鈴木啓示の情報(すずきけいし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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鈴木啓示と関係のある人
八重沢憲一: 初打席:同上、鈴木啓示の前に三振 板東里視: 鈴木啓示が「プロ入り初のキャンプは同じ部屋の佐々木宏一郎さんの寝言、板東里視さんの歯ぎしり、牧野伸さんのいびきが酷くて夜もしんどかった。 江夏豊: 背番号は入団当初のみ「71」を着用していたが、のちに球団から「1」「13」「28」のどれかを着用することを薦められた江夏は、1は「ライバルである鈴木啓示と同じ番号で真似をするようだから」、13を「何となく縁起の悪い番号」という理由で候補から消し、消去法で28を選択した。 赤堀元之: なお、鈴木啓示が監督だった同年までの3年間は、チームが「ドン底に暗い期間」だったと後に語っている。 ジャック=マルーフ: 初打席・初安打:同上、1回表に鈴木啓示から右前安打 ※西武ライオンズ球団初安打 根本陸夫: 投手陣では、東尾が徐々に調子を上げて、近鉄の鈴木啓示と最多勝を争う奮闘。 基満男: 同年夏の甲子園県予選では、準決勝で育英高の鈴木啓示に抑えられ惜敗。 三宅昇: 同年夏の甲子園県予選は、準決勝で育英高の鈴木啓示に抑えられ惜敗。 福良淳一: 初盗塁:同上、2回裏に(投手:鈴木啓示、捕手:有田修三) 武智文雄: 対戦経験のある野村克也は著書『プロ野球 最強のエースは誰か?』(彩図社)の中で、野村が選ぶ「近鉄・楽天の歴代投手ベスト10」を挙げ、1位田中将大、2位野茂英雄、3位鈴木啓示、4位岩隈久志に続いて5位に武智を選んでいる。 杉浦忠: 在任中は鈴木啓示に「力で投げるんやったら相撲取り呼んでこい」とリリース時以外は力を抜く投球術を指導し、太田幸司が「村山さんを見習ってスピードをつけたい」とフォーム改造に取り組もうとすると、「村山のフォームは上半身の使い方が強引で、ある意味邪道。 伊達泰司: 初安打:1974年8月25日、対近鉄バファローズ後期7回戦(宮城球場)9回裏に飯塚佳寛の代打で鈴木啓示より 前田益穂: 1000本安打:1969年9月6日、対近鉄バファローズ23回戦(日生球場)、6回表に鈴木啓示から右前安打 ※史上71人目 トニー=ミューサー: 初安打:同上、4回表に鈴木啓示から 水谷実雄: 」と述べ、1995年シーズン途中には鈴木啓示監督の辞任を受け、同年8月9日からシーズン終了まで監督代行を務めた。 阿波野秀幸: 1994年オフ、仰木の後任監督の鈴木啓示との確執もあり、シーズンオフに香田勲男との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍(鈴木との確執は野茂英雄や吉井理人などにも同様のエピソードがある)。 小山正明: 通算無四球試合も鈴木啓示に次ぐ歴代2位。 坂口和司: 1966年に一軍に上がり、6月3日にはケント・ハドリに代わり、近鉄を相手に一塁手、六番打者として初先発出場、鈴木啓示から1安打を放つ。翌1967年も7月4日の近鉄との対戦で先発するが、鈴木啓示に2三振を喫する。 江田孝: 引退後は近鉄でスカウト(1958年 - 1964年)・二軍投手コーチ(1965年 - 1966年, 1968年 - 1971年)・一軍投手コーチ(1967年)、西鉄→太平洋→クラウンで二軍監督(1972年 - 1973年)・一軍投手コーチ(1974年, 1976年 - 1977年)・ヘッドコーチ(1975年)を務め、近鉄時代は鈴木啓示・神部年男を育て、太平洋→クラウン時代は古賀正明を育てると共に山下律夫を復活させた。 小野和義: 1984年の高卒1年目には、ベテランの鈴木啓示から「ワシを見つけて早速挨拶に来てくれた。 黒田正宏: ハワイ高校選抜チームが来日した際には兵庫県選抜の正捕手を務め、育英のエース・鈴木啓示とバッテリーを組んだ。 山内新一: 以後エースとして活躍し、1976年にも20勝をマークしたものの鈴木啓示、山田久志、成田文男、村田らがパ・リーグにおいて全盛を極めていた為に、20勝しても最多勝利のタイトルには届かなかった。 森安敏明: また同年代には県外に堀内恒夫や鈴木啓示、木樽正明ら速球派投手が名を連ねている。 柳田豊: 鈴木啓示、井本隆、村田辰美らの投手陣やチャーリー・マニエル、羽田耕一、栗橋茂、佐々木恭介らの強力打撃陣と共に1979年・1980年のパ・リーグ連覇に貢献。 藤池昇龍: オールスターゲームで打撃捕手を務めた際には加藤初・鈴木啓示・松岡弘・新浦壽夫の球を捕り、日拓→日本ハム時代は張本勲に大変可愛がられ、愛用のバットを貰ったこともあったが、張本のバットは非常に特殊な形状で、使いにくかった。 森本潔: 1976年6月1日の近鉄戦(日生)で2回表に鈴木啓示から遊撃内野安打を放ち、1000安打を達成する。 ジャック=マルーフ: 新生・西武ライオンズの船出となるこの試合の1回表にいきなり鈴木啓示から右前安打を放ち、安打は当然マルーフ自身の来日後初安打であったが、同時に西武球団史上最初の安打でもあった。 上原浩治: 鈴木啓示の座右の銘「草魂」に由来する、自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。 川藤龍之輔: 3年目の1968年7月21日には近鉄戦で初先発、鈴木啓示と投げ合い2安打完封勝利を飾る。 山崎慎太郎: 仰木彬退任後の1993年に監督就任した鈴木啓示は、前年には主にリリーフとしての役割が多かった山崎を先発として粘り強く起用。 |
鈴木啓示の情報まとめ
鈴木 啓示(すずき けいし)さんの誕生日は1947年9月28日です。兵庫出身の野球選手のようです。
父親、引退、現在、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。亡くなられているようです。
鈴木啓示のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 鈴木 啓示(すずき けいし、1947年9月28日 - )は、兵庫県西脇市出身の元プロ野球選手(投手)・監督。 通算被本塁打(560本)と通算無四球試合(78試合)の日本記録保持者。通算317勝は日本プロ野球歴代4位(左投手としては歴代2位)、うち先発勝利数288勝は日本記録。パ・リーグ最多記録となる最多奪三振を8回記録している。 近鉄監督時代は「名選手は名監督にならず」というジンクスを破ることができず、のちに活躍する選手が近鉄からはなれ、監督、指導者としての評価は芳しくない。 愛称は座右の銘より「草魂」、他に「ミスターバファローズ」。 西脇市で酒屋を営む両親の下に生まれる。 元は右利きだったが、4歳の時に右腕を骨折した際、プロ野球選手に育てたいという父親の意向から左利きに矯正された。育英高等学校では1964年、2年の時に夏の甲子園兵庫県予選決勝に進出するが、芝池博明投手を擁する滝川高に0-1で敗退。しかし同年秋季近畿大会では決勝に進出。向陽高の野崎恒男と投げ合い、延長17回の熱戦を制しサヨナラ勝ち。翌1965年の春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で徳島商の利光高明投手(日本生命)に抑えられ、1-3で敗れる。同年夏の県予選決勝では報徳学園と対決、エース谷村智博と投手戦の末、0-1xでサヨナラ負け、夏の甲子園出場はならなかった。高校同期には捕手の塩谷守也(専大)、三塁手の藤村哲也がいる。 育英高等学校から1965年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。契約金800万円。当初は阪神タイガースの1位指名が有力とされていたが、阪神は鈴木を指名せず、石床幹雄を指名した。新人の年にオールスターゲームに出場し、同じ左腕で大先輩の金田正一(巨人)にカーブの投げ方を習おうとすると、「教えて欲しければ銭もってこい」と言われ、それまでの尊敬心から一転して敵愾心を燃やすようになる。金田がロッテの監督だった1973年から1978年までの6シーズンはロッテ戦通算26勝8敗の好成績を残し、ロッテキラーとなった。 入団1年目の1966年は5月から先発の一角として起用され10勝12敗を記録、規定投球回(18位、防御率3.19)にも達した。翌1967年は21勝13敗、同年から5年連続20勝を挙げエースとなった。 1968年8月8日の対東映戦(日生球場)でノーヒットノーランを達成。 1969年に24勝で最多勝。 1971年9月9日対西鉄戦(日生球場)では2度目のノーヒットノーランを記録した。若い頃は江夏豊とともに「セの江夏、パの鈴木」と並び称された奪三振の多い投手であった。1967年から1972年にかけて6年連続で最多奪三振に輝くが(江夏も全く同じ期間に6年連続最多奪三振を記録)、1972年頃から奪三振数が半減し、投球内容の質も低下し始めた。鈴木本人によると「入団当初はノーコンでね。1年目の開幕直後には四球連発で二軍に落とされたこともある。制球力を付けられたのは日生球場のお陰やで。ホームランを警戒して低めをつく投球を、球場が教えてくれた。2度のノーヒット・ノーランは日生がくれた褒美やった。」と当時を振り返った。 1974年に監督に就任した西本幸雄の指導により、力任せの直球主体の投球を改め制球・配球を重視する頭脳的なピッチングを構築していく。当初は西本に反発し、1974年のオフに主砲の土井正博がトレードされた際には、「次は自分の番」と考えて、阪神監督の吉田義男にトレードを志願する電話をかけたこともあった。 1975年3月の阪神とのオープン戦では4回4失点でKOされると西本から「少しは向こうのピッチャー(山本和行 - 4年目)を見習え!」とベンチで言われるなど叱責が続いたが、やがて西本が自分とチームのことを本気で考えていると気づき、その指導を受け入れていった。また、投手コーチの杉浦忠からは、「力で投げるんやったら相撲取り呼んでこい」とリリース時以外は力を抜く投球術を指導された。この年は4年ぶりに20勝以上を挙げ、防御率も2.26(村田兆治に次ぐリーグ2位)の好成績を残す。奪三振数は減少したが、無駄な四球と失点も減少した。この頃から有田修三とバッテリーを組むようになる。 1977年には200勝を達成、20勝で最多勝を残した。 1978年、25勝で2年連続最多勝、防御率2.02で最優秀防御率を獲得した。同年に当時の日本新記録となる10試合連続完投勝利を記録し、見事な投球で往年の剛球が蘇り、最多奪三振・最多完封も記録し、「五冠」のうち勝率を除く4つの部門でリーグトップの成績を残した。同年の鈴木を最後に、日本プロ野球で年間25勝以上を挙げた投手は現れていない。この年は「勝てば後期優勝」のかかった9月23日の阪急との最終戦(「藤井寺決戦」とも呼ばれる)で、山田久志との投げ合いに敗れ、その後阪急が逆転優勝を遂げて3年ぶりの半期優勝を逃した。試合後、辞意を仄めかした西本監督に対して「監督をやめないでくれ! オレたちを見捨てないで下さい」と鈴木は絶叫。他の選手もそれに賛同したことで西本は留任し、翌年悲願の初優勝を達成、翌々年も優勝を果たした。 チームが連覇した2年間、鈴木自身は故障を抱え、公式戦での成績は1978年よりも低下した。1981年はさらに急降下して10勝を割る5勝11敗となり、シーズン終盤に引退を決意して西本に伝えると「つらいほうの道を選んでみい。楽なほうは、いつでも選べるんや」という返答を受ける。チームは最下位に終わり、このシーズンで西本は勇退する。西本の最終戦となった1981年10月4日の対阪急戦(日生球場)では、退任する西本に花束を渡している。 鈴木は現役を続行し、1982年からは再び10勝台を記録するとともに、2年続けてリーグの最多無四球完投投手となった。 1983年、鈴木康二朗がヤクルトから近鉄に移籍してきたことで鈴木姓の投手が2名となる。そこでスコアボード、新聞などに"鈴木啓"と表記されるのを嫌った啓示が「オレは今までどおり"鈴木"でいい。あっちを"鈴木康"にすればすむことだろ。」と発言したが、球団は認めず"鈴木啓"表記を使用。しかし後年、"鈴木啓"と表記されたのと共に実況放送やスポーツニュースなどでフルネームで呼ばれる機会が増えたため「名前を正しく覚えてもらえた」と新聞の取材で語っている。 1984年5月5日の対日本ハム戦で通算300勝を達成。この時、球団主導で「鈴木投手の300勝は何月何日?」とファンに予想してもらう企画があったという(なお1983年シーズン終了時点であと4勝に迫っていたため、1984年中の達成は確実と見られていた)。鈴木の300勝および3000奪三振達成を記念して、同年12月9日、親会社の近鉄では上本町 - 鳥羽間に300勝・3000奪三振記念パーティーの招待客を乗せる特急「草魂号」が運行された。同列車は担当する列車乗務員の苗字を全員「鈴木」で揃えたり、鈴木啓示自ら改札に回ってファンと触れ合うというエピソードが残っている。 この年、公共広告機構(現:ACジャパン)のコマーシャルに起用され、「投げたらアカン」という言葉が流行語大賞大衆賞を受賞した。 1985年7月9日対日本ハム戦(後楽園球場)において3回でKOされ、翌日の7月10日に現役引退を表明。鈴木は引退を西本幸雄に報告に行くと、西本からは勝負する人間の目ではないと指摘され「ご苦労さん」と声を掛けられた。鈴木が試合で使用したボールで所持しているのは、7月9日の「最後の公式戦」での交代時のボールだけである。通算300勝を達成した際にも、チームメイトから渡されたウイニングボールをスタンドに投げ入れていた。 鈴木引退の報を聞いた阪急の監督上田利治は、引退の花道にとオールスターゲーム(上田が同年の全パ監督で、近鉄の本拠地である藤井寺球場での初開催も予定されていた)への出場を鈴木に持ちかけるも辞退した。鈴木によると、上田に「パ・リーグの選手皆で胴上げしたるから出てくれ」と言われたが「有り難い話やったけど、歴史のあるオールスターを俺一人の舞台にしたらアカンと思って断った」という。 1986年3月16日、阪神とのオープン戦で引退セレモニーをおこなった(2回表に登板し、先頭打者の掛布雅之を三振に打ち取った)。 現役時代の背番号1は1985年以降、パ・リーグ唯一の永久欠番となった。その後、2004年シーズン終了後の近鉄とオリックスの合併(オリックス・バファローズ誕生)の際に、オリックスは当時後藤光尊が付けていた背番号1の扱いについて、オリックスでも永久欠番とする考えがあり、鈴木に電話で伝えるも、鈴木本人が「自らの永久欠番はあくまで近鉄でのもの。背番号1をどうぞ使ってください」と固辞した。 ゴルフに関心がなかった現役時代から、朝日放送関連のABCゴルフ倶楽部の会員になっていた。引退後は朝日放送で解説をする流れだったが、ある日、鶴岡一人から「啓ちゃん、オレと一緒に仕事をしよう」と声をかけられて、鶴岡と同じ放送局はNHK、新聞社はスポーツニッポンと契約することとなった。1987年オフヘッドコーチの仰木彬と共に監督の岡本伊三美の後任監督の有力候補に挙がったが仰木が監督に就任した。 NHK野球解説者・スポーツニッポン評論家の8年間は「歯に衣着せぬ物言い」で解説者としてお茶の間では好意的に受け止められたが、セパ12球団を語ることは可能であっても、近鉄の選手を間近で触れる機会は少なく、結果8年間はブランクであった。下記の様な現状を知らぬまま8年ぶりのユニホーム姿で1993年から1995年途中まで近鉄の監督を務めた。近鉄の生え抜き選手の監督就任は小玉明利以来26年ぶりであった。引退の時点でオーナーの佐伯勇から「鈴木君、将来は監督で必ず帰ってくれ」と言われていたという。ただし佐伯勇は鈴木の雄姿を見ることなく1989年に死去。監督1年目はヘッド兼打撃コーチに藤井栄治、投手コーチに佐藤道郎・村田辰美を招聘した。鈴木の監督就任と同時に梨田昌孝がコーチとして古巣復帰。監督2年目は打撃コーチに水谷実雄を招聘した。 近鉄における前任者である仰木監督の実績は、常にAクラスであった。その原動力は立花龍司コンディショニングコーチであり、当時としては珍しくBS放送でのメジャーリーグの試合、またメジャーリーグにおける科学的トレーニング、練習方法を取り入れてきたことが結果としてAクラスとなり、仰木監督並びに多くの選手から称賛されていた。また仰木監督の練習は厳しいが、自主性と選手の個性を重んじ、各選手に開幕まで調整方法を一任していた。特に野茂英雄に関しては、トルネード投法を仰木監督は快諾。新人から大車輪の活躍で投手八冠を独占。すでに大打者であった清原和博との「平成屈指の名勝負」等、野茂は鈴木と同様、パリーグ人気に大きく貢献した人物となっていた。 阿波野秀幸は「活躍できない選手の起用は当然減るのですが自分では行けると思って一軍に合流しても試合に出してもらえないで二軍に戻ったりすると、気持ちがチームの為ではなく自分の為にやろうと傾ていきます。主力だったのに放出されたのは自分だけではありませんからどうしても(監督との関係が)そうなります。新しい監督が新しい戦力を好むのわかるんですが近鉄のみんながバラバラになったのは寂しかったです。近鉄はあそこで変わりました。ノリや大村が出てきたのもあの頃じゃないですか」と述べている。 佐野慈紀は「それまでのチームの雰囲気がガラリと変わりました。ある先輩が、投手陣の総意として鈴木監督に意見を伝えてくれたのですが、すぐにファームへ落とされ、トレードなどで阿波野さんや吉井理人さんらがいなくなりました。チームは下位に低迷し、みんなモチベーションが下がりましたね。でも、僕が引退して評論家になった後、鈴木さんと少しだけ話をして、相手はどうかわからないけど、僕のなかのわだかまりはなくなりました。」と述べている。 1993年は貯金7ながら6年ぶりBクラスの4位、野茂は4年連続最多勝利、最多奪三振の2冠を獲得、打者ではラルフ・ブライアントが本塁打王、打点王の2冠、大石大二郎が6年ぶり4度目の盗塁王に輝いた。 1994年は西武との開幕戦(西武)で逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びる波乱の幕開け、右肩痛の野茂を欠く中でチームは奮闘したが2位に終わった。 1995年は開幕前から野茂を始めとする多くの主力選手が退団したほか、選手の不調や怪我が多発したことも重なりチームは最下位に低迷。8月8日夜に遠征先を訪ねてきた球団社長から「これ以上、あなたの顔に泥を塗れない」と告げられシーズン途中で監督を辞任。辞任会見もないままユニホームを脱いだ。監督通算成績は167勝171敗10分け、通算勝率.494と近鉄歴代ランキング6位。また同年、メジャーへ移籍した野茂が大活躍したことをはじめ、吉井がヤクルトで日本一に貢献する活躍をしたことや、鈴木と対立した立花が千葉ロッテに移籍して陰ながら躍進を支えたことから、鈴木に対する風当たりはさらに強いものとなった。このため「自己の考えを部下に押し付けるだけの監督」更には「名選手名監督ならず」そして「野球解説者は大成しない」というジンクスを破ることもできず、下記の日本プロ野球界の重鎮からも監督、指導者としての評価は芳しくない。 その後2024年までの期間、プロ野球界における監督、指導者、GM、スカウトマン等の球団職員も含め、1度もなることはなかった。鈴木・野茂の双方とも親しい江夏豊は、これらに関して複雑な心境を自著の中で述べている。 野村克也は自著『野村ノート』の中で、当時、巨人に在籍していた上原浩治と重ね、エースと呼ぶのに相応しい投手だったとした上で、無理しない、意気に感じないという鈴木の思いが相手チームだけでなく、味方も感じていたと述べ、300勝という数字を残している投手であるにもかかわらず、監督になって成功しなかったと指摘している。その上で、チームの中で生きていく以上自己中心というのは致命的だと述べている。加えて、自著『俺の苦言を聞け!』の中で、楽天に在籍していた岩隈久志が、当時の岩隈の考えと岩隈がプロに入って最初に在籍した球団が近鉄であったことを重ねた上で、以下のように述べている。近鉄と阪急の熾烈な優勝争いをしている70年代のある年のシーズン終盤の直接対決で、9回だけでも鈴木に投げさせれば逃げ切れる展開で、なぜか鈴木を投入しなかったことがあった。野村が当時の近鉄監督だった西本幸雄にその理由を尋ねたところ、西本は「鈴木本人がリリーフを拒否した」と返し、野村は驚いたという。野村自身も鈴木に対し、エースなのになぜ自分から行こうとしないのかと質したところ、「無理をして故障したら誰が面倒を見てくれるのか」と返され、「これはダメだ。こいつ(鈴木)はエースとは呼べないな」と思ったといい、鈴木本人をまさにワガママ、自己中心主義を絵に描いたような人物で、チームが窮地に立っていても、自分のことしか考えていないと述べている。 金村義明は自著『勝てる監督 負けるボス』において、采配や選手交代でも名前ではなく「アイツ」や「ソイツ」と呼ぶなど態度も良くなかったことを総じて鈴木を「最低の監督」と評している。なお、金村も1994年にFA権を行使し、中日に移籍している。当時、ロッテのGMだった広岡達朗も「近鉄はいい選手が揃っているのに、監督と選手の間がうまくいっていないという話が絶えない。あれじゃダメ」と酷評している。 大村直之は高校の後輩にあたり、大村が出場した1993年夏の甲子園のビデオを見て、牽制球を投げられては「こい。もっとこい」と投手を挑発するような根性が鈴木の目に留まり、鈴木は球団に大村をドラフトで指名するように進言した。大村はその後、近鉄のレギュラーを獲得し、ほかにも、中村紀洋・水口栄二をレギュラーに抜擢するなど、鈴木がこの時期にレギュラーに抜擢した野手は後に2001年の優勝に貢献することになる。即レギュラーには抜擢されなかったが、鈴木在籍時のドラフトでは93年に的山哲也、94年に川口憲史を指名し2001年優勝時のレギュラーメンバーとなっている。また鈴木退任のオフにトレードに出されたバイプレーヤーの大島公一も移籍先で主軸となるなど、投手出身でありながら野手を見る目はあった。 鈴木は自身の監督時代について「力不足やったな。自分が投げとる気分でやってしまったから。選手をうまく使ってやらなイカンのに、選手を萎えさせとったこともあった。今思えば、反省ばかりやな。ナシ(梨田昌孝) にも(コーチで)助けてもうたけど、アカンかった」と語るなど、自らの欠点と失敗だったことを後年に認めている。 監督辞任後は、NHK野球解説者やスポーツニッポン野球評論家を務める。 2002年、野球殿堂入り。 2008年7月、監督時代に確執があった野茂が引退した際には「頭が下がります」とコメントした。読売新聞オンラインによると公のコメントであって、野茂へは直接伝えられていない。2022年現在も、野茂とは何度かあいさつを交わした程度。 また名球会チャンネルでは「野茂君は四球で3人出したら3人連続で三振とってしまうとかね、自分で蒔いた種は自分で摘み取る、彼は彼のやり方があるから、私も上から目線でものを言ったから、なかなか選手がついてきにくかったかなと」「もう少し広い心でものを言えれば良かった…」と監督時代を述懐、また同チャンネルにて「生え抜きの監督として球団の期待に応えられず、近鉄がなくなったことは私に大いに責任があると思います」というコメントを残している。 2013年、野球に対する恩返しとして鈴木の想いから故郷・西脇市が主催して行われる、鈴木を記念した少年軟式野球大会・「草魂カップ」の第1回が開催され、以後現在までアドバイザー・プレゼンターとして出場している。 2016年1月12日、日本野球機構(NPB)の新人研修会で、2015年秋読売ジャイアンツの複数の選手が野球賭博に関与し処罰を受けたことへの防止策として自身の体験を語り、1969年から1971年にかけてプロ野球界を大きく揺るがした黒い霧事件当時、球団OBに紹介された暴力団関係者から八百長行為の誘いを受けたが断っていたことを明らかにした。 長年近鉄OB会長を務めていたが、近鉄OB会自体が2019年1月で閉会した。鈴木は最後のOB懇親会の場で、「年々活気がなくなり、運営も難しくなっていた。新たな入会者は望めず、もう限界。残念で寂しいが、休会ではなく、これを最後にしたい」と語った。 2020年、NHK野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を引退。 2022年にはプロ経験者が高校などの指導者となるための学生野球資格を回復している。 2023年12月第11回「草魂カップ」における挨拶にて「練習は不可能を可能にする」西本監督に出会ってからの座右の銘。また大谷翔平選手に関し右肘の手術において大谷投手が観られないことを引き合いに出し「スター選手は故障しない」「故障も実力のうち」とYouTube内で述べている。 あだ名は「スズ」。座右の銘の「草魂(そうこん)」から「クサ」と呼ばれることもある。自他共に認めるワガママ(本人がインタビューでよく語っている)な性格であるが、反面「不安との戦い」と名球会チャンネルで述べている。「走り込み」「投げ込み」は不安を払拭するための練習であった。選手時代は上記の通り「私は持ち上げられた時は結果が悪い」「プレーオフや日本シリーズでは、いずれも第2戦に先発している。西本監督も鈴木の性格であるプレッシャーに弱い点を見抜いた判断だった。 現役時代の前半は直球勝負にこだわり、1974年に監督就任した西本幸雄には「20勝もエエけど、同じするなら負けを1桁にせんとエースとは言えん」「ストレートを思い切り投げて、打たれたら本望、なんて言うのはマスターベーションや」と批判された。最初は反発して、阪神の吉田義男監督に「トレードで取ってくれ」と電話したほどだったが、西本監督が根気よく説得した結果、根負けする形で受け入れるようになった。すると成績も良くなって来たので、「このオッサンについていったら大丈夫やな」と思うようになった。現役後半の1980年頃から電光掲示板でのスピードガン表示が導入されたが、球速表示を気にして本来のピッチングスタイルを崩しがちだった同僚の井本隆と違い、直球勝負へのこだわりこそ残していたが、球速自体にはこだわりがなく、ピッチングスタイルを崩すこともなかった。 当時の近鉄には「ありなしコンビ」とも称された有田修三と梨田昌孝という力の拮抗した二人の捕手がいたが、鈴木の登板時は相性が考慮され、また鈴木自身が(優しい梨田に対して、投手への叱咤・叱責をも厭わない鬼嫁型の)有田を好んだため、大半の登板試合で有田が先発していた。リーグプレーオフおよび日本シリーズにて鈴木の先発した試合、200勝・250勝・300勝達成試合は、いずれも有田が先発捕手だった。 牽制球の技術に優れ、盗塁王の福本豊が神部年男と並んで最も苦手にしていた投手である。福本は8mmフィルムによる投手の研究に力を入れたが、鈴木についてはなかなか牽制時の特徴を見つけることができず、苦労の末に顔の動きの違い(顎が下がれば牽制、走者を一度見たら投球)を発見した。 通算317勝のうち288勝が先発勝利であり、歴代1位の記録である。当時のエース級の投手は救援に立つことも多いのが常であったが、先発完投を身上とした鈴木はリリーフを好まず、救援勝利は29に留まる。そのうち27勝が「交代完了」で、救援して更に他の投手の救援を得て勝利投手となったのは、通算2回。また、通算セーブはわずかに2である(同時期のエース級の投手では山田久志が通算43セーブ、村田兆治が通算33セーブ、東尾修が通算23セーブを記録している)。 一方、被本塁打560本は2位(山田久志・490本)を大きく離す歴代1位であり、MLB記録(ジェイミー・モイヤー・522本※2018年度シーズン終了時点)をも上回る「世界記録」でもある。この記録には、現役時代は非常に狭く本塁打の出やすい日生球場や藤井寺球場をホーム球場にしており、加えて西本監督時代に「飛ぶボール」が使用された事情も影響している。鈴木自身はこの記録について、「逃げ回ったんと違う、男がケンカして眉間に受けた向う傷や。完投数や勝ち星より威張れる数字かもしれんですね」と語っている。通算78無四球完投というプロ野球記録も持っているが、これも「コントロールももちろん磨いたが、それ以上に誰からも逃げなかった証」と語っている。被本塁打の多さを本人も気にしており、現役時代はなるべく飛びにくいメーカーである久保田運動具店のボールを選択していた。 確執があった野茂は、日米通算201勝と鈴木には遠く及ばないものの、ノーヒットノーランはそれぞれ2度、奪三振数は鈴木が3061、野茂は日米通算3122との結果である。 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB歴代最高 824打数172安打(.209)13本 70打点 1995年、成績不振の責任を取り8月8日をもって辞任。監督代行は水谷実雄。 最多勝利:3回 (1969年、1977年 - 1978年) 最優秀防御率:1回 (1978年) 最多奪三振:8回 (1967年 - 1972年、1974年、1978年) ※当時連盟表彰なし、パ・リーグ記録、6年連続は最長タイ記録(他は江夏豊)。パシフィック・リーグでは1989年より表彰 最高勝率:1回 (1975年) ベストナイン:3回 (1969年、1975年、1978年) 野球殿堂競技者表彰(2002年) 月間MVP:1回 (1984年6月) パ・リーグプレーオフ優秀選手賞:1回 (1980年) 報知プロスポーツ大賞:1回 (1978年) 新語・流行語大賞 流行語部門大衆賞 (1985年、「投げたらアカン」) 初登板:1966年5月4日、対東京オリオンズ5回戦(東京スタジアム)、3回裏に2番手で救援登板、2回1/3を3失点 初奪三振:1966年5月17日、対東映フライヤーズ5回戦(中日スタヂアム)、3回表に宮原秀明から 初勝利:1966年5月24日、対東映フライヤーズ8回戦(後楽園球場)、5回裏に3番手で救援登板・完了、5回無失点 初先発・初先発勝利・初完投勝利・初完封勝利:1966年6月3日、対南海ホークス7回戦(日生球場) 初セーブ:1974年8月25日、対ロッテオリオンズ前期7回戦(宮城球場)、8回裏2死に2番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点 1000奪三振:1970年4月29日、対阪急ブレーブス3回戦(日生球場)、4回表に米田哲也から ※史上36人目 100勝:1971年4月10日、対ロッテオリオンズ1回戦(東京スタジアム)、9回3失点(自責点2)完投勝利 ※史上51人目 1500奪三振:1972年4月22日、対南海ホークス2回戦(日生球場)、3回表に西岡三四郎から ※史上19人目 150勝:1974年6月25日、対ロッテオリオンズ前期12回戦(後楽園球場)、9回2失点完投勝利 ※史上25人目 2000奪三振:1975年8月17日、対阪急ブレーブス後期3回戦(日生球場)、5回表に住友平から ※史上9人目 200勝:1977年4月26日、対ロッテオリオンズ前期3回戦(日生球場)、5回表に2番手で救援登板・完了、5回無失点 ※史上15人目 500試合登板:1978年4月1日、対クラウンライターライオンズ前期1回戦(平和台球場)、9回4失点(自責点3)完投勝利 ※史上36人目 2500奪三振:1979年4月19日、対日本ハムファイターズ前期1回戦(日生球場)、8回表に柏原純一から ※史上6人目 250勝:1979年9月20日、対南海ホークス後期11回戦(日生球場)、9回1失点完投勝利 ※史上8人目 600試合登板:1981年7月12日、対日本ハムファイターズ後期4回戦(日生球場)、先発登板で5回4失点で敗戦投手 ※史上19人目 300勝:1984年5月5日、対日本ハムファイターズ7回戦(藤井寺球場)、9回3失点完投勝利 ※史上6人目 3000奪三振:1984年9月1日、対南海ホークス22回戦(大阪スタヂアム)、2回裏に門田博光から ※史上4人目 700試合登板:1985年6月4日、対南海ホークス9回戦(日生球場)、先発登板で6回4失点 ※史上10人目 投手三冠王:1回(1978年)※史上11人目、31歳シーズンでの達成は史上最年長
ノーヒットノーラン ※史上40人目
1971年9月9日、対西鉄ライオンズ26回戦(日生球場) ※史上56度目 オールスター最年少安打:18歳9ヶ月(1966年第3戦、松川虎生と並ぶタイ記録) 10試合連続完投勝利:1978年達成(パ・リーグ記録) 通算78無四球試合 ※プロ野球記録 通算560被本塁打 ※世界記録 通算340完投 ※パ・リーグ記録 通算71完封勝利 ※パ・リーグ記録 通算1772失点 ※リーグ最多失点を記録していない投手の中では歴代最多 通算1588自責点 ※リーグ最多自責点を記録していない投手の中では歴代最多 シーズン30完投 :1978年 ※パ・リーグ記録 シーズン20勝以上:8回(1967年 - 1971年、1975年、1977年、1978年) ※パ・リーグタイ記録 開幕投手:14回 (金田正一と並ぶプロ野球記録。同一球団では最多記録。) オールスターゲーム選出:15回 (1966年 - 1973年、1975年 - 1978年、1980年、1983年 - 1984年) 1 (1966年 - 1985年)(永久欠番) 70 (1993年 - 1995年) 『投げたらアカン!:わが友・わが人生訓』(恒文社、1985年4月、ISBN 477040607X) 『男の人生にリリーフはない:男は誰も長距離ランナー、投げたらアカンのや!』(徳間書店、1985年6月、ISBN 4195030870) 公共広告機構(現:ACジャパン) - 青少年健全育成キャンペーン(1983年)、この中で登場したキャッチフレーズ「人生、投げたらアカン」は流行語となった。 NHKプロ野球 ^ これ以降の年間勝利最多は楽天イーグルスの田中将大が2013年に記録した24勝が最高。 ^ 元近鉄応援団長のライター佐野正幸はこれらの事例を取り上げて「鈴木はいつもの試合では頼りになるのだが、ここ一番だと勝ってくれない。そのたびに期待はするのだが、ことごとく近鉄ファンを裏切った」と記している(『近鉄消滅 新生パ・リーグ誕生』(長崎出版、2005年、P167)。同書には1969年の対阪急4連戦の第3戦(阪急の優勝が決定)でも「鈴木は失点して途中でマウンドから下ろされた」とあるが、実際には先発が清俊彦(敗戦投手)で鈴木はリードされた6回から登板して交代完了しており、事実ではない。 ^ 1983年シーズンまで照明設備工事が未完成だったため、ナイターが原則のオールスター開催球場に選ばれなかった。 ^ なお、水島新司の漫画『あぶさん』では、主人公景浦安武の息子・景浦景虎が近鉄に入団する際、永久欠番であった背番号1を復活させて与えるエピソードが描かれている。 ^ この時、チームの主力投手の1人だった小野和義も立花に同調したため、球団フロントの不興を買って同年限りで自由契約となり、西武に移籍している。 ^ ただ金村の場合は鈴木との対立ではなく、中村紀洋の台頭により三塁手の定位置を奪われたことや、フロントとの対立が限界になったことが大きな理由とされる。 ^ 鈴木が監督を務めていた時は作戦兼バッテリーコーチ ^ 300勝達成記念の花輪の贈呈役が梨田だった。 ^ “鈴木啓示さんの野球愛&地元愛 名球会イベント欠席し故郷の学童野球大会に 草魂節で子どもたち激励”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2022年12月11日). https://www.daily.co.jp/baseball/2022/12/11/0015883000.shtml 2022年12月11日閲覧。 ^ “鈴木啓示氏、八百長誘い断っていた「黒い霧事件」に関し新事実”. スポーツ報知 (2016年1月13日). 2016年1月13日閲覧。 ^ 鈴木啓示氏 新人に伝えたいことは「ノー」と言う勇気スポニチアネックス 2016年1月13日 2021年3月23日閲覧 ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 【とんでもない契約】鈴木啓示の入団秘話!高校生の目の前で800万円の札束が置かれた!?なぜ万年最下位の近鉄に!? - YouTube ^ 鈴木啓示『投げたらアカン!わが友・わが人生訓』恒文社,1985年,p123-p124 ^ 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、P239 ^ みずのひろ「西本との出会いが300勝への転機 鈴木啓示」『近鉄バファローズの時代』(イースト・プレス、2004年)P90 - 92 ^ 鎮勝也『伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか』講談社、2014年、p.224 ^ LPレコード「悲願30年 近鉄バファローズ ドキュメント 栄光のV1」の水本義政による解説文より ^ “鈴木啓示【前編】“悲運の闘将”に心酔していた“草魂”/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボール. (2018年9月7日). https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180907-10&from=related_info_column 2020年2月29日閲覧。 ^ “最後の300勝投手“草魂”鈴木啓示さんが感じた自身の意外な弱点とは プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(15)”. 共同通信(47NEWS. (2023年2月25日). https://nordot.app/1000251418851966976?c=39546741839462401 2023年2月25日閲覧。 ^ 『パ・リーグを生きた男 悲運の闘将西本幸雄』ぴあ、2005年、P135 - 136。 ^ 鈴木啓示【後編】「投げたらアカン」とCMで中高生に語りかけたが……/プロ野球1980年代の名選手 ^ 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、P94 ^ スポーツニッポン『我が道』2011年10月25日 ^ 近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P18 ^ “「三振はいい」言い聞かせ、中西太コーチと育てたブライアント/仰木彬氏編3”. 日刊スポーツ (2023年1月19日). 2023年2月25日閲覧。 ^ スポーツニッポン『我が道』2011年10月26日 ^ “酔いどれの鉄腕近鉄三軍の練習に遅刻した石井浩郎にマクドナルドをおごらせた話/佐藤道郎『酔いどれの鉄腕』”. 週刊ベースボール (2023年2月7日). 2023年2月25日閲覧。 ^ 元近鉄村田辰美氏「年中夢求」で1人でもプロ選手を - 日刊スポーツ、2019年9月2日 ^ ベースボールマガジン2024年11月号、近鉄バファローズを探して、近鉄歴代監督16人の肖像、88-89頁 ^ “高卒2年目のイチローに「半信半疑だった」 恩師が衝撃を受けた半年後の“大変身””. Full-Count (2022年5月3日). 2023年2月25日閲覧。 ^ 吉井理人著『投手論』PHP新書、2013年、P103。 ^ 週刊ベースボール2024年1月1日号、レジェンドを訪ねる、昭和時代の言い残し、阿波野秀幸④、60頁 ^ “「左の『ピッカリ投法』がモチベーション」右腕切断の元近鉄・佐野慈紀氏が明かした「闘病」「1億円リリーバー」「野茂との関係」”. 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SANSPO.COM (2016年1月13日). 2016年1月13日閲覧。 ^ “近鉄OB会「消滅」最後の会合 鈴木啓示会長「寂しいが限界」”. スポーツニッポン (2019年1月12日). 2022年9月13日閲覧。 ^ ベースボール・マガジン社『近鉄バファローズ球団史 1950-2004』 p16 ^ “二宮清純 「名将が流儀を語る」”. 現代ビジネス (2017年9月2日). 2018年11月18日閲覧。 ^ 長谷川晶一『プロ野球、伝説の表と裏』主婦の友社、2014年、p.148 ^ 福本豊『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』ベースボール・マガジン社、2014年、p.117 ^ 近鉄の通算勝利数トップ10は? “最後の300勝投手”鈴木啓示が断トツ/プロ野球回顧録 | 野球コラム - 週刊ベースボールONLINE ^ パ・リーグは熱かった 今井雄太郎&新井宏昌対談 猛者たちの激闘 ^ https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/202207270001354_m.html?mode=all 兵庫県出身の人物一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 ノーヒットノーラン達成者一覧 個人年度別成績 鈴木啓示 - NPB.jp 日本野球機構 野球殿堂 鈴木啓示 - 公益財団法人野球殿堂博物館 表 話 編 歴 藤田省三 1950 - 1952 芥田武夫 1952 - 1957 加藤久幸 1958 千葉茂 1959 - 1961 別当薫 1962 - 1964 岩本義行 1965 - 1966 小玉明利 1967 三原脩 1968 - 1970 岩本堯 1971 - 1973 西本幸雄 1974 - 1981 関口清治 1982 - 1983 岡本伊三美 1984 - 1987 仰木彬 1988 - 1992 鈴木啓示 1993 - 1995 佐々木恭介 1996 - 1999 梨田昌孝 2000 - 2004 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 金田正一 稲尾和久 小山正明 米田哲也 梶本隆夫 皆川睦雄 村山実 鈴木啓示 堀内恒夫 山田久志 江夏豊 平松政次 東尾修 村田兆治 北別府学 佐々木主浩 高津臣吾 工藤公康 野茂英雄 山本昌広 岩瀬仁紀 黒田博樹 上原浩治 藤川球児 平野佳寿 山内一弘 榎本喜八 野村克也 長嶋茂雄 広瀬叔功 張本勲 王貞治 江藤慎一 土井正博 高木守道 松原誠 柴田勲 大杉勝男 藤田平 衣笠祥雄 福本豊 山崎裕之 山本浩二 有藤通世 若松勉 谷沢健一 加藤秀司 門田博光 大島康徳 新井宏昌 秋山幸二 駒田徳広 立浪和義 鈴木一朗(イチロー) 清原和博 古田敦也 野村謙二郎 石井琢朗 松井秀喜 田中幸雄 前田智徳 金本知憲 松井稼頭央 小笠原道大 稲葉篤紀 宮本慎也 小久保裕紀 アレックス・ラミレス 中村紀洋 谷繁元信 井口資仁 和田一浩 新井貴浩 福留孝介 荒木雅博 青木宣親 阿部慎之助 鳥谷敬 内川聖一 福浦和也 坂本勇人 栗山巧 大島洋平 表 話 編 歴 沢村栄治 V.スタルヒン 石田光彦 中尾輝三 亀田忠 浅野勝三郎 三輪八郎 森弘太郎 西沢道夫 天保義夫 藤本英雄 別所昭 石丸進一 呉昌征 梶岡忠義 真田重男 金田正一 林義一 大友工 山下登 杉下茂 大津守 大脇照夫 大矢根博臣 井上善夫 中山義朗 G.バッキー 外木場義郎 清俊彦 若生忠男 堀内恒夫 城之内邦雄 鈴木啓示 成田文男 渡辺秀武 鬼頭洋 藤本和宏 高橋直樹 江夏豊 神部年男 加藤初 戸田善紀 郭泰源 田中幸雄 近藤真一 柴田保光 湯舟敏郎 西崎幸広 佐藤義則 T.ブロス 渡辺久信 野口茂樹 石井一久 川尻哲郎 佐々岡真司 M.バンチ N.エルビラ 川上憲伸 井川慶 R.ガトームソン 山本昌 前田健太 杉内俊哉 西勇輝 山井大介 岸孝之 山口俊 菅野智之(CS) 千賀滉大 大野雄大 小川泰弘 東浜巨 今永昇太 山本由伸 C.ポンセ 石川柊太 戸郷翔征 大瀬良大地 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 柚木進 1952 柚木進 1953 川崎徳次 1954 宅和本司 1955 中川隆 1956 稲尾和久 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 久保田治 1963 久保征弘 1964 妻島芳郎 1965 三浦清弘 1966 稲尾和久 1967 足立光宏 1968 皆川睦男 1969 木樽正明 1970 佐藤道郎 1971 山田久志 1972 清俊彦 1973 米田哲也 1974 佐藤道郎 1975 村田兆治 1976 村田兆治 1977 山田久志 1978 鈴木啓示 1979 山口哲治 1980 木田勇 1981 岡部憲章 1982 高橋里志 1983 東尾修 1984 今井雄太郎 1985 工藤公康 1986 佐藤義則 1987 工藤公康 1988 河野博文 1989 村田兆治 1990 野茂英雄 1991 渡辺智男 1992 赤堀元之 1993 工藤公康 1994 新谷博 1995 伊良部秀輝 1996 伊良部秀輝 1997 小宮山悟 1998 金村暁 1999 工藤公康 2000 戎信行 2001 N.ミンチー 2002 金田政彦 2003 斉藤和巳, 松坂大輔 2004 松坂大輔 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 成瀬善久 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 ダルビッシュ有 2011 田中将大 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 大谷翔平 2016 石川歩 2017 菊池雄星 2018 岸孝之 2019 山本由伸 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 L.モイネロ 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 江藤正 1952 野口正明 1953 川崎徳次 1954 宅和本司, 田中文雄 1955 宅和本司 1956 三浦方義 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 久保征弘 1963 稲尾和久 1964 小山正明 1965 尾崎行雄 1966 米田哲也 1967 池永正明 1968 皆川睦男 1969 鈴木啓示 1970 成田文男 1971 木樽正明 1972 山田久志, 金田留広 1973 成田文男 1974 金田留広 1975 東尾修 1976 山田久志 1977 鈴木啓示 1978 鈴木啓示 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 今井雄太郎, 村田兆治 1982 工藤幹夫 1983 東尾修, 山内和宏 1984 今井雄太郎 1985 佐藤義則 1986 渡辺久信 1987 山沖之彦 1988 渡辺久信, 西崎幸広, 松浦宏明 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 野茂英雄 1991 野茂英雄 1992 野茂英雄 1993 野田浩司, 野茂英雄 1994 伊良部秀輝 1995 K.グロス 1996 K.グロス 1997 西口文也, 小池秀郎 1998 西口文也, 武田一浩, 黒木知宏 1999 松坂大輔 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 涌井秀章 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010 和田毅, 金子千尋 2011 D.ホールトン, 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 大谷翔平, 涌井秀章 2016 和田毅 2017 東浜巨, 菊池雄星 2018 多和田真三郎 2019 有原航平 2020 千賀滉大, 石川柊太, 涌井秀章 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 有原航平、伊藤大海 表 話 編 歴 1950 野村武史 1951 中谷信夫 1952 柚木進 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 中村大成 1956 植村義信 1957 稲尾和久 1958 秋本祐作 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 皆川睦男 1963 田中勉, 森中千香良 1964 J.スタンカ 1965 林俊彦 1966 皆川睦男 1967 石井茂雄 1968 村上雅則 1969 清俊彦 1970 佐々木宏一郎 1971 山田久志 1972 佐藤道郎 1973 八木沢荘六 1974 竹村一義 1975 鈴木啓示, 野村収 1976 山田久志 1977 稲葉光雄 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 間柴茂有 1982 工藤幹夫 1983 高橋直樹 1984 石川賢 1985 石本貴昭 1986 渡辺久信 1987 工藤公康 1988 郭泰源 1989 星野伸之 1990 野茂英雄 1991 工藤公康 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 郭泰源 1995 平井正史 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 黒木知宏 1999 篠原貴行 2000 小野晋吾 2001 田之上慶三郎 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 斉藤和巳 2006 斉藤和巳 2007 成瀬善久 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有, 杉内俊哉 2010 杉内俊哉 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 岸孝之 2015 大谷翔平 2016 和田毅 2017 千賀滉大 2018 M.ボルシンガー 2019 山岡泰輔 2020 石川柊太 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 伊藤大海 表 話 編 歴 1950 米川泰夫 1951 阿部八郎 1952 柚木進 1953 米川泰夫 1954 宅和本司 1955 河村久文 1956 梶本隆夫 1957 梶本隆夫 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 杉浦忠 1961 稲尾和久 1962 米田哲也 1963 稲尾和久 1964 尾崎行雄 1965 尾崎行雄 1966 田中勉 1967 鈴木啓示 1968 鈴木啓示 1969 鈴木啓示 1970 鈴木啓示 1971 鈴木啓示 1972 鈴木啓示 1973 成田文男 1974 鈴木啓示 1975 東尾修 1976 村田兆治 1977 村田兆治 1978 鈴木啓示 1979 村田兆治 1980 木田勇 1981 村田兆治 1982 松沼博久 1983 山沖之彦 1984 佐藤義則 1985 佐藤義則 1986 渡辺久信 1987 阿波野秀幸 1988 小川博 1989 阿波野秀幸 1990 野茂英雄 1991 野茂英雄 1992 野茂英雄 1993 野茂英雄 1994 伊良部秀輝 1995 伊良部秀輝 1996 工藤公康 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 松坂大輔 2004 新垣渚 2005 松坂大輔 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 杉内俊哉 2009 杉内俊哉 2010 ダルビッシュ有 2011 ダルビッシュ有 2012 田中将大 2013 金子千尋 2014 則本昂大 2015 則本昂大 2016 則本昂大 2017 則本昂大 2018 則本昂大 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大, 山本由伸 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 今井達也 表 話 編 歴 投 鈴木啓示 捕 岡村浩二 一 大杉勝男 二 山崎裕之 三 有藤通世 遊 阪本敏三 外 張本勲 / 長池徳二 / 永淵洋三 表 話 編 歴 投 鈴木啓示 捕 野村克也 一 加藤秀司 二 B.マルカーノ 三 有藤道世 遊 大橋穣 外 佐々木恭介 / 白仁天 / 弘田澄男 指 長池徳二 表 話 編 歴 投 鈴木啓示 捕 中沢伸二 一 柏原純一 二 B.マルカーノ 三 島谷金二 遊 真弓明信 外 福本豊 / 簑田浩二 / 佐々木恭介 指 土井正博 表 話 編 歴 1950 黒尾重明 1951 関根潤三 1952 沢藤光郎 1953 関根潤三 1954 田中文雄 1955 武智文雄 1956 武智文雄 1957 武智文雄 1958 山下登 1959 大津守 1960 大津守 1961 蔦行雄 1962 板東里視 1963 徳久利明 1964 久保征弘 1965 徳久利明 1966 徳久利明 1967 鈴木啓示 1968 鈴木啓示 1969 鈴木啓示 1970 鈴木啓示 1971 鈴木啓示 1972 鈴木啓示 1973 鈴木啓示 1974 鈴木啓示 1975 神部年男 1976 神部年男 1977 鈴木啓示 1978 鈴木啓示 1979 鈴木啓示 1980 鈴木啓示 1981 柳田豊 1982 柳田豊 1983 谷宏明 1984 鈴木啓示 1985 鈴木啓示 1986 村田辰美 1987 村田辰美 1988 阿波野秀幸 1989 阿波野秀幸 1990 阿波野秀幸 1991 阿波野秀幸 1992 小野和義 1993 野茂英雄 1994 野茂英雄 1995 山崎慎太郎 1996 高村祐 1997 高村祐 1998 高村祐 1999 岡本晃 2000 B.ウォルコット 2001 門倉健 2002 S.バーグマン 2003 J.パウエル 2004 岩隈久志 表 話 編 歴 76 山田久志 77 山田久志 78 鈴木啓示 79 C.マニエル 80 木田勇 81 江夏豊 82 落合博満 83 東尾修 84 ブーマー 85 落合博満 86 落合博満 87 工藤公康 88 門田博光 89 阿波野秀幸 90 野茂英雄 91 秋山幸二 92 石井丈裕 93 辻発彦 94 イチロー 95 イチロー 96 イチロー 97 松井稼頭央 98 イチロー 99 松坂大輔 00 中村紀洋 01 T.ローズ 02 松井稼頭央 03 城島健司 04 松中信彦 05 渡辺俊介 06 ダルビッシュ有 07 山﨑武司 08 岩隈久志 09 鉄平 10 T-岡田 11 内川聖一 12 吉川光夫 13 田中将大 14 大谷翔平 15 柳田悠岐 16 大谷翔平 17 D.サファテ 18 山川穂高 19 森友哉 20-21 中止 表 話 編 歴 1位:田端謙二郎 2位:鈴木啓示 3位:長井繁夫(入団拒否) 4位:飯田幸夫 5位:松原良明 6位:田中章(入団拒否) 7位:渡辺立也(入団拒否) 8位:得津高宏(入団拒否) 9位:金子準一(入団拒否) VIAF 日本 日本の野球選手 育英高等学校出身の野球選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 最多勝利 (NPB) 最優秀防御率 (NPB) 最多奪三振 (NPB) 最高勝率 (野球) 日本の野球監督 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の監督 名球会 日本の野球殿堂表彰者 野球解説者 兵庫県出身のスポーツ選手 1947年生 存命人物 2024/11/20 13:28更新
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suzuki keishi
鈴木啓示と同じ誕生日9月28日生まれ、同じ兵庫出身の人
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