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鈴木 啓示さんについて調べます
■名前・氏名 |
鈴木啓示と関係のある人
安藤順三: 8月8日の近鉄戦(日生)では鈴木啓示にノーヒットノーランを達成されているが、安藤は9回表2死に作道烝の代打で打席に立ち、一邪飛に打ち取られたため最後の打者となっている。 前田益穂: 1000本安打:1969年9月6日、対近鉄バファローズ23回戦(日生球場)、6回表に鈴木啓示から右前安打 ※史上71人目 村田辰美: 引退後は讀賣テレビ放送・ラジオ大阪野球解説者(1991年 - 1992年)を経て、監督の鈴木啓示に呼ばれて、古巣・近鉄の一軍投手コーチ(1993年 - 1995年)を務めた。 石床幹雄: 近鉄で317勝の実績を残して引退した鈴木啓示が、講演で近くに来たついでに「石床」に来店し、「わしは阪神に行くはずやった。 ヴィクトル=スタルヒン: 節目となる100勝目・200勝目・300勝目をすべて異なるチームで記録しており、これは6人いる300勝以上の投手(他に金田正一・米田哲也・小山正明・鈴木啓示・別所毅彦)の中では唯一である。 立花義家: 初打席・初安打:同上、1回裏に鈴木啓示から中前安打 黒田正宏: 1ヶ月後の5月11日には近鉄戦(西武)で鈴木啓示から本塁打を放つが、結局、同年は伊東が定位置を獲得したことで出場機会を失う。 江田孝: 引退後は近鉄でスカウト(1958年 - 1964年)・二軍投手コーチ(1965年 - 1966年, 1968年 - 1971年)・一軍投手コーチ(1967年)、西鉄→太平洋→クラウンで二軍監督(1972年 - 1973年)・一軍投手コーチ(1974年, 1976年 - 1977年)・ヘッドコーチ(1975年)を務め、近鉄時代は鈴木啓示・神部年男を育て、太平洋→クラウン時代は古賀正明を育てると共に山下律夫を復活させた。 村田兆治: 1981年には開幕11連勝を飾り、シーズンでは阪急の今井雄太郎と並ぶ19勝で最多勝のタイトルも獲得し、鈴木啓示、山田久志、東尾修らと共に昭和50年代のパ・リーグを代表する投手となった。 赤堀元之: 最終的に鈴木啓示のチーム記録2.02を更新する防御率1.80の成績で最優秀救援投手に加えて最優秀防御率のタイトルを獲得した。 八重沢憲一: 初打席:同上、鈴木啓示の前に三振 藤井栄治: 近鉄には鈴木啓示新監督からの要請で復帰するが、開幕して5試合目の4月20日、体調不良により退団した。 金村義明: OBの鈴木啓示が一軍監督に就任した1993年には、公式戦の開幕から6月5日までスタメンに起用されたが、故障で戦線を離脱。 水沼四郎: 同年夏の甲子園県予選では、準決勝で育英高の鈴木啓示に抑えられ惜敗。 久保康生: 打線が急失速、鈴木啓示、井本隆の左右両輪が精彩を欠いて最下位に沈んだチームにあって、42試合の登板で9勝8セーブを記録。 野茂英雄: 仰木に代わって鈴木啓示が監督に就任した1993年にも5試合連続2桁奪三振を記録。 杉浦忠: 在任中は鈴木啓示に「力で投げるんやったら相撲取り呼んでこい」とリリース時以外は力を抜く投球術を指導し、太田幸司が「村山さんを見習ってスピードをつけたい」とフォーム改造に取り組もうとすると、「村山のフォームは上半身の使い方が強引で、ある意味邪道。 梨田昌孝: 近鉄のコーチとして復帰した1993年はかつてのエースである鈴木啓示が監督に就任した年でもあったが、自らの現役時代に築いたスタイルを貫こうとする鈴木と各自独特のスタイルを持つ選手との間で悩み続けた模様が自著「戦術眼」(ベースボール・マガジン社新書) から読み取ることができる。 正垣宏倫: 1979年の近鉄バファローズとの日本シリーズでは、鈴木啓示、村田辰美の両左腕投手を相手に、3試合に左翼手、六番打者として先発。 伊達泰司: 初打席:同上、9回表・鈴木啓示の前に三振。 石川雅規: プロ1年目から20年連続勝利は鈴木啓示以来、36年ぶり7人目、セ・リーグでは金田正一に次ぐ2人目、左腕では4人目のタイ記録となった。 水谷実雄: 」と述べ、1995年シーズン途中には鈴木啓示監督の辞任を受け、同年8月9日からシーズン終了まで監督代行を務めた。 藤池昇龍: オールスターゲームで打撃捕手を務めた際には加藤初・鈴木啓示・松岡弘・新浦壽夫の球を捕り、日拓→日本ハム時代は張本勲に大変可愛がられ、愛用のバットを貰ったこともあったが、張本のバットは非常に特殊な形状で、使いにくかった。 柴田勲: この年のオールスターゲーム第2戦では鈴木啓示から3点本塁打を放つなど、3安打1盗塁の活躍でMVPを獲得した。 元田昌義: 4年目の1967年10月11日の近鉄戦(大阪)に高橋博の代打で初出場を果たし、鈴木啓示から初安打を放つ。 阿波野秀幸: 1994年オフ、仰木の後任監督の鈴木啓示との確執もあり、シーズンオフに香田勲男との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍(鈴木との確執は野茂英雄や吉井理人などにも同様のエピソードがある)。 赤堀元之: この試合は前日に鈴木啓示監督が語った「開幕戦は野茂と心中する」という言葉に応えて野茂が9回一死までノーヒットノーランという好投を見せていたため、一死一、二塁となった場面で登板を告げられても心の準備ができていなかったという。 黒田正宏: ハワイ高校選抜チームが来日した際には兵庫県選抜の正捕手を務め、育英のエース・鈴木啓示とバッテリーを組んだ。 杉内俊哉: 2010年4月30日の対ロッテ戦で7回5失点ながら6勝目を挙げ、1968年の鈴木啓示以来42年ぶり、球団では1957年の木村保以来53年ぶりとなる4月中の6勝を達成。リーグ2位となる5回の完封勝利のうち4回は日本ハム戦(4月9日、7月6日、8月14日、9月25日)であり、1995年に斎藤雅樹が東京ヤクルトスワローズ戦で記録して以来、パシフィック・リーグでは1978年に鈴木啓示が南海戦で記録して以来32年ぶりとなる同一カードでの4完封を達成した。 中野英明: 貴重な左腕投手であり、鈴木啓示二世と評価され、1975年ドラフト1位で近鉄バファローズに入団。 |
鈴木啓示の情報まとめ
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鈴木 啓示(すずき けいし)さんの誕生日は1947年9月28日です。兵庫出身の野球選手のようです。
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プレースタイル、詳細情報などについてまとめました。父親、引退、現在、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。亡くなられているようです。
鈴木啓示のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 鈴木 啓示(すずき けいし、1947年9月28日 - )は、兵庫県西脇市出身の元プロ野球選手(投手)・監督。 通算被本塁打(560本)と通算無四球試合(78試合)の日本記録保持者。通算317勝は日本プロ野球歴代4位(左投手としては歴代2位)、うち先発勝利数288勝は日本記録。パ・リーグ最多記録となる最多奪三振を8回記録している。 愛称は座右の銘より「草魂」、他に「ミスターバファローズ」。 西脇市で酒屋を営む両親の下に生まれる。 元は右利きだったが、4歳の時に右腕を骨折した際、プロ野球選手に育てたいという父親の意向から左利きに矯正された。育英高等学校では1964年、2年の時に夏の甲子園兵庫県予選決勝に進出するが、芝池博明投手を擁する滝川高に0-1で敗退。しかし同年秋季近畿大会では決勝に進出。向陽高の野崎恒男と投げ合い、延長17回の熱戦を制しサヨナラ勝ち。翌1965年の春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で徳島商の利光高明投手(日本生命)に抑えられ、1-3で敗れる。同年夏の県予選決勝では報徳学園と対決、エース谷村智博と投手戦の末、0-1xでサヨナラ負け、夏の甲子園出場はならなかった。高校同期には捕手の塩谷守也(専大)、三塁手の藤村哲也がいる。 育英高等学校から1965年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。契約金800万円。当初は阪神タイガースの1位指名が有力とされていたが、阪神は鈴木を指名せず、石床幹雄を指名した。新人の年にオールスターゲームに出場し、同じ左腕で大先輩の金田正一(巨人)にカーブの投げ方を習おうとすると、「教えて欲しければ銭もってこい」と言われ、それまでの尊敬心から一転して敵愾心を燃やすようになる。金田がロッテの監督だった1973年から1978年までの6シーズンはロッテ戦通算26勝8敗の好成績を残し、ロッテキラーとなった。 入団1年目の1966年は5月から先発の一角として起用され10勝12敗を記録、規定投球回(18位、防御率3.19)にも達した。翌1967年は21勝13敗、同年から5年連続20勝を挙げエースとなった。 1968年8月8日の対東映戦(日生球場)でノーヒットノーランを達成。 1969年に24勝で最多勝。 1971年9月9日対西鉄戦(日生球場)では2度目のノーヒットノーランを記録した。若い頃は江夏豊とともに「セの江夏、パの鈴木」と並び称された奪三振の多い投手であった。1967年から1972年にかけて6年連続で最多奪三振に輝くが(江夏も全く同じ期間に6年連続最多奪三振を記録)、1972年頃から奪三振数が半減し、投球内容の質も低下し始めた。鈴木本人によると「入団当初はノーコンでね。1年目の開幕直後には四球連発で二軍に落とされたこともある。制球力を付けられたのは日生球場のお陰やで。ホームランを警戒して低めをつく投球を、球場が教えてくれた。2度のノーヒット・ノーランは日生がくれた褒美やった。」と当時を振り返った。 1974年に監督に就任した西本幸雄の指導により、力任せの直球主体の投球を改め制球・配球を重視する頭脳的なピッチングを構築していく。当初は西本に反発し、1974年のオフに主砲の土井正博がトレードされた際には、「次は自分の番」と考えて、阪神監督の吉田義男にトレードを志願する電話をかけたこともあった。 1975年3月の阪神とのオープン戦では4回4失点でKOされると西本から「少しは向こうのピッチャー(山本和行 - 4年目)を見習え!」とベンチで言われるなど叱責が続いたが、やがて西本が自分とチームのことを本気で考えていると気づき、その指導を受け入れていった。また、投手コーチの杉浦忠からは、「力で投げるんやったら相撲取り呼んでこい」とリリース時以外は力を抜く投球術を指導された。この年は4年ぶりに20勝以上を挙げ、防御率も2.26(村田兆治に次ぐリーグ2位)の好成績を残す。奪三振数は減少したが、無駄な四球と失点も減少した。この頃から有田修三とバッテリーを組むようになる。 1977年には200勝を達成、20勝で最多勝を残した。 1978年、25勝で2年連続最多勝、防御率2.02で最優秀防御率を獲得した。同年に当時の日本新記録となる10試合連続完投勝利を記録し、見事な投球で往年の剛球が蘇り、最多奪三振・最多完封も記録し、「五冠」のうち勝率を除く4つの部門でリーグトップの成績を残した。同年の鈴木を最後に、日本プロ野球で年間25勝以上を挙げた投手は現れていない。この年は「勝てば後期優勝」のかかった9月23日の阪急との最終戦(「藤井寺決戦」とも呼ばれる)で、山田久志との投げ合いに敗れ、その後阪急が逆転優勝を遂げて3年ぶりの半期優勝を逃した。試合後、辞意を仄めかした西本監督に対して「監督をやめないでくれ! オレたちを見捨てないで下さい」と鈴木は絶叫。他の選手もそれに賛同したことで西本は留任し、翌年悲願の初優勝を達成、翌々年も優勝を果たした。 チームが連覇した2年間、鈴木自身は故障を抱え、公式戦での成績は1978年よりも低下した。1981年はさらに急降下して10勝を割る5勝11敗となり、シーズン終盤に引退を決意して西本に伝えると「つらいほうの道を選んでみい。楽なほうは、いつでも選べるんや」という返答を受ける。チームは最下位に終わり、このシーズンで西本は勇退する。西本の最終戦となった1981年10月4日の対阪急戦(日生球場)では、退任する西本に花束を渡している。 鈴木は現役を続行し、1982年からは再び10勝台を記録するとともに、2年続けてリーグの最多無四球完投投手となった。 1983年、鈴木康二朗がヤクルトから近鉄に移籍してきたことで鈴木姓の投手が2名となる。そこでスコアボード、新聞などに"鈴木啓"と表記されるのを嫌った啓示が「オレは今までどおり"鈴木"でいい。あっちを"鈴木康"にすればすむことだろ。」と発言したが、球団は認めず"鈴木啓"表記を使用。しかし後年、"鈴木啓"と表記されたのと共に実況放送やスポーツニュースなどでフルネームで呼ばれる機会が増えたため「名前を正しく覚えてもらえた」と新聞の取材で語っている。 1984年5月5日の対日本ハム戦で通算300勝を達成。この時、球団主導で「鈴木投手の300勝は何月何日?」とファンに予想してもらう企画があったという(なお1983年シーズン終了時点であと4勝に迫っていたため、1984年中の達成は確実と見られていた)。鈴木の300勝および3000奪三振達成を記念して、同年12月9日、親会社の近鉄では上本町 - 鳥羽間に300勝・3000奪三振記念パーティーの招待客を乗せる特急「草魂号」が運行された。同列車は担当する列車乗務員の苗字を全員「鈴木」で揃えたり、鈴木啓示自ら改札に回ってファンと触れ合うというエピソードが残っている。 この年、公共広告機構(現:ACジャパン)のコマーシャルに起用され、「投げたらアカン」という言葉が流行語大賞大衆賞を受賞した。 1985年7月9日対日本ハム戦(後楽園球場)において3回でKOされ、翌日の7月10日に現役引退を表明。鈴木は引退を西本幸雄に報告に行くと、西本からは勝負する人間の目ではないと指摘され「ご苦労さん」と声を掛けられた。鈴木が試合で使用したボールで所持しているのは、7月9日の「最後の公式戦」での交代時のボールだけである。通算300勝を達成した際にも、チームメイトから渡されたウイニングボールをスタンドに投げ入れていた。 鈴木引退の報を聞いた阪急の監督上田利治は、引退の花道にとオールスターゲーム(上田が同年の全パ監督で、近鉄の本拠地である藤井寺球場での初開催も予定されていた)への出場を鈴木に持ちかけるも辞退した。鈴木によると、上田に「パ・リーグの選手皆で胴上げしたるから出てくれ」と言われたが「有り難い話やったけど、歴史のあるオールスターを俺一人の舞台にしたらアカンと思って断った」という。 1986年3月16日、阪神とのオープン戦で引退セレモニーをおこなった(2回表に登板し、先頭打者の掛布雅之を三振に打ち取った)。 現役時代の背番号1は1985年以降、パ・リーグ唯一の永久欠番となった。その後、2004年シーズン終了後の近鉄とオリックスの合併(オリックス・バファローズ誕生)の際に、オリックスは当時後藤光尊が付けていた背番号1の扱いについて、オリックスでも永久欠番とする考えがあり、鈴木に電話で伝えるも、鈴木本人が「自らの永久欠番はあくまで近鉄でのもの。背番号1をどうぞ使ってください」と固辞した。 ゴルフに関心がなかった現役時代から、朝日放送関連のABCゴルフ倶楽部の会員になっていた。引退後は朝日放送で解説をする流れだったが、ある日、鶴岡一人から「啓ちゃん、オレと一緒に仕事をしよう」と声をかけられて、鶴岡と同じ放送局はNHK、新聞社はスポーツニッポンと契約することとなった。1987年オフヘッドコーチの仰木彬と共に監督の岡本伊三美の後任監督の有力候補に挙がったが仰木が監督に就任した。 NHK野球解説者・スポーツニッポン評論家の8年間は「歯に衣着せぬ物言い」で解説者としてお茶の間では好意的に受け止められたが、セパ12球団を語ることは可能であっても、近鉄の選手を間近で触れる機会は少なく、結果8年間はブランクであった。下記の様な現状を知らぬまま8年ぶりのユニホーム姿で1993年から1995年途中まで近鉄の監督を務めた。近鉄の生え抜き選手の監督就任は小玉明利以来26年ぶりであった。引退の時点でオーナーの佐伯勇から「鈴木君、将来は監督で必ず帰ってくれ」と言われていたという。ただし佐伯勇は鈴木の雄姿を見ることなく1989年に死去。監督1年目はヘッド兼打撃コーチに藤井栄治、投手コーチに佐藤道郎・村田辰美を招聘し、作戦兼バッテリーコーチに梨田昌孝が就任した。監督2年目は打撃コーチに水谷実雄を招聘した。 YouTubeによると、近鉄における前任者である仰木監督の実績は、常にAクラスであった。その原動力は立花龍司コンディショニングコーチであり、当時としては珍しくBS放送でのメジャーリーグの試合、またメジャーリーグにおける科学的トレーニング、練習方法を取り入れてきたことが結果としてAクラスとなり、仰木監督並びに多くの選手から称賛されていた。また仰木監督の練習は厳しいが、自主性と選手の個性を重んじ、各選手に開幕まで調整方法を一任していた。特に野茂英雄に関しては、トルネード投法を仰木監督は快諾。新人から大車輪の活躍で投手八冠を独占。すでに大打者であった清原和博との「平成屈指の名勝負」等、野茂は鈴木と同様、パリーグ人気に大きく貢献した人物となっていた。 阿波野秀幸は「活躍できない選手の起用は当然減るのですが自分では行けると思って一軍に合流しても試合に出してもらえないで二軍に戻ったりすると、気持ちがチームの為ではなく自分の為にやろうと傾ていきます。主力だったのに放出されたのは自分だけではありませんからどうしても(監督との関係)がそうなります。新しい監督が新しい戦力を好むのわかるんですが近鉄のみんながバラバラになったのは寂しかったです。近鉄はあそこで変わりました。ノリや大村が出てきたのもあの頃じゃないですか」と述べている。 1995年は開幕前から野茂を始めとする多くの主力選手が退団したほか、選手の不調や怪我が多発したことも重なりチームは低迷。8月8日夜に遠征先を訪ねてきた球団社長から「これ以上、あなたの顔に泥を塗れない」と告げられシーズン途中で監督を辞任。(事実上の更迭)辞任会見もないままユニホームを脱いだ。また同年、メジャーへ移籍した野茂が大活躍したことをはじめ、吉井がヤクルトで日本一に貢献する活躍をしたことや、鈴木と対立した立花が千葉ロッテに移籍して陰ながら躍進を支えたことから、鈴木に対する風当たりはさらに強いものとなった。このため「自己の考えを部下に押し付けるだけの監督」更には「名選手名監督ならず」のイメージ「野球解説者は大成しない」というジンクスを破ることもできず、下記の日本プロ野球界の重鎮からも監督、指導者としての評価は芳しくない。その後2024年までの期間、プロ野球界における監督、指導者、GM、スカウトマン等の球団職員も含め、1度もなることはなかった。鈴木・野茂の双方とも親しい江夏豊は、これらに関して複雑な心境を自著の中で述べている。 野村克也は自著『野村ノート』の中で、当時、巨人に在籍していた上原浩治と重ね、エースと呼ぶのに相応しい投手だったとした上で、無理しない、意気に感じないという鈴木の思いが相手チームだけでなく、味方も感じていたと述べ、300勝という数字を残している投手であるにもかかわらず、監督になって成功しなかったと指摘している。その上で、チームの中で生きていく以上自己中心というのは致命的だと述べている。加えて、自著『俺の苦言を聞け!』の中で、楽天に在籍していた岩隈久志が、当時の岩隈の考えと岩隈がプロに入って最初に在籍した球団が近鉄であったことを重ねた上で、以下のように述べている。近鉄と阪急の熾烈な優勝争いをしている70年代のある年のシーズン終盤の直接対決で、9回だけでも鈴木に投げさせれば逃げ切れる展開で、なぜか鈴木を投入しなかったことがあった。野村が当時の近鉄監督だった西本幸雄にその理由を尋ねたところ、西本は「鈴木本人がリリーフを拒否した」と返し、野村は驚いたという。野村自身も鈴木に対し、エースなのになぜ自分から行こうとしないのかと質したところ、「無理をして故障したら誰が面倒を見てくれるのか」と返され、「これはダメだ。こいつ(鈴木)はエースとは呼べないな」と思ったといい、鈴木本人をまさにワガママ、自己中心主義を絵に描いたような人物で、チームが窮地に立っていても、自分のことしか考えていないと述べている。 金村義明は自著『勝てる監督 負けるボス』において、采配や選手交代でも名前ではなく「アイツ」や「ソイツ」と呼ぶなど態度も良くなかったことを総じて鈴木を「最低の監督」と評している。なお、金村も1994年にFA権を行使し、中日に移籍している。当時、ロッテのGMだった広岡達朗も「近鉄はいい選手が揃っているのに、監督と選手の間がうまくいっていないという話が絶えない。あれじゃダメ」と酷評している。 大村直之は高校の後輩にあたり、大村が出場した1993年夏の甲子園のビデオを見て、牽制球を投げられては「こい。もっとこい」と投手を挑発するような根性が鈴木の目に留まり、鈴木は球団に大村をドラフトで指名するように進言した。大村はその後、近鉄のレギュラーを獲得し、ほかにも、中村紀洋・水口栄二をレギュラーに抜擢するなど、鈴木がこの時期にレギュラーに抜擢した野手は後に2001年の優勝に貢献することになる。即レギュラーには抜擢されなかったが、鈴木在籍時のドラフトでは93年に的山哲也、94年に川口憲史を指名し2001年優勝時のレギュラーメンバーとなっている。また鈴木退任のオフにトレードに出されたバイプレーヤーの大島公一も移籍先で主軸となるなど、投手出身でありながら野手を見る目はあった。 鈴木は自身の監督時代について「力不足やったな。自分が投げとる気分でやってしまったから。選手をうまく使ってやらなイカンのに、選手を萎えさせとったこともあった。今思えば、反省ばかりやな。ナシ(梨田昌孝) にも(コーチで)助けてもうたけど、アカンかった」と語るなど、自らの欠点と失敗を認めている。 監督辞任後は、NHK野球解説者やスポーツニッポン野球評論家を務める。 2002年、野球殿堂入り。 2008年7月、監督時代に確執があった野茂が引退した際には「頭が下がります」とコメントした。読売新聞オンラインによると公のコメントであって、野茂へは直接伝えられていない。2022年現在も、野茂とは何度かあいさつを交わした程度。 また名球会チャンネルでは「野茂君は四球で3人出したら3人連続で三振とってしまうとかね、自分で蒔いた種は自分で摘み取る、彼は彼のやり方があるから、私も上から目線でものを言ったから、なかなか選手がついてきにくかったかなと」「もう少し広い心でものを言えれば良かった…」と監督時代を述懐、また同チャンネルにて「生え抜きの監督として球団の期待に応えられず、近鉄がなくなったことは私に大いに責任があると思います」というコメントを残している。 2013年、野球に対する恩返しとして鈴木の想いから故郷・西脇市が主催して行われる、鈴木を記念した少年軟式野球大会・「草魂カップ」の第1回が開催され、以後現在までアドバイザー・プレゼンターとして出場している。 2016年1月12日、日本野球機構(NPB)の新人研修会で、2015年秋読売ジャイアンツの複数の選手が野球賭博に関与し処罰を受けたことへの防止策として自身の体験を語り、1969年から1971年にかけてプロ野球界を大きく揺るがした黒い霧事件当時、球団OBに紹介された暴力団関係者から八百長行為の誘いを受けたが断っていたことを明らかにした。 長年近鉄OB会長を務めていたが、近鉄OB会自体が2019年1月で閉会した。鈴木は最後のOB懇親会の場で、「年々活気がなくなり、運営も難しくなっていた。新たな入会者は望めず、もう限界。残念で寂しいが、休会ではなく、これを最後にしたい」と語った。 2020年、NHK野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を引退。 2022年にはプロ経験者が高校などの指導者となるための学生野球資格を回復している。 2023年12月第11回「草魂カップ」における挨拶にて「練習は不可能を可能にする」西本監督に出会ってからの座右の銘。また大谷翔平選手に関し右肘の手術において大谷投手が観られないことを引き合いに出し「スター選手は故障しない」「故障も実力のうち」とYouTube内で述べている。 プレースタイルあだ名は「スズ」。座右の銘の「草魂(そうこん)」から「クサ」と呼ばれることもある。自他共に認めるワガママ(本人がインタビューでよく語っている)な性格であるが、反面「不安との戦い」と名球会チャンネルで述べている。「走り込み」「投げ込み」は不安を払拭するための練習であった。選手時代は上記の通り「私は持ち上げられた時は結果が悪い」「プレーオフや日本シリーズでは、いずれも第2戦に先発している。西本監督も鈴木の性格であるプレッシャーに弱い点を見抜いた判断だった。 現役時代の前半は直球勝負にこだわり、1974年に監督就任した西本幸雄には「20勝もエエけど、同じするなら負けを1桁にせんとエースとは言えん」「ストレートを思い切り投げて、打たれたら本望、なんて言うのはマスターベーションや」と批判された。最初は反発して、阪神の吉田義男監督に「トレードで取ってくれ」と電話したほどだったが、西本監督が根気よく説得した結果、根負けする形で受け入れるようになった。すると成績も良くなって来たので、「このオッサンについていったら大丈夫やな」と思うようになった。現役後半の1980年頃から電光掲示板でのスピードガン表示が導入されたが、球速表示を気にして本来のピッチングスタイルを崩しがちだった同僚の井本隆と違い、直球勝負へのこだわりこそ残していたが、球速自体にはこだわりがなく、ピッチングスタイルを崩すこともなかった。 当時の近鉄には「ありなしコンビ」とも称された有田修三と梨田昌孝という力の拮抗した二人の捕手がいたが、鈴木の登板時は相性が考慮され、また鈴木自身が(優しい梨田に対して、投手への叱咤・叱責をも厭わない鬼嫁型の)有田を好んだため、大半の登板試合で有田が先発していた。リーグプレーオフおよび日本シリーズにて鈴木の先発した試合、200勝・250勝・300勝達成試合は、いずれも有田が先発捕手だった。 牽制球の技術に優れ、盗塁王の福本豊が神部年男と並んで最も苦手にしていた投手である。福本は8mmフィルムによる投手の研究に力を入れたが、鈴木についてはなかなか牽制時の特徴を見つけることができず、苦労の末に顔の動きの違い(顎が下がれば牽制、走者を一度見たら投球)を発見した。 通算317勝のうち288勝が先発勝利であり、歴代1位の記録である。当時のエース級の投手は救援に立つことも多いのが常であったが、先発完投を身上とした鈴木はリリーフを好まず、救援勝利は29に留まる。そのうち27勝が「交代完了」で、救援して更に他の投手の救援を得て勝利投手となったのは、通算2回。また、通算セーブはわずかに2である(同時期のエース級の投手では山田久志が通算43セーブ、村田兆治が通算33セーブ、東尾修が通算23セーブを記録している)。 一方、被本塁打560本は2位(山田久志・490本)を大きく離す歴代1位であり、MLB記録(ジェイミー・モイヤー・522本※2018年度シーズン終了時点)をも上回る「世界記録」でもある。この記録には、現役時代は非常に狭く本塁打の出やすい日生球場や藤井寺球場をホーム球場にしており、加えて西本監督時代に「飛ぶボール」が使用された事情も影響している。鈴木自身はこの記録について、「逃げ回ったんと違う、男がケンカして眉間に受けた向う傷や。完投数や勝ち星より威張れる数字かもしれんですね」と語っている。通算78無四球完投というプロ野球記録も持っているが、これも「コントロールももちろん磨いたが、それ以上に誰からも逃げなかった証」と語っている。被本塁打の多さを本人も気にしており、現役時代はなるべく飛びにくいメーカーである久保田運動具店のボールを選択していた。 確執があった野茂は、日米通算201勝と鈴木には遠く及ばないものの、ノーヒットノーランはそれぞれ2度、奪三振数は鈴木が3061、野茂は日米通算3122との結果である。 詳細情報年度別投手成績
各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB歴代最高 打撃成績824打数172安打(.209)13本 70打点 年度別監督成績
タイトル最多奪三振:8回(1967年-1972年、1974年、1978年) 最多勝利:3回 (1969年、1977年 - 1978年) 最優秀防御率:1回 (1978年) 最高勝率:1回 (1975年) 表彰ベストナイン:3回 (1969年、1975年、1978年) 野球殿堂競技者表彰(2002年) 月間MVP:1回 (1984年6月) パ・リーグプレーオフ優秀選手賞:1回 (1980年) 報知プロスポーツ大賞:1回 (1978年) 新語・流行語大賞 流行語部門大衆賞 (1985年、「投げたらアカン」) 記録初登板:1966年5月4日、対東京オリオンズ5回戦(東京スタジアム)、3回裏に2番手で救援登板、2回1/3を3失点 初奪三振:1966年5月17日、対東映フライヤーズ5回戦(中日スタヂアム)、3回表に宮原秀明から 初勝利:1966年5月24日、対東映フライヤーズ8回戦(後楽園球場)、5回裏に3番手で救援登板・完了、5回無失点 初先発・初先発勝利・初完投勝利・初完封勝利:1966年6月3日、対南海ホークス7回戦(日生球場) 初セーブ:1974年8月25日、対ロッテオリオンズ前期7回戦(宮城球場)、8回裏2死に2番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点 1000奪三振:1970年4月29日、対阪急ブレーブス3回戦(日生球場)、4回表に米田哲也から ※史上36人目 100勝:1971年4月10日、対ロッテオリオンズ1回戦(東京スタジアム)、9回3失点(自責点2)完投勝利 ※史上51人目 1500奪三振:1972年4月22日、対南海ホークス2回戦(日生球場)、3回表に西岡三四郎から ※史上19人目 150勝:1974年6月25日、対ロッテオリオンズ前期12回戦(後楽園球場)、9回2失点完投勝利 ※史上25人目 2000奪三振:1975年8月17日、対阪急ブレーブス後期3回戦(日生球場)、5回表に住友平から ※史上9人目 200勝:1977年4月26日、対ロッテオリオンズ前期3回戦(日生球場)、5回表に2番手で救援登板・完了、5回無失点 ※史上15人目 500試合登板:1978年4月1日、対クラウンライターライオンズ前期1回戦(平和台球場)、9回4失点(自責点3)完投勝利 ※史上36人目 2500奪三振:1979年4月19日、対日本ハムファイターズ前期1回戦(日生球場)、8回表に柏原純一から ※史上6人目 250勝:1979年9月20日、対南海ホークス後期11回戦(日生球場)、9回1失点完投勝利 ※史上8人目 600試合登板:1981年7月12日、対日本ハムファイターズ後期4回戦(日生球場)、先発登板で5回4失点で敗戦投手 ※史上19人目 300勝:1984年5月5日、対日本ハムファイターズ7回戦(藤井寺球場)、9回3失点完投勝利 ※史上6人目 3000奪三振:1984年9月1日、対南海ホークス22回戦(大阪スタヂアム)、2回裏に門田博光から ※史上4人目 700試合登板:1985年6月4日、対南海ホークス9回戦(日生球場)、先発登板で6回4失点 ※史上10人目 最多奪三振(当時連盟表彰なし):8回 (1967年 - 1972年、1974年、1978年) ※パ・リーグ記録、6年連続は最長タイ記録(他は江夏豊)。パシフィック・リーグでは1989年より表彰 投手三冠王:1回 (1978年)※史上11人目、31歳シーズンでの達成は史上最年長
ノーヒットノーラン ※史上40人目
1971年9月9日、対西鉄ライオンズ26回戦(日生球場) ※史上56度目 オールスター最年少安打:18歳9ヶ月(1966年第3戦、松川虎生と並ぶタイ記録) 10試合連続完投勝利:1978年達成(パ・リーグ記録) 通算78無四球試合 ※プロ野球記録 通算560被本塁打 ※世界記録 通算340完投 ※パ・リーグ記録 通算71完封勝利 ※パ・リーグ記録 通算1772失点 ※リーグ最多失点を記録していない投手の中では歴代最多 通算1588自責点 ※リーグ最多自責点を記録していない投手の中では歴代最多 シーズン30完投 :1978年 ※パ・リーグ記録 シーズン20勝以上:8回(1967年 - 1971年、1975年、1977年、1978年) ※パ・リーグタイ記録 開幕投手:14回 (金田正一と並ぶプロ野球記録。同一球団では最多記録。) オールスターゲーム選出:15回 (1966年 - 1973年、1975年 - 1978年、1980年、1983年 - 1984年) 背番号1 (1966年 - 1985年)(永久欠番) 70 (1993年 - 1995年) 2024/06/14 03:15更新
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suzuki keishi
鈴木啓示と同じ誕生日9月28日生まれ、同じ兵庫出身の人
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