大阪スタヂアム)では1点を追う9回無死一塁の打席で牛島和彦から逆転サヨナラ2点本塁打を放った。

1988年は40歳にして打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王の二冠を獲得し、さらにMVPに選出された。40代での40本塁打、同100打点、同OPS10割は史上初(40代での44本塁打、同125打点、同OPS1.062は歴代最高記録)であり、この年限りで消滅した南海での選手生活に花を添えた。40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録であり、40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった。その後も42歳で31本、44歳で7本と、それぞれ年齢別最多本塁打記録を作った。

1989年に南海ホークスはダイエーに買収され福岡ダイエーホークスとなり福岡に本拠地移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また平和台球場は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して、「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、内田強・原田賢治・白井孝幸の3選手とのトレードによりオリックス・ブレーブスに移籍。この結果、1968年の阪急のドラフト入団拒否から21年後にオリックスへの入団となった。契約更改で大台の1億円を突破。移籍後も変わらぬ活躍で、ブルーサンダー打線の中核を担った。しかし、9月25日の対ダイエー戦(西宮球場)で3回に31号本塁打を放った後、ブーマーとハイタッチした際に右肩を脱臼し、試合は1-9と大敗、オリックスのリーグ優勝を逃す遠因となった。OPSは2年連続で10割を超え、40代でOPS10割を達成したのは歴代で門田のみとなっている。だが本人はこのシーズンについて引退後に、「41歳での33本塁打の時も、自分からすれば打ち損ないばかり。カッコ悪いと思って、いつも下を向いてダイヤモンドを一周しとった」と悔しがっている。

1990年、9月9日の対西武戦(西宮球場)では2点を追う9回一死満塁の打席で鹿取義隆から逆転サヨナラ満塁本塁打(42歳6か月は当時の最年長満塁本塁打だったが、1994年5月4日に43歳6か月で記録した大島康徳に更新された)、翌10日の対西武戦(西宮球場)でも4-4の同点で迎えた9回一死無走者の打席で渡辺智男から2日連続及びシーズン30号本塁打となるサヨナラ本塁打を放った。42歳での30本塁打はMLBのテッド・ウィリアムズを抜いた記録でもある。

オリックスでは、「強いチームというのは、勝つ時も負ける時も淡白でさらっとしている」と感じたという。南海が低迷した一因として、いつでも全力で闘うため、手の抜きどころを知らず、シーズンの前半戦は善戦するも、後半戦は息切れしていたことを挙げている。これを「マラソンの25km地点で息切れするようなもの」と表現している。

1991年、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化と古巣への愛着から、オリックスを自由契約となる形で古巣の福岡ダイエーホークスに復帰。年俸は800万円増の1億3000万円(推定)、背番号は「53」。入団会見では「全力投球でチームに貢献したい。故障さえしなければ30本塁打もクリアできる」と抱負を語った。同年4月9日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)では7回一死一・三塁の場面で代打で出場し、佐藤秀明から移籍後初本塁打を放った。オールスターゲーム第2戦(広島市民球場)では6回に代打で出場、桑田真澄から本塁打を放ち、43歳のオールスター最年長本塁打記録を更新し、優秀選手に選出された。8月8日の対日本ハム戦(平和台球場)では3-3の同点で迎えた延長10回二死無走者の打席で柴田保光からサヨナラ本塁打を放った。シーズンでは112試合に出場、18本塁打と目標の30本塁打を大きく下回った。オフの12月12日の契約更改では現状維持の年俸1億3000万円(推定)でサインした。

1992年夏、「朝起きても目の焦点が合わんで、2m前の字も読まれへん。胸も気持ち悪いし、体がフワフワ浮いとる感じがする。普通の食事もとれん。スポーツドリンクを飲むだけや」「5年前から(肝機能など)全ての数字が悪かった。もう23年もやって、スポーツする人間の老衰やな」と知人の記者に漏らすほど持病の糖尿病が悪化したことで、このシーズン限りで現役を引退した。引退試合は平和台球場での最終公式戦・対近鉄戦。「3番・指名打者」として先発出場し、1回裏、野茂英雄との対戦で、全て速球をフルスイングで空振りし三球三振だった。

引退後は朝日放送テレビ・朝日放送ラジオ野球解説者(1993年 - 2005年)、スポーツニッポン(1993年 - 1994年)→日刊スポーツ(1995年 - 1996年)評論家を務めた。2005年に小脳梗塞のため緊急入院している。

2006年1月10日には野球殿堂入り。殿堂入り表彰式は同年7月21日、神宮球場でのオールスターゲーム第1戦で行われた。そのお礼の挨拶で、「最高のものをいただきました。人生の“終着駅”に着いたかなという感じです」と発言。終了後、その場にいた名球会の会長である金田正一から「二度とそんなことは言うな!」と叱責され、「これからも後進のために頑張ると約束してくれ」と言われたという。

2009年に大阪ホークスドリームを設立し、総監督となる。2011年6月に田中実監督の解任に伴い新監督に就任したが、同年9月に契約満了に伴い退任した。

2014年には、日本新薬の臨時コーチを務めた。

晩年は兵庫県赤穂郡上郡町の会員制の別荘地にある自宅で単身隠居生活を送っていたが、糖尿病などの影響で体調を崩し、兵庫県相生市の病院で2日に1回の人工透析を受けるなど療養生活を続けていた。

しかし2023年1月23日、予定されていた通院治療に姿を見せず、翌1月24日に医師から相談を受け自宅を訪ねた警察官によって、死亡しているのが発見された。74歳没。

選手としての特徴

2番打者失格

南海入団2年目のシーズン前に、当時ヘッドコーチを務めていたドン・ブレイザーの、「打率3割を打てる理想的な2番打者を育てたい」との希望により、ブレイザーが投手役になって1週間ぶっ続けでバントの練習をさせられた。しかし、野球を始めてからバントの練習などしたこともなかった門田は、一向に上手く出来るようにはならず、ついにブレイザーは「オー、ノー、ギブアップ」と降参した。1番は広瀬叔功、2番は失格で、「あいつはヒットならよく打つ。それなら俺(4番)の前を打たせておけ」(野村)ということで3番を打つことになったという。

本塁打へのこだわり

1971年に31本塁打、120打点で打点王になった頃から一発狙いの強振が目立ち始め、見かねた野村克也監督が、王貞治に協力を頼んで「ヒット打ちに行くのが基本。その延長がホームランなんだ」と2人で説得を図ったとのエピソードが残されている。大阪スタヂアムのオープン戦でのことであったが「そんなはずはありません。監督も王さんもホームラン狙いで大振りになっている」と自説を撤回しないばかりか、反論までしてきた門田に2人とも唖然としたという。また、挙句の果てに門田は「監督はずるい。王さんと口裏を合わせている」と野村に言い放ち、王は「大変な新人が入ってきたね」と呆れ、野村から「もう二度と教えてやらん!」と怒鳴られたという。門田はあくまで長打にこだわった打撃を押し通し、「ホームランの当たり損ねがヒット」「ホームラン狙いをやめれば4割打てる」とも語っている。オールスター戦では、当時、東映フライヤーズの大杉勝男が説得役に担ぎ出されたという。

当時の南海には門田の手本になるような左打者がおらず、そのことで悩んでいたが、ある日、凡退した後、ベンチの隅にある鏡の前の水道で手を洗ってふと鏡を見ると、次打者の野村克也が反転して左打者として映っていた。それ以来、門田は手を洗う格好をして「鏡の中の左打者」である野村の打撃フォームを熱心に観察・研究した。野村に話すと「参考になったやろ」と威張られるに決まっているからという理由で、門田は絶対にそのことは野村には言わなかったという。

フルスイングへのこだわりについて、門田は次のように語っている。「ろくでもない解説者が、『あんなに強く振らなくても、軽く打てばホームランになるんですけど』と言うやろ。大間違いや。軽く振って本塁打にするにはどれだけ時間がかかるか知らん奴が言うこと。たしかに思い切って振ってる内は30本は超えん。でも、それが軽く振ってるように見えるのは、何万スイング、何十万スイングしているから、そう見えるわけよ。そこを超越せんと軽く打ってるようには見えんのよ」「ワシは朝のコケコッコから、とにかく時間を忘れてバットを振った。普通の奴は出来んから、俺は『変わり者』と言われるんやろな。そこまでやらな、こんな小さな体で500本も打てんじゃろ」。

2006年に野球殿堂入りした際のインタビューでも、「(上体を)ネジってネジってバチン! というスイングをする選手が最近は少ない。アウトコースを軽くミートして逆方向に打つホームランではロマンがない」と持論を展開している。

その頃のプロ野球の主力選手には珍しく大きな数字の背番号をつけており、しかも次第に大きくなっていった。1980年から使用した44番はハンク・アーロンなどメジャーリーグの強打者に多いことや、44歳で亡くなった母親の供養の意味で44本の本塁打を目標とする意図からつけられた。1981年に実際に44本塁打を放って本塁打王を獲得すると、次は60本に目標を切り替えて背番号を60とした。1986年にはこの年入団したデビッド・ホステトラーが「61」、ダニー・グッドウィンが「62」を背負ったことで長距離砲の「60番トリオ」と命名されたが、グッドウィンが1年で解雇、デビッドは翌年から背番号が「9」に変更されたためこの年限りとなった。さらにオリックスへ移籍した際は78を付けてさらに番号がコーチ並みに大きくなった。最後の球団となった福岡ダイエーでは53とやや若返っている。

本塁打王と打点王を獲得した1988年に、日本テレビ系列で放映された「追跡」の特集では、インタビュアーであった作家の安部譲二に同年本塁打王を獲得できたことに関して、「ここ7、8年、どこの球場でも場外を打つことがホームランという気力でやれたこと」と語っていた。翌1989年に33本塁打を打った際も、本人曰く「ほとんどが打ち損ない」で満足いく打球が少なかったものの、それまでに「場外」を意識してきた積み重ねの結果が、打球が飛ばなくなってもフェンスを超えられた結果であるという。

バットに関しては「速い球を重たいバットで打てるなら、遅い球でも対応できる」という考えを持っていた。実際に門田が使用していたバットは長さ34インチ半、重さ1000gの特大バットであった。

2019年シーズンのNPBにおいて、ミズノ統一球を使っている場合では考えられない打球の飛び方がしていると囁かれる中で、メジャーで流行となっている"フライボール革命"の影響や、フェイスガード着用によって打者が内角攻めを怖がらなくなったという声に関心をあまり示さず、投手の失投が多くなったこと、つまり投手のレベル低下を指摘した。門田は「極論を言えば、シーズンを通して真ん中周辺のストレート系だけを狙える勇気があれば、プロでもそれ相当の数字は残る」と、如何に打者に失投を狙うことが重視されるかをその話の流れで語っている。どの時代にも打者心理を優位にする球場があることは否定しないながらも、自分は常に場外を狙っていたため、加齢で衰えても柵越えの本塁打を量産することが出来たのであって、球場の小ささや狭さに合わせたバッティングを行うと長期的には力が落ちていくと主張している。

ライバル投手との対決

村田兆治は門田に生涯14本の本塁打を打たれているが、門田について次のように語っている。「あれは昭和48年(1973年)だったか、マサカリが完成してすぐだった。絶対に打たれるはずのないひざ元へのスライダーを門田さんに打たれた。失投ではなくて、完璧な球を本塁打にする打者。投げていて緊張感があった。あれから、門田さんにスライダーを投げたことはない。それぐらい悔しかった。」

門田が「永遠のライバル」と称している山田久志は門田に28本塁打を打たれている。山田は門田について、「本物のプロのバッターだった。真っすぐを狙っているところに、真っすぐを投げた。駆け引きが一切ない。インハイとアウトローに全て直球を投じた。いい勝負が出来た」と証言している。

東尾修は、危ない球をスレスレに投げて、その反対球で打者をかわしていく投手(ケンカ投法)であったが、ある試合の第1打席で、その危ない球が門田に当たった。その報復に門田は第3打席にピッチャー返しを東尾の太ももに直撃させた。東尾がしばらく起き上がれなかったために試合が中断し、この際に門田はマウンドまで出向き「これは1打席目に自分に当てたお返し」であることを告げ、自分に危険な投球をしないよう警告した。東尾はこれを了承して以降、そのような投球をしてこなくなったという。現役時代の門田が最も多く対戦した投手が東尾であった(336打席)。

新人投手への洗礼

門田がターゲットを定めて燃えたのが新人との対決であった。

1989年秋のドラフトで、野茂英雄が近鉄バファローズに入団することが決まった時には、「野茂からの第1号は俺が打つ」と決め、翌シーズンへ向け、ゴルフ場で走り込むなど準備を進め、1990年4月18日の日生球場での近鉄-オリックス1回戦で、その目標を実現させている。野茂の初登板は4月10日の西武戦であったが、門田は「(西武の打者の)誰も打つなよ」と念じ続け、願い通じ被本塁打0のまま迎えた18日も、4番に座る門田は「松永、福良、ブーマー、ホームラン打つなよ‥絶対打つなよ‥」と念じていたという。

小宮山悟に対しては、「『大学もプロも変わらない』みたいなコメントを読んだ瞬間、じゃあプロの打球を見せましょう。で、ピッチャーライナーを一発見舞ったんや」と述べている。

守備

アキレス腱断裂後は指名打者としての起用がほとんどになった門田であるが、すでにアキレス腱断裂の前年(1978年)も、指名打者としての出場が最多であった。もっとも、右翼手としての守備をそれなりに評価する向きもある。例えば、1970年代前半の中堅手だった広瀬叔功は、自身の著書で、「(他の外野手からはフライが飛ぶとすぐに『広瀬さん!』と声が掛かったが)彼(門田)は守備範囲も決して狭くなく、右中間寄りのフライもさばき、大声で叫ぶ声を聞いた記憶はほとんどない」「グラブを柔らかく使いこなした捕球も上手かったが、肩が強くてしばしばホームで相手走者を刺した」「打撃と違ってしゃにむに速い球を返すのではなく、無駄な動きを抑えて素早く正確にワンバウンドの送球をしていた」と証言している。シーズン2桁補殺も5度(1971年-1973年、1975年、1977年)記録した。

アキレス腱断裂からの復帰後は、大半が指名打者での出場となったが、南海時代末期の1987年には加藤英司が指名打者に入ったり、オリックス時代には石嶺和彦が指名打者に入ったため、門田が守備に就くこともあり、その際は左翼手としての出場が大半であった。

1988年の球宴では指名打者部門が設置されておらず、秋山幸二・平野謙と共にパ・リーグ外野手部門でファン投票選出され、ナゴヤ球場での第2戦に3番・右翼手で先発出場。立浪和義がパ・リーグの先発投手、阿波野秀幸から打った打球を捕球、ライトフライに仕留めている。

エピソード

野村克也との関係

南海時代は野村克也監督とソリが合わなかった。門田はフルスイングを持ち味としているが、野村からは「大振りをやめろ」と再三注意された。門田はそれを聞くことなく、自分のスタイルを貫いて2年目からレギュラーを掴んだ。

野村が門田の契約更改の交渉の場に入ってきて、「まだまだ働きが足らん。大きなこと言える立場じゃないよ」などと、門田の年俸アップの足を引っ張ったこともある。生一本な門田の気性を見通したプレイングマネージャーの選手操縦法という見方もできるが、門田はそう取らなかった。衝突が決定的になったのは野村の愛人問題であり、「グラウンドにヨメハン連が出てくることはない。野村さんにはとてもついていけない」と咬みついた。1975年の終盤から少しの感情のズレからエスカレートし、野村が「任意引退させる」、門田が「あんな監督の下ではやれん」と言い争いになったが和解にしている。野村が解任された1977年には、当時の野村の愛人だった伊東芳枝から電話で、「あんたが野村の言うことを聞かないと起用しない」と言われたという。秋季練習の後、中百舌鳥の合宿で野村に、「君達の思っていることを俺に話してほしい」と言われ、手を挙げたのが門田と江本孟紀、それに西岡三四郎であった。そこで言葉の行き違いがあり、「もう練習に来なくてもいい」と言われたので、「はい、分かりました」と言って練習に参加しなくなり、「門田、野村監督と対立」などとスポーツ紙に書かれて騒がれたという。ただし、門田本人は自著で「そんなに大げさなものではなかった」と述べている。

野村は自著で、南海監督時代に手こずった門田、江本、江夏豊の3人を「南海の三悪人」と呼び、「選手として一流になれても、指導者にはなれない」と語っている。野村が解説者時代の「週刊朝日」の連載 でも「最後の野球バカ門田博光」と題し、「何かを言えばそれと反対のことをする男である」と評している。

しかし一方で、野村は門田の実力を大いに認めている。先述の通り、門田を見い出して3番打者に抜擢したのは野村であり、「ものすごい頑張り屋」とも評している。2年目に打点王を獲った際には、私費で門田に100万円の時計をプレゼントし、自分の後釜、次の4番打者として期待していた。門田も従うべきところでは従っていたといわれ、また「『二塁の桜井とライトの門田は10年間不動のままでいける』と野村に言ってもらい、信頼が厚くて助かった」とも述べている。

野村が3000試合出場の記念の記録を立てた試合(1980年8月1日 西武-南海戦)で、門田は「こういう時に野村さんに恩返しをしたい」と言ってきたという。何をしてくれるのかと思っていたら、キャッチャーマスクをかぶった西武の野村の目の前で特大のホームランを2打席連続で放った。その後、3打席目に立った門田に「もう分かったから、ええ加減にしとけや」とボヤくと、「二塁打ですませてくれた」のだという。

南海の後継球団である福岡ソフトバンクホークスでは、2013年に(南海時代からの通算で)ホークス創設75周年を記念したプロジェクト「LEGEND HAWKS」を展開。8月31日の対楽天戦(福岡 ヤフオク!ドーム)の試合前に開かれた記念セレモニーには、野村と共に南海時代の復刻ユニフォーム姿で登場した。始球式では、球団会長の立場で「見届け人」として参加した王貞治に見守られながら、同ドームの左打席(野村は右打席)に立った。

2020年に、野村の訃報を自身が通院していた兵庫県内の病院から流れたテレビ速報で知った。訃報に際してインタビューを受けた門田曰く、最後に会ったのはこの前年(2019年)東京で行われた会合の席であった。既に車椅子姿であった野村は「とことん打撃を追究する門田ほどの野球バカは、もう二度と出てこんやろうなあ」と親しみを込めて認めてくれたという。

脱臼癖

入団1年目(1970年)に、二塁走者として出塁し、帰塁の際に右肩を脱臼して以来、持病として脱臼癖を持っていたが、「週刊ベースボール」2023年2月27日号での佐藤道郎の追悼コラムでは、1973年の優勝旅行でハワイへ行った際、サーフィンで転んで海に落ちたことが直接の原因で、以来、肩の周囲の筋肉を固めるため、本格的なウェイトトレーニングを始めたという。

1984年4月14日の日本ハム戦で本塁打を打った際のハイタッチで右肩を再び脱臼しており、それ以降、南海では門田との強いタッチは禁止されていた。

オリックス移籍1年目の1989年9月25日、古巣の対ダイエー戦でも、3回裏に本塁打を打ち、本塁で出迎えたブーマーからのハイタッチに応じた際に、また右腕を脱臼。この時は登録抹消までには至らなかったが、シーズン終盤での貴重な約1週間を棒に振った(同日のスポーツニッポンの取材に対し、「何度もやっているから自分でどうすればいいか分かっている」としながらも落ち込み、また、ブーマーもひどく落ち込んでいたという)。この年は近鉄、西武、オリックスが最後まで競り合った末、近鉄が優勝したが、門田が登録抹消されてから残り15試合はオリックスにとってダメージとなり、オリックスとしての初優勝は1995年まで持ち越しとなった。

珍プレー

1990年の西武戦で打席に立った際、投球を捕手の大宮龍男が落球し、一塁ランナーが進塁を試みるという場面があった。ここで門田は、自らの足元にボールが転がっているのを確認していたにも関わらず、まだ必死でボールを探している大宮に向かって、全く別の方向を指差して撹乱するという珍プレーを披露している。大宮は一瞬だがまんまと騙され、結局、ランナーの進塁を許してしまい、門田を小突いている。

幻のトレード

南海時代の1980年オフ、門田とこのシーズン不振だった掛布雅之(阪神タイガース)のトレードが、スポーツニッポンで報じられた。球団事務所に抗議が殺到したため、話は流れてしまったが、「トレードの話自体は本当にあった」と門田本人が後年、明かしている。また、1979年オフには、シーズン終盤の成績から翌年の復活を見越した読売ジャイアンツとのトレード話もあったが、獲得を進言していた長嶋茂雄監督が辞任したことにより、破談となっている。穴吹義雄監督も門田と山本和行のトレードを阪神に打診したが、安藤統男監督が断ったので話が流れている。

2度のコーチ要請

現役引退後は野球解説や評論の仕事はしているが、NPBで監督、コーチ等、現場に関わる仕事は一切しなかった。

ダイエー時代に中内功オーナーからコーチ就任要請を受けたが、実現せず、2005年にオリックス・バファローズの仰木彬監督からも就任要請を受けたが断った。

プロ野球での指導者の経験はないが、社会人チームや独立リーグでの指導者の経験はある。

南海ホークスへの思い入れ

門田は、南海ホークスの大阪球場最終戦となった1988年10月15日対近鉄戦では、試合後のセレモニーで号泣している。その後、大阪球場は野球以外の様々な用途で使用されることになり、住宅展示場となった際には「悲しさを通り越して涙も出なかった」と振り返っている。

2024/06/17 12:26更新

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